141 旭岳/天人峡羽衣の滝・滝見台(2023年10月11日の記録) |
旭岳の周辺と羽衣の滝・滝見台 グーグルマップのデータに加筆 |
ロープウェイ乗り場 |
|||
ロープウェイから見た旭岳頂上 |
||||
姿見駅テラスにて |
||||
旭岳を見上げる | ■戦争の惨禍が止まらないのは、政治が悪いのか、宗教に問題があるのか、人類の性なのか、すべてに問題がありそうです。正義をかざす人々も多いですが、何が正義なのかも分からないのが現実ともいえます。そのなかでも、人々を幸せに導く政治もあるでしょうし、宗教もあるといえます。何事も立ち止まる勇気を持たない一握りの愚かな権力者が多くの人々を不幸に貶めているのが世の常であり、人類の歴史だったといえます。決して権力を持ってはいけないような愚かな人物を選んだのも、これから選ぼうとしているのも歴史が生んだ現実でした。 ■国内に目を向けると、諸物価の値上がりは、驚くほどです。実感では食品関連の値上がりは2〜3割上がっているのではないでしょうか? しかし、世界的なレベルで見ると、日本における問題は円安と所得が低いことが切実な問題ともいえます。長きにわたって続いたデフレ経済がその主な要因ですが、円安の主要因はアベノミクスに伴う弊害がもたらしたものと私は考えています。確かに新型コロナ感染症の影響がありましたが、政治家によるバラマキ政策のみの無策が日本経済の立て直しに何らの効果も生んでいないことが悲しいですね。 ■2023年の10月、道北と道東方面に仕事に行きました。5日間の予定だったのですが、もう一日を追加して、中一日に休みを設定して、念願だった「旭岳」と「天人峡」に行ってきました。長期予報では雨が続く予想でしたが、思いのほか快晴が続く絶好の山日和となりました。 10月11日(水)、外気温2.9度とよく冷えた道の駅ひがしかわ「道草館」で朝の5時に目が覚めたのですが、まどろみの中、起床したのは5:20でした。もちろん車中泊です。環境にはよろしくありませんが、車のエンジンを掛けて、少しの間、車内温度を上げてやりました。今日は、仕事がありませんので、ゆっくりと支度です。朝食は電子レンジで温めたご飯と缶詰などです。支度をして、7:40に出発しました。近くのコンビニでおにぎりを買いました。これから向かう旭岳の上で食べる昼食です。 ■約30km先の旭岳ロープウェイ乗場に向かいました。2007年にできた忠別ダムによって、忠別川が堰き止められてできた「忠別湖」の手前で左に折れると、紅葉が見事になってきました。道の先には冠雪した「旭岳」が神々しく見えています。途中、旭岳温泉街がありました。右手に勇駒荘が見えます。ここの温泉は「神々の湯」と名づけられています。何度か入浴したことがあります。少しぬるいお湯でしたが、幽玄な雰囲気を醸し出していました。まもなくロープウェイ山麓駅に着きました。500円の有料駐車場です。手前に無料で駐められそうな駐車場がありましたが、まあ良いでしょう。 8:20に付いたのですが、登山靴に履き替えて、α900を首に掛けて、用意したリュックを背負って山麓駅に入ると、8:45発が間にあうようです。ロープウェイ料金は往復で3,200円ですが、割引券を持っていましたので、300円安くなりました。まだ朝が早いため、ロープウェイは混んでいません。約10分で姿見駅に着きました。旭岳(標高2,291m)ばかりに目が行って、途中の紅葉はあまり目に入りませんでした。標高1,100mの山麓駅から旭岳の五合目にあたる標高1,600mまで登って来たことになります。以前、妻と二人でここに来たことがあるのですが、一面の霧で何も見えませんでした。しかし、今日はほぼ快晴の青空の下です。素晴らしい景観が待っていました。左手には同じく冠雪した黒岳方面が見えます。 ■アイヌの人々が「カムイミンタラ−神々の遊ぶ庭−」と畏敬の念を抱いてきた、北海道の屋根ともいわれる大雪山国立公園は、北大雪、表大雪、東大雪、十勝岳連峰の4山域に分けられ、標高2,000m前後の山々が連なっています。その最高峰である旭岳の標高は2,291mですが、高緯度に位置することから本州の3,000m級の山に匹敵する山岳環境にあるといわれています。真夏でも大きな雪渓・雪田が残り、豊富な高山植物がいたる所に華麗なお花畑を作り出しています。それらは、氷河期においてシベリア、千島列島、本州から多くの高山植物が移入して形成されたものです。 大雪山が2度に渡るプリニー式噴火によって降下火砕物と火砕流を噴出して、直径約2kmの御鉢平カルデラを形成したのが約3万年前です。その主峰旭岳は約5千年前の噴火により現在の山体山頂部が形成されましたが、約2.8千年前の山体崩壊により、山頂西側に馬蹄形の地獄谷火口を生じ、土砂は旭岳温泉にまで達したといわれています。その後、約1千年前には水蒸気爆発が頻発、5〜6百年前の火山活動で姿見池などの小火口群を生まれました。御鉢平カルデラを作った火砕流の堆積は約8km3といわれていますが、その堆積物の厚さは最大200mに及び、その後の溶結による柱状節理が層雲峡や天人峡の景観を生み出しました。 ■ロープウェイの終点、「姿見駅」の外気温は3.5度でした。山頂付近は冠雪していますが、この辺りは雪は見当たりません。駅内では周遊コースの案内をやっています。ぬかるむところ、先に進むと熊と遭遇する可能性があるところなど、周遊コースは約1時間の行程です。長靴の貸し出しもあるようです。リュックには、熊鈴も付けてきました。脳梗塞の後の右足の後遺症は完全ではありませんので、ゆっくりと最後尾から付いて行く事にしました。空気がすがすがしいですね。ハイマツなどの低木が茂っています。ところどころに残雪が見えます。見返すと、ロープウェイ姿見駅とその先に忠別湖、そして日高山脈の上に雲が流れていました。 結局、足の遅い人を何となく抜いていく事になりました。