※ 上部が新しい記事です
087「黒い海/船は突然、深海へ消えた」/伊澤理江(2024年2月12日)
086「感染症の世界史」/石弘之(2021年4月29日) 
085「感染症の日本史」/磯田道史(2021年3月24日)
084「感染症対人類の世界史」+「人類の選択」(2021年3月4日) 
083「ペスト」/カミュ(2021年2月21日) 
082 2021年 年頭所感・新型コロナを考える(2021年1月1日) 
081「21世紀の啓蒙」-理性、科学、ヒューマニズム、進歩-/スティーブン・ピンカー(2020年2月6日)
080 札幌へのマラソン・競歩移転について(2019年11月6日) 
079 ビットコインについて(2019年4月8日) 
078 2019年 年頭所感(2019年1月14日)
077「動的平衡1・2/福岡伸一」(2015年10月12日)
076「ブレトンウッズの闘い(ケインズ、ホワイトと新世界秩序の創造)」/ベン・ステイル(2015年9月28日) 
075「アベノミクス批判/四本の矢を折る」/伊藤光晴(2015年4月26日)
074「デフレの正体/-経済は「人口の波」で動く」/藻谷浩介(2015年4月5日) 
073 朝鮮(韓国)の歴史を概観して「韓国併合」を考える(2015年1月6日)
072 新聞社の報道姿勢について考える(2014年12月20日)
071「良寛」/唐木順三(2014年12月12日) 
070「逝きし世の面影」/渡辺京二(2014年11月3日)
069 中国近代史を「神なるオオカミ」に考える(2014年10月19日)
068「脊梁山脈」/乙川優三郎(2014年7月27日) 
067「アナスタシア-消えた皇女」/ジェイムズ・B・ラベル(2014年7月13日)
066「蓮台の月」/澤田ふじ子(2014年5月25日)
065「炭素文明論/『炭素の王者』が歴史を動かす」/佐藤健太郎(2014年5月11日)
064「超薬アスピリン/スーパードラッグへの道」/平澤正夫(2014年3月30日)
063「アンティキテラ-古代ギリシアのコンピュータ」/ジョー・マーチャント(2014年3月9日) 
062「バベッジのコンピュータ」/新戸雅章(2014年2月24日) 
061「エニアック/世界最初のコンピュータ開発秘話」/スコット・マッカートニー(2014年2月9日)
060「一休」/水上勉(2013年12月21日) 
059「2045年問題-コンピュータが人類を越える日」/松田卓也(2013年12月8日)
058「武士の娘」/杉本鉞子/大岩美代訳(2013年11月22日) 
057「エンデの遺言」/河邑厚徳他(2013年10月23日)
056「風立ちぬ」を観て(2013年9月11日)
055「空海の夢」/松岡正剛(2013年8月11日)
054「空海の風景」/司馬遼太郎(2013年8月6日)
053「訣別 ゴールドマン・サックス」/グレッグ・スミス(2013年6月9日)
052「出雲と大和-古代国家の原像を訪ねて」/村井康彦(2013年5月6日)
051「原発ゼロ世界へ」-ぜんぶなくす-/小出裕章(2013年3月31日)
050「化石の分子生物学」-生命進化の謎を解く-/更科功(2013年3月10日)
049「アラブの春」の正体-欧米とメディアに踊らされた民主化革命/重信メイ(2013年2月27日)
048「文明」西洋が覇権をとれた6つの真因/ニーアル・ファーガソン(2013年2月10日)
047「日本人が知っておくべき 竹島・尖閣の真相」/SAPIO編集部(2013年1月1日)
046 鈴木邦男・加藤良三インタビュー/朝日新聞より(2012年11月23日)
045 ニセ建築士やニセ医者事件で思うこと(2012年11月6日)
044「反米大陸」/伊藤千尋(2012年10月8日)
043「道元禅師」/立松和平(2012年9月23日)
042「蓮如」/丹羽文雄(2012年9月9日)
041「新・北海道の古代 1・2・3」/野村崇・宇田川洋編(2012年8月12日)
040「コーヒーの真実」/アントニー・ワイルド(2012年7月15日)
039 2万年前の土器発見(2012年7月7日)
038「国家の罠」/佐藤優 他(2012年7月1日)
037「ガリヴァー旅行記」/ジョナサン・スウィフト(2012年5月27日)
036「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」と「新・陰翳礼賛」(2012年3月20日) 
035 2012年春 芥川賞2作「共食い」「道化師の蝶」(2012年2月19日)
034「伊勢神宮・魅惑の日本建築」/井上章一(2012年2月11日)
033 2012年、年頭新聞拾い読み(2012年1月9日)
032「神道」の虚像と実像/井上寛司(2011年12月15日)
031「ダイオキシン神話の終焉」 VS 「実は危険なダイオキシン」(2011年11月9日)
030「親鸞」/丹羽文雄(2011年10月24日)
029 小沢秘書裁判に見るものの見方(2011年10月6日)
028「9.11 アメリカ同時多発テロ」から10年を迎えて思うこと(2011年9月26日)
027「下町ロケット」と文学性(2011年9月3日)
026 CMオートカット機能がなくなっている(2011年8月14日)
025「重源」/伊藤ていじ(2011年8月6日)
024「沈黙の春」/レイチェル・カーソン(2011年8月5日)
023「宇宙を読む/カラー版」/谷口義明(2011年7月18日)
022「ミカドの肖像」/猪瀬直樹(2011年7月12日)
021「山水思想/「負」の想像力」/松岡正剛(2011年6月30日)
020「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」/武田邦彦(2011年4月4日)
019「日本経済の不都合な真実」/辛坊正記・辛坊治郎(2011年3月9日)
018 2011年春 「芥川賞」の二作を読んで (2011年3月3日)
017「変われる国・日本へ」/イノベート・ニッポン/坂村健(2011年2月9日)
016「電波利権」/池田信夫(2011年2月8日)
015「ユビキタスとは何か」/-情報・技術・人間-/坂村健(2011年2月7日)
014「できそこないの男たち」/福岡伸一(2011年1月30日)
013「ジーン・ワルツ/海堂尊」に想う医療と建設の世界(2011年1月28日)
012 NECの凋落とPC-100の運命(2011年1月23日)
011「ロハスの思考」/福岡伸一(2010年12月27日)
010 再び、TPPについて考える(2010年12月5日)
009「眼の誕生」/カンブリア紀大進化の謎を解く/アンドリュー・パーカー(2010年12月3日)
008「人類の足跡10万年全史」/スティーヴン・オッペンハイマー(2010年11月26日)
007「銃・病原菌・鉄」/一万三千年にわたる人類史の謎/ジャレド・ダイアモンド(2010年11月20日)
006 TPPについて考える(2010年11月9日)
005「日本語が亡びるとき」-英語の世紀の中で-/水村美苗(2010年10月1日)
004「著作権の考え方」/岡本薫(2010年9月3日)
003「文明の海洋史観」/川勝平太(2010年8月3日)
002「日本奥地紀行」/イザベラ・バード
001「創竜伝」/田中芳樹から「鄭和の大航海」「病院船」

087「黒い海/船は突然、深海へ消えた」/伊澤理江(2024年2月12日)

■黒い海/船は突然、深海へ消えた(2024年2月12日)
伊澤理江
いざわりえ
(株)講談社
20221223第1刷
301頁

■「運輸安全委員会」という国土交通省の外局がある。あの2022年4月に起きた知床遊覧船沈没事故では、沈没した遊覧船の運営会社だけでなく、国の検査や監査の実効性に問題があったと指摘しているのが記憶に新しい。2008年10月に発足した組織であり、それまでは1948年2月に施行された海難審判法に基づく「海難審判所」が運輸省(国土交通省)の外局としてその任に当たっていたが、航空・鉄道事故調査委員会とともに、航空・鉄道・海難に渡る原因究明調査機能を統合する組織として発足した。

 ホームページをみると、「ミッション」が示されている。

 私たちは、適確な事故調査により事故及びその被害の原因究明を徹底して行い、勧告や意見の発出、事実情報の提供などの情報発信を通じて必要な施策又は措置の実施を求めることにより、運輸の安全に対する社会の認識を深めつつ事故の防止及び被害の軽減に寄与し、運輸の安全性を向上させ、人々の生命と暮らしを守ります。

 現在の委員長は、宇宙工学を専門とする東大の副学長まで務めた学者出身で、常勤非常勤併せて12名の委員を母体としている。東京四谷の事務局の他に、全国に8つの地方事務所があり、航空/鉄道/海事の3分野に分かれているが、船舶関連を担当する現在の海事部会長は元海上保安庁の海上保安監出身(海上保安庁のナンバースリー)が常勤委員としてその任に当たっている。主に海上保安庁出身者と大学関係の委員がその分野の担当となっているようだ。

■その運輸安全委員会が発足する数ヶ月前の日本時間2008年6月23日午後、北緯35度25分05秒 東経144度38分06秒の千葉県銚子市犬吠埼東方沖350km付近で、船長、漁ろう長含め20名が乗った漁船第58寿和丸(福島県いわき市の漁業会社所属)が、パラシュートアンカーで停泊中、船体が右傾斜して転覆・沈没、近くにいた僚船により、大量の重油が漂う中、重油にまみれ真っ黒になった3名の乗船員(救出)と4名の遺体が引き上げられた。しかし、残りの13名は行方不明となる重大な海難事故が発生した。それから15年以上を経ている。

 パラシュートアンカーとは、パラシュート型のシーアンカーを海中に入れて潮と共に船を流しながら漂白する手法だが、僚船の航行日誌によれば、6月23日正午ごろの天候は雨。視界は3~4マイル、キロ換算では5~6キロ、南の風、10~11メートル。波3メートルというから、最も安全な停泊手段だったようだ。助かった第58号寿和丸の乗組員の記憶では、パラシュートアンカーを下したときより、波も風も落ち着いてきたと感じていたらしい。



黒い海
船は突然、
深海へ消えた
伊澤理江
講談社

 やや気が緩んだような休息をしていた時間帯の13時10分頃、第58寿和丸は突然、右舷前方から衝撃を受け、船体が右に傾いた。自室で寝つけずにいて助かった乗組員の一人は「波が甲板に載ったな。そのうち抜けるだろう」と考えた。しかし、船体の復元を待たずに、2度目の強い衝撃。「ドスッ」と「バキッ」という音が重なって聞こえたという。船は傾斜がさらに増し、静かに、ゆっくりと右に傾き続けた。甲板長たちは必死に船体の傾きを復元しようとしたが、まもなく第58寿和丸は沈没、3名のみ油で覆われた「黒い海」から僚船に救われたが、4名は遺体として引き上げられた。行方不明となった13名は船とともに深海に消えてしまった。第58寿和丸が引き上げられることも、深海を調査することも認められなかった。

■それから3年近く経った頃、「漁船第五十八寿和丸沈没 船舶事故調査報告書」は2011年4月22日付で公表された。報告書番号は「MA2011-4」で、全108ページ。「船舶事故調査の経過」「事実情報」「分析」「結論」「所見」という5章から成っている。

 運輸安全委員会のホームページから調査報告書を見ると、事故の原因は次のように言及されている。

 「本事故は、本船が、犬吠埼東方沖350km付近において、南西~南の風が吹き、南西~南の波がある状況のもとでパラ泊中、標準状態より重心が上昇するとともに右舷側への初期横傾斜が生じた状態であったため、本件大波を右舷前方の舷側に受けて右舷中央付近から海水が打ち込み、船首甲板に滞留して船首が沈下するとともに右傾斜が増大し、右舷船首の乾舷が減少した状態となり、右舷舷側から波が連続して打ち込んで更に傾斜が増大し、右舷端が没水して復原することなく転覆したことにより発生した可能性があると考えられる。
 本船が、標準状態より重心が上昇するとともに右舷側への初期横傾斜が生じた状態であったのは、漁網が補修や海水等を含むことにより重量が増加していたこと、漁具、ロープ類等を操舵室天蓋等に積載していたこと、及び漁網が、右舷側から、重量の大きなチェーン、網、浮子の順に積み付けられ、重量が左右不均等になっていたことから、船体の動揺により、重量の大きなチェーン側に横移動したことによる可能性があると考えられる。
 海水が船首甲板に滞留したのは、放水口の機能を阻害するような放水口周りの構造が関与したことによる可能性があると考えられる。」


 調査報告書自体は、以下から全文を見ることができる
https://www.mlit.go.jp/jtsb/ship/rep-acci/2011/MA2011-4-2_2008tk0002.pdf

第58寿和丸が沈没した海域(Googlマップの地図に加筆)

沈没した第58寿和丸(運輸安全委員会の報告書から)

■この本を知ったのは、朝日新聞2023年3月4日の記事(読書面)をみてからだ。興味を持ったが、直ぐに購入する気が起きず、札幌市の図書館に予約を入れた。しかし予約数が多く、半年くらいかかる予想だった。だが、実際に借り出すことができたのが約1年後の2024年の1月だった。なかなか期日までに返却しない人が多いようだ。私は読後、すぐに返却したが、その後の予約数をみると147名となっている。在庫が3冊あるらしいが、おそらく数年待つことになるだろう。私の知らないところで、かなりの人が興味を持っている事件といえる。

 詳細は本を読んでもらうとして、著者が運輸安全委員会の報告書を4点に集約している。引用させて頂くと、
 ①船の漁網が海水などを含み重量が増加。また、大量のロープ類等を操舵室の天蓋に積載などした結果、船体の安定性が悪くなっていた
 ②チェーン、網、浮き子の積み付けが原因となって初めから船体が右舷側に傾斜していた
 ③②の初期横傾斜のため、船体の動揺により魚網が右舷側に横移動し、バランスを崩した
 ④放水口が機能していなかった

 しかし、第58寿和丸の船主や助かった乗組員はこれらの指摘をことごとく否定している。

 ①ブリッジの上は見張りに使われるスペースであり、周りを歩けるようになっているが、人がギリギリすれ違えるくらいで、幅は1メートルもない。2トンもの漁具を置いたら歩けなくなるし、そもそも、あんな高い場所に上げないし、上げられないという。

 ④運輸安全委員会は、第58寿和丸とは関係がない類似型網船を調査して、その類似型の船の「放水口が鋼板を溶接して塞いだ閉鎖工事跡が複数認められたことを指摘しているのだが、船主たちはそれを否定している。少なくとも第58寿和丸ではない漁船の調査記録を「可能性がある」と記しているだけにすぎない。


 ②③助かった3人は、船が衝撃を受けて傾き甲板上へ出た時、誰一人として海水の滞留を目撃していない。報告書が指摘するような船体上部からの海水流入がなかったからこそ、甲板上を走って逃げることができたという。

 それ以外に気になった注目点として、調査報告書では

 ⑤漏れ出た油の量を「約15~23リットル」としているが、これは一斗缶ひとつ分程度の量でしかなく、生存者や遺体となった方々の状況とは合致していない。調査報告書は撮影された海面の浮遊油の色彩から浮遊油量を推定しているが、説得力があるのだろうか。「波による転覆」に拘り、船底の損傷を認めようとしていないとさえ思える。

 ⑥パラシュートアンカーはそもそも波の影響を受けにくくするためのものであり、突然転覆するのは考えにくいという。

 ⑦2度の衝撃と音については、「爆発や衝突されたようなものではない」とだけ乗組員の一人の口述として記載されているが、改めて乗組員に確認したいところだ。本当にそんなことを言ったのだろうか?

 ⑧「波による打ち込み」により船が沈没したとされ、実験報告なども詳細に記されているが、その主な原因は、魚網などを安定性悪く積載していたことや放水口の閉鎖の可能性などに結論づけている。しかし、私は素人だが第58寿和丸だけが外洋で漁をする多くの船と異なった管理をしていたとはどうしても思えない。何故なら、このような事故が頻繁に起きていないことが事実としてある。


 まさに、このような報告書がまかり通ることに驚きを禁じ得なかった。何故、このような調査報告書が作成されたのだろうか? 著者で、ジャーナリストである伊澤理江は、2019年の秋に福島県いわき市にある「日々の新聞」の400号出版記念に伴い、記念記事をネットメディア上に掲載するためいわき市を訪れていた。ここで日々の新聞社が福島第一原子力発電所事故に伴う処理水排出問題に関し漁港への取材を行う際に、これに同行したことで第58寿和丸沈没事故を知る切っ掛けとなったという。それまでは、著者を含めて忘れ去られた海難事故だったといえる。

 伊澤理江は1979年生まれ、英国ウェストミンスター大学大学院ジャーナリズム学科修士課程修了。英国の新聞社、PR会社などを経て、フリージャーナリストになり、調査報道グループ「フロントラインプレス」に所属している。これまでに「20年前の『想定外』 東海村JCO臨界事故の教訓は生かされたのか」「連載・子育て困難社会 母親たちの現実」をYahoo!ニュース特集で発表するなど、主にウエブメディアでルポやノンフィクションを執筆してきたとのこと。「黒い海」で、2023年度の第54回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

■この海難事故の3年後の2011年3月11日には東日本大震災が発生している。運輸安全委員会が調査報告書を発表したのはその約1ヶ月後であり、影響が何もなかったとは言えないが、報告書の取りまとめに東日本大震災の影響があったとは思えない。むしろ、海難事故の影響を受けた人々が新たで巨大な災難にあってしまったことが、この海難事故が忘れられてしまった所以だったかも知れない。原発事故とそれに伴う海洋汚染水問題までもの多重の災難が降りかかったといえよう。


 海難事故の5ヶ月後には、日本の総理大臣は福田康夫から麻生太郎に替わっている。その麻生も約1年しか持たず、政権は民主党の鳩山由紀夫に移った。調査報告書が出された時は、管直人が政権を担っていた。事故があった年は、「リムパック/環太平洋合同演習」が2008年(平成20年)6月29日から7月31日に掛けて実施されている。この年のリムパックは、10カ国(アメリカ・日本・オーストラリア・カナダ・韓国・チリ・ペルー・シンガポールなど)から艦艇約35隻、潜水艦約6隻、航空機約150機以上、人員約20,000人が参加している。東南アジアとしては初のシンガポール海軍が参加している。

■著者は、生き残った乗組員はもちろん、東日本大震災や原発事故そして汚染水対策に追われる船主には幾度もインタビューをしている。その船主とは、幼いころの浅からぬ縁があったことが、巻末には記されている。著者は、関係資料はもちろん、国土交通省の官僚や当時の事故調査担当官、海上保安庁、海洋動物や工学の専門家、軍事専門家、そして海上自衛隊元潜水艦隊司令などへの取材を行っている。

 元海上保安庁の海上災害防止センター勤務で、1997年1月、真冬の日本海でロシア船籍の貨物船「ナホトカ号」が座礁、6200キロリットルもの重油が流れ出した時の事故で、流出重油の回収などの油濁対応の陣頭指揮を取った海洋油濁対応のエキスパートにも取材をして、現場海域に流れ出た重油が一斗缶1杯分ではなかったと筆者は確証を得ている。


 元潜水艦隊司令への取材では、この海域は海上自衛隊とアメリカ海軍の潜水艦が頻繁に利用する海域であるが、海上自衛隊の潜水艦の関与はまず100%考えられないと聞く。それは、過去に事故を起こし救助を怠った「なだしお事件」や、2006年に宮崎沖で発生した練習潜水艦「あさしお」事故の際に発生した報告の遅延などを受けて、民間の船舶と衝突した場合には即座に海上保安庁など関係各所への通報と救助義務が明確にされ、司令部に対する報告義務、修理には大勢の人間が関わることでリークする確率も高まるため隠蔽することはまず不可能であるし、元司令にその情報が入らないことは有り得ないという。

 また、ロシア海軍は冷戦時代と比べ戦力が縮小していることから可能性は低く、中国海軍はこの頃には日本の海域へは進出しておらず、2004年に発生した尖閣諸島周辺の日本領海に侵入した事件以降、第一線部隊に対し無謀な活動を控える様に通達が出されていたころであり、韓国海軍や台湾海軍は運用数が圧倒的に少なく日本近海まで来る理由に乏しいことから可能性は低いという。

 残る可能性として同盟関係にあるアメリカ海軍があるが、海上自衛隊は運用する潜水艦の動力が通常動力型であるなど基本性能が全く異なるため、運用方法の違いから米軍原潜の動向を全く把握しておらず、事故に伴う日本への通報義務もないという。したがって、この論証から、沈没の原因はアメリカ海軍の原子力潜水艦の可能性が極めて高いと著者はみているようだ。事故の直近に実施されたリムパックの影響を予想させてくれる。

 
事故後の現場海域の油の広がり
(運輸委員会の調査報告書より)

 さらに、元潜水艦隊司令からは「(寿和丸の衝突が潜水艦によるものだとしたら)まず最初に、ぶつかりそうだから入れ(潜れ)という命令を出して、例えば潜水艦のセイルがぶつかって。それで(避けようとして急速潜航したことで潜水艦の)後ろが上がったものだから、しばらくして後ろが(寿和丸に)2度目にぶつかったというぐらいしか(想像つかない)」と、2度あった衝撃音に繋がる可能性がある証言も引き出している。

■著者は、運輸安全委員会に対し報告書作成に至った資料の開示請求を行ったが、標目さえ開示さない全てが黒塗りの文書が帰ってきた。さらにアメリカへの情報公開法(Freedom of Information Act, FOIA)を利用して、アメリカ海軍や国防総省などへの資料開示請求を行っているが、潜水艦は軍事機密レベルが高く、これが障壁となり明確な資料が開示されないという。それに対して、福島海上保安部は2009年6月、第58寿和丸の事故に関して業務上過失致死の疑いで行方不明となった漁労長を書類送検しているが、最終的に被疑者死亡で不起訴となっている。何とも不条理な話である。その漁労長と水産学校で同級だった海上保安部に勤める人と海難事故の生存者の居酒屋での偶然の出会いは、見逃すことはできない。何らかの意図が背後にある可能性を示している。

 本には1970年以降の世界の潜水艦事故の記録が添付(P.219)されているが、いずれも明確な物的証拠が示されない限り隠蔽されるケースが後を絶たないのが実情のようだ。ロシアによる無謀なウクライナ戦争やイスラエルによるハマス攻撃を理由とした民間人の殺戮など軍隊による暴挙が後を絶たない。日本における自衛隊の震災対応には頭が下がるが、日本はもちろん、世界各地のお粗末な政治家・指導者の蛮行を止める手立てはないものかと考えさせられてしまう。いずれにしても、この海難事故が時とともに忘れ去られることはあってはならないだろう。誰がこの海難事故を隠蔽しようとしたのだろうか? 少なくとも運輸安全委員会あるいはそれに影響を与えた力があったことが想像できる。けっして許されることではない。

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086「感染症の世界史」/石弘之(2021年4月29日)

■感染症の世界史(2021年4月29日)
 石弘之
 角川文庫
 角川書店
 20180125初版
 20200425第10版
 372頁

■このコロナ禍の初期段階、自然免疫を獲得しようとした国があった。スェーデンとイギリスだった。しかし、それが間違いだったことにイギリスは直ぐに気が付き、まもなく方向性を変え、都市部のロックダウンを実施した。首相までもがコロナに罹るなど、一時は悲惨な状況となり、この1月初旬には一日に約6万8千人もの新規感染者が発生したという。それが、今では、国民の半数がコロナへの抗体を持つまでになったようだ。それは、コロナに感染して完治したことによる抗体もあるが、ほとんどがワクチン接種の結果だという。しかも現在では、一日の新規感染者数は、日本以下の数値を示している。

 ワクチンの接種については、EC全体では未だ遅れていることが指摘されている。しかし、イギリスで、国民の半数近くが1回以上のワクチン接種が完了したということは、自国でのワクチン開発もさることながら、ECからの離脱がその要因の一つとして語られている。まさに皮肉ともいえる状況であろう。あの無責任かつ知性が感じられないトランプとも似ていると称されたジョンソン首相だが、どうもその風貌からは想像できない、緻密な計算があるのかも知れない。PCR検査体制やワクチン接種体制についても、残念ながら、おざなりな日本政府の対応とは段違いであろう。

 今朝のニュース番組で、神奈川県が推奨する「マスク飲食」の実施状況の確認のため、県民による「覆面調査」を始めたという報道を見た。ダニエル・デフォーの「ペストの記憶」では、ペストを発症した家には、感染者が逃げ出さないように、仕事を失った人を交代で監視人として付けたというが、まさに市民の間の分断を助長する政策といえる。このコロナ禍のなか、常に正しい政策を継続することは非常に難しいかもしれないが、間違ったと判断したならば、即、政策を変えることが最重要といえよう。それは、イギリスを見ていれば分かる。


■冒頭にこのような記述がある。

  感染症の世界的な流行は、これまで30~40年ぐらいの周期で発生してきた。だが、1968年の「香港かぜ」以来40年以上も大流行は起きていない。

 物理学者の寺田寅彦(1878~1935)の名言を借りるまでもなく『忘れたころにやってくる』のだ。まさに今、新型コロナは忘れたころにやってきてしまった。

 著者(1940年生)は、メディアにはあまり出てこないが、東大卒業後、朝日新聞に入社、ニューヨーク特派員、編集委員を経て東大教授、駐ザンビア特命全権大使等を歴任。また、国連環境計画上級顧問、国連開発計画上級顧問、東欧環境センター常任理事、国際協力機構参与、通商産業省産業構造審議会委員、運輸省運輸政策審議会環境部会長、持続可能な開発のための日本評議会議長なども勤めたという。父や兄弟とともに医師を含めた学者の家系に育ったが、環境問題を含めた一連の著作で知られている。

 2014年3月、ギニア政府から、「南東部の四カ所でエボラ出血熱が集団発生」した報告がWHO(世界保健機構)に上げられた。エボラ出血熱ウィルスは細長いRNAウィルスで、フィロウィルス科に属し、その中でもザイール株といわれるものは特に毒性が強く、死亡率が90%になるといわれている。WHOは、エボラ出血熱を流行のフェーズ6段階のうち、上から2番目の「フェーズ5」に指定した。各国は、大手製薬会社のワクチンを競って輸入した。日本は2500万回分を323億円で輸入したが、最終的に1600万回分を廃棄処分にした。残る800万回分は90億円の違約金を払って解約した。製薬会社は莫大な利益を上げ、欧州評議会では特別委員会を組織してWHOと製薬会社の癒着を追及したという。



感染症の世界史
石弘之
角川文庫

 ワクチンを巡る問題には、接種禍や副作用に限らず、このような問題があるため、今回の新型コロナ禍においても、行政の対応が後手に廻ってしまった弊害があるのかも知れない。当然、日本における製薬会社の動きにも、その能力以前にそれらの禍根が災いしているのだろう。また、製薬会社自体にも問題がある。先日も福井県あらわ市にある小林化工という製薬会社が製造・販売する抗真菌薬「イトラコナゾール錠」に、睡眠導入薬のリルマザホン塩酸塩が混入していたという事件が発生した。結果として、一人の死亡者を含む22人の交通事故が発生した。

 この話題に隠れていたが、日本における最大手の武田薬品でも、製造・販売していた前立腺がんや乳がんの薬リュープロレリンについて、アメリカのFDA(アメリカ食品医薬品局)から、その製造・製品化の不適正をつかれ、警告書が発せられ、生産中止となっている。さらに、この3月3日にもジェネリック医薬品での大手である日医工でもその製造工程違反での業務停止命令の行政処分となった。このように、薬品会社による事件は後を絶たない。私もジェネリック薬品を積極的に取り入れてきたが、日医工の名前に記憶があったため、自分が飲んでいる薬をみると、やはり昨年の秋から飲んでいるメインの薬が日医工であった。当面は継続するつもりだが、余り気分が良くない話題といえる。

 かつて国土の大部分が熱帯林でおおわれていたシエラレオネでは、既に国土の4%しか森林が残されていない。それも皆滅するのは時間の問題だといわれている。過去のエボラ出血熱の流行の大部分は、熱帯林内の集落で発生していた。だが、ギニアの奥地でも人口の急増で森林か伐採され、集落や農地が広がってくると、森林の奥深くでひっそり暮らしていたオオコウモリが、生息地の破壊で追い出されてエボラ出血熱ウイルスをばら撒いた可能性が高い。エボラ出血熱の『ゼロ号患者』といわれているのは、1976年に東アフリカのスーダンのシザラ(現在の南スーダン)で、工場の倉庫番として働いていた男性が39℃での高熱で倒れ、10日後に全身から出血して死亡したケースだが、市場で食肉として売られていたコウモリを買って食べたのが、原因ともみられている。


■人は、体調が悪くなると、「発熱」「せき」「吐き気」「下痢」「痛み」「不安」といった症状が出てくるが、「発熱」は微生物を「熱死」させるか、患者が「衰弱死」するかの『我慢くらべ』になる。「せき」「吐き気」「下痢」は病原体を体外に排出する生理的反応であり、「痛み」や「不安」は病気の危険信号といえる。米国ミシガン大学のネッソー・ランドルフ教授(進化生物学)からの引用とのことだが、今では知識として広くあまねく知られている。

 病原性大腸菌「O‐157」に感染した患者へ下痢止めを服用すると、毒素が排出されないため症状が重くなり死亡率が高まることが知られている。ペニシリンが登場するまでは、梅毒の末期患者をマラリアに感染させ、その高熱で病原体を殺す療法が盛んに行われた。スペイン風邪の死者が激増した原因の一つに解熱薬アスピリンの服用が疑われているし、日本のデング熱流行でも、解熱剤を服用した患者が重症化した例が報告されている。

 人の体は、母親の胎内にいるときは無菌状態だが、出産と同時に外界の菌にさらされて体内で増え、「常在菌」と呼ばれる微生物に体内に満ちあふれるようになる。ピロリ菌、ビフィズス菌、カンジダ菌、白癬菌はその常在菌の一種だが、その総数は、人体を構成する細胞数の10倍以上、つまり数百兆個になると推定される。常在菌の総重量は1,300gあり、脳並みの重さがあるらしい。

■マラリアが世界の歴史に登場するのは、紀元前1万年~前8000年ころだが、農業の開始と同じ時期に人の間でも流行がはじまり、農業の普及とともに勢力を増していった。約4800~5500年前の古代エジプトの複数のミイラからもマラリア原虫のDNAが見つかっている。発掘されたレリーフからは、古代エジプトの女王クレオパトラ(前69~前30)が蚊帳を使っていたことがうかがえる。また、アレキサンドロス大王が33歳の若さで急死した死因は、チフス、西ナイル熱、毒殺など諸説あるが、前323年6月3日に高熱を発して10日後に意識を失って亡くなったことから、マラリアとみる説が有力といわれている。以下の表は、複数の本やネットで得た情報により作成したものだが、ネット情報にはそれぞれ援用が多いため食い違いも多く、また歴史的な事実にはそれぞれの研究による齟齬(そご)もみられる。正解ではないかも知れないが、概要を示すものとして見て貰いたい。

主要な感染症の歴史
年代 感染症 死亡者数(推定) 概要
紀元前20世紀前後 マラリヤ(推定) 古代エジプト
紀元前5世紀 天然痘やハシカ(推定) 7.5~10万人 ギリシヤにおける「アテネの疫病」
紀元前3~4世紀 マラリヤ(推定) 中国最古の医術書「黄帝内剄」に診断法と治療法の記録
1世紀 ペスト 300万人以上 ローマでノミ・ネズミから感染
2世紀~3世紀 天然痘やハシカ 500万人 ローマにおける「アントニウスの疫病」
2世紀~3世紀 天然痘やハシカ 漢帝国滅亡の要因(人口が6千万から4.5千万まで減少)
6世紀から8世紀末 ペスト 2500万人 記録がある世界初のパンデミック/6世紀のビザンチウムでは、最大で1日1万人の死者が出たといわれている
13世紀 ハンセン病 熱帯の風土病が十字軍の移動でヨーロッパへ
14世紀~17世紀末 ペスト(黒死病) 3000万人~7500万人 二度目のペスト世界的パンデミック/蒙古軍の移動を経てヨーロッパ、オスマン帝国に蔓延
15世紀 梅毒 アメリカからもたらされた梅毒は、ルネサンスに沸くヨーロッパで蔓延
16世紀 天然痘やハシカや腸チフス 数千万人 スペイン人の侵略によって中南米の文明が崩壊
16世紀 インフルエンザ 2500万人 ヨーロッパ各地(致死率20%といわれた)
17~18世紀 天然痘 3000万人以上 シルクロードの東西交流(アメリカでは13万人が死亡)
17~18世紀 マラリア ヨーロッパ各地
革命後のロシアで300万人が感染、新国家建設の足を引っ張る
17世紀 ペスト(腺ペスト) 7.5万人 ロンドンの大疫病
19世紀 結核 産業革命における過酷で非衛生的な労働条件と都市への人口流入
19世紀 コレラ 350万人以上 イギリスによるインド支配を要因としてインド起源とみられるコレラがヨーロッパで蔓延
日本でも外国船の到来により、長崎から蔓延、数十万人が死亡
19世紀 発疹チフス 数百万 ナポレオンのロシア遠征、クリミア戦争、第一次世界大戦を通じて拡大(シラミが媒介)
19世紀~ ペスト(腺ペスト) 推定1200万人 中国を起源とする第三の世界的パンデミック。北里柴三郎による腺ペストを治す抗血清が確立
20世紀~ 都市への人口密集と交通網の発達により蔓延
1918~1920 三波 スペイン風邪(H1N1) 推定2000万人 世界人口18億人の3~5%が死亡した。第一次世界大戦終結の要因ともいわれる
日本では、1918~1920にかけて三波が押し寄せ、40万人弱が死亡(日本人の4~5割が罹患)
1957~ アジアかぜ(H2N2) 推定100万人以上 中国から発生、世界的流行
1960~ デング熱 世界で毎年5千万~1億人が感染(最古の文献記録は1779年/蚊を媒介としたウィルス)
1968~ 香港かぜ(H3N2) 推定6万人以上 香港から発生、世界的流行
1977~ ソ連かぜ(H1N1亜種) 推定10万人以上 中国から発生、世界的流行
1981~ エイズ 2500万人 過去20年間で6500万人が感染
1996 プリオン病 イギリス発祥(クロイツフェルトヤコブ病と狂牛病の関連/進行性の痴呆や麻痺を発症)
1997 高病原性鳥インフルエンザ 249人 人での高病原性鳥インフルエンザA(H5N1)発症
2002~2003 SARS 数千人 SARSコロナウィルスによりアジアやカナダを中心に拡大
2009 新型インフルエンザ(A/H1N1) 2万人弱 世界的流行(豚インフルエンザが人に感染した疑い)
2012 MERS 千人弱 MERSコロナウィルスによりアラビア半島を中心に拡大
2014 エボラ出血熱 推定1万人以上 西アフリカでパンデミックとなったが、余りに致死率が高いために世界的な流行とはなっていない
2020~ 新型コロナCOVID-19 中国から世界に蔓延/2021年2月現在、世界で1.1億人が感染、250万人以上が死亡

 中国でも稲作の普及で定住地域が拡大するにつれて、マラリアが広がっていった。三皇五帝時代の伝説上の黄帝(こうてい)が編纂を命じたとされている最古の医学書である『黄帝内剄』には、マラリアとみられる病気の診断法と治療法が記されている。インドでは最初の農耕地だったインダス川流域から高温で雨の多いガンジス川流域へと農業が広がるにつれて、住民はマラリアなどの新しい病気に悩まされるようになった。ヨーロッパでは古くから地中海世界で流行し、古代ローマは人口急減などの大打撃を被ったという。南北米大陸には、奴隷貿易や入植者によって16世紀以来マラリアが持ち込まれた。米国では、18世紀から20世紀にかけて、多い年には10万人が感染したという。

 日本の古い文献には、しばしば『おこり』と称される感染症が登場するが、これがマラリアではないかといわれている。平清盛は、高熱で死んだことが知られているが、これもマラリアの可能性が高い。太平洋戦争中の沖縄では、戦闘が激化とともに、八重山諸島では住民がマラリアの流行地域に強制的に疎開させられた。茅葺きの急造の小屋で共同生活を余儀なくされたために、1万7千人が感染、約3千人が死亡したという。戦終直後は、海外からの復員者が持ち帰ったマラリアが流行、ピークとなった1946年には2万8千2百人が発症したが、その後の、「DDT」などの殺虫剤の普及で減少、1959年に滋賀県彦根市の発生を最後に日本におけるマラリアは根絶された。

■感染症の歴史を語る上で、常に話題となるのが南米大陸での悲劇がある。16世紀初頭のアステカの人口は約2500万人と推定されている。これが1550年には600万人になり、1600年ごろには約100万人にまで減少した。何千年にもわたって発展してきた高度な社会はあっけなく崩壊してしまった。その影響を及ぼしたのは、「天然痘」と「ハシカ」だった。1521年にアステカの首都テノチティトラン(現在のメキシコ市)を包囲していたスペインのエルナン・コルテスは、「大征服者」として歴史に名を刻まれているが、実際はアステカ軍に撃退されて敗走寸前だったという。


 天然痘の次には、1530~31年のハシカ、1546年のチフス、そして1558~59年のインフルエンザ、さらにおたふくかぜ、肺炎、チフスなどのヨーロッパからの感染症が大流行した。これらの病気の追い打ちで、すでに天然痘の大流行で消耗していた人びとに壊滅的な打撃を与えることとなった。1500年当時の世界人口は約5億人と推定されているが、このうちの約8千万人(4千万~1億人まで諸説ある)が南北のアメリカ大陸に住んでいたとみられる。それがコロンブスの到着後わずか50年で1千万人に激減してしまったという。

 しかも、感染症は当初、偶然持ち込まれたものだが、その絶大な効果に驚いた欧州人は、病気を意図的に利用、農園遣成などで邪魔になる先住民を除くために、ハシカ患者の衣服をインディオに与えるなどの「細菌戦」を行ったという。18世紀のカナダでは、イギリスやフランスが先住民を効率的に殲滅する方法として、ハシカ患者の衣服を買い集めて彼らに配った記録が残されている。彼ら欧米人が歴史的に行ってきたおぞましい行為には際限がない。

■遺伝的に血液を凝固させる因子が不足している血友病患者には、凝固因子を補うため血液からつくられた血液製剤が投薬される。ところが、その血液製剤の一部に献血や売血所以のHIV(エイズ)が混入していたため、世界中の血友病患者の10~15%が「薬害エイズ」に感染してしまった。ところが、同じ汚染血液製剤で治療を受けていた人の中に、エイズにかからない人がいることが分かってきた。それは民族による差が大きいことも分かってきた。新型コロナ感染症でも、「ファクターX」の可能性がいわれているが、エイズに対する耐性率でもアフリカ、東アジア、北米先住民ではきわめて低く、西ヨーロッパでは8~12%と高かった。なかでも北ヨーロッパでは、18%、ロシアでは16%という高率を示している。


 米国口ックフェラー大学のアーロン・ダイヤモンド教授らが提唱した「カギ穴説」によると、HIVは人体の免疫の中枢を担っている「T細胞」を狙い撃ちにするのだが、T細胞はCD4という触覚のようなたんぱく質で守られている。防備はこれだけでは十分ではないため、CCR5というたんぱく質がCD4を助けている。ところが、HIVは「カギを持っていて、CCR5の「カギ穴」と合うとドアを開けて侵入してくる。エイズに耐性がある人はCCR5をつくる遺伝子を欠いているため、HIVが侵入しようにもカギ穴がないというのだ。彼らは生物多様性のなかに隠されていた「神の隠し子」であるといわれている。

 エイズに耐性がある人の確率がヨーロッパに多く、アフリカに稀れなのは、私たちの祖先がアフリカを出て世界に拡散する以前にはこの遺伝子の欠損がなかったのが、ヨーロッパに移動した後に遺伝子の変異が起きたためとみられている。天然痘ウィルスもHIVと同じCCR5の「カギ穴」から侵入することが知られているが、過去に何度か発生した天然痘により、遺伝子の突然変異により、耐性を持った人が多く生き残った可能性があるとみられている。ところが、天然痘ワクチンの開発によって、天然痘が撲滅されたため、ワクチンの接種が行われなくなったことが、エイズの発症に繋がったとみる学者もいる。

 しかし、エイズは1980年代初めの流行初期には死亡率が非常に高かったが、病原性が低くなり薬剤にも感受性か高まり弱体化していったといわれている。それは、よくいわれることだが、病原性が強いままだと宿主を殺すことになり、ウィルス自体も斃れてしまうからだ。過去にも致命的なウイルスや細菌がこうして牙を抜かれ、宿主の免疫システムと折り合いをつけて共存するようになっていった。梅毒も15世紀末にヨーロッパに入り込んだときには、感染力が強く短時間で死ぬ人も多かったのだが、100年後には症状は軽くなり死亡率は急減した。赤痢も下水道の完備など対策か進むにつれて、毒性の弱い株に入れ替わっていったという。


■日本の歴史において、平安時代から鎌倉時代にかけては、疫病の流行をはじめ、大地震、火山噴火、大火事、饑饉、戦火などの災害が多発したが、その対策としては元号(年号)を改めることがよく行われた。「災異改元」という。平安時代以後、「赤斑瘡/赤瘡(あかもがさ)」として文献に登場する疫病は今日のハシカだというのが通説といわれている。絶頂期を誇った藤原道長(966~1028)は、娘三人をそれぞれ天皇に嫁がせ、摂政として権力を振るったが、溺愛していた末娘の嬉子(きし)(後冷泉天皇の母)がハシカで亡くなり、これを機に天皇家との関係が薄れ、病気がちになって権力を失っていく。

 1970年には、日本でも患者から分離した株をもとにハシカに対する弱毒性ワクチンが開発された。しかし、男女の全幼児に接種するという米国方式か、女子中学生のみに接種するという英国方式かを巡って議論となり、日本は英国方式を採用した。しかし、米国では風疹の患者が激減し根絶宣言を出すところまできたのだが、日本では男児には免疫がなかったため、流行が断続的に発生、結局、すべての幼児に接種するという米国方式に転換を余儀なくされた。

■今回のコロナ禍において、日本はPCR検査が少ないことが盛んに問われた。しかも、現在もその状況はそれほど改善されていない。最大の理由は、厚生労働省を中心とした日本政府の怠慢が原因だろうが、先日、「建築士 2021年4月号」の記事で、五百簱頭真氏への特別インタビューを読んで、想像していたことが確認できた。

 2003年、広東省で発生したサーズが香港、ベトナム、台湾、シンガポールなどに広がった際、WHOのアジア地区の幹部として尾身茂氏がベトナムのハノイに派遣されてきたという。北京にいた押谷仁氏が、中国政府に警告を発していたにも関わらず、中国政府が無視しし続ける中、ハノイに行くことになり、尾身氏とともにベトナムの防疫の指導に当たったのだが、その際の対応がこのたびの日本の新型コロナ対応に生かされることになったという。



「建築士」
2021年4月号 表紙
建築士会発行

 今回の新型コロナの特徴がいくつかあるが、その中で注目したことは、

  ・無症状者による感染拡大が多いこと
  ・本人に自覚がない初期段階で、感染した人が
   他者へ感染させることが多いこと

があるが、日本で当初に取られた対策として、

  ・2日くらいは様子を見ること
  ・クラスター対策が有効とみられたこと

これらが、有効に働かなかった理由が、私の中で明快になった。その間違いを引きづったまま、日本のコロナ対策が取られていくのが正しいといえるのだろうか?

■今回の新型コロナの発生源を巡る論議があるが、まあ、中国が発生源であることは間違いないであろう。かつて、中国では、高濃度の残留農薬、抗生物質などの禁止薬物の添加、細菌による汚染、偽装食品などのおぞましい事故や事件が数多く発生してきた。2003年には、各国で使用が禁止されているDDTが中国茶や漬物から検出された。2004年には、安徽(あんき)省で製造された偽粉ミルクで乳児が死亡、同年には、湖北などで、理髪店から回収された人毛からアミノ酸を抽出してつくられた「人毛醤油」が、日本など海外へ輸出されているとする報道もあった。


 2007年には、安全性の問題から世界中で中国製食品のリコールが起きたが、有害物質が添加されたぺットフード、練り歯磨き、塗料に鉛が含まれていたおもちゃなどが大きく報じられた。日本では、中国産の冷凍ギョーザで10人が中毒症状を訴える事件が発生、北京市の露店で肉まんの材料に、ひき肉とともに段ボールを混入させた「偽装肉まん」が新聞等で報道された。2010年には、下水道の汚水を精製してつくった地溝油(ちこうゆ)が、食用油として中国全土の飲食店で多数使われていたことが発覚、食肉処理場で廃棄された内臓などから抽出した油も食用に販売したとして、千人以上が拘束された。等々、話題には事欠かない。幾多の議論はあるが、まだまだ不安を感じるお国柄である。中国初の新型コロナ対応のワクチンが多数の国に輸出されているが、そのワクチンに関する内部情報の少なさに危惧を感じるのは自然なことであろう。

■1969年、西アフリカのナイジェリアのラッサ村にある米国系のキリスト教会伝道所の診療所で、3人の看護師が原因不明の出血性の熱病にかかり2人が死亡した。症状は激烈で「骨以外はすべてウイルスが食いつくす」といわれるほど内臓が侵され、苦痛にのたうちながら死んでいった。「ラッサ熱」の最初の記録であった。その後の調査で1940年代にも流行があったことが判明した。「水資源」の枯渇が問題となっているが、熱帯地方でダムや灌漑施設のような静水域を造ることは、さまざまな感染症を運ぶ蚊に繁殖場所を提供するようなものだと著者は記す。眠り病(トリパノソーマ症)、ビルハルツ住血吸虫症、河川盲目症(オンコセルカ症)、シャーガス病など、水を介して伝染する病気がアフリカ各地で発生しているという。ガーナのダム建設でできたボルタ湖、スーダンのジュジラ灌漑網、西アフリカ各地の水田普及計画などで、多くの住民が感染症の犠牲になったが、これらの病気は「開発原病」と呼ばれるようになった。



「建築士」
2021年4月号
五百簱頭真氏
特別インタビュー
建築士会発行
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085「感染症の日本史」/磯田道史(2021年3月24日)

■感染症の日本史
 磯田道史
 文芸春秋社
 文春新書1279
 20200920第1刷
 255頁

■政府や行政によるコロナ対策への批判が止まらない。一所懸命にやっているにも関わらず評価されないのは、それはやはり政治家の責任であるといわざるを得ない。非常事態宣言の延長か終了かの議論も必要だが、医療逼迫・変異ウィルス・検査の増加などキーワードはいくらでもあるにも関わらず、それらへの対応が明確に行動に移されないのは、メディアの責任とはいえないであろう。ワクチンの供給遅れは予想されたことといえるが、何故か「ワクチン頼み」だけが一人歩きをしている感が拭えない。やはり総理大臣を務める人の発言が不安感を増殖させているのだろう。何か政策を出す度に、対案を聞かれても「考えていない」「効果を期待している」といった短絡な反応だけでは、安心感が得られないからだといえる。

 それは、前政権が嘘をつき続けて来たことやその無責任さを前提に、自助発言、学術会議問題、そして自身のお膝元ともいえる総務省の接待問題などの問題が続出しているからでもある。しかも、総務省接待問題では、自身の子息が接待側にいたにも関わらず、国会で「別人格」発言をしてしまった間違いが、前首相の夫人の無節度に対する対応と同根にあるからだともいえる。そして、法務大臣を担った男の買収事件では「他山の石」としてしまった与党幹事長や、あるいは無責任な放言を繰り返す副総理の存在がその基盤を揺るがし続けている。


■中世、製鉄技術が進み、農具や水車が普及して食料の供給が充実したイギリス・ドイツ・フランスでは都市人口が急増、ネズミの餌になる糞やゴミが大量に発生、ネズミ(あるいは、ネズミやネコに寄生したノミやシラミ)を媒介とする「ペスト(黒死病)」が発生した。このように「社会的・技術的・経済的な革命」を契機として、「結核」、「コレラ」、「天然痘」、「マラリア」、「ペスト」、「インフルエンザ」など感染症の大流行が頻繁に起こるようになった。人口密度が低く、小さな集団で生活していた狩猟時代では、感染症の拡大は起こりえなかったのだが、大航海時代のように、「ヒトの移動」が激しくなると、感染症は、大陸横断的に猛威を振るうようになった。まさに、グローバルといわれる現代では、災害や戦争よりも感染症が世界人類に大量死をもたらすことになってしまった感もある。

 1918(大正7)年に発生した、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)事件」があった。矢矧は呉を母港としていたが、日本に帰る前にシンガポールに寄港した。当時、スペイン風邪が世界的に流行していたが、乗組員の士気低下を恐れた艦長は条件付きで上陸を許可してしまった。その結果、ウィルスが艦内に持ち込まれ、爆発的な感染が艦内で起こり、乗員469名中48名が亡くなる結果を招いてしまった。ところが艦内には、たまたま「矢矧」の乗組員の他に、巡洋艦「明石」の乗組員がシンガポールから乗り合わせていた。彼等は地中海方面から帰るところだったのだが、既にスペイン風邪の洗礼を受けて免疫を獲得していたのだった。彼等の存在が、その後の矢矧の運行を支えたという。ウィルスに一度罹ると、免疫を獲得することをこの逸話は語っている。海軍全体に艦内神社が分霊されることの先駆けとなったといわれている。新型コロナのクラスターが発生した横浜に寄港したクルーズ船では、自衛隊の感染症対策が評価されたが、この伝統が受け継がれたともいえる。



感染症の日本史
磯田道史
文春新書

■江戸時代、一五代いた将軍のうち、14人が疱瘡(天然痘)に罹患したといわれている。江戸幕府は、将軍の身体を守るため「法定伝染病」の制度を設けていた(川部裕幸「江戸幕府の法定伝染病」『日本医史学雑誌』51巻2号)が、それでも感染を防ぐことは難しかったようだ。指定されていたのは、庖瘡(天然痘)、麻疹、水痘。1680(延宝8)年以降だが、これらの病気に感染した幕臣は、江戸城への登城を35日間、「遠慮(自粛)」することと決められていた。ちなみに一五代のうち罹患しなかったのは、8歳で亡くなった七代家継だけという。ところが、江戸時代の天皇の場合、15名中7名が罹患している(川村純一『病いの克服 - 日本痘瘡史』思文閣出版)というから、皇室のほうが、幕府よりガードが堅かった可能性を上げているが、恐らく、人と会う機会がそれだけ少なかっただけであろう。

 将軍が疱瘡に罹患すると、加賀の前田藩や伊達藩などの遠国の大名たちが、わずか5日ほどの間に慌てて江戸に駆け付けたという。参勤交代で帰国の途についていた西国の大名も途中から江戸に引き返してきたという。『榎本弥左衛門覚書』によると、「江戸町中にて売買少なく見え申し候」との記述があり、将軍の病気が「自粛」を生み、経済活動が低下したという。ところが、これと反対の政策を取った藩があった。「名君」の誉れ高い米沢藩九代の上杉鷹山(治憲)だった。弁護士で医事法制の研究者でもあった山崎佐(たすく)の『日本疫史及防疫史』には、1795(寛政7)年、米沢藩を襲った痘瘡流行に対して、鷹山は「家族に流行病の罹患者がいても、出勤しても良い」という命令を発したと記されているという。それは、殿様近くに近習する藩士に対しても同様な登庁許可が出されたという。

 米沢藩初代の上杉景勝の時代の直江兼続も、秀吉の朝鮮出兵の際の300巻からなる医書『済世救方』をすべて筆写させるなど、貴重な医学書も集めていたという。さらに鷹山は、西洋医学の吸収にもきわめて積極的で、杉田玄白や大槻玄沢が開いた蘭学塾に、藩費で医師を留学させていたという。「行政機能をストップさせたくない」という鷹山の考え方が良いかどうかは断定できないが、一つの明確な方針を示した為政者だったといえる。


 しかも鷹山は、生活困窮者の洗い出しから、何度も給付金で支援したり、江戸から天然痘専門の医者も呼び寄せて、対策チームの指揮を執らせたり、医者への謝礼も不要とするなど、都市と山間部の医療格差にも手を付けている。さらに鷹山の素晴らしいところは、これだけ手を尽くしたにもかかわらず、多くの領民が死んだことを悔やみ、翌年の正月の祝賀を止め、被害の規模を詳細にきちんと記録に残しているという。この癌瘡ハンデミックで、米沢領内では8、389人が感染、2,064人が亡くなった(死亡率は約25%)。著者は、「観光キャンペーンに兆単位の税金を使いながら、コロナ患者を看る看護師の困窮に「無策」もしくは「遅策」なのは問題ではないでしょうか」と記している。同感である。経済を守ることも大事かも知れないが、それ以上に対応すべき策を忘れてはいないでしょうかということであろう。

■日本の歴史では、やはり百年前の「スペイン風邪」が明確な記録として残っている。新型コロナでも第一波とか第三波とかが言われているが、スペイン風邪では、三つの流行の波が襲来した。

 「第一波」「春の先触れ」
      1918年5月から7月頃まで
 「第二波」「前流行」
      1918年10月から翌年5月頃まで
 「第三波」「後流行」
      1919年12月から翌年5月頃まで

しかも、スペイン風邪の場合は、変異によって、第一波よりも第二波のほうが致死率が高まったという。第一波では、死者がほとんど出なかったのだが、第二波では致死率が高まり、26万6千人もの死者を出してしまった。当時の日本人の4割から5割が罹患したといわれている。興味深いのは、100年前のスペイン風邪の際の欧米での施策が「外出禁止」や「マスク着用」といった『強制』であったことだ。ところが当時の日本でのマスクの着用は『奨励』だった。いつの時代も同じような対応というのが興味深いところだ。まあ、トランプ下のアメリカの対応は異なっていたが、それが現在の悲劇となって現れている。


