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020 天の橋立、蛭子山古墳、伊根の舟屋、城の崎にて(2009年11月13日の記録)
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「智恩寺」の山門

「智恩寺」の多宝塔

天の橋立の廻旋橋

「蛭子山古墳」
■雨が時々降ってくる中を「天の橋立」に向かいました。有名な「股のぞき」をするためには、モノレールに乗らなければならないそうです。松林がある全長3.6kmの砂嘴(さし)の手前には、「智恩寺」があります。1767年上棟の山門は二層になっています。室町時代の「多宝塔」は、形が良いですね。本殿は、「文殊堂」と呼ばれ、文殊菩薩が本尊です。

■さらに行くと、橋がありました。おじさんがいて、縄を張って通せんぼをされてしまいました。すると橋の途中から、一部が回転を始めました。艀(はしけ)が通る間、待たされるのです。廻旋橋(かいせんきょう)といい、船が通るたびに90度旋回する橋です。結局、艀を2船待ってから、渡ることができました。松林の中をしばらく歩いて、車に戻りました。

■続いて、加悦町にある蛭子山・作山古墳に向かいました。4世紀頃の前方後円墳である全長145mの蛭子山(えびすやま)古墳などを復元した施設です。円筒埴輪も並べてあり、葺き石も古墳全体を覆っています。見事な施設だと思いましたが、余り観光客が来ないといった施設側の雰囲気でした。丹後地方の大首長の墓と見られています。近くには、出雲大社の分祀がありました。

■日本各地には、元伊勢(もといせ)神社という、伊勢神宮内外両宮が、三重県伊勢市に遷(うつ)る以前に、一時的に祀られたという伝承を持つ神社・場所があります。その一つである豊受大神を祀っている「元伊勢籠(この)神社」へ行きました。新しく整備された鳥居や立派な狛犬があります。ここからは、モノレールが出ており、天の橋立を反対側から見ることができるようです。

■天の橋立を顧みながら、丹後半島に入りました。海岸線が美しいですね。この旅行前に教えて貰った「伊根の舟屋」を見に行きました。外海は結構波があるのですが、この湾内は何故か穏やかです。不思議ですね。すると舟屋郡が見えてきました。マリンブルーの海に反射して、神々しく光って見えます。写真で見た風景とそっくりです。美しい〜〜ですね。舟屋を近くで見ると、はっきり言ってバラックなのですが(失礼)。本当に不思議です。

■天気も良くなってきたので、舟屋全体が見渡せる道の駅「舟屋の里伊根」にて昼食を取ることにしました。妙に贅沢感があります。アラカブというカサゴの仲間の煮魚定食を頼みました。油がのっていて大変美味しゅうございました。

■丹後半島をさらに海岸線を眺めながら走っていると、突然、雨が激しくなってきました。ほとんど豪雨です。水しぶきを上げるくらいです。思わず、撮影してしまいました。すると日本猿の集団が現れました。小猿を背負った母猿もいます。後からボスザルと思われる大きい猿が出てきました。ゆったりと水を飲んでいます。貫禄がありますね。車で先に行くと、落石注意の看板があります。しかも、所々に石が落ちています。どうやって注意をするのだろう。結局、無事に走りきりましたので、但馬の国、丹後半島を堪能することができたことになります。

■兵庫県は、日本海側にも面していますが、この辺は姫路ナンバーの車が目立ちます。そして、城崎に向かいました。人が多い観光地ですね。柳の木立が並んだ運河を撮影して、「城の崎にて」の雰囲気を少しだけ味わいました。

■今日は、温泉付きの道の駅「神鍋高原」に停泊することにしました。ここはスキー場でもありますね。但馬ドームがすぐそばにあります。「神鍋高原」に着くと、お風呂は、19:30までにとの表示があり、レストランは17:30までと言われたので、すぐに夕食にしました。その後、車中泊の用意他をして、19:5分頃、お風呂に入りに行ったのですが、真っ暗なのです。閉まっていました。13日の金曜日でした。仕方なく探すと、22Km先に道の駅「但馬楽座」があります。そのまま、但馬ドームのライトアップを横目に、但馬楽座まで向かいました。着いたのは、20時少し前でしたが、こちらは21時まででしたので、無事にお風呂に入ることができました。まあ、良かったです。