満月沼、すり鉢池、少し登って第二展望台、第三展望台、鏡池など、旭岳や大雪山系も眺めながらの散策です。夫婦池という二つの池もありました。他の人とは離れて、第四展望台にも寄ってみました。列は完全にばらけてしまいました。反対側から廻ってくる人もいます。噴煙が上がっているところが見えてきました。1940年代初頭にはここで硫黄を採掘していたそうです。噴煙が上がっている先に行ってみました。「地獄谷と噴気孔」の看板がありました。約2.8千年前の山体崩壊により、地獄谷と噴気孔ができたとの説明があります。他の人は、先に進んだようです。 少し戻ると、エメラルドグリーンの「姿見の池」がありました。ここからの旭岳が特に素晴らしいですね。標高1,665mの看板もあります。スマホでも撮影して、姿見の池から見た旭岳の画像を妻に送りました。スマホは繋がるようです。横には石室がありました。旭岳山頂まで2.6kmの看板もあります。鐘を突くところがありましたので、突かない訳にはいきません。反対に戻る道がロープウェイの駅に繋がっているようです。道が分からずウロウロとしている夫婦がいましたので、こちらですよと教えてあげました。確かに少し分かりづらいかも知れません。第五展望台から見る十勝岳連峰は雲が被っていました。少し残念。先ほどまで見えていたのですが。姿見駅まで少し下りとなりますが、雪解け水で道が少しぬかるんだ状態になっていました。途中、背の高い外人夫婦が颯爽と私を抜いて行きました。1時間を少しオーバーした周遊コースでした。 姿見駅では、登山靴を洗うところがあり、靴を洗いました。ここで少し靴に違和感があったのですが、二重底になっていた靴の下側が途中、剥がれて落としてしまったのに気づいたのは後のことでした。まあ、2015年の日本一周の際に購入した登山用の靴ですので、十分でしょう。この靴で、山形県の山寺に登ったり、兵庫県養父市の天滝など日本各地の滝・棚田を見物させてもらいました。ロープウェイに乗り、下る時に、やっと山肌の紅葉の美しさが目に入ってきました。小さな池も多数あります。山麓駅に着いて、昼になりましたので、持ってきたオニギリを食べようと思ったのですが、ゆっくりとできる場所が山麓駅には見当たりません。時間帯のせいか、かなりの人で溢れています。止むを得ず、車に戻り、昼食タイムとすることにしました。ここで靴の異常に気が付きました。トータルで約2時間の行程でした。 |
|||
黒岳方面 |
||||
満月沼 |
||||
鏡池から見た旭岳 |
||||
鏡池から見た黒岳方面 |
||||
地獄谷と噴気孔 |
||||
石室 |
旭岳五合目の周遊コース グーグルマップのデータに加筆 |
|||
ロープウェイから |
||||
廃ホテルとなった天人閣 |
||||
■まだ、11時台でしたので、天人峡方面に向かいました。目的は「羽衣の滝」です。初めて見たのは中学の時の修学旅行ですが、素晴らしい景観に感動した記憶があります。その後、何度か訪れたのですが、2013年の土砂崩れにより遊歩道が通行止めとなっていました。しかし、2018年に約5年ぶりに開通することが叶ったと聞いていました。その数年前、手前のホテル天人閣の温泉に入ったときも、残念ながら通行止めとなっていましたので、恐らく数十年ぶりとなります。 羽衣の滝は、北海道上川郡東川町にある忠別川の支流アイシポップ沢と双見沢にかかる滝で、7段の滝の途中で2つの沢が合流している、落差270mの北海道第一の名滝です。その姿は、日本各地の滝を逍遥した私からみても、美しさはトップレベルだと考えています。 ■約21kmの行程を車で進むと、天人峡の渓谷の先に天人峡温泉が見えて来ました。駐車場がありました。現在、唯一開業している「しきしま荘」の先に、廃ホテルとなった「天人峡グランドホテル」と「天人閣」が見えて来ました。この二つの巨大な廃ホテルは、それぞれ2011年と2018年に閉鎖され、以前から壁の崩落などが危惧されていて、景観を損ねるなどの問題が指摘されていました。そのため、東川町と美瑛町が主体となり、国や道からの支援を受けて、来年度解体・撤去することになったと新聞報道などで聞き及んでいます。 駐車場に車を駐め、靴を仕事用の靴に履き替えて、特段の案内は見当たりませんでしたが、以前の記憶をたどって、先にすすむことにしました。二つの橋がありましたが、以前、車で渡った記憶がある大きな橋は通行止めになっていました。もう一つの橋を歩いて渡り、廃ホテルとなった天人閣の横を歩いて進むと、旭岳周遊コースで私を追い越して行った外人夫婦が歩いて帰ってくるところでした。さすがに早いですね。羽衣の滝までは、川沿いに約600mの道のりのようです。途中、川の先に堰堤があり、一瞬「しきしまの滝」かと思ったのですが、違いました。その先に、橋があり、目的の「羽衣の滝」が見えて来ました。やはり感動の滝ですね。これに勝る景観の滝は、日本でも滅多にありません。紅葉のなか、多段の滝が糸を引いたように見え隠れしています。 ■「しきしまの滝」までは、さらに約800mとのことですが、まだ整備がされていなく、川に入る必要があるとのことで、今回は諦めました。というよりも、別な目的がありました。羽衣の滝を見下ろすことができる「滝見台」への軽登山です。運が良ければ、旭岳を遠望することができると聞いていました。しかし、滝見台への登山口が分かりません。案内も何も見当たりません。止むなく、歩いて駐車場に戻ることにしました。 すると、廃ホテルから橋を渡った先に看板があり、「滝見台軽登山コース/1.5km」「トムラウシ登山道入口/17km」の看板があることに気づきました。小さな小屋があり、その上に登るようです。一旦車に戻り、少し軽装にして再出発です。 ■いきなり急な坂を登ると、記帳台がありました。出発時間12:55、下山予定を15:00と記帳しました。すぐに折り返しの意外と急な坂道が見えて来ました。