旅の思い出・その1 | <次の記事へ> |
010 藤沢周平の世界(2009年11月5日の記録) |
出羽三山と鶴岡付近 |
旧東田川議事堂 |
旧東田川議事堂内部 |
東田川議事堂の金唐革紙 |
致道館 |
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■鶴岡市藤沢の「旧東田川議事堂」を訪ねました。ここは「金唐革紙」で有名な建物です。1887(明治20)年頃の再建とのことですが、現在は図書館やホールとして使われていました。手入れが良く、引き戸がスーと開いたのに感動しました。「出羽三山」に寄り道をした後に鶴岡市内の「致道館」や「大宝館」を訪ねました。「致道館」は庄内藩主の酒井家によって創設された藩校、「大宝館」は大正天皇の即位を記念した建てられたバロック風洋館です。内部に高山樗牛の生家(屋根までついていました)の一部が再現されていました。私の目的は、「藤沢周平の世界」に浸りに行ったといった方が正解でしょうか。 ■「金唐革紙(きんからかわし)」は、鎖国時代、入手が難しい欧米の高級壁装材である皮革工芸品の「金唐革(きんからかわ)」をまねて、和紙を素材とした代用品として開発されたものだそうです。和紙に金属箔(金箔、銀箔、錫箔等)を押し、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色をほどこし、全て手作りで製作した「ものづくり」の傑作です。 ■それから、1893年建立の五重塔がある鶴岡市内の「善宝寺」に行きました。お寺の前にあった瓦屋根の郵便局が印象に残りました。「善宝寺」は、かつて「人面魚」で有名になった曹洞宗のお寺です。しかし雰囲気は神社のようでしたね。五重塔は内部を見ることもできました。欅(けやき)と思われる梁材が見事です。奥の院は権現造りでしたね。 ■その後、夕日が沈む海岸線を眺めながら、一路、新潟県阿賀野市の「五頭温泉郷」に向かいました。目的は、「華報寺共同浴場」です。ナビにだまされながらやっと着いたのですが、終了時刻の18:50だったため、入浴することができませんでした。でも、近くに「出湯共同浴場」があり、「華報寺」に車を駐めたまま、200円の共同浴場に入ることができました。5〜6人も入れば一杯になるのですが、建物が新しく、気持ち良い入浴を堪能することができました。 ■その日は、道の駅「阿賀の里」に停泊しました。他に駐車する車もなかったためか、夜の10:00ころ、警察の職務質問を受けてしまいました。でも、旅行中というと年配の方の警官がうらやましがることしきりでしたね。夜中じゅう、雨が降っていましたが、翌朝の阿賀野川の景色の美しさは忘れることができません。 |
大宝館 |
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善宝寺前の郵便局 |
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阿賀野川の朝 |
新潟へ向かう |
善宝寺奥の院 |
善宝寺五重塔内部 |
善宝寺五重塔 |
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009 男鹿半島の歴史を感じる旅(2009年11月4日の記録) |
男鹿半島/クリックして拡大 |
なはまげ館 |
なまはげ館の「なまはげ」 |
「万体仏」外観 |
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■諸説あるようですが、漢の武帝が男鹿を訪れ、5匹の鬼を毎日使役していたが、正月15日だけは、鬼たちが解き放たれ、作物や娘たちを略奪するなど、村を荒らし回っていた。これに困った村人たちは、「一晩で五社堂まで千段の石段を積み上げる事が出来れば娘を差し出すが、出来なければ鬼たちは村を出ていく」という約束をさせた。鬼たちはあっという間に999段を積み上げたが、あと1段というときに、村人が一番鶏の鳴き声をまねて夜明けを偽ると、それを聞いた鬼たちは驚いて逃げ去り、以後は姿を現さなかったそうです。 ■これは、景行天皇の代に武内宿禰が開いたという男鹿半島の「真山神社」近くにある「なまはげ館」で上映されていたビデオを見て知りました。同じビデオで、「なまはげ」は、子供の「しつけ」ためと説明されていました。