元伊勢「籠神社」

元伊勢「籠神社」の本殿

丹後半島

丹後半島の猿

伊根の舟屋全景

伊根の舟屋

伊根の舟屋

城の崎
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019 敦賀から若狭を行く(2009年11月12日の記録)


「吉崎坊」にて

「東尋坊」

「大瀧神社」

「大瀧神社」の壁面彫刻

若狭湾一帯の地図
■車中泊も12日目となると、駐車位置や方向などの位置取りが上手になってきます。暗い隅の方よりも、交通量が少なければ、道路側が意外と便利です。山中温泉の夜は、ぐっすりと休むことができました。敦賀半島に向かい、吉崎坊、東尋坊を訪ねました。

■吉崎坊は、1471年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前国吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立したのが始まりです。また東尋坊は、恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺(勝山市)の僧の名前によるものとのことですが、火山岩の浸食によって、断崖絶壁が続いています。自殺の名所としても有名らしいですね。とてつもない風が吹いていました。駐まっている車が揺れるほどです。岩場に団体が出ていますが、ちょっと信じられません。「ドリャーおじさん」という人がいて、通算2万回以上、飛び降りては断崖絶壁をはい上がるという行為を繰り返したらしいですね。

■今立郡にある「大瀧神社」までやってきました。かつては、国内有数の大社だったらしく、継体天皇とのいわれがありますから、調べると面白いでしょうね。ちなみに継体天皇には、王朝交代説があります。そして社殿は、予想をかなり「超越」していました。『唐破風と千鳥破風の競演』と聞いていましたが、写真をみればお判りですね。壁面彫刻も見事です。1843年の重文です。

■敦賀市から、「気比(けひ)の松原」を通り、敦賀半島を横断しました。美しい海岸線です。若狭湾側に出ると、「水晶浜」という美しい白浜があり、「美浜原発」も見えます。撮影していると、人なつこい犬が寄ってきました。さらに海岸線を走り、「三方五湖」を眺めてから内陸に入りました。

■古びた山門がある「明通寺(みょうつうじ)」に着いたのが、16時20分頃でした。閉めかけていた雰囲気の受付でしたが、本堂のいわれなどを説明しながら、お坊さんがどんどん先行して行きます。目的は、三重塔でしたから気持ちは焦っていました。でも折角です、説明をしっかりお聞きしました。大日如来など仏像も豊富です。三重の塔は1270年の建立、鎌倉時代です。高さは22.12m。これも古びています。建物はどれも歴史を感じました。

■その後、急いで「神宮寺」に向かいました。駐車場に入れたのですが、余りにも狭い駐車場です。古い門があり、長い芝生道をしばらく歩くと本堂の近くにも駐車場があります。こちらが正解だった様です。でも、こちらにくるとあの門を見過ごすことになっていたはずです。ところが、「神宮寺」は16時で閉館でした。残念ながら、塀越しに眺めるだけしかありませんでした。「神宮寺」は、「東大寺」の「お水取り」に対して、「お水送り」をするお寺です。

■当初の予定では、この付近から反時計回りに琵琶湖を一周する予定でしたが、変更して琵琶湖一周は復路にて行くことにしました。その時の記録は、以前に掲載しています。この日は、小浜市の先にある道の駅「シーサイド高浜」に停泊することにしました。ここには、温浴施設もあります。

越前海岸

敦賀半島の東側

若狭湾

「明通寺」の三重塔

「神宮寺」山門からの道

「神宮寺」の本堂
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018 金沢市内・兼六園から小松の那谷寺、そして山中温泉(2009年11月11日の記録)


「金沢城址」

「兼六園」

「兼六園」の冬囲い

「金沢21世紀美術館」
■道の駅「倶利伽羅源平の郷」は、電車も通り、夜半中、車が騒がしいところでした。おまけに気温20度くらいとかなりに暑く、雨まで強く降り続くという、今までで最悪の環境でした。こんなところもあるでしょう。