かなり湿った細い道です。軽登山とありましたが、ちょっぴり軽重登山のように思えました。道が湿っていて片側が滑落しそうな細い道です。踏み外したような跡もあります。靴に不安もありますし、一人ですので気をつけなければなりません。しばらく進むと、工事用の仮設階段が見えて来ました。階段の傾斜は急ですが、手摺りがあります。そちらの方が楽そうに見えましたが、「立入禁止」の看板もあり、使わせては貰えないようです。どこに向かっているのかも分かりませんし、第三者が勝手に利用して怪我をしても工事業者の責任が問われかねませんので、まあ仕方がありません。登山道を進まざるを得ません。倒木が道を塞いでいるところで、道幅に倒木を切断したところや、大きな倒木が道を塞いでいるので、その上に乗らざるを得ない場所など、ゆっくりと休み休み、休憩を取りながら、時々熊鈴を強く鳴らしながら登っていきました。誰とも行き交いません。熊と遭遇しても不思議感はありません。 工事用の仮設階段が交錯していたのですが、仮設階段の最上部までやってきました。仮設階段の手摺りにリュックを吊して、給水タイムです。登ってから20分が過ぎていました。ここで半分程度でしょうか? 一息ついて、またまた折り返しを登ります。対面の天人峡の崖上部まで登ったかなと思ったときは、登山開始から50分を経ていました。稜線のようなところに出たようです。まもなく「羽衣の滝 滝見台500m」の看板がありました。水の音も聞こえるようです。さらに進むと、羽衣の滝が眼下に見えていました。旭岳も見えます。滝見台に着いた時は、14時になっていました。 |
羽衣の滝に向かう道 |
|||
羽衣の滝 |
||||
滝見台への登山口 |
||||
滝見台を登る |
||||
これは大変 倒木の上に |
倒木が道に |
登山道を登る |
交錯する仮設階段 |
|
倒木が切られている |
■ここでスマホに着信があるのに気づき、電話をしました。電話が繋がるようです。滝見台からは、羽衣の滝の全容が見えます。しかし、紅葉に浮かぶ旭岳が素晴らしいですね。雲が少し被り気味ですが、青空の下に絵のような美しい景観を見せてくれています。来て良かったと思った瞬間でした。晴れて良かったですね。羽衣の滝は、下から見上げた方が良いかも知れません。ベンチがコの字型に3台あり、「正面は旭岳です」の看板もありました。 しばらく景色に見とれた後、下山ですが、登山靴ではありませんので、十分気をつけなければなりません。滑って転んで滑落しても、誰も助けには来て貰えそうもありません。ゆっくりと来た坂道を下って行きました。結局誰とも、もちろん熊とも遭遇せず、記帳台まで戻ったのが15時丁度でした。下山予定時間ぴったりに記帳させて貰いました。激汗をかきましたので、セータとシャツを交換しました。 ■今日は、道の駅白金温泉ビルケに停泊予定です。約50kmの行程ですが、途中、美瑛町内で夕食を取ることにしました。道の駅美瑛「丘のくら」に寄りましたが、名物のカレーうどんはパスです。以前、食べたことがありますが、その時は昼食でした。町内を車で散策しましたが、閉店していたり、なかなか見当たりませんでしたので、仕方なく食堂風のところに寄って豚丼を注文しました。しょっぱかった。一度、道の駅白銀温泉ビルケに寄って、寝支度をして近くの湯元白銀温泉ホテルで入浴です。湯温が高く、良い湯でした。道の駅に戻り、21時頃まで車内でゆっくりとしていたのですが、星空が綺麗に出ていました。しかもほぼ新月です。外気温は5度程度と寒いです。 これはチャンスと思い、十勝岳の望岳台に向かいました。今日はアルコールは入っていません。約10km程度の行程です。望岳台から望む星空(天の川)を見るためです。昨年も同じような機会があったのですが、ほぼ満月だったため、あまり良い星空は望めませんでした。しかし、望岳台方面から見る富良野方面の街明かりは美しかったのですが、望岳台は全面雲に覆われていました。しばらく待機したのですが、晴れそうにもありませんでした。そのままここで停泊することも考えましたが、白金ビルケに戻ることにしました。残念でしたが、またのチャンスを期待することにしました。白金ビルケでは、綺麗な星空に覆われていました。また明日からは仕事です。 |
|||
跨いで進む |
||||
稜線に出た |
||||
滝見台に着いた |
羽衣の滝を見下ろす |
来た道を戻る |
記帳台が見えて来た |
|
姿見の池から見た旭岳 |
滝見台から見た紅葉した天人峡に浮かぶ旭岳 |
ページのトップへ |
140 樽前山溶岩ドーム(2021年10月7日の記録) |
7合目からの登山口 |
樽前山山頂案内図 グーグルマップのデータに加筆 |
|||
すぐに階段が |
||||
段差が大きいところにある小さな段 |
||||
後ろには支笏湖が |
■現在の財務次官が「文藝春秋(2021年11月号)」に「このままでは国家財政は破綻する」とした論を寄稿したことが問題となりました。私も購入して読んでみました。詳細は割愛しますが、与野党を問わず、選挙対策を含めて、バラマキ合戦となっている現状を問題視している内容が主なものです。財務次官としてはごく当然のことを記しているだけの内容だといえます。前及び現・財務大臣も黙認しているようですが、噛みついた人がいました。先の自民党総裁選で争った現政務会長でした。「大変失礼な言い方」とテレビで批判したそうです。ネット情報ですが、「第一、名目成長率が名目金利を上回れば財政は改善していくし、そういう姿を目指している。自国通貨建ての国債ですからデフォルトも起こらない」などと反論したとのことでした。唖然とするばかりですが、このような人に国を任せるわけにはいかないでしょう。デフォルトが起きるかどうかの問題よりも、日本国債のレベルダウンに伴う財政破綻を問題にすべきでしょう。「成長」を心がけることを否定はしませんが、「予想外の災害」という言葉と同様に、この論はもう聞き飽きました。 本当に困っている人への救済が必要なことは、論を俟たないことはいうまでもありませんが、無作為なバラマキには私は問題があると考えています。高額な宿泊や大手旅行サイトのみが益をあげるような「GoToキャンペーン」や何らかのつながりを想像させるような国からの発注・受注システムに手を付けるべきであり、何をおいても、国会議員自らの多くの問題にまっさきに手を付けるべきでしょう。 |