■昨年、コロナ禍の初期段階、安倍首相の要請で一斉に学校休校が徹底された。その際、四月からの新学期を移行して、九月からの新学期案が検討された。私は北海道に住むが、毎年、新学期の前の入学試験が何故「冬」なのかいつも疑問に感じていた。インフルエンザが流行し、共通Ⅰ次試験が実施される1月はいつも暴風雪で公共交通機関が乱れている時期だからである。海外が秋始まりだからというよりも、受験生にとって、最も安全な時期に移行すべきだと以前から考えていた。しかし、今回も教育委員会等の強硬な反対意見により、その案は日の目を見ることはなかった。テレビ等でも、教育行政識者を任ずる人たちが真っ先に反対意見を述べていた。良い機会だったのに、まことに残念に感じたのだが、実は、100年前のスペイン風邪の際も、変更しようとした修学旅行の時期に対して、教育委員会が頑なに変更しなかった例が出ていた。結果は日の目を見るより明かであった。

■スペイン風邪が流行したときの総理大臣は、立憲政友会総裁として初の政党内閣を組織した原敬だった。毎日の大きなストレスを抱えながら、会議などに対応する『原敬日記』が引用されている。そのような日記が残されていることも凄いが、後世の人が見ることができることも素晴らしいといえる。残念ながら、安倍前首相の日記があるかどうかは分からないが、後世、発表されることはないだろう。発表されたとしても、「美しい国へ」のような美文が連ねられた意味不明のものとなるであろう。

 原敬内閣は、1918(大正7)年9月に発足したが、丁度、その時期はスペイン風邪の第二波が始まる直前だった。4年前に始まった第一次世界大戦が終わる直前でもあった。ちなみに第一次世界大戦が終了する所以となったのもスペイン風邪が大きな要因だったともいわれている。前年の11月にはロシアでは十月革命が起き、ボルシェビキ政権が発足、翌年3月にドイツとの講和条約が締結された時期でもあった。英米などと共同でシベリアに兵を送らざるを得なくなった日本は、陸海軍の「増税やむなし」との主張を受けて、軍備拡張のための増税を閣議決定したのだが、議会から質問などをうけた場合は「今日はまだ増税と決定したわけではない」という説明で逃げることにしていたという。何か、今の政治と変わらない姿を彷彿とさせる。


 この時期に、多くの閣僚や政府関係者もスペイン風邪に罹患。原敬自身も、その後ろ盾の元勲・山県有朋も罹患してしまう。さらには大正天皇も、時の皇太子(後の昭和天皇)や秩父宮も罹患してしまう。まさに日本の権力の中枢でクラスターが発生したのだった。皇太子は新宿御苑にあったゴルフ場でプレー中に体調が悪くなったという。同じころ罹患した皇太子の次の皇位継承者であった秩父宮は、陸軍大学校を卒業し、軍人としての経歴を重ねていったが、そのスペイン風邪の予後が悪く、1940(昭和15)年に肺結核と診断され療養生活に入り、1953(昭和28)年に薨去されている。秩父宮は、二・二六事件での関わりが記録として残っている。

■磯田道史は、映画化された「武士の家計簿」が有名だが、幾多のテレビ等での出演での明快な語り口が評価されていると私は認識している。磯田が高校生の時、訪れた岡山大学の付属図書館で見つけた『近世農村の歴史人口学的研究―信州諏訪地方の宗門改帳分析』という本とその著者である速水融との縁が、その後の磯田の研究の礎となっている。主流だったマルクス主義の歴史学は、「封建社会→工業化→資本主義→共産主義」という「単純な発展段階論」を唱えていたが、速水融は、人類が通る経済発展の道筋を「一つの系列」ではなく、「二つの系列」で描いていた。磯田は、梅棹忠夫の『文明の生態史観』の影響の可能性を記しているが、それに先立つ今西錦司の『棲み分け論』や、その後の網野善彦の『日本論』、現・静岡県知事の川勝平太の『文明の海洋史観』に繋がる歴史観を私は感じた。

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084「感染症対人類の世界史」+「人類の選択」(2021年3月4日) 

■感染症対人類の世界史
 池上彰+増田ユリヤ
 ポプラ社
 ポプラ新書193
 20200428第1刷
 20200525第4刷
 238頁

■壮大なタイトルが付いているが、中身は軽く読むことができる問答式になっている。まあ、テレビを観ている感程度で読むことができる内容だ。16世紀初頭、現在のメキシコ付近で栄えていたアステカ王国を滅ぼしたのはスペインのコルテスだが、その主な要因はスペイン軍が運んできた天然痘だった。その数十年後、現在のペルー付近で栄えていた数百万の人口を誇っていたインカ帝国を滅ぼしたのは、ピサロ率いる200人足らずのスペイン軍だったが、その主な要因も天然痘といわれている。

 アメリカ大陸では、群れをなして生活する動物自体が、犬、七面鳥、ラマやアルパカ、テンジクネズミ、バリケン(カモ科の鳥)などしかいなかった。家畜にするような動物がいなかった世界では、動物から人に移る感染症が少なかったためだ。逆に、アメリカ大陸からヨーロッパに持ち込まれた病原菌は、コロンブスの部下が運んだ「梅毒」が有名だ。

 2016年、ロシア北部シベリアのヤマル半島という場所で炭疽病の集団発生があり、亡くなった人が出たが、その地は炭疽菌に感染したトナカイの埋葬地だったらしい。地球温暖化による永久凍土の融解露出により、他の動物に感染、さらにそれが人に感染したといわれている。地球温暖化が感染症の要因となることは、大きな脅威といえる。

■人類の選択
 「ポストコロナ」を世界史で解く
 佐藤優
 NHK出版新書632
 20200810第1刷
 227頁

■毎朝4時45分に起床。新聞各紙をデジタルでチェック、午前中は原稿の執筆などアウトプットの時間に、午後は読書や情報収集のインプットの時間に充てる「知の巨人」といわれる佐藤優だが、SNSは時間の無駄だから一切やらないという(朝日新聞2020年12月27日朝刊)。私も限られた相手との連絡以外はSNSをやってこなかったが、現状のSNSの内容から見て、「時間の無駄」という考え方には同感だ。著者は、巷間あふれている「感染症と人類の闘いの流れを紐解く歴史本」程度のレベルでは、知識としては重要かもしれないが、巨視的分析にはあまり役に立たないと断定している。一歩踏み込んで、感染症がいかに時代を動かしたのかという視点で歴史を見ることの重要さを指摘している。

■7世紀に入ると、東ローマ帝国はペスト(黒死病)の発生により人口減となり、財政が悪化、軍事力を維持できなくなり、アラビア半島を基点に大規模なジハード(聖戦)を展開していたアラブのイスラム教徒に、シリアやエジプトを奪われてしまった。こうした地中海世界の文明的な衰退と入れ替わるようにして、北西ヨーロッパではフランク王国が発展し、ローマ=カトリック教会を中心とした西ヨーロッパ世界の文化的統一を推進していった。ペストはその後も何度も世界を襲ったが、ペストと同様に、20世紀において第一次世界大戦を終戦に導いたスペイン風邪の猛威により、世界人口の1/4~1/3が感染し、全世界で4千万人以上が亡くなったといわれている。このようにペストやスペイン風邪、あるい新大陸を揺るがした天然痘など、疫病が契機となって、旧来の勢力図が大きく代わり、世界が変容してきた歴史がある。



感染症対
人類の世界史
池上彰+増田ユリヤ
ポプラ新書

■現在、日本でも盛んに推奨されている「テレワーク」に対しても、著者は副作用を上げている。それは、より極端な成果主義が会社側の評価基準として導入されていことへの危惧だ。通常の会社のオフィスでは、社員がどのように働いているかが一目瞭然だ。企業は、労働者を数値的な成果だけでは評価していなかったが、リモートワークが一般化することにより、そのような評価のモノサシは使えなくなるという。結果だけが評価対象になることの弊害を指摘している。私もサラリーマン時代、日本社会が「成果主義」を取り入れ始めた時期を見ていたが、実態としては成果のみでは誰も判断はしていなかった。逆に言えば、成果のみで人を評価するということは、そのモノサシをどこに置くかによって、また別な格差を生み出すことになるといえよう。メールで会議に置き換えるとの意見も時々見られるが、「書いたもの」と「言ったり聞いたりすること」には大きな違いがある。いずれもそれなりに必要なものだが、それぞれの利点と欠点を使い分けるべきであろう。

 「働き方改革」が唱えられたが、それは働く人の置かれた事情に応じて多様な働き方を選択できる社会の実現を目指すものであったはずだが、テレワークの推進は、それらを無視した効率だけの追求に行ってしまう可能性があるといえる。労働時間の管理は形骸化し、成果を上げるためにこれまで以上に、自宅での労働を強いられることになる可能性すらあるのだ。現・菅政権のブレーンといわれる人がテレビで、日本における労働生産性の低さの改善を訴えていたが、何か強い違和感を感じてしまった。菅首相は就任時、「自助」を最初に考えるべきと国民に訴えていたが、それが間違っていたことは、多くの人が指摘しているのでここでは触れない。

■ヨーロッパがロマン主義に溢れていたとき、フロンティアを開拓していたアメリカは、ロマン主義なき啓蒙主義、合理主義の精神のまま21世紀に至った。スティーブン・アーサー・ピンカーは、「21世紀の啓蒙主義」で、「古くさいどころか、理性、科学、ヒューマニズム、進歩といった啓蒙主義の理念は、今かつてないほど強力な擁護を必要としている」と記した。ソ連の崩壊によって、アメリカ型啓蒙主義が勝利し、グローバルな規模でアメリカ型啓蒙主義が覇権を握ったかに見えたが、このコロナ禍により、そのグローバリズムに警鐘が鳴らされようとしている。あのトランプ現象は、そのアメリカ内部から沸き起こってきたグローバリズムに反する狼煙だったともいえる。最もトランプ自体の持って生まれた根拠なき虚言癖により自滅してしまったのだといえる。


 グローバル経済が浸透した結果、先進国の国内では格差が拡大し、賃金も下がっていく。それは社会不安につながる。国内で社会不安が増大すれば、国家は当然、国力を強めて内側を立て直そうとする。その意味で、グローバル化の果てに訪れる帝国主義の時代に、国家機能が強化されるのは必然といえるだろう。このコロナ禍のなか、どさくさに紛れるように日本の与党(特に前政権)は「敵基地攻撃能力」を保持しようと躍起になっている。しかし、日本が敵基地攻撃能力を持つようになると、日本に対する核兵器と通常兵器による攻撃の可能性が高まり、中国、ロシアとの外交ルートを通じた信頼醸成措置がとられていなければ軍拡競争が進み、偶発的な核戦争のリスクさえ生じると著者は語る。まさに今、ネット上では国家主義的思想にシンパシィを感じる若者が多く見られるが、第二次世界大戦に進んだ悲劇を繰り返してはならない。

■本の帯には
 「『トッド型』か、『ハラリ型』か? 政治のゆくえは? 新しい働き方は?」とある。
ソ連の崩壊やトランプ政権誕生を予言したといわれる「帝国以後」や「グローバリズム以後」などの著作で知られるフランスの歴史学者エマニュエル・トッド(1951年生)と「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」などの著作で知られるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(1976年生)には興味深い共通点があると著者はみている。それは、「両者ともに、今回のコロナ禍によって人類が抱えているさまざまな問題が増幅されていると捉えている」からだという。

■世情においても、事実はどうあれ、言葉の切れ端がネット上に飛び交い、それを増幅するメディアがインターネットなどを車輪として煽り、誰かが犠牲になる日常が良いはずもない。このコロナ禍にあたり、歴史を見つめ直し、あるいはどう歴史が動いてきたかを考え直すと、この「グローバル社会」の進め方に問題があったとしか思えないし、その前提であった「資本主義社会」のあり方に基本的な間違いが潜んでいたような気がしてならない。グローバル化によって、「豊」になった人が多いことを否定はしないが、逆に地球環境は荒み、マイクロプラスチックの蔓延により、人々は一週間毎にクレジットカード1枚分を食べているという研究報告もある。まさに時代を動かす分岐点に我々は存在している。



人類の選択
「ポストコロナ」を
世界史で解く
佐藤優
NHK出版新書

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083「ペスト」/カミュ(2021年2月21日) 

ペスト
アルベール・カミュ
宮崎峯雄訳
新潮社
新潮文庫
19691030初版
20040120第64刷改版
20210520第94刷
476頁

■日本オリンピック組織委員会の森会長の辞任劇では、日本そのものががストレステストに掛けられているかのような感があった。しかも、責任を取って辞任をする人が、後任を指名しようとしたことも驚きをもって迎えられた。高齢の川淵氏は、どうも気の毒な役回りを演じらされたように私には思えた。森氏の取った行動は、女性蔑視の見解はもちろん、彼の個人的な考え方というよりも、日本において培われてきた「感性」が国際的には通用しないことを露わにしたかの様な風景を醸し出していた。

 日本においては、幾多の歴史において「情(なさけ)」が尊ばれる傾向が強かった。赤穂浪士の討ち入りなども、見方を変えれば、ある意味では、ばかばかしい行いだったかも知れない。馬鹿な主君のために、自らの命を犠牲にしてその仇を討つなどが評価されるはずもないということなのだろう。しかも、吉良上野介は名君として地元では評価されていたという歴史的事実もある。森氏を評価する人々の意見を見ていると、彼は「情」の人だったという肯定的な見方が多い。私は森氏を評価しようとは思わないが、「情」を評価する見解を否定しようとは思わない自分がいる。一部の人が「寛容の狭さ」を嘆いていたが、まったく的外れの考え方であろう。

 その「情」に対して、「科学的」という言葉がマスコミ等で使われていた。オリンピックの開催の有無に対して、バイデン米大統領が使ったのが目立ったが、あのトランプが「非科学的」だっただけに、それなりに説得力を感じた。しかし、その言葉の裏には、「科学的=経済的」といった面が隠されているような気がしてならないのは勘ぐり過ぎだろうか?

 森氏の後任選びは、その後、誰が決めたか分からないような密室の検討委員会なるもので、一本化が計られた。誰の意向が働いたかは推測の域を出ないが、これ自体も「日本的」なるものの体現に他ならない。後任が誰になったかは、オリンピック自体と同様に、私の興味をまったくそそらないが、意のままになる人を据えたかの感がある。日本は、ストレステストに対して、何も変わることができなかったといえる。国際世論を含めたメディアの攻撃に対しても、政権与党はいつもの頑なな態度を変えようともしなかった。まさに安倍後継政権だったといえる。この話題にはもうウンザリしてしまったので、これ以上触れることはもう止めるが、日本の「情(なさけ)」については、機会を改めて考えたいと思っている。

■話題は変わるが、このコロナ禍のなか、懸命に対応をしておられる医療関係者、保健所の担当者、行政の担当者などの方々には本当に頭が下がる思いを抱いている。自らの家庭を犠牲にして、さらには自らの命までも危険にさらしての行為だと私は考えている。2021年1月8日に1都3県、1月14にはさらに7県を加えて2月7日までの「緊急事態宣言」が政府より発せられた。菅首相は、1月7日の宣言発表の翌日、民放のテレビ出演で、対象の拡大や延長の可能性があるかとの質問に対して。「仮定のことは考えないですね。とにかく1か月、国民の皆さんにご協力をお願いしていますから、ご協力頂いたら必ず目的を達成できるように、ありとあらゆる方策をしっかりやっていきたいと思っています」と答えていたが、その一週間後には宣言拡大に踏み切らざるを得ない結果となってしまった。

 首相の会見の姿にも多くの批判が寄せられたが、拡大や延長の可能性に対して、「考えていない」発言は、国民の多くの人々からも改めて愛想づかしをされたことだろう。ましてや、2月7日に終息するなどとは誰も考えていない状況は明かだったが、やはり一ヶ月の延長を余儀なくされる結果となった。



ペスト
アルベール・カミュ
新潮文庫

 現在、日本で起きている幾多の目詰まりを取り除いて、円滑に進むように政策をすすめるのが政治の役割といえるが、何らの効果的な対策を取ることもできず、仕舞いには逆効果ともいえる「Gotoキャンペーン」なる「経済優先」の施策を進めたかったのが、今の政府の本心だと見え透いているからこその問題といえる。「命」より大事な「経済」などない。

■以前から、NHK教育テレビの「百分de名著」を時々見ている。最近では、「新人生の資本論」で話題となった斉藤幸平氏が解説する「資本論」が興味深かったが、このコロナ禍のなか、興味を持って「ペスト/アルベール・カミュ」と「ペストの記憶/ダニエル・デフォー」を見た。カミュは、かなり昔に、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない」で始まる有名な出だしが記憶に残る「異邦人」を読んだことがあったが、ほとんど忘れてしまっていた。ダニエル・デフォーは、「ロビンソン・クルーソー」を以前に読んでいたが、子供のころに読んだ物語とはかなり異なる展開を感じたことがある。それは、スウィフトの「ガリバー旅行記」にも通じる。

 「百分de名著」を見てから読むことになったカミュの「ペスト/宮崎峯雄訳」だが、北アフリカの架空の港湾都市オラン市においてペストが突如として発生、蔓延し、都市が閉鎖され、その極限状態の中で人々がどう悩み、変わっていったか、あるいは変わらなかったかを「不条理」をテーマに描かれていた。まさにストレステストにかけられた人々がどう対応し、変化したかの物語といえる。全体主義、戦争、災害が覆い被さった時代背景に、カミュが自らのレジスタンス活動を通じて培った「人間的」な立場が比喩されているといわれている。

 主人公は、結核で療養する妻と離れてオラン市で暮らしているペストに対応する医師リウーだが、ペストが発症したことに対する当初の市当局の対応が中国における武漢市を思い出させる。その楽観姿勢は、このコロナ禍で「Gotoキャンペーン」を進めようとした日本における対応をも彷彿とさせるが、ペストの蔓延の中で、変わっていく人たちがいる。


 司祭パヌルーは、ペストを発症するのは「おのれの罪」のためであり、悔い改めよと強い口調で説教をする。しかし、救護活動をするなかで、罪があるかどうかも分からない少年が苦しみながらペストで死ぬと、パヌルーには迷いが出てくる。そして、自らもペスト(作中では明確にはペストとはしていない)に罹り、苦悩を自らの中に押し殺して、十字架を握り絞めたまま死んでしまう。変わってしまった自分を認めたくない苦悩がそこにあるかのように。疫病の中では、神の存在など意味がないというカミュの思想が現れているかのようだ。何か、今の日本政治のなかでも起きようとしている変化がそこに潜んでいるようが気がしてならない。もっとも、宣言下に夜の会食を止められなかった、まったく変わることができなかった政治家が続出するのが、今の日本政治の悲劇なのだろう。

 厳格で謹直な秩序の信奉者であった判事オトンは、自らの子の死によって変わり、隔離収容所で働く善意の人となるが、やはりペストに斃れてしまう。あるいは、オラン市から脱出しようとしたが、思いとどまり保健隊に志願をする新聞記者ランベールや、ペスト禍が終息するころ、狂ったようになってしまった犯罪者コタールなど変貌を遂げる人々がいる。

 一方、余り変わらなかった人として、もう一人の主人公とも思われる苦行者タルーがいる。医師リウーと連携して保健隊を組織するのだが、やはりペスト禍が終息するころにペストに斃れることとなる。しかも、物語の終わりには、結核を患っていた医師リウーの妻の死が伝えられる。まさに「不条理」の世界といえる。ランベールが開放されたオラン市の門が開いたとき、再開する恋人と抱き合うシーンは象徴的といえる。

■日本における新型コロナによる死者数が現時点で7千人台であることから、インフルエンザとあまり変わらないとする感染症専門家と称する人や、PCR検査の優位性を否定する人たちが後をたたない。そのような意見をネット上で見つけては、行動自粛を否定し自分の行動を変えないという人も多い。これらの意見は、次の表をみれば一目瞭然、間違っていることが分かる。


100分de名著
ペスト
NHKテキスト

 下表は、世界全体、世界の地域別、そして代表的な国別の感染者数と死亡者数を2021年2月17日時点のデータをまとめたものだ。人口数は、別データから引いているので、厳密には誤差があるといえるが、大きな狂いはないだろう。これを見ると北米における感染者比率が異常に高いことが分かる。明らかに非科学的なトランプによる無策によって感染者数が増えていったアメリカの悲劇が現れているといえる。同様に、当初アメリカと同じような対応を取ろうとしたイギリスがヨーロッパの中では高率になっている。アジアにおける低い感染率は、山中教授がいわれる「ファクターX」が何なのかは今後の研究に委ねるしかない。


 さて、インフルエンザである。日本においては、インフルエンザに感染する人は、年度毎に1千万人以上といわれている。厚生労働省のデータを含めてネットで調べても正確な数値は分からないが、約1千万人から約1千5百万人程度と推定されている。最も多いデータでは、2千万人が罹患しているというものもあった。それは感染者数については、罹患しても医者にかかることなく治癒する人も多数いることからだろうと推測される。死亡する人は、厚生労働省が発表する人口動態統計で分かる。インフルエンザを直接の原因として死亡する人は毎年度3千人台、そしてインフルエンザに罹ったことにより、それまで罹患している慢性疾患が悪化して死亡(超過死亡)する人を含めると、年度毎に1万人程度といわれている。

100分de名著
ペストの記憶
NHKテキスト

新型コロナ 感染者数と死亡者数はREUTERS.comによる
感染者数と死亡者数 世界人口はUNFPA 世界人口白書2020年版の統計をベース
2021/2/20時点 ※中東に関しては、両者の範囲指定が不明
地域 人口 感染者数 死亡者数 感染者数に対する死亡率
万人 人口比 人口比
世界 779,480 110,932,521 1.42% 2,560,962 0.033% 2.309%
北米 36,887 28,887,614 7.83% 517,717 0.140% 1.792%
欧州 74,764 33,064,723 4.42% 894,613 0.120% 2.706%
中南米 65,396 20,642,263 3.16% 655,443 0.100% 3.175%
アジア 464,105 15,860,551 0.34% 251,443 0.005% 1.585%
中東 - 8,578,754 - 139,603 - 1.627%
アフリカ 134,060 3,847,934 0.29% 101,059 0.008% 2.626%
オセアニア 4,268 50,682 0.12% 1,084 0.003% 2.139%
主な国 千人 人口比 人口比 感染者数に対する死亡率
アメリカ 327,096 28,046,275 8.57% 496,129 0.152% 1.769%
ロシア 145,734 4,151,984 2.85% 188,303 0.129% 4.535%
イギリス 67,142 4,105,675 6.11% 120,365 0.179% 2.932%
ドイツ 83,124 2,381,886 2.87% 67,744 0.081% 2.844%
日本 127,202 425,280 0.33% 7,456 0.006% 1.753%
中国 1,435,651 89,824 0.01% 4,636 0.000% 5.161%
韓国 51,172 86,576 0.17% 1,553 0.003% 1.794%


 インフルエンザに感染する人を年度毎1千万人とすると、それは日本人口1億2千720万で割ると、その比率は7.86%となる。そして、その死亡者数を超過死亡数でみて1万人とすると、感染者数に対する死亡者比率は0.008%に過ぎない。一方、新型コロナによる感染者数に対する死亡者数は、現時点では、1.718%となっている。圧倒的に新型コロナの方が、インフルエンザよりも死亡率が高いことが分かる。死亡者「数」で比べて、新型コロナとインフルエンザが余り変わらないというのは、「無知」という他ないだろう。

 2020年の10月6日、アメリカのトランプ大統領は、「毎年インフルエンザで多くの人が死亡し、『時には10万人を超える』と根拠がないツイートを発信した。しかし、米疾病予防管理センター(CDC)をネットで調べると、2019年から2020年のシーズンには2回に渡る流行により、3千8百万人が罹患し、2万2千人が死亡したと推定されているようだ。最大に死亡者が多かったとされる2017-2018年でも6万人台が推定されているが、トランプがやはりここでも「虚」を発信していた。実際、彼が発信したものにどれほどの真実があるのだろうか?

 日本のネット上でも、感染症を専門と自称する一部の医者たちが、コロナ禍の「初期段階」に新型コロナはインフルエンザよりも感染率が低いので、非常事態宣言を含む自粛など必要がないとの妄言を振りまいていたが、未だにその論説を信じている向きがある。もし、日本における新型コロナ対策をインフルエンザ同程度としたならば、1千万人×1.718%=17万1千8百人が現時点での死亡者となることが分かる。丁度、アメリカにおける現状と同様な状態となることが明瞭なのだ。

仮に「ファクターX」があるとしても、死亡者数が圧倒的に増加するのは間違いがない。ただ、注意を記したいのは、医療技術の改善などにより、死亡率が下がってきたため、「インフルエンザはかぜの一種で怖くないもの」という認識を肯定するものではない。やはりインフルエンザも新型コロナと同様に十分な注意と警戒が必要な疾患であることを忘れることはできない。

■感染症の歴史を見返すと、ウィルスは宿主の命を奪うことにより、自分自身の生命までもが奪われてしまうことから、宿主の命を永らえるように変異し、その変異したウィルスが優性となり、ウィルス自体の子孫を存続させてきた。多くの感染症が自然に一時的にせよ、消えていった最大の理由がそこにある。しかしながら今回の新型コロナは、基礎疾患がある人や高齢者に対して強く作用し、元気な若者や小児等にはほとんど作用しないという驚くべき性質をもっている。実に狡猾な特異性を持ってこの21世紀の地球上に現れてきたといえる。インフルエンザも重症化には同様な傾向があるが、よりその特異性は増している。小説「ペスト」におけるパヌルー司祭が説教で語った「おのれの罪」はともかく、ウィルス自体は、おそらく以前から存在していたものと思われるが、人に感染するウィルスとして、その特異性を獲得した理由は分からない。

 小説「ペスト」においても、突然にペストは終息してしまう。それは、幾多の疫病においても繰り返されて来た歴史でもある。日本でもワクチンの投与が開始された。このところのコロナ感染者数の減少は、非常事態宣言とは別な所以があるかも知れないといわれ始めている。無用な期待はしたくはないが、終息に向かうことを願うばかりである。
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082 2021年 年頭所感・新型コロナを考える(2021年1月1日) 


■アメリカの大統領選挙は、コロナ禍の影響もあり、郵便投票が雌雄を決することとなり、結果、サプライズ的な演出を生んだ。トランプは負けを認めず、自らの影響力を残そうと必死だが、任期末期において自らの保身のための恩赦を連発するという愚挙に出ている。国がコロナで疲弊しているというにも関わらず、事実上何もせず、クリスマスから正月に掛けての休暇に入ってしまった。このような男をアメリカ大統領に選んでしまったツケが回ってきた感もあるが、それがアメリカという国なのだろう。

 最近まで、投票に不正が行われたとの情報や画像を見つけては、ツィッターなどでトランプが逆転して勝つなどと妄言をつぶやいていた人たちが日本国内にもいたが、最近は話題にもならなくなってきた。不正が行われたとの動画などもネットで多数見たが、ほとんど解釈不能なものばかりだった。それらを日本のメディアは報道しないと盛んに煽り立てていた人たちのニュースソースを確認すると、同じようなことを書いている人たちが、お互いに情報交換をしているというだけのことだったりしていた。それらをネットニュースが拾っていただけのことなのだろう。ただ、時々、複数のテレビにも出てくる人たちであることに、それらの報道番組の姿勢が見えたとも言える。

■そのような連中は、何故か安倍前首相を支持していたことに共通性を持っていることにも不思議感がある。「桜を見る会前夜祭」の費用補填問題での、彼の国会陳述を少し見たが、いつもの「御飯論法」のごとく、何も答えず、何も調べようともせず、何のために国会に出てきたのが分からない始末だった。まったく誠意などなく、人として彼を信用することは私にはできないし、早々に政界から引退して貰いたいものである。あのような男を長期に渡って総理大臣としていた事実を考えると、アメリカのことを笑っていることはできない。これが日本なのだろう。

 安倍後継となった菅首相には、少しは期待をしていたが、学術会議問題に限らず、あの頑なさだけが取り柄の男の様にしか見えてこなくなってしまった。その頑なさが、エビデンスがあるか無いかは判然とはしないが、GOTOキャンペーンの継続により、直接にせよ、間接にせよ、今回のコロナ禍の拡大を生んだ事実は紛れもないように私には思える。最近のテレビの画像をみても、あの眼の落ち着きのなさは、トップに立つべき人ではなかったのではないだろうかと思えてならない。まあ、前任者も似ようなものだったが。




         庭の氷模様と枯れ葉

■今回の新型コロナ・パンデミックは、インフルエンザとは大きく異なる状況にあった。当初は、
  ①ワクチンがない
   (供給が始まったが、まだ行き渡っていない)
  ②即診断の方法がない
   (インフルエンザは抗原検査が主体だが、
   新型コロナは時間が掛かるPCR検査
   が必要とされた)
  ③薬がない(未だに特効薬がない)
の3つがいわれたが、その状況は現在もさほど変わってはいない。

■私はテレビは、ニュースか報道番組と教育テレビがほとんどで、民放はほとんど見ない。あのCMが煩わしいためだが、最近は番組の低質さにもウンザリをしている。お笑いタレントや芸能人ばかりの語りを聞く気も起きないのだが、さらにはNHKの番組作りまでもが民放化していることにも危惧を抱いている。紅白歌合戦なども今回からは見るのを止めた(最後の30分だけは見て、「行く年来る年」に入った)。どうしても見たい番組があるときは、録画をしておいて、好きな時に見ることにしている。もちろん民放の場合は、CMを飛ばして。

 一方、ネットのニュースは割と良く見ている。大手といわれる新聞のサイトもほぼ毎日無料分だけは見ている。ネットのニュースでは、メディアが余り取り上げない意見が時々出ているが、危険を感じるものも多い。それらに影響された人々が、「汚い言葉遣い」でツィッターなどに発信していることにも危惧を覚える。

■日本のPCR検査の少なさが盛んにいわれたが、PCR検査不要論を未だに唱える人は、さすがにテレビ等には出てこなくなった。横浜港に着いたクルーズ船に自ら乗り込んで話題となった岩田健太郎氏 (神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)は、最近も「『PCR』原理主義に反対する理由 幻想と欲望のコロナウイルス」を発刊して、無症状者に対するPCR検査の無意味さを謳っている。まあ、購入して読む気も起きなかったが、表現の自由ということなのだろう。

 ネットからの伝聞で恐縮だが、最近もテレビで影響力がある辛坊治朗氏が、
 「PCR検査で無症状者を洗い出して、それで感染を止めるという方向性は絶対に無理ですから。基本的にこれだけ感染が広がっているという状況の中では、全員が「自分は感染しているかもしれない」ということで、ハイリスクの人に絶対にうつさないという、もうこの心がけだけを徹底するというように方針を切り替えなければ駄目」と語っている。
 しかし、前段でGOTOキャンペーンを擁護しながらの論であることを考えると、何を言っているのかがよく分からないことになってしまう。GOTOは良いが、PCR検査の拡大は意味がないと言いたいのだろうが、まあ、政権を擁護したいだけの意思表示なのだろう。

 「すでに第3波はほぼピークアウトしている」と断言していた感染症の学者もいた。第3波の1波などともいったりもしていたが、今日の状況を考えると無理筋といえる。あるいは、新型コロナをSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)と同様に扱う感染症法の『二類相当』への指定をいまだに続けていることが医療崩壊の要因となると訴えている人もいる。これらの人は、経済最優先の考え方の人たちだが、彼等には歴史を学んで貰いたいと思う。そして、12月31日の日本国内での感染者は4,500人を超えた。東京では何と1,300人台を示すこととなった。恐ろしい増え方といえる。



ペストの記憶
ダニエル・デフォー著
武田将明訳
英国十八世紀文学叢書
第3巻 カタストロフィ


■日本では、インフルエンザは、昨年度は約1,200万人が罹患した。その前年度は約1,450万人、さらにその前年度は約1,050万人だった。インフルエンザで入院した人は、昨年20,389人、一昨年20,416人、その前年15,096人だった。罹患した人の約0.15%程度が入院していることになる。また、死亡した人の判定は難しい。厚生労働省が発表している2018年度の死亡者は3,325人だが、これはインフルエンザを直接の死因としての数値だ。もう一つ「超過死亡」という概念があり、インフルエンザにかかったことによって罹患している慢性疾患が悪化して死亡したものを含む場合をいう。それは毎年1万人程度と厚生労働省ではカウントされている。罹患した人の約0.07~0.09%程度が毎年インフルエンザを直接・間接にして死亡していることとなる。

 一方、今回の新型コロナだが、2020年12月31日現在、日本国内で感染が確認されたのが約23万人、死亡したのが約3、450人であり、PCR検査不足により罹患者情報に齟齬があるかも知れないが、死亡率は約1.5%ということになる。超過死亡でみてもインフルエンザの約20倍の死亡率となる。もしインフルエンザと同程度の施策レベルしか行われなかったなら、インフルエンザと同程度の感染率として、約20万人が死亡することになるが、明らかに感染率はより高いので、恐ろしい数値が現出するであろう。経済優先の人たちの発想は何処から生まれてくるのであろう。

■山中伸弥教授が名付けた「ファクターX」が何かは未だに分かっていない。BCG説や遺伝子の非ネアンデルタール説もあったが、経済優先の人の中には、「既に日本人は自然免疫を得ている」と唱えている学者もいたが、何を根拠に言っているのがが理解できない。責任を取って貰いたいものである。アメリカの人口は、2020年現在、約3.3億人だが、2020年12月31日現在、感染者数が約1,974万人、死亡者が34万人となっていて、罹患者に対する死亡率は約1.7%である。日本とはその死亡率は余り変わらない。インド(1.4%)やドイツ(1.9%)なども大きく変わらないが、当初、経済優先政策を取ったイギリスは約3.0%と高い。経済優先の政策を評価されていたスェーデンでは、国王が「我々は失敗したかもしれない」とその政策を転換しようとしている。経済最優先が駄目なことは歴史が示しているのだ。

 人の命も大事だが、経済の命を守る必要があると唱える人も多い。しかし、経済に「命」などはない。あるのは、人が生きるための経済があるだけである。人が生きるための経済をどうするかを考えると、自ずからすべきことが見えてくるだろう。まずは、感染防止を第一に考えるべきであり、そのためのPCR検査の拡充と無症状を含めた罹患者の隔離であろう。それ以外に道はない。


■医療崩壊が問題となっているが、私は医療崩壊などは起きないと思っている。医療崩壊とは「医療体制全体が崩壊」することであり、それが日本で起きるとは到底思えない。あるのは、一部の医療システムが壊れたことにより、まともな治療が受けられなくなる人が出てくることだけであろう。その大きさが問題となるのであろう。それを防ぐためのバックアップ体制を作ることが求められているのだと考えている。そのための、国であり、厚生労働省であり、地方自治体があるのだといえる。

 私は東日本大震災の直後、福島県に入ったが、福島県庁の方の自宅を訪れたことがあった。「お忙しくて大変ですね」と尋ねたのだが、その方は「私は担当外なので、それほど忙しくない」とのことだった。その方は、その日は有給休暇を取っておられた。これが問題なのだと私は考えている。医療システムに限らず、日本の行政システム全体に蔓延る疫病のような感覚が未だに残っていることに問題があるのだろう。5名以上の飲食を避けて下さいとのメッセージに対して、自ら他人事としてしまった総理大臣もいたが、その呼びかけ人であるにも関わらず、問題性を認知しない与党の幹事長、あるいは自らも感染してしまった元大臣もいたが、笑うにも笑うことができない現実が今起きていることに問題があるのだ。ただし、感染すること自体に責任があると問題視している訳ではないことは、記しておきたい。

■多くの人が期待しているワクチンだが、アメリカやイギリスで開発されたワクチンは、遺伝子情報を利用したmRNAワクチンといわれている。我々のような高年齢者には子孫への影響はほとんど出ないが、それらが若者に対する影響も心配なところである。とはいえ、遺伝子操作をした食物を既に世界中の人々が摂取せざるを得ないことになっている事実も紛れもなくある。今回の新型コロナは多くの高齢者の命を奪っているが、大きな歴史を繰り返す地球(ガイア)の意思が働いていると唱える人も出てくるだろう。今日元旦のメッセージで、経団連の会長は「原発は人類の知恵である」と言っていたが、私は「原発は人類の瑕疵であると考えている」。国の政策を早急に転換すべきであろう。

■先日、NHKの教育テレビで「100分de名著『ペストの記憶』」を観た。「ロビンソン・クルーソー」で知られるダニエル・デフォーの作品だが、16世紀のロンドンを襲ったペストに対して、人々がとった行動や行政による政策が描かれていた。パンデミック下における歴史を考える上で、重要な教訓に光が当てられていた。ロンドン市長は、積極的に市民の声を聞き、公的な支援を繰り出した。さらに、ペストが発症した家には監視人をつけ、逃げ出さないようにしたが、その監視人には仕事を失った人を交代で付けるという政策を取ったという。しかし、その監視から脱出する人もいたが、その人道的支援ともいえる対策は、ある意味、不合理な管理政策でもあったといえる。正解がない中で、正しく怖れることが重要だが、本当に正しかったかどうかはその時点では誰にも分からないといえる。あるのは歴史を学ぶことだけだといえよう。



100分de名著
ペストの記憶
NHKテキスト


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081「21世紀の啓蒙」-理性、科学、ヒューマニズム、進歩-/スティーブン・ピンカー(2020年2月6日)

「21世紀の啓蒙」
-理性、科学、ヒューマニズム、進歩-
スティーブン・ピンカー
橘明美+坂田雪子訳
思想社
(上巻)/20191220第1刷/464頁/\2,500+税
(下巻)/20191220第1刷/509頁/\2,500+税

■死期を悟った人が、それまで関わりのなかった『宗教』に目覚め、他にすがりつくものがない中で、やすらかな想いを抱いて亡くなっていったとする。そのような場合、宗教は一定の役割を果たしたといえるだろう。しかし、宗教を主な理由として、人に危害を与え、あるいは殺めるに至った場合、宗教は人に取って有害なものであり、無用なものだと私は考えている。日本における仏教が「葬式仏教」と揶揄されるようになって久しいが、一つの発展形なのかも知れない。

■産業革命や独立戦争が起こった18世紀後半から19世紀中頃のヨーロッパでは、伝統的な社会体制や宗教に反発する動きとして、自由な感性による感情表現や多様な表現を求める芸術運動が興った。『ロマン主義』という。自然の名のもとに、自由や愛などを謳ったのだが、現実を否定し、非現実的な世界に憧れたともいえる。反啓蒙主義の一つといわれる。

 『啓蒙主義』は、やはり18世紀のヨーロッパに興った考え方で、中世的な思想や慣習を打ち破ることで、近代化を進めようとしたものだ。理性や科学についての知識を持たない無知蒙昧な人々を無知から解放する運動といわれることもある。啓蒙主義は、多様な文明の発達を無視した、野蛮から文明へと直線的な発展観を持っていたため、後に批判されることになったが、人間を一種の性善説で捕らえ、その理性による「知」こそが社会発展の原動力になるという考え方ともいえる。

 『モダニズム/近代主義』に対する不信、反動、超克を意味する『ポストモダニズム』も啓蒙主義と似ているように見えるが、人間の理性だけで人類を向上させ、世界をより良い場所にするというモダニズムが果たすことのできなかったことへの反発からポストモダニズムは生まれたともいえ、反啓蒙主義の一つとして捕らえられている。ただ、ポストモダニズムにも多様性があり、一括りで説明するのは無理があるかも知れない。少なくとも、この本の著者は、ポストモダニズムを反啓蒙主義と認識して、その源流ともいえるニーチェをナチスドイツに絡めて批判している。

 一方、シニシズム(冷笑主義)といわれる考え方がある。捕らえられ方は各種あるようだが、ある人の言動をその動機、言い換えれば何故その言動をしたかどうかということを、その動機からではなく、周り(これも問題なのだが)が納得できる理由から判断する考え方だ。判断される理由は、時代や社会によっても異なってくる。中世のヨーロッパの魔女狩りでは、異端審問官は、動機とする「悪魔」が出てくることを求めて拷問などを行ったが、現在のネット社会も、まさにそのるつぼの中にいるといえよう。他者の行為を、その人の動機に関わらず、自己が攻撃したい対象に原因を求める考え方ともいえる。


■この本のタイトルは、『21世紀の啓蒙(原題:Enightenment Now)』だが、冒頭にこのような記述が出てくる。、

「わたしたちは理性と共感によって人類の繁栄を促すことができる」という啓蒙主義の原則は、あまりにも当然で、ありふれた、古くさいものに思えるかもしれない。だが実はそうではないとわたしは気づき、それでこの本を書くことにした。古くさいどころか、理性、科学、ヒューマニズム、進歩といった啓蒙主義の理念は、今かつてないほど強力な擁護を必要としている。

 しかし、近代化していない社会や西洋化していない社会を「未開」「野蛮」と考える、かつて批判された啓蒙思想がこの本のところどころに垣間見えていた。数年前に話題となったトマ・ピケティの『21世紀の資本(原題: Le Capital au XXIe siecle)』のタイトルをまねたのだろうが、テーマはほとんど関係が無い。

■「農業の技術革新は不当に攻撃されている」という。ハイテク農業は化石燃料と地下水を多用し、除草剤と殺虫剤を使用し、伝統的な自給自足農業を破壊し、生物学的に自然に反し、企業に利益をもたらすだけのものだと批判されているが、この革命により、「10億人もの命を救い、大飢饉の克服に大きな役割を果たしたことを考えると、それらの問題は対価として妥当なものだとわたしには思える」という。遺伝子組み換え技術は、高収量、命を救うビタミンの追加、耐乾性・耐塩性、病害虫抵抗性・耐腐敗性、栽培面積・肥料の節約、耕作労力の軽減などを可能とするためであり、その安全性については、何百もの研究、主要な保健・科学機関のすべて、100人以上のノーベル賞受賞者が保証してきたのだからという。

 人類が長い年月をかけて品種改良を試行し、そして自らの体もその改良に順応させてきたのがこれまでの人類の歴史だったといえる。一方、利益追求を前提とした短期的な改変により、どれほど人類に影響を及ぼすかも知れないものの一つが遺伝子組み換え技術といえよう。そこでは、100人以上のノーベル賞受賞者が「保証(原書は不明)」していることなどは何らの意味も感じない。私は分かっている限りは、遺伝子組み換え食物を食べようとは思わないが、知らず知らずのうちに食べさせられているのが現実なのだろう。

 現代の人々は、いかに貧しいといえども、狩猟に明け暮れていた時代よりも遙かに恵まれた社会に生きているのだから、格差などはそれほどたいした問題ではないという。2011年に所得が貧困ラインを下回っていたアメリカの世帯でさえも、95パーセント以上が電気、水道、水洗トイレ、冷蔵庫、料理用コンロ、カラーテレビを手にしていたが、その一世紀半前には、ロスチャイルド一族、アスター一族(アメリカの富豪)、ヴァンダービルト一族(アメリカの鉄道王)でさえこれらをもっていなかったという。ほとんど暴論といえよう。確かに、現代人は古代や近代の人々に比べて、豊かな生活ができる時代に生きているのは確かだが、比較する次元が異なっている。格差問題は、そのような歴史を無視して対比すべきものではない。




21世紀の啓蒙
(上巻)
スティーブン・ピンカー著
橘明美+坂田雪子訳
思想社


 著者は、二酸化炭素排出量の増加に伴う気候温暖化までは否定はしていない。しかし、その脱炭素カに有効なものが、「カーボンプライニング」と「進化した原子力発電」だとの立場にある。前者は、炭素税や排出量取引という、金融市場任せにすることに私は胡散臭さを感じているが、後者が、「歴史上のすべての聖人や英雄、預言者、殉教者、受賞者を合わせた以上の恩恵を、人類にもたらすことになる」との見解には理解ができない。不見識といえよう。

 原発が「豊富なクリーンなエネルギー」などではなく、「汚れた危険なエネルギー」であり、生成されるガラス固化体の高レベル放射性廃棄物がウラン原石並の放射能まで減少するのに数万年から10万年かかるといわれていることをどう考えているのだろうか? また、著者は核廃棄物の保有期間が短いとされる第四世代の原子力発電に期待を持っているようだが、原発の開発には、新しい技術と新たな危険が常に表裏として働いてきた歴史があることを忘れてはならない。既に一兆円以上の国費を注ぎ込み、廃炉のためにさらに一兆円以上の費用が発生すると予想されている日本における高速増殖炉「もんじゅ」をどう考えるのだろうか?

 アメリカで暴力犯罪が爆発的に増えたのは、1920年代にアルコールが禁止されたときと、1980年代後半にクラック(コカイン)が流行したときだったという。ラテンアメリカとカリブ諸国では、今もコカインやヘロイン、大麻の不正取引が活発だが、やはり暴力犯罪がはびこっている。薬物の不正取引が原因で起こる暴力は、今なお解決されていない万国共通の問題である。アメリカでは現在、大麻を合法化する動きが進み、将来的にはそのほかの薬物も合法化されるかもしれないが、ひょっとするとそれがこの業界を法のない暗黒世界から救うのかもしれないという。

 では、銃の規制はどうなのだろうか? 合法化や非合法化の問題ではなく、大麻を合法化した場合、それによって誰が利益を受けるかが問題なのであろう。コカインやヘロインまで合法化すべきと考えているのだろうか? またそれらの薬害などによって不幸となる人がいることすら、暴力犯罪に比べれば、それほどたいしたことではないというのだろうか?

■世界が以前にも増して良くなっているか、あるいは悪くなっているかの判断は、テーマを絞ることによって、それほど難しくはない。例えば、『グローバリズム』について考えてみる。グローバリズムによって、世界的な工業化・情報化は進み、人々の生活が豊かになったのはその通りだろう。中国を見ればよく分かる。あの文化大革命のころ、北京の街を走るのは「自転車」の群れだった。しかし、著者が何度も拘るように、「毛沢東が亡くなると」、鄧小平が台頭し、「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」がスローガンとなり、北京は「自動車」が満ちあふれる街となった。そして「PM2.5」が問題となったが、その後は改善されてきているという。

 中国の例を取るまでもなく、生活が豊かになったことは否定はできない。しかし、それに伴う弊害もまた無視はできない。さらにその恩恵に浴する人が偏っているという格差問題も否定はできない。全体が良くなっているならば、多少の弊害は仕方がないということなのだろう。そして、弊害のみを追求する考え方に著者は批判を寄せる。自然保護運動などは、著者の格好の標的になっている。


 AIが人間を凌駕し、仕舞いには人間を支配するという考え方にも著者は、否定的だ。「知能とは、ある目的を達成するため、新たな手段を考える能力のことである。しかし目的をもつことは知能とはまったく関係ない。知能が高いことと何かを欲することは別物であるからだ」と、AIが人間を支配するなどというのは「ばかげている」と否定しているが、その理由は明確ではない。ほとんど感情論に近い。AIが自身で勝手に目的を持つことはあり得ないと、何故、断言できるのだろうか? 人類に限らず、目的をもった生命は限りなく存在している以上、何が起こるかは誰にも分からない。

 さすがに、「核兵器が第二次世界大戦を終結させたとか、その後の『長い平和』の礎を築いた」といった考え方には与していない。しかし、「さすがの政治家たちもひるむので、核兵器の使用はタブーとなり、保有していても実質的にはただのはったりでしかなくなっている」と核兵器を心配する考え方は杞憂だと断じているが、あのトランプの振る舞いや、彼を大統領に選んだアメリカ国民の良心に私は杞憂を感じている。核のボタンを握っているのはあのトランプであり、彼が誰の意見を聞いてお粗末な判断をし続けているかを考えると恐ろしい気がするのは私だけではないだろう。

 著者は、トランプに対しては否定的だが、「トランプの権威主義的な本能によって、現在アメリカの民主主義制度はストレステストにかけられているが、これまでのところ多くの前線でその圧力は押し返されている」と、行政を含めトランプの思いどおりには進んでいないとみているが、ほぼ期待論に過ぎないだろう。

 マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス中将は、ルーズベルトが死去したため、副大統領から大統領になったため原爆のことを良く理解していなかったトルーマンに進言して、広島と長崎に原爆を落としたという。グローブスは、さらに京都には軍需工場があるといって、次に京都への原爆投下を進言していたという記録をテレビで見たことがあったが、トランプがいつどこで、ほとんど思いつきで誰かの意見を聞いて、核のボタンを押さないという保証はどこにもない。あるいは、あの北朝鮮においておやであろう。どうも「脳天気」な考え方をしているとしか私には思えない。それが啓蒙主義なのだろうか?