■朝8時過ぎ、冷気が戻った雨の中を金沢市内に入りました。香林坊の地下駐車場に車を入れ、歩くことにしました。「尾山神社」、「金沢城址」、「兼六園」があります。10年ぶりの兼六園ですが、紅葉が見事です。冬囲いもかなりできています。この時期の「兼六園」が一番良いのではないでしょうか?「成巽閣」は、残念ながら工事中でした。谷口吉郎氏設計の「石川県立伝統工芸館」もあります。すぐ近くには、「金沢21世紀美術館」もありました。見所がたくさんありますね。しばらく歩いたのですが、村野藤吾設計の「北國銀行武蔵ヶ辻支店(旧加能合同銀行本店)」は見つけることができませんでした。後で調べると、すぐ近くにまで行っていたのですが、残念なことをしました。「兼六園」も含めて、3時間近くも歩いていました。その後、車を利用して、谷口吉郎、谷口吉生親子設計の「金沢市立玉川図書館」なども見てきました。

■加賀八家の住居跡などを横目に見ながら、「妙立寺」に行きました。駐車場がなく苦労しましたが、予約なしで、団体の見学に入れて貰えました。俗に「忍者寺」と呼ばれる、加賀三代藩主の前田利常が創建した、仕掛けどころが一杯のお寺ですね。

■その後、村野藤吾設計の「中島商店」を少し見てから、金沢市内にある「大乘寺」に向かいました。「大乘寺」は曹洞宗、深厳な雰囲気ですが、自由に入ることができます。朱色の山門が印象的ですね。山門に鐘が付いていて、老夫婦が鳴らしていました。「大乘寺」は、「大本山永平寺」、「大本山總持寺」に次ぐ、曹洞宗の古刹を誇り、規矩に則って厳しく行持綿密に修行されたことから「規矩大乗」と称されたお寺です。ちなみに、その整然とした建物配置から高岡の「瑞龍寺」は、「伽藍瑞龍」と称されました。

■その後、川北大橋という有料の橋を通って小松市内の「那谷寺(なたでら)」に向かいました。100円の料金のために、人がいる料金所があります。採算はどうなっているのでしょうか?「那谷寺」は、今回の旅の中でも絶対に寄るべきと決めていたお寺です。結構、団体客が多いのですが、紅葉は今が盛りです。兼六園は、作られた庭園ですが、ここは自然が充ちています。雨の中、冷気とともに、すがすがしい散策となりました。

■那谷寺は、717年泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされています。本堂は、岩窟に貼り付いた懸崖造りです。三重塔もあり、自然の奇岩を利用した見所が盛りだくさんのお寺です。奇岩の上まで登ることもできます。

■那谷寺を出て、40年前を思い出しながら、山代温泉に行ってみました。すっかり、開けた感じです。停泊場所は、その先、道の駅「山中温泉ゆけむり健康村」です。ここにはプールもありました。

「大乘寺」

「妙立寺」(忍者寺)

「山中温泉」

「那谷寺」の紅葉と奇岩

反対の「奇岩」に立って

「那谷寺」の本堂/懸崖造り

「那谷寺」の三重塔
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017 五箇山・白川クから能登半島へ(2009年11月10日の記録)


五箇山集落

白川クの朝

城山展望台へ

白川ク全景

中能登
■道の駅「井波」の朝は、気温12度位と暖かでした。余りにも朝もやの中の田園風景がが美しいため、五箇山・白川方面に行くことにしました。出発したのが6時過ぎですから、五箇山に着いても、まだまだ早朝の気配でした。さらに白川クにも来ましたが、朝もやの中を白川クに宿泊した人たちが散歩をしていました。外国人の姿が多いですね。ここは、部落全体が観光地帯です。NHKで見た「結(ゆい)」という共同作業による、合掌造りの屋根の葺き替え作業を思い出します。

■高台に人が見えますので、行ってみることにしました。河合方面という道を車で上がると、どうも遠ざかっているような気がします。戻りかけると城山展望台という看板があります。歩いて登ってみることにしました。道幅が狭い山道です。どうも違うような気がしましたが、行きがかり上、進んでみました。畑の横の小道みたいなところを登りきると展望台がありました。写真で見る白川ク全景の展望台スポットでした。素晴らしい景観です。どの家屋も東西を向いているのがよく判ります。しかし展望台には、車が何台もありました。ルートが違った様です。仕方なく、山道をまた歩いて戻ることになりました。