|||
砂利道があります |
||||
滑りやすい砂利道です |
||||
苫小牧市と海岸線が |
水が流れた跡 |
最初の分岐点に来ました |
東山方面 |
|
■2021年10月7日(木)、早朝からの千歳の仕事が早く終わりましたので、天気も良く、近かったこともあり、以前から考えていた樽前山に登ってみることにしました。樽前山は、7合目のヒュッテまで車で行くことができます。駐車場からは、1時間も掛からずに山頂に行けるとの情報を得ていました。常にその準備もしてあります。車には、飲み水、防寒着、非常食などを入れたリュックと登山用の靴などが常備してあります。 コンビニでオニギリを2個買いました。途中の昼食です。支笏湖方面に向かう、高い木々が両側から迫り出したほぼ直線に近い道道16号線を走ります。途中から、苫小牧に向かう樽前山の横断道路に入りました。前を宇都宮ナンバーの車が走っています。直ぐに、右手に砂利道の入山道路が見えて来ました。予想通り、宇都宮ナンバーも入山道路に入りました。途中、すれ違った車が4台ありました。しばらく砂利道を走ると、7合目ヒュッテの駐車場前に着きました。前の車は、駐車場の少し手前で路上駐車をするようです。勝手を知っているかのように、すぐに4人組の女性が降りてきました。声高に話す中国人のグループでした。コロナ禍が終わったかのようです。 前の駐車場が一杯なのかが不明でしたので、私もその車の後ろの路上に車を駐めて、歩いて行ってみると、駐車場には確かにたくさんの車が駐まっていますが、空きがあるようです。車に戻り、車を駐車場に進めると、おじさんがいて案内をしてくれました。作業用の服装だったことと車内に脚立を積んでいたので、「仕事ですか?」と聞かれましたが、「仕事が終わったので」と答えると、奥のトイレの前に駐めるように指示がされました。予定では、車内でオニギリを食べる予定でしたが、目の前がトイレになってしまいましたので、止めることにしました。時刻は11時丁度、気温が12℃、曇り空です。 一式揃ったリュックに最近購入した熊鈴を付けて、登山用の靴に履き替えて出発です。カメラは少し重いですが、α900にしました。登山口で記帳をしました。先ほどの騒がしい4人組が直ぐ後を着いてきます。すぐに丸太で作った階段が現れました。脳梗塞の後遺症が少し残る体には辛かったのですが、騒がしい人たちと離れたかったので、急ぎ足で登ります。熊鈴が綺麗な音を聞かせてくれます。段鼻は丸太ですが、他は土のため、抉られていて、段差がかなり高いところもあります。場所によっては、中間に追加の小さな段が備えられているところもありました。助かります。後ろを見ると、支笏湖が見えます。4人組とはかなり離れることができました。段状の道と砂利道が交錯します。細かい砂利道は滑るので注意です。太鼓状になっていて、上の方は見えないので、結構辛いですね。かなり汗をかきましたが、着替えは用意してありませんでした。これはミスかも知れません。 |
西山方面 |
|||
溶岩ドームから煙が |
||||
溶岩ドーム |
||||
奥宮に参拝 |
樽前山神社奥宮 |
溶岩ドームが近くに |
大きく水の流れた跡 |
|
奥宮付近から |
苫小牧方面と海岸線も見渡せるようになりました。支笏湖も全体が見えて来ました。左手には風不死岳も見えます。森林限界点を超えました。草と苔状のものが石に張り付いています。風が冷たくなり、汗は完全に引いてしまいました。途中、沢状に土が流れた跡がありました。遙か下の方まで流れたようです。さらに進むと、西山と東山の分岐点に着きました。右手の山頂(東山)まで0.3k、左手の西山まで1.8k、ヒュッテからは1.3kの案内があります。丁度、12時になっていました。溶岩ドームが見えます。樽前山は約9千年前の噴火によって生まれ、その後の噴火の繰り返しによって三重式火山の今の姿になりました。煙も複数上がっています。何度も写真で見た異様な景色です。迫力がありますね。大きな溶岩が転がった様も見えます。外輪山の内側に入ることはできません。 左手の西山に向かいました。途中、樽前山神社奥宮がありますが、かなりの下り道になります。二本の道があり、溶岩ドームに近い内側を通りました。奥宮に来てみると、まるで噴火の避難小屋風です。両脇に石を積んで、屋根を含めてコンクリートで覆ったトーチです。先客がいましたので、少し待って参拝。その先の小高いところで苫小牧方面を見ながら腰掛けて昼食を取っているおじさんがいましたので挨拶。私は反対側の溶岩ドームが見えるところに小さな太陽光パネルがありましたので、風を防いでくれると思い、その陰で昼食を取ることにしました。 昼食後、再び、登山開始。途中、さらに大きな沢跡がありました。雪が溶けた時に流れた跡でしょうか? 溶岩ドームがより迫力を見せてくれます。西山への上りは結構大変でした。途中、分岐点があり、そこを右手に進むと外輪山を廻って東山に至るようです。左手の西山まで0.2k、外輪山を廻って東山経由のヒュッテまで3.7k、来た道を戻るとヒュッテまで2.9kです。例の4人組は先の分岐点から東山に向かったようです。 |
|||
苔状のものが生えています |
||||
次の分岐点 |
||||
西山頂上に着きました |
風不死岳の全景 |
西山から見た溶岩ドーム |
西山から見た支笏湖方面 |