その時は、どうかなと思いましたが、最後に「前向きに生きる力の源を与えるため」と説明されていました。少し、ホロッとさせられた次第です。 ■「真山神社」近くには、「万体仏」があります。正徳四(1714)年に僧 普明が建立したといい伝わっている三間四方の小さなお堂ですが、10cm程度の杉の仏像が壁・天井にぎっしりと並んでいます。数えた訳ではありませんが、1万3千体あるそうです。仏像に巻かれているのはテッシュだそうですが、圧巻でした。私の車の後から来ていた「なまはげ館」に向かう観光バスは、ここを通り過ぎていきましたが、帰りに寄るのでしょうか?もし通り過ぎるのであれば、残念なことをしたと思います。 ■その後、八望台という高台から、戸賀湾とマール湖(噴火後の爆裂火口に地下水がたまり形成された湖)を眺め、男鹿半島南部の赤神神社五社堂の麓まで行ってきました。ここには、鬼が作ったという999段の石段があります。また「徐福塚」があるのも凄いですね。漢の武帝は、紀元前141年から87年まで在位した前漢の第7代皇帝、徐福は秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めに東方に出たという紀元前3世紀頃の伝説の人です。史実はともかく、歴史を感じる話ですね。 ■その日は、さらに1912年に竣工したという、外観はルネッサンス様式を基調としたレンガ造、内部はバロック様式という秋田市内の赤レンガ郷土館(旧秋田銀行本店)を見学して、酒田に向かいました。途中、「鳥海山」が雲に霞んでいたのは残念でした。酒田には「土門拳記念館」がありましたが、パスしました。停泊場所は、山形県東田川郡三川町にある道の駅「庄内みかわ」です。田園地帯にあり、「無色透明の食塩泉」と「にごり茶褐色の強食塩泉」の2種類の温泉が出る温浴施設もある、ゆったりとくつろげる場所でした。藤沢周平の「海坂藩」ですね。 |
「万体仏」内部 |
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「万体仏」壁面 |
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「真山神社」 |
「八望台」からマール湖を遠望 |
「赤神神社五社堂の麓」の徐福塚 |
「赤レンガ郷土館」 |
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008 下北半島の「寒立馬」(2009年12月18日の記録) |
下北半島/クリックして拡大 |
尻屋崎にあった「寒立馬」の看板/クリック |
尻屋崎は通行止め |
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■2009年12月18日、日本一周の車中泊旅行の終盤です。下北半島の尻屋崎(しりやさき)にいるという「寒立馬(かんだちめ)」を見に行きました。折からの寒波により、下北半島は雪景色となってしまいました。雪道を運転して、尻屋崎手前まで行きましたが、12月からは通行止めになっていました。出ていた看板を見ると、12月からは半島の南側の藤石崎のアタカに寒立馬がいるとのことです。再び、雪道の半島を抜け藤石崎まで行ってみましたが、こちらも通行止めになっていました。アタカ島が見える付近を散策してみましたが、残念ながら寒立馬には会うことができませんでした。写真は、尻屋崎にあった看板の寒風に立つ寒立馬の映像です。趣がありますね。 ■寒立馬は、青森県の天然記念物に指定されていますが、野生の馬ではなく、南部馬を祖とする田名部(たなぶ)馬と呼ばれる小柄で耐寒性と持久力に富んだ軍用馬と、ブルトン種(フランス産の大型肉用馬)を交配して、独自の農用馬(肉用馬)に改良して、「野放し馬」として放牧していたものとのことです。肉用馬というのが凄いですね。 ■美しい海岸線の写真を撮りながら帰ろうと思っていたのですが、雪が激しくなってきたため、写真どころではなくなりました。止むなく、雪の中を大間に向かい、途中、下風呂温泉に寄り、「大湯」という共同浴場に入りました。大湯は風呂が二つあり、熱い湯とぬるい湯がありました。ぬるい湯にはおじさんが一人、入っていましたが、入りかけると超〜熱い風呂です。おじさんが、熱い湯の方がぬるいよと言ってくれましたので、確かに熱い湯の風呂がぬるいじゃないですか。いずれも硫黄分の強い風呂です。洗い場も3つしかないので、待つほどの狭い風呂です。数人が入っていましたが、会話を聞くと、漁師の会話をしていました。地元ならではの雰囲気を味わった次第です。 |