■予定外の行動を取ったため、白川から氷見までは高速道路を行くことにしました。今回初めての高速道路です。白川クにもインターチェンジがあるのですね。通勤割引を利用して、1,050円で一気に氷見まで来ることができました。高速道路は、早いのですが、殆ど何も見ることができません。走っているだけとなります。それが利用しない最大の理由です。

■能登半島の東側を巡ると、古い海岸通りの趣が残っています。美しいですね。雲かと思いましたが、本州がぼんやりと見えています。中能登半島の二つの鉄橋を渡り、輪島に向かいました。途中、道の駅「のとじま」で昼食をとり、リンゴを3ヶ、100円で購入しました。

■輪島の商店街は、雰囲気はありますが、シャッター街のようでした。平日のせいもあるかも知れません。半島の反対側の海岸線を走り、「総持寺祖院」に向かいました。こちらの景色は、現代的な雰囲気です。「総持寺祖院」は、1321年に瑩山禅師が開き、永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えてきましたが、1898(明治31)年)の大火で多くを焼失したため、本山は神奈川県の鶴見へと移されたそうです。現在も能登地震の影響で、被害があちこち残っていました。平板に描かれた図面が印象に残りました。

■次に、阿岸本誓寺に向かいました。ひなびたところですが、観光バスが一台帰るところでした。巨大な茅葺きの本堂の屋根が苔むしています。石段も苔むしています。しかし、内部の木の造作は、やはり能登半島を思わせる造りです。この対比が感動を呼びます。現存する本堂は、1792年に再建されたものといわれています。

■しばらく海岸線を走り、「妙成寺(みょうじょうじ)」に着きました。こちらは大伽藍です。かつての偉容を感じます。本堂などの造作は、瑞龍寺にも負けませんね。写真が自由に撮れるのがありがたい。「妙成寺」は、石川県羽咋市にある日蓮宗の寺院で、日蓮上人の孫弟子日像が開祖です。長谷川等伯の「涅槃図」があるのですが、毎年3月15日しか見ることができないらしく、パンフレットを撮影してきました。

■再び高速道路を利用して、金沢市の近く、津幡町の道の駅「倶利伽羅 源平の郷」まで来ました。こぢんまりとした道の駅です。食事は、源平弁当を頼みました。天麩羅、刺身、茶碗蒸しなど豪華な弁当です。1,400円でした。コリコリした、数の子みたいなものが美味しいので聞いてみると、ずんだ豆を練って、ししゃもの子を混ぜたものだそうです。温泉は人工温泉ですが、空いていました。熱めの湯も良かったですね。すぐそばを電車が走るため、時々揺れるのがいつにない雰囲気でした。

総持寺祖院

総持寺祖院の能登地震被害

総持寺祖院の図面

阿岸本誓寺

阿岸本誓寺の内部

妙成寺の五重塔

妙成寺のパンフレット
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016 糸魚川から高岡の瑞龍寺、井波の瑞泉寺まで(2009年11月9日の記録)
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ぽかぽかランド美麻そばの 神社(左上の岩に注意)

立山連峰を見る

長野・上田から糸魚川、高岡方面の地図

 谷村美術館

谷村美術館(谷村美術館のホームページより)

「瑞龍寺山門」
■安曇野の隣町、大町の夜はしっかり冷えていましたが、たっぷり入浴をしたためか、気持ちの良い朝を迎えることができました。停泊場所の「ぽかぽかランド美麻」付近を早朝散歩をすると、山側に神社がありました。「神明社」だそうです。、鳥居の横にある大きな石が何かを連想させてくれます。−参拝− 車に戻るとラジオで中谷さんという人が
     「何かを始める最高の日、それは今日です」 良い言葉です。早速出発。