■本書のサブタイトルとなっている「理性、科学、ヒューマニズム、進歩」が後半にそれぞれ出てくる。訳文の日本語が、ところどころありがちな翻訳文になっているのが気になるが、メディアがその政治的志向に基づいて、データを見直すことなく、政治のスポーツ化に一役も二役も買っている現状を嘆いている。「理性と真実のあくなき追求という啓蒙主義の理念を捨ててはならない」とのことだが、「政治学者のエリカ・チェノウェスとマリア・スティーヴンが、一九〇〇年から二〇〇六年までの世界各地の政治抵抗運動についてデータを集めて分析してみたところ、非暴力の抵抗運動の四分の三が成功していたのに対し、暴力を伴う抵抗運動の成功率はわずか三分の一だったことがわかった。つまりガンディーとキング牧師は正しかったのだが、データがなければそのことは誰にもわからない」とのことだが、これは重要な指摘だと言える。

 しかし、「大学の標準的なカリキュラムから、カール・マルクスやフランツ・ファノン(植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家)の著作に割く時間を少し削って、代わりに政治的暴力の定量分析に目を向ける時間がつくれたら、長期的に何らかの変化が望めるのではないだろうか」は、少し個人的な偏見が入っているのだろう。とはいえ、理性と理性に基づいた科学的な分析が必要との意見にはうなずかされた。

■著者のスティーブン・アーサー・ピンカーは、1954年、カナダでユダヤ系の家に生まれた。ハーバード大学で心理学教授として、視覚的認知能力と子供の言語能力の発達を専門としている。2004年には米タイム誌の「最も影響力のある100人」に選ばれた。2005年には、フォーリンポリシー誌で「知識人トップ100人」のうち一人に選ばれたというが、アメリカのエスタブリッシュメントには人気のある学者なのだろう。「無神論者」といわれているが、次の一説が納得できたところである。

 「宗教が道徳の基盤だというなら、宗教戦争や宗教を理由とする残虐行為の発生件数はゼロのはずである。それに、そもそも無神論は道徳体系ではないので、比較対象にならない。無神論とはたんに超自然の存在を信じないということであって、ゼウスを信じない、ビシュヌ神(ヒンドゥー教の神)を信じないというのと変わらない。道徳基盤として有神論に代わるものは無神論ではなく、ヒューマニズムである。」



21世紀の啓蒙
(下巻)
スティーブン・ピンカー著
橘明美+坂田雪子訳
思想社

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080 札幌へのマラソン・競歩移転について(2019年11月6日) 

 トランプの愚挙はとどまることを知らないようだが、ついにパリ協定からの離脱を発表した。国内でも長期政権のゆがみばかりではないようだが、安倍政権のお粗末さは極まりという感を示している。しかし、野党のだらしなさもあるのだろうが、ネット上ではあるいは一部の放送メディアでの擁護の姿勢は私には理解ができない。この国は一体どうなってしまうのだろう。

 2019年11月6日の朝日新聞によると、
「来年の東京五輪のマラソンと競歩の会場が札幌に決まったことで、道や札幌市に道内外から少なくとも400件以上の意見が寄せられていることがわかった。多くは移転に反対するものだという。
 札幌市の市民の声を聞く課には1日までに、メールなどで290件の意見が届いた。約8割が「東京はずっと準備してきた。市としては断るべきだ」といった反対の声だった。「恥知らず」といった誹謗(ひぼう)中傷や、同じ人から何通も送られてきたケースもあったという。東京開催を期待していた都民からの苦情も多かったという。」

 来年の東京オリンピックのマラソンと競歩の札幌移転に関して、メディアに出てくるコメンテーターたちのほとんどの意見は、IOCのごり押しに対する憤りの声に満ちていた。わずかにテレビに出てくる道民の意見でも、招致に賛成する意見がほとんどだった。四者協議なるものが東京で開催されたが、出席はIOC、組織委員会、東京都、国だけであった。国を代表する大臣は北海道出身の元オリンピック選手だったが何か意見らしい意見をいったという記憶はない。まあ国を代表しているのだからということなのだろう。ここにも道内や札幌の意見はまったく取り上げられてはいない。というよりも、聞く必要性を感じていない感が強い。
 新聞記事にある東京都民が反対するのはともかく、道内の意見に反対する声が多かったということをどう考えるべきなのだろう。かくいう私も余計な迷惑なイベントだと考えている。私はオリンピックに対して、安倍首相の「コントロール下にある」発言を契機として、ロゴの問題、新国立の問題など問題が起きる度に、気持ちをトーンダウンさせて来た。そして東京一極集中である。それが地方へくるならば良いのではないかとの意見があるかも知れないが、道民・札幌に対する意見も何も聞かない東京一極集中の人たちの報道姿勢にこれも嫌気がさして来ていた。何故?彼らは理解しようとしないのだろう。

 ネットでは、反対に声を上げ、SNSなどを使って、投票を呼びかける動きも出てきている。それはともかく、札幌市として、あるいは北海道として、反対か賛成の意見も聞いてみることも必要なのではないだろうか? もしかすると反対意見が多いかも知れないのである。今のあるいは前の札幌市長は冬季オリンピックの再招致を政策に上げてきたが、市民は反対意見が多数を占めていた事実もある。それは税金の使われ方の問題が最大の懸案だったからである。今回も東京オリンピックのために、札幌のあるいは北海道の予算が使われることになるのだろうが、多くの方が危惧を抱いている事実も見過ごすことはできないはずである。そのために、オリンピックが大変なことになるといった考え方は、それこそ大きな迷惑といわざるを得ない。(2019年11月6日記)

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079 ビットコインについて(2019年4月8日)


■”ビットコイン”という”仮想通貨(暗号通貨)”がある。何ものとも本位性はなく、投機的対象になることなどから、私は手を出そうとはまったく考えていないし、存在そのものに対して否定的な見解を持っている。仮想通貨自体は他にもあるが、ナカモト・サトシなる謎の人物?が発表した論文を基にして、2009年から運用が開始され、ビットコインが最初の仮想通貨となった。

 2014年、ビットコインの世界最大級の取引高を誇ったマウントゴックスがサーバーへのサイバー攻撃を受けて、顧客が預けていたビットコイン約75万BTCと自社の10万BTC及び預かり金28億円を失い、当時のレートで約500億円の損失が発生、結果としてマウントゴックスが破産した事件は、大きなニュースとなった。ところがこの話には落ちというよりも裏話がある。なんと、その後のビットコインの高騰により、破産した会社に残った資産が高騰し、被害金額を満額返金しても、144億円もの残余金が発生したという。しかし、実際に返されたとの情報が一部のネット上には出ているが、本当のところは分からない。そのこと自体も不思議な感覚を覚える。

 2018年には、ビットコインではないが、”ネム”という同様な仮想通貨の取引所であるコインチェックの580億円もの流出があったことは耳に新しい。いずれも仮想通貨自体が問題というよりも、その取り扱い業者のシステム不備が原因とされた。だが、ビットコインそのものの問題は、その投機的な価格の推移にあると私は考えている。

 マウントゴックス事件があったころは数十万円/ビットだった価格が、一時下がったものの2017年には230万円/ビットを記録した。しかしその後は、中国が規制を始めたことなどを要因として、40~50万/ビット前後に下がってしまった。ビットコインに好意的なトレーダーは反転暴騰を予言し、否定的な見方ではいずれ10万を切るだろうとみているが、直近では、少し値上がりしたとのニュースも流れている。

※※※※※※※※

■一つ前の号になるが、久しぶりに「文藝春秋/2019年3月号」を買ってきた。芥川賞受賞の二作が全文掲載されていたからである。あまり期待はしていなかったが、読んでみた。

 ●「ニムロッド/上田岳弘」
  途中までは期待して読み進んでいたのだが、後半はこちらの意識が埋没してしまった。私にはあまり評価ができなかった。


ただ、ビットコインのマイニング(採掘)に興味を覚えたため、この記事となった。データセンターに勤める主人公が、経営者に命じられ、余剰のサーバーマシンを活用してビットコインの採掘をする責任者になった物語だが、マイニング(採掘)がメインテーマではない。

 ●「1R1分34秒/町屋良平」
  読み出すと、「綿矢りさ」を思い出すようなめくるめく文章があり、期待して読み進んでいたが、そのような文章ばかりが余りにも続くため、読むのに耐えられなくなり、途中放棄をしてしまった。

 むしろ、今回も文藝春秋の価値は、それ以外の記事にあったようだ。特に気になった内容では、

 ●「AIの意思/養老孟司」
  AIが人間を超えるといった議論には「ばからしくて与(くみ)しない」との氏の主張だ。AIが生物のようになる可能性もないという。なぜなら「人工的に作(ら)れた細胞はないからです」という。これは、少し説明が必要と思える。氏が言っているのは、物理的な生物としての問題であり、巷で問題にされているのは、物理的な生物が問題なのではなく、生物に類する「意識」が芽生えることなのだから。「AIやコンピュータが邪魔になったら、人間がコンセントを抜いてしまえばいいのです」とも言っているが、さてどうでしょうか? 三歳児と五歳児に箱を見せて、質問をする実験の話は面白かった。

 三歳児と五歳児に舞台を見せて、舞台にはAとBの二つの箱を置いておく。そこでお姉ちゃんがやってきて、Aに人形を入れて、箱に蓋をしてからいなくなる。次にお母さんがやってきて、Aに入っている人形をBに移して、蓋をして、舞台からいなくなる。次にお姉ちゃんが再登場し、「お姉ちゃんはどちらの箱を開ける?」と質問します。

 すると、三歳児は人形がいまどちらに入っているかを知っているから「Bを開ける」と答える。三歳児にとっては、現在の自分の知識が全てであり、お姉ちゃんの頭の中がどうなっているかは考えないからです。しかし、五歳児だと、「お姉ちゃんは、お母さんが人形をBに移したことを見ていなかったから、元のAに入ったままだと思っているだろう」ということで「Aを開ける」と正解するのです。



文藝春秋
2019年3月号
 
 ●「二・二六事件『新資料発見』84年目の真実/半藤一利」
  高橋是清は、ドラマなどでも描かれることが多いが、総理大臣を勤めた後、岡田啓介首相の下で大蔵大臣をしていた際に、軍事予算の縮小を図ったことなどを理由として、自邸にて殺害された。二・二六事件である。その高橋是清邸を襲った隊を指揮していた中橋中尉のその後の動きについての新資料だった。

 松本清張の「昭和史発掘」の考え方では、高橋是清殺害後、中橋中尉らは宮城を占拠して、昭和天皇を担いで人心を一新する行動に出たとの見方をしていたが、どうも中橋中尉らの動きは、宮城を占拠ことは考えていなかったようだというものだ。二・二六事件を発生させた将校らの考え方は、自分らが蹶起さえすれば、昭和天皇は自ずから自分たちの思い通りに動いてくれるものと信じていた、それがその後の中橋中尉の「どんなに遅くとも、午前七時前には正門より宮城を出てしまっていたと推測できる」ことによって理解できたというものだった。これについては、事件の首謀者とされた「北一輝」関連を含めて、改めて触れてみたいと思っている。

 ●「石牟礼道子に捧げた我が半生/渡辺京二」
  『北一輝』や『逝きし世の面影』を書いた渡辺京二の先日亡くなった石牟礼道子との関わりが出てくる。しかし、パーキンソン病に罹っていたという石牟礼道子の「お化けや妖精を見る人なんです」の記述に驚いた。先日、NHKで「パーキンソン病」の特集を見ていたからである。パーキンソン病に罹った人の一つの症状として、「幻覚症状」が出ていたからだ。石牟礼道子は、パーキンソン病を原因としてお化けや妖精を見ていた可能性があったといえる。

※※※※※※※※

■「決定版ビットコイン&ブロックチェーン」
 岡田仁志(おかだひとし)/東洋経済新報社/20180426発行/\1,600+税/238頁
 
 2017年に資金決済法が改正され、仮想通貨は「物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合に、これらの代価の弁済のために不特定の者に対して使用することができ、かつ、不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの」と定義された。要するに、仮想通貨の取引サービスが同法による規制の対象となった訳である。逆に言えば、仮想通貨そのものの性質を正面から定義したものではない。

 
 ビットコインは、日本人とされるナカモト・サトシが発案者といわれているが、本当に日本人なのかも、生死も不明とされている。彼が提案した論文(https://bitcoin.org/bitcoin.pdf)が基になっているが、それを支えているのが、ノードと言われるインターネット上の約1万1千台の個人のPCで構築されたネットワーク上に保管された記録がベースとなっている。国際機関を含め、公的機関の保証は一切ない。ビットコイン自体には兌換性は一切ない。

 1万1千個のノートが常にONの状態であるとは限らないが、電源を入れ直して再びネットワークにつながったときに、休憩中に起こったすべての情報を受け付けるシステムになっている。常時、情報が保存されているサーバなどは、どこにもない。そこで行われているのが、「ハッシュ関数」を利用したマイニング(採掘)であり、最初にマイニングされたのがビットコインだった。

 ハッシュ関数とは、<どのような文字列を入れても、計算結果として64文字が帰ってくる関数>のことで、入力した文字列が1字でも変わると、計算結果はまったく別なものになるという。64文字のうち、最初の15文字がすべて「0」になったとき、マイニングが成功したとされ、それを得たPC(その持ち主)にビットコインが得られることになっている。

 マイニングを比喩すると、「鍋にかけたお湯に、
  その1としてトランザクションの束を流し込んで、
  その2として前のブロックの出汁の素を加えて、
  その3としてスパイスの量を変えながら何度も試していくうちに、ある量のスパイスをぴたりと当てた瞬間に、スープが固まって煮凝りになる

というようなレシピで説明できます。このとき、見つかったスパイスの分量のことをノンス(任意の数)と呼びますが、採掘家(マイナー)というのは、このスパイスの任意の量を見つけるまで、何度も同じ調理を繰り返して試みるわけです。」となるという。

 ビットコインのノードは世界中に1万1千個程度しか存在しないが、ビットコインのウォレット(財布)を持っているユーザーが世界にどれぐらい存在するのかは分からない。数に制限がないので、数万人、数十万人が参加しているとも言われている。また、マイニング(採掘)をする人(業者)をマイナーとも呼ぶ。



決定版
ビットコイン&
ブロックチェーン
岡田仁志著
東洋経済新報社

 ビットコインはSuicaなどの電子マネーとは異なる概念だ。電子マネーは端末を利用して、円などの紙幣や硬貨をチャージすることにより、電子的な決済が可能となるものだ。それは、あくまでも紙幣や硬貨をやりとりをしていることに変わりがない。電子マネーの情報は、サーバーに保存されているため、仮にSuicaを無くしても、復旧できる可能性がある。一方、ビットコインは、端末にチャージをするというものではなく、使用するためには円などに両替をしなければならない仕組みになっている。通貨そのものといえるが、円と同様にドルなどに対してもその価値が推移する。しかも乱高下が投機的推移をみせる特徴がある。そして、無くしたり、所有を証明する”秘密鍵”を失ったり忘れたりすると復旧する術はない。

 世界では、現金が姿を消すという社会現象が相次いで起こっている。上海の街角では、スマートフォンでQRコードを読み取って支払うモバイルペイメントがすっかり定着、アフリカではケニアのMペサが圧倒的なシェアを持ち、ほかのアフリカ諸国でもモバイル決済に成功の兆しがみえているという。

 スウェーデンでは現金お断りの店が増え、国民が紙幣を持たなくなったらしい。日本政府は躍起になっているようだが、世界に冠たる電子マネー大国にまで成長した日本では、容易には現金化できない電子マネーが現金に置き換わることはないと筆者はみている。携帯電話と同じように、客を囲い込むために”特定の決済にしか利用できない電子マネー”がガラパゴス化してしまった日本では、皮肉なことに現金の温存に電子マネーが一役買っているといえる。

※※※※※※※※

■暗号が通貨(カネ)になる「ビットコイン」のからくり/吉本佳生・西田宗千佳/講談社/ブルーブックス/20140520第1刷/270頁/\900+税

 少し古い本だが、ビットコインなどの仮想通貨に非常に好意的な本といえる。マイニングなどビットコインの説明は、「決定版ビットコイン&ブロックチェーン」を読んでいれば、十分だが、この本ではなかなか本論が出てこないところが気になる。仕組みの説明は細かく分かり易い。

 筆者は、「クレジットカードとは強力なライバルになりますが、クレジットカードの手数料(とりわけ店側か負担する手数料)は高すぎたともいえます。その根本原因はセキュリティの脆弱さにあります。情報技術面の安全性が高いビットコインが、少額の国際決済での優位性を武器に成長しつつあるのは、必然といえます」と記したが、ビットコインの安全性がいかに高かろうとも、そのシステムに問題があったマウントゴックスやコインチェックの事件が起きるとは予想していなかったようだ。


 フリードリヒ・A・ハイエクが書いた『貨幣発行自由化論』では、「どの国で発行される通貨であっても自由に使ってよい」と記されているが、”ユーロの失敗”から、その正しさを取り上げている。ハイエクは、「複数通貨の自由競争というプロセスこそが大切」としたが、そこには中央銀行に対する不信感があったからだ。筆者は、そうならば、円だろうがドルだろうがビットコインだろうが、複数硬貨が自由競争をするメリットを上げている。

※※※※※※※※

 ネット上では、”マイニングをするPC”が今でも売りに出ている。マイニングでは、コンピュータにおける中心的な演算装置である”CPU”よりも、画像処理を専門とする”GPU”の性能が優先されるため、高機能なGPUを何台も並べた異形のPCがある。英国ケンブリッジ大学のケンブリッジ・センター・フォー・オルタナティブ・ファイナンス(CCAF)は、世界の仮想通貨の統計を集めた白書を発表しているが、ビットコインの採掘工場の分布を記した世界地図を見ると、中国北部の黒竜江省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区といったロシアやモンゴルと国境を接する地域に採掘工場が集中していることが分かる。四川省、貴州省、雲南省などにも採掘工場が点在しており、中華人民共和国内に多くの採掘工場が分布している。電気代や土地代、税制面などがその優先事項だったが、これは過去のことになったかも知れない。

 中国当局は2017年にICO(仮想通貨を集める形式の資金調達)を禁止し、ビットコイン(仮想通貨)取引所を実質的な閉鎖に追い込んだため、多くのマイニングマシンが廃棄されたという。マイニング自体の成功度も年を追うごとに下がってきている。それは、ビットコイン自体に”元々仕組まれていたシステム”も要因としている。逆に言えば、価格が上がらない限り、ビットコインを維持するのは難しくなっている。

 マイニングが難しくなったビットコインから、マイニングが容易といわれる”派生コイン”に移る動きも出ているが、肯定的な見方をする人は、期待感を込めてみている。しかし、それらの派生コインの存在は、不安定要因を証明するものに他ならない。いかようにも変化する可能性があるからといえる。

 人が働いて得る労働対価を保証するものがビットコインのような投機の対象となることに憤りを覚える。同じように、金融資本主義が生んだハイエナたちがむしり取る異常な報酬と労働対価が同じであるはずもない。彼らが得る対価は労働で得たものではないからである。その末路は、カルロス・ゴーンが示している。マイニング自体は、かつての金やダイヤモンドの発掘に似た作業ともいえる。しかし、その作業を延々と繰り返すのが人間ではなく、膨大な電気を使った人の手を離れた機械ということに現代の不合理が垣間見える。


暗号が通貨になる
ビットコインの
からくり
吉本佳性
西田宗千佳








アマゾンで
売られていた
マイニングマシン
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078 2019年 年頭所感(2019年1月14日)


■一国の首相が外遊に行く際、あるいは帰ってきた際に、隣でにこやかに手を振る女性に違和感を覚えることは滅多にあることではないだろう。本人の意識はいざ知らず、関係した人が司法の取り調べを受けたり、訴追はされなかったがその職を失ったり、実務として動いていた女性が異例の海外勤務となったり、忖度かどうかは不明だが、その命を全うせざるを得なくなった方がおられることに、あの笑顔はどう答えているのだろうか? その隣に立つ御仁の不明はいかばかりと思うのだが、何らの感傷も感じることができない。そのような人物に、この国の憲法改正などという命運を任せようと思える人々の見識を私は疑っている。

■「佐伯啓思(けいし」、
 保守の論客という触れ込みだが、時々、的外れと思うことがままあったが、数年前から朝日新聞に「異論のススメ」という論説を連載している。朝日としては、保守系と言われる人の意見も掲載しておこうということなのだろうが、経済思想的にケイジアンに立脚しているのは、英国に学んだ経歴からなのだろうか? その前後関係は今は意味をなさない。

 朝日新聞の2019(平成31)年1月11日朝刊の「異論のススメ」を読んだが、平成の30年を振り返ると「失敗を重ねた『改革狂の時代』だった」と結論づけている。ほとんど異論を感じなかった。

 引用させてもらう
--------------
 元号が昭和から平成に替わったころ、私は在外研究で英国に滞在していた。日本経済はまだ「向かうところ敵なし」の状態で、英国経済の再生の実感はなく、サッチャー首相の評判はすこぶる悪かった。ちょうどそのころ、社会主義国から西側への「脱出」が始まり、ベルリンの壁崩壊へと続く。当然ながら、英国でも、社会主義の崩壊という歴史的大事件がもっぱらの開心事であった。

 日本人の研究者やビジネスマンたちが集うとよく日英比較論になった。ほとんどのビジネスマンは、日本経済の盤石を強調し、この世界史の大混乱のなかで、経済は日本の一人勝ちになるといっていた。だが私はかなり違う感想をもっていた。

 日本経済がほとんど一人勝ちに見え、日本人がさして根拠のない自信過剰はなる、そのことこそが日本を凋落させる、と思っていた。賛同してくれるものもいたが、あくまで少数派であった。確かに、英国経済の非効率は生活の不便さからも十分に実感できた。しかし、その不便さを楽しむかのように、平穏な日常生活や、ささやかな社交の時間を守ろうというこの国の人の忍耐強い習慣や自信に、私は強い印象を受けていた。

 一方、にわか仕込みの金満家となった日本人はといえば、ヨーロッパの町々で大挙してブランド店に押し寄せ、かの地の人々の失笑を買っていた。確かに英国の中産階級の若い者など、ほとんどブランド品に関心をもたず質素な生活をしていた。


 しかし、私には、仲間が集まっても、ほとんど狭い専門研究の話か仕事の話しかしない日本の研究者やビジネスマンよりも、この世界史的な大変化の時代にあって、英国はどういう役割を果たすのか、といったことがらに、それなりの意見をもってい各英国の「ふつう」の人々に、何かこの国の日には見えない底力のようなものを感じていたのである。

 そして帰国したころにバブルは崩壊し、経済は急激に失調するとともに日本人はまったく自信喪失状態になった。そうなると、われわれはすぐに「外国の識者」の助言を聞きたがる。また無責任に口をだしてくる、(大半が)米国の知識人がおり、それを重宝がる日本のメディアがある。何が日本をこうさせたのか、と悪者探しが始まる。こうなれば「問題」は次々とでてくる。

 かくて、官僚システム、行政規制、公共事業、古い自民党、既得権益者、郵政事業、日本型経営、銀行などが次々とやり玉にあげられ、「改革」へとなだれ込んだ。やがて「改革なくして成長なし」といわれ、日本経済の低迷の理由はすべて改革の遅れにある、という言説が支配する。驚くべきことに30年たっても同じことが続いているのだ。まさしく「改革狂の時代」というほかないであろう。(引用終わり)
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■あの無責任な小泉改革の時代、「規制改革」を叫んでいた人たちは、未だに政権の中に生き残っているようだが、何も無かった「大量破壊兵器」を理由に中東を混乱に貶めてしまった反省は何も聞こえてこない。規制改革の結果が、諸官庁による各種の統計等のデータ不正や障害者雇用率の水増しなどに繋がっているとは思えないが、何か問題が起きる度に、マスコミは規制を求めることに対する答えにもなっていない。むしろ「モリカケ問題」に見られるように、規制を緩和する目的が、緩和をすることによって利益を受ける人への利益誘導になっていまいかとの危惧すら感じさせられる。

 再び、引用するが、
--------------
 それで、その結果はどうなったのか。平成が終わろうというこの時点でみれば、これらはことごとく失敗に終わったというほかない。

 情報・金融中心のグローバル化は、リーマン・ショックに見られるきわめて不安定な経済をもたらした。その帰結がトランプの保護主義である。また、グローバリズムは、はげしい国家間競争を生み出した。その帰結が、中国の台頭と米中の「新たな冷戦」である。

 自由と民主主義の普遍化という米国の戦略は、イスラム過激派との対立をうみ、しかもその米国の民主主義がトランプを大統領にした。冷戦終結の産物であるEUは、いまや危機的状況にある。

 

ITからAIや生命科学へと進展した技術革新は、今日、無条件で人間を幸福にするとは思えない。むしろいかに歯止めをかけるかが問題になりつつある。

 これが、冷戦以降の30年の世界の現実であろう。日本はといえば、政治改革が目指した二大政党制も小選挙区もマニフェストもほぼ失敗し、行政改革が官僚システムを立て直したとは思われず、経済構造改革にもかかわらず、この30年は経済停滞とデフレに陥ってきた。大学改革も教育改革もほとんど意味があったとは思われない。米国への追従とグローバリズムへの適応を目指す「改革」はおおよそ失敗したのである。(引用終わり)
--------------

 
朝日新聞 2019年1月11日 朝刊より

■「モリカケ問題」は、国内の一部の人への利益誘導だったが、結局、大きな流れとして、アメリカのグローバリズムを「正義」とする、あるいはその影響から政治的・経済的・思想的に「対抗し得なかった日本政治の未熟さ」がこの30年を演出してきたのではなかったのだろうか。それが、昨年のアメリカ上下院選挙結果を受けて「歴史的な勝利」とトランプに対しておべっかを使った一国の首相の恥ずべき発言に繋がっているのだろう。彼は今回も、沖縄での「サンゴ移植問題」で低レベルの認識を示してしまった。

 同じ朝日新聞2019(平成31)年1月7日の朝刊では、「進歩と変化 科学の30年」という記事もあった。「地球環境問題」を中心として、二酸化炭素やフロン、熱帯林などの話題がたびたび紙面に登場したことが記載されている。日本人宇宙飛行士は現在12人いるそうだが、宇宙開発における日本の活躍や、国際的にも「神の粒子」と呼ばれたヒッグス粒子の発見、アインシュタインが存在を予言した「重力波」の初観測、宇宙望遠鏡「ケプラー」による約2700個もの太陽系の外惑星発見などがあった。ちなみにケプラーは2018年にその運用を終えた。

 そして、国内における大きな自然災害が相次いだことが記憶に新しい。1991年の長崎県の雲仙・普賢岳で大火砕流、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災を忘れることはできない。その後の九州熊本や北海道胆振東部の地震は、その爪痕が未だに大きなものとなっている。特に、大きな地震が起きることはないといわれていた関西地方での大地震や、「安全神話」の中で対策がなおざりにされていた「原発問題」は、現在でもその認識が周知されているとは到底思えない状況にある。一国の首相が恥ずかしくも無く「コントロール下にある」と発言した真意はどこに、否、何も考えていかった、あるいは考えていないとしかいわざるを得ないだろう。

 中国における問題は多々あるが、昨年のゲノム編集で受精卵の遺伝子を改変して双子を誕生させたと公表した事件にも驚いた。発表した本人の意識の低さにも唖然とさせられた思いがした。まあ、あのアメリカの大統領や日本の首相の姿のお粗末さを思い浮かべれば、どの人たちもそれほどではないような気もするのが今の世界情勢なのだろう。



朝日新聞 2019年1月7日 朝刊より
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077「動的平衡1・2/福岡伸一」(2015年10月12日)

動的平衡/福岡伸一/木楽舎
/20090225第1刷/254頁/\1,524+税

 日本の首相が国連総会で演説をしても、本人の意気込みに関わらず、席には空席が目立つのはいつものことだが、記者会見での発言には驚いた。「日本がシリア難民を受け入れる可能性は?」との質問に対する答えのことだ。「(難民受け入れは)人口問題として申し上げればですね、いわば我々は移民を受入れるよりも前にやるべきことがある。それは女性の活躍であり、あるいは高齢者の活躍であり、そして出生率を上げていくには、まだまだ打つべき手があるということでもあります」と語ったのだ。

 「女性」と「高齢者」を活用するのが最優先であり、「難民」を受け入れるつもりはないとのことだが、余りにも国際感覚が欠落した頭の持ち主といえる。かつて、日本は金を出すだけと非難されたことを一つの根拠として安保法制を進めたようだが、結果的に難民問題もお金を出すのみとなってしまった。「積極的平和主義」なる彼の唱え文句も空虚に響く。基本的なことを理解していない御仁を首相にしてしまった私たち国民の責任は大きい。難民問題が人口問題などではないことが分かっていないようだ。安保法制の際の国会答弁でも、質問には答えず、持論を繰り返し木訥と語るだけだったが、図らずも国際の舞台で、その羞恥を改めて晒してしまったといえる。程度が知れよう。

 閑話休題。私はどちらかというと民放のテレビを見ることが少ない方だと思う。それは、著名(?)なコメディアンなどの名前を冠した番組やお笑い芸人ばかりが出てくる詰まらなく興味が沸かない番組を見る気が起きないこともある。たまたまその番組に行き当たったとしても、途中で耐えられなくなってしまうのが常になっている。また、CMがどうも煩わしく、CMが始まるとチャンネルを変えてしまうことが多い。勢い、NHKやケー


ブルテレビのドキュメンタリーなどを見る機会が多くなってしまう。

 特に、登山のドキュメンタリーを見るのは大好きで、エベレストを初めとする世界の名峰のほとんどを制覇した気になっている。テレビで見る登山には、あの煩わしい虫の気配や、寒さや危険、そして辛い労苦や疲労が全くないからである。ビールを飲みながらでもマッターホルンに登った気になってしまうのである。山頂に登った達成感と広大に広がる美しい景色は、何ものにも代えがたい。とはいえ、ケーブルテレビにも、民放ほどではないがCMもある。そして、何故か健康食品系や美容系のCMが多いのは、ターゲットの年齢層が高いせいなのだろう。

 例えば、コラーゲンの摂取ができるという謳い文句の健康食品のCMがある。年齢を重ねることによって、細胞と細胞の間隙を満たすクッション材の役割を果たす重要なタンパク質である。「低分子化」コラーゲンといったものまであるが、肌の張りを支えているともいえるコラーゲンだが、食品として摂取してもコラーゲンとして体内に吸収されることはあり得ないという。衝撃を受ける御仁も多いことだろう。ほとんど無駄な健康食品にお金を費やしていることになる。

 食品として摂取されたコラーゲンは、消化管内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸として消化され吸収される。コラーゲン自体は、効率よく消化されないタンパク質であるが、消化できなかった部分はそのまま排泄されてしまうのである。摂取されたコラーゲンは、アミノ酸として血液に乗って全身に散らばっていき、新しいタンパク質の合成材料になる。すなわち、コラーゲン由来のアミノ酸は、必ずしも体内のコラーゲンの原料とはならないのである。ここが重要なポイントなのである。



動的平衡
福岡伸一
木楽舎


 皮膚がコラーゲンを作り出すのは、皮膚の細胞が血液中のアミノ酸を取り込んで必要量を合成するだけなのである。コラーゲンをいくら低分子化しようとも、どれだけ摂取したとしても、残念ながら体内のコラーゲンを補給することにはなり得ない。生命は、ミクロ的な部品からなるプラモデルのように捉えることはできないと著者は語る。生命はそのような単純な機械論を遙かに超えた、「動的な効果」として存在しているのだ。

 コラーゲン配合を謳った化粧品もあるが、コラーゲンが皮膚から吸収されることもあり得ない。もし、コラーゲン配合の化粧品で肌がツルツルになったとしても、それはコラーゲンの効果によるものではなく、肌の皺をヒアウロン酸や尿素、グリセリンなどの保湿剤で埋めたということに過ぎないのである。それは、コラーゲンに限らない。巷に溢れている健康食品等の効果は、限りなくゼロに近いといえるのだろう。そのような訳で、私は健康食品等のCMも耐えられなくなってしまった。もちろん、購入して飲用したり使用することも今ではなくなってしまった。

 私たち人間は、一日に60グラムのタンパク質摂取を必要としているが、糞中に排泄されるタンパク質は約10グラムだという。だからといって、人間は差し引き50グラムの食品タンパク質を消化管から吸収しているわけではない。生命現象はもっと複雑なメカニズムになっている。私たちが食物を摂取すると、脾臓から一日あたり60~70グラムの消化酵素が流れ出てくるのだが、糞中に排泄される10グラムのタンパク質は、食品からの60グラムと消化酵素70グラムの壮絶なバトルの残滓だというから凄い。

 食物は、口から胃、小腸に移動していく間に消化酵素によってアミノ酸に分解されていく。消化器官内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのか、消化酵素だったのかは見分けがつかない。私たちは、食


べ物と共に私たち自身をも食べているともいえる。

 コラーゲンを食べても美肌に何らの影響を及ぼすこともないが、だからといって何を食べても同じという訳ではない。アミノ酸は20種あるが、人においてはバリン、ロイシン、イソロイシンなど9種のアミノ酸が必須アミノ酸となっている。必須アミノ酸とは、動物が自分の体内で製造できないもののことであり、体内で製造できるものを非・必須アミノ酸という。コラーゲンは非・必須アミノ酸なので、体内で製造できるのである。必須アミノ酸をバランス良く含んでいる食材が、即ち「身体にいい」食べ物ということになる。栄養面からみると、最優等生の食材は鶏卵や魚を丸ごと食べることであり、必須アミノ酸をほとんど含んでいないのがトウモロコシだという。

 同じことがサプリメントなどにもいえる。栄養素の所要量は、一日あたりカロリーベースで2000キロカロリー程度といわれているが、普通の食生活をしている日本人であれば、不足する栄養素はほとんどない。しかも、ほとんどの栄養素は程度の差こそあれ貯蔵可能だという。たとえ多い日や少ない日があったとしても、平均した摂取が行われていれば、収支は維持されるのだ。しかし、ここで貯蔵できない栄養素がある。それがタンパク質だというのだ。タンパク質の合成と分解、それを維持するために生命活動が続いていることになる。

 一方、ハードな運動を長時間やると多量のエネルギーが必要になる。運動をすると私たちの身体は筋肉中のタンパク質を分解して、アミノ酸に変えてどんどん消費する。筋肉中のタンパク質に含まれるアミノ酸が先に述べた必須アミノ酸だが、そのうちBCAA(分岐鎖アミノ酸:バリン、ロイシン、イソロイシンの3種類の必須アミノ酸のこと)は筋肉そのもののエネルギー源となっていて、身体全体のエネルギー源ともなるブドウ糖が不足するときにも消費される。



動的平衡2
福岡伸一
木楽舎

 激しいスポーツをすると筋肉痛になるが、これは筋肉中のアミノ酸が大量に消費されて生じた損傷の修復時に起こる現象だ。そんなときは、早めにBCAAを摂取すると早く改善され、筋肉は以前よりも強化されるという。サプリメントの摂取方法を考え直すべきなのだろう。言い換えれば、日常的にサプリメントを摂取する必要はないわけだ。さらに、BCAAは肉・魚・卵・大豆製品などに多く含まれているので、それらをしっかり食べさえすれば、サプリメントは不要ということになる。

 私たちが食物として口に入れる肉、魚、穀物、果実であろうとも何であれ、すべて元は他の生物の身体の一部であったものだ。たとえ菜食主義者を標榜したとしても、それらの食物が時間をかけて葉や根、実に貯蔵したタンパク質を口に入れていることになる。タンパク質には、元の生命体を構成していたときの情報がぎっしりと書き込まれている。タンパク質自体は、アミノ酸がいくつも連結した高分子化合物であるが、人が口にすることによって、食いちぎられ、咀嚼(そしゃく)され、消化管に送り込まれ、消化酵素によって分解されアミノ酸となる。

 もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれることがあれば、その情報は、私たちが持っている情報と衝突し、干渉し合い、さまざまなトラブルが引き起こされる。アレルギー反応やアトピー、あるいは炎症や拒絶反応とは、すべてそのような生体情報同士のぶつかり合いのことである。そのため、生命体は口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体するのである。これが消化である。まさに、人間の原形が一本の管、口と肛門があるチューブが貫いている存在、「人間は考える管」ともいわれる所以である。


 生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうると明らかにしたのが、1930年代にアメリカに渡ったユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーだった。シェーンハイマーは、食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにして、それを「動的平衡」と呼んだ。

 生体を構成している分子はすべて高速に分解され、新たな分子と置き換えられ、生体そのものが更新され続けているのである。私たちの身体は、分子的な実態としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっているといえる。生命は「流れ」の中にあるのである。

 草食動物である牛に、人為的に食物連鎖を組み換えて、こともあろうに同種の動物の肉を肉骨粉として与えたために発生した牛の病気が「狂牛病(牛海綿状脳症)」である。事実上の「共食い」を犯した結果、生まれた牛の病である。それは、羊の風土病だったスクレイピーが、食物連鎖の組み替えを伝って牛に広がったイギリスの病気が最初だった。感染源は肉骨粉だと特定されると、イギリス政府は国内禁止とした肉骨粉を国外へ販路を求めることに黙認する。三角貿易で中国にアヘンを売りつけた国のやることである。

 狂牛病がアメリカやカナダ、そして日本にも飛び火したのはそれが原因である。しかも、アジア諸国にも輸出している可能性が高いという。確かに下火となったかに見える狂牛病だが、その原因となったのがタンパク質からなるプリオンとされているが、未だ定説とはなっていない。狂牛病自体には、治療法はなく、人に感染するといわれるクロイツフェルト・ヤコプ病も同種の病とされている。



もう牛を食べ
ても安心か
福岡伸一
文藝春秋社
文春新書416
        

 患者に接触しただけでは伝染することはないが、頭部手術の際の縫合に使用された乾燥硬膜を介して、クロイツフェルト・ヤコプ病が伝染したことは広く知られている。医者が治療に使用するものを患者が判断する術は、患者にはほとんどない。まさに安全であるという保証は何もないことになる。同様に、アメリカ産の牛肉は、未だ危ないレベルにあると私は思う。

 同じような話に、アメリカ産の遺伝子組み換え技術がある。品種改良と遺伝子組み換えは同じ事だという人もいるが、著者はそれを否定している。人類が時間をかけて、安全性を確認しながら、昔から営んできた自然に対する技術である品種改良と、効率的にピンポイント的にやってしまった遺伝子組み替えはまるで違うという。時間による試練と選別を潜り抜けてきた品種改良に対して、時間を切断して反作用の行方を見極めていない遺伝子組み換え技術の危うさを指摘している。私たちが時間をかけて、動的平衡を確かめながら、安全性を確認してきたのが品種改良なのだ。

 TPPが基本的に合意されたとの報道が伝わっているが、狂牛病と同様な事件の可能性が潜在的に拡張する可能性を私は危惧している。TPPを肯定する人たちは、その経済効果を盛んに唱えるが、このような問題を孕んでいることを忘れてはならない。嘆かわしいことに、経済効果を唱える人たち一部は、さらに武器輸出までも推進しようとしている。それが積極的平和主義なるものだというのならば、佐伯啓思が図らずも書いた「冷戦は冷たい戦争であったと同時に『長い平和』でもあった(朝日新聞2015年10月2日)」といった、対立軸でしかものを考えられない人たちの論理のすり替えにすぎないであろう。「平和」とはそのような次元のものではない。

 そして、農業や畜産業の衰退を心配することも重要だが、農


業や畜産業が変わっていくことによって、日本の国土が荒廃していくことが、より問題だと私は考えている。日本の国土は、開発によって保持されている部分もあるが、その大部分は自然によって保全されているからである。国を守るということは、戦力における武器抑止力を高めることと同義ではない

 生命は絶え間ない流れの中にある。脳細胞は一度完成すると増殖したり再生することはない。しかし、脳細胞を構成している内部の分子群は、常にリフォームが繰り返され、建設当時に使われていた建材など何一つ残ってはいない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬をみれば全体として緩い秩序を持つ分子の「淀み」だという。それは因果関係などではなく、平衡状態があるに過ぎないのだ。私たちが記憶と呼ぶものも、脳のどこかに納められているビデオテープのようなものではなく、想起した瞬間に作り出された「何ものか」なのだ。記憶にある過去とは、現在、感じているものでしかないのだ。

 その「何ものか」は、物質的な存在ではない。それは著者によると「細胞の外側」にあるという。細胞(ニューロン)と細胞は、シナプスという連携を作って互いに結合して神経回路を形成しているが、回路のどこかに刺激が入ると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わり、いわばイルミネーションのように順番に神経細胞に明かりがともり、それらの刺激の結果として形成されるものだという。

 「脳を動かしているのは脳でなく、心なのである」と松岡正剛は、千夜千冊461夜「脳と心の正体/ワイルダー・ペンフィールド」で書いているが、心も物質的な存在と捉えることはできない。私も、「2045年問題-コンピュータが人類を越える日」では、「インターネットが心を持つ可能性」に触れたが、それはガイア思想における「地球自体の心」についてもいえることである。


2045年問題
-コンピュータが
人類を越える日-
松田卓也
廣済堂

 心がどこにあるか? あるいは、心とは何か? 地球が心を持っているか? 仮に地球に心があるとしても、決して人間には理解ができるとは思えない。それは、今現在においても、ネットワークが心を持ち始めているかどうかが、人間には理解できないことと同じなのだろう。そして、自然そのものも私たちが理解できないところにあるのかも知れない。

 2015年10月4日に放送されたNHKスペシャル「火山列島 地下に潜むリスク」を見たが、約6~7千年年毎に日本列島では「カルデラ噴火(破局噴火)」に襲われているという。仮に阿蘇山がカルデラ噴火を起こすと、火砕流が約10分程度で約100km離れた福岡市に達するという。約4万年前に発生した北海道の支笏湖におけるカルデラ噴火では、100km3にも及ぶ大量の火山灰を噴出、太平洋に流れていた石狩川を、現在のように日本海に迂回させる流路に変えてしまった。そして、地球という歴史の中では、カルデラ噴火自体、決して珍しいことではない。

 日本列島における直近のカルデラ噴火は、7300年前の鹿児島県南方の鬼界ケ島(薩摩硫黄島/鬼界カルデラ)で発生したものだが、南九州の縄文人が絶滅したという。東日本大震災に恐れおののいた私たちだが、自然の驚異を改めて考え直さなければならないといえる。そして、自然の猛威に襲われた場合、確実に制御不能となる原発は、それ自体が私たちに不幸を及ぼすものでしかないのが現実である。そんな単純なことを理解できない人たちがいること憤りを覚える。自然の驚異は、私たちの予想を遙かに超えたところにあることは、今や誰も否定できないはずなのに。

 さて、来週(2015年10月13日)から、2009年に続いて、再び、日本一周/車中泊の旅に出かけることとした。約2ヶ月間の予定で、日本の自然を体感してきたいと考えている。追って、記録を上梓する予定だ。


九州と鬼界ヶ島 (GoogleMapに追記)
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076「ブレトン・ウッズの闘い(ケインズ、ホワイトと新世界秩序の創造)」/ベン・ステイル(2015年9月28日) 

ブレトンウッズの闘い
/ケインズ、ホワイトと新世界秩序の創造
/ベン・ステイル/小坂恵理訳/日本経済出版社
/20140825第1版1刷/567頁/\4,600+税

 2015年9月に開かれたG20財務相会議で、日本から参加した麻生財務相が「充分に予防策を講じなかった上、経済減速と株式市場の波乱を通じ、世界経済に脅威をもたらす」と中国を批判した。国内の主要新聞等は、諸外国も概ね同調したかの雰囲気の記事を伝えていたが、インターネットで海外のニュース(日本語版)などを見ると、その批判に対して、諸外国が不満や憤慨を表明した、あるいは日本が孤立したとの記事が目立っていた。

 ドイツ代表団は「日本財務相の発言は大きな怒りを招いた」と表明、EU代表団からは「遠い戦争時代の幽霊を復活させた」といった発言もあった。「中国は依然として6~7%の経済成長率を維持しているのに対し、日本は経済衰退に陥ったままではないか」という記事まであったが、日本のように成長した国家と発展途上の国家の数値を比較するには無理があるだろう。いずれにしても、諸外国の批判の矛先が中国ではなく、日本に向けられていたのだった。マスコミの報道姿勢の問題もさることながら、一緒に参加していた黒田日銀総裁は、何のフォローもできなかったのだろうか?

 違憲立法である安保法制をごり押しした安倍政権だが、次回の内閣改造においても、諸外国から総スカンを食ったような人物を留任させるとの情報も漏れ聞こえてくる。新国立競技場の問題でも、役人の責任者だけの尻尾切りを行った無責任な文部大臣をまさか留任はさせないだろうが、記者会見などを見ていても、何故、こんな人物を大臣にしたのか疑問を感じざるを得ない。国際的な問題よりも、道徳や教科書問題が最

優先課題と考えているからなのだろう。違憲問題は、今後、司法の手に委ねられることになるのだろうが、またぞろ司法の人事に手を伸ばし始めるのが目に見えている。

 最新のニュースでは、第三者委員会の報告を受けて、文部大臣がやっと辞意を漏らしたとのことだが、安倍首相は10月の内閣改造までの慰留を求め、本人も同意したらしい。何故、すぐに交代させないのだろうか? 「お友達」に傷を付けたくないという配慮が働いているとしか思えない。

 視点を国際問題に変えて、時代を遡りたい。1971年8月15日、アメリカ合衆国大統領・リチャード・ニクソンは、諸外国に一切の連絡をせず、それまで固定比率(1オンス=35ドル)で行われていた金との兌換を一時的に停止すると発表した。ニクソン発表の10分前に、ロージャーズ国務長官から電話連絡を受けた佐藤首相は、大蔵省と協議、既に開いていた市場を開放し続けるか閉鎖するか判断に迷う中、日銀はドルを買いを続けた。1ドル360円の固定相場制が崩壊、8月28日には変動相場制に移行した。その状態は現在も続き、円の上下によって経済が大きく揺さぶられる現実が日常となっている。

 「ニクソン・ショック」と呼ばれるこのアメリカの政策転換は、その後の世界経済の基幹を大きく変えた事件だった。それまでは、金との兌換が可能であった唯一の基軸通貨がドルだったのだが、兌換可能な通貨がなくなってしまったことにより、「ドル・ショック」とも呼ばれるようになった。アメリカが、兌換可能な金の保有量を超えるドルを発行してしまった結果、招いた事態でもあった。「金=ドル」という通貨体制、すなわち「ブレトン・ウッズ体制」が崩壊したのが1971年のことだった。



「ブレトンウッズの闘い」
-ケインズ、ホワイトと
新世界秩序の創造-

ベン・ステイル著
小坂恵理訳
日本経済新聞出版社


 その27年前、1944年、第二次世界大戦の後半、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトンウッズで45カ国が参加して開催され、締結されたのが「ブレトン・ウッズ協定」だ。この協定において、IMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行)が設立された。拡大した戦線が崩壊、日本本土が大空襲で苦しむ中、日本がまもなく降伏するであろうとの前提で開かれた、戦後の世界経済の安定を目的とした協定であった。日本の知らないところで、1ドルが360円の固定相場制が決定された。しかし、その決定がその後の日本の高度成長を実現する原動力となって行く。また、同時に世界経済も安定した回復基調を成し遂げたため、国際社会による洞察力と協調性に富んだ経済改革の代名詞としてブレトン・ウッズ協定を語る人も多い。

 ブレトンウッズにおける中心人物は、イギリスがジョン・メイナード・ケインズ男爵、アメリカはハリー・デクスター・ホワイトだった。ケンブリッジの学者の御曹司として召使いにかしずかれて育ったケインズだが、1883年に生まれた。マクロ経済学の産みの親として、現在もあまねく知られているが、その学派は「ケイジアン」とも呼ばれている。一方、ホワイトは1892年にユダヤ系リトアニア移民の息子としてボストンで生まれた。

 労働者階級の家庭に育ったホワイトだったが、第一次世界大戦に従軍後、コロンビア大学に入学して経済学を学び、ハーバード大学で博士号を得た。その後、財務省で官僚として働き始めたが、ホワイトが公務員として正式に採用されたのは、ずっと後のことだった。ホワイトが頭角を現し始めるのは、ルーズベルトの信任が厚かったが、あまり優秀とはいえなかったモーゲンソー財務長官が補佐役を必要としていたからだった。ホワイトは、財務次官補まで登り詰める。ホワイトには傲慢で高圧的な一面があったが、あくなき行動力と優れた政策立案能力から敬意が払われるようになっていった。

 しかし、ホワイトはソ連への情報提供者でもあった。ルーズ


ヴェルト亡き後のトルーマン大統領は、ブレトン・ウッズ協定で設立されたIMFのトップである専務理事にホワイトを起用しようと考えていたが、その事実が知られるようになると、財務次官補から転出していたホワイトをIMFの常務理事に止めおくことにした。下院非米活動委員会で、ソ連スパイとしてホワイトを追求したのがニクソンだったのもその後の歴史の皮肉を示している。ホワイトは、ブレトン・ウッズ協定の4年後、1948年、自分の農場で心臓発作により死去した。55歳だった。自殺だったとも、ソ連による謀殺だったともいわれているが、本書では病死と判断しているようだ。

 ブレトン・ウッズ体制以前、1941年11月、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、アメリカから日本側に提示されたコーデル・ハル国務長官が示した覚え書き、通称「ハル・ノート」では、日本軍の仏印・中国からの全面撤退などが盛り込まれていた。それをアメリカの最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃に向かったという見解がある。一方、それ以前から日本は戦争開始に向けて動いていたとの見方もあるが、その真偽はともかく、ハル・ノートの原案となったものを起稿したのが、ホワイトであった事実は変わらない。しかも、それはスターリンの差し金だったという証言もある。GRU軍事諜報部の元大佐で第二次世界大戦の「ソ連の英雄」だったウラジミール・カルポフの、真珠湾攻撃から60年近くたった2000年の記述によるものだ。その計画は「スノー作戦」と呼ばれていた。スノーとはホワイトを指す言葉だった。

 かつて、1920年代には地球上の領土の1/4を支配していたイギリスは、アメリカの台頭により急速に政治及び経済においても没落しつつあった。第一次世界大戦直前、政府債務の対GDP(国内総生産)比率が29%だった国が、第二次世界大戦が終わる頃には240%にまで膨れ上がっていた。イギリスが戦争を生き延びるためにはアメリカに魂を売るしかなかった。その物語が、ブレトンウッズというドラマの核心であるとまで本書は書いている。



ハリー・デクスター・ホワイトの手書きによる「未来の政治経済の形」の冒頭
  (本書 P.449 引用)

 本書のタイトルは、「ブレトンウッズの闘い」ではあるが、闘い以前に決着はついていたともいえる。ホワイトにとっての最大の難敵はケインズだったが、ドル本位制を目ざすホワイトは、その問題を取り扱う基金委員会の議長を自からが担い、ケインズには銀行委員会の議長を割り当てた。しかも、入念な準備をしたホワイト配下の精鋭官僚をその委員会に配置し、議事進行を取り仕切らせた。財布のひもを握っているのはアメリカかも知れないが、頭脳を独占しているのはイギリスだといわれたケインズを初めとした豪華なイギリス代表団はなすすべもなかったのである。

 ケインズが世界銀行に関する協議に気を取らせているうちに、基金委員会では、「金兌換通貨」という言葉の問題で、インド代表がホワイトに問いただした際に、イギリス代表のデニス・ロバートソンが帳簿上の問題と勘違いして、「金の出資額に関しては、金と米ドルの公式の保有量という表現に変更してはどうでしょうか」と発言してしまった。ホワイトはその期を逃さなかった。こうして、米ドルが金兌換為替と見なす方向が定まってしまった。ケインズがその事実を発見するのは、ブレトンウッズを離れてからのことだった。

 ブレトン・ウッズ協定後、戦争で荒廃した世界では、金に代わる存在として唯一信頼できるドルを誰もが求めるようになった。アメリカ経済に何らかの問題が起きれば、世界全体に深刻な影響が及ぶようになったのである。1946年、アメリカが価格統制を緩和するとインフレが発生、ヨーロッパの輸入コストが上昇した。1949年9月、イギリスはスターリング・ポンドの30%切りドげを断行、1ポンドのレートは4ドル3セントからわずか2ドル80セントに変更された。通貨切り下げによってドル不足が緩和されると、その後2年間で外貨準備は3倍に増えた。同じ年には、アメリカの賛同と金融支援を受けて欧州決済同盟(EPU)が設立された。




 海外でのドル保有量が急増するとともに、海外の投資家が金利の高いヨーロッパに資本を引き上げるようになっていた。それは、唯一の金兌換通貨であるドルの流出とともに、アメリカから大量の金が流出する事態を招くようになっていた。アメリカは世界的なドル不足という問題を解決したが、海外の余剰ドル買い戻しに必要な金が不足するという新たな問題に直面することになってしまった。ハリー・ホワイトは間違っていたのだった。世界に十分なドルを提供すると同時に、金との兌換性を守るために十分な金を国内で保有し続けるのは、所詮無理な話だったと本書は結論づけている。そして、ニクソンショックへと歴史は続く。

 ブレトン・ウッズ体制の改革に向けての政治的な進展では、金とリンクする新たな手段として、1968年のIMF理事会で特別引出権(SDR)が承認されている。それは、ブレトン・ウッズ協定前に、ケインズが提唱し、否定されていた国際通貨単位である「バンコール」の復活でもあった。しかし、ニクソン政権下でインフレ率が急上昇し、米ドル準備は適正量を大幅に上回り、アメリカ国内の金の備蓄は、海外の中央銀行が保有するドル全体の50%以上あったものが、数年で22%までに目減りしていた。ドルの信用危機がいつ起きてもおかしくない事態となっていたのである。

 ブレトン・ウッズ体制の崩壊後、世界では金融危機が幾度も発生した。2009年、中国の周小川(ジョウ・シャオ・チュアン)は、変動相場制が世界にもたらした費用と便益を比較した場合、費用のほうが上回っているのはあきらかだ」と述べている。一方、ミルトン・フリードマンの支持者は、金を拠りどころとしない管理通貨制度のもとで二国間の為替レートを調整するほうが、経済にとってはるかに有害だと論じた。1976年には、フリードリヒ・ハイエクは、中央銀行が独占している通貨発行機能を民間銀行に引き渡し、競争原理を導入すべきだとまで語っている。通貨発行までも市場に委ねるという市場原理主義者の暴論に他ならない。


ハリー・デクスター・ホワイトの手書きによる「未来の政治経済の形」の 28-29ページ
  (本書 P.450 引用)


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 では、反対の原因は何か。答えは明白だろう。基本的には、資本主義が社会主義に向ける反対だ。資本主義は社会主義よりも優れていると信じ切っている輩は、社会主義的なイデオロギーの源としてロシアを恐れる。ロシアは社会主義経済が実現した最初の事例なのだ(小規模の社会主義共同体の実験は、ロシア経済とほとんど共通点を持たない。ケーススタディとして興味深いかもしれないが、社会主義経済体制の[判読不能]としてはあまりにも小さすぎて[判読不能]できない)。

 しかも、それは見事に機能している!