|
西山山頂に着いたのが13:15でした。全体が見渡せます。標高994m、風不死岳の全景が見渡せます。支笏湖、羊蹄山も見えます。オレンジ色の服を着たおばさんが軽い足取りで登って来ました。よく見ると、おばさんではなくお兄さんでした。失礼。来た道を下り、先ほど通った分岐点から外輪山の左手に進みました。かなり急な下り坂です。両脇にあるロープのどちらかを掴んでいないと滑ります。アマゾンで購入した登山用の杖は、不調なので置いてきてしまいました。先ほどのお兄さんが追いついてきました。早いですね。道を譲りました。この付近には硫黄の臭いが漂っています。溶岩ドームから落ちてきたと思われる大きな岩も多数あります。小さな木もありますが、草と苔が広がっています。思わず滑って、カメラを守るために手をついてしまいました。私はコロナ対策で常に100均で買った手袋をしていたのですが、その手袋が小さく裂けてしまいました。手袋を左右取り替えました。当分は持ちます。この付近が溶岩ドームに一番近く、ドームが迫り出して見えます。 さらに進むと、北東の下側を廻るお花畑コースとの分岐点に着きました。そこからは風不死岳方面への縦断もできるようです。先ほどのお兄さんが遠くに見えます。そのすぐ先に例の4人組が小さく見えました。東山を通ってお花畑コースに廻ったようです。話し声が山間に響いています。私は右手の東山への登りを進みました。結構な距離感があります。東山山頂がかなり遠くに見えます。足は大丈夫でしょうか? 後ろを見ると、支笏湖、羊蹄山、そして風不死岳の全景が見えます。石に腰掛けたりしながら休み休み登山です。 途中、年配のおばさんが、お湯を沸かしていました。コーヒーを淹れているようです。慣れた手つきを感じました。挨拶をして、私は進みました。またもや結構な登山となりました。先ほどのおばさんが杖をついて登って来ました。早いですね。何故か焦ってしまいます。溶岩ドームが割れているのが見えました。中央に煙も立ち上っています。逆光ですが、迫力があります。左手遥か下には駐車場が見えました。 |
外輪山を廻る |
|||
この辺りは硫黄の臭いが |
||||
大きな岩が |
||||
支笏湖方面 |
分岐点から見た風不死岳 |
風不死岳に至る分岐点 |
迫り出して見える溶岩ドーム |
|
お花畑コースを遠景 |
東山山頂に着いたのが14:40でした。樽前山1,022mの標識がありました。小さな石が多数積んであります。大きな岩に腰掛けて休憩。先ほどのおばさんが通り過ぎていきました。休憩不要のようです。オレンジ色の服のお兄さんもやってきました。どこまで行って戻ったのでしょうか? 風不死岳に行ったのかと思っていましたが、932m峰まで行って戻ってきたようです。 撮影をしながら、ゆっくりと下りました。小さな砂利が滑ります。途中、軽く尻餅を付いてしまいました。杖があると良いですが、カメラがあると難しいですね。お兄さんは、慎重そうですが、どんどん先に行ってしまいました。おばさんの姿は見えません。何とか最初の分岐点に着きました。外輪山を一回りしたことになります。時刻は14:55でしたので、約4時間経っていました。一帯には人の姿はありません。何故か取り残された感があります。 さて、下山ですが、砂利道は良かったのですが、段差がある段は後遺症が残る体には辛いですね。何度も休みながらの下山となりました。人の気配はまったくありません。眼下には少し色濃くなった支笏湖が広がっています。気温も下がってきました。誰もいなくなった世界に取り残された雰囲気を感じました。すると、山を登ってくる人がいました。これから登るのか、凄い! さらに降りて行くと、さらに急ぎ足で登ってくる人とすれ違いました。驚きました。何とか駐車場に着いたのは、15:35でした。約4.5時間の登山行となりました。記帳台は閉まっていました。駐車場には車が6台駐まっていました。道路には駐まっていません。ヒュッテがありますので、何人が山に残っているのかは不明です。トイレを借りて、家から持参した珈琲を飲んで、出発です。給油をして家に着いたのは17:15になっていました。さすがに疲れましたが、車の運転は何の問題もありませんでした。冬が近づいていますが、このタイミングで登ることができたのは幸いでした。 |
|||
東山が遠くに見える |
||||
もうすぐ東山山頂 |
||||
東山山頂に着いた |
溶岩ドームの中央が割れている |
支笏湖を見ながら下る |
記帳台は閉まっていました |
|
ページのトップへ |
139 太田神社遠望と「苔の回廊」(2020年8月11日) |
常篭灯 |
奥尻島を望む |
常篭灯から太田神社奥の院を望む |
太田神社拝殿から奥の院を望む |
|
■世界中がコロナ禍の影響を受けています。アメリカを筆頭として、お粗末な政治主導者ばかりが世に憚っています。どうしてこんなことになってしまったのでしょうね。かくいう日本の政治家たちもお恥ずかしい限りです。これは、アメリカ主導のグローバル経済が引き起こした「さが」なのでしょうか? ■2020年7月初旬、仕事で函館方面に行きました。8日の夜は、湯の川のホテルに泊まりました。コロナ禍のなか、バイキングでの夕食と朝食でしたが、マスクをして、バイキング料理を皿に取るときは、備え付けのビニル手袋を付けるという徹底ぶりでした。従業員の方々も皆さんマスク姿です。フェイスガードをしている人もいます。その前の月、旭川のホテルで泊まった際は、従業員がすべてフェイスガードをしているという異様な雰囲気がありましたが、ここはレストランも広く、それほど不安感は覚えませんでした。大きなホテルでしたので、浴場も広く、安心して宿泊することができました。 翌日は、函館の仕事帰り、乙部町の宿泊施設に泊まりました。数年前に改装したばかりでしたので、とても綺麗な施設でした。部屋の床がフローリングというのも良かったですね。