■糸魚川に向かいます。白山方面の連山が後方に見えます。前方は、立山連峰の雪渓が美しい。糸魚川では、「塩の道」や「翡翠(ヒスイ)」の看板が目立ちます。美山公園を通ると、ここは「長者ケ原の遺跡」の場所だったんですね。かつては、日本にはヒスイがないとされていましたが、この遺跡からヒスイが見つかったことによって、縄文時代の日本全国各地の遺跡から発見されるヒスイの殆どが、「X線蛍光法」により、ここ「長者ヶ原」からのものであるとされました。今から5000年も前の時代に、全国をまたぐ交易網があったのです。

■「谷村美術館」に着くと、併設の「玉翠園」とともに2009年の1月末で閉園との張り紙があります。諦めきれず、美術館廻りのあぜ道を数百メートル歩いて見ましたが、建物の上部しか見えません。隣の塀の上に上がって、三脚とセルフタイマーを駆使して撮影したりしましたが、満足な写真は撮れませんでした。垣根の下に一ヶ所、誰かが入った後がありました。ふと心が動きましたが、良心が勝りました。「谷村美術館」は、村野藤吾設計の不思議空間の建物です。写真では見たことがあるのですが、内部の空間を味わいたかったですね。残念なことをしました。

■その後、黒部を通り富山方面に出ました。「親不知海岸」を通りましたが、40年前の自転車旅行の時の「難所」の雰囲気はまるでありません。無粋な高速道路が突き抜けていました。そして高岡市に入り、「瑞龍寺」の参詣通りに入りました。「瑞龍寺」は、40年前、ユースホステルも内部にあり、宿泊したり、座禅などを組んだりしましたが、現在は国の重要文化財として、すっかり整備されていました。総門横にある人体にたとえた絵が面白いですね。それにしても木組は見事です。欅の須弥壇も、素晴らしいですね。お高く止まっているような雰囲気もありますが、撮影は自由でした。しばし、廻廊などを散策してきました。魚鼓(ぎょく)にも思い出があります。

■砺波(となみ)市へ向かい、「旧中越銀行本店(現砺波郷土資料館)」に着きましたが、月曜日なので休みでした。止むを得ず、外観のみを撮影しました。ここも金唐革紙を使っている建物です。続いて、南砺(なんと)市の「瑞泉寺」に向かいました。すぐに着きましたが、想像以上の建物です。ほとんどが欅です。すぐに太子堂に行こうとすると、受付のおばさんが本堂を廻るルートを説明してくれました。本堂の中では、床板を剥いで、基礎の補強工事をやっていました。大変な手間だと思います。しかし、太子堂の壁面彫刻は圧巻です。「井波彫刻」の傑作の集合体だと思われます。誰もいませんでしたが、出ると僧侶が来ました。思わず、「素晴らしいですね」と言ってしまいましたが、僧侶も嬉しそうに答えてくれました。

■「瑞泉寺」を出ると、すぐそこは「井波の町並」でした。城下町でしょうか?門前町でしょうか?硝子越しに「井波彫刻」を彫っている店もあります。雰囲気が良いですね。近くには、「木の香浴泉・ゆら湯ら」というスパも併設した道の駅「井波」があります。ここで食べた「山菜ちらし」は、酢飯にワラビなどの山菜を載せ、その上にあぶりサーモン、イカ、穴子などが載っているのですが、色々ついて1,260円なのに、非常に美味でした。たまたまですが、禁酒9日目になりました。娘から丁度、携帯メールが来たので、PCで返信しました。携帯メールはどうも苦手です。

「瑞龍寺」案内図

「瑞龍寺仏殿」の内部

「瑞龍寺」の「魚鼓」

「旧中越銀行本店」

「瑞泉寺山門」
「瑞泉寺の木組」
「瑞泉寺太子堂」

「井波」の町並
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015 小諸、軽井沢、松本、そして安曇野へ(2009年11月8日の記録)


村野藤吾設計の「小山敬三美術館」

「小山敬三美術館」

万平ホテル

「万平ホテル」のステンドグラス
■小諸市内の「小山敬三美術館」に行きました。建物は村野藤吾設計です。徹底して掃き清められた庭の木立の中に美術館はありました。直線がまるでない建物です。木立が邪魔をして、全体像を撮影することはできませんでした。コルビジェの「ロンシャンの教会」を思わせるボリューム感ある建物でした。