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 1998年に中国政府が人民元に対する市場からの下げ圧力に抵抗したとき、ルーピン財務長官はそれを賞賛したが、今日のアメリカは、混乱を招いた責任は最大の債権国、中国にあると主張し、為替レートを意図的に低く固定しつづける姿勢を非難するようになっている。結局は、経済の世界では、正しいか正しくないかではなく、自国にとって有益か不利益かが判断基準でしかないともいえる。それは政治においても変わりはないであろう。ここにおいて、日本の立ち位置は明確ではない。お仕着せ憲法を問題視する以前に、日本の立ち位置を考えるのが先だと私は考えている。

 アラブの政策的誘導でオイルが安くなり、アベノミクスなどを誘因として円安となり、株価が上がり、企業収益は良くなったが、一般消費者が購入する商品は上昇が続いている。一般国民の生活は苦しくなっているにも関わらず、物価上昇を目論む日銀がいて、雇用が100万人増えたといいながら、正規社員が70万人も減った現実の中で、労働者派遣法を改悪する政府が何を目ざしているのだろうか? オイルが安くなったといっても、少し前の価格に戻っただけであり、決して安くなった訳ではない。またぞろ最近、抽象的な「新・三本の矢」を発表したようだが、期待感は何処にもない。既に、アベノミクスは失敗しているといえよう。

 今日の債権国である中国と債務国であるアメリカとの関係は、1940年代から50年代にかけてのアメリカとイギリスの関係には置き換えることはできない。中国とアメリカは同盟国ではないが、経済的な依存は非常に強くなっている。スエズ危機の時代、アメリカ政府が保有していたイギリスの債権は居住者一人当たりわずか1ドルにすぎなかったが、今日、中国が保有しているアメリカの債権は居住者一人当たり1000ドルをも超えている(本書より引用)。ちなみに、アメリカの債権保有国は、群を抜いて日本と中国が拮抗した状態が現在も続いている。


 つまり、1940年代から50年代にかけてのアメリカが、望むときにほとんど痛みをともなわずにポンド危機を誘発できる立場にあったが、現代の中国はドルで同じことをすると、自らの首を絞めることになるわけだ。それほど、相互依存度が高くなっている現実がある。2015年8月に中国が人民元の切り下げを実施したが、その際、アメリカ国債を一部処分したことが話題となった。米国連邦準備制度委員会(FRB)が利上げを実施できなかった理由の一つとされている。それを忘れると、今日の米中関係に対する誤解を生むことになる。必要以上に、中国国内の格差の大きさなどから、中国の経済力を低く見る一部のマスコミ報道もあるが、冗談ではないといいたい。冒頭の財務相の発言も、似たようなレベルにあるといえよう。

 IMFは、ブレトン・ウッズ協定が生み出した組織だが、変遷しながらも、今日も生き残っている。IMFが触媒となって新しい体制を求める考え方もある。世界には、金本位制に戻すべきと考える人たちもいる。しかし、どのような体制を取ろうとも、永遠に継続する体制などあり得ない。それは、「貨幣」そのものが問題だからであろう。エンデが言い残した(「遺言」や「警鐘」)ように、金融市場というマネーゲームの中で利子を貪ることで利益を上げている人たちと、働いて食べるだけの給料を受け取る人たちの貨幣価値が同等にあることが問題だからである。それは、同じく働いていることには変わりがないにも関わらず、年収で数百倍もの収入を貪る人たちについてもいえることである。繰り返すが、「貨幣そのものの価値」が問題だからである。



エンデの遺言
河邑厚徳

グループ現代
講談社
講談社α文庫

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075「アベノミクス批判/四本の矢を折る」/伊藤光晴(2015年4月26日)

アベノミクス批判/四本の矢を折る/伊藤光晴
/岩波書店/20140730第1刷/156頁/\1,700+税

 災害救助や札幌雪祭りにおける雪像作りなどの評価は別として、私は自衛隊は「軍隊」だと考えている。本音と建て前の論議をここでする気はないが、安倍首相が、国会で「わが軍」と発言したそうだ。問題なのは、憲法を変え、「普通に戦争ができる国」へ変えようとする彼の野望が垣間見えた思いがしたからであり、自衛隊が軍隊であるか否かはここでは問題としない。彼を取り巻く人たちは、「八紘一宇」が叫ばれた時代に戻ることを理想としているのだろうか? これは、まさに「新事態」が起きつつあるといえるだろう。

 アベノミクスが国際的にどう評価されているかは、それぞれの見方があるのだろうが、株価が上がり、円安効果により輸出産業が有利となり、大企業の企業体質が良くなり、景気が良くなったとの認識もある。だが、それは一部の人の利益に過ぎず、消費税も上がり、物価も上がり、年金も実質下がるなど国民一般の暮らしはますます厳しくなっているのが現実であろう。

 それぞれの立場の人に取っては、正義たることの汎用性はないともいえるが、トマ・ピケティの見解に限らず、多くの人が指摘するように、ますます資本の偏りが大きくなっている事実に変わりはない。「マクロ経済」の考え方に問題があることは、「デフレの正体」にも書いた。また、「エンデの遺言」でも触れたが、数億から数十億の年収を貪る一部の傲慢な経済人のお金と、普通に働いて稼ぐ人たちのお金が同一の物差しにあるということが間違っているのだ。


 景気が良くなったと感じる一部の人によって、安倍政権による「アベノミクス」効果を信じる向きもあるが、この本ではそれらをすべてばっさりと否定している。いわゆる「三本の矢」ばかりか、安倍首相が本当にやりたい「四本目の矢」までも明示し反対しているリベラリストであり、ケイジアンによる本だ。

 第一の矢は、「通貨供給量の大幅な増加」により、円安方向に導き株価を上昇させるというものだった。結果として、円安が生まれ、株価は上昇しているが、第一の矢とは何らの関係もないという。そして、2012年4月末には約123兆6500億円だった貨幣供給量は、2013年4月末には155兆2863億円と、約31兆円、26%の増加となっている。しかし、各銀行が銀行間の決済のために日銀に開設している当座預金勘定は、全銀行でこの1年間に約30兆円増えている。つまり、日銀にある当座預金の増加となっているだけで、設備投資など実体経済の活況化をもたらしていないという。

 1990年代末から2000年代にかけては、日本の金利がゼロに近かったにも関わらず、海外の金利が高かったため、円を海外に移して利子が稼げたが、海外の金利が下がった今はそれも不可能だ。

 株価は2011年11月13日の日経平均8661円から上昇に転じているのであって、安倍首相が就任した2012年12月や黒田日銀総裁が就任するはるか以前のことだという。日本の株式市場で株を売買しているのは、主として海外ファンドも含めた海外投資家と、個人と生命保険会社・損害保険会社・投資信託だという。その比率は、外国人25%、個人20%、生保・損保・投信10%で、残りのほとんどは株を売買することがめったにない銀行だ。



「アベノミクス批判」
伊東光晴
岩波書店


 例えば、2011年4月から9月にかけて、海外投資家の日本株は売り越しだったが、衆院解散以前の11月の4975億円の買い越しに始まって、12月は1兆5448億円、1月は1兆2379億円、2月は8542億円、3月は1兆8553億円のすべて買い越しとなっている。そして、翌年5月に株価が1万5000円を超える直前の海外投資家の売り越しとなり、乱高下へと変わっていった。この時点で、海外投資家は利益を確保したわけだ。そして乱高下の中で、個人株主は常に負けていく。

 円安方向になったのも、財務省の為替介入によるものであり、アベノミクスとは無関係なところで、進行したという。トヨタ自動車の2013年3月の決算をみると、
 営業利益1兆3208億円の内、
  販売増は6500億円(49%)
  コスト削減4500億円(34%)
  円安効果1500億円(11%)
と、国内市場の不振を大幅に超える海外における躍進の結果だという。コスト削減の中には、非正規雇用の増加や労働者へのしわ寄せが多いものと見られている。

 第二の矢は、「国土強靱化政策」と呼ばれている。日本を襲うかと思われている「南海トラフ地震」と「首都直下型地震」に対処して、これに耐える強靱な国土をつくろうというものであるが、それ自体を著者は否定していない。2013年3月18日に発表された「南海トラフ巨大地震の被害想定について」(中央防災会議防災対策推進検討会議南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ)の「第二次報告」で、被害状況が詳しく計算され、連動大地震の場合、被害予想総額は220兆円、被災者6800万人とされた。多くの新聞がトップ面で掲載したため、国民の多くが驚いたものと思われる。


 これに対し「国土強靱化政策」には、10年間に200兆円の対策費を投ずるとされていた。民主党政権が「コンクリートから人へ」と公共投資の抑制を打ち出したことを逆転し、再び「人ではなくコンクリートへ」が政治の表舞台に出たのであった。とはいえ、2014年度の公共事業関係予算をみると、国の予算は5兆9685億円にしかすぎず、地方の事業を含めても、10年間に200兆円、即ち年平均10兆円の対策とはほど遠いという。

 著者は、日本におけるケインズ学の権威のようだが、決して公共投資の増大を唱えているわけではない。ただ、少なくとも政府が唱える「国土強靱化政策」はまったく実行されていないことを指摘しているのだ。要するに、第二の矢なるものはどこにも存在しないということになる。

 安倍首相は、「15年間つづいた不況」からの脱却をしきりに繰り返しているが、日本では、1990年代の不況は2002年ころから上昇に転じ、リーマン・ショックで世界経済が大きな不況に突入するまでは、5年間に渡る好況を呈していた。それは、内閣府の「景気動向指数」を見れば分かる。2000年代の前半は、バブル景気に沸いた80年代の末に匹敵する高さを示していた。

 安倍首相のいう長い不況は、3度の景気後退局面を含む90年代から2002年の10年あまりについてであり、その十数年は「マネタリスト」たちが日銀による通貨供給の増加を強く求め、そしてそれが効果を持たなかった時期でもあった。その大合唱の中心にいたのは、現在の日銀副総裁、岩田規久男だった。



エンデの遺言
河邑厚徳

グループ現代
講談社
講談社α文庫


 第三の矢は、「民間投資による成長戦略」である。その中心「日本産業再興プラン(産業基盤の強化)」で「産業競争力を高め世界で一番企業が活動しやすい環境の整備」として次の6つがあげられている。

 1 緊急構造改革プログラム(産業の新陳代謝の促進)
 2 雇用制度改革・人材力の強化
 3 科学技術イノベーションの推進
 4 世界最高水準のIT社会の実現
 5 立地競争力の更なる強化(新特区制度等)
 6 中小企業・小規模事業者の革新

 著者には、3から6までは、何をしようとしているのかが分からないという。第一次安倍政権の時発刊した著書である「美しい国へ」もそうだったが、安倍首相の国会答弁を聞いていると、いつも何を言っているかが良く分からないことが多い。抽象的な物言いだけで、結局は何をしたいかが分からないことが多いのだ。むしろその背後に見える本当にやりたいことをただ隠しているとしか思えないのが、あの語り口となっているのだろう。。「丁寧な説明をしていく」「門戸はいつでも開いている」と良く表現しているが、要するに何もしないのと同義語にしか思えないのである。

 例えば、3の「科学技術イノベーションの推進」を謳っているが、それが科学技術の基礎研究の推進を考えているのであれば、それを担う中心はアカデミズムであり、大学の理工系と医学系が中心になるのは当然である。しかし、10年前に国立大学が独立行政法人化されたが、財務省はそこへの人件費を除く支出金を年1%ずつ機械的に削減してきている。これによって、どの国立大学でも日常の運営費にも事欠きだし、それが図書費、研究費、人件費の削減に追い込んでいるという。そのような状況の中、「科学技術イノベーションの推進」をどうするのかという。


 もっともこの点に関しては、私はアカデミズムに対する不信の念は消えていないが、それはまたの機会に譲りたい。一つだけ言っておくと、テレビなどで見るほとんどの学識経験者たちの中身のない抽象的で詰まらないコメントに嫌気がさしているとだけと言っておきたい。教科書に書いてあるような話だけで、具体性がない意味が感じられないコメントがほとんどにも関わらず、メディアはこぞってそれを流している。

 話を戻すが、1の「緊急構造改革プログラム(産業の新陳代謝の促進)」にしても、政策としては設備投資減税以外、具体的なものは見当たらないという。そして、投資減税は投資が行われた時の優遇策であって、成長にとってかんじんの投資推進策そのものではない。

 一方、2の「雇用制度改革・人材力の強化」は内容が明確だが、その実態は、

 第一に、「雇用特区」と名づけられた地区に立地する企業は従業員を解雇しやすいことにすることにしか過ぎない。

 第二に、業務や勤務地などが限定される代わりに解雇しやすい「限定正社員」制度をつくるというものであること。

 第三に、不当解雇と認定された時でも、職場への復帰ではなく、金銭を支払い、解決できるという「金銭解決制度」を創設したこと。

 第四に、小泉政権が進めた規制緩和で社会問題化し、民主党内閣で原則禁止した「日雇い派遣」をもとに戻す「日雇い派遣の再回帰」であること。

 第五に、現在26業務に限り許されている無期限派遣を全業務に拡大するということ。



エンデの警鐘
地域通貨の希望
と銀行の未来
坂本龍一、河邑厚徳
日本放送出版協会

        

 第六に、残業代を固定給の中に一定額入れ込んだとして、残業代を支払わなくてもよいとする労働時間規制の適用除外にすること。これは、ホワイトカラー・エグゼンプションといわれるもので、2005年に経団連が提言したものであった。

 考えるだに、余りにも企業寄りで恐ろしい政策が盛り込まれているのであるが、その実行が「粛々」と進んでいる。考え方が混在する民主党には何らの期待もできない現在、それを阻止する政治勢力は余りにもひ弱な体制でしかない。

 第三の矢は、民間投資の増加による成長に期待している政策だが、シュンペーターのいうイノベーション、つまり新しい技術進歩が新しい商品を生み出し、新しい市場と新しい経営組織に支えられて生まれることを期待していると著者は見ている。しかし、企業寄りの人事政策以外は、いつ実現できるか分からないプランが並んでいるだけで、時間軸なき政策であり、それらは有効性を持たない鏑矢(かぶらや)にしか過ぎないという。

 このように、国会答弁の様に、何をしたいのかがよく分からない、かけ声だけの三本の矢が「アベノミクス」だというわけだ。そして著者は、「第四の矢」を指摘する。安倍政権が目指しているのは、経済政策などではなく、「戦後政治の改変」であるというのだ。そして、それは着実に実を結びつつある。第一次政権の際に果たせなかった靖国神社参拝を強行し、アメリカを含む国際的な非難を受けたが、「秘密保護法」「集団的自衛権」で公明党を抱き込み、「憲法改正」への布石を次々に打っているというものだ。


 ネット右翼に代表される、若者の右傾化を背景に選挙権の拡大もその布石の一つだろう。アベノミクスとは基本的に無関係だった景気動向の上向きという世論を背景に、国際協調という日本に必要な政策を無視した「憲法改正」に突き進むことによって、本当に日本経済に必要な政策が取られていないことを著者は嘆いている。著者は、今、日本経済にとって大切なことは、財政問題と労働市場の改革であるという。先進国中最悪の財政赤字をつづけながら、それを先送りにしているのがアベノミクスだといえる。TPPなども著者は否定している。そんなTPPよりも、国際的に見て余りにも高い天然ガス、石油の価格を正常値に引き下げさせることだという。

 まさに、地球温暖化問題、選挙制度改革等々、今の日本に本当に必要とされていることにほとんど手が付けられていないのが今の政権の姿だといえる。「AIIB(アジア開発銀行)」の問題でも、アメリカの傘の下にいるうちに、世界が雪崩を打って中国になびいている現状に対して、情報収集力と情勢判断にミスが目立ち、無策な外交姿勢が続いている。別に、中国になびけというつもりはまったくないが、気がついたら日本だけが孤立していたということになってしまうことに危惧を覚える。AIIBへの参加自体には、私も疑問符を感じるが、どうも状況判断が唯我独尊過ぎるのではないだろうか。「いつでも門戸は開いている」というのは良いが、誰からも相手にされないのであれば、その姿が余りにも悲しいといえる。外遊するのは良いが、行きたいところ、あるいは歓迎してくれるところだけに行っても、それは成果でも何でもないだろう。



「デフレの正体」
-経済は「人口の波」で動く-
藻谷浩介
角川書店

 間接情報だが、本書から引用すると、『エコノミスト』2014年7月1日号の「官製相場の賞味期限」で、安倍首相が6月3日、田村憲久厚生労働相に、年金資金運用基金の運用の見直しを前倒しするように指示していたことが掲載されていたという。その後の情報でも、その事実を裏付けしているようだが、現在運用資金の6割を占める国内債券比率の引き下げと日本株比率の引き上げだという。独立行政法人である年金資金運用基金は現在約130兆円という巨額な資金を運用しているが、それはファンドとしては、世界最大規模だという。この基金の資金の17・2%が日本株の保有となっているが、この比率を少し引き上げたならば、何兆円という金が日本株の買いにまわり、株価は上がるのだという。株価上昇自体が悪いとはいわないが、またまた海外ファンドの餌食となる結果とならなければ良いと危惧をしてしまう。

 エンデは、「パン屋でパンを買う、購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる、資本としてのお金は、二つの異なる種類のお金であるという認識です。・・・とくに先進工業国の北米、ヨーロッパ、そして日本で、資本はとどまるところを知らぬかのように増えつづけます。そして、世界の五分の四はますます貧しくなります。それというのも、この成長は無からくるのではなく、どこかがその犠牲になっているからです。」(エンデの警鐘/「地域通貨の希望と銀行の未来」/坂本龍一・河邑厚徳/NHK出版)と述べたが、その偏りはさらに激しくなっていくことだろう。

 2015年3月30日の朝日新聞で、「デフレの正体」の藻谷浩介が、政府による『福祉クーポン』を提案している。「エンデの


遺言」にも触れたが、「地域通貨」の考え方に近いものといえる。元気なうちにクーポンを購入した人は、本人か配偶者の医療や介護が必要になった時、買った金額より割り増しの額に担当するサービスを受けることできるというものだ。注目すべきは、クーポンの相続を否定していることだが、結果的に所得の低い人たちの負担を減らすことができるという。政府が進める、相続税を軽減することによる世代間の財産の移行は所得の偏差を低減しないが、これは逆に世代間の財産の移行を制限することにより所得の偏差をいくらかでも減らすことができるともいえる。相続税低減は、市場にお金が回ることを期待しているのだろうが、貯蓄の世代間の移行にしかならない可能性が高いのではないだろうか。むしろ、「相続税を上げるべき」なのだろう。

 先日、NHKスペシャルで「世界”牛肉”争奪戦」をみたが、高値で牛肉を買い取る中国の影響で、日本の購入力がどんどん落ちているというものだった。しかし、それよりも驚いたことが、世界の大豆取引に影響を与えるシカゴ先物市場における「インデックスファンド」の存在だった。インデックスファンドは、大豆や小麦などの値動きと連動する金融商品として、ウォール街でつくられたが、リーマンショックの後、アメリカや日本などで行われた金融緩和によって世界にあふれたマネーが流れ込んでいると見られている。その金融商品の売買によって、食糧価格が高騰するというものだった。「コーヒーの真実」にも書いたが、食料品が生産者への還元などとは無関係に価格が高騰していくということになる。ハイエナたちは、世界の食糧事情になどは興味がない。彼らは、お金にしか執着しないからだ。



コーヒーの真実
アントニー・ワイルド著
三角和代訳
白楊社
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074「デフレの正体/-経済は「人口の波」で動く」/藻谷浩介(2015年4月5日)

デフレの正体/-経済は「人口の波」で動く/藻谷浩介
/20100610初版/角川書店/271頁/\724+税

 2010年初版の少し前の本だが、改めて読み返してみた。本書の裏表紙には
 -『景気さえ良くなれば大丈夫』という妄想が
                     日本をダメにした-
また、書中でも、
 -『日本の生き残りはモノづくりの技術革新
           にかかっている』という美しき誤解-
といった語句が並ぶ。最近のテレビを見ていても、「日本は素晴らしい」といった番組に溢れているが、そこに違和感を感じているのは私だけではないだろう。

 車で例えると、中国のメーカーやインドと比較して日本は素晴らしいといったり、BMWやベンツに対抗するのではなく、フェラーリーに勝つ必要があるという。特に、フランスやイタリアやスイスの製品、それも食品、繊維、皮革工芸品、家具という「軽工業」製品に「ブランド力」で勝つ日本を作る必要があるという訳だ。

 別に自国民を卑下するつもりはさらさらないが、「日本は素晴らしい」とことさら掲げることは、「愛国心」と同様にその意図するところに胡散臭さを感じるからである。国会の質問で「八紘一宇」を評価する発言をした馬鹿な議員もいたが、その言葉が利用された時代背景を理解していないことが問題なのである。そのような国際感覚からずれた発言に違和感を感じない人たちが政権中枢にいるという恐ろしさもある。同じような考え方の人たちに囲まれていると、自分の立ち位置が狂っていることにも気がついていないのだろう。

 現在は、日本政策投資銀行の特別顧問を務めながら、日本総合研究所の主席研究員の職にあるが、2008年に、著者




が日本政策投資銀行に勤めていたときの札幌での講演、「曲がり角に立つまちづくりと3つの対処戦略」を拝聴した。早口だが資料を駆使しながら、説得力ある講演にいつにない興奮を覚えた記憶がある。しかも、講演資料をネット上で公開していることにも感心した。

 そのときの内容は、成長が止まった札幌市の人口を前提に、小売業の売場面積が増加しているにも関わらず、総売上が減少、従業員数も減少、当然、売場効率も減少しているというものだった。しかも、当時好調と言われた名古屋でも、あるいは東京でもその傾向は変わっていないのだが、小売販売額が伸びないのは、「デフレ」などのせいではなく、地域の所得が増えていないのに、店を増やしすぎたため、過当競争で値崩れが起きているというものだった。私もネットでモノを注文することが多いが、店舗を構えなくても販売ができるというインターネットを利用した販売競争が増えた現在、その負の連鎖がさらに幾重にも塗り重ねられてきているともいえる。まさに、グローバルに未来はないことになる。

 札幌での講演における著者の対処戦略が、

  1)コンパクトシティ+中心街中層化
  2)女性就労の促進と若者の所得向上
  3)裏路地網と界隈性のある繁華街街づくり

といった内容だった。現在の札幌市の中心街では、高層化と集積化が進んでいるが、著者が提案する対処戦略とは「真逆」の方向に進んでいることになる。それらを整理したものが、この本ともいえる。「デフレ脱却」や「景気回復」を掲げる政治に本当の未来はないといえる。



「デフレの正体」
-経済は「人口の波」で動く-
藻谷浩介

角川書店

 1980年代後半の住宅バブルを生んだのは、景気回復などではなく、団塊世代が40歳代を超えつつ、団塊ジュニア世代がハイテーンだった頃だった。住宅バブルが終わったのは、景気が悪くなったのではなく、団塊世代の住宅取得が終わったからだという。そして、恒常的に失業率が低い日本では、景気循環などではなく、「毎年の新卒就職者と定年退職者の数の差」即ち、『生産年齢人口の波』によって、個人所得の総額が増減し、個人消費を上下させてきたからであった。

 したがって、生産年齢人口の減少にも関わらず、労働生産性を上げることによって、GDPを支えようとした「マクロ経済学」が現在の日本の失敗の原因となっているという。付加価値額を上げるために、商品単価向上に努力すべきであったのに、人減らしの方向に進んでしまったのが日本の企業の大多数だった。著者はこう提案する。

 1)生産年齢人口が減るペースを少しでも弱めよう
 2)生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を
   維持し増やそう
 3)(生産年齢人口+高齢者による)個人消費の総額を
   維持し増やそう

 自動車産業に例えると、生産年齢人口が減り続けているにも関わらず、ロボットによる全自動化ラインで車をどんどん作り続けていたのだが、車を買う消費者が減り続けていたため、車の在庫が積み上がり、採算割れでも販売しようとした。そして経済学者達は、「デフレ」のせいだと唱えたため、政府や日銀はお札をどんどん刷って、公共事業などでお金をバラマキさえすれば、車の叩き売りはなくなり、販売価格が上がると思ったが、やっぱり車は売れなかった。それが日本の姿だったの


だが、まさに今も同じようなことをやっているのが「アベノミクス」だといえる。

「日本の生き残りはモノづくりの技術革新にかかっている」という美しき誤解に惑わされ、生産年齢人口減少に伴う内需拡大という日本の構造問題にまったく手が付けられなかったともいえる。アベノミクスによって、円安となり、株価が上がり、景気が良くなっていると勘違いしている向きもあるだろうが、円安となったのは、安倍政権以前からの財務省による為替介入によるものであり、株価が上がったのは景気が良くなったからではなく、海外投資家の動きによってである(アベノミクス批判/四本の矢を折る/伊藤光晴/岩波書店)という見解が当を得ているといえる。それは、ブルームバーグなどのニュースを見ていれば分かることである。株価は乱高下する、そして、いつも貧乏くじを引くのが個人投資家である。何故なら、同じ土俵でハイエナたちは闘っていないからだ。ハイエナたちは、逃げ出すのも速い。

 敢えて批判を覚悟で述べるならば、東日本大震災における復興事業についても同様のことがいえるのではないだろうか? 人口が暫減している地域に、デフレ脱却のごとく国家予算を注ぎ込む姿がそれである。無駄ともいわれる防波堤の嵩上げなどにそれが象徴されている。地域政策では、住みたいという人が減ってきている現実を無視できないだろうし、生産年齢人口自体が激減している地域を以前の姿に復活させようとしてもそれはデフレ対策と同じ結果を招くだけにしかならない。ここで、一度、立ち止まるべきではないだろうか? 日本の進むべき方向を改めて考え直すべき時代に突入したといえる。「この道しかない」のではない、「他の道」を進むべきなのである。



「アベノミクス批判」
伊東光晴
岩波書店

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073 朝鮮(韓国)の歴史を概観して「韓国併合」を考える(2015年1月6日) 

はじめに

 感情表現における、日本人と韓国人の違いが語られることが多いが、日本では、感情を内に秘めることが美徳とされている。お互いの歴史のなかで、掛け違った何かがあって、今日の両国の指導者同士による磁石の反発力の様な風景を生み出して来たのだろうか? それは、まったく相反する民族性というよりも、より民族的に近いからこそ表出してきたものがあったからではないだろうか?

 異論はあるかも知れないが、日本と朝鮮(韓国)の歴史は良く似ている。朝鮮(韓国)では、記録が残っていない先史時代が紀元前1世紀頃まで続き、古朝鮮時代といわれる神話時代があり、中国の歴史によって初めて裏付けられる古代が続いている。時間軸に多少の違いがあるが、それは、三国時代の中国の一つ「魏」の「魏志倭人伝」によって歴史の表舞台に初めて登場する日本とも良く似ている。

 また、交代はあったが朝鮮においても、王朝時代が20世紀初頭まで続いていたことや、勢道政治や執権政治、大院君の存在など、王権が権力を握っていなかった時代が多かったことも良く似ている。立地的な視点では、東アジアを大きく俯瞰すると、必ずしも朝鮮半島を経由しなくても、中国から日本へ至る海洋の道が複数あった事実を忘れてはならない。それは地図を左に90度ほど傾けると良く分かる。とはいえ、お互いの関係自体も、無視できない相互依存関係にあったことは、言語が良く似ていることからも理解できる。

 日本が朝鮮半島に進出しようとしたのは、「古事記」や「日本書紀」に神功皇后が新羅に進出したとの記述があるが、それ以外で歴史的に明らかになっているだけでも、4度ほどある。

  1)広開土王碑に記されている百済と協力して新羅に
    侵略した5世紀の初め

  2)百済を助けようとして日本が大敗した7世紀の
    天智天皇の時代

  3)16世紀末の豊臣秀吉の時代
  4)そして日清戦争に続く「韓国併合」の時代


      東アジアの地図を左に90度振ってみると
              (グーグルアースより)

 一方、朝鮮が日本に攻めてきたのは13世紀の高麗王朝の時代、モンゴル帝国に協力して2度に渡って押し寄せてきて失敗した「元寇」があった。しかし何よりも、これらの侵略はお互いの交流の一部にしか過ぎない。それは縄文時代、さらに遡る新・旧石器時代からも続いていた、人類の伝播とそれに続く文化の交流という流れである。それは、今日においても途切れることはない歴史の必然だといえる。



韓国併合
海野福寿
岩波新書
岩波書店


 常に問題になることがある。日本が第二次世界大戦後、朝鮮民族に対して行った謝罪が充分かそうでないかといった問題だが、残念ながら尽きることはないというのが現実であろう。補償問題にしても、これでお終いと宣言したとしても、その後新たな事実が判明したとするならば、蒸し返されるのが人の世の常になる。領土問題にしても、歴史の流れの中で領土域が動いている現実を鑑みると、固有の領土などという概念は存在し得ないといえよう。朝鮮民族や日本民族といった概念も、自然に曖昧になってくるのが当たり前であり、結局は、アフリカの起源に落ち着くだけのことである。歴史にも領土にも民族にも文化にも「正義」などないと思った方が間違いはない。正義を振りかざしたがる人たちがいるが、自分は正しいと宣言したとしても、だだっ子が自己主張をしている様に良く似ている。

 このところ、朝日の「慰安婦問題」をきっかけとして、それに関する様々な書籍やネット情報に触れることが多くなった。朝日の虚報は許されるものではないことは、論議を要しないが、朝日新聞社を叩くことによって、もたげてきた議論、即ち、朝鮮半島や中国本土への日本による侵略を正当化しようとする議論が気になってきた。それは、1953年の日韓基本条約に向けての日韓会談において、日本側首席代表を務めた外務省の久保田貫一郎が「韓国併合」を肯定する発言を行ったという、いわゆる「久保田発言」と同様に、日本による「韓国併合」さえも韓国にとっては有益だったといった発言が目に付いてきたからである。


 それが、ある一面の事実を伴っていることは否定しない。しかし、日本による「韓国併合」に関わる数々の暴挙に目を背けての発言であるのならば、韓国が「久保田妄言」として反発する感情も理解しなければならない。悪政を主導したとはいえ、一国の皇妃を殺害し、近くの松林で焼却したという事実、そしてそれを朝鮮内部の権力争い見せかけようとした事実、それを犯した犯罪者に対する日本の処置、さらには日本の世論がそれをどう迎えたのか?

 私たちは、学校等において日本や世界の歴史を学ぶことはあっても、「朝鮮半島の歴史」を詳細に学ぶことは余りない。最近の韓流ドラマをよく見る人は、朝鮮の歴史に詳しいかもしれないが、一般の日本人で朝鮮半島の歴史を語る人は多くはない。その様な中で、「韓国併合/海野福寿/岩波新書」や「日朝関係の克服/姜尚中」を読んでいる内に、改めて「朝鮮の歴史」を概観する必要を感じてまとめたのがこの内容である。そして驚くべき事に、異説も多い。例えば、10世紀から14世紀末まで朝鮮半島を統一した王朝「高麗」があるが、民族的には高句麗の末裔と見る考え方が韓国では主流だが、中国では、朝鮮に移住した漢人の末裔と見る考え方が出されている。ただこれとても、それほどの違いはないというのが歴史の必然性だろう。歴史を俯瞰すれば、単一民族などという概念自体が曖昧なものだからである。また、領土域地図も添付したが、領土などという概念も常に動いているのであり、ある時点のイメージだと思って貰いたい。



日朝関係の克服
姜尚中
集英社新書
集英社

先史時代の朝鮮(韓国)

 全谷里(チョンゴンニ)遺跡から出土された握斧などの石英製石器に代表される、約30万年前から4万5000年前の「旧石器時代」が知られている。日本の石器時代は、あの「旧石器捏造事件」が尾を引いて、かつては70万年前などという途方もない年代測定がされたことがあったが、今では10数万年前というところに落ち着いていることから考えると、朝鮮半島では日本に先駆けて人類が住んでいた可能性が高い。それは、人類発祥の地であるアフリカからの伝播を考えると自然なことである。

 1930年代に日本の考古学者直良信夫(なおらのぶお)が朝鮮にも旧石器時代があったことを唱えたが、当時の学会に無視された。その後、直良がいったことが正しいと証明されるのは、1962年になってからである。直良信夫は「新・北海道の古代」にも書いたが、「明石原人」を発見した人であり、当時の考古学会に無視されたその人でもある。日本における旧石器時代の存在を認めたくない思想がいずれをも封殺したものであった。

 3万5000年前から1万5000年前ころには、現生人類(ホモサピエンス)の全地球的な進出により、「石刄文化(後期旧石器)」も現れていた。

 1万5000年前に氷期が終わり、地球の温暖化によって海進が進み、現在の朝鮮半島が形成された。約8000年前に


始まる「櫛目文土器(新石器)時代」は、地域差もあるが紀元前1000年ころまで続いた。新石器時代の終わり頃には、中国から農耕が伝わり、アワやキビなどが生産されるようになっていった。

 その少し前、日本では「縄文後期」にあたる。このころは、気候の寒冷化が進んだため、食糧資源の確保が困窮し、稲作導入の基盤となったとする考え方が従来の日本考古学の「定説」だったが、その定説を覆す考え方が最近出てきている。「縄文後・晩期の寒冷化はなかった」とする見解だ。寒冷化によって縄文文化が停滞し、次の弥生文化への移行となったとする根拠が揺らいでいるといえる。縄文時代にあたる対馬や九州でも櫛目文土器が見つかっていることや、縄文土器が釜山市南方の東三洞(トンサムドン)遺跡から発見されていることからも、朝鮮半島と九州圏の人々の交流が伺われる。

 紀元前1000年ころから紀元2世紀ころまでは「無文土器時代」といわれ、中国から青銅器や後には初期鉄器も伝わっている。稲作農耕や定着集落が形成されるのもこのころである。朝鮮半島における稲作農耕は、半月形石包丁の分布などから、遼東半島経由の可能性が高いといわれている。このころの日本は、「弥生時代」にあたる。日本における稲作は、朝鮮半島から伝わったとの見解もあるが、同じような時期に遼東半島を経由して直接伝わった可能性が高い。





朝鮮の歴史
田中俊明
昭和堂

古朝鮮時代

 「檀君朝鮮」「箕子(きし)朝鮮」といわれる神話時代が知られているが、具体的な歴史的事実は明かではない。日本における神話時代と同様ともいえる。天帝(帝釈天)の子・桓雄(ファヌン)が太伯山(白頭山)に降臨して、人間になりたいという熊の願いがかなえられて人間の女となった熊と、仮に人間の男になった桓雄との間に生まれたのが、平壌を都として開いた国の始祖となる檀君である。

 檀君は、1500年間、国を治めたが、中国の殷を出自とする箕子が朝鮮に封建されたので、壇君は山神となったと伝えられている。壇君の開国が紀元前2333年とされるが、そこから数えた紀年法が壇君紀元(壇紀)となっている。年代は異なるが、日本における神武天皇の即位を紀元とする西暦紀元前660年と同じ考え方だ。

 司馬遷の『史記』には、周の武王が箕子を朝鮮に封建したと記されていたり、班固の『漢書』では、殷を去った箕子が朝鮮に行き犯禁八条をもって民を教化したと伝わるなど、文献学的知見でも箕子と関連づけられる記録があるが、未だ定説とはなっていない。檀君朝鮮にしろ箕子朝鮮にしろ、考古学的に否定する見方もあるが、その年代特定はともかく、私は歴史的由来となったものがあったのではないかと考えている。それは、日本における神武天皇などに現されている歴史的由来も同様だろう。

 中国の燕(紀元前1100年ころ~紀元前222年)に仕えていた衛満が、徒党1000人余りを率いて朝鮮に行き、建国したのが「衛氏朝鮮」である。都を王険城としたが、現在の平壌


にあたり、朝鮮半島西北部を支配していたらしい。その少し前に鉄器が導入されている。衛氏朝鮮は、80年ほど続くが、三代目の衛右渠に至り、紀元前108年に漢の武帝により滅ぼされた。衛満については、中国に渡った後、しばらくして戻って来た朝鮮族とみる考え方もある。

 漢の武帝により、朝鮮半島全域が400年間にも渡り、衛氏朝鮮を中心とした楽浪郡と、衛氏朝鮮に服属していた臨屯郡・真番郡、北部の玄菟(げんと)郡の漢四郡として支配下に置かれた。ただし、主要拠点を押さえた点と線による支配であり、領域の変遷もあったが、争いが絶えることはなかった。

 紀元189年に、後漢により遼東太守に任命された公孫度(こうそんたく)が「黄巾の乱」などによる後漢末の混乱期に乗じて、遼東・玄菟の他、楽浪郡をも支配するようになった。公孫度の嫡子公孫康は、楽浪郡の南に「帯方郡」を設置し、韓や倭を勢力下に置こうとした。公孫氏は内紛もあり、238年、「遼隧(りょうすい)の戦い」で魏に滅ぼされた。

 そのころ、238年(景初2年)、女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣して天子に拝謁することを願い出た。帯方太守となった劉夏は使者らを都に送ったが、魏の皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたという。当時の中国は、魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が鼎立する三国時代にあたるが、公孫氏の滅亡と時を同じくして、日本(倭国)が中国の歴史舞台に登場した。それまで閉ざされていた玄関が開いたのであった。




これならわかる
韓国・朝鮮の歴史
Q&A
三橋広夫
大月書店

三国の興亡と加耶(かや)

 紀元前1世紀のはじめ、楽浪・玄菟などの漢の郡県支配に抵抗する形で勃興したのが「高句麗」である。歴代の中国王朝からの度重なる侵攻にも耐え、668年まで存続した。その領域は、最盛期には朝鮮半島北部から、中国遼寧省東南・吉林省西南にまで及んだ。

 高句麗は、「高麗(こうらい・こま)」とも記されることがあるが、貊(はく)族が主体であり、韓族主体の百済・新羅とは異なった民族構成だといわれている。936年に朝鮮半島を統一して1392年まで続く「コーリア」の語源となった高麗(こりょ・こうらい)とは異なる国家である。高句麗は、19代に王となった広開土王(治世/391~412年)の時代に、五胡十六国時代にあった中国の混乱期に乗じて対外的に大きく発展した。

 高句麗の墓性は、積石塚が知られているが、日本における「前方後円墳」の祖型を高句麗にあると指摘する見解がかつて出されたことがあった(「前方後円墳の源流」/全浩天/未来社/1991年初版)が、日本における前方後円墳の原型が九州にあることを前提にしており、今日の考古学見解からは否定されるものであろう。同様に、朝鮮半島南部に多数の前方後円墳型が見つかっているが、編年を考慮すると、朝鮮半島に前方後円墳の祖型を求める考え方は、さすがに今日の韓国考古学会にもほとんどいない。百済に服属した倭人系官僚が造営したという考え方もあるようだが、日本に対する朝鮮の文化的先行性を常に前提にしている発想を一度捨て去って貰う必要があるようだ。


 広開土王の業績を称えた碑文である「広開土王碑」には、倭国に関する記述があり、

  ・399年、百済が倭国と和通し、新羅に侵入して
   新羅は倭の臣下となった
  ・404年、倭国が帯方郡に侵入してきたので、
   これを討って大敗させた

などと記されていたが、1883年に日本陸軍の酒匂(さこう)中尉がその拓本を持ち帰っていた。その後、1972年、在日朝鮮人であった考古学・歴史学者の李進熙が、酒匂中尉による拓本の改竄・捏造説を唱えるに至ったが、今日では改竄説は否定されている。倭国の一切の優位性を認めたくない発想が基にあったものと考えられる。高句麗自体の歴史的帰属についても、中国の歴史の一部である夫余人が建国したとみる中国考古学会と、従属した時期はあるものの朝鮮独自の歴史を唱える韓国考古学会の争いが続いている。

 一方、朝鮮半島南部では、紀元1世紀ころから、それぞれ風俗は言語が異なる三つの連合体が形成されていた。馬韓・辰韓・弁韓の「三韓」である。ただし、後の高句麗・新羅・百済を指して三韓と呼ぶ人もいる。

 その韓族の一つの連合体/馬韓50余国のさらに一つであった伯済国が3~4世紀ころに成長して「百済」を成立させ、朝鮮半島南部のうちの西側を占めた。それに対して、辰韓12国のうちの斯盧(さろ)国が成長して成立したのが「新羅」である。新羅は百済とは異なり、高句麗に従属する姿勢により勢力を伸ばして、朝鮮半島南部のうち東側を占めた。



前方後円墳の源流
高句麗の前方
後円墳形積石塚

全浩天
未来社
 
     
       高句麗最大勢力地図(5世紀中葉)

 また、百済・新羅の中間南側に、三国とは別に加耶諸国があったが、やがて562年には新羅により滅ぼされた。さらに、百済も唐・新羅の連合軍により660年に滅ぼされた。百済は日本(倭国)との友好関係も知られているが、奈良県の石上神宮が所蔵している「七支刀(しちしとう)」は、369年に百済が倭王に送ったものとされている。また、2001年に、「桓武天皇(737~806年)の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と今上天皇が語った言葉は記憶に新しい。

 「古事記」や「日本書紀」では、第14代仲哀天皇の皇后であ


った気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、即ち神功皇后が、朝鮮半島へ渡り、新羅を服従せしめたといった記述があるが、百済の25代王の武寧王(ぶねいおう)が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島/佐賀県の玄界灘にある島)で生まれたとの記述もあり、武寧王の説話のすり替えだという説もある。その真偽はともかく、武寧王の時代、百済の国勢を回復し、高句麗に攻め込んだり、倭国の求めに応じて五経博士を送ったとされることなどからも、この時代の日本と朝鮮半島、特に百済との間の交流が多かったことが伺える。

 百済が滅んだとき日本にいた百済王子扶余豊璋を擁立して、唐・新羅との連合軍と戦い大敗したのが663年の「白村江の戦い」である。天智天皇(626~672年)の時代にあたる。歴史上初めて、中国の覇権が日本領土にも直接及んできたこともあり、日本が震撼する事態となる。西日本各地に防衛のための朝鮮式山城(古代山城)が造営された時期とも重なる。

 さらに唐は、666年には高句麗を滅亡させ、新羅へも浸蝕の手を伸ばす。一時期は、新羅と唐が対峙し、幾度に及ぶ戦いも起きたが、新羅は再び唐の冊封を受け、新羅による朝鮮半島の統一がなされたが、新たな、唐による朝鮮半島の制圧であったともいえる。

 また、562年に滅亡した加耶諸国と日本との関係において、かつては「任那日本府」が朝鮮半島南部にあったとの考え方が日本考古学会の主流であった時期もあったが、歴史的判断は曖昧になったままにある。もちろん、韓国の学会では、任那日本府の存在自体を認める考え方はほとんどないが、全羅南道に主に分布する小型の前方後円墳(前方後円墳ではないと見る異説もある)の存在を考えると、今日の国家形態を一度取り払った考え方が必要なのではないかと私は考えている。日本民族を単一と見なければ、異なった考え方が出てくるのではないだろうか? それは、朝鮮民族についても同様である。



九州のなかの朝鮮
九州の中の朝鮮文化
を考える会編
明石書店

新羅の三国統一と渤海

 数度に渡る唐の遠征軍に対峙した高句麗だったが、660年に百済が滅亡するとまもなく、ついに668年に内紛も起こり滅んでしまう。ここにおいて、唐と連合した新羅による、朝鮮半島の統一がなった。唐は、旧高句麗に安東都護符をおき、新羅を含めた朝鮮半島支配を進めようとしたが、それに反発する新羅とも対立をするようになる。両者は、戦火を交えることになるが、676年には唐も朝鮮半島支配を諦めざるを得ないような事態となり、安東都護符は遼東城(遼陽(リャオヤン))に撤退した。新羅による、朝鮮半島の統一国家の誕生であった。新羅は、その後の盛衰はあるが、935年に高麗に滅ぼされるまで続く。

 大化の改新(645年)で大和朝廷の権力を握った中大兄皇子(後の天智天皇)は、後の新羅王となる金春秋(キムチュンチェ)が日本を訪れた際、唐の律令制度や新羅が唐と同盟を結ぼうとしていることを知り、百済側に付いて戦い、大敗北を喫していたが、天智天皇の死後、壬申の乱(672年)で天武天皇が即位すると、新羅との交流が始まる。日本は新羅に10回、新羅は日本に24回も使いを派遣したという。新羅から日本には鏡、じゃこうなどが輸入された。

 
    
           6世紀中葉の朝鮮半島

       
      
               南北国の時代

 高句麗滅亡後、高句麗の人々の一部は、唐国内に強制的に移住させられたが、その中に粟末靺鞨(ぞくまつまつかつ)族の大祚栄(テチョヨン)らも含まれていた。713年、唐の玄宗皇帝は大祚栄を渤海(ぼっかい)郡王として冊封した。大祚栄は良く国を統治し、最盛期にはかつての高句麗の4倍、統一新羅の8倍の範囲となる、朝鮮半島北部、満州から現ロシアの沿海地方にまで及ぶ広大な領域を擁した。762年には、三代目の文王(欽茂)が渤海国王との称号を唐から得ている。渤海は、日本にも11回に渡り使者を送っている。渤海は、唐が滅びた後、耶律阿保機(やりつあぼき)によって建国された契丹国(後の遼)の侵攻を受け、926年に滅亡する。

 渤海は200年以上も続いた国であったが、渤海人が残した文献史料は二つの墓誌以外にはないといわれている。しかし、中国や日本の文献や朝鮮半島に残る多数の文献により、「海東の盛国」とまで謳われたほど、政治・経済・文化が発展した。朝鮮半島では「南北国の時代」といわれる、南に新羅、北に渤海の文化圏が形成され、宗教的にも仏教が盛んとなった。


高麗王朝の成立と契丹

 新羅により統一された朝鮮半島であったが、9世紀に入るとその統治にも陰りが目立ち始めた。朝鮮半島西南部の旧百済地域では、農民階層の出である軍人の甄萱(キョノン)が完山(ワンサン・現全羅北道全州)を都として「後百済」を900年に成立させる。また新羅王族の血を引くという弓裔(クンイエ)が半島中域において軍事活動を展開して901年には「後高句麗」を成立させる。新羅は、一地方政権となり、かつての三国鼎立に似た「後三国時代」を呈するようになる。

 後高句麗の弓裔の傘下の武将であった王権(ワンゴン)は、各地を転戦して武功を挙げるとともに、神権的な政治を行うようになっていた弓裔を追放して、ついに918年、諸将の推戴を受けて高麗(こりょ/こうらい)を成立させることに成功した。高麗初代の太祖の誕生であった。919年には自らの根拠地であった松嶽(開京・現在の開城)を都とする。

 朝鮮半島北部の旧高句麗地域は女真人の住地となっていたが、太祖王権は、徐々に支配地域を拡大、南方の新羅に対しては融和的政策で臨みついには帰服させることに成功、後百済とは激しい軍事衝突を繰り返したが、後百済内紛に乗じて甄萱が追放されると936年には決定的な勝利を収め(一利川の戦い)、三国を統一することに成功した。朝鮮半島の再統一が高麗によりなされたのであった。前述したが、1392年まで続く「コーリア」の語源となった高麗(こうらい)がそれである。

 高麗は、建国当初は安定はしていなかったが、後三国の豪族達を政治秩序のなかに取り込むなど官階の制度などを整備、宋への朝貢国として、冊封史(さくほうし)の承認によって王権が保証される体制を整え、独自の年号を廃棄して中国の年号制度を用いるなどをした。このころの中国は、五代十国の分裂期が続いたが、北宋(960~1127年)が成立、太祖は963年には北宋の冊封を受けた。太祖は、日本に対しても遣史を出したが、平安時代の日本はこれに応じなかった。高麗と日本との関係は、対馬・太宰府など主に北部九州地域との間の限定された交流にとどまっていた。

 926年に契丹(キタイ)族の耶律阿保機によって建国された契丹国(後の遼)の侵攻を受け、渤海は滅亡していたが、契丹と高麗は対峙するようになっていく。993年、契丹の侵攻を凌いだ高麗であったが、結果的に996年には、高麗は契丹の冊封を受ける立場となる。その後、幾度となく戦さが繰り返されたが、1022年に至り、高麗は契丹の冊封を再び受けることになる。これ以降、北方辺境地域の権益を巡っての火種を残しつつ、朝鮮半島は平和的な時代が続く。

 高麗は、後三国を統合した後、各地に州・府・郡・県などの行政単位を設定、中国式の官僚制度に似た体制を整備していった。またこれと平行して、在地の上層部を主な対象として、村落ごとに金・崔・朴といった中国風の姓氏を定めた。今日まで続く血縁意識の醸成であった。11世紀後半の11代文宗の時代には、文化的にも発展を示し、12世紀半ばにかけての文治政治の爛熟期を迎えた。特に儒教(朱子学)が尊重され、中国の制度に学んだ科挙や政治・外交に司る官僚における規範として重視された。一方、仏教も鎮護国家の宗教と観念され、国家から僧にも位階(僧階)が与えられたほか、国師・王師などが任じられた。

 一方、契丹(遼)は、一時的な平和な時期もあったが、宋との争いや内紛も絶えなかった。しかし宋との交易などで次第に国力を増大させるとともに、西の西夏を服属させるなど北アジアの最強国といわれるようになった。遼の政治体制は、契丹族の遊牧民と渤海遺民を中心とした農耕民をそれぞれ別な法によって治めるという二元政治といわれている。ところが、服属していた女真族が強大になり、1115年には女真族により金が設立されると、その制圧に失敗し、宋と金が結んで遼に攻め入るようになり、1125年には金により滅ぼされてしまった。


高麗王朝の変容

 日本では平清盛が権勢を誇っていた時代、中国では女真族の金に華北を奪われた宋が南遷して南宋を立てていた。北でチンギス・カンが元帝国を成立させる30年前のこと、1170年、18代高麗王・毅宗(ウィジョン)のとき、鄭仲夫(チョンチュンブ)らの武臣を首謀者とする「庚寅(こういん)の乱」が勃発、武臣による執権政治が始まる。しかし、武臣間の争いも絶えず、実力者が次々と排除されていったが、崔忠献(チェチュンホン)が実力を握ると、1194年には政権を掌握、さらに崔氏による父子間の継承が続くようになり、一時的な安定を見せた。丁度、江戸幕府と朝廷のような関係が続くことになった。

 倭寇が歴史の舞台に現れるのはこのころのことである。そして、1258年のクーデターによって崔氏政権は瓦解、取って代わった金俊(キムジュン)も失脚、1270年には、爆発的な膨張を始めていた元(モンゴル)が高麗王朝を後押しするなど軍事的圧力の中で、武臣政権の終焉を迎えた。さらに、1274年、1281年の二度にわたる元の日本攻撃(文永・弘安の役)に高麗も協力せざるを得なくなり、船舶・兵器・食料や労働力の提供など、疲弊した高麗社会に大きな負担を押しつけることになった。

 とはいえ、こうした犠牲の下に高麗は対モンゴル関係を好転させることに成功、高麗は元(モンゴル)のカーン(皇帝)によって冊封される宗属関係が成立した。しかも、高麗王の世子がカーンのケシク(親衛隊兼家政組織)に組み入れられ、元の公主(皇帝の娘)を娶り高麗王位を継ぐなど、高麗王は元帝国の王侯貴族集団の一員を構成するようになり、独自の位置を保ちつつも、元帝国の一諸侯として組み入れられていった。元による高麗王位継承への介入は顕著となり、いったん退位した後に復位するといった重祚(ちょうそ)を強要されることもあった。

 14世紀に入ると、高麗の中堅官僚に過ぎなかった奇子敖(キジャオ)の娘(後の奇皇后)が元の順帝トゴンテムル(在位1333~1370年)の次皇后となり、その子が皇太子に擁立されると、モンゴル帝室の外戚として奇氏一門が権勢を振るうようになった。しかし、中国江南で起こった「紅巾軍の反乱」の拡大により元の中国支配が揺るぎだしたころ、1356年、31


代の高麗王恭愍王(コンミンワン/在位1351~1374年)は奇氏らの外戚勢力を排除し、元からの離脱を図ろうとした。

 1363年には、元の順帝は恭愍王を廃位し、高麗に襲来しようとしたが、高麗軍によって撃退された。その際、元軍の傭兵として倭寇が参加したという記録が残っている。1368年に朱元璋(しゅげんしょう/洪武帝/在位1368~1398年)が明を建国すると、恭愍王は明の冊封を受けた。そして、中国から追われた元の順帝は奇皇后や皇太子を連れて大都を去り北方草原地帯に退いた。恭愍王は元との関係を絶つことに成功、恭譲王(在位1389~1392年)の代には、実力者李成桂が旧来の田籍を廃棄して田制改革を断行、権勢家による土地集積・大土地支配を排除し、官僚への新たなる土地支給に改めた。

 1391年には、三郡都総制府が設立され、李成桂らが兵権を掌握、1392年には、彼の五男李芳遠(イバンウォン)が反対派の巨頭鄭夢周(チョンモンジュ)を暗殺すると、恭譲王を追放、李成桂は群臣の推挙により禅譲を受けるという形で王位に就くこととなった。朝鮮王朝の太祖が誕生したのであった。ここにおいて、高麗は475年間の歴史に幕を閉じた。その後、李成桂の兄弟による後継者争いが絶えなかったが、李芳遠が太宋(テジュン/在位1400~1418年)として、3代目の国王となった。

 新羅仏教は、華厳宗系統が主流であり、護国仏教あるいは王室仏教の性格が強かったが、高麗後期の武臣執権期には、禅宗が修禅社(松広寺)、天台宗が白蓮社を開いた。崔氏政権が攘兵祈願を込めて8万張を超える『高麗大蔵教(俗に八万大蔵教)』の版木を完成させるなど、元との関係において仏教との交流が進んだ。また、元からは元の崇拝するチベット仏教が高麗王朝に入り高麗僧が元に赴くこともあった。さらに南宋の朱熹(しゅき)によって大成された朱子学も元から本格的にもたらされている。工芸も発展し、木器には螺鈿(らでん)技術、金属器には入糸技術、陶磁器には象眼技術、また、優秀な技術で制作された仏像や仏像を描いた幀画(ていが)なども残されている。高麗青磁は多くの国に輸出された。世界で最初に金属活字印刷技術を発明して実用化したといわれている。


高麗(14世紀後半)

朝鮮王朝の成立と豊臣秀吉による侵攻

 1394年、太祖李成桂は都を開城から漢陽(漢城)に移した。今日の大韓民国の首都ソウルである。徹底した文人優位の時代が500年余にも渡って続くことになる。日本では、武臣ともいえる武家政権が幕末まで続くが、朝鮮では高麗の一時期に武臣執権政治があっただけであった。太祖は王権の後ろ盾を得るため、明に使者を派遣したが、明の太祖洪武帝は国号を「朝鮮」と認めたにも関わらず、即位を認める「金印」と「諾命(こうめい)」を送らなかったため、しばらくは「権知高麗国事」として「朝鮮国王」の称号を名乗ることができなかった。「朝鮮国王」の金印を受けたのは2代大宗の時代、1401年であった。以後、朝鮮国王は明の皇帝から即位の承認を受け、明の暦(大統歴)を下賜された。また、朝鮮王朝の創建事業は朱子性理学を政治理念とする新興儒臣によって推進され、王権の伸張は政治の実権を持つ彼らの制約を受けた。

 朝鮮王朝の太祖から25代哲宗に至る1392年から1863年の各王代の事績を編纂した『朝鮮王朝実録』がある。第一級の機密資料であり、たとえ国王といえども閲覧することが叶わなかったという。実録は4部印刷され、春秋館の内史庫の他、有事に備えて忠州、全州、星州の各史庫に保管された。果たして、1592年に起こった豊臣秀吉の朝鮮侵攻により、全州以外の3史庫本が消失する事態が発生したのであった。朝鮮政府はその後、全州史庫本を基に実録を活字で復元し、新たに春秋館など江華島、平安道(後の全羅道)、慶尚道、江原道の4史庫に保管をした。

 朝鮮王朝では、人民は「良人」と「賤人」に区分され、その地位は世襲された。科挙を受験する資格は良民に限られていた。賤人は、公的機関に所属する公賤と私的に所有される私