藤石崎も通行止め |
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アタカ島付近の遠望 |
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007 あの世の景観、下北半島の「仏ヶ浦」(2009年11月2日の記録) |
願掛岩付近/画像をクリック |
「仏ヶ浦」へ向かう |
「仏ヶ浦」の神社 |
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■下北半島を「まさかり」にたとえると、その「刃」の中央部に「仏ヶ浦」があります。奇岩と名の付く名所は、全国に数多くありますが、眼がくらむほど驚いたのは、ここが一番のような気がします。展望台から俯瞰した景観は、息を飲む荘厳さがありました。「あの世」が浮かび上がって見えるといったならば言い過ぎでしょうか? ■紅葉も終わろうとした季節、大間から、西回りで「願掛岩(がんかけいわ)」を眺め、くねくねとした道を走ったところに「仏ヶ浦」の展望台がありました。初めて眺めた瞬間、何かが取り憑いた様にも感じました。さらに数キロ、車で進むと駐車場がありました。長〜い、長〜い落ち葉の傾斜路を降りていくと、木の階段や木の斜路があります。海岸線まで降りてみましたが、浸食されやすい緑色擬灰岩が造りだした自然の芸術です。写真でみると判り憎いですが、巨大さにも驚きました。 ■帰り道も大変でしたが、見る価値は充分あると思います。その後、恐山を巡って停泊場所に向かいました。恐山も含めて、おどろおどろしい一日でした。(2009年11月2日の記録) |
「仏ヶ浦」を遠望する/画像をクリック |
長〜い 木の階段 |
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中央に黄色い服を着た人/画像をクリック |
奇岩を近くで/画像をクリック |
「恐山」に着く |
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006「盛美園」と「借りぐらしのアリエッティ」(2009年11月3日の記録) |
青森県平川市の「盛美園」 |
「盛美園」の庭の雪景色(2009年11月3日撮影) |
「盛美園」1階内部 |
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■スタジオジブリの「借りぐらしのアリエッティ」を観ました。その後、2010年7月31日の朝日新聞を見て驚きました。アリエッティの家族が「借り(狩り?)」をしている家と、青森県平川市の「盛美園(せいびえん)」の庭と家がそっくりだという記事でした。映画を見ているときにはまったく気づきませんでした。 ■2009年の日本一周の三日目、11月3日、東北地方は、折からの低気圧の接近のため雪で真っ白になりました。早朝、黒石の「こみせ」の雪景色を見た後、近くの平川市の「盛美園」に行きました。目的は、2階にあるという「人造大理石の床柱」でしたが、1階が和風、2階が洋風という不思議なバランスの建物が存在していました。 ■開園まもなくのため、休みかと思うくらいひっそりと人の気配がありませんでしたが、慌てて(失礼)出てきた女性に受付を済ますと、先に「御宝殿」を見るように促されました。ちょっと方向が判らずウロウロとしてしまいましたが、「御宝殿」に入って驚きました。場違いなばかりに金箔で覆われた大きな堂内に、「御宮殿」が置かれているのですが、その両側にある巨大な蒔絵に圧倒されてしまいました。「河面冬山(こうもとうざん)」が生涯をかけてつくった大作で大正初期に完成したとのことです。案内の女性に聞くと、余り宣伝をしないようにしているとのことでした。私もまったく知りませんでした。 ■「御宝殿」を出たころに、団体客が入ってきましたので、建物を見に行きました。1階の和風の造作は材料の良さを感じる作りです。2階に上がる階段には「立入禁止」の札が置いてあります。お願いをしてみましたが、明治の建物のため、危ないので取材以外は上げていないとのことです。階段の「ささら」が人造大理石でした。2階の写真というのが飾ってありました。