しかも浴場が二つあり、日帰り客主体の大浴場と宿泊者専用の浴場に分かれていました。その上、私は宿泊者専用の浴場に入ったのですが、露天風呂もある温泉で、入ってから出るまで誰も入ってこないという幸運に巡り会えたことです。掛け流しのため、高温になった場合、水を入れる蛇口を頭から押さえるため、下駄状の加工した板材の上にレンガが縛り付けられていました。カメラを持って行かなかったことが悔やまれます。いい湯でした。 ただ気になったことは、ここの施設の従業員は、どなたもマスクをしていませんでした。顔を近づけてくるのですが、目立って拒否の姿勢を見せるのは憚りますしね。困ったものです。夕食は、レストランでの立派な旅館食でした。それもなかなか凝った料理で、とても美味しかったのですが、それほど広くないレストランで、私は一番奥の隅に席をあてがわれたのですが、間もなく団体客が入ってきて、私の後ろで騒ぎ始めました。レストランの一方はほとんど空いているのですが、何故か固まった領域に入ってしまった次第です。頼んでいたお酒もゆっくりと嗜むこともできず、早々に立ち去ることにしました。 |
鳥居を遠望 |
|||
奥の院を遠望 |
||||
苔の洞門 2010年撮影 |
||||
苫小牧方面から樽前山と風不死岳 2019年撮影 |
支笏湖の全景(Googlemap地図を基に加筆) 支笏湖を挟んで北西側に恵庭岳、南側に風不死岳、その南東に樽前山 風不死岳の両裾に「苔の洞門」と「苔の回廊」があります 恵庭岳の西側には美しい「オコタンペ湖」/千歳市は東側 <画像をクリックして拡大> |
|||
紋別橋の楓沢から降りる |
||||
紋別橋の下 |
||||
今は枯れた沢道を歩く |
■夜は、エアコンも付けず、ゆっくりと8時間も寝ることができました。朝風呂に行くと、宿泊者専用の風呂は閉まっています。大浴場に入ることができました。空いていましたので、露天風呂にも入りました。しかし、朝食は、昨夜と同じテーブル位置でしたので、止むなく団体客の食事が終わるまで、ロビーで新聞を読んで待っていました。従業員は、どなたもどこでもアスクをしていません。良い旅館と思いましたが、心残りとなってしまいました。これは感覚の違いなのでしょうか? 今年は、昨年の心残りとなっていた、せたな町の「太田神社奥の院の遠景」と「常篭灯」を見ることです。昨年は、現地に着く直前に忽然と滝のような雨が降り出したため、諦めたことがありました。乙部町の宿泊施設から20数キロ先にあります。とても晴れた空気感のなか、左手に日本海を眺めながら、奇岩が続く海岸線を走りました。時々、車一台が通るのがやっとに近いところもありますが、奇岩の美しさと海の透明感が素晴らしい景色です。奥尻島も近く見えます。海外からの観光客が余り来ない北海道の絶景の一つだと思います。 本当に小熊を助けようとしている母熊と小熊に見える「親子熊岩」を過ぎて、長いトンネルと抜けると左手すぐに「太田神社拝殿」がありました。一瞬で、通り抜けてしまいそうになります。車を駐めると、先客が帰るところでした。「常篭灯」は、拝殿のすぐ裏にありました。ここからも太田山方面が遠望できます。反対方向の日本海側には奥尻島も見えます。まずは、拝殿で参拝。 車に戻り、超望遠ズームレンズ(TAMRON SP 150-600)を持ってきて装着。双眼鏡で「太田神社奥の院」を探したのですが、見つかりません。カメラの超望遠レンズでも見つかりません。らしきところを撮影してみました。後から画像を確認しようと考えたのですが、思い直して車に戻り、PCを起動してネット検索をしてみました。これが正解でした。奥の院は考えていた方向と大幅に右にずれていました。改めて双眼鏡で探してみると、ありました。奥の院がうっすらと見えます。「北尋坊の崖」の鎖輪らしき崖からの垂れ下がりも見えました。しばらく撮影をした後、車に戻り、車で鳥居の前まで来てみると、オートバイと車が一台駐まっていました。登っているようです。頑張って、気をつけてください。結局、一時間以上の長居となってしまいました。 ■今金経由で長万部方面に出ました。豊浦から洞爺湖のトンネルを通り、洞爺湖を左手に観て、北湯沢に向かう道に入りました。今日は、仕事はありません。寄り道をしながら帰るだけです。途中で食事をしようと考えていたのですが、昼食を食べる時間が勿体なく、面倒に感じましたので、大滝のコンビニで昼食サンドイッチにしました。朝、自分で淹れたコーヒーをポットに入れてきました。最高のひとときです。 |
|||
倒木が道を遮っています |
||||
階段状になった丸太がありました |
||||
二股があったので道の道へ |
||||
一旦戻り左の沢道を |
倒木の沢道が続く |
少し景観が変わってきた |
倒木を潜りながら |
|
横山旅館という名湯があった北湯沢温泉を過ぎて、支笏湖からモーラップ方面に入りました。大型観光ホテルができて、北湯沢温泉もすっかり姿を変えてしまいました。鄙(ひな)びた雰囲気の横山旅館でゆっくりして、川筋にあった温泉噴き出し口での温泉たまごが美味しかった思い出があります。支笏湖を左手にみて「苔の洞門」を過ぎました。苔の洞門は、現在は完全に駐車場も含めて閉鎖されていました。 日本三大河川の一つである「石狩川」は、かつては北海道を縦断して太平洋に流れ出ていました。しかし、約4.4万年前に発生した巨大噴火により堰き止められ、現在のように石狩から日本海に流れ出るようになりました。その時の支笏火砕流の総噴出量は139万キロ立方mといわれています。その結果、陥没して生まれたのが支笏カルデラであり、そこに水が溜まり古支笏湖が生まれました。7〜6万年前にシベリア、サハリンを経由して到達していたといわれている北海道の旧石器時代人に多大な影響を与えたと思われます。 