賤に分かれていた(両班・中人・常民・賤人の4つの階層があったとする見解もある)。両班とは、東班(文班)と西班(武班)のことであるが、起源は高麗王朝に遡る。

 朝鮮は南方の倭寇侵略と北方侵略に対しても巧みな外交政策をとり、太祖は日本の室町幕府へ対しての通交と禁賊を要請。室町幕府も1402年に明と足利義満との間に冊封関係が成立すると、朝鮮は義満を日本国王として処遇し、日朝関係にも大きな変革がもたらされた。明の皇帝を中心に形成される東アジアの国際秩序がなったのであった。後に徳川幕府を開く徳川政権も基本的にこの伝統を受け継いで通信使を派遣した。1419年には、倭寇の本拠地とされた対馬への襲撃を行い、倭寇を終息に向かわせている。また今川氏や大内氏とも通交を行うなど多元的外交関係を行っているが、室町幕府の権威が脆弱であった反映ともいえる。

 15世紀に尚(しょう)氏によって統一された琉球王朝は、東南アジアに進出し、香料などの特産物と明の陶磁器・絹織物、日本の刀剣・硫黄などとを交換するという中継貿易を行っていた。琉球商人は、博多に来航して貿易し、それらがさらに朝鮮に輸出された。朝鮮からは『大蔵教』を初め経典・梵鐘・仏像などが東シナ海を渡ったという。

 1446年に、4代世宗が正式に交付した『訓民正音』が今日のハングル文字である。印刷技術の発達と相まって、『高麗史』『東国通鑑』『新選八道地理志』『東国輿地勝覧』などが編纂されている。科学技術も進展し、『渾天儀(こんてんぎ/地球儀』『日き(にっき/日時計)』『自撃漏(じげきろう/水時計)』『測雨器』などが制作された。



図説 韓国の歴史
金両基監修
河出書房新社

 一方、日本では、1590年に国内統一を果たした豊臣秀吉は、九州平定後に朝鮮に出兵し、対馬を治めていた宋氏を通して朝鮮国王の服属を命じた。しかし、朝鮮は対馬を慶尚道の属島と見なしていたことと、対馬・宋氏の立場も政治的・経済的に朝鮮と密接な関係にあったため、秀吉の要求にそのまま応えることができなかった。宋氏は秀吉が要求した「征明嚮導」を「仮途入明」にすり替えて朝鮮と交渉した。「仮途入明」とは、明へ入るのに朝鮮の道を借りたいとの意味であった。

 1592年4月、秀吉は16万の軍隊を派遣して釜山に侵攻した(壬辰倭乱/文禄の役)。朝鮮の14代宣祖(在位1567~1608年)と官僚は漢城を放棄して平安北道の義州(ウィジュ)まで避難した。文治政治を尊ぶ当時の朝鮮には、戦国時代を生き抜いた日本の武力に抗し得る防衛体制が整備されていなかった。さらに秀吉軍は北上、6月には平壌(ピョンヤン)も陥落、威鏡道を席巻したが、朝鮮全羅左道の海軍司令官として赴任していた李舜臣(イスンシン)率いる亀甲船(きっこうせん)を中心とした水軍に制海権を握られると、物資の補給路を断たれた。さらに7月には朝鮮政府の要請に応じて明の万暦帝(ばんれきてい)が派遣した朝鮮系中国人李如松(りじしょう)を指揮官とする5万の援軍なども加わり、日本軍が駆逐されるようになった。

 日本軍と明・朝鮮連合軍の対峙が続くなか、翌1593年5月には日本軍は明軍との和議に応じ講和交渉が始めたが、交


渉は決裂、1597年1月に秀吉は再度14万の軍を派遣して朝鮮侵攻を再開(丁酉再乱/慶長の役)。しかし、軍の再整備を整えていた朝鮮軍との膠着状態が続いた。そして、翌1598年8月、秀吉が病死すると日本軍は朝鮮半島南部からの撤収を開始した。前後6年余に渡る日本の侵略戦争に終止符が打たれたのであった。しかし戦争により、朝鮮の農村社会は著しく疲弊し、全国の耕作地面積は戦前の1/3以下になったという。日本に連行された李参平(イチャムピョン)は肥前有田焼の陶祖として今も祀られている。徳川家康の代になり、捕虜の送還を目的とする回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)が朝鮮から派遣されるなど、外交交流が復活した。日本では、一種の朝鮮ブームが起きたという。

 その後、明の国力の衰えから、その勢力圏を脱した建州女真のヌルハチが1616年に後金(こうきん)を建国した。清の初代皇帝太祖である。朝鮮は明と後金に対してともに融和政策を取ったが、内乱の発生を契機として清となった後金との対立が始まり、清の朝鮮侵攻を受けることになる。朝鮮は、清への臣従の礼を取って降伏するという屈辱的な選択を強要された。しかも、1644年に李自成の内乱で明が滅亡すると、清軍は北京に入城、1662年には明を滅ぼして女真族による中国統一が成し遂げられた。このころの朝鮮は、清に対して事大の礼(大に仕える)を取りながらも夷狄(いてき)と見て蔑む風潮にあったが、その底流には、「小中華」を自認する朝鮮自尊の意識が強かったという。


朝鮮王朝後期の社会変動

 壬辰・丁酉倭乱や清の侵略などを経て、相対的に王権が弱体化、臣権が伸張すると、「林慶業(イムギョンオブ)の乱」などの内乱もあり、官僚の分裂と政争が激化するようになったが、21代英祖(在位1724~1776年と李氏朝鮮最長の52年間)、22代正祖(在位1776~1800年)の時代になり、政治がほぼ安定するようになると文化も振興するようになった。法典・礼書・兵書が再整備され、全国地理誌『輿地図書』も完成、朝鮮の文物・制度に関する歴史的変遷過程を整理した『東国文献備考』も編纂された。朝鮮が東アジアにおいて、最も文化的水準が高揚した時代でもあった。だが、23代純祖(在位1800~1834年)以後は幼少のまま王位に就いたため、次第に王の外戚が政治権力を握るようになっていった。外戚による政権掌握は、朝鮮王朝末期まで続き、政治機構は混乱した。

 19世紀には、これらの勢道政治により、科挙制度は賄賂が

横行し、試験の公正さを期すことができなくなっていた。一部

の官僚や学者のなかには観念的で形式的な朱子性理学を排撃して、経験的で実証的な批判と精神に基づく、「実学思想」が生まれて来た。18世紀の英祖・正祖時代には最盛期を迎えた。一方、清の実用文化に接した一部知識人の間では、北学が生まれていた。

 当時の国家財政の収入源は田政(地税)・軍政(軍布)・還穀(かんこく)であり、これを三政(さんせい)と呼んだが、農民の救済する米穀貸与事業が営利目的の高利貸し事業と化していた。負担の増大に苦しんだ農民は、流民・火賊(山賊)などに転落した。これらの民心の離反によって、西学(天主教)や東学(天道教)が地方に誕生し、近代の社会運動の母体となっていった。また、さらにハングル文字を用いた小説が一般民衆に浸透するとともに、絵画、演芸などが流行するようになった。


大院君政権と開国を巡る葛藤

 朝鮮王朝25代哲宗(在位1849~1863年)は、22代正祖の弟・恩彦君の息子の三男だったが、兄二人は政争に巻き込まれて処刑されていた。本人も江華島に流刑の身であったが、正祖の次男の23代純祖(在位1800~1834年)の後を継いだ24代憲宗(在位1834年~1849年)がわずか7歳で即位したが、病弱であり後嗣がないまま22歳で崩御してしまったため、宮廷に呼び戻され19歳で朝鮮国王に即位した。しかし、一切の権力は勢道政治勢力である高麗建国の功臣を始祖とする安東金氏に握られていた。

 19世紀前半期からの勢道政治下での治世の乱れや相次ぐ自然災害により、朝鮮社会は矛盾を極め、民衆の不満が各地での大規模な反乱という形で現れていた。中でも、1862年に慶尚道普州で始まった民衆蜂起「壬戌明乱(じんじゅつみんらん)」は、忠清道、全羅道、慶尚道の三南(さむなむ)地方に拡大していった。日本が明治維新により開国に向かう時代でもある。清は、1840年の「アヘン戦争」、1856年の「アロー戦争」を経て、屈辱的に西洋列強の浸蝕を受けるようになっていた。

 朝鮮の近海にも、西洋列強の船が頻繁に出没していた。25代哲宗が後嗣がないまま崩御すると、26代高宗(在位1863~1907年)が12歳で即位した。国王に直系の王位継承者がいない場合、王族内から次王を選び、その次王の実父を大院君と尊称することになっていたのだが、高宗の父である輿宣君(1820~1898年)が政治権力を一手に握るようになった。「輿宣大院君(フンソンテウォングン)」の誕生である。

 輿宣大院君は、勢道政治を是正するため安東金氏らを排除、それまで不遇な扱いを受けていた南人や北人からも有能な人材を登用、三軍府を復活させて国防を強化、免税・免役


などの特権で優遇されていた約600ヶ所もの書院を廃止、量田事業を実施するなど王権の強化に努めたが、対外面では「鎖国政策」を取っていた。明治維新の2年前の1866年にはアメリカとフランスとの二つの武力衝突もあり、本土と江華島の間の漢江に多くの大砲を配備するなどをした。大院君は「斥和碑(斥洋碑)」を全国に建立、徹底抗戦の道を選んだ。斥和碑とは、「衛正斥邪」であり、朱子学(正)を衛(まも)り、邪(西洋やその影響を受けた日本)を斥(しりぞ)けるというものである。日本における「尊皇攘夷」に似た政策といえるが、日本を邪の手先とみる点で、大きく異なっていた。

 日本の維新政府は、対朝鮮外交を江戸時代から継続して対馬藩に当たらせた。王政復古を知らせる使節に、従来の対等な交渉相手としてではなく、「皇」や「勅」の字が用いられていたため、大院君政権は受取を拒否。維新政府では西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らの「征韓」思想が高まったが、板垣は居留民保護を理由に朝鮮派兵を唱え、西郷らは派兵に反対するなど一枚岩とはいえなかった。ところが、洋行中であった岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らの岩倉使節団が帰国すると、内治優先を主張したため、「征韓論争」が繰り広げられたが、結果的に、内治優先派が勝利、板垣や西郷は下野する事態となった。

 一方、朝鮮国内においても、大院君の鎖国政策を支えていた衛正斥邪派の儒者たちが、大院君の施政を激しく批判、大院君は退陣に追い込まれた。そして、成人した国王高宗による親政を目指したのだが、結果的に高宗の外戚であった閔氏(びんし)による新たな勢道政治の開始であった。新政権は、鎖国攘夷論を改め、日本に対しては妥協的な姿勢をみせるようになった。1874年、台湾に漂着した琉球島民54人の殺害を契機として、日本が台湾に出兵すると、朝鮮政府はより軟化的な対応をするようになっていった。


 より高圧的になっていた日本政府だったが、江華島(こうかとう)に軍艦を進め朝鮮側の発砲を誘発するなど(江華島事件)の口実をつくり、開国を要求、1876年には「日朝修好条規」を締結するに至った。朝鮮政府内部には、これに反対する意見もあったが、閔氏政権はこれを断行した。続いて、「日朝修好条規付録」「日朝通商章程」などが調印されたが、これらは明らかな不平等条約であった。日本が西洋列強に強要された不平等な内容に加え、開港場における日本貨幣の使用などを認めさせるものであった。朝鮮を舞台とする清国と日本の軋轢が始まることになった。

 朝鮮内部でも、1882年に、漢城(後のソウル)において閔氏政権の転覆を企てて日本公使館などを襲撃するという「壬午軍乱(じんごぐんらん)」などが発生、閔氏政権要人が多数殺害された。その乱を扇動したのが輿宣大院君だった。大院君が政権に復帰すると、一転、開化政策が否定される事態となった。その際、高宗の后であった閔妃(ミンピ/明成皇后)は、清の袁世凱の助けを借りて脱出していたが、公使館襲撃などの責任を問うた日本軍が出兵、また清も藩属国保護の名目で出兵し、さらに大院君を捕捉したのであった。わずか1ヶ月で高宗の親政政治、すなわち閔妃を中心とした勢道政治が復活したのだった。

 しかし、開化政策では一致していても、金功集らの清国との伝統的な宗属関係を重視する流れと、金玉均(キムオツキュン)らを中心とする日本との関係を重視して清からの独立を主


張する二つの流れがあった。一方、閔妃は、呪術儀式に熱中したり、遊興三昧の生活を送りながら、次第に清国に対して「事大主義」に傾いていった。1884年には、金玉均らが中心となり、閔妃の追放を目指して、竹添進一郎日本公使の支援を取り付けた上で「甲申政変」を起こし、閔氏要人等の殺害に成功した。しかし、袁世凱率いる清軍が出動すると、形勢不利を察知した竹添公使は卑劣にも態度を一変、軍事的後ろ盾を失った金玉均政権は、わずか3日で崩壊した。金玉均は日本へ脱出する。その後、金玉均は、小笠原諸島や北海道に幽閉された後、上海において閔妃(国王ともいわれる)の放った刺客により殺害された。この金玉均らの急進開化派を福沢諭吉が援助していたことは広く知られている。

 このころの朝鮮は、清国との宗属体制の下、西洋列強とも不平等条約を締結せざるを得ない状況となっており、日本産の綿布や、清を経由したイギリス製綿製品の輸入により、在来の綿織物業の発展が抑止されていたが、朝鮮からの輸出も増大、輸出額に占める対日輸出の割合は穀物を中心として9割を超えていた。それは逆に言えば、伝統的な朝鮮の経済循環が破壊される状態でもあった。このような状況に対して閔氏政権は有効な対策を打つ能力もなく、自らの奢侈に明け暮れていたのであった。日本における、応仁の乱などで疲弊し、死者が到る処に放置された世情のなか、無政府状態を続けた日野富子らを中心とした室町政権と同様な状態であったともいえよう。


日清戦争と大韓帝国の成立

 東学(天道教)は、西洋の宗教の教えである西学(天主教)に対抗するという意味が込められていたが、民間信仰を基に儒教・仏教・道教などを取り混ぜた独自の宗教であり、真心を込めて呪文を唱え霊符を飲めば天と人とは一体になり、現世において神仙となることができるというものであった。そして、宗教がいつもそうであるように、民衆の支持を得ると同時に多くの異端が生まれるようになっていった。朝鮮政府は、東学が世の中を混乱させ農民を欺くものとして、教祖・崔済愚(チェジュウ)を処刑するなど厳しい弾圧で臨んだ。

 1894年、全羅道古阜郡で東学党による武力闘争が蜂起、農民軍を組織して政府軍と戦闘したが、政府軍は次々と打ち破られ、郡の都がある全州(チョンジュ)まで占領されてしまった(東学党の乱/甲午農民戦争)。慌てた朝鮮政府は、清の助けを借りてこの戦いを鎮圧しようとした。この動きを知った日本も、清との天津条約を理由として軍隊の派遣を決定した。

 東学党らの農民軍は、このような日清軍の介入を防ぐことと、農繁期に備えるために、政府の改革案の受理を条件に撤退を決意。日清両国軍が到着したときには、既に農民軍は撤退した後だった。しかし、日・清の軍隊は撤兵しようとはせず、日・清は朝鮮の内政改革にあたる案を提示した。改革案を拒否した朝鮮政府に対して、大鳥圭介公使は、景福宮を占拠、閔妃政権を打倒し、清国から送還されて蟄居中だった大院君を担ぎ出して金弘集(キムホンジプ)を首班とする政権を樹立した。しかも、日本軍が清艦隊を先制攻撃するという暴挙に打って出た。日清戦争(1894年7月~1895年3月)の開始であった。


21世紀の中国と朝鮮半島

 日本は朝鮮政府に対して「大日本大朝鮮両国盟約」などで日本軍への便宜供与を義務づけ、近代化が遅れていた清軍を圧倒、日本が優勢なまま日清講和条約が締結された。その際、日本は清から遼東半島、台湾、澎湖列島の領土と多額の賠償金を得ることとなったが、ロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」により遼東半島の割譲は諦めた。一方、日本軍による露骨な侵略に反対する農民軍は再度、蜂起したが、日本軍・朝鮮政府軍により「掃討」されていく。近代日本が海外で行った最初の大規模な「殺戮」が行われた。

 朝鮮は、清国との宗属関係を破棄、従来の清年号の使用に替えて開国紀年(朝鮮王朝建国の年1392年を元年とする)の使用を開始し、金弘集政権による甲午改革が実施された。しかし、井上馨が新任公使として就任すると、日本から帰国した朴泳考等を大臣として入閣させるなど、露骨な内政干渉が始まった。こうした状況から、高宗・閔妃勢力が日本の牽制を目的としてロシアに接近すると、危機感を抱いた新任公使三浦梧楼は、親露派の中心人物であった閔妃殺害という暴挙に出た。惨殺した閔妃の遺体は、松林に運ばれ焼き捨てられたという。


 三浦公使等は償還されたが、形式的な裁判に付されただけで無罪となった。日本において、広島監獄から放免された三浦は「沿道到る処、多人数群して、万歳万歳の声を浴びせ掛けられたという。世論とそれを扇動するメディアが狂っていた世相である。しかも、日本国民の大多数は忘れ去っているが、韓国国民が当時も今も、それを非難する事実を忘れてはならない。

 閔妃殺害後、断髪令が交付されるなど親日的な内閣が組織されると、朝鮮国内においても反日感情が爆発、義兵闘争など勃発、漢城の警備兵力が手薄となった期に乗じて、1896年、高宗がロシアの力を頼み、ロシア公使館に待避した。甲午改革を推進する政権が瓦解したのだった。政権を追われた開化派、金弘集らは、国王から「逆徒」「国賊」と罵られた上、市内で惨殺された。こうして日露の角逐が深まる中、1897年、一年ぶりに高宗がロシア公使館を出て、慶運宮(後の徳寿宮)に移り、王権強化に乗り出した。年号を「光武」と改め、皇帝即位式を挙行、国号を「大韓(テハン)帝国」と定めたのであった(光武改革)。


日露戦争とその後の韓国併合と三一運動

 大韓帝国は、日露などの列国を相互に牽制させ勢力均衡を保ちつつ自国の独立を維持しようとしたが、1899年、清で義和団運動が発生。高宗は「中立化」を模索していた中、1902年に日英同盟が締結された。日露間の開戦の危機が迫る中、1904年1月「戦時外中立」を宣言したが日露の承認は得られなかった。同年2月、日露戦争が勃発すると、朝鮮半島北部や満州を舞台に日露の戦闘が開始されたのだった。さらに日本は日韓議定書において、日本軍の駐留権や土地収容権を認めさせ、大韓帝国の内政・外交・経済すべての分野の掌握に成功した。日本による顧問政治の開始であった。

 1905年には、日本は「韓国保護権確立の件」を閣議決定、外交権を奪い取るとともに保護国化を決定した。同年9月には、日露戦争の結果として、日露講和条約が締結されたが、アメリカのフィリッピン支配及びイギリスのインド支配が交換条件とする、日本による韓国支配が帝国列強に承認されることとなった。1906年2月には韓国統監府が開設され、3月には伊藤博文が初代統監として赴任した。さらに、1907年6月には、内閣総理大臣に李完用(イワニョン)を就任させ、日本に対抗しようとする高宗を牽制した。

 高宗は、オランダのハーグで開催される第二回万国平和会議に密使を派遣するが、韓国には外交権がないという理由で会議への参加を拒否される「ハーグ密使事件」が起きた。それを契機とした日本は、高宗に退位を迫り、27代となる長男の純宗(スンジョン/在位期間1907~1910年)に譲位させた。譲位式は両帝とも不在のまま行われたという。この後、各部次官や地方官庁の要職なども日本人を就任させるという、日本の朝鮮における内政権の全面的な掌握が挙行されたのであった。

 韓国国内には、「愛国啓蒙運動」や「義兵闘争」などの朝鮮人による国権回復運動が展開された。統監府は、国権回復運動に反対するメディアを創設、さらに韓国メディアへの弾圧が強化されていった。義兵闘争は、1908年には最高潮とな


り、日本軍との交戦により17,688名の義兵が死亡したという。1909年10月には、ハルピン駅を訪れた伊藤博文が、安重根(アンジュングン)により射殺される事件が起こった。安重根は、翌年、旅順監獄で射殺された。その事件を契機として、1910年8月、日本による「韓国併合」が断行された。民族国家としての朝鮮が世界地図から消滅したのであった。1392年から500年以上にも渡って続いた、朝鮮王朝も滅亡した。日本の植民地となった韓国には、韓国統監府に替わって朝鮮総督府が設置され、初代総督には最後の統監だった寺内正毅が就いた。

 朝鮮総督は、大日本帝国憲法の施行対象外とされ、強大な権限を持ち、1945年の太平洋戦争の終戦まで10代(8人)が就いたが、すべて軍人であった。旧朝鮮王朝(大韓帝国)の皇族は、王族・公族として日本の皇族に準ずる処遇を受けたが、総督府中央の要職は日本人が占めていた。教育面においても、すべての教科の教授用語が日本語となるなど、日本への同化が進められた。1919(大正8)年8月に起こった「三一運動」は、朝鮮近代史上最大の民族運動とされている。しかも、三一運動の先導的役割を最も直接的に果たしたのは、日本における朝鮮人留学生であった。

 高宗の死に対する疑いをきっかけとして発生した三一運動だったが、ほとんどの府郡でデモが発生、開かれた集会の回数1,500回、参加人数200万人以上にものぼった。この独立運動を予見できなかった総督府だったが、徹底的な弾圧を開始したため、約1年間に渡って続けられた運動も下火となっていった。しかし、日本、中国、ソ連沿海州、アメリカなどにも波及して続けられ、日本国内においても、吉野作造や宮崎滔天、柳宗悦、石橋湛山らが運動への理解を示したが、圧倒的多数の日本人はそれを理解しようとはしなかった。このような認識が、関東大震災における朝鮮人虐殺の誘因になったともいわれている。メディアも日本国民もその責任は大きいといえる。三一運動は、中国共産党が誕生する起点となったといわれている「五四運動」、インドのガンジーによる「第一次非暴力運動」、エジプトの「反英自主運動」、トルコの「民族運動」などへの触発となったとする見解もある。



韓国併合
海野福寿
岩波新書
岩波書店

民族独立運動と海外流出

 三一運動が発生したころ、1919(大正8)年8月に、第三代朝鮮総督となった斉藤実(まこと)は、従来の「武断政治」から「文治政治」への転換をはかった。また翌年、会社令を撤廃して日本資本が自由に朝鮮に進出できるようにしたため、財閥系の大規模工場が各地に設立され、その影響下で京城紡織などの民族資本が勃興するようになった。1927年にはラジオ放送が開始(日本ではその2年前)されたり、京城(ソウル)には鉄筋コンクリート製の総督府庁舎や京城駅などの近代建築が現れた。また、労働運動の活発化とともに、社会主義思想が浸透し、李東輝(イドンフィ)らが1918年にハバロフスクで組織した韓人社会党は後に上海に移り高麗共産党<上海派>となり、ソ連のボルシェビキの影響を受けた金哲勲(キムチョルフン)は1919年ソ連イルクーツクで全露韓人共産党<イルクーツク派>を結成した。

 同じ1919年の4月、上海に独立運動家が結集して、共和主義的志向の基に「大韓民国臨時政府」が樹立され、6月には李承晩(イスンマン)を大統領に選出した。しかし、内部争いも絶えなかった。1920年代の土地・農地改良事業である失敗した「産米増殖計画」の実施や干害の影響を受けて、朝鮮では農民の没落が進み、「土幕民」と呼ばれる都市細民や土地を失って焼畑耕作をする火田民への転落と同時に海外へ流出する人々が増えていった。日本への渡航も増大し、1920年には約3万人に過ぎなかった在日朝鮮人人口もその後の10年間で10倍にも増えていった。また、独立運動も次第に凶暴化するとともに、「間島事件/琿春事件」なども発生した。


朝鮮半島の今

満州事変から日中戦争(太平洋戦争)

 朝鮮の工業化は、主に北部地域で進んだため、南部の農村過剰人口が北部へ移動する状況となったが、朝鮮民衆の生活向上には直結しなかった。また、この工業化は日本の工業化の補完でしか過ぎなく、今後予想される戦力増強に備えた政策でもあった。

 朝鮮の人々の海外流出は、日本よりもさらに中国への移住の方が多かった。1931(昭和6)年における満州の朝鮮人は60万人にものぼっていた。朝鮮人は日本の手先とみる中国の考え方もあり、1931年7月、中国吉林省において、朝鮮移住民と中国農民との間で衝突が発生(「万宝山事件」)、その影響は平壌における朝鮮人の華僑への報復事件となった。同年には、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、日本の所有する南満洲鉄道(満鉄)の線路が爆破される「柳条湖事件」が発生した。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表したが、事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎と関東軍作戦主任参謀石原莞爾だった。日本の世論・マスコミは中国の非道を糾弾する声で溢れた。

 柳条湖事件をきっかけとして日本が引き起こしたのが「満州事変」である。5ヵ月の間に日本関東軍は満洲全土を掌握、その主導のもと、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政(後に皇帝)とする「満洲国」の建国が宣言された。一方で、満州は多数の朝鮮人移住民を基盤に、中国の抗日勢力とも連帯し、朝鮮独立運動の基盤ともなっていった。


 1937(昭和12)年に「日中戦争」が開始されると、朝鮮は日本の戦争遂行のための兵站基地としての役割をより強化させられていった。と同時に、日本国内の労働力不足を補うために、「国民徴用令」などが適用され、多くの朝鮮人が日本に渡った。特に、炭鉱労働者数に占める朝鮮人の割合は、1939(昭和14)年の3%から1944(昭和19)年には33%にも達した。さらに、1938(昭和13)年の「陸軍特別志願兵令」の公布により、多くの朝鮮人が兵力としても動員された。そして今日の「慰安婦問題」の先触れといえる、中国戦線における強姦事件が多発したために考え出されたのが「管理売春制度」であった。

 1916(大正5)年に制定された「貸座敷娼妓取締規則」に基づいて、朝鮮全土において公娼制度が実施されたのである。この制度の下、台湾や満州などの日本軍への「売春業」のための朝鮮人「慰安婦」らが大量動員されていった。売春業の事業主体が軍でなかったにせよ、その管理の下、朝鮮あるいは日本の業者が行ったという事実が消えることはない。

 1938(昭和13)年には、第三次朝鮮教育令が公布され、徹底した「皇民化」教育が行われるようになり、朝鮮語が随意科目となり実質的に廃止された。とはいえ、就学率も向上していった。1940(昭和15)年には、「創氏改名」が実施され、戸籍上の姓を日本式の氏名に替えただけでなく、家族制度の変更が強制された。強制ではないとされたが、届け出率は8割に達したという。そして、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の後、1945(昭和20)年8の日本のポツダム宣言の受諾によって、日本の朝鮮支配は終了した。


38度線と朝鮮戦争

 日本の敗戦に先立ち、8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、日本は悲惨な被害を被っているが、たとえ戦争といえども、アメリカの非道は許されるものではないだろう。また、ソ連は、8月9日には羅津(ナジン)・雄基(ウンギ)を占領したが、8月10日にはアメリカの国務・陸軍・海軍三省調停委員会において北緯38度線での米ソによる朝鮮半島分割占領を決定、ソ連もそれを承認した。

 日本敗戦と同時に、ソウルでは朝鮮建国準備委員会が結成され、朝鮮人民共和国建国の産声を上げたのだが、アーノルド在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政長官は朝鮮人による統治を認めようとはしなかった。同年12月には、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会議が開かれ、民主主義的原則に基づき、独立国家を建設するための南北民主主義臨時政府を樹立、それを支援するための米ソ共同委員会を立ち上げ、米・英・ソ・中4カ国による最高5年間の信託統治が決定された。日本が撤退した後の、朝鮮人不在の列強による新たな侵略でもあった。南朝鮮では、それに反対する勢力と賛成する勢力の対立が深まっていった。

 スターリンは、大戦後、日本の北海道北部の分断占領を求めたという。しかし、トルーマンはそれを認めなかった。それに引き替え、朝鮮半島における38度線分断は両者の合意のもとに形成された。ドイツも分断されたが、ここにおいて朝鮮半島における悲劇が生まれる所以となった。日本も危うかったのである。「こうして、朝鮮半島の分断占領は分断国家をつくり出し、統一をめざした朝鮮戦争が同一民族間に勃発し、悲劇と憎悪を生み、いまなお、分断状態と相互不信の歴史が続いている。ここに敗戦国と解放国との明暗は逆転することになったのである。/日朝関係の克服(姜尚中・集英社新書)」

 1946(昭和21)年2月、米軍政は信託統治の諮問機関として南朝鮮代表民主議院を創設、議長には李承晩が就任した。一方、左派勢力も朝鮮民主主義民族戦線を結成、左右の合作運動も展開されたが、挫折してしまった。また、中国東北地方や日本に移住していた人々が一斉に帰還したため、


社会的な混乱に拍車がかかった。そして米軍による、左派勢力への弾圧が始まった。1947年10月には、国連総会において、米国の提案を受け、国連監視の下で南北朝鮮総選挙を実施することが決定したが、ソ連と北朝鮮の反対により、北朝鮮側が38度線以北への進入を拒否したため、朝鮮半島全域での選挙は不可能となった。

 38度線以北では、1945年9月に、スターリンの名で北朝鮮占領方針の基本指令が出され、親ソ政府の樹立がはかられていた。解放後の北朝鮮の政局を主導したのは共産主義者だったが、解放後に朝鮮共産党を再建した朴憲永(パクホニョン)らの国内系、国外から来たソ連国籍をもつソ連系、中国東北地方で抗日闘争を行った金日成(キムイルソン)らの満州派に分かれていた。そして、中国華北地方で朝鮮独立同盟を結成していた金<木+斗>奉(キムドゥボン)らの延安系の共産主義者が帰国すると、次第に満州派の金日成をソ連系と延安系が支えるという体制が整えられていった。金日成は、地主から無償で土地を没収し、小作農に無償で分配するといった土地改革や司法改革を進めていった。

 1948(昭和23)年には、南北の要人会談の呼びかけなどがあり、南北協商運動への動きもあったが、同年8月には南朝鮮で李承晩を初代大統領とする大韓民国(テハンミングク)が成立、9月には北朝鮮で金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(チョソンミンジュジュウィインミンコンファグク)の樹立が宣言された。米ソ対立の中、今日まで続く、お互いに相容れない体制が38度線を境に誕生したのであった。

 第二次世界大戦において日本は敗北、中国大陸から撤退したが、中国国内における国共内戦は激しさを増していった。そして、ソ連からの支援を受けた毛沢東が率いる中国共産党の人民解放軍は、蒋介石率いる中国国民党の中華民国国軍に全面的に勝利、蒋介石らは台湾に追われることになった。台湾は、清に追われた明と同様に、再び中国本土からの亡命政権を受け入れたのであった。1949年には、共産主義政党による「中華人民共和国」が中国本土に樹立され、毛沢東が中央人民政府主席となった。



日朝関係の克服
姜尚中
集英社新書
集英社

 資本主義陣営の米国と社会主義陣営のソ連により南北に分割占領されていた朝鮮半島だったが、中華人民共和国の成立は、北朝鮮の金日成にも大きな影響を与えた。38度線以南の左派ゲリラによるバルチザン闘争や38度線付近での中小規模の軍事衝突が頻発する中、1950年5月の韓国総選挙で李承晩勢力が大敗すると、金日成はソ連のスターリンと中国の毛沢東の承認を得て、開戦の決断をした。1950年6月25日未明、北朝鮮の人民軍が甕津(オンジン)半島の38度線を越え、3日後にはソウルを占領して、さらに南に進撃した。この時点での戦争能力は、北朝鮮が韓国を凌駕する装備と戦闘能力を保有していた。李承晩はソウルを脱出、朝鮮半島南端にある釜山に遷都して抗戦体制に入った。

 米国は、国連において安全保障理事会での北朝鮮への非難決議を採択させ、国連軍による韓国援助を決定させた。日本に駐留していたマッカーサーに地上軍の派遣を許可し、イギリス、タイ、コロンビア、ベルギーなどの国連軍も参加した。しかし、実戦経験が豊富な兵士は既に退役、新たに徴兵された米韓軍を中心とする国連軍は、初戦に勝利し士気が高かった北朝鮮軍に追い込まれていった。

 だが、9月15日の国連軍による仁川上陸作戦により、戦局は一変した。この作戦により、補給線が分断した北朝鮮軍は致命的な打撃を受け、総退却、逆に全朝鮮を統一して「民主政府」を樹立する目標を掲げた国連軍により、平壌が占領さ


れ、一部は中国国境付近にまで追い込まれてしまった。窮地に追い込まれた金日成は、スターリンと毛沢東に支援を要請、10月19日には、中国人民志願軍12個師団(18万人)が鴨緑江(アムノッカン)を超えて参戦した。さらに中国の参戦を得て、再び戦局は逆転、新たな「米中/米ソ戦争」に突入したのであった。

 平壌を奪還した北朝鮮連合軍は、1951(昭和26)年1月、ソウルを再占領したが、3月には国連軍によりソウルが再奪還されると戦況は膠着状態に入った。こうしたなか、ソ連による提案を受けて、1951年7月に開城(ケソン)にて停戦会議が始まり、停戦協定が調印されるとともに軍事境界線の南北に非武装地帯(DMZ)が設定された。しかし、この協定は戦争の一時停止を定めたものであり、現在もなお戦争は終結していない。

 この戦争では、南北ともに住民や捕虜の虐殺が記録されており、物的被害も甚大であり、南北の国土は荒廃した。戦争による犠牲は、南北併せて200万人を超えているといわれている。一方、日本は、「朝鮮特需」といわれる好景気に沸いた。朝鮮戦争には日本は参戦していなかったが、国連軍の要請を受けて掃海艇を派遣している。参加したのは海上保安官や民間船員約8,000名だったが、50名以上もの命を失う結果となった。


南北における国家建設

 朝鮮戦争後の李承晩政権は、軍事的にも経済的にも米国依存度を高めていった。また、当初は日本への国交正常化交渉を初めとする日韓「防共協調」を呼びかけていたが、過去への清算を表明しようとしない日本側の姿勢、さらに日韓会議で韓国併合を肯定する「久保田発言」を巡る議論を経て、強行に「反日」を示すようになっていった。また国内においても、反対する勢力を弾圧したり、「釜山政治波動」「四捨五入改憲」など強引な政治手法で、永久政権への道を開いていった。

 1949(昭和24)年1月には、李承晩は「対馬領有」を宣言したが、米英によって拒否された。また、1952(昭和27)年1月に宣言した「李承晩ライン」は、韓国政府が一方的に日本海・東シナ海に設定した軍事境界線ともいえる排他的経済水域の設定であった。この領海内では、韓国漁船以外の操業は認められないとした。その際、組み入れられたのが現在まで紛争が続く「竹島」であった。李承晩ラインは、日韓漁業協定が1965(昭和40)年に成立されて廃止されるまで、多くの日本人拘留者を生んだ。死者も40名を超えている。

 1960年の第4代大統領選挙における不正選挙に対する抗議活動は、「4月革命」といわれるが、学生と市民によるデモ活動は国会議事堂周辺を埋め尽くした。84歳になっていた李承晩は、ここにおいて辞任を表明、ハワイに亡命(5年後、ハワイにて死去)する。副大統領として当選していた李起鵬は辞任していたが、その後、一家心中をしてしまう。デモ隊へ向けての発砲を命じた崔仁圭内務長官、郭永周大統領警護室長や暴力団幹部らは死刑となった。そして、李承晩政権の外務部長官だった許政(ホジョン)による暫定政府が発足、議院内閣制による第二共和国憲法が成立した。

 新憲法では大統領の権限が大幅に縮小され、国務総理が国家の実質的な指導者として政務を担当するようになった。続いて、第5回民議員選挙と参議院選挙が実施され、新しい大統領と国務総理が選ばれた。新体制は、言論・集会の自由が保障され民主化が進められたが、それまで李承晩政権下で押さえ込まれていた不満や不正疑惑が噴出したことにより、社会は混乱した。そして最も不満を募らせていた若手将校を中心とする軍部らは、1961(昭和36)年5月、朴正熙(パクチョンヒ)少将を中心とした軍事クーデターを決行、全国に非常戒厳令を宣布した。権力を掌握した朴正熙が大統領権限も代行、革命裁判所と革命検察部を設置して李承晩政権の不正を裁くとともに、国家保安法を強化して革新政党や学生団体・労働組合を多数検挙した。米国は、クーデーター3日


後に支持を表明したというから、何かキナ臭いものを感じさせる。

 朴正熙はその後、軍職を辞して僅差で大統領に選ばれると新憲法を発効、第三共和国が始まった。難航していた日韓交渉だったが、朴政権下で1965(昭和40)年6月、日韓条約(日本側佐藤栄作内閣総理大臣)が締結された。韓国の知識人・学生・野党・言論は大規模な反対運動を展開したが、非常戒厳令を発布して暴力で押さえ込んだ。しかし、植民地支配・戦争の真相究明や謝罪などの「過去の精算」は未解決のまま、無償供与3億ドル、有償供与2億ドル、民間借款3億ドル以上の提供が約束され、財産請求問題が解決されたことが確認された。このとき懸案だった竹島問題は棚上げされていた。

 一方、北朝鮮では、1953(昭和28)年8月の党中央委員会において、経済復旧発展3カ年計画が決定され、重工業重視路線や農業集団化が打ち出されていた。しかし、スターリン死後のソ連では、軽工業・農業・重工業の均衡発展論が唱えられたことで、修正を余儀なくされた。さらに、朝鮮労働党内での激しい権力闘争も起こり、金日成個人崇拝批判も展開されたが、結果的に金日成らの主流派が延安系とソ連系を粛正、独占体制が完成された。北朝鮮は中ソとそれぞれに友好協力相互援助条約を締結していたが、1962年頃からソ連と対立し、親中国路線を強めていった。しかし、1966年に至ると文化大革命を起こした中国とも対立するようになり、自主更正の独自路線を歩むようになった。一時的に国民総生産が倍増した時期もあったが、農業不振、資源不足、外資不足、軍事費の急増などとともに、さらなる権力闘争と粛正も起こり、金日成を唯一の指導者とする「主体(チェチェ)思想」が提起されたが国内的には疲弊していった。

 それに対して、日本との国交正常化を果たした韓国は、米国の支援の下で、ベトナムへ派兵するなど、破竹の勢いの経済開発を進めていった。朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた韓国だったが、ベトナム参戦による「ベトナム特需」により、三星、現代などの財閥も急成長した。朴政権は、ケネディ大統領時代にもベトナム派兵を申し出たが断わられていた。しかし、ジョンソンが大統領になると逆に派兵を要請され、すべての韓国軍将兵に対しても戦闘手当が米国から支払われるなど、経済援助の増額や軍需品の一部調達が行われた。韓国は1973年1月までに、米国に次ぐ延べ31万人以上の兵力をベトナムに派遣した。その際、韓国軍によるベトナム民衆を虐殺した事件が、後に問題となった。


テロに倒れた「維新体制」と鎮圧された「ソウルの春」

 1971年4月、第7代大統領選挙が行われ朴正熙が3選したが、強権政治に対する批判や南北和解を掲げた金大中(キムデジュン)との接戦をかろうじて制した結果だった。野党も議席を倍増させ、朴長期政権に対する不満が高揚したため、朴正熙は1972(昭和47)年、非常戒厳令を布告、国会の解散、政治活動の禁止、大学の閉鎖などを断行し、「維新憲法」を制定した。朴正熙による永久政権への道を開く「維新体制」が成立したのであった。さらに、南北対話も進め、南北共同声明を発表した。

 しかし、強権的な維新体制に反対する運動は1973(昭和48)年ころから激しくなり、東京にいた金大中が拉致されるといった事件も発生した。1978(昭和53)年の国会議員選挙では野党新民党が与党民主共和党を得票率で上回りながら、維新憲法により議席数は与党が多数を占めた。そして、1979(昭和54)年10月、中央情報部長の金載圭(キムジェギュ)が朴正熙らを射殺するというテロ事件が発生した。

 朴正熙政権は、輸出指向型の工業化を推し進め、年平均成長率が10%近い高度経済成長を達成した。「漢江の奇跡」ともいわれる経済成長だったが、財閥中心の経済構造、財閥と政治家の癒着による腐敗、工業と農業の不均衡発展、都市と農村の格差拡大など、急激な工業化に伴う不満や不平が大規模な労働・社会運動を誘発した。


 朴正熙の死去後、文民出身の崔圭夏が大統領となり、尹<サンズイ+普>善(ユンボソン)・金大中・金泳三(キムヨンサム)らの公民権が回復され、「ソウルの春」といわれた政治的宥和期が訪れた。ところが、1979(昭和54)年12月に全斗煥(チョンドファン)保安司令官らの新軍部が軍の実権を掌握すると、1980(昭和55)年5月に非常戒厳令を敷いて武力による鎮圧に乗り出し、金大中等を連行した。金大中の拠点でもあった全羅南道光州では、駐韓米軍の許可を得て戒厳軍を投入、デモを武力で弾圧した。この「光州民主化闘争」では、光州市民70万人のうち30万人が参加したといわれている。そして2万人を超える死傷者と約2000名の逮捕者を出した。翌年開かれた軍法会議において、金大中はその暴動を扇動したとして死刑を宣告されたが、国際的な批判もあり、その執行は行われなかった。

 実権を握った全斗煥は、1981(昭和56)年3月、第12代大統領に就任、憲法改訂を実施、民主化運動を弾圧した。対外的には、米国のレーガン政権と日本の中曽根政権との結びつきを強め、「日韓新時代」といわれた。また、国際経済における低油価格、低金利、低レート(三低現象)にも助けられて、高度経済成長を継続、南北の格差は歴然と広がっていった。このころから、韓国と中国では日本の歴史教科書記述を批判する声が強くなり、大衆の目をそらすともいえる政策が展開されるようになっていった。


北朝鮮の混迷

 韓国の維新体制に対して、1972(昭和47)年、北朝鮮においても新憲法「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」が制定された。新憲法では、マルクス・レーニン主義と並ぶ形で「主体思想」が明文化され、最高人民会議の上に共和国主席(国家主席)と中央人民委員会が新設され、1974(昭和49)年には、金正日(キムジョンイル)が後継者として公認された。しかし、1980年代末から韓国が東欧諸国・ソ連・中国と国交を樹立、そしてそれらの国々における社会主義体制が崩壊していった。朝鮮式社会主義を強調する北朝鮮の国際的孤立が深まっていった。

 1994(平成6)年、金日成が死去、さらに核関連施設への査察の受け入れを巡って国際原子力機関(IAEA)から脱退を宣言、危機が高まったが、米国のカーター元大統領の訪朝により危機は回避された。1994年以降の北朝鮮における大規模な水害は、極度の食糧危機やエネルギー不足に陥り、中国や韓国への「脱北者」が増加した。1998(平成10)年には、二度目の憲法改正を実施、「強勢大国」を打ち出して、経済と科学技術の発展を目指すことを表明した。

 2000(平成12)年の「太陽政策」によって、韓国の金大中政権との南北首脳会談をきっかけとして、国際社会に食糧支援・経済支援を求め、韓国企業の誘致などで部分的にせよ開放路線を進め、米国のクリントン政権との「米朝共同コミュニケ」に合意した。しかし、2001(平成13)年、米国大統領がブッシュ・ジュニア政権に替わり、イラン・イラクとともに「悪の枢軸」を一般教書演説で示すことにより、米朝関係は悪化の一途を辿った。


 1974(昭和49)年の朴正熙大統領夫人の射殺事件、1983(昭和58)年のラングーンにおける全斗煥大統領一行を狙った爆破テロ、1987(昭和62)年の大韓航空機爆破テロ、そして日本や韓国、タイなどの民間人の拉致には、金正日が関与しているとの見解もあるが、いずれにしろ北朝鮮という国家がこれらのすべてではないにしろ、犯罪を行った事実は消されるものではないだろう。かつての日本が行った数々の犯罪とそれらを比すこともできるともいえる。「強壮大国」「米国の傲慢な鼻柱をへし折る」などといった文言は、かつての日本の姿を彷彿とさせる。それは、姜尚中がいうように、「日本の国民のある世代にとっては、思い出したくもない過去の自画像が、亡霊のように目前に蘇ったかに見えているのだろう。/日朝関係の克服/集英社」といった見解を否定できようもない。

 日本との関係では、国交樹立の実現を目指して、幾度かの交渉が1990年以降繰り返されたが、中断、再開が続いた。2002(平成14)年9月に、小泉内閣総理大臣が平壌を訪問、金正日国防委員会委員長との首脳会談によって「日朝平壌宣言」が交わされ、小泉首相が1998年の日韓共同宣言と同様な植民地支配に対する「お詫び」を表明、そして金正日が初めて13人の日本人拉致を認めて謝罪した。その際、5名の24年ぶりの帰国が実現した。

 2011(平成23)年、金正日の死去によって、三男の金正恩(キムジョンウン)が後継者として権力を継承した。叔母にあたる金敬姫の夫である張成沢(チャンソンテク)がナンバー2として、その後見にあたっていたが、2013(平成25)年、突如として粛正・処刑された。中国とのパイプ役でもあった張成沢の排除により、その後、中国との関係が齟齬をきたすようになっているなか、ソ連との関係修復をはかっているといわれている。


韓国における民主化の進展

 全斗煥は、1983(昭和58)年には、学園自律化、除籍学生の復学、政治活動規制の解禁などの宥和措置を打ち出したが、逆に、民主化運動の組織化は進み、光州民主化闘争において米国が容認したことに対する米国批判が叫ばれるようになってきた。1987(昭和62)年6月には、学生が催涙弾で瀕死の重傷を負う事件を契機として、全国各地で100万人以上のデモが続いた。全斗煥の後継者に指名されていた盧泰愚(ノテウ)は、与野党合意による大統領直接選挙制改憲、人権侵害の是正、金大中等の政治犯の赦免・復権などの「6・29民主化宣言」を発表、全斗煥政権もそれを受け入れざるを得ない状態となっていた。

 同年の12月の大統領選挙では、野党の分裂に乗して盧泰愚が当選、第13代大統領となった。しかし、翌年に行われた国会議員選挙では、野党が多数を占めるという政治状況が生まれた。盧泰愚政権は、金泳三らの統一民主党と合同、民主自由党を結成、政局の転換をはかり、1988(昭和63)年のソウルオリンピック開催の機に、社会主義諸国と外交関係を結ぶ「北方外交」を展開した。1990(昭和65)年にはソ連、1992(昭和67)年には中国と国交を樹立した。南北の格差が決定的になった瞬間であった。1990年には北朝鮮と同時に国連加盟を果たしている。

 1992年12月の大統領選挙では、金泳三が金大中を破って第14代大統領に当選、32年ぶりの文民大統領が誕生した。1995(平成7)年、戦後50周年記念式典において、日本の村山内閣総理大臣が植民地支配に対する謝罪宣言(村山談話)を発表、旧総督府庁舎も解体された。村山談話に先だって、1993年には、内閣官房長官であった河野洋平が「従軍慰安婦問題」について、慰安所設置に対する日本軍の直接・間接の荷担を認めて発表したのが、「河野談話」である。


 金泳三政権は、収賄容疑で盧泰愚前大統領を逮捕するとともに、光州民主化闘争などの鎮圧の責任や不正蓄財を問うて全斗煥元大統領も逮捕した。二人が並んで判決を言い渡されるニュースが全世界に配信された。1996(平成8)年には、2002(平成14)年のワールドカップ日韓共催が決定したが、「漢江の奇跡」と称えられた韓国経済が破綻、国際通貨基金(IMF)の支援を受けた。その際、大宇財閥などが倒産した。

 1997(平成9)年の大統領選挙では、野党新千年民主党の金大中が当選、第15代大領となった。財閥改革、金融機関の整理統合、不良債権の処理など大規模な構造改革を進めた。韓国における民主化は後戻りできない流れとなっていった。1998(平成10)年には、日本の小渕内閣総理大臣と「日韓共同宣言」を発表、小渕首相は改めて日本の植民地支配に対する「お詫び」を表明した。韓国が日本の大衆文化を段階的に開放することが発表された。前述したが、2000年の金大中大統領が北朝鮮を訪問して南北首脳会談が開かれたが、金大中はこの年、ノーベル平和賞を受賞した。韓国が195億ドルを全額返済して、IMFからの支援を脱却したのは、2001(平成13)年のことであった。

 その後、韓国では第16代大統領に盧武鉉(ノムヒョン)、第17代大統領に李明博(イミョンバク)が続いたが、金泳三の次男が利権介入と収賄で逮捕懲役刑、金大中の息子3人や親族が不正疑惑で逮捕起訴、盧武鉉は退任後、側近や兄が斡旋収賄で逮捕、本人も事情徴収が行われたが投身自殺、李明博も実兄や側近の斡旋収賄で逮捕されるなどの不祥事が続いた。2013(平成25)年には、朴正熙の娘である朴槿惠(パク・クネ)が第18代として初めての女性大統領に就いたが、韓国フェリー転覆事故などを初めとして、内外に抱える課題は多い。それは、多くの課題を抱えながら、世襲強権政治を続ける北朝鮮においても変わりはないともいえる。強権政治を推し進めれば進めるほど、哀れな末路が待っていることは歴史が示している。



若者に伝えたい
韓国の歴史
李元淳・鄭在貞・徐毅植
明石書店

<参考にした図書>
○韓国併合 海野福寿 岩波書店 岩波新書 19950522第1刷 246頁 \631+税(\108)
○日朝関係の克服 姜尚中 集英社 集英社新書 20030521第1刷 238頁 \680+税
○朝鮮の歴史 田中俊明 昭和堂 20080430初版 372頁 \2,500+税
○これならわかる韓国・朝鮮の歴史Q&A 三橋広夫 大月書店 20020801初版 127頁 \1,400+税
○図説 韓国の歴史 金両基監修 河出書房新社 19880930初版/20020120新装改訂第二版 149頁 \1,800+税
○若者に伝えたい韓国の歴史 李元淳・鄭在貞・徐毅植・著 明石書店 20041120初版 184頁 \1,800+税
○九州のなかの朝鮮 九州の中の朝鮮文化を考える会編 明石書店 20020531初版 187頁 \1,600+税)

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072 新聞社の報道姿勢について考える(2014年12月20日) 

 我が家で購読している新聞は朝日新聞だが、「慰安婦問題」や「吉田証言問題」では総攻撃を受けた感がある。慰安婦問題についてはいずれ触れたいと思って、何冊かの本を読んだところでもあるが、そのうちまとめようと考えている。吉田証言問題については、恣意的であったかもしれないが、単なる誤報としか思えず、報道機関としての責任はあるのだろうが、それを問題視しようとする背景にうさんくささを感じざるを得ない。根本的な原因となる問題を起こしたのは東京電力であることを忘れてはならない。根源的な問題を隠そうとする国家権力が、二次的な犯罪者(?)である情報提供者を罰しようとする「秘密保護法」でも同様な事が起きようとしている。それは、日本に限らず、アメリカ政府機関における数々の犯罪の歴史をみれば明かなことである。

 30年以上も購読している以上、簡単に購読する新聞を替える気は起きなかった。そして、それ以外にも理由があるような気がする。文化欄などに一定の品位と品質を感じていたことが購読を決めた当初の理由だったように覚えているが、決して、朝日新聞にそれほど愛着があるわけでもない。高校生のころ、早朝の3時に起きて新聞配達をしていたことがあるが、その新聞社はもうない。特定の新聞社などに愛着が起きるはずもないというのが正直なところだろう。


 日経や毎日は、私が住む札幌では夕刊がない(毎日新聞の夕刊がなくなったのは最近だが)。これは致命的なことだった。四大新聞というものがあるらしいことを比較的最近知った。

読売、朝日、毎日、産経のことだそうだ。産経がその一つに位置することにも驚いた記憶がある。週刊誌のごとき新聞だと思っていたからである。それはトップニュースの扱いからうかがえる雰囲気がそうだったからである。ここでの週刊誌という意味は、興味を引き付けんかなのタイトルという意味である。中身を見るとそれほどのことも書いていないか、根拠がほとんど伝聞であるといったことだ。

 読売を嫌うのは、巨人問題などが大きく影響している。私はセリーグの野球を見ることはない。セリーグには、一切の興味も沸いてこない。概して、野球一般への興味自体も低い。さらに最近では、原発問題が大きい。してみると、私が住む札幌では、朝日新聞か北海道新聞ということになる。プラスアルファで購読するとなると、日経新聞となるだろう。地域性をみるならば北海道新聞ということになるのだろうが、事実、北海道内では道新(北海道新聞)を購読する人が多い。

 とはいえ、複数を購読することは経済的ではないため、かなり以前からインターネットを通じて、各新聞をざっと眺めるようにはしていた。有料会員ではなく、無料会員としてである。単一の新聞記事だけを見ていると偏った考え方になるといった批判があるが、それはそれで当を得た見解であることは認めなければならない。その保全のためでもある。

 これは、2014(平成26)年の11月後半から、12月後半にかけての一ヶ月ほどの、各新聞のインターネット版の朝のトップタイトルである。必ずしも、時間帯は決まっていないが、各社を見る時間帯は同じである。新聞社によって見る時間が異なるということはない。これを見ると、各社の傾向が良く判る。