■その後、軽井沢まで足を伸ばし、「万平ホテル」のステンドグラスを見に行きました。創業は1894(明治27)年ですが、現在の建物は1936(昭和11)年竣工、日光金谷ホテルも手がけた久米権九郎の設計。丁度、結婚式があり、撮影などをしていました。レストランで昼食をとり、予定にしていた「諏訪大社」を今回はパスして、有料道路の峠を越えて、松本に向かいました。

■松本市内の「開智学校」は、想像より大きな建物でした。明治の擬洋風の代表的な建物で、東京で西洋建築を学んだ大工棟梁立石清重の設計です。手入れも良く、使い込まれた雰囲気はありますが、本当に不思議な建物です。余り期待はしていなかったのですが、一見の価値は充分ある逸品だと思いました。

■松本城は、美しい城ですね。その後、日本海側に戻ることにしました。安曇野を通り、今夜の停泊場所は、道の駅「ぽかぽかランド美麻」です。ここは、露天風呂付き大浴場があります。そして、明朝の田園風景が楽しみです。

「開智学校」

「松本城」
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014 近世以前で現存する国内唯一の八角塔を訪ねる(2009年11月8日の記録)


朝もやの中の「安楽寺」

「安楽寺」本堂

木立の中の八角三重塔

「安楽寺八角三重塔」
■近世以前で現存する国内唯一といわれる、「安楽寺」の「八角三重塔」をどうしても見たく、再び訪ねることになりました。翌朝は、0度近くまで気温が下がりました。8時の開門前に着いたため、しばし待つことになりましたが、近くの別所温泉の宿泊客の方たちも集まってきます。別所温泉には、「北向観音」という寺院があり、善光寺に参拝する場合は、北向観音も参拝しないと、片参りになると伝えられているそうです。

■「安楽寺」は、天平(729〜749年)年間の行基の開基という説があるそうですが、手入れの良い寺院内は、昨日とはうって変わって、朝もやの中に静かに佇んでいました。昨日は閉まっていた「八角三重塔」への門も開いています。少し階段を上がると木立の中から塔が見えてきました。

■実際には建てられなかったという、奈良「西大寺の巨大八角七重塔」の高さは各種の説がありますが(一説では、90m)、京都の「法勝寺の八角九重塔」は高さが80mあったといわれています。近世以前で現存する五重塔は、「東寺」が54.84m、「興福寺」が50.1m、「法隆寺」が32.55mですから、いかに高いかが想像されます。ちなみに、「東大寺の七重塔は」100mあったといわれています。(現存する五重塔の高さは、調べてみますと基壇の上から測ったり、その下から測ったりと色々な数値がありますね。上記の数値は参考数値とさせて下さい)

■「安楽寺」の三重塔は、高さが18.75mあります。四重に見えますが、最下層は「裳階(もこし)」です。六重に見える「薬師寺の三重塔」の「裳階」が有名ですね。「安楽寺」の三重塔の建立は、年輪年代法による調査の結果、1289年の木材が使われていたことから、鎌倉時代の可能性が高くなり、日本最古の禅宗様建築であるとされるようになりました。下からみると、複雑な木組みのため、まるで「キノコ」か「クラゲ」のように見えます。

■続いて、「布引観音(釈尊寺)」に向かいました。「牛に引かれて善光寺参り」の伝説発祥の地です。鎌倉時代建立の断崖絶壁にかかる「観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)」までは、一時間近い登山となりました。足の調子が戻ってきたとはいえ、相当な重労働でした。絶壁に張り出した観音堂の床板は、今にも抜けそうに感じました。帰る途中、山頂に車が停車しているのを見て、少しがっかりもしました。とはいえ、来た道を戻らなければなりません。

「八角三重塔」の木組み

「布引観音」への登山道

「布引観音」の牛の像

床が抜けそうです

絶壁に建つ「観音堂宮殿」

「観音堂宮殿」を遠望
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013 善光寺参り(2009年11月7日の記録)


中越地震の後遺症か?