それにしても不思議な建物です。 ■建物を出た後に、庭を散策してみました。紅葉が敷き詰められた庭の上を、真っ白な雪が覆っています。まだ誰の足跡も無い、贅沢な空間でした。その中に宇宙船か何かの様に違和感のある建物が浮かんでいました。 ■仏教と古神道を習合させた「武学流庭園」の最高峰を、豪農であった「清藤盛美」が1901年(明治35年)に小幡亭樹宗匠を招いて、9年かけて完成した庭です。建物は、地元の宮大工であった西谷市助が4年かけて設計・施工したそうです。 ■全国的には、あまり宣伝されていない、隠れた名勝と思っていましたが、このような形で脚光を浴びるとは思いませんでした。宮崎駿を初め、スタジオジブリのスタッフが2008年の11月(丁度、私が訪れる1年前ですね)に社員旅行の際に立ち寄ったのがきっかけだったらしいですね。今度、行くときはぜひ2階の「床柱」を拝見したいものです。 |
「盛美園」1階から2階への階段 |
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御宝殿内部 盛美園HPより |
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御宝殿の蒔絵 盛美園HPより |
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ページのトップへ | 盛美園のHPは http://www.seibien.jp/ |
005 北海道美瑛町の「青い池」(2010年6月22日の記録) |
白金インフォメーションセンター |
美瑛町の「青い池」 |
「青い池」の池面 |
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■北海道美瑛町の「青い池」に行ってきました。2010年6月22日(火)の朝から歌志内、芦別、富良野方面を経由して美瑛に入りました。途中、地図では5月末に通行可となっている路線も含めて、通行止めが2ヶ所もありました。もう少し、早い案内が欲しいですね。この変則ルートを取ったのは、途中でいくつかの建物見学をしたからです。 ■真夏の様に暑い天気でした。広大な美瑛の丘を眺めた後、北海道赤レンガ賞を受賞した「白金(しろがね)インフォメーションセンター」を訪ねました。雪渓の残る美瑛岳が美しく映えています。その白金インフォメーションセンターから、約1.2kmのところに「青い池」があります。平日に関わらず、十数台の車が駐車場に駐まっていました。中国語の家族もいます。案内では、駐車場から徒歩10分程度とのことでしたが、5分くらいで着いたと思います。途中の山あいに河川改修のテトラポットが並んでいる景色は無粋ですね。河川改修に伴い、堰き止められてできたのが「青い池」らしいのです。水分にアルミニウムが含まれているため、コバルトブルーに反射して見えます。先を流れる美瑛川の水自体もコバルトブルーに輝いています。真っ青な空に、雪渓が残る十勝連峰を望み、うっそうとした深い緑に囲まれて「青い池」が輝いています。湖面には、枯れた白樺の木立が屹立しています。偶然が造り出した美しさです。 ■さらに、白金温泉の先にある十勝岳方面にも行ってきました。かつての噴火による火山流の上に「望岳台」があります。雪渓が残る十勝岳は、いまだに噴煙を上げています。かつての噴火では、死者も出たそうですね。十勝岳の山裾から、左に美瑛岳、美瑛富士を撮影しました。続く360度のパノラマには、緑豊かな美瑛や富良野の町が見えます。 ■その後、近くの白金温泉に入り、旭川に向かいました。白金温泉は、神経痛に対する効能が高いとされ、「杖忘れの湯」といわれているそうです。 鉄分を含み、酸化されて、少し褐色に濁った湯でした。私の入った「元湯」は、源泉掛け流しとのことでしたが、湯量が少ないのか、少し淀んだ佇まいでした。 ■明朝は、朝早くからの仕事のため、「道の駅あさひかわ」に入り、車中泊です。気温が29度もあり、暑い夜を味わいました。しかし、街中にある道の駅のためか、虫がほとんどいませんでしたね。 これも一つの選択肢ですね。 |
「青い池」と美瑛川 |
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望岳台から見た十勝連山 |