朝日新聞記事
「慰安婦問題を考える」
2014年8月5日




朝日新聞記事
「吉田調書記事取り消し」
2014年9月12日


□産経ニュース


20141220 日本の豪州潜水艦受注に韓国が“横やり”…「反日・親独」で韓国軍使用
        の独製をPRするも欠陥だらけと判明
20141219 「年収2500万円の村」実は中国人を使った“ブラック農業”?
         長野・川上村襲った風聞 日弁連は「人権侵害」勧告
20141218 「韓国も環境整備」朴槿恵大統領発言は知韓派財界人「榊原経団連」
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20141217 最後の電話は「正恩へのいらだち」 愛娘と禁断のワインを手に…
20141216 腹固まった細野氏 前原氏なら「分裂」も…民主党代表選は野党再編
        の起爆剤?
20141215 「枝野の地元を日の丸で埋め尽くせ!」 首相、本気の民主潰し 
        菅直人元首相らを次々狙い撃ち
20141214 大物の戦い「風」吹くか 天王山、自民「挙党態勢」で民主代表追い詰め
        現職閣僚の太田氏、田母神・青木氏どこまで
20141213 韓国を反映?「チラシ」情報体質…なぜ政界を揺るがしたのか
        ソウル・黒田勝弘
20141212 「私がやりました」 否認一転、妻・千佐子被告が関与認める供述
20141211 日中「金融緩和」で韓国「家計債務パンク」打つ手なし
        …通貨安戦争突入?「進むも地獄退くも地獄」の韓国経済
20141210 「謝れ」韓国語の怒号飛ぶ法廷、検察「偏向報道と外交問題化を憂慮」
         初公判詳報
20141209 韓国「文化財闇市場」1000億円にのみこまれる対馬の仏像
        …盗みを正当化する“愛国”
20141208 「日本より嫌いなチーム発見!」得点力不足を棚に上げ“誤審”
        を敗戦の理由にする「韓国サッカー」の“夜郎自大”
20141207 「中国漁船のサンゴ密漁は泥棒同然。対策に海自も」
        党首インタビュー(5)次世代・平沼党首
20141206 「日本は制空権確保は困難」 尖閣視野に中国軍が分析
        海上封鎖で「経済破壊」
20141205 三権分立もあったもんじゃない
20141204 中国版新幹線「メキシコ受注白紙撤回」で激怒
        振り向けば「日本リニア」完成の危機感に煽られ
20141203 朴大統領の元側近、内政などに介入か 韓国メディア
20141202 世界で一番不幸な韓国の子供たち…「最大要因は受験ストレス」
        メディアは英紙の記事借り“自虐”報道
20141201 【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】対中国、論外な民主党の公約
20141130 =アベノミクス= 消費増税で消しとんだ薬効
         追加緩和は「禁断の投薬」だったが…
20141129 ズタズタにされる基幹産業「北海道」の悲鳴
        …原発動かず電気料金値上げ、1年余で33%急騰に「企業努力も限界」
20141128 米政府が「懸念」を韓国に伝達 「批判者に罰、取材を抑制」
20141127 ビル傾く手抜き工事、韓国建設現場“あり得ない実態”
        …他国も「発注したくない」が超安値で排除も困難
20141126 「飛び込め!」金正恩氏“高齢幹部いじめ疑惑”浮上
        …80代元老級に10メートルダイブ強要、人心離反の証言
20141125 日中韓首脳会談を提案する“朴槿恵外交” でも過去の問題を
        言わせてくれる日本に対しては自尊心捨てられず…
20141124 「免許は欲しい。でも面倒」教習所卒業証を偽造して逮捕された
        21歳看護助手の“大胆”
20141123 朝日新聞の2度目の転機 ソウル駐在客員論説委員・黒田勝弘
20141122 中国、異例の健さん追悼 共産党、外務省も弔意
20141121 首相が空しく90分間過ごしたワケ~矛盾を恥とは思わない人たち
20141120 「最高速度600キロ」目指すという「韓国版新幹線」の面妖
        …日本のリニアより速く、それでも在来線で走らせて安全性は大丈夫か
20141119 青酸カリで夫を殺害? 殺人容疑で67歳妻を逮捕 結婚と死別4回
20141118 韓国世論「世界の笑いもの」と平昌五輪「返上論」出る“内輪揉め”


□朝日新聞デジタル

20141220 STAP検証実験終了、残った疑問 理研、存在を否定
20141219 エアバッグ、交換部品が不足 タカタ製リコール拡大で
20141218 漁船と砂利運搬船が衝突、2人が心肺停止 広島県呉市沖
20141217 住宅エコポイント再開を検討 政府の経済対策
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20141215 二大政党制の正念場 民主「風頼み」、政策対案示せず
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20141213 冬に増える限定チョコ 寒さと濃厚さ、いい関係
20141212 獲得議席の持つ意味は? 309以上なら過去最多に
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20141210 プロみたいに稼げる… 投資DVD、埼玉で学生被害多発
20141209 タカタ、なぜ全米リコール拒否 ホンダと分かれた判断
20141208 実質GDP成長率は年率1.9%減 7―9月期2次速報
20141207 ストーブ火災の7割が電気 安全過信、物との距離近すぎ
20141206 NASA「新時代の幕開け」 試験成功で火星探査に自信
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20141204 ネット選挙どこまでやる? 中継・FB質問会…悩む陣営
20141203 福島から東京へ送電開始100年 鉄塔335基なお現役
20141202 衆院選、立候補届け出始まる アベノミクスなど争点
20141201 東京円、一時119円台に 7年4カ月ぶり
20141130 地方の大学、魅力向上がカギ 私大の定員超過抑制へ
20141129 徳洲会、見えない出口 事件後の業績低迷
20141128 認知症なのに遺言書… 姉が父を囲い込んだ 大介護時代
20141127 北朝鮮漁船、日本海で急増 昨年の3倍、経済水域に9割
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20141125 「拘束介護」マンション、総合病院が紹介 入居者の半数
20141124 外国人は屋台コック「ダメ」 マレーシア、新規則が物議
20141123 長野北部の地震、けが人39人に JR大糸線で土砂崩れ
20141122 重要文化財にカビ 財政難で空調更新できず 金沢文庫
20141121 安倍内閣、衆院解散を閣議決定 来月14日投開票
20141120 首相の勝敗ライン「過半数維持」が波紋 自民に戸惑い
20141119 夫に青酸化合物飲ませ、殺害した疑い 67歳の女逮捕
















□読売新聞ONLINE


20141220 映画会社サイバー攻撃、北が関与と断定…FBI
20141219 STAP細胞、検証実験打ち切り…理研が発表
20141218 増えすぎ太陽光発電、買い取り余地あれば入札で
20141217 規制委、高浜原発に「合格証」…再稼働へ
20141216 高病原性「H5亜型」を確認…宮崎の鳥インフル
20141215 自公が圧勝325議席…民主伸び悩み、維新苦戦
20141214 「夫婦控除」を検討…妻「103万円」規定撤廃
20141213 投票率、戦後最低か…「50%台前半」予想も
20141212 無党派層、自・民・維が争奪…比例選の終盤情勢
20141211 中村修二教授に招かれたライバル「完敗だった」
20141210 青酸殺人、否認の妻を殺人罪で起訴へ…京都地検
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20141208 実質GDP改定値、年率1・9%減に下方修正
20141207 中国軍女性少将、収賄容疑で連行…2将軍自殺か
20141206 中村教授「残念」…日亜化学にLED保管されず
20141205 温室ガス、最大の14億トン…原発停止が影響
20141204 自公、300議席超す勢い…衆院選序盤情勢
20141203 ネット選挙、各党工夫…ツイッター・動画活用
20141202 衆院選公示、立候補受け付け始まる
20141201 貴重な季節労働「サケバイ」、自生大麻目当ても
20141130 新たな日米関係提言へ…福田元首相ら日米有識者
20141129 ノルディックW杯、伊東2位・葛西3位
20141128 有効求人倍率が再び上昇、1・10倍…10月
20141127 中国船、関門海峡漂流…海保「大惨事の危険性」
20141126 阿蘇中岳で2回小規模噴火、山体わずかに膨らむ
20141125 多忙な閣僚、遠い地元…前回最多8人落選
20141124 犠牲ゼロ、住民必死の救出劇…長野北部地震
20141123 長野北部地震、県内負傷者39人に…警察庁
20141122 母親の虚偽説明、保健所が「うのみ」…衰弱死
20141121 遺産10億相続の夫殺害容疑者、先物で多額損失
20141120 自宅の処分品から青酸成分…夫の胃にただれ
20141119 石原氏「私は出ます」…党内慰留受け出馬へ


□毎日新聞


20141220 地震確率 首都圏上昇
20141219 民主党再生の方策はあるのか
20141218 米とキューバ 国交交渉
20141217 天気大荒れ 高潮で避難指示も
20141216 集団的自衛権などは理解得た…首相、改憲へ意欲
20141215 自民横ばい291議席 自公3分の2維持
20141214 短期決戦に審判 きょう投開票
20141213 60歳からの自己表現
20141212 なぜ90歳女性の1000万円は引き出されたのか
20141211 母国パキスタンにマララ批判 いい分は?
20141210 黒塗り文書が暗示するもの
20141209 若者、絶望と希望の間で
20141208 ブルドーザー模型、観戦チケット… 株主優待、花盛り
20141207 投票率アップへ歌やCM
20141206 干ばつ、洪水、感染症拡大…地球むしばむ温暖化
20141205 タカタ不信 米で拡大
20141204 グアム移転予算執行へ
20141203 第一声 「避けたい論点」見え隠れ
20141202 菅原文太さん死去:「アウトロー」の心意気
20141201 電力関連会社:自民党へ3228万円献金 5社・3年で
20141130 秋篠宮さま49歳に
20141129 フィギュア:ジャンプミス「やってしまった」 羽生SP
20141128 「福島再び」広がる懸念
20141127 湿布薬で「光線過敏症」 重篤症例も
20141126 社説:自民党公約 300項目列挙で何を問う
20141125 衆院選 集団的自衛権、争点に
20141124 長野北部 要警戒地域の一つ
20141123 地震の負傷者は39人、7人が重傷
20141122 投票は有権者の「意地」だ
20141121 3カ月後の爪痕(広島土砂災害:避難勧告を全て解除 安佐南区の42人)
20141120 衆院選:すでに「総選挙モード」 与野党走る 21日解散
20141119 「アベノミクス信問う」…21日衆院解散












□日経新聞


20141220 ES細胞の混入濃厚 「小保方ノート」に残る謎
20141219 日経平均上昇一服、前日比300円高付近で推移
20141218 FRB、タカとハトの「ハイブリッド型」声明が奏功
20141217 周永康氏の逮捕 習主席が越えた一線
20141216 日経平均、続落で始まる 1カ月ぶり1万7000円割れ、欧米株安で
20141215 12月の日銀短観、大企業製造業DIプラス12 2期ぶり悪化 先行きプラス9
20141214 脱デフレに欠かせぬ「いい油加減」 [有料会員限定]
20141213 米朝・マツコ…人間型ロボット、ここまで人くさく
20141212 原油60ドル割れ、「40ドル台まで下落」の見方も
20141211 日経平均続落、下げ幅一時300円超 米株安を嫌気
20141210 11月の企業物価、増税分除き0.2%下落 1年8カ月ぶり
20141209 欧米株安と円高・ドル安が重荷に
20141208 7~9月期の実質GDP改定値、年率1.9%減に下方修正
20141207 中国の二面性映す 習主席の「排外」と「拝外」
20141206 妻の稼ぎが老後を救う 月6万円でも大違い
20141205 選挙費用631億円、使い道と経済効果 選挙だ、急げ!(
20141204 日経平均続伸、上げ幅一時170円超 円安好感
20141203 「はやぶさ2」午後打ち上げへ 往復52億キロの旅
20141202 安保・原発 賛否問う 衆院選、政策論争に突入
20141201 東証10時、1万7600円台で推移 7年4カ月ぶり高値、円安など好感
20141130 高倉健さんが示した日中関係改善の道
20141129 買い物天国になったニッポン 関連企業の株価上昇
20141128 実質消費支出、10月は4.0%減少 7カ月連続減
20141127 豪華すぎたAPEC 国際会議都市「北京」売り込み
20141126 円安の恩恵これから 業績上振れ秘める輸出株
20141125 日本が水素革命をリードする3つの理由
20141124 日本の政治を説明する難しさ
20141123 中国人が買い集めるサンゴ、主産地高知県の困惑 [有料会員限定]
20141122 個人で開発、インディゲーム離陸間近 大手も注目 [有料会員限定]
20141121 1カ月で円が10円急落 「日本売り」の虚実
20141120 「水素音」に驚き トヨタの燃料電池車を運転


□北海道新聞


20141220 出光、昭和シェルの買収検討 売上高8兆円、JXに迫る
20141219 「無補償・無制限で抑制」同意条件 北電、太陽光買い取り再開
20141218 北星学園大の教員「市民の力の勝利」 元朝日記者の雇用継続
20141217 特急など349本運休 JR北海道、低気圧通過で
20141216 田中賢介選手、3年ぶり日ハム復帰 17日にも会見
20141215 比例当選の鈴木貴子氏、笑顔と涙 小選挙区は225票差で敗戦
20141214 羽生、日本男子初のV2 無良5位、町田は6位
20141213 開票作業の迅速化、知恵絞る北海道内の各選管 イチゴパックで仕分け
20141212 札幌・西区の4階建てアパート火災 男性死亡、13人搬送
20141211 カニ密漁防止へ 日ロ協定が発効 輸入は大幅減、価格高騰か
20141210 自民単独3分の2視野 民主伸びず、共産倍増も 衆院選終盤情勢調査
20141209 韓国の魅力、再発見ツアー 日本の旅行関係者ら1000人、ブーム復活の鍵探る
20141208 道内各党終盤の戦いへ 自公、緩みを警戒実績強調 民主、無党派層取り込み鍵
20141207 北海道新幹線、海越え青森に 青函トンネルで走行試験
20141206 アベノミクス、北海道内で火花 安倍氏「100万人の雇用創出」
        /海江田氏「所得増えていない」
20141205 振り込め詐欺、道内最悪ペース 1~10月被害5億1620万円
20141204 衆院選、自民300議席超の勢い 全国序盤情勢、民主微増70前後か
20141203 道内注目の2、7区 熱帯びる師走のマチ 衆院選公示
20141202 「安倍政治」に審判、衆院選公示 経済、自衛権、原発争点
20141201 デモで香港政府の機能まひ 警官と衝突、40人逮捕、負傷者も多数
20141130 泊再稼働、条件付き反対 民主北海道が重点政策
20141129 札幌の地下鉄、今冬は暖房オフ 市が節電対策で
20141128 ヨウ素剤、泊村は事前配布 原発5キロ圏 共和町と逆の判断
20141127 ニトリ、埼玉に物流拠点 17年末稼働、首都圏出店に対応
20141126 アップル株価、時価総額7千億ドル トヨタの3倍超
20141125 女性幹部割合30%の実現厳しく 全国知事調査、政府方針下回る
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 まず、産経はタイトルが長い。一方、毎日は短いことが多い。また産経は、たまには「中国(ほとんどが非難する記事)」の記事も出てくるが、「韓国」を非難する記事ばかりが満載である。それは、ソウル前支局長が逮捕・起訴される前から変わらない傾向である。以前は、芸能ニュースが時々出てきたが、最近はそれどころではなくなった感がある。ヘイトスピーチとして韓国が批判するメデイアの一つであり、その理由も判らないではない。特に、今回の裁判以降、エスカレートした傾向があるが、産経はこの態度を基本的に改めるべきであろう。余りにも品位がないタイトルが多い。このような執拗な報道姿勢から生まれるものは、お互いに憎しみだけをまき散らすことでしかない。もちろん韓国側にも問題があることは充分承知した上のことである。

 20141129の産経の記事で、『ズタズタにされる基幹産業「北海道」の悲鳴…原発動かず電気料金値上げ、1年余で33%急騰に「企業努力も限界」』と珍しく北海道のローカルな話題かと思ったのだが、原発を早く動かせという記事だったことに憮然とする思いだった。

 20141208は、朝日、毎日、読売のTOPニュースが同じ「GDP改定値、下方修正」だったのに対して、韓国サッカーへのいいがかりのような記事『「日本より嫌いなチーム発見!」得点力不足を棚に上げ“誤審”を敗戦の理由にする「韓国サッカー」の“夜郎自大”』がTOPニュースだった。いずれにしても、品性が疑われるが、その程度のメディアなのだろう。結局は、テレビ局との立ち位置から四大新聞に持ち上げられただけで、三大紙というのが正解なのだろう。

 2014年10月「新聞情報」によると、各社の朝刊の販売部数は、以下の様になっている。

   読売新聞  9,371千部
   朝日新聞  7,021千部
   毎日新聞  3,328千部
   日経新聞  2,737千部
   産経新聞  1,671千部
   北海道新聞 1,068千部

 直近情報のため、朝日はかなり発行部数を落としている。また、読売は世界一の発行部数を誇っている。地域性がありながら、北海道新聞の善戦が目立っている。これをみても産経新聞の劣勢は明らかといえようが、逆に論調が激しくなる所以ともなっている。問題なのは、そういった程度の新聞記事であろうとも、韓国がヘイトスピーチのごとく、日本のメディアの代表例として取り上げることにあるのだろう。お互いが傷口に塩を塗るように罵り合う姿が悲しい。ネットの右翼化の問題とともに、ここは三大紙と各テレビ局の冷静な対応を期待したいところである。決して、各社が横並びの報道をする必要はない。第二次世界大戦に向かったメディアの歴史的責任を思うからの見解である。
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071「良寛」/唐木順三(2014年12月12日) 

良寛_唐木順三/唐木順三/筑摩書店/筑摩文庫
/19891031第1刷/281頁/\621+税

 朝日新聞では、「こころ」に続いて「三四郎」が約100年ぶりに掲載されているが、夏目漱石が『良寛』の書を強く求めたことは良く知られている。唐木順三の『良寛』の巻末には、漱石が大正5(1916)年に50歳で亡くなる20数日前に作った漢詩が掲載されている。

  大愚難到志難成  大愚到り難く、志(こころざし)、成り難し
  五十春秋瞬息程  五十の春秋、瞬息の程
  観道無言只入静  道を観るに言(ことば)無く、只だ静に入る
  拈詩有句独求清  詩を拈(ひね)って句有れば独り清を求む
  迢迢天外去雲影  迢迢(ちょうちょう)たり天外去雲の影
  籟籟風中落葉声  籟籟(らいらい)たり風中落葉の声
  忽見閑窓虚白上  忽ち見る閑窓虚白(きょはく)の上
  東山月出半江明  東山月出でて、半江(はんこう)明かなり

 唐木順三は、「大愚到り難く」の文字を見て、ふと大愚良寛のことが漱石の脳裡をかすめたのではないかと思ったと述べている。まさに、そうに違いない。良寛は、いわゆる宗教者でも哲学者でも説教者でもなかった。係累をすべて捨て去った宗教的生活のなかに芸術的表現を残した人であった。正直、無欲、無私、慈愛で表現される人でもあった。漱石が考える「則天去私」の世界が良寛にはあった。そこに漱石が良寛を求めた理由があるのではないかと私は考えている。


 『大愚良寛』で、相馬昌治(御風)が、「ところで斯くの如く一個の奇僧として、永い問不可思議な假空的人格を世間から附輿されて來た良寛は、近年になって廣い範囲の人々から、いつとはなしに卓越せる一個の歌人として、詩人として、更に書家として認識され、賞賛されるやうになって來た」と書いている

が、まさに当を得た表現であろう。北大路魯山人が、『良寛さまの書/魯山人著作集』で、「かようの良能の書が生れ出たゆえんのものはといえば、それはいうまでもなく不思議なくらい世間欲のない良寛様の人格の立派さが、そうしたものだというべきであろう。すべて『芸術も人なり』で、作者の人格はその作品に反映しているものである」とまで語っている。

 茶の湯の席では、茶を数口飲んで次に回すことになっているが、良寛は気付かずそのまま飲み干してから、それに気付いたという。困った良寛は、口の中に含んでいた茶を碗に吐き戻して回したのだが、観念した次の客は、念仏を唱えつつ茶を飲んだという。一休と同様、良寛も「さん」を付けて呼ばれることが多い僧である。

 良寛(1758-1831)は漢詩も多く書いた。また、短歌は枕詞が多く使われていることから、万葉調として特色づけられている。事実、良寛は4千5百余首ともいわれる万葉集の中から、336首あるいは190首を選んで、それらを筆写し、朗誦し、そらんじていたともいわれている。一つの歌に、枕詞を複数使っている例もある。良寛が居住地としていた五合庵がある国上山を詠むときには「あしびきの」を枕詞としていた。

 唐木順三は、この本の「あとがき」で、「良寛は最も日本人らしい日本人ではないか」とも、「良寛は、『もののあはれ』を知っている人であった」とも書いている。従来の良寛への関心は、その書や歌にあった。書や歌の多くは、晩年の五合庵時代以降のものである。もちろん、それらは珍重すべきものには違いないが、良寛がそこへ逸脱するまでの苦渋のほど、屈折のほどを閑却することができないというのである。従来の良寛論、良寛像とは異なる、沙門良寛の苦渋と歌人良寛の天真をどこかでつなげて見たいと思ったのが、この本を書いたきっかけであったと書いている。



「良寛」
唐木順三
筑摩文庫
筑摩書店

 良寛は、宗派的には、永平寺の開祖道元につながる曹洞宗の沙門であった。『正法眼藏』と『万葉集』がどこで出会うのか、それがこの唐木順三の問いでもあった。良寛は「吃音(きつおん)」「訥音(とつおん)」といわれている。ようするに「どもり」である。「化外の民人」(『外へ、良寛/松岡正剛』)という見方さえある。童(わらべ)たちと暇にまかせて手鞠をつき、隠れん坊をして、生活の糧は民からの施しを受けて、自由に生きている。そんな良寛がどこで道元とつながるのか?

 良寛が子供等と手毬をついて夢中になっているとき、通りがかりの村人があきれて、どうしたことかと問うた。問われても答えようのない良寛は「祇這是」(ただこれこれ)と答えたという。祇は只である。只管(しかん)にもつながる。道元では「只管打坐」となるところが良寛では「只管手毯」になると唐木はみている。さらに、唐木は良寛における「聞く」の問題に触れる。良寛は眼の人ではなく、むしろ耳の人であったというのだ。いわば音楽的であることが良寛の特徴だという。春夏秋冬の移り変わりも、飛花も落葉も、生老病死も栄枯盛衰までもリズミカルである。そのリズムの交響の中に、良寛は居る。優游騰々(ゆうゆうとうとう)として其の中にいる。或いは涙を流しながらその中に居る。

 俳諧を確立した松尾芭蕉が、旅先の大阪にて、

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

と詠んで亡くなったのは、1694(元禄7)年。その100年後、遠い北国の越の国/出雲崎にいた良寛が、何故に、江戸にまで名声を轟かせていたのか? 只、単に、俳句などを通じた文人たちとの交流があったからだけとは思えない。何が、「大愚良寛」を「良寛」たらしめたのか? 明治維新はもうすぐそこにあった。西洋では、チャールズ・バベッジ(1791-1871)が活躍する時代にほぼ重なっている。西洋列強の「言いがかり」ともいえる第一次アヘン戦争が中国を舞台として起きるのは、良寛が亡くなった9年後(1840年)のことである。



良寛書 「大愚良寛」より


「大愚良寛」
相馬昌治(御風)
春陽堂書店


 良寛は、1758(宝暦8)年に、幼名栄蔵として、越後出雲崎の山本以南と秀子の間に生まれている。先に生まれた子もあったようだが、死亡していたため長男として育った。1751年には徳川吉宗が亡くなっているが、徳川家重の御側御用取次として田沼意次が実権を握っていた時代でもある。中央政府は汚職政治がはびこり、郡上藩における一揆を因として、藩主が改易になるなど、地方政治も不安定さが増し、1761(宝暦10)年の江戸大火を初めとして、繰り返される大干魃や天災、病疫が発生、各地においては一揆や米騒動、1775(安永3)年には浅間山大噴火が起こっている。幕末へと向かっていく時代にあった。

 良寛の家は、名主の家であり、石井神社の祠職を務める家であった。父、以南は養子であり、俳人としても知られていた。良寛の和歌への素養は、その影響とみるのが自然であろう。良寛は、名主見習いとして育つことになる。しかし、18歳のとき、突然、曹洞宗光照寺に出家をする。理由は明確でないが、性格は穏やかとはいえ、「昼行灯(ひるあんどん)」とあだ名されるなど、社交性に欠けた振る舞いが知られている。その理由を松岡正剛は『外は、良寛』で、「逃亡」とみているが、納得できる見解である。良寛は、恐らく逃げ出したのだった。家は、弟の由之が継ぐことになる。出家後、良寛22歳のときに、玉島(岡山県倉敷)の円通寺の国仙和尚が光照寺に滞在したことを縁として、得度を受ける。出家したとはいえ、それまでは得度を受けていない身分であった。

 その後、国仙和尚に従った良寛は、玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に行き、多くの先輩僧のなかで厳しい修行の身となる。33歳のとき国仙和尚から印可の偈(げ)を与えられ、「大愚良寛」と号したというが、決してその秀逸ぶりを認められた訳ではないと、水上勉は「良寛」で思い描いている。むしろ、「愚鈍に見えたろう日常を嗅ぐ」とまで書いている。


 印可の偈の際の国仙和尚の歌がある。

  良也如愚道転寛
  騰々任運得誰看
  為附山形爛藤枝
  到処壁間午睡閑

 良よ。お前は一見愚の如くにみえるが、いまやお前が得た道は、どうころんでもゆるがぬひろい道だ。お前の到達した任運騰々の境涯を、いったい誰がふかくのぞくことが出来ようぞ。わしはお前の今日の大成を祝って、一本の杖をさずけよう。ありふれた自然木の木切れにすぎぬけれど、この杖は今日からお前が大事にしなければならないものだ。さあ、どこへ出かけてもよい。到るところにお前の世界がある。どこでもよい、お前の部屋の壁にたてかけて、午寝するがよい。(「良寛」/水上勉より)

 そして、翌年、国仙和尚の死を契機として、諸国を巡る旅に出る。いや、正確には飢饉に喘ぐ寛政年間に、あてもなく地方を乞食して放浪していたというのが事実であろう。江戸にも寄ったものと思われている。そして、1796(寛政8)年、39歳で故郷に戻るが、既に父も母も亡くなっていた。父、以南は、由之に家督を譲った後、悶々とした隠居生活を送っていたが、突然失踪する。以南は、京に向かい、桂川に入水して果てていた。高野山に入って剃髪したという説もあるが、今日では水死説を取る考え方がほとんどである。

 良寛は実家へは戻らず、最初に仮住まいをしたのは郷本(現在の長岡市寺泊)といわれている。侘びしい草庵の内で夜雨を聴きながら何の屈託もなく双脚を伸ばしている騰々(とうとう)の良寛を、良寛らしいと我々は思っているが、然し良寛がここまで到りつくのには、幾多の屈折と、その屈折のもたらした襞(ひだ)によって良寛の騰々、或いは任運自在に幅を広くし、奥行を深くしていたと唐木順三は思いを馳せる。



「外は、良寛」
松岡正剛
芸術新聞社

 幕府は、多くの「法度」(法令、禁令)をつくり、「目付」を設置し違反するものを徴に入り細にわたって告発していた。徳川幕府は、世界における最初の、整備された警察国家であるとする考え方もある。商人は必要品の流通に、工人は物の製造に、百姓は食料の生産に、そして武士は忠義に没頭しておればよい。そうして、仏教はいよいよ葬式仏教になっていった。あるいは、「良寛/水上勉」によると浪人や犯罪者が托鉢用の深編笠を寺院から購入して地方を放浪するので、寺院を幕府が締め付けたなどという記録もある。幕府は、時の権勢により、豪商と結んで成長政策により財政の危機を乗り越えたり、あるいは奢侈(しゃし)の禁止、倹約の奨励などによって商業資本に圧迫や糾弾を加えた。

 田沼意次が老中として幕府内の実権を握ったのは安永(1772~1780年)から天明(1781~1789年)にかけてである。豪商からしきりに賄賂を取り、その代償を放漫に与えた。この成長政策は局部的な繁栄をよび、遊里や戯場は繁昌したが、一方で武士や小商人は零落し、夜盗が横行して世の秩序は乱れたという。その上、干害、洪水、大火、疫病などの災害が相次いで発生した。田沼意次が追放されると、替わって老中となった松平定信は、粛正政治、緊縮政策により、衣服、調度の奢侈を禁じ、奸商の家財を没収し、遊里や戯場の取締りを厳にし、絵本、読本、草紙等の検閲を厳にした。そして思想統制策として世に「寛政異学の禁」といわれる禁令を出した。歴史は繰り返される、いつの時代も、苦しむのは一般庶民であった。

 越後へ帰った良寛は、寺泊の正照寺、野積の西生寺などに移り住むが、1804年ころ、47歳となった時、その後20年間を過ごす、国上山(現・燕市)にある国上寺の五合庵に移り住む。そこで、良寛は僧にも非ず、俗にも非ずと自らを語るような生活を営むようになる。水上勉は、僧を突き抜けて、「曹洞派の僧であることすら捨て、随所作主の文芸人として、定めぬ


場所にどっかとすわっている」とまで、書いている。「騰々任天真」、任せきって分別なく騰々として、天真になりきっている良寛がそこにはいた。しかし、そこで涙を浮かべている良寛もまた思い描かれるのだ。

 唐木順三が選んだ詩篇がある。

  静夜草庵裏  静夜、草庵の裏(うち)
  独奏没絃琴  独り奏す没絃(もつげん)の琴(きん)
  調入風雲絶  調(しらべ)は風雲に入りて絶え
  声和流水深  声は流水に和して深し
  洋々盈渓谷  洋々、渓谷に盈(み)ち
  颯々度山林  颯々(さつさつ)、山林を度(わた)る
  自非耳聾漢  耳聾の漢に非ざるよりは
  誰聞希声音  誰か聞かん希声(きせい)の音

 希声は稀声。たぐい稀な妙なるしらべという意味である。耳聾漢(つんぼ)、すなわち良寛でなければ、この希声のひびきを聞くことができないというのだ。胸中の琴と天然の声との合奏交響の世界がそこにはある。

 江戸の高名な儒学者である亀田鵬斎が柏崎、出雲崎を廻って五合庵に良寛を訪ねてきたことがある。国上山を登ってみると、庵はまことに想像したような破れ堂だったが、良寛は喜んで迎えたという。話ははずんだが、日が暮れてきたため、良寛は夕食のしたくをするといって外へ出たが、なかなか帰ってこなかった。鵬斎は、月を見ながら虫の音を聞いて待っていたが、良寛が帰ってこないので、坂道を降りて行くと、暗がりのなかで良寛がうずくまっていたという。良寛も我に帰って、「月がよく冴えてきれいですな」といった。「月もいいですが、早く家へ帰って一杯やりませんか」と鵬斎がいった瞬間に、良寛は、そこで呑んでいたらしくて、ころげていた徳利を拾って走りだしたという逸話が残っている。



「良寛」
水上勉
中公文庫
中央公論社

 晩年の良寛は、二人の尼僧との交流が知られている。維馨尼(いきょうに)、そして維馨尼が亡くなると、美貌の誉れが高かった貞心尼(ていしんに)との交流が始まる。良寛は、1826年、五合庵の後に住んだ「乙子(おとご)神社境内の草庵」から三島郡島崎の能登屋木村元右衛門の邸内に移った。69歳の老年となった良寛には、荒れた草庵でのひとり暮らしが耐えられなくなっていた。木村家は真宗信徒であった。曹洞宗(禅宗)からの変化、自力から他力への変節を唱える見方もあるようだが、既に良寛には、かつてのように教団や僧のあり方を批判する気概などは薄れていたに違いない。老いた良寛がそこにはいた。

     

              「大愚良寛」より



 しかも、そこでの住み心地は決して良いものではなかった。良寛の跡を継いで橘屋の跡取りとなっていた実弟山本由之だが、既に「家財取り上げ所払い」の処分を受け、橘屋は没落していた。その由之宛に、良寛が残した歌がある。

  あしびきのみ山を出でてうつせみの人の裏屋に住むとこそすれ
  しかれとてすべのなければ今更に慣れぬよすがに日を送りつつ

 そんな良寛の前に現れたのが29歳の貞心尼であった。その年限には異説もあるようだが、二人の交わした歌が多く残されている。

   はじめてあひ見奉りて
 きみにかくあひ見ることのうれしさも
           まださめやらぬゆめかとぞおもふ
   御かへし(良寛の)
 ゆめのよにかつまどろみてゆめをまたかたるも
           ゆめもそれがまにまに
 いとねもごろなる道の物がたりに
           夜もふけぬれば
  (良寛の歌)
 しろたへのころもできむしあきのよの
           つきなかぞらにすみわたるかも
   されどなほあかぬここちして (貞心尼)
 むかひゐてちよもやちよも見てしがな
           そらゆくつきのこととはずとも
   御かへし (良寛の)
 こころだにかはらざりせははふつた(蔦)の
           たえずむかはむ千よもやちよも
   いざかへりなんとて(貞心尼)
 たちかへりまたもとひこむたまぼこのみちの
           しぱくさたどりたどりに
   御かへし (良寛の)
 またもこよしはのいほりをいとはずば
           すすきをばなのつゆをわけわけ



「良寛の四季」
荒井魏
岩波書店

 この応答歌は、二人が初めて会ったときのものである。晩年の良寛に咲いた桜だったといえる。その5年後、74歳で木村邸内の庵で良寛は、貞心尼と弟由之、木村家の人々に看取られつつ亡くなった。そしてさらに5年後に、貞心尼が編んだ『はちすの露』に残されている歌でもある。

 死の床で尼僧、貞心尼の来訪を待ちわびている良寛がいる。「年齢の差を超え、仏法と和歌で結ばれた。貞心尼の大胆に恋心を告白した歌に、少年のようにはにかむ良寛。同じ禅僧でも、一休宗純は、盲目の旅芸人、森女(しんにょ)と同棲、愛欲に身をゆだね、それを正面から直視した。一休七十七、森女三十五、六歳。これもまた人の世か(『良寛の四季』/荒井魏/岩波書店)」

 いつのことだったか、ある葬儀に臨んだとき、僧侶が説教で、良寛の辞世の句として

  散るさくら 残るさくらも 散るさくら

を紹介してくれたことがあった。葬儀におもむいた感慨と一致して身に染みた記憶があった。その後、良寛の辞世の句は、本当は

貞心尼が詠んだ

  生き死にの界(さかひ)はなれて住む身にも避(さ)らぬ別れのあるぞかなしき



に対して、良寛が返した、

  うらをみせ おもてをみせて 散るもみぢ

だともいわれているが、これはこれで良寛らしいなと思っていた。しかも、前作は特攻隊の遺書に多く引用されたとのことを聞くにつれ、もの悲しさが一層募る思いがしていた。実際は、いずれも良寛が辞世に当たって実際に詠んだかどうかは、何の記録もなく、後世の創作だとの見解が定説となっているようだ。とはいえ、多くの書や詩とともに逸話を残した「良寛さん」を慕う人は多い。今、再び出雲崎に沈む夕日を想い出しながら、漱石の「則天去私」を考えてみたい。



            出雲崎に沈む夕日
            (2009年11月6日撮影)
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070「逝きし世の面影」/渡辺京二(2014年11月3日) 

逝きし世の面影(ゆきしよのおもかげ)/渡辺京二/平凡社/平凡社ライブラリー
/20050909初版/604頁/\1,900+税

 日本における宗教の喪失を説く考え方があるようだが、西洋から見た宗教観だけで、日本の宗教を語るからであろう。日本には、中国や朝鮮の影響を受けながらも、日本で育まれた宗教があった。神と仏が渾然一体となっていた時代もあったし、鰐淵寺が出雲大社の別当寺であったように、神が仏に支配されていた時代まであった。いずれも後生の歴史観で語るべきではないだろう。天皇が神とされた時代まであったのだ。

 もしかすると多くの日本人が抱いていた幻想があったのかも知れない。渡辺京二は、「ある一つの文明が滅亡した」との見解から、このストーリーを語り始める。それは、江戸文明、あるいは徳川文明と称される、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続していた文明のことである。昭和の初めまではかすかにその余韻が残っていたが、明治維新に象徴される日本近代文明の勃興により、その文明は消滅してしまった。決して、同じ日本という文明が、時代の装いを替えながら今日まで生きながらえて来たのではなかった。

 その滅亡した文明のことを、明治期の高名なジャパノロジストであるイギリスのバジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)は、「なんと風変わりな、絵のような社会」と日本を表現した。渡辺京二は、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(1831~1904)や、日本に帰化したイギリスの作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン1850~1904)、東京大学の教授を勤め大森貝塚の発掘をしたアメリカのエドワード・モース、あるいはアメリカでベストセラーとなった「武士の娘」を書いた杉本鉞子(1873~1850)たち多くの人びとの言葉を借りながら、美しく、そして哀しく、滅亡したかつての「文明」を浮かび上がらせている。

 イザベラ・バードは、「日本奥地紀行」における東北旅行のあいだ、宿屋での食事の調理や客に供される姿が清潔なことに感銘を受けた。住んでいる人びとの衣類や家屋がどんなに汚くても、そのもてなしは清潔そのものだった。バードは、さらに台所で用いられる道具の美しさにも感嘆している。「どの台所用具にもそれぞれの美しさと使いやすさがあり、人びとはその清潔さと年季の入った古さの両方に誇りを抱いている」のだった。「とりわけ鉄やブロンズでできた薬罐の年季の入った風格と職人仕事のみごとさは、デザインにおいて少なくとも奈良の国立収蔵庫のそれに匹敵するし、形の優美さと仕上げのデリケートさという点で、ナポリ博物館のポンペイ人の部屋にある料理道具を凌駕している」とまで記述をしている。

 サーの称号を持つ、イギリスの紀行家エドウィン・アーノルド(1832~1904)は、「日本のもっとも貧しい家庭でさえ、醜いものは皆無だ。お櫃(ひつ)からかんざしに至るまで、すべての家庭用品や個人用品は多かれ少なかれ美しいし、うつりがよい」。また、世界周遊記を書いたオーストリアの外交官アレクサンダー・ヒューブナーは、「この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ」とまで書いている。

 エドワード・モースは、アメリカ人が「みずからが所有するこの種の物品の一つ一つをきわめて無造作にみさかいもなく誇示する」のに対して、日本人が収集品を「人前に飾ることはきわめて稀である」ことに彼は気づいた。絵画からして、ありったけの工芸品を室内に陳列したり、一枚の画が永久におなじ壁に掛けられていたりする欧米の習慣に対して、定期的にとり替えられる床の間の絵がはるかに合理的なことのようにモースには思えたのだった。「武士の娘」の杉本鉞子は、調度、装飾品が所狭しと置かれているアメリカの住居に入ると、「お納戸にでも入った感じ」がしたという。



「逝きし世の面影」
渡辺京二
平凡社
平凡社ライブラリー

 シーボルト事件で有名なフィリップ・シーボルトの長男のアレクサンダー・シーボルトは、1887(明治20)年まで滞日をしていたが、来日した頃の長崎近郊の農村の制度の自由さに驚いている。そこには、地方に駐在する捕方も奉行所の役人もいないが、それより驚いたことに僧侶の支配力が村民に影響を及ぼしていないことを愉快に感じたという。江戸時代のムラは、領主の存在しない純粋な農林漁業者の生産者集団だった。

 1855年、下田に滞在したドイツ人の商人リュードルフは、日本における浴場が混浴であることに驚いているが、多くの外国から来た宗教関係者がこうした慣習を、原始的習慣の無邪気な素朴さと見なしながらも、日本人を世界でもっとも淫らな人種と断定している例を挙げている。しかし、渡辺京二がいうように、彼らはどうやってその情景を確認したのか?オイレンブルクによると、風呂屋は「通りに向かった方も格子があるばかりなので、近寄ると中の様子がすっかり見え」たとのことだが、見物する非礼に思い当たらなかった不思議さを述べている。

 1862年に、英国公使館の医官として日本に赴任したウィリスが、英国外務省に提出した報告書で、次のように述べているという。遊女は一般に25歳になると解放されるが、たいてい妓楼主から借金を負うはめに陥り、本来の契約期間より長く勤める場合が多い。彼女らの1/3は、奉公の期限が切れぬうちに、梅毒その他の病気で死亡する。江戸では遊女の約1割が梅毒にかかっているとみられるが、横浜ではその2倍の割合である。梅毒は田舎ではまれだが、都市では30歳の男の1/3がそれに冒されている。


 だが彼の母国である英国においても、1860年代の上院特別委員会報告によると、ロンドンの売春婦は4万9千人、全国のそれは36万8千人と見積られていることには目が向けられていないという。、オールコックのいうように公娼制度はヨーロッパにもあるし、公娼と私娼のどちらがより道徳的に許容できるか、そんなことは断言の限りではないというものだ。さらに、悲惨を伴うはずの売春が、あたかも人性の自然な帰結とでもいうように、社会の中で肯定的な位置を与えられていることに、彼らは驚いていたのだった。

 日本の原風景として語られる古き日本とは、18世紀中葉に完成した江戸期の文明の残像なのかも知れない。渡辺京二は、神社仏閣を訪ねても、足下に広がる苔の湿っぽさに嫌気がさすという。実は、私も同じ感覚を持っていたのだが、美しい自然の中を歩くとき、あの湿った空気感や、小さな虫が纏わり付く気配が耐えられないのである。むしろ、映像で見る山野や棚田の美しさが好きなのである。

 美しい海を見るのも好きなのだが、あの潮の臭いが大嫌いなのである。そんな投影された心地よい映像を見る思いがこの作品にはちりばめられている。それらが、ほとんど外国人の目に映る風景を通じて描かれていることに不思議な感覚を呼び起こされる。渡辺京二は、ひとつの異文化としての古き日本に、彼ら外国人同様に魅了されたとも、「平凡社ライブラリー版のあとがき」で語っている。その手法を批判する見解も世に満ちているが、見当外れであろう。渡辺京二は、時々批判を加えながらも、膨大な数の外国人が「日本という異国」をどう観ていたかを描くことによって、二度と触れることができない「失われた文明」の残像に思いを馳せただけに過ぎないのだから。

日本奥地紀行
イザベラ・バード
高梨謙吉訳
平凡社
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069 中国近代史を「神なるオオカミ」に考える(2014年10月19日) 

中国近代史を「神なるオオカミ」に考える

「神なるオオカミ」/姜戎(ジャンロン)
/唐亜明(タンヤミン)・関野喜久子訳/講談社
/(上巻)/20071128第1刷/514頁/\1,900+税
/(下巻)/20071128第1刷/515頁/\1,900+税

 6~7年間使っていたディスクトップPCが壊れてしまった。購入した系列のパソコンショップに持ち込んだが、マザーボードが破損した可能性が高いと宣告されてしまった。取りあえずのパソコンを買うか、期待する性能のパソコンを自作するか迷ったが、取りあえずのパソコンを買う値段で、それなりの性能のパソコンを、現在のハードウェアをできるだけ利用して、改造することに決めた。期待する性能のパソコンは、次の機会の楽しみに残すことにした。

 パソコンショップに行って、マザーボード、CPU、メモリなどを購入したまでは良かったのだが、地方に行く仕事が続いたため、開封することもなく、ノートパソコンが業務の主体となってしまった。少し前に、ノートパソコンのハードディスクをSSDに換装していたのが幸いしたといえる。SSD換装により、5年前のノートパソコンが劇的にスピードアップしていたからである。そうこうしているうちに、実父が亡くなった。以前から覚悟はしていたが、何もかもが、最優先事項でなくなった訳である。まさに、「革命」が起きるとは、そのようなものではないだろうか?

日本人が知っておくべき 竹島・尖閣の真相」でも触れたが、歴史を通して、国家・国民・国土・文化が一つの範疇(はんちゅう)であり続けた事実などどこにも存在していない。「その時」だけが現実の問題なのである。それは、正しいか正しくないかといった問題とも何らの関係もない。したがって、その国の「固有の領土」などという概念も存在し得ないことになる。それは、日本であろうが、中国であろうが、何ら変わることはない。







 中国の歴史を簡単に語ることはできない。政治的にも、地勢学的にも複雑・重層な歴史が繰り拡げられてきたからである。幾多の侵略を受け、あるいは幾多の侵略を繰り返し、その結果、多重な民族問題が歴史の中に横たわっている。近代中国の歴史だけを取り上げてみても、浮沈の激しい、また血なまぐさい権力闘争の歴史が内在し、現在に至っている。例えば、鄧小平(1904-1997)がいる。社会主義経済を基に、GDPで世界2位となる市場経済を導入した現在の中華人民共和国の礎を築いた存在だが、大きな失脚を3度経験し、その度に返り咲いている。

 最初の失脚は毛沢東(1893-1976)に従い、2度目は毛沢東と対立し、3度目は周恩来(1898-1976)が亡くなったときだった。3度目の失脚の後、間もなく毛沢東が死去すると、四人組が排除され、鄧小平は最後の復活を果たし、中国を市場経済に導いて行く。異聞もあるが、彼が語った「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫」や「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」は、毛沢東たちが掲げた社会主義思想とは異質なものであることは間違いがない。

 歴史に残る思想家であり革命家でもあった毛沢東は、近代中国からの脱却を成し遂げたが、その政治実務能力には欠けたものがあった。今日の中華人民共和国は、「不倒翁」と呼ばれ、ある意味では毛沢東とも対立をしながら、建国以来27年間もの長きに渡って国務院総理(首相)を勤めた周恩来と、幾度となく失脚をしながらその実務能力の高さ故その都度返り咲いた鄧小平の二人がその礎を築いたといえよう。



「神なるオオカミ」
上巻
姜戎(ジャンロン)
講談社

 13世紀の「蒼き狼」と呼ばれたチンギス・ハーンによるモンゴル大帝国を築いたモンゴルの名を現在も冠するのは、外蒙古一帯を国土とするモンゴル国と、その南部の内蒙古と呼ばれる内モンゴル自治区の二つである。モンゴル国は、かつてはモンゴル人民革命党の支配を受けていたが、社会主義政権が崩壊したことにより、1990年には民主化による自由選挙が行われた。モンゴル国内の民衆レベルでは、反中感情が強いといわれている。面積は1,565,000k㎡、人口は、2008年現在287万人という。

 一方、、内モンゴル自治区は、1949年の中華人民共和国建国以来、現在まで約65年間に渡りその支配を受けている。しかも漢民族の移入が多く、面積1,183,000k㎡、全人口2,384万人(2008年度)のうち、約80%を漢民族が占めている。他に、ダウール族・エヴェンキ族・オロチョン族・回族・満洲民族・朝鮮族が居住しているが、モンゴル族は400万人超の人口がある。それは、モンゴル国よりも多くのモンゴル族が住んでいることになる。「神なるオオカミ」の舞台は、この内モンゴル自治区におけるものだ。

 1947年、モンゴル族のウランフ(烏蘭夫)が中国共産党の影響を受けて内モンゴル自治区の成立を宣言、内モンゴル自治区人民政府が成立した。中華人民共和国の自治区としては最も早い成立といわれている。蒙古聯合自治政府の主席であった徳王は、外モンゴルへの逃走を図ったが逮捕された。ウランフもその後、文化大革命の勃発により失脚、1966年に発生した内モンゴル人民革命党粛清事件では、モンゴル人数10万人が粛清されたという。現在も、モンゴル自由連盟党や内モンゴル人民党などが内モンゴル独立運動を行っているが、中国共産党政府により徹底的に取り締まられている。


 少し、近代中国の歴史を概観してみたい。日本では、徳川三代将軍家光の時代、1636年に満洲族の愛新覚羅氏のヌルハチが建てた王朝が「清国」である。1912年まで中国とモンゴルを支配していた最後の統一王朝といわれる。政治的には、先の「明王朝」の政治体制を引き継いでおり、「明清帝国」と呼ぶ考え方もある。第4代の康熙帝(こうきてい)(1661-1722)のときに、チベットも支配下に入れている。そのときのロシア皇帝はピョートル大帝(1672-1725)だった。また、清王朝の成立により大陸での拠点を失った明朝の皇族・遺臣達は「台湾」に逃れた(南明朝)が、その後、清王朝により滅ぼされている。ここでは触れないが、台湾にも複雑な歴史があることになる。

 18世紀半ばに起こった産業革命により西洋が覇権を握り始めると、人口の爆発的増加や自然災害などに苦しんでいた清王朝に陰りが見え始める。清が茶・陶磁器・絹などをイギリスに輸出、イギリスはインドに絹織物などを輸出、インドは銀を清に輸出するという三角貿易が始まるのはこのころであるが、銀の流出を恐れたイギリスはインドの「アヘン」を清に『密輸出』するという奇策を考え出す。それは、イギリスという国が行った『犯罪』であったが、1840年には「第一次アヘン戦争」が勃発する。

 この戦争の結果、清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、翌年の「虎門寨(こもんさい)追加条約」では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。幕末の日本が『震撼』する事態が発生したのだった。さらに、1856年に「第二次アヘン戦争」とも呼ばれる「アロー戦争」がイギリス・フランス連合軍を相手に発生すると、清の半植民地化が決定的なものとなっていく。



1616年に設立した
清国初代皇帝

愛新覚羅ヌルハチ
ウィキペディアより

 今、新たに命名された『危険ドラッグ』の原料の多くが、中国から日本に入っているとされているが、受け入れる側や使用する人の問題もさることながら、時代の流れを感じさずにはいられない。危険ドラッグであろうが、アヘンであろうが、それらを売買しようとする思想には何の違いも感じられない。個人であろうが国を代表する企業であろうが国そのものであろうが、『犯罪』であることには、間違いがないのだ。

 朝鮮半島に起きた「東学党の乱」を契機として、朝鮮半島の覇権を巡って、明治維新後の日本と『眠れる獅子』と呼ばれた清との間で「日清戦争」が起きるのは1894年のことだった。翌年、戦争の終結とともに「日清講和条約」が調印され、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払いなどが決まったが、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」により、日本は遼東半島の放棄を余儀なくされる。

 1900年に起こったキリスト教排斥運動を契機とした「義和団の乱」は、欧米列強と日本による中国への進出の口実となり、清王朝は滅亡へと向かっていく。そして、中国における利権を巡って、日本とロシアの対立が顕在化。清朝末期の実権は、西太后(1835-1908)が握っていた。

 朝鮮半島の利権を主な争点として、朝鮮半島と満洲南部を主戦場に、1904年に起きたのが「日露戦争」である。旅順の攻略、奉天会戦におけるロシアの撤退、そして日本海海戦においてバルチック艦隊が壊滅という『予想外』の結果を生んだロシアは、国内にも革命の火種を抱え込み、極東への南下政策断念を余儀なくされた。アメリカのルーズベルト大統領は、「ポーツマス条約」に至る日露和平交渉への貢献により、1906年のノーベル平和賞を受けている。日本は、莫大な戦費により疲弊することとなったが、朝鮮半島と満洲における権益を


確保することとなる。日本が『韓国を併合』するのは、1910年のことである。今からほぼ100年前のことになる。

 日露戦争に当たって、清国は基本的には中立を通していたが、実質的に日本軍に協力していた袁世凱(1859-1916)が清朝末期の西太后主導の「光緒新政」などを通じて、覇権を握り始め、一度は失脚するが、「辛亥革命(1911-1912)」が起きると、清朝の内閣総理大臣となり、清朝滅亡後は、新生中華民国の臨時大総統に就任する。このころ宋教仁(1882-1913)や孫文(1866-1925)らを中心として結成されたのが「国民党」であった。国民党は、1913年に行われた国会議員選挙において、全870議席のうち、401議席を獲得している。

 同じころ、ヨーロッパを主戦場とする「第一次世界大戦」が、1914年から1918年にかけて勃発する。「日英同盟」を基軸としていた日本は、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承するといったことなどを求めた「対華21ヶ条要求」を中華民国に提示する。それは、満蒙における日本の権益要求を強めようとするものでもあったが、袁世凱政府はそれを受理する。

 袁世凱は自身の権力拡大に努め、宋教仁を暗殺することに成功すると、国民党の弾圧を始めた。さらに、帝政を復活させ、皇帝に即位し国号を「中華帝国」としたが、学生等の批判デモや地方軍閥の反旗を受け、そして態度を変えた日本政府の非難を受けるようになり、失意のうちに退位、まもなく病死をする。日露戦争時に、満洲軍参謀であった田中義一(1864-1929)は、袁世凱の毒殺を認めていたといわれている。ちなみに、田中義一はその後、第26代の内閣総理大臣を務めている。国際的な殺人を犯した人物が総理大臣になるというのも怖ろしい。



孫文
ウィキペディアより

 1921年、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の主導により、各地に分散していた中国共産主義組織を統合する「中国共産党第一次全国代表大会」が上海で開催された。毛沢東が世界史の表舞台に登場することになる。しかし、中国共産党は、結党当時はソビエト連邦への留学生を中心とした体制であった。その少し前、1917年にはロシア革命が始まり、「ソビエト社会主義共和国連邦」が1922年に成立する。ニコライ2世とともに「アナスタシア」たちが虐殺された4年後のことである。

 軍閥と北京政府に対抗する国民党と中国共産党は、ソビエト連邦との連帯を深め、共同歩調を取っていた(第一次国共合作)が、孫文が死去し、その後を継承する形で国民党右派の実権を握った蒋介石(1887-1975)が、「北伐」を開始し、1927年には南京に国民政府を樹立する。孫文と蒋介石は、お互いの夫人が宋慶齢(1893-1981)と宋美齢(1897-2003)という姉妹でもあった。二人の姉妹は、その後中国本土と台湾に別れ、それぞれの国で尊崇を受ける宿命にあった。今後、この二つの国が融和を遂げるとするならば、姉妹が果たすキーワードは大きいのかもしれない。