古支笏湖は円い形をしていたのですが、カルデラの北西部に恵庭岳(標高1,320m)、南部に風不死岳(フップシダケ、標高1,102m)が噴火によって生まれ、現在のようなくびれた形の支笏湖になりました。二つの山とも、幾度となく噴火を繰り返し、恵庭岳では約1万5千年前にプリニー式噴火が起こり、約10キロ立方mの火山灰や軽石を噴出したと推定されています。さらにその後、約9千年前に風不死岳の南東側に噴火があり、樽前山(タルマエザン/タルマイザン、標高1,041m)が生まれました。約1万数千年前に本州から渡ってきた縄文時代の人々を驚かさせたものと推察されます。樽前山はその後も噴火を繰り返し、1909(明治42)年の噴火で巨大ドームを持つ三重式火山の姿となりました。現在も活動を続け、外輪山の内側には進入禁止となっています。風不死岳では、約8千5百年前にマグマ水蒸気爆発、約4千5百年前には水蒸気爆発が起きたと推定されています。支笏湖は日本最北の不凍湖としても有名です。支笏湖の北西には、北海道三大秘湖の一つといわれる私の大好きな美しい「オコタンペ湖」があります。 樽前山が噴火したときに流れ出た溶岩が、沢水等により浸食された回廊状の渓谷に、約80種類といわれる苔が密生して生まれたのが「苔の洞門」です。20年以上前に行ったときは、かなり奥まで探索可能だったのですが、2001(平成13)年の岩盤崩落により洞門内に入ることができなくなりました。私が訪ねた数年後だったと記憶しています。回廊を覆うように巨大石が引っかかっていたところがあり、その下を通った時は不安を感じたものでした。その後、入口付近に観覧台が設置され、洞門を覗うことが可能だったのですが、2014(平成26)年の大雨の影響により、完全に閉鎖されてしまいました。復旧の目途は立っていません。 |
さらに景観が変わってきた |
|||
苔むした岩肌が |
||||
倒木の上を歩く |
||||
苔の回廊になりました |
||||
進む |
さらに進む |
苔の回廊を進む |
尖った倒木の下を潜る |
|
苔むした回廊が続く |
その「苔の洞門」と同じような景観が「苔の回廊」です。風不死岳と樽前山を登山する人たちの間では密かにブームになっていると聞いていました。 ■支笏湖畔の国道276号線のロープが張られた苔の洞門の駐車場を過ぎて、目指すは「紋別橋」です。ゆっくりと走ったのですが、なかなか見つかりません。どうも通り過ぎてしまったようです。一度、戻ってみようと道の広いところでユーターンしかかったのですが、思い直して先のモーラップ方面に進みました。正解でした。すぐに紋別橋がありました。その先の山側に駐車可能な場所がありましたので、車を入れたのですが、林道の入口でした。これは駄目だと思い、さらに先に進むと「樽前橋」があり、その横に車が一台縦に駐めることが可能なスペースがありました。ゆるやかなカーブにありましたので、出るときは注意をしなければなりません。 200〜300mを歩いて、紋別橋に付いていた標識「楓沢(かえでさわ)」から下に降りました。カメラとリックに水筒を忘れる訳にはいきません。乾いた砂道が樽前山方向に続いています。雨が降れば流れる川になるのかも知れません。足跡が続いています。幾多の倒木が川筋を遮っています。虫が多いですね。暑く、汗をかきます。熊よけの鈴を忘れて来ましたが、時期的に不要と思いました。ここは熊が多いところです。両側の壁には苔の姿はほとんど見えません。しばらく進むと、コンクリートの堰がありました。1m近い高さがあります。右手に切った丸太が立ててあり、台のようになっています。助かりました。 さらに進むと、道が二股になっていました。登りの右手を行ってみましたが、途中で間違いと気づきました。左手は広く、異なるような気がしたのです。右手をほぼ登り切ったところに、崖を降りた跡がありましたが、これは危ないですね。枝分かれをしていた左手の沢が見えます。一旦戻り、左手の沢を進みました。場所により、倒木の上を歩く必要があります。倒木の枝が尖っていて危険な箇所もあります。しばらく進むと、両壁面に苔が密生しているところが見えて来ました。苔の洞門を思い出すような景色です。なかなか良い景観が続きます。倒木が多く、その下を潜ったり、倒木の上を注意して歩いたり、10分ほども歩いたでしょうか? しばらく進むと、行き止まりに縄が張ってあるところに出ました。その奥は、角張った巨岩がいくつも横たわっていて、すべて苔むしています。後で調べると、左手にロープ伝いの第二の回廊があるとのことです。まあ堪能できました。 紋別橋に戻るまでに、合計で一時間以上掛かりました。車に戻る国道を歩いていると、右手の藪が「カザっと」騒ぎました。さすがに、ドキッとした次第です。鹿か何かなんだろうと思います。駐車場らしき場所もありませんが、静かな景観を楽しむには良いと思います。熊よけの鈴は忘れませんように。 |
|||
深淵な雰囲気があります |
||||
誰もいません |
||||
大きな岩も苔むしている |
||||
行き止まりに来ました |
左手を登ると第二の回廊が |
大きな苔むした岩 |
回廊を戻る |
|
ページのトップへ |
138 樽前ガローと太田神社(2020年1月7日) |
樽前ガロー/最初の降り道 |
最初の降り道/下から |
樽前ガロー/二つ目の降り道 |
樽前ガローにて |
|