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004 日本一の注連縄(しめなわ)の掛け替え(2002年12月15日の記録) |
宮地嶽神社の鳥居 | 注連縄(しめなわ)の掛け替え(正面から) | 注連縄の掛け替え(側面から) | ||
■2002年の暮れ、福岡に所用があり、翌日が日曜日だったため、付近の散策をしてきた時の話です。福岡県立博物館で「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印を見て、志賀島の金印公園を訪れ、福岡県福津市の宮地嶽神社に寄ってきました。ちなみに金印のレプリカは複数あるようですが、本物は福岡県立博物館にあります。私が行った際は、他に誰も居ず、ゆっくりと堪能できました。 ■今は廃線となった宮路岳線の宮路岳駅に降り、徒歩で約1km近くの参道を歩いて宮地嶽神社に着きました。天気も良く、ゆったりと歩いたと記憶をしています。 ■鳥居を過ぎると、楼門の辺りが騒がしく人だかりがしていました。行ってみると注連縄の掛け替えをやっているところでした。中間を空けた2列のスロープに注連縄を沿わせ、その間のフォークリフトで注連縄を持ち上げています。ロープを張って大勢の人力も併用の作業です。観光客もたくさんいました。何というラッキーなタイミングだと思いました。マイクを持って陣頭指揮をしている人もいます。 ■宮地嶽神社の創建は約1600年前にさかのぼるといわれ、息長足比売命(神功皇后)が三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まり。直径2.5m、長さ13.5m、重さ5tの日本一の大注連縄だそうです。出雲大社の神楽殿の注連縄(長さ13m、胴回り9m、重さは3t)も巨大だと思いましたが、少し細身ながらそれよりも重いようです。さらに宮路嶽神社には、直径2.2mの元・日本一の大太鼓と、さらに重さが450kgの日本一の銅製の大鈴があります。 ■しばらく張り替え作業を見た後、宮路嶽神社の奥の院にも行ってみました。さすがに、こちらの方は空いています。奥の院は、元々宮地嶽古墳という6世紀終末期の大型円墳が元になっています。横穴式石室の長さが国内最大級の約22mもあり、石室の中に入ることもできます。 ■本殿の方に戻ってみると、まだ掛け替え作業を張っています。すると下の方で何かの煙が上がっているので、行ってみると、古い注連縄を燃やしているところでした。注連縄は。真っ黒になって煙を出しています。まるで、「大蛇」が焼かれた様な景色です。付近には誰もいません。しばらく佇んでしまいました。注連縄の張り替えも貴重でしたが、この古い注連縄が焼かれた映像は、より貴重な体験となりました。 |
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横穴式古墳(奥の院) | ||||
外された注連縄 | ページのトップへ |
003 西明寺にみる匠の「技」(2009年12月7日の記録) |
■2004年1月30日の新聞で、江戸時代の画家である尾形光琳代表作/国宝「紅白梅図屏風」が「金箔」をほとんど使わず、「金泥」で描かれていた可能性が強いとの報道があり、驚いた記憶があります。しかしながら、2010年2月15日の新聞では、やはり「金箔」だったと発表されましたね。「箔足(金箔の重ね部分)」をわざわざ描いている不思議さから疑問を感じていましたが、やはりと思わせる報道でした。 ■「金箔」の真偽はともかく、2002年に放送されたNHKスペシャル「よみがえる源氏物語絵巻」では、復元された絵巻の映像に、光の当て方によって、紋様が異なって見えるという平安時代の絵師の「技」にも驚かされた記憶があります。 ■2009年12月7日、琵琶湖近く、湖東三山の一つ「西明寺」を訪れました。本堂・三重塔・庭園なども見事でしたが、本堂内部を案内して頂いた折りのことです。本尊の薬師如来像(秘仏)を拝することはできませんでしたが、その周りの仏像から少し離れたところに、「快慶」作と伝えられる「阿弥陀三尊(鎌倉時代)」が祀ってありました。 ■説明は、年配の方がやってくれました。その方も最近知ったらしいのですが、薄暗い中で、三尊に懐中電灯を正面から当てると、女性風の穏やかな姿が浮かび上がりました。三尊とも、非常に均整が取れたお顔だちです。ところが、懐中電灯を下から当てると、三尊ともに、男らしい厳しい表情に変わりました。繰り返し、懐中電灯を当てて、違いを見せて頂きました。いずれも、端正なお顔だちですが、まるで異なる姿になります。快慶(と伝えられている)は、そこまで考えて制作しているらしいですね。改めて、かつての歴史の中の「技」を思い知らされた次第です。 |