 蒋介石は、国民党左派が武漢に設立した武漢国民政府により、一時は権限を大幅に狭められるが、武漢国民政府内にはソビエト連邦の影響を受けた共産党員が含まれていたことなどから、1927年の「上海クーデーター」により中国共産党弾圧を始めると、国民党左派も共産党との連携を解消、国共合作は崩壊、国民党と共産党は対立関係に入ると同時に、蒋介石は左右両派を統合した「国民党南京政府」を掌握することに成功する。

 そのころの袁世凱死後の「中華民国北京政府」においても、


複雑な権力争いが繰り広げられていたが、関東軍や吉田茂(1878-1967)奉天(現在の瀋陽市)総領事らは、日本のスパイとして活躍しながら軍閥として覇権を握り始めていた張作霖(1875-1928)を支援していた。

 1927年に、蒋介石の国民革命軍(北伐軍)が南京を占領した際に発生した、日本を含む外国領事館等に対する襲撃事件が「南京事件」だが、1937年に起きた「南京大事件」とは異なる。1927年の南京事件では、日本などの領事館を含む在留婦女が多く陵辱を受けているが、蒋介石を擁護する立場の日本政府は、蒋介石の失脚を狙う過激分子によるものとした。

 日本に対しては宥和策を取っていた蒋介石だったが、北伐を再開すると、1928年には、欧米や日本からの支持を失った張作霖の北京脱出によって事実上崩壊した北京政府を退け、北京入城に成功する。そして日本関東軍は、関係が悪化していた張作霖が乗った列車を爆破、その死を受けてその子息の張学良(1901-2001)が満洲における実権を握るが、満洲に対する軍事・政治の不干渉を条件に、張学良は蒋介石政府に忠誠を誓約、ここにおいて孫文の遺志を継いだ蒋介石による中国の再統一が果たされた。

「張作霖爆破事件」は関東軍の謀略によるものというのが通説となっているが、その対応で昭和天皇の不興を買った田中義一内閣は総辞職。日本の国際的な孤立は高まっていく。南京政府に忠誠を誓った張学良は、「共産党狩り」と称してハルピンのソビエト連邦領事館の一斉手入れなどを実施したことから、ソビエト連邦の満洲侵攻が起き、1929年には中ソ紛争が発生、ソビエト連邦の満洲における影響力が強化されていく。



蒋介石
ウィキペディアより

 1930年の中国共産党の指導による朝鮮独立運動派による「間島共産党暴動」や同年の中国共産党による満洲の「八一吉敦暴動」、入植中の朝鮮人とそれに反発する中国農民の水路を巡る争いを原因とする1931年の日本の領事館警察官と中国農民の衝突である「万宝山事件」、同年の張学良配下の屯墾軍により拘束・殺害される「中村大尉事件」などが発生、日本と中国との関係が悪化する。日本の世論・マスコミは中国の非道を糾弾する声で溢れた。今日の一部のマスコミやネット世論も同様な対応を示しているともいえる。

 そのような状況の中、1931年9月、満洲の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、日本の所有する南満洲鉄道(満鉄)の線路が爆破される「柳条湖事件」が発生した。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表したが、事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(1885-1948)と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐(1889-1949)だった。柳条湖事件は、関東軍による「満洲事変(中国の呼称は九一八事変)」の端緒となったが、5ヵ月の間に関東軍は満洲全土を掌握する。しかし、この事変を契機に、中国における抗日運動が高まり、日本との西欧列強やアメリカとの対立もより深刻化していく。

 1932年の1月から3月にかけて「第一次上海事変」が発生、列強の強硬な反応により、停戦協定が結ばれるが、その後も「第二次上海事変」など多くの事件が続く。1932年3月、関東軍主導のもと、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(1906-1967)を満洲国執政(後に皇帝)とする満洲国の建国が宣言された。建国理念として、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げてはいたが、日本の1933年における国際連盟脱退の主要因となっていく。

 日本に対して宥和的な姿勢で臨んでいた蒋介石は、日本による満洲占領も認めてはいなかったが、共産党に対する激しい対立から、『黙認』の形を取っていた。しかし、1936年に起きた張学良と楊虎城(西安の地方軍閥)らによる「蒋介石拉致監禁事件」「西安事変」を契機として、弱体化していた中国共産党と蒋介石の国民党は「第二次国共合作」を図ることとなる。この事件の責任を取って、張学良は逮捕され、長期に渡る軟禁生活に入るとともに歴史の表舞台から去ることになる。


その後、1991年にはハワイへ移住し、その地で100歳の長命を全うした。

 1937年7月に、北京の西南部の盧溝橋で起きた日本軍と国民党軍第29軍との小規模な衝突事件が、日中戦争(支那事変)の直接の導火線となる「盧溝橋事件(中国名七七事変)」である。盧溝橋事件による戦火の拡大は防がれたが、各地での軍事衝突は続く。そして、上海において、日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(第二次上海事変)。日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産主義勢力との連携を図る。ここにおいて、1945年まで続く「第二次国共合作」が成立する。

 1937年8月に始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は、南京を中心とした防衛戦を構築、徹底抗戦の構えを見せた。中国軍の防衛戦を次々に突破した日本軍は、12月に南京城を包囲、12月10日に総攻撃を開始し、13日に南京は陥落する。その際に発生したのが「南京大事件」である。南京大事件を巡っての大虐殺の存否や規模論争が現在でも続いている。真実は私には判らないが、相当数の虐殺があったことは間違いはないだろう。少なくとも、同じ「南京」を舞台として、被害者と非被害者が入れ替わった事件が起きていることは忘れてはならない。

 日中戦争(支那事変/中国名は抗日戦争)は、1937年から1945年までに渡って大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争だが、1941年12月のイギリス・インドに対するマレー半島の奇襲作戦とアメリカに対する真珠湾攻撃によって戦端が開かれた太平洋戦争(第二次世界大戦)へと拡大をして行く。それに先だって、日本は、1939年に南モンゴルでは蒙古聯合自治政府を設立、また汪兆銘(1883-1944)を首班(主席代理)とする傀儡政権を1940年に南京に樹立、同年に日独伊三国同盟が締結している。その後の結末は、周知の通りである。生命線を絶たれた日本は、アメリカ軍による本土への大規模な空爆を受け、ヒロシマ、ナガサキの原子爆弾の悲劇への道を辿ることになる。



毛沢東
ウィキペディアより

 1945年の第二次世界大戦における日本の敗北により、日本は中国大陸から撤退したが、中国国内における国共内戦は激しさを増していった。しかし、ソビエトからの支援を受けた毛沢東が率いる中国共産党の人民解放軍により、蒋介石率いる中国国民党の中華民国国軍は全面的に敗退、台湾に追われることとなる。台湾は、清に追われた明と同様に、再び中国本土からの亡命政権を受け入れることとなる。1949年には、共産主義政党による「中華人民共和国」が中国本土に樹立される。

 毛沢東を中央人民政府主席とした一党独裁国家であった中華人民共和国は、1949年に「ウィグル侵攻」、1950年に「チベット侵攻」、1952年に「朝鮮戦争介入」、1956年には「中ソ対立」、1962年には「インドに侵攻(中印戦争)」といった拡大路線を進める。参考に、現在の中華人民共和国の地図を参照して貰いたいが、モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウィグル自治区の領域が如何に大きいかがよく判る。中国は、これらの地域における漢民族の比率を上げようとしていることは、かつてアメリカがテキサス州をメキシコから強奪した政策と何ら変わりがないし、今日のロシアによるウクライナ干渉も同じ図式といえる。

 一方、1954年には、最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、中華人民共和国憲法が正式に制定され、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。しかし、1956年から1960年にかけて主導した「大躍進政策」により、農業・工業の大増産政策を目指したが、数千万人の餓死者を出すという『大失敗』に終わり、毛沢東は国家主席の地位を劉少奇(1898-1969)に譲ることになる。


 実態を無視したノルマが課せられていたことと、実態を検証するシステムが存在していなかったため、計画自体が机上のものとなっていたにも関わらず、党中央部には虚偽の報告のみが塗重ねられていたのだった。特に、使い物にならないといわれた粗悪な銑鉄を大量に増産し、そのために大量の木材を伐採した政策は、今日でも洪水の原因となっているといわれている。最も、日本でも同様なことが起きていないとはいえない。

 代わって政権を握ったのが、劉少奇・鄧小平などの修正主義的路線だった。毛沢東は、生涯一度の自己批判をしたという。また、毛沢東の大躍進政策は、アフリカのソマリア、モザンビーク、アンゴラ、エチオピアなどへの影響を与えた結果、それらの国の農業を事実上崩壊させる悲劇を招いたともいわれている。

 劉少奇・鄧小平が経済政策の実権を握ると共に、農業集団化の見直しが行われ、農村部における飢餓状態が改善されたが、権威が失墜した毛沢東らの巻き返しが始まる。1959年に、大躍進政策を批判して失脚した彭徳懐(ほうとくかい/1898-1974)国防部長に代わって、国防部長に就いていた林彪(りんぴょう1907-1971)は、1964年に『毛沢東語録』を出版し、大衆に対する毛沢東の「神格化」を進めた。

 1965年には、北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元(1931-2005)の論文が上海の新聞に掲載されると、これを端緒として、北京大学に反革命批判の『壁新聞』が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心とした党や・国家機関に対する『造反』が起こった。そして過激派となった青少年達「紅衛兵」は、各地での暴動を引き起こすようになった。「文化大革命」の始まりである。



謎の失脚をした
林彪
ウィキペディアより

 文化大革命は、1966年から1977年まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動であったが、実態は毛沢東が自らの復権を仕掛ける大規模な権力闘争でもあった。文化大革命により、劉少奇・鄧小平は失脚、林彪が毛沢東の後継者に指名された。また、毛沢東の妻であった江青(1914-1991)を始め張春橋(1917-2005)、王洪文(1935-1992)、姚文元ら「四人組」が主導権を握るようになる。もちろん、その背後には毛沢東がいた。

 毛沢東思想を原理主義的に信奉する紅衛兵たちは、劉少奇やその同調者に対しての中傷キャンペーンを行い、『自己批判』と称する吊し上げや市内の引き回しなどの暴行をするようになり、劉少奇や彭徳懐をはじめとする多くの政治家や文化人が迫害を受け、『病死』するという悲劇を生んだ。

 暴走が始まった紅衛兵には派閥闘争も生まれ、共産党内の文革派ですら統制不能な状態に陥ると、1968年以降は、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして、大規模な『徴兵』に代わる『徴農』と『地方移送』が開始された。これらの運動を「上山下郷(じょうさんかきょう)運動」というが、『下放(かほう)』とも呼ばれ、『神なるオオカミ』の背景にある政策であり、1978年まで続く。

 下放により、多くの青年層は教育の機会を失い、中国の人材育成のシステムも崩壊していった。1979年以降は、農村で結婚し永住することになった者を除く多くの青少年が帰宅を始めた。既に現地で結婚していたが離婚して元の街に帰ったというケースもあり、取り残された妻や夫、その子供らが後を追って都市へ向かうなどといった悲劇も生んだ。


 そして、1971年に毛沢東と対立するようになっていた林彪らは、毛沢東暗殺計画を企てる。しかし、失敗した林彪らはソビエト連邦に逃走しようとするが、搭乗した旅客機が墜落し死去してしまう。1973年から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定するものとして知られているが、実際の標的は周恩来だったともいわれている。

 文化大革命で荒れた中国を建て直す人材は限られていた。江青ら四人組らの横暴は続くが、1974年、毛沢東は鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えざるを得なかった。鄧小平は、国務院常務副総理(第一副首相)に任命される。周恩来は、養女であり女優でもあった孫維世(そんいせい 1922-1968)が江青の激しい個人的な恨みを買って迫害を受け獄中死したにも関わらず、堪え忍び政権にあり続け、1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。

 少し歴史は戻るが、1971年には、ヘンリー・キッシンジャーアメリカ合衆国国務長官が北京を極秘訪問、1972年2月にニクソン大統領の中国訪問。一方、中国から「貿易三原則」を引き出していた日本は、1962年からの高碕達之助通産大臣と廖承志による「LT貿易」や、1968年の古井喜実による「MT貿易」などの実績を踏まえて、親台湾の佐藤榮作から、1972年7月に田中角栄が内閣総理大臣に就任すると、同年9月に自ら中華人民共和国訪問を断行する。そして、大平正芳外務大臣と中華人民共和国外交部部長姫鵬飛による「日中共同声明」に署名、国交正常化が成立した。アメリカの先手を打つという、日本の戦後政治史上、例外的な事例となる。



鄧小平
ウィキペディアより

 周恩来が提唱した理論は、「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断する考え方を示した。今日の両国の政府に最も欠けている『未来志向』の発想である。周恩来が1976年に亡くなると、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧(第一次天安門事件/四五天安門事件)、鄧小平はこのデモの首謀者とされて三度目の失脚、全ての職務を剥奪された。

 周恩来は、1976年1月に亡くなったが、同年4月には、実権派の後押しを受けて、華国鋒(1921-2008)が国務院総理に就いた。副総理であった文革派の張春橋が有力と見られていたが、それを押しのけての就任だった。毛沢東の「あなたがやれば、私は安心だ」という言葉は、世界中に配信された。また、「毛朱」とも並び称された国家元首格であった朱徳(1886-1976)も7月に亡くなると、毛沢東がついに9月9日、北京の中南海にある自宅において、82歳で死去した。毛沢東が亡くなると、たちまち華国鋒らの実権派は、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組を逮捕・投獄した。ここにおいて、文化大革命は終止符を打つこととなる。現代中国へのリセットスィッチが押されたのだった。

 華国鋒は、党主席・中央軍事委員会主席に就任したが、権力基盤が脆弱だったため、毛沢東の威光を常に借りて、文革路線を継続しようとして、三度目の復活を果たしていた鄧小平らの強い批判を受けるようになる。そして、1978年の第11期3中全会で中国共産党のトップとしての実権を鄧小平に奪われると、その後も、形ばかりの首相や党主席には就いていたが、徐々に降格の憂き目にあうことになり、政治的存在感は失われていった。ここにおいて、鄧小平体制が確立したのだった。その後、鄧小平は1987年に党中央委員を退くが、1997年に亡くなるまでその実権を手放すことはなかった。


 鄧小平体制のもと、党主席・総書記の職を継いだのが胡耀邦(1915-1989)だったが、1980年のチベット政策に対する共産党批判、1985年の軍事委員会批判など進歩的な考えを推す進めたため、保守派からの追撃を受け、1987年には総書記を解任される。その後を継いだのが、趙紫陽(1919-2005)だったが、1989年、胡耀邦の死をきっかけとして、北京市の天安門広場に学生等が民主化を求めて終結した「第二次天安門事件(六四天安門事件)」に理解を示したことなどから失脚する。その後を継いで1989年に党中央軍事委員会主席の地位を鄧小平から継承したのが江沢民(1926-)だった。江沢民は、その後、国家主席・総書記を兼任して最高指導者となって行くが、鄧小平は亡くなるまでその地位が脅かされることはなかった。

 江沢民が採った対日政策は、一貫して反日・強硬路線であった。今日でも、その路線は変わらないどころか、さらにその勢いは増している。国民の政治に対する不満が、中国共産党に向かうことを恐れる余りの愛国主義(反日)教育でもある。また、そのような教育を受けた世代が政治的に大勢を占めるようにもなっている。それに異を唱えない中国のメディアのあり方の問題は数多もあるが、日本国内にも同様な反応を示す偏狭なメディアも多い。しかも、ネット上にある一部の大衆受けを狙った言動は、若者の右傾化へのシフトを際立たせているともいえよう。

 さて、「神なるオオカミ」だが、久しぶりに広大な空気感に溢れた小説に触れた思いがした。トルストイやショーロホフといった文豪の小説を髣髴(ほうふつ)とさせる、見渡す限りに広大な大草原を舞台にした物語だ。「オオカミ」というと、平井和正にも触れたくなるが、ここは我慢をしておきたい。



「神なるオオカミ」
下巻
姜戎(ジャンロン)
講談社
      
        周恩来と妻の鄧穎超と養女の孫維世
             ウィキペディアより

 毛沢東たちが権力奪回を企てた中国文化大革命であったが、コントロール不能な事態に陥ったため、毛沢東は人民解放軍を投入して各地に革命委員会を組織、紅衛兵運動を停止させる。さらにその後始末のために、農村支援の名目で約1600万人ともいわれる学生や青年を地方に分散、追放(下放)することによって、文化大革命は終焉を迎えた。この本の主人公でもある北京の知識青年たちは内モンゴル自治区のオロン草原に下放された。陳陣(チェンジェン)はオロン草原の古老であるいビリグじいさんのもとで羊飼いとして、楊克(ヤンカー)も羊飼い、張継原(チャンジーユァン)は馬飼い、高貴中(ガオジェンジョン)は牛飼いとして壮大な草原の中での生活が始まる。

 陳陣は、遊牧民が敵としながらも崇拝している狼、小狼(シャオラン)と名付けられたオオカミの子を、ビリグじいさんたちの反対を押し切り捕まえ飼育する。遊牧民は、狼を神としても崇拝していた。小狼は狼としての野生と尊厳を失うことはなかったが、次第に陣陣との心の交流を重ねるようになっていく。だがしかし、その後、傷ついた小狼を助けることはできず、陣陣自らがその生命を奪う結末となる。

 オロン高原の遊牧民は、「天葬」が習慣だった。天葬とは天に葬ると書くが、現実はほとんどがオオカミの腹の中に収まることだった。遊牧民たちは、死体がオオカミによって綺麗に処理をされるとともに、「魂」が天に昇ると信じていたのだった。


 作中で、陳陣は語る。「世界史では、ヨーロッパに攻めこんだ東洋人はみな遊牧民族だった。しかも、もっとも強く西洋を震撼させたのは、オオカミ・トーテムを崇拝した三つの草原遊牧民族、つまり匈奴と突厥(とっけつ)と蒙古だったよ。逆に、東洋に攻めてきた西洋人も遊牧民族の子孫だった。古代ローマの城をつくったのは、メスオオカミに育てられた兄弟で、ローマの徽章にいまもメスオオカミと人間の子どもが刻まれている。その後のチュートン、ゲルマン、アングロ・サクソンらの民族はもっと勇敢だった。強い民族の血管にはオオカミの野性的な血液が流れている。気の弱い中華民族には、こういう勇敢で野性的な進取の精神に富んだ血を輸血する必要が大いにある。もし、オオカミが存在しなかったら、世界史は変わっていたと思う。オオカミのことがわからなければ、遊牧民族の精神や気性もわからないし、遊牧民族と農耕民族の区別や、それぞれの優劣もわかるはずがない」

 トラは餌をとったら自分だけ食べて、家族も顧みないが、オオカミは餌をとったら自分のことも群れのことも考えるという。さらには、年をとったオオカミ、足の悪いオオカミ、片目になったオオカミ、小さなオオカミ、病気のオオカミ、赤ん坊を産んで乳を与えているメスのことも気にかけるという。そして、オオカミの口、胃、腸を通って栄養分が完全に吸収され、最後に残るのはわずかな毛と歯だけになる。細菌にさえ少しも食べられるものを残さないほどのケチでもある。モンゴルの大草原がこれほど清浄なのは、オオカミの功績が大きいのだ。

 作中で、ビリグじいさんはこう語る。「日本軍のファシズムは、オオカミから学んだものじゃない。わしは日本軍と戦ったから知ってるが、日本には大草原もないし、オオカミの群れもいない。日本軍はオオカミをみたことがないけれど、人を殺してまばたき一つしなかった。わしはソ連赤軍の道案内をしたとき、日本軍がやったことをみていたぞ。この牧場から東北地方の吉林(きつりん)へ通じる草原の砂利道だが、どれほどの人があの道路をつくるために死んだことか。道の両側は人の骨でいっぱいだった。一つの穴に何十人の命が埋められたんだよ。半分はモンゴル人、半分は漢人だった」



1940年代の
毛沢東と江青
ウィキペディアより
  現在の中華人民共和国と
モンゴル国
新疆ウィグル自治区、内モンゴル自治区、チベット自治区がいかに大きいかが判る

 北京の知識青年がオロン草原に下放されてから30年を経た夏、陳陣と楊克はネービーブルーの「チェロキー」を運転して北京からオロン草原に向かった。陳陣は社会科学院の大学院を修了した後、ある大学の研究所で国情や体制改革の研究をするようになった。楊克は法学学士の学位をとり、さらに修士学位と弁護士の資格をとった。そして、北京で有名な弁護士事務所を開いている。

 下巻の後半は、陣陣の言葉を借りて、著者である姜戎(ジャンロン)の歴史観が続く。世界の歴史上、モンゴル大帝国に次ぐ版図を有したのは古代ローマ帝国だった。いずれもオオカミ精神を崇拝していた民族の帝国だった。ローマ城の徽章にあるメスオオカミの姿は、いまでも深い烙印として西洋人の<遊牧の精神>のなかに残っている。モンゴル人は自分たちの祖先が<蒼きオオカミ>だと考え、モンゴル王族の中心的な部族の領袖、中心的な部族の名前にオオカミということばを使っている。

 さらに、日本に対する歴史観を語る。日本人は稲作をする農耕民族とはいえ、本質的には島国のため海洋民族でもあるという。海上で貿易もし、倭寇のような海賊もやっていた。海狼のような民族性もあり、日本を侵略しようとした元の大軍を殲滅もした。近代になると、より強固な西洋の海狼がやってくると、日本は、中国の儒教を蹴って脱亜入欧をして、強い知識欲と進取の精神を引き起こし、明治維新後は、36年間という短い時間で工業を発展させて、日清戦争、日露戦争を経て世界の強国となった。

 しかしながら、中国は未だに(この時点では)第三世界に属し、台湾とは統一もされず、人口一人当たりの国民総生産と教育投資は世界でも低い水準にあり、ノーベル賞とも無縁になっている。国土の砂漠化と地下水減少の速度は、経済発展の速さをはるかに超えている。そのうえ、とっくに過剰になっている農村人口は、数年で何千万人という単位で増え続けていると嘆いている。

 中国はその後、GDPで日本を抜いて世界第二位の経済力を誇り、アメリカをも凌駕しようという勢いがある。しかしながら、著者が語るように、貧しい暮らしのままにある多くの国民が存在し、地方と都市の問題、そして民族問題も内在したままにある。思想的な統制は、いずれ歯止めがかからなくなり、共

産党独裁という偏った政治形態の崩壊が始まるのはそう遠くないかも知れない。そのような崩壊は、世界の歴史の中にいくらでも存在している。とはいえ、今後の中国がどうなっていくのかは、余談を許さないだろう。隣国にある我々日本も、今の中国だけを見るのではなく、世界の歴史の中で中国を見ていく必要があるのは間違いがない。

 今日の高圧的な中国の台頭は、中国に世論などというものがあるかどうかは別として、江沢民以降にさらに強化された、国民世論の批判の芽を外に向けさせるための操作とみる視点が強い。あたかもそれに対抗するかのように、高圧的な日本政府の所作から生まれるものにも危険な臭いが多く漂っている。我々はいつでも門戸を開いているといいながら、現実の行動は相手の鼻先に「憎しみ」をまき散らしているかのようにも思える。抑止力が平和の礎などという「幻想」を本当に信じているのだろうか。国政を預かる人々の余りにも幼稚な対応、考え方に憤りを感じる今日この頃である。

 日本が太平洋戦争に突入していった主要因を欧米列強の政策に求める主張もあるが、問題は自分自身の中にあると考えるのが基本であろう。物事には常に幾多の要因が重なっているのが現実ともいえる。しかも、日中両政府共にその要因をお互いの非難の中に塗重ねているというのが、今日の姿となっている。必要なのは、その要因を塗重ねるのではなく、一つ一つを消していく努力であり、それが平和の礎となるものと私は信じている。

 改造したパソコンには、初めての「Winodws8」をインストールした。今まで、幾多のOSに取り組んできたが、今回ほど苦労をしたことはない。それだけ、画期的なOSだったのだろう。しかし、如何に優れたOSであろうとも、使い勝手が悪ければ世の批判にさらされることになる。まことに評判が良くないOSのようだが、優れた部分もあると少し評価をしておきたい。マイクロソフトの次のOSは「Winodws10」になるという。「9」を飛ばす訳だが、さて次はどのような評価になるのだろうか?

 そうこうしているうちに、少し前までメインに利用していたノートパソコンが壊れてしまった。またもやマザーボードの故障のようだ。丁度、切り替えてすぐのため、事なきを得たが、それらが同時に起きた場合を考えると空恐ろしくなる。まさに、歴史の偶然性とはそうしたものではないだろうか?

尖閣諸島
 手前から南小島、北小島、魚釣島
 2011年10月13日海上自衛隊撮影/時事通信社より
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068「脊梁山脈」/乙川優三郎(2014年7月27日) 

脊梁山脈/乙川優三郎/新潮社/20130420初版
/353頁/\1,700+税

 いつのころからか、「文藝春秋」や「オール讀物」などを通して、「芥川賞」や「直木賞」の作品に触れ続けていた。それらの作品が抄録だった場合は、単行本を買うこともあった。ところが、かなり前からは、それが辛くなってきた。読んでも、読後感に何も残らないか、途中で読み続けるのが耐えられなくなってしまうのである。私にとって、その賞に値すると思える作品に巡り会うことが希有になってきていた。何故、こんな作品が選ばれるのだろうか? そう感じることも多くなってもいた。そこで、書店で冒頭部分を立ち読みをして、良ければ買うことにしたのだったが、そう決めた途端、購入することはなくなった。冒頭の1ページ、あるいは数行で読むのが耐えられなくなる作品ばかりだったからである。

 それは、年令とともに私の読書力や想像力が落ちているからなのだろうか? しかし、この作品『脊梁山脈』は異なっていた。私にはしっかりとした作品に感じられた。冒頭から小説の世界に入り込むことができたのだった。戦争から帰ってきた主人公が、間もなく父の残した株券によって、一財産を手に入れたり、ほとんど音信不通だった叔父から莫大な遺産を譲り受けたりと、少し都合の良すぎる嫌いはあるが、小説を読んでいるという実感を感じながら読み進むことができた。

 2013年の大佛次郎賞を受賞した作品である。乙川優三郎は、2002年に『生きる』で直木賞を受賞している。時代小説を主な作品としてきたが、この作品は、9世紀に生まれたとする伝説を持つ轆轤(ろくろ)工とも呼ばれる『木地師(きじし)』を辿る物語がメインストリームにあり、それは復員中の列車で世話になった、木地師となっているはずの小椋康造を探す旅でもあった。背景には、高等遊民ともいえる主人公矢田部が木地師の研究ととともに探求する古代史観がところどころに出てくる。そこでは、聖徳太子と孝徳天皇は同一人物であり、実体は蘇我倉麻呂という一人の人間の生涯にすぎないといった独特の古代史観も語られる。

 木地師とは、轆轤を回して椀や盆、木形子(こけし)などを作る職人のことだが、木地は漆器の下地となるため、漆(うるし)
を塗る前の木地が人目に触れることは少ない。著者は、塗師(ぬし)や蒔絵師(まきえし)と異なって、光が当てられることがない木地師の世界に目を向けたわけだが、それは戦争で失われた矢田部の人生を見つめ直す旅でもあり、日本を見つめ直す旅でもあった。

 戦死したと伝えられた弟だったが、その生存を信じて、過去を背負いながら過去に戻っていく主人公の母や、矢田部とは磁石の関係のように引かれ、そして反発もし合いながら、未来に向かって洋画家を目指してヨーロッパに行ってしまう佳子。恐らくは矢田部の子供を宿したに違いないのだが、そうとは気付かずに子の処置に付き合い、作並温泉で木形子(こけし)を形代(かたしろ)として川に流す相手の木地師の娘でもある多希子。そして、小椋康造に巡り会うことはできたが、彼は過去に秘密を抱えたままその後の人生をひっそりと生きていた。出てくる人々が、過去と未来の脊梁に立ちつつ、巡り巡った流れの中で苦しみながら生きている。

 終戦という余りにも大きな過去から逃れ得ない術が重くのし掛かっている。東京大空襲で父を亡くした佳子のみが、カストリ売りから逞しく生きて、画家を目指し、主人公とは別れて、日本を捨ててヨーロッパという未来に向かって行くが、それ以外は誰もが過去を重く引きずっている。誰も日本という分水嶺から離れることはできないのだった。しかも、日本人という成り立ち自体が、単一民族説を唱えたがる一部の人々を嘲るかのように、作中では、朝鮮人との切り離せない関係が語られている。あたかも日本人という存在自体がそこでは意味を為さなくなるかのように。

 今日でも、一部のメディアが朝鮮を嘲るかのような報道をし続けているが、日本と朝鮮を民族としてくっきりと分けて考えることの無意味さが幾度も出てくる。古代豪族として知られる秦(はた)氏を初めとして、帰化人が日本の中に同化していった事実を考えると、二つの民族を明確に区別をすることはできないのだろう。脊梁のどちらかにあるというだけで、二つは繋がり、そして過去を引きずりながら歴史は続いて行く。時代小説という日本を描いてきた著者の視点がそこにある。


「脊梁山脈」
乙川優三郎

新潮社
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067「アナスタシア-消えた皇女」/ジェイムズ・B・ラベル(2014年7月13日) 

アナスタシア-消えた皇女/ジェイムズ・B・ラヴェル
/広瀬順弘(ひろせまさひろ)訳/角川書店
/角川文庫/19980725初版/570頁/\1,000+税

 アナスタシアという名前には、何故か不思議な余韻が私には感じられる。かつて、ロシア映画界にはアナスタシア・ヴェルチンスカヤという、清楚な美貌の女優がいた。モノクロ映画だったが「ハムレット」ではヒロインのオフィーリアを演じ、ロシア映画の超巨編「戦争と平和」ではアンドレイ公爵の妻リーザ役、同じくロシア映画「アンナ・カレーニナ」ではキティ役を演じていた。実際の皇女アナスタシアとはまったく関係はないが、どうもそのイメージが私の中にはある。そのイメージを持って、この本を読んだが、まったく異なる世界が広がっていた。

 アンナ・アンダーソン(1896~1984)、『アナスタシア』を自称したとされる女性の本名である。DNA鑑定では、ポーランド人農家生まれのフランツィスカ・シャンツコフスカである可能性が99.7%と現在では見られている。その女性がこの本の主人公である。

 1920年、自殺未遂を起こし、ベルリンの運河から引き上げられたアンナ・アンダーソンは、記憶喪失者として精神病院に収用された。彼女が消えた皇女アナスタシアではないかとの周囲の声もあり、いつのまにか本人も自分がアナスタシアであると「思い出す」ようになっていった。1920年代には西ドイツで、ロマノフ家の莫大な遺産を巡って訴訟を起こすが、40年近い裁判の結果、目的を叶えることはできなかった。もっとも、著者は、彼女がロシア皇帝の真性の皇女であると見ている。現在でも、その見方を支持する人がかなりいるようだ。

 支持者の援助を受け、1968年にはアメリカに移り住むが、異常な数の犬や猫を飼い、さらには今日でいう「ゴミ屋敷」を生じさせるなど、多くの奇行で知られている。アナスタシアを詐

称した多くの女性の中で、もっとも強い支持を受けた女性でもあった。その支持者のなかには、ロシア帝室の主治医だったエフゲニー・ボトキンの息子でアナスタシアの遊び相手であったグレブ・ボトキンやその姉のタチアナ・ボトキン、1968年にアンナ・アンダーソンと結婚をする19歳年下の資産家ジャック・マナハンなどもいた。アンナ・アンダーソンは、1984年に88歳で死去している。

 皇女アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(1901年生)は、ロシア最後の皇帝ニコライ2世(1868~1918)とアレクサンドラ皇后(1872~1918)の間に生まれた第四皇女だったが、1917年に発生した二月革命によって樹立された臨時政府によって、皇帝一家もろとも監禁され、1918年エカテリンブルクにおいて皇帝一家全員が惨殺されたのが事実らしい。

 ニコライ2世は、皇太子のとき1891年に日本に来ている。その際、大津において警備にあたっていた巡査から切り付けられ、頭蓋骨に裂傷を負っている。その「大津事件」自体は、国際問題とはならなかったが、ニコライ2世は日本人に対する嫌悪感を持つようになり、「日露戦争(1904~1905)」の要因の一つとなったという見方もある。

 ニコライ2世と、イギリスのヴィクトリア女王の孫であったアレクサンドラ皇后との間には4人の皇女が生まれた。日露戦争が起きた1904年には、待望の皇太子アレクセイが生まれたが、血友病にかかるなど病弱に育った。その治療に当たって、皇后の信任を得たラスプーチンが宮廷の実力者となっていったことは、ロマノフ王朝に暗い影を落とした。しかしラスプーチンは、ニコライ2世が不在中に皇帝の姻戚であるユスポフ公らによって惨殺された。ラスプーチンの予言通り(異論もあるが)、皇帝一家が惨殺されたのは、その2年後のことである。



「アナスタシア」
-消えた皇女-
ジェイムズ・B・ラベル

広瀬順弘訳
角川書店
角川文庫

 ニコライ2世の母は、マリア・フョードロヴナ (1847~1928/アレクサンドル3世皇后/マリア皇太后)だったが、デンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーゼの次女として生まれている。彼女の姉はイギリス王エドワード7世の妃アレクサンドラ、その他長兄にデンマーク国王フレゼリク8世、次兄にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラといった華麗なる一族に育っている。

 マリア皇太后は、ロシア革命ではクリミア半島のヤルタに幽閉されていた時期もあったが、姉たちの尽力により救出され、その後デンマークで恵まれた余生を送ることになる。彼女がロシアから持ち出した多くの宝石類や、ロマノフ王朝の財宝を巡る逸話が、多くのアナスタシアを詐称する女性を生み出す所以ともなっている。アンナ・アンダーソンが本当のアナスタシアだとの証言が続いたこともあったが、マリア皇太后は決してアンナ・アンダーソンと会おうとはしなかった。

 アンナ・アンダーソンのDNA鑑定に用いられたのが、生前に手術した際に摘出した腸の一部だったが、その標本自体に疑問を持つ見方もある。一方、比較対象がマリア皇太后の親戚であるエジンバラ公フィリップのDNAだった。現在のエリザベス女王の夫君でもあるフィリップは、マリア皇太后の兄ギリシャ国王ゲオルギオス1世の孫にあたる。

 1954年、ニューヨークにおいて、ブロードウェイの新作『アナスタシア』が開幕された。主役にヴィヴエカ・リンドフォースというスウェーデン生まれの美貌のハリウッドスター、ニューヨーク演劇界の大御所ユージニー・レオントヴィツナがもう一人の主役、マリア皇太后を演じていた。

 アメリカへ行くまでのアナスタシアの半生を基にした芝居だったが、アンナという名で呼ばれる身元不明の若いロシア

人女性が、病院を抜け出し、橋から飛び降り自殺を図ったが、〝ブーニン″という名のロシア人貴公子に助けられる。ロマノフ家の行方不明の皇女アナスタシアの話を耳にしていたブーニンは、亡命ロシア人の友人たちと画策して、彼女をツァーリ(ロシア皇帝)の娘になりすまさせるのだった。ところが、何と、アンナこそ本当のアナスタシアであった。そして、アナスタシアの正体を確認できる祖母である、皇太后マリアとアンナが涙の再会を果たすことになる。しかし、ロシア人貴族やツァーリの財産を管理する銀行家の前で祖母がアナスタシアを公式に認めようとしたとき、アナスタシアはこつ然と姿を消してしまう、という物語だ。

 その後、1956年には20世紀フォックスの『追想』が封切られている。ストーリーはいくらか変更されていたが、イングリッド・バーグマンがアナスタシア、ヘレン・へイズがマリア皇太后、ユル・プリンナーがブーニン公子を演じた。同じ年、20世紀フォックスは人気歌手パット・プーンによる『アナスタシア』というレコードを発売している。映画は世界的な成功を収め、イングリッド・バーグマンはアカデミー主演女優賞を獲得した。

 ソビエト連邦共産党がニコライ2世以外の殺害を認めようとはしなかったことが、「アナスタシア伝説」を生んだとみられている。アンナ・アンダーソンの実名であるフランツィスカ・シャンツコフスカは、ポーランドに生まれた工場労働者であった。ベルリンの爆弾工場で働いていたが、手榴弾を誤って扱い重症を負った。そして、精神不安定となり、アナスタシアとして現れる数週間前に消息不明となっていた。ほとんどロシア語も話せず、ドイツ語を話すなどの不自然さがあった。写真で見る顔も、アナスタシアに似ているとは思えない。しかしながら、多くの支持を集め、複数の映画も作られたという「ロマン」には「アナスタシア」という響きにこそ、何かがあるからではないだろうか?

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066「蓮台の月」/澤田ふじ子(2014年5月25日) 

蓮台の月/澤田ふじ子/「将監(しょうげん)さまの橋」より
/徳間書店/徳間文庫/20010115初刷/318頁/\533+税

 慶長11(1606)年、京都五条南裏近く、巨大な伽藍を聳(そび)えさせた方広寺のそばで松田徳子は生まれた。東西に分裂して間もない本願寺教団西本願寺が、鳥辺野に、後世大谷本廟といわれることになる廟所の仏殿を完成させた年でもあり、先の関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家が八丈島に流された年でもあった。大坂夏の陣で豊臣家が亡びたのは、彼女が10歳のときだった。そのころ、出雲の阿国が京都で「歌舞伎踊り」を演じ始めている。時代が大きく変わろうとしていた。

 松田徳子の父、松田武右衛門は、肥後49万石を領した佐々成政(さっさなりまさ)に仕えていた。主君の成政が、国人一揆鎮圧の不手際を、秀吉に咎(とが)められて切腹した後、武右衛門は仕官の口を求めて上洛し、六条、伏見街道筋の長屋に住み着いたのであった。徳子が生まれたころ、両親は扇商の「奈良屋」から青竹を預かり、扇骨(せんこつ)を削って暮らしを立てていた。

 もと武士であった林与兵衛も、天正17年、足利家の浪人原三郎左衛門とともに秀吉に乞い、洛中に散在していた傾城屋を二条柳町に集め、はじめて「廓(くるわ)」をつくった。長年の困窮により、徳子の母が胸をむしばまれ、血を吐いたとき、6歳になった徳子は、両親に断りもなく、六条三筋町に大きな屋形を構える、林屋与兵衛が営んでいた「林屋(りんや)」の暖簾(のれん)をくぐった。自分の身を売るためであった。

 徳子の両親を訪ねた林与兵衛は、その困窮を目にし、徳子を遊女としてではなく、娘として預かることを申し出る。ほどなくして徳子は、六条三筋町の林屋で暮らしはじめる。林与兵衛



の庇護を受け、徳子は和歌、連歌、琴、笙(しょう)、書道、茶湯、香道と、諸芸全般を学んだ。彼女が11歳のとき、与兵衛からの生活の世話を受けていた両親が続いて亡くなると、徳子は自ら進んで、林屋の名妓備前太夫付きの禿(かむろ)になることを申し出る。長い間、両親の面倒を見て貰ったお礼としてであった。徳子は、与兵衛の庇護の許で暮らしながら、自分の置かれた立場を心の底で理解していた。

 与兵衛の反対を押し切り、徳子はついに備前太夫付きの禿となり、林弥(りんや)と名乗る。美しい容姿と品性の良さを備えていた林弥は、太夫への道を歩んでいくこととなった。傾城屋で働く遊女といっても、上は太夫から最下位の奴(やっこ)までの階級があり、元禄年間の記録『傾城三味線(けいせいじゃみせん)』によると、島原遊廓の揚げ代で、太夫が銀76匁(もんめ)、中技の天神(てんじん)は30匁、鹿子(かのこ)は18匁となっている。最下位の奴では6匁ぐらいだったらしい。ちなみに、当時の大工の手間賃が一日約4匁だったという。

 江戸時代の貨幣基準は、時代によっても異なるので、単純に決めることはできない。江戸前期では、慶長小判金1両が、銀で50匁、銅銭では4千文だったから、1両を10万円程度とみると、1匁は2千円、1銭は25円となる。すると、大工手間は一日8千円ということになる。補助単位である分や朱は、1両の1/4が分、その1/4が朱であった。また慶長大判は、一般的に流通していた貨幣ではなかったが、何両に当たるのかは明確ではない。いろいろと調べてみたが、諸説あり、7両2分に当たるとか、8両2分に当たるといった説明が各所に出ているが、難しい。その時代の相場により変動していたというのが事実であろう。



「蓮台の月」
が収録されている
「将監さまの橋」

澤田ふじ子
徳間書店
徳間文庫

 遊女たちは、年季が明けるか、身請けでもされなければ、苦界(くがい)から逃れる術(すべ)はなかった。そのいずれかで解放されるのは、半数ほどの女性に過ぎず、多くの遊女たちは日夜、客を取らされ健康を損ない、薄命のうちに死んでいった。彼女たちの平均寿命は24歳程度だったというのが哀しい。

 備前太夫に従って客の前に出た林弥の評判は、洛中洛外までに響き渡った。自然、備前太夫の不興を買うこととなる。傾城屋の商いも店の示しも付かないとみられたのだった。与兵衛は、因果を含め林弥を元の生活に戻すこととした。しかし、その2年後、備前太夫が禁裏御服所を務める八文字屋に身請けされ、六条三筋町から退廓した。その前年、元和3(1618)年に、江戸では吉原遊廓の開設が許可されている。徳川秀忠将軍のときであった。

 元和5年、禿時代の林弥をかわいがっていた出雲松江藩主堀尾忠晴が、自ら後ろ盾により、林弥にお披露目の費用と化粧料千両を与えて、太夫として衆目の前に登場させることとなった。「吉野太夫」が誕生したのであった。彼女が14歳のときであったという。万治元年の吉原遊廓の例ではあるが、遊女総数2,868人のうち、太夫はわずか3人に過ぎなかったという。吉野太夫を贔屓にしたのは、他には関白で後陽成天皇の第四子近衛応山(このえおうざん)、富商の跡取りで諸芸に秀でた灰屋紹益(はいやしょうえき)などがいた。

 灰屋紹益は、藍染め用の紺灰を家業とする「灰屋家」の跡取りであった。当代は灰屋紹由だったが、異説では紹由の実子ではなく、本阿弥光悦のいとこ光徳の孫、本阿弥光益の子供で、本阿弥家から灰屋に養子に入ったともいわれている。いつしか、吉野太夫は、自分を揚屋に招く多くの客の中で、若い紹益の才気とおだやかな人柄に惹かれていくようになって


いた。しかし、紹益には妻がいた。

 吉野太夫については、たくさんの逸話が伝えられている。明(中国)の李湘山(りしょうざん)は、彼女の美貌を聞き、詩を賦して日本に送り、画像を懇望したという。日蓮宗中興三師の一人、常照寺の日乾(にっかん)上人も、吉野の噂を聞き、林屋の暖簾をくぐり、彼女を一目見た上、見料(けんりょう)として数枚の一分金を置いていった。それを日乾上人と知った吉野は、後日、上人に帰依したという。

 寛永7(1631)年、灰屋紹益の妻が流行り病で亡くなると、妻の49日を済ませたばかりの紹益から、林与兵衛に内々、吉野太夫の身請けの相談が持ち込まれた。吉野は25歳になっていた。吉野の気持ちを理解していた与兵衛は、その意向をくみ取るが、紹益は父紹由や親戚一門には無断での申し入れであった。

 吉野を身請けするからには、後日、慶長大判小判併せて200枚だったとの噂がたったほどだが、与兵衛は吉野の身請け料は慶長大判1枚だけとした。吉野は与兵衛の元に身売りしてきた訳でもなく、お金を掛けた以上に充分に儲けをさせてもらった上、これ以上のお金は頂く訳にはいかないと、しかし、それでは気が済まないでしょうから、大判1枚だけ頂きましょうと言ったのだった。

 翌年、吉野は退廓する。それより前、紹益は父紹由から勘当を申し渡されていた。大判小判200枚の噂もその批難に輪を掛けた。退廓の仕度に取りかかっていた吉野は、意気消沈する紹益を励ました。退廓の挨拶に必要な費用は、近衛応山から贈られた小倉色紙を売り払った慶長大判30枚が役にたった。近衛応山がぼやいたのはいうまでもない。




花僧
澤田ふじ子
中央公論社
中公文庫


 廓中の挨拶を済ませ、旧名の徳子に戻った吉野太夫は、小さな包みを一つ持ち、ひっそりと廓を後にした。与兵衛は、紹益との暮らしがまずくなったならば、いつでもこの林屋に娘として戻ってくるがよいといって、徳子を送り出した。

 五条南裏に居を構えた二人の暮らしは、荒壁に囲まれた二間に台所が付いただけの侘びしいものだった。二人が居間として用いた板間には、小さな床と炉が切ってある。その東横に円相の窓があった。徳子が左官職人に依頼し、特別に造らせたものだった。後世、この種の窓が『吉野窓』と呼ばれることとなる。東山から月が昇ると、徳子は円相の窓を月に見立てて、紹益と歌を詠み、酒杯を交わしたという。陋屋(ろうや)だったが、徳子と紹益は侘び住居の蓮台(れんだい)に座っていた。

 二人の住居は、一部の人にしか知られていなかった。近所の人々は、二人のことをほとんど知らなかった。二人の侘びしい生活は、徳子が両親の縁で始めた「奈良屋」の扇紙折りの手内職が支えていた。扇紙の手内職は、一日、根を詰めても、銀1匁にもならなかった。3日の手間賃で、やっと米が一升買えたという。

 紹益が伏見に出かけていたある日のこと、紹益を送り出した徳子は、台所を片付け、部屋の掃除をすると、裏の竹藪に行き赤い椿の花を剪ってきた。徳子も紹益も好きな花であった。外では、氷雨が降ったり止んだりしている。炉では炭火が小さく焚かれ、茶釜が小さく湯気を立てていた。徳子は、夢中で扇紙を折り続けていた。手許が急に暗くなり、外では氷雨が強く降り始めた。


 徳子が外の様子を見に行くと、欅(けやき)の木陰で雨宿りをする老若の二人を確かめることができた。奉公人らしい若者が、初老の男の肩の濡れを拭いていたところだった。家の間口から、思わず二人に徳子は声をかけた。雨脚が衰えるまでの雨宿りを勧めるためであった。徳子の丁寧な誘いにより、初老の男がすかさず礼をいい、若者に傘をさしかけられ、軒下に身を滑り込ませてきた。

 冷えで身震いをしていた初老の男に、茶を勧めると、初老の男は敷居を跨ぎ、狭い土間に入ってきた。徳子が差し出す手ぬぐいを借り、不審そうな視線を漂わせながら、炭火のそばに近づいた。そして、床に生けた一輪の椿に目を止めた。改まった想いが見えたからだった。若い男は、彼女の美しさに目を奪われていた。徳子は、愛用していた赤織部の沓形(くつがた)茶碗に、茶釜の湯をくみ、さらさらと茶筅(ちゃせん)を使った。茶湯の作法にかなった、優雅な仕草だった。

 陋屋ながら、部屋には稟(りん)としたものが漂い、床の掛け物や茶道具の一つひとつに、知性や気品が溢れている。女性も、そして留守の主もただ者ではないと初老の男は感じた。炉辺にいつまでも座り、美しい女性と語らいたい想いを抱きながら、かろうじて耐えた初老の男は、茶のお礼をいい、雨が上がった気配を感じて退出をしたのだった。

 二人は五条大橋を西に渡り、烏丸通りを上に登ってきて始めて、相手の素性も訪ねていないことに気が付いた。また、自分も気圧されたまま名乗ることも忘れていた。初老の男は、若者に女性と主の名前をそれとなく聞いてくるように言いつけると、丸に「灰」の字を白く染め抜いた黒の暖簾をくぐり、間口の広い店に入っていった。灰屋家の当主紹由の帰りを、番頭や手代がこぞって迎えた。



吉野窓
鎌倉明月院にて
1999年6月20日撮影

 灰屋紹益が勘当を許され、徳子ともども、上京智恵光院立売(ちえこういんかみたちうり)の家に戻ったのは、本阿弥光悦が親子の仲を取りなしたとの説もある。あくまでもこれはフィクションである。灰屋紹益と徳子は、12年間を過ごしたが、寛永20年、徳子は38歳の若さで亡くなった。徳子は、上京今出川の日蓮宗立本寺(りゅうほんじ)に葬られた。悲嘆に暮れていた紹益は、埋葬の日、白磁の骨壺から徳子の遺灰をつかみ出し、ぽりぽりと食べ始めたとの逸話も残っている。

  むさし野のくさはみながら置く露の

              月をわけゆく秋のたび人

 これは、紹益が晩年、名随筆『にぎはひ草』で徳子を偲んで詠んだ一首だといわれている。

 以上は、感想でもなんでもない。澤田ふじ子の徳間文庫/光文社文庫の「将監さまの橋」に収められた短編『蓮台の月』の「あらすじ」がほとんどである。芸妓「吉野太夫」の逸話を小説にしたものだが、実際の逸話には諸説ある。あくまでも澤田ふじ子のフィクションを簡単にまとめたものに過ぎない。一人の美しい女性の哀しくも優雅な人生に対して、あらすじ以上のことを書くには至らなかったというのが正直な気持ちである。

 澤田ふじ子の小説は、しっかりした歴史背景を感じさせる名文で埋まっている。もっと注目されても良いと私は思っているが、余りにも哀しい結末が多すぎる。藤沢周平の初期作品に


見られる、暗く淀んだ哀しい結末とは少し異なるが、哀しくも美しい結末が似合っているのかもしれない。反対の結末の場合は、どちらかというとあっけらかんとしてしまう作品が多いことからも、失礼ながら苦手なのかもしれない。

 作品群をここで書く気は起きないが、池坊の始まりを描いた『花僧』は大作だった。これも是非お勧めしたい作品だろう。「池坊」は、今日の華道家元として、日本最大の会員数を誇るが、その草創期の物語である。京都六角堂(頂法寺)で花を供える僧がその始まりとされるが、正確なことは判らない。「専応」がその池坊の法院の座を継いだのは、賤しい生まれにも関わらず、立花(りっか・たてはな)の腕と千経万論の学識からであった。五摂家や摂家門跡、宮門跡を後ろ盾とする慧信が法院に就けば、禁裏を初め有力公家の庇護は間違いないとみていた多くの花僧達の予想を退けることとなったのは、有力僧の末座に座る、先代の法院専鎮の兄弟子であり、専応の良き理解者であった学恵が強く主張したからであった。今日の池坊が一族の継承によって成り立っていることに対する痛烈な皮肉にも私には思えた。

 また全作を詠んでいないが『高瀬川船歌シリーズ』は楽しく読むことができた。書き出すと切りがないので止めておくが、長編も短編もしっかりした作品が多い。それに引き替え、最近人気の著者たちの時代劇ものは、大した中身もなく、キッタハッタばかりが気になって余り読む気がしないのは、私ばかりではないだろう。「蓮台の月」は、小品ではあるが、余韻の深く残る作品であった。



高瀬川女船歌
シリーズから
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065「炭素文明論/『炭素の王者』が歴史を動かす」/佐藤健太郎(2014年5月11日) 

炭素文明論/「炭素の王者」が歴史を動かす
/佐藤健太郎/新潮社/新潮選書
/20130725初版/255頁/\1,300+税

 地球上に存在する炭素は、酸素、窒素、硫黄、燐と結びついて、あらゆる種類の有機分子や有機物を形成しているが、私たちの体も、水素、炭素、酸素、窒素、硫黄、燐とごく微量の他の元素で構成されている。生命が営むシステムは、炭素(カーボン)による活発な原子活動があってこそ、その機能が成り立っているといえる。乾燥した人体の重量の2/3は炭素だという。

 著者は、東工大大学院の理工学出身で医薬品メーカーの研究職を勤めた後、東大の特任助教等を経てサイエンスライターになった人だが、化学に対する不人気は世界的な傾向だという。日本でも、就職率が高く、ノーベル化学賞を7人も出しているにも関わらず、学生の志望者数では物理学や生物学の後塵を拝することが多い。しかし、人口爆発、貧困、気候変動、資源及びエネルギーの確保、食料の増産、各種汚染物質の削減、がんや認知症、新興感染症への対策などなど数多くの問題を考えると、化学の重要性はますます増大している。

 「低炭素社会」や「カーボンフリー」などといったテーマが最優先の課題の一つとなっている観があるが、そこではまさに「炭素」が悪者であるかのように扱われている。しかし、冒頭に書いたように、炭素こそが豊かな可能性を生み出す、生命にとって、そして化学における「鍵」を握る存在なのだ。「デンプン」「砂糖」「芳香族化合物」「グルタミン酸」「ニコチン」「カフェイン」「尿酸」「エタノール(酒)」「ニトロ」「アンモニア」「石油」「カーボンナノチューブ」などの炭素化合物が私たちの生活にどう関わっているかを判りやすく説いた本だといえる。




 日本料理に欠かせない「うま味」成分はグルタミン酸のことだが、この「うま味」を欧米人はなかなか理解ができないという。昆布や鰹節のダシが主なものだが、グルタミン酸がナトリウムイオンと結びつくことによって、強い味を感じさせるようになる。このグルタミン酸ナトリウムを商品化したものが「味の素」だ。発売開始は1909(明治42)年だが、1960年代の一時期、味の素は「石油からの化学合成」によって製造していたことがあった。しかし、化学の目で見れば、組成的にはまったく変わりのないものであるにも関わらず、世間からの指弾を受け、その後の味の素は「サトウキビからの発酵法」によって作られているという。