北アルプス

「信濃美術館」

     「善光寺」の金堂
■5時半に起床した道の駅「風の丘米山」の朝は、快晴でした。他に2台の旅行中?の車がいたはずですが、いなくなりました。朝日を見にいったのではないかと思います。行きたくもありましたが、まだまだチャンスはあると思い、思いとどまりました。車中泊の良いところは、行動性でしょうね。この道の駅には、無料休憩所もあり、寝ることも可能なようです。

■海岸線を走ると、中越地震の後遺症か?崖地で傾いている家がそのままで残っていました。そこから内陸に入りました。北アルプスの山々が見える道の駅で、札幌で購入した「南アルプスの水」のペットボトルを捨てました。何の因果かなと思いました。

■「善光寺」は、日曜日のため大変な混雑でした。駐車場も空いていませんでしたが、偶然、城山公園の信濃美術館の駐車場に駐めることができました。東山魁夷美術館が別館です。車を駐めるときに「善光寺」の鐘の音が鳴り響きましたので、すぐ近くだと判ったのです。11時の鐘でした。

■「善光寺」は、日本仏教の宗派ができる以前からの寺院であり、宗派の別がない霊場です。また女人禁制が強かった仏教の中では、稀な女人救済があげられている寺院です。金堂(本堂)は、1707年の再建。高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルで、入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた「撞木(しゅもく)造り総檜皮葺き」と呼ばれる特殊な屋根を持っています。「シュモク鮫」の形ですね。金堂の下にある「戒壇巡り」や「三門」にも上がり、12時の「鐘」の音もカメラで録画して、山菜そばも食べてきました。何となく、日曜日の「善光寺参り」を堪能した次第です。

■その後、長野市内を通り、オリンピックのスタジアムを見て、八角三重塔がある「安楽寺」に着いたのが、16時15分でした。寺院などには入ることができるのですが、肝心の三重塔への門は16時に閉まっていました。木々に阻まれ、見ることもできません。納得できないな。。。

■10数キロ離れたところに、道の駅「みまき」があります。ここは、温泉もプールも併設しています。久しぶりに軽く泳いで、スパ/ジャグジーでゆったりと時間を過ごさせて貰いました。出口で、何故か天体望遠鏡を覗いているお兄さんがいました。聞くと、木星の衛星が一列に並んでいるのが見えるそうです。見せて貰うと、木星の左下に衛星が4つ、並んでいるのが見えます。ちょっと感動しました。2009年は、「世界天文年2009」といわれて。ガリレオが自作の望遠鏡宇宙を眺めたのが、丁度400年前だとのことです。「イオ」、「エウロパ」、「ガニメデ」、「カリスト」の4つの衛星を発見したのは、1910年といわれています。でもあのお兄さん、何故、あんな出口に陣取っていたのだろう?

「善光寺」の三門

「善光寺」の鐘堂

「善光寺」の金堂組物

「安楽寺」八角三重塔入口
(閉門だった、残念)

「長野スタジアム」

「善光寺」の拝観券

「善光寺」戒壇巡りの列
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012 新潟から弥彦へ(2009年11月6日の記録)


ビッグスワンと県立野球場

新潟市民芸術文化会館

芸術文化会館の屋上

芸術文化会館のサイン

芸術文化会館の屋上
■朝もやにかすむ紅葉の阿賀野川の朝は、昨夜来の雨も上がり、えもいわれぬ美しさでした。ゆったりと朝の時間を過ごしてしまいました。気温も18度まで上がり、晴れた青空の中、米どころ新潟の田園地帯を進むと、「ビッグスワンスタジアム」が見えてきました。隣の「県立野球場」とともに、さすが新潟と思ったのは何故でしょうか?向かって左が「ビッグスワン」、右が「野球場」です。

■新潟市内に入り、目的の「新潟県議会旧議事堂」がある信濃川河畔の白山公園まで来たのですが、「新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)」に寄ってみました。長谷川逸子設計の建物ですが、インテリアの心地よさとサインなどの女性らしさを感じる空間でした。屋上緑地は全体を覆う規模です。屋上にはレストランもあるのですが、多分、暑いだろうなと思いました。雨漏りがあるらしく、ところどころ掘り返されていました。能楽堂も内部にあり、石庭しか見ることはできませんでした。屋上から、目的の「新潟県議会旧議事堂」が見えたときは、嬉しかったですね。