西明寺の蓬莱庭への門 |
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西明寺の阿弥陀三尊 | 西明寺の本堂(2009年12月7日撮影) | 西明寺の三重塔 | |
(西明寺のホムページから) | |||
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出雲大社本殿 | 出雲大社本殿 | 出雲大社本殿内部 | 神魂(かもす)神社 | ||
2007年10月25日撮影 | 2007年10月26日撮影 | 2008年8月5日NHKニュースより | 2007年10月27日撮影 | ||
■出雲大社の「本殿」の現在の高さは、1744年に建てられたもので8丈(約24m)あります。かつては、16丈(約48m)あったと伝えられています。それを裏付けるする柱根が2000年に、側柱、心御柱、宇豆柱があいついで見つかりました。直径1.1m〜1.3m程度の柱が金輪で3本組み合わされた写真や図を多くの方が見ていると思います。全体で3m程度の径を有する柱だったことになります。 ■平安時代の16丈は倒壊したため、その後も数度に渡り、社殿が造営されたようです。さらに古代には、32丈(約96m)あったとの説もありますが、ほとんど信じられていません。以前、出雲大社前にある「雲太」に行った際、説明をしてくれたお兄さんが、32丈は大社の後ろにある「八雲山」の高さのことだと言っていましたが、私もなるほどと感心した記憶があります。ちなみに「雲太」には、出雲大社の模型が多数陳列されていました。 ■2009年、総工費80億円をかけた60年毎の檜皮屋根の葺き替えにあたり、本殿内部が公開されました。その際、本殿御神座の天井に描かれていた「八雲の図」が話題になりました。NHKでも放映されましたね。しかしこの「八雲の図」、謎ばかりです。 1)八雲というのに、七つしか雲が描かれていない 2)一つだけ、向きが反対になっている 3)一つだけ大きな雲があり、一カ所だけ「黒色」で描かれ、「心入れの雲」と呼ばれる などと不思議な描かれ方をしています。 ■七つしかない理由は、諸説ありますが、 1)神魂(かもす)神社の天井図は九つ描かれているので、そこへ飛んでいった 2)出雲大社の御神威がますます広がるよう、七つに止めた 3)八つ書いてしまうと完成となり、後は衰退を始めてしまうので七つで止めた といったことなどが語られています。 ■私はこの話で、「雲太」での話を思い出しました。裏には「八雲山」があります。神魂神社説も捨てがたいですが、八雲山の山を入れての八つだったのではないでしょうか? ■八雲山といえば、雲南市の須我神社の裏にも八雲山があります。須我神社は、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、櫛名田比売(くしなだひめ)とともに住む土地を探し、「気分がすがすがしくなった」として「須賀(須我)」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮めたのが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされています。その歌が、 八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を です。この八雲は出雲では無いことになります。これも不思議な言い伝えですね。 いずれにしても、「謎」が限りない「出雲」です。 |
須我(すが)神社 2009年11月16日撮影 |
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出雲大社復元想像CG 季刊 大林より |
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001 2009年の秋、車での日本一周はすべて車中泊を貫徹 |
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