 石油も炭素化合物に他ならないが、まさに石油自体も悪者の最たるもののように世間では扱われている。例えば、飲料用のガラス瓶に代わるペットボトルは、環境負荷が高いといわれているが、軽く割れにくく輸送費も少なく済むことを考えると、リサイクルさえきめ細かく行えば、ガラス瓶よりも環境に優しい材料になり得るというのだ。あくまでも、これは私の意見ではなくこの本によるものだが。

 ところで「石油とは何だろうか?」。実は石油という名前の物質も商品も実在はしていない。石油は、様々な化学組成をもった「炭化水素」の集まりなのだ。炭素は互いに繋がりあって長い鎖を作るが、そこに水素が周りを覆うように結合したものが炭化水素だ。概ね、炭素の数が4以下であると気体に、5~10数個であると液体に、それ以上であれば固体になる。石油とはこれらの様々な炭化水素が混じりあったものだといえる。



炭素文明論
佐藤健太郎
新潮社
新潮選書

 現在、石油が燃料の王座にあるのは液体であることに由来する。気体である天然ガスはかさばるし、漏れ出せば爆発の危険もあるが、液体である石油はパイプラインや船などでで比較的簡単に輸送できる。一方、固体である石炭などは輸送も決して安価ではない。また、石油を加熱して気化させ、冷やすことによって、沸点の差から分子のサイズごとに分けることができる。この「分留」によって、硫黄分などの不純物を除き、揮発性・重量などをほぼ一定に揃えることで、ガソリン、灯油、軽油、重油などを得ることができる。しかも、分留後に残る油はアスファルトとなる。まさに理想的な資源なのだといえる。著者は「たっぷりと税金がかかったガソリンが、ペットボトル詰めのミネラルウオーターより安く手に入るのだ。これを神の恩寵と呼ばずして何と呼べばよいのか、とさえ思ってしまう」とまで書いている。

 私たちは、この石油の生成由来を「有機起源説」で説明されてきた。有機起源説とは、植物プランクトンなどの死骸が海底や湖底に沈み、細菌による分解を受けて腐植物質となる。これが地殻変動によって地下深くに埋没し、高い地熱と圧力を受けて原油に変化するというものだった。しかし「無機起源説」を唱える人が最近は増えてきているという。無機起源説は、元素周期表の考案者として有名な、ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフが最初に唱えたものだが、地球草創期に閉じ込められた炭化水素が、やはり地中探くの熱と圧力を受け、変成してできたとする考え方だ。実際、枯渇した油田を放置しておくと、再び油が湧いてきて採掘可能になることがあるが、この説ではそれも説明できるという。

 最近話題の「シェールガス」があるが、シェールガスの埋蔵


量は、世界の需要の300年分ともいわれている。シェールガスの主成分のメタンは炭素原子1つに対して水素が4つ結びついているが、石油ではこの割合が炭素1:水素2、石炭に至ってはほとんどが炭素だという。そのため、石炭の発熱量当たりの二酸化炭素放出量を、100とした時、石油は80、シエールガスは55に過ぎないのだ。しかも、石油などよりもずっと低コストで生産できるわけだから、期待が集まるのも当然といえる。シェールガスの採掘に沸くアメリカは、2020年までには世界最大の化学燃料輸出国になるともいわれている。

 とはいえ、頁岩の水圧破砕を行う際に用いる薬品が環境汚染を起こすとの指摘もされているし、大量の注水が地震を誘発するという懸念もある。またシェールガスの主成分のメタンによる温室効果は二酸化炭素の20倍以上も高いという。温暖化といえば二酸化炭素が代表例だが、実は温室効果全体の2割はメタンが原因なのだ。牛などの「げっぷ」に含まれるメタンガスさえ地球温暖化に影響を与えるともいわれている。しかも、シェールガスは、掘り始めてから数年で早くも産出量が大幅に減少しているガス井があり、最近では疑問符を付ける考え方も出てきている。

 「宇宙船地球号」という概念を発表したのは、アメリカのリチャード・バックミンスター・フラー(1895-1983)だが、彼の概念は1967年のモントリオール万博における「ジオデシック・ドーム」に結びついた。このドームを別名「フラードーム」というが、炭素原子がある条件で60個集まって極めて対称性が高い中空のサッカーボール状の構造体を構成する同素体も「フラーレン」と名付けられた。レーザーでバラバラに壊れた炭素が、誰の手も借りずに自然に美しい形状にまとまるという。



フラードーム
(ジオデシック・ドーム)
ウィキペディアより

 フラーレンが発見されるまでの炭素の形態は、黒鉛とダイヤモンドと無定形炭素と呼ばれる3種類だけだったが、「第4の炭素」フラーレンはただ美しいだけでなく、化学者の興味を惹きつける多彩な性質、反応性を備えていた。このフラーレンによる化合物の応用例として、フイルム上に印刷する太陽電池がある。いずれは、壁紙やカーテン、日用品の表面を「発電所」にすることも可能になるという。その研究は、さらに「カーボンナノチューブ」や「炭素繊維」の開発に繋がる。カーボンナノチューブは、直径1センチのロープで1,200トンの重量を吊り上げる能力がある。また、炭素繊維は、耐震機能が劣る構造体の補強用などに多く利用されている。

 炭素研究の応用は、バイオ技術による「抗体医薬」や植物が行っている「光合成」を人工的に発生させる技術までもある。オーランチオキトリウムという、大きさがわずか100分の1ミリメートルしかない藻類があるが、2009年、筑波大学の渡邉信教授が、沖縄の海で発見したものだ。適切な環境に置いてやれば4時間ごとに倍々に増えてゆき、これらが一斉にスクアレンを生産するという。スクアレンは油脂の一種のことだ。すなわち二酸化炭素を油に変える技術といえる。著者は、休耕田を利用した日本国内のオーランチオキトリウムによる油田栽培を提案しているが、水田風景が油田風景に変わるのは少し頂けない。いや、絶対に止めて貰いたい。

 著者は、最後にこう語っている「エネルギー浪費のライフスタイルなどやめて、江戸時代の暮らしに戻ればよいといった論調を少なからず目にした。だが、技術と社会を昔に戻すことはできない。単純な話、19世紀の技術で養うことのできる人口は20億人ほどに過ぎないから、江戸時代に帰れということは、50億人に死ねと言っているに等しい。過去に学ぶことはもちろん多いが、後戻りすることに意味はない。道は、前方にのみ拓かれる」。しかし「後方」を顧みて、新たな道を拓くことも重要なことではないだろうか。ある意味、後戻りをすることも必要ではないかと私は考える。

 、朝日新聞(2013年9月29日)の書評欄を見て読んだ本だが、「炭素」に込めた「科学(化学)への警鐘」に対する反骨が語られているといえよう。文章は読みやすく、逸話なども多く出てくるため一気に読むことができる。読んで行くと、思わず説得させられてしまいそうになるが、良く考えるとかなり危いなと思うところも出てくる。とはいえ、本書の裏表紙の「『炭素史観』ともいうべき斬新な視点から、人類の歴史を大胆に描き直す」といった表現は大げさ過ぎるとしても、新潮選書のコストパフォーマンスを考えると、良本だったといえる。何しろ、昨年末発売された講談社のパトリシア・コーンウェルの「死層」は、文庫本で上・下で700頁程度しかないにも関わらず、2冊併せて¥2,500円以上もの価格設定だった。講談社は一般に価格設定が高いが、これは異常だった。何が原因なのだろう。


サッカーボール
フラーレンの形態はサッカーボールに似ている
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064「超薬アスピリン-スーパードラッグへの道」/平澤正夫(2014年3月30日) 

超薬アスピリン/スーパードラッグへの道/平澤正夫
/平凡社/平凡社新書107/2001年09月19日初版
/251頁/\740+税

 2月23日の朝日新聞で、「アスピリンで大腸ポリープ抑制 がん予防に期待も」の記事が出ていたが、その後、3月21日の産経新聞記事でも「アスピリンに新たな期待 がん予防の臨床報告相次ぐ」が報道された。確認はしていないが、恐らく他のメディアも取り上げたものと思われる。いまさら何をといった感があるが、2007年から国立がん研究センターや京都府立医大など国内19施設が参加して、大腸ポリープを切除した患者311人について調べた結果を、厚生労働省が発表したものだ。

 アスピリンはドイツのバイエル社の商標名で、アセチルサリチル酸のことだが、1899年に発売が開始され、頭痛などの痛み止めや発熱の抑制効果、最近では脳梗塞の治療薬として使用されて来た。広く一般的に使用されて来た薬だが、胃腸障害などの副作用があるため、市販薬などでは胃を保護する成分が配合されていることが多い。日本では、ライオンの「バファリン」や内外薬品の「ケロリン」などがその代表例だ。今回の報道記事では、喫煙者ではアスピリンの服用により、逆に大腸ポリープが増加することも示されたというから、喫煙者は注意を要することになる。また、ぜんそく患者にもアスピリンがタブーだといわれているが、「アスピリンぜんそく」に陥り死亡した例も報告されている。

 大腸がんによる死亡は、世界的にも増加の傾向にあることや、国内における女性のがんによる死亡率は1位となっていることなど、予防医療の面からも期待が大きいものといえる。ところで、何をいまさらとしたのは、この本を読んでいたからに他ならない。実は、この本を知ったのは、松岡正剛の千夜千冊915夜「超薬アスピリン」を読んだからだが、2001年に発行された本だ。著者は医者と相談しながら、大腸がん予防を兼ねてアスピリンを飲み続けているらしい。

 100年の以上の歴史を持つということは、既に特許が切れているわけで、実際、アセチルサリチル酸を有効成分とする薬の生産量は、世界で年間4万5千トンに達するという。300mg含有の錠剤に換算すると、世界の人口を60億人の前提で、一人当たり年間に25錠飲むという途方もない量になる。心筋梗塞や狭心症に効果があることが知られたのが1970年代、大腸がんなどのがんに効果があるとの臨床試験や疫病調査が相ついだのが1980年代だった。2000年代には、アルツハイマー病、骨粗密症、糖尿病、妊娠中毒、歯科疾患、不妊などにも効果があるのではないかといわれるようになっている。まさに、「超薬」といえるわけだ。この本には出ていないが、2005年には、川崎病の治療薬として承認されている。



超薬アスピリン
-スーパードラッグへの道-
平澤正夫
平凡社
平凡社新書

 血小板の働きや動脈硬化などが原因で血塊ができるが、血管に血塊ができて血流を妨げたり血管を詰まらせることを「血栓」という。何かのはずみで血栓が血管から剥がれ、血流に乗って体内を巡り、他の個所に行って血管を詰まらせることを「塞栓」という。そのような血小板の凝集を防ぐ薬を「抗血小板剤」というが、厚生省(現在の厚生労働省)がアスピリンを抗血小板薬として認めたのは2000年の9月だった。

 諸外国なみに10数年まえに承認していたならば、心筋梗塞や脳卒中で亡くなられた患者の少なくとも数十万人は救われていたのではないかと、著者は記述している。著者が1994年に、この本を書くに当たって厚生省へ取材に行っている。「なぜ、抗血小板薬として厚生省は承認しないのか?」との問いに対する厚生省の答えはこうだった。「メーカーが承認申請を出してこないのだから仕方がない」。

 それは、アスピリンが廉価な薬だからでもあった。バファリンなどのアスピリンは、薬価が最低の部類に位置するため、医療機関も製薬会社も付加価値の高い保険適用薬に目を向けがちになるというものだ。この本では、現在は廃止されたが、一日分の薬の値段が205円以下であれば、205円として医療保険側に請求ができる「205円ルール」という慣行があったことなども糾弾している。アスピリンの一錠の保険薬価は6円40銭だとのことだ。

 ドイツのバイエル社はアスピリンの抗血小板薬としての承認申請を1999年7月16日に出している。一方、他メーカーの6品目の内4品目は2000年の3月21日、残りの2品目は4月28日と5月11日だった。承認されたのが、全品目とも2000年の9月22日だったいうから、最後発のメーカーは4ヵ月余りで承認されたことになる。余りにも作為的な承認行政が行われたようだ。アスピリンが胃腸障害を起こしやすいことは触れたが、バイエル社の薬品「バイアスピリン」は腸溶剤だという。アメリカの抗血小板としてのアスピリンの処方箋は95%が腸溶剤が使われているという。しかし、厚生省は当初(6月14日)バイエル社が提出した報告書に書かれていた腸溶剤の利点にクレームを付け、再提出まで求めていた。

 10年以上も前に書かれた本のため、現在では変わってしまったこともある。しかし、アスピリン自体が再注目されるなかで、日本の医療行政の問題を改めて考えるには忘れられない本だともいえる。国内企業を守ること自体を間違っていると私は考えないが、産官学に携わる人達の恣意的な動きは注視しなければならない。そこには守る対象を間違えた人達が多くいるからだ。
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063「アンティキテラ-古代ギリシアのコンピュータ」/ジョー・マーチャント(2014年3月9日) 

アンティキテラ-古代ギリシアのコンピュータ
/ジョー・マーチャント/木村博江訳/文藝春秋
/20090515第1刷/285頁/\1,900+税

 いつの世も、新しい考古学的発見により歴史は遡ってきた。文化は停滞することもあるし、後戻りすることすらある。忘れ去られてきた技術も数多くあることは歴史の結果が示している。

 日本の古墳時代の始まりは3世紀後半とする見方がかつてはあったが、現在では3世紀半ばとする考え方が有力となり、人によっては3世紀前半とする考え方もある。弥生時代の始まりに至っては、紀元前5世紀頃が定説といわれていたこともあったが、放射性炭素年代測定法や年輪年代法の発達により、紀元前10世紀ころとする考え方が出ている。5~600年も遡ることになる。また北海道においては、弥生時代そのものが存在せず、単純な歴史観だけで歴史を語ることはできないし、当然、日本国内だけで歴史を語ることもできない。天皇の歴史であろうと、海外の影響を受けている歴史的現実がある。安倍晋三首相は「日本を取り戻す」といっているが、以前の「美しい国」と同様に、余りにも抽象的すぎて、何を目指したいのかが理解できず、危険な匂いばかりが目立って胡散臭さが漂っている。

 ケーブルテレビの放送で『古代ギリシヤの”コンピュータ”アンティキテラの謎』を見たのが、この本を読むきっかけになった。放送されたのは2013年の2月だった。ところが、ほとんど偶然なのだが、昨日、教育テレビ(Eテレ)にて再放送がされた。『人類最古のアナログコンピュータ』という触れ込みだったが、アーサー・C・クラーク(1917-2008)は、「この知識

が継承されていたなら、産業革命は100年以上も早まり、いまごろ人類は近くの星に到達していたはずだ」といったという。

 しかし、「パペッジのコンピュータ」でも触れたが、「ジャガード織機」が普及までに50年もの待機期間があったように、新しい技術がその社会にすぐさま取り入れられるとは限らない。新しい技術が社会に浸透するためには、社会自体の成熟も必要であろうし、今日のiphoneやipadに見られるように、社会に対して何らかの「きっかけ」が発揮されるや否やたちまちに普及していくこともある。

 チャールズ・バベッッジ(1791-1871)は「コンピュータの祖父」とも呼ばれている。してみると、アニメの「ドラゴンボール」ではないが、さしずめ「アンティキテラの機械」は「コンピュータのご先祖さま」なのかも知れない。

 1901年、クレタ島の西北、ペロポネソス半島とクレタ島の間にあるアンティキテラ島の海底の沈没船から発見された「アンティキテラ島の機械」と呼ばれる、アテネ国立考古学博物館の一隅に、置かれているものがある。ガラスケースの中に宙に浮いた状態で、緑青がはえたような、板状のものが三つ収められている。最も大きな破片の長さが18cm、4本スポークの歯車の直径が約3cmほどのものだ。その破片には少なくとも30個の歯車がついていて、、残存する部分の表面にぎっしりと細かな文字が刻まれていることが確認されている。発見したのは、コントス船長と、貧弱な潜水器具を使い、命がけで沈没船を捜索していた屈強な海綿獲(と)りのダイバーたちだった。



アンテキテラ
-古代ギリシアのコンピュータ-
ジョー・マーチャント
木村博江訳
文藝春秋


アンティキテラの主要破片 「アンティキテラ」より

 今日では、EUのお荷物とまで揶揄されるギリシヤだが、少し前までは、地中海やエーゲ海に囲まれたバルカン半島に位置する島嶼国家ギリシヤは、その物理的優位性を生かして、運輸・エネルギー・金融機関・通信といった分野での存在価値を高めているといわれていた。10年も経ずにして、凋落してしまったわけだ。経済危機を招いた最大の要因が厖大な財政赤字だったが、身の丈に合わない年金制度や公務員雇用の肥大が問題視されている。日本も他山の石としなければならない。

 トロイ戦争を題材にしたホメロスの口承叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」は紀元前8世紀ころに成立したとされているが、紀元前6世紀から紀元前4世紀ころには、ピタゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどを輩出したのが偉大な古代ギリシヤ文化である。多数の都市国家(ポリス)によって成り立っていた古代ギリシヤだったが、紀元前4世紀のマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356-紀元前323)の東方遠征に従軍してペルシヤ帝国を滅亡させた。しかし、マケドニアが没落するとローマと対決するようになり、紀元前146年にはローマ軍に対して敗北の憂き目にもあい、ローマの属州とされている。デモクラシー(民主主義)が生まれたのも古代ギリシヤだといわれているが、かつては華やかなりし文化が花開いていた。

 スイスの作家、エーリッヒ・フォン・デニケン(1935-)が 『未来の記憶』(1968年)の中で、アンティキテラの機械は、異星人が数千年前に地球を訪れ、古代文明人に電池や錆びない金属など進んだ技術を教え、彼らの宗教に大きな影響を与えたなどと説いたため、アンティキテラの機械に必要以上の神秘性が加えられてしまった。「とんでも本」に良くあるパターンだ。アンティキテラの機械は、青銅器で作られているが、青銅器は海中に長い間放置されていても、他の多くの金属よりも長く持ちこたえるという。採取された難破船の木材を放射性炭素測定法により推定すると、アンティキテラの機械が海に沈んだのは、紀元前2~3世紀ころと現在では見られている。



自らの復元模型と
プライス
「アンティキテラ」より

 このアンティキテラの機械に魅せられた人びとを巡る物語がこの本では描かれている。特に、その一人マイケル・ライトが打ち込んだ人生は哀しくもある。ライトこそこの本の本当の主人公だとの見方もあるようだが、頷かざるを得ないほどの努力と苦悩の人生が潜んでいる。しかし、2006年にロンドンの自宅作業場での、自分が復元したモデルを掲げるライトの表情は、人生の目的が定まった男の強い自信すら感じさせてくれる。著者のジョー・マーチャントは、雑誌「ネイチャー」「ニューサイエンティスト」などで記者・編集者などを勤めた後、独立をした、現在はロンドンに在住している女流科学ジャーナリストだ。木村博江の訳も、安心して読むことができた。

 発見されて間もない、1903年、アテネ考古学教会の長老であったペリクレス・レディアディスとアテネ国立考古学博物館館長ジョン・スヴォロノスは、この機械を「アストロラーベ」の一種に違いないと結論している。アストロラーベとは、天体観測用の機器のことだが、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われた。18世紀に「六分儀」が発明されるまでは、航海における主要な測定機器だった。アストロラーベの発明は、古代ギリシヤだという説もある。

 日本が第二次世界大戦中に、核開発を研究していた事実がある。日本の物理学界の権威、仁科芳雄(1890-1951)が戦争勃発後に政府から核爆弾の開発を命じられ、仁科の頭文字をとって、『ニ号研究』と呼ばれていた研究があった。だが、日本がヒロシマ・ナガサキに原爆投下の悲劇を受ける少し前のこと、核連鎖反応を持続させるのに必要なウラン235を濃縮する実験工場を建設中、1945年4月の空襲で設備が破壊されてしまったという。未発表の歴史資料と日誌を掘り起


こし、その事実を明らかにしたのが、デレク・デ・ソーラ・プライス(1922-1983)だ。

 彼は1951年、アンティキテラの機械の存在を知ると、調査を開始する。そして、1958年には、アテネに行き、アンティキテラの破片を直接調べる許可を得て、アーサー・C・クラークからの激励も受け、科学雑誌サイエンティフック・アメリカンに論文を発表する。プライスは、アンティキテラの機械は恒星と惑星の動きを計算するための装置であり、知られる限り最古のアナログコンピュータであると論じた。

 その後、1971年になると、ガンマ線を使ってその考古学的な貴重品の内部を覗くことを考えた。1974年に発表した「ギリシア人からの歯車」と題する論文では、従来はルネサンス期以降にしか実現し得ないとされていた「差動歯車」を発見したと発表した。プライスは、この差動歯車を含むテクノロジーは、ギリシア・ローマの文明が紀元後の早い世紀に崩壊したとき、数学や天文学をふくむ学問の多くは、まずイスラム世界へ移され、何世紀か後にふたたびヨーロッパに戻ったと推測したのだった。

 バベッッジの「第二階差エンジン」を1991年に復元したのは、ロンドン科学博物館だったが、その中心人物にオーストラリアのシドニー大学の天体物理学者でコンピュータ科学者であったアラン・ジョージ・ブロムリー(1947-2002)がいた。彼は、バベッジの設計した第二階差エンジンの理論と仮説は理解できていたが、部品の製造方法や機械の組立方への理解度は薄かった。そこで、紹介をされたのが『アンティキテラ/古代ギリシアのコンピュータ」の本の主人公ともいえるマイケル・ライト(1948-)だった。


アンティキテラの破片
「アンティキテラ」より

 ライトは、ロンドン科学博物館の学芸員だったが、アンティキテラの機械に強い関心を持っていた。そして、ライトによりアンティキテラの機械の存在を知ったブロムリーがアンティキテラの機械の調査を始めることを知ると、不本意ではあったが、助手として参加することを申し出る。有給休暇を使い、滞在費は自費で賄うというボランティアであった。ライトは、ブルムリーが発案したX線調査に必要な撮影機材を自作し、4年掛かりで700枚ものX線写真を撮影した。だが、その負担に嫌気をさされた妻からは離婚を申し渡され、家からも放逐されてしまう。

 しかも、ライトが撮影したX線写真は、プロムリーがオーストラリアに持ち帰ってしまい、ライトの手にはほとんど何も残らない結果となってしまった。X線写真をコンピュータで数値化するというブロムリーの約束は果たされず、ブロムリーから断片的な連絡も当初はあったが、そのうち何の連絡もなくなってしまっていた。ライトは、彼に立ち向かう強さのない自分を呪いつつも、ただ、ひたすらブロムリーからの連絡を待っていた。

 そして、5年の歳月が流れた。実は、ブロムリーはそれどころではなかったのだった。ブロムリーは死の病に取り付かれていたのだった。2000年、ブロムリーの妻から連絡を受けたライトは、シドニーに向かった。そこで、ライト自身が撮影したフィルムを受け取ることになるのだが、ブロムリーはすべてを渡そうとはしなかったという。ライトがすべての資料を受け取るのは、ブロムリーが亡くなった後の2003年のことだった。

 資料を手に戻したライトは、次々と論文を発表し始める。それは、ライトにライバルがいることを知ったからでもあった。ロ


ンドンに住むトニー・フリースという映画製作者(本書による)が、ウェールズのカーディフ大学の天文学者マイク・エドマンズとギリシアの名だたる学者チームを味方につけて、最新のX線撮影技術を使ってアンティキテラの破片の写真を撮り直すため、アテネ国立考古学博物館を説得する運動を起こしていたのだった。

 ライトは、以前、フリースのグループにいたエドマンズから電話を受けていたことがあった。そのとき、プライスの復元に見られる問題点、機械が惑星の運行を示していた可能性などを長々と話をしたことがあった。そして、2001年の初めに、エドマンズらの論文を読んだライトは、凍り付いたという。内容は大半がプライスの業績をなぞったものだったばかりでなく、この論文の中で最も独創的で価値があると思われる部分は、自分がエドマンズに電話で話した、機械が惑星をふくむ「天体運行儀」である可能性と、今後の研究に向けての自分のアイディアが盛り込まれていたのだった。またしても、ライトは裏切られたのだった。

 アンティキテラの機械の調査を始めたフリースは、切り札を手にすることになる。アンティキテラの破片のうち大きな三つ(A、B、C)は、展示されていたので見つけるのは簡単だった。だが、破片Dがどこにあるのか、博物館の学芸員マイリ・ザフェイロブーロウが、プライスの写真を頼りに捜し回ったあげく、なにもラベルが貼られていない木箱に入っているのを見つけたのだった。しかも、機械を掃除したときに大きな破片から落ちたと思われる細かな破片も見つかった。さらに破片Eも発見した。1976年に、学芸員のべトロス・カリガスが倉庫で見つけたものだった。



シドニー大学で復元模型とプロムリー
「アンティキテラ」より
        

 そのうえ何と、箱から古い木片と一緒に、昔の写真には写っていない腐蝕した緑色の塊(破片F)も出てきた。長さ数cmで、まったく掃除がされておらず、石灰石に覆われ、表面にはフナクイムシの通った跡がそのまま残っていた。その下に同心で重なる円の一部が見えた。それは、裏側の文字盤と合致すると思われた。そして、解読された∑の文字は、「月」を意味する∑EAHNH(セレーネー)の略であり、Hは「太陽」を意味するHAIO∑(へーリオス)の略で、これらの文字は日食や月食がどの月に起きるかといったことを示していたのだった。ΩとPの文字を組み合わせた「時」を表すシンボルもあった。プライスは機械を「カレンダー・コンピュータ」と考えたが、ライトは「天体運行儀」と表現した。フリースは「食」を予測する機械と捉えたのだった。

 現在、アンティキテラの機械は、カーディフ大学、アテネ大学、テッサロニキ大学、アテネ国立考古学博物館、ヒューレットパッカードなどからの支援で『アンティキティラ島の機械研究プロジェクト』として調査が進められている。トニー・フリースもその主要メンバーとなっている。先頃、『STAP細胞』で話題となった小保方晴子の論文が掲載されたのがイギリスの科学雑誌「ネイチャー」だが、その2008年7月号に『アンティキテラの機械』の最新の研究成果が掲載された。『STAP細胞』の問題についてはここでは触れない。

 掲載記事では、ニューヨーク大学のアレクサンダー・ジョーンズが、五重螺旋の文字盤内にある小さな円盤に記された文字を、「イストミア、オリンピア、ネメア、ピユティア」と解読した。それは、アンティキテラの機械は、ギリシア人が時期を知る手がかりとして、古代オリンピア大祭の四年周期を使っていたことを示していた。さらに、五重螺旋の文字盤の破片に記された月の名前は、ギリシア中央部の都市国家コリントスの植民地で使われていた呼び名であることも判った。コリントスの植民地として重要な土地に、アルキメデス(紀元前287~212年)が住んでいたシチリア島のシラクサがある。断定はできないが、その可能性を期待させることになったのだった。

 いずれにしても、「アンティキテラの機械」が古代のアナログコンピュータかどうかは、判定が難しい。むしろ、その機械を作った時代の天文学と、その理論を実現できた「ものづくりの技術」の高度さが賞賛されるべきであろう。同様な機械として、前述した「アストロラーベ(天体観測機械)」が知られているが、古代のイスラム社会で盛んに作られたが、西暦315年の記年があるものがあるという。プライスが語るように、ギリシアから、イスラムに伝わり、その後、西洋にその他の多様な技術と一緒に先祖返りのごとく伝播した可能性もある。

 紀元前1~2世紀ころの日本は、弥生時代にあたる。そのような時代に、古代ギリシヤではアンティキテラの機械が製作されていたのだった。さらに、その100年以上も前にはアルキメデスが天文を研究し、数学、物理などの科学に革新をもたらしたという歴史がある。ソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍をするのは、さらに遡る紀元前400年ころの時代である。春秋時代の中国で、孔子が儒教を確立するのはさらにその100年も前のことになる。

 マイケル・ライトは現在でも、箱の板の継ぎ目などから、機械には二つか三つの器具の部品が「再利用」されたと考えている。また、「食」の螺旋の文字盤に付属する小さな円盤に、きわめて興味深いものを目にしている。ライトは、その後の研究者と違って、アンティキテラの破片を実際に触って確かめることができた数少ない一人だが、この部分に、表面に付着した石灰石の下に、文字の一部を見たと断言をしている。彼が正しいとすれば、それはギリシア語による最古の「ゼロ」のシンボルだったという。

 現在、最初に数としてのゼロを表記したのは、西暦130年の古代ローマのクラウディオス・プトレマイオス(83頃-168頃)といわれている。ちなみに、数としてのゼロの概念を始めて定義したのは、6世紀のインドといわれているが、メソポタミア文明やマヤ文明においても位取りの記号としてのゼロが使われていたという。歴史は、今後の考古学的発見により、さらに遡っていくことは間違いがない。


自らの復元模型とライト
「アンティキテラ」より
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062「バベッジのコンピュータ/新戸雅章(2014年2月24日)

バベッジのコンピュータ/新戸雅章/筑摩書房
/19960325第1版/222頁/\1,100+税

エニアック/ENIAC」でも触れたが、ジョン・フォン・ノイマンはどうやら「コンピュータの父」の称号には相応しくなかった可能性が高い。一方、「コンピュータの祖父」ともいわれるのが、チャールズ・バベッッジ(1791-1871)だ。コンピュータの歴史の本を紐解くと、必ず触れられる機械式計算機が「バベッジのコンピュータ」である。ノイマンとは異なり、バベッジは間違いなく、この機械式計算機に生涯を尽くした。そして、後でも触れるが、バベッジはこの機械式計算機ばかりでなく、時代に先駆ける多彩な貢献を社会に尽くしている。

 バベッッジが構想した「解析エンジン」は、「エニアック」の基本原理に驚くほど似ていたというが、著者が語る次の言葉に興味を引かれた。

「コンピュータはふたつの起源の物語を持つことになった。ひとつはバべッジの『解析エンジン』をめぐる愛と挫折の物語。もうひとつは最初の電子計算機をめぐる成功と憎悪の物語である。これから語られるのは前者のほう、すなわちバベッジとその美しいパートナーが巻き起こした悲惨にしてロマンチックなエンジンの物語である」 もちろん、後者はエニアックの物語である。

 エニアックの物語から遡ること百数十年前、1820年代にイギリスのケンブリッジ大学の数学教授職にあったチャールズ・バベッッジは、「第一階差エンジン」と呼ばれるようになる機械式計算機を設計した。足し算引き算はもちろん、掛け算や割り算、さらには有限階差法という計算方法を使って、多項式を解くこともできた。最終段階では実際に計算機構の一部がつくられ、完璧に作動したという。しかし、資金不足や現場でのさまざまなトラブルから、完成まであと一歩のところで中断を余儀なくされてしまった。

 その後、バベッジはさらに進んだ機能をもつ「解析エンジン」に挑んだが、これは一度も製造に着手されることなく終わっ




た。解析エンジンはパンチカードによるプログラミング機構をもつ斬新な設計によって、現代のコンピュータの原型とされている。そして、この解析エンジンを最終的に断念したところで設計が開始されたのが、第一階差エンジンの改良版である「第二階差エンジン」だった。後の時代、1985年にこの第二階差エンジンは甦ることとなる。

 バベッジに先行すること、16世紀の前半のドイツのウィルヘルム・シッカルト(1592-1635)や「人間は考える葦である」と言った17世紀のフランスのブレーズ・パスカル(1623-1662)、同じくフランスのゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)などが機械式の計算機に挑んでいる。

 その意志を受け継いで、機械式計算機に情熱を傾けたのが天才チャールズ・バベッジであった。彼の著作である『機械類と製造業の経済について』は、ジョン・スチュワート・ミル(1806-1873)やカール・マルクス(1818-1883)にも影響を及ぼしたことが知られている。その中でバベッジは技術の進歩が労働者と資本家の双方に利益を与えると論じている。また、郵便料金を全国一律にして、前払いにするという今日では当たり前となった郵便制度の提唱者としても知られている。


 歴史を少し戻すが、14世紀半ばから19世紀半ばにかけては、西欧や北米では小氷期の時代にあったという。その小氷期が終わろうとしていた19世紀初め、日本では天保の大飢饉(1833~1837年ころ)が起きる少し前の江戸時代後期のころになる。中国では、1636年に満州に起こった清王朝に陰りが見え始めていた。西欧は清から茶や陶磁器、絹などを大量に輸入していたが、イギリスは、その代金としての銀の流出を防ぐために、インドの植民地で栽培したアヘンを中国に輸出するという、ヤクザまがいの三角貿易に勤しんでいた。第一次アヘン戦争が起きるのは、1840年のことである。西洋が強欲に覇権を握り始めた時代である。



バベッジの
コンピュータ
新戸雅章
筑摩書房

 西欧は、産業革命のまっただ中にあった。フランスのマリ・ジャカール(1752-1834)が発明したジャカード織機は、模様の入力にパンチカードを使用するようになっていた。また、それまでの織機や紡績機は水力を動力資源としていたため、工場の立地は河川の周辺に限定されていたのだが、ジェームス・ワット(1736-1819)が改良した蒸気機関が登場すると、立地の制約がなくなり、イギリス各地に工業都市が形成されるようになっていた。これらの繊維工業に起こった技術革命は、のちにバベッジの計算機の研究に大きな影響を与えたという。

 ジャガード織機を最初に考えたのは、フランスのジャック・ド・ヴォーカンソン(1709-1782)だったが、操作の煩雑さや、失職を恐れた織工たちの猛反対などからあまり普及しなかった。しかし、その50年後、博物館に眠っていたヴォーカンソンの織機を掘り起こしたのが同じフランスのジャカールであった。ジャカールはヴォーカンソンが入力に採用していた巻き紙を、パンチカードに替えて操作を簡便化したのだった。

 中世以降、商業や貿易が発達して、貨幣や度量衡(どりょうこう)の単位統一が求められるようになると、「数表」の必要性はますます高まった。船員の生命にも関わる「航海表」も数表によっていた。さらに下って15世紀になると、印刷技術が発達し、それまで人手で書き写されていた数表も印刷されるようになった。しかし、数表は人間が作るものである。当然、写し間違いや計算間違いが発生する。要するに人間が計算をするから問題が起きるのならば、人間の代わりに疲れを知らない機械に代行させれば、過ちは遙かに少なくなるだろうと考えた。近代西欧の発想である。


 チャールズ・バベッッジは、裕福な銀行家の家庭に生まれている。1810年には、18歳でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進んだが、大学での授業は、彼の知的要求を癒やしてくれるレベルではなかった。一人、図書館で数学者の論文をむさぼり読むようになると、ライプニッツの表記法(記数法)に出会い、その合埋性にたちまち感化されていった。それまでバべッジが学んで来た数学は、ニュートンの創案した表記法に従っていたからである。

 とはいえ、大学生活においては、生涯の友となる二人の大秀才と出会っている。近代天文学の始祖ウィリアム・ハーシェル卿の一人息子であるジョン・ハーシェル(1792-1871)とのちに数学者・科学者として活曜するジョージ・ピーコック(1791-1858)であった。ハーシェルは、後にバベッジらと設立したアナリチカル・ソサエティ(解析数学学会)の会長に推され、さらにはロイヤル・ソサエティ(ロンドン王立協会)の会長候補にも推されている。

 1814年、バベッジはピーターハウス・カレッジを首席で卒業すると、大学時代に知り合ったジョージアナ・ホイットモアという令嬢と結婚をする。その年の8月には、長男のベンジャミン・ハーシェルが生まれ、次いで次男のチャールズ、さらに一人娘のジョージアナが次々に誕生する。何不自由ない天才が、定職にも就かず、父親の仕送りを受けながら、恵まれた生活を送っていた。定職に就かなかった理由として、大学の権力を握っていたのが保守派であるトーリー党だったのに対して、バベッジは自由主義であるホィッグ党を支持していた上に、非国教徒だからだという見方もあるが、恵まれていたことには変わりはない。



第一階差エンジン
「バベッジのコンピュータ」より

 バベッジが最初に考えた「第一階差エンジン」は、大きく二つの装置から成っていた。数表の計算を受け持つ演算装置と、計算結果を印刷する印刷装置とである。演算装置の中心となるのは回転する歯車(フィギュアホイール)を備えたコラムと呼ばれる円柱であり、コラムには一本につき六枚のフィギュアホイールが取り付けられ、各ホイールにはそれぞれ0から9までの数字が刻まれている。これを上部のハンドルで回転させて数値を表示する方式だった。桁上がりは、パスカルやライプニッツの計算機にも採用された方式と同様に、桁数をフィギュアホイールに貯える方法だった。印刷装置は、0から9までの数活字を3千本ずつ、合計3万本を備えた印刷機構だった。演算装置が作動して計算を開始すると、その指示に従って活字が箱の中から一本ずつ送り出され、自動的に数表が組み上げられていく仕組みになっていた。演算装置と印刷装置を合わせた全体の大きさは、高さが2.6m、帽が2.3m、奥行きは1mで、おそらく総重量は2tを超えていたと見られている。

 しかし、バベッジの幸せな研究生活はいつまでも続かなかった。1827年には、父ベンジャミンが亡くなる。とはいえ、莫大な遺産を母と分けることになったバベッジは、贅沢をしなければ生活の憂いなく研究に打ち込めるだけの保証を得たのだったのだが、その半年後、次男が亡くなると、気落ちした身重のジョージアナが出産で亡くなってしまう。公私ともにかけがえのないパートナーとなっていた妻を失ってしまったのだった。

 その後、バベッジは、ケンブリッジのルーカス講座教授に就くなどしたが、政府から7500ポンドの支援を受けて、第一階差エンジンの開発を継続している。当時の最新蒸気船の建造費でさえ1000ポンドであったことを考えると、その巨額さが判る。しかし、階差エンジンの移転などを巡って、工作機械の職人頭クレメントとの確執が続き、階差エンジンはその一部しか完成させることができなかった。バベッジの完全主義がその完成への妨げになったという見方もある。そのころの1832年には、バベッジの主著である『機械類と製造業の経済について』を出版している。


 1834年、たまたま階差エンジンに関する論文を目にしたスウェーデンの印刷業者M・イエオルク・シュウツ(1785-1873)は、その計算機の製作を思い付く。作業は政府の援助も受けながら、1853年にようやく完成する。そのエンジンは高さ0.45m、幅1.6m、奥行きが0.52mで、総重量は約400kgだった。バベッジのエンジンと比べると、重量は1/4に満たないが、階差法によって数表計算を実行でき、その結果を鋳造活字を使って印刷する装置を備えていたという点では、紛れもなく階差エンジンだった。

 シュウツのエンジンは間もなくパリ博覧会に出品され、見事金メダルを受賞した。たまたまパリを訪れていたバベッジと、栄誉を分かち合ったという。シュウツの計算機は大西洋を越えてアメリカに渡り、ニューヨークのダドリー天文台が天文表の製作用に購入した。シュウツがここで成功したのは、バベッジが要求する高精度を求めなかったからこそだともいわれている。シュウツは、その後、事業に失敗し破産の憂き目にもあうことになるのだが。

 階差エンジンの開発に伴って、バベッジはイギリス全士の工場を周り、技術を研究し、職工たちの技能のすばらしさと、新しい産業の台頭を身をもって知るようになっていった。バベッッジは、その知識を技術に関心の薄い知識階級にも紹介したいと考えるようになり、1820年代後半から論文のかたちで順次発表し始めていた。「専門化や分業化によって労働生産性は飛耀的に向上する」との原理を始めて指摘したのは、アダム・スミスだったが、バべッジは個々の工場を例にとりつつ、その分析をより精緻なものに発展させた。

 マルクスは、バベッジの考え方を批判しながらも、丁寧にノートを取りながら考証したといわれている。そのノートは『資本論』の「労働の分配と製造業」、「機械装置と現代の産業」などの章に引用されただけでなく、工場規模の発展についての予言などにも取り込まれた。



解析エンジン
「バベッジのコンピュータ」より


 1833年、バベッジは男盛りの40歳であった。社交界や政治活動にも積極的に取組み、階差エンジンの製作が袋小路に入ったとはいえ、活力に満ちていた時代である。そのとき、ある美貌の天才数学少女が17歳でバベッジに相まみえることとなる。ギプスンとスターリングの小説にも登場する、詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)とその妻アナベラ・ミルバンクの唯一の娘、「エンジンの女王」こと、オーガスタ・エイダ・バイロン(1815-1852)であった。ついに未完に終わった計算機の研究、とりわけ解析エンジンの全貌が後世に知られるようになったのは、ひとえにエイダの活躍が大きかったという。

 機械式計算機に魅了された少女は、さらに知識を深めるべく、当時「機械工学校」で開講されていた階差エンジンの講義を聴講したという。1817年に設立された機械工学校は、労働者向けの技術教育をする夜間の専門学校であったが、貴族の若い娘が労働者と机を並べて勉強をしようとしたのだ。強烈な探求心があったのだろう。そのころ、バベッジは愛娘のジョージアナ(母と同名)も亡くしているので、バベッジは娘を見る思いでエイダと接していたものと思われる。その3年後、エイダはトリニティ・カレッジに在籍中だったウィリアム・キング卿と結婚し、レディ・キングとなったのだが、キング卿は卒業後まもなく、ラヴレース伯を継いだため、エイダも歴史上ラヴレース伯爵夫人エイダとして知られるようになる。

 エイダと出会ってまもなく、バベッジは行き詰まった階差エンジンの開発を放棄し、新しい計算機の設計に取り組むことになる。「解析エンジン」である。ノイマン型といわれるコンピュータの構成要素は「入力装置」「処理装置」「出力装置」「補助記憶装置」で成り立っているが、「処理装置」はさらに「主記憶装置」「演算装置」「制御装置」の3つから成り立っている。入力装置で取り込んだ情報を本体に内蔵されたプログラムで逐次処理をし、出力装置に出力する仕組みになっている。


 バベッジの解析エンジンでは、2組のパンチカードがあり、演算の種類を指示するもの(演算カード)と演算の対象となる特定の変数を指示するもの(変数カード)がある。それらが、「ストア」と呼ばれる歯車からなる置数器(レジスタ)に記憶され、「ミル」と呼ばれる装置で加減乗除の演算が行われる。つまり、ストアとミルからなる処理装置を、2組のパンチカードに記載されたプログラムが制御して、計算を実行させる。解析エンジンにはこのほか、カードに穴を聞けて入力する「カード穿孔機」と、階差エンジン同様、結果を数表に印刷する「印刷装置」があるが、これが入出力装置に当たる。まさに、現代のコンピュータと驚くほど似ているといわれている。

 しかし、解析エンジンが当時の世に理解されることは余りなかった。バベッジは1847年ころまではその改良に努めたといわれるが、そのエンジンの本質をもっとも良く理解していたのが、エイダであったといわれている。彼女は、現代でいうサイエンスライターの役割を果たしていたのであった。天才詩人の娘にして、美しく魅力的な伯爵夫人はヨーロッパの知的世界にセンセーションを巻き起こし、ロマンチックな想像力をかきたてたという。その死後百数十年たって、彼女の名はアメリカ国防総省が開発したプログラミング言語「Ada(エイダ)」に冠せられた。

 だが、歴史は時には残酷な仕打ちをする。エイダは、1852年に、子宮癌により苦痛に身を引き裂かれつつ、36歳の若さでこの世に別れを告げた。彼女の直接の死因は瀉血(しゃけつ)ともいわれているが、近代技術が進展した社会においても、中世の神秘主義の残滓が色濃く漂っていた。実母との確執があったエイダは、母と別れていた父の墓の隣への埋葬を懇願して、その願いが叶えられる。エイダを失ったバベッッジの心痛は大きかったという。





復元された
第二階差エンジン
        

 バベッジは、解析エンジンの製作は、資金上の問題もあり、継続が難しいため、研究が一段落した段階で、解析エンジンの技術を階差エンジンに応用して、さらに高性能で、製作が簡単な「第二階差エンジン」の研究に着手する。しかも政府からの援助も難しく、すべて私費でまかなわざるを得なかった。バベッジは、1871年に79歳で亡くなるまで、「第二階差エンジン」や「解析エンジン」の研究を続けたといわれている。「第三階差エンジン」のアイデアもあったという。また、その計算機に電気を応用することも考えていたという。早すぎた天才バベッジであったといえよう。

 当時の舞台照明の光源に使われていたのがガス灯だったが、バベッジはアーク灯とライムライト(石灰光)を舞台照明に利用することを発明したという。アーク灯は火花放電を利用した初期の電気照明であり、ライムライトは酸素と水素を吹き混ぜて燃焼させた高温の炎を石灰の塊に当てて白熱させる照明装置である。凝り性のバベッジは、「新作のバレエ」までも製作したという。さらに、1850年ころには、電気やマグネシウムの光源を時計仕掛けのスィッチで点滅させる明滅式の信号システムを発明したのもバベッジである。その他、暗号解析に関する業績、機関車に取り付ける金属フレーム(カウキャッチャー)等々、多くの発明にその名を残している。

 バべッジの生誕200年を間近に控(ひか)えた1985年、ロンドンの科学博物館は一つのプロジェクトに挑んだ。バベッジが残した設計図に基づいて「第二階差エンジン」を組立てようとしたのである。完成したエンジンは、高さ2.1m、長さ3.3m、奥行き0.46m、重さは約3t(5tという説もある)だった。製作期間約6年、総費用75万ポンド(約1.8億円)が掛かったが、見事に動作した。バベッジの設計した計算機が本当に動くのか動かないのかという議論に終止符が打たれたのだった。

 青銅と鋼、鋳鉄でできた計算機は、クランクを回して操作すると、複雑な三角関数や対数関数を31桁まで正確に計算した。7個の数値を31桁保持することができ、7次多項式の数表を作成する能力があったという。この計算機には、紙やトレーの中の石膏に計算結果を印字できるプリンター機能があり、石膏は、計算表を本にまとめる際の原版になるのだった。ロンドン科学博物館は、マイクロソフト社の元CTOネイサン・ミアボルドからの支援を受けて、1991年には2号機を製作し、カリフォルニア州マウンテンビューにある『コンピューター歴史博物館』に2010年末まで展示された。その後は、現代のバベッジともいえるミアボルドの個人所有になったという。


復元された
第二階差エンジン
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061「エニアック/世界最初のコンピュータ開発秘話」/スコット・マッカートニー(2014年2月9日)

エニアック/世界最初のコンピュータ開発秘話
/スコット・マッカートニー/日暮雅通(ひぐらしまさみち)訳
/パーソナルメディア/20010810初版/286頁/\1,900+税

 現在、普及しているコンピュータは「ノイマン型コンピュータ」といわれている。メモリにプログラムをデータとして格納し、それを順番に読み込んで実行していく『プログラム内蔵方式』である。ところが、コンピュータの性能の向上とともに、メモリから命令を読み出す速度が問題とされるようになってきたため、並列計算やデーターフロー型計算を可能にする、素粒子の原理を利用した『量子コンピュータ』や脳神経回路をモデルとした『ニューロコンピュータ』などの概念が生まれてきた。それらを総称して「非ノイマン型コンピュータ」という。

 名称の由来となっているジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)は、ブダペストに生まれたが、ヒットラーの支配を逃れ、アメリカに渡り1957年に53歳で亡くなったが、数学・物理学・工学・経済学・気象学・政治学など多岐に渡る科学史に多大な影響を与えたことで知られている。原子爆弾の開発や政策へも関与していた。「コンピュータの父」とも呼ばれたことがあるが、この本を読むとその名称への疑問が沸くことになる。

2045年問題」ではコンピュータの未来について触れたが、これは「コンピュータの過去の歴史の物語」ともいえる。1946年に完成した『ENIAC(エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer)』は、世界で最も早い時期に

開発された電子計算機(コンピュータ)といわれていたが、残念ながら、現在では世界最初のコンピュータとは見なされていない。

 設計は、ペンシルベニア大学のジョン・モークリー(1907-1980)とジョン・エッカート(1919-1995)の2人が中心となって、アメリカ陸軍の支援を受け、発表までは極秘裏とされた『プロジェクトPX』がスタートだった。当初の目的は弾道計算をするものだったが、1955年の引退まで、水素爆弾の開発計算や、核戦争が起きたときの死の灰の流れを予測するためにソ連の気象パターンの予測などもしていたという。また、初期のミサイル計画にも利用され、核爆弾の砲弾などの特別装置の設計も手伝ったといわれている。まさに、主たる用途が軍事用であったわけだ。

 ENIACは完成後、従来は丸1日かかった弾道計算をわずか30秒で計算するという高性能を発揮したという。17,468本の真空管と7,200個のダイオードが使われていた。幅30m、高さ2.4m、奥行き0.9m、総重量27tもの大きさがあった。4千個あまりのネオン管が装備されていて、機械が稼動すると、そのネオン管があたかもコンピュータの思考を映すように点滅をくり返したという。入出力には、パンチカードが利用された。ENIACの内部構造は10進法だったが、モークリーとエッカートは、続いて2進法で動くプログラム内蔵方式のEDVAC(エドバック)の開発にも携わっている。



エニアック
-世界最初の
コンピュータ開発秘話-
スコット・マッカートニー
日暮雅通訳
パーソナルメディア

 ところが、ENIACもEDVACも開発自体は軍による秘密のプロジェクトだったたため、モークリーとエッカートの2人のレポートは「極秘」とされ、途中から開発に参加したノイマンが発表した「EDVACレポート」がノイマンの名で公にされたことにより、あたかも発案者がノイマンだったかのような誤解が生まれてしまった。そして、ノイマンもそのことを誤りとは打ち消そうとはしなかったらしい。プロジェクト自体も、ノイマンの名声を借りようとしたふしもある。

 開発チーム内には内紛も起こり、開発が遅れることとなり、『世界初の実用的なプログラム内蔵方式の電子計算機』の称号も、ノイマンの「EDVACリポート」に触発されたイギリスのモーリス・ウィルクス(1913-2010)とケンブリッジ大学の数学研究所のチームが1949年に開発した「EDSAC」に奪われてしまうこととなる。また、世界で最初に「プログラムを記憶装置上において実行した計算機」は、イギリスのマンチェスター大学で1948年に製作されたプロトタイプの通称「Baby」だといわれている。

 モークリーは、5歳の時に、友達の家の薄暗い屋根裏部屋を探検するために、乾電池と電球、ソケットを使って懐中電灯を作った。だが、その友達の母親は、懐中電灯から火災が起きることを怖れて、懐中電灯の代わりとなるロウソクを与えたという。そんな時代に、工作好きの少年として育った。エジソンが白熱電球を発明して40年ほど経た時代の逸話だ。



エニアックの前に立つジョン・エッカート
パーソナルメディアの「エニアック」より

 後の時代、1967年に特許権を巡って争った裁判(結審は1973年)において、ENIACは、ジョン・ビンセント・アタナソフ(1903-1995)とクリフォード・E・ベリー(1918-1963)が1942年にアイオワ州立大学で開発した「ABC(アタナソフ&ベリー・コンピュータ)」に敗れ、『世界最初の電子計算機』の称号も奪われてしまう。

 ABCは使われていた真空管が280本、サイラトロン(ガス封入型の熱陰極管)が31個と室内の机程度の大きさで重さは約320kgしかなかったが、モークリーとエッカートがENIAC開発の前にABCを調査していることなどが、特許権を巡る争いで敗訴した根拠となった。ちなみにENIACは1955年まで、EDVACは1961年まで動いている。いずれも実用機といえたが、ABCは実験機ともいえるものだった。一方、イギリスのEDSACは約3,000本の真空管が使われるなど、実用機といえるものだったといえる。1960年代にも数値演算などに利用され、1961年には「EDSAC2」が開発されている。

 エッカートは、1991年に日本でも講演をしているが、その際もノイマンへの恨みを語ると同時に、「一生の仕事のほとんどが、1cm角のシリコンチップに収められてしまったら、どうでしょう?」と述べている。最も、「2045年問題コンピュータが人類を越える日」での予想では、さらにその領域を遙かに凌駕することが予想されている。エッカートは1995年に亡くなった

が、ワシントンポスト紙は、その11日前に亡くなったアタナソフの死亡記事を掲載したが、エッカートの死亡記事は掲載しなかったという。

 そのような、モークリーとエッカードにつきまとった悲運の歴史が「ENIAC」の物語となっている。世界最初のコンピュータとして、伝説の存在とまでされていたENIACが決して『世界最初の電子計算機』でもなく、『世界最初のプログラム内蔵型のコンピュータ』でもなかったわけだ。それを未だに、開発者でもなく、単に開発に参加しただけのノイマンの名前を冠した「ノイマン型」として、現在のコンピュータが呼称される不合理さが、わずか半世紀前の歴史の中に残滓となっていることになる。

 ただ、本当に世界最初のコンピュータがどれかという定説はないに等しい。それは、コンピュータ自体の定義が曖昧であるからだ。機械式、電気機械式、電子式、デジタル式、アナログ式、プログラム内蔵型。逐次制御等々の概念によって、まったく異なる判断が下されるからだといえる。電子式という点を捉えると、イギリスが第二次世界大戦中に開発した暗号解読用の「コロサス」が世界最初の電子式コンピュータだという説もある。古代バビロニアで発見されたソロバン「アバカス」がそうだとの見解もある。コロサスといいアバカスといい何故か日本語を彷彿させるところも面白い。


本「エニアック」の帯には
「ノイマン、お前だけは
許せない!」と
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