■「新潟県議会旧議事堂」は、1883(明治16)年竣工で、設計は星野総四郎だそうです。修復後は「新潟県政記念館」として公開されています。手入れが良く、かつての議会の調度品も配置されています。柱時計が気になる逸品でした。

■新潟は、バイパス網が発達しています。一気に弥彦ラインに向かうことになりました。弥彦競輪が開催されているためか、金曜日にも関わらず凄い人だかりでした。弥彦(いやひこ)神社では「菊まつり」も開催されていました。凄い人だかりのはずですね。越後国開拓の祖神・伊夜彦神(天香山命、またの名を大屋彦命あるいは大彦命)を祀る神社ですが、すっかり俗化されていますね。しかし、横にある白木の能舞台とその向かいにある参集殿には歴史を感じました。本殿は凄い人だかりでしたが、能舞台の近くには誰もいないことも不思議でした。本殿の後ろに見える山は弥彦山です。余談ですが、JR弥彦駅は瓦屋根が特徴の弥彦神社風の駅舎でした。

■その日は、出雲崎方面で夕日が沈むのを眺めながら、中越地震の後遺症の迂回路を通って、柏崎で入浴をして、米山で車中泊にすることにしました。道の駅「風の丘米山」は、海岸線の高台にあるためか、一晩中風が強く吹いていました。入浴施設もあるそうですが、夕方早くに終了しているようです。最近、「越後のミケランジェロ」といわれる「石川雲蝶」をテレビで知りました。天井彫刻などが魚沼市を中心として点在しているそうです。またの機会が楽しみな新潟です。

新潟県議会旧議事堂を望む

新潟県議会旧議事堂内部

旧議事堂の階段

弥彦神社(凄い人)

弥彦神社の能楽堂(誰もいない)

出雲崎から柏崎方面の夕日
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011 出羽三山と羽黒山五重塔(2009年11月5日の記録)
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社務所前の宿泊施設<神林勝金>
(冬囲いが面白い)

羽黒山五重塔(左下に人が)

3枚岩の渡り橋
■以前から、行ってみたかった「出羽三山」を訪ねました。山形県庄内地方にひろがる「月山」・「羽黒山」・「湯殿山」の総称ですね。現在も多くの修験者がいます。以前、出羽三山が主催したさる建物の地鎮祭にでたことがありましたが、法螺(ほら)貝の音に驚いた記憶があります。「宗教法人/出羽三山神社奉齋教団/管長」という名刺を頂きました。崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が蘇我氏の迫害から逃れて開山したと伝えられていますが、歴史はさらに遡るような気がします。

■社務所の前に、参籠者を泊める施設(神林勝金)がありましたが、雪囲いと思われる木材の手法に特色を感じました。建物が古いことと豪雪が理由だと思います。「随神門」から羽黒山へ入り、石段を降りていきましたが、かなり深厳な雰囲気がありますね。その先に、白木造りの「羽黒山五重塔」があります。写真で見ると赤い服を着た人が左手に立っていますが、その大きさが判りますね。築600年を経ているそうです。

■さらに行くと、2446段の階段があります。足の調子が悪かったため諦めて、車で行ける有料道路を利用することにしました。小さい子供を連れた家族が石段を登っていきましたが、多分無理だと思います。車に戻る途中、「爺杉」や大きな3枚(多分)の岩を繋いだ「渡り橋」が気になりました。

■羽黒山山頂には、「出羽三山神社」があり、「三神合祭殿(さんしんごうさいでん)」は高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で、主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物です。現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したものです。梁の上にいる人型も気になりました。屋根を支えている力士像らしいのですが、よく判りません。「大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社」などの末社も並んでいました。

■車でさらに、月山に行こうと思いましたが、残念ながら通行止めになっていました。また機会があれば、訪れてみたい「歴史を感じる空間」です。

2446段の階段を見上げる

2446段の階段を見下ろす

羽黒山山頂の末社

三神合祭殿(梁上に注意)

三神合祭殿
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