■昨日(2020年1月6日)の夕方、テレビのスィッチを入れたところ、いきなり北海道せたな町にある太田神社本殿の北尋坊の崖にぶら下がる鉄輪の映像に驚きました。テレビ局の人が命綱を付けて鉄輪を登る瞬間でした。 ■2019年6月18日、道南に仕事に行ったついでに、苫小牧にある「樽前ガロー」に行ってみました。少し前に雑誌の写真を見て興味を持ったからでした。苫小牧市内の仕事が終わったのが14時半ころ、そこから10数キロ先の樽前山麓にある景勝地です。新緑の6月が一番美しいと聞いていました。ガローとは切り立った崖の間を流れる川という意味ですが、その名称を冠したところは、日本各地の地図上でも複数みることができます。少し先には、日本の滝100選に選定されている落差約44mの「インクラの滝」がありますが、現在は落石等のため立ち入り禁止となっています。 国道に案内板があり、その先にも案内板がありました。先に情報を得ていた場所に着くと、広くなった場所に車が駐まっていました。事前調査で調べた景色の所です。川が左手です。地図には出ていない左側の道を車で進むと、すぐに川まで降りる場所らしきところが見えましたので、一旦車をバックで戻して、車が駐まっていた広場に車を駐めました。そこで、長靴に履き替えて、軍手を装着、カメラを持って、歩いて先ほどの場所まで行ってみました。足下が悪い傾斜ですが、ロープが張ってありました。二人の男女が下に降りていました。男の人はスボンをまくり上げて、ハダシのまま川中にいました。その人から、撮影スポットはどこかと聞かれましたが、私も分かりません。川中を少し歩いていると、携帯に電話が掛かってきました。 1667年といいますから、四代将軍徳川家綱の時代、樽前山の噴火による火山灰が川の浸食で削られて、切り立った崖面の景観ができました。その崖の所々に苔が張り付き、不思議な景観を見せてくれています。わずか350年程度で、これだけ浸食してしまうのですね。1663年の、文献記録に残る最大規模の噴火が、50km離れた有珠山でも発生しています。その時の噴火は、プリニアン噴火だったと想定されていますが、あのポンペイを埋没させた噴火もプリニアン噴火だったといわれています。当時の道南地方の火山活動はかなり活発だったようです。 車に戻り、先に進んでみました。草が生い茂り、車の側面に当たります。先に進み、右手の分岐点に構わず、行き当たりとなったところで、車を駐めて、川まで降りてみることにしました。人が降りた雰囲気がありますが、ロープもありませんので、注意!注意!です。川筋まで降りてみましたが、先ほどの景色の方が良かったかも知れません。車に戻り、来たときに見えた分岐点を左に曲がると、すぐに大きな道に出ました。険しい道を進んだ割には、ちょっとあっけない感がありました。 その日は、室蘭泊です。天気が良かったので、地球岬を望んで、翌日は、函館手前の南茅部の温泉を満喫して、その翌日、函館の仕事の後、せたな町にある「あわび山荘」に宿泊をする予定です。あわび山荘に泊まるのは初めてですが、アワビを満喫したかったのと、近くの太田神社に挑戦するのが目的でした。 |
樽前ガローにて |
|||
樽前ガローにて |
||||
室蘭地球岬 |
||||
せたな町の親子熊岩 |
||||
鳥居横の案内板 |
拝殿の句碑 |
太田神社本殿への鳥居 |
鳥居横の狛犬? |
|
石段を登る |
拝殿から本殿に登る鳥居を見る |
拝殿から本殿を遠望 |
||
石段の上の鳥居が見えてきた |
狭い石段 |
|||
鉄製の梯子 |
■6月20日の夕方、途中の道の駅/厚沢部でトイレタイムをしたのですが、トイレの横で大胆に着替えをしている老夫婦がいました。かなりの高齢です。車中泊のようです。車は春日部ナンバーでしたが、大丈夫かなと心配になりました。余計なお世話かも知れませんが、ちょっと危険な感がありました。人目をはばからず、着替えをするのもちょっとどうかなと思いました。最近は、車中泊に厳しい目を向ける考え方もありますので、節度は守ってもらいたいものです。 あわび山荘手前10km程度のところで、「親子熊岩」がありました。何度も来ていますが、本当に溺れそうな小熊を助けようと必死な母親熊の姿が岩に刻まれています。火山活動による凝灰岩が幾多の自然の浸食や風化によりこのような彫刻を生み出したことに驚異を覚えます。あわび山荘の温泉は、なかなか情緒がある茶色い温泉でした。露天風呂も雰囲気がありました。浴槽の下には泥?が溜まっています。浴槽を出ると、おしりがすっかり黄色くなっていました。食事はアワビ三昧です。冷酒を頂きました。後日分かったのですが、あわび山荘は2019年の10月で宿泊対応を止めたそうです。日帰り入浴だけの施設になってしまいました。残念なことです。 ■翌日は、午後からの仕事です。その前に、太田神社登山を目指します。朝から温泉に入り、朝食でサラダをたっぷりとご馳走になりました。あわび山荘を8:27に出発。太田神社に向かいました。途中、雨がパラついてきました。それは、問題です。どしゃぶりでは、太田神社登山は無理でしょう。海岸線の太田神社の鳥居前に8:45に着きました。道路縁が広くなっている程度の駐車場です。誰もいません。案内がありました。見ると、拝殿を通り過ぎて来てしまったようです。振り返ると、来た道の帆越山トンネルを出たすぐの海岸線に拝殿が見えます。1kmもありません。行ってみることにしました。実は、その看板に@円空仏保管施設A太田神社拝殿B定灯篭と出ていたのですが、その時は定灯篭の意味を理解していませんでした。 拝殿の横に来ました。キャンプ場にもなっているらしくコテージもあります。円空仏の説明書きもあります。阿弥陀如来、十一面観音、勢至菩薩の三体の仏像が保存されているようです。ただ、説明書きをよく読むと、太田山の本殿の岩窟に円空が彫ったといわれていた多数の円空仏とその後の木食行道も彫った作仏がかつてあったそうですが、大正11年1月に参籠中の行者の火の不始末により一山火災で焼失してしまったそうです。その後、大成町(せたな町に合併する以前の一つの町)町有林の杉材で丹生川村の円刀会に依頼して製作したものが現在保存されているようです。拝殿がありました。鳥居を潜ると、松浦武四郎の句がありました。 太田山 太きくさりの一筋に 頼まざらめや 君の恵みを 太田山の神社由来もありました。創立は室町時代と伝わります。松前藩祖の武田信広が1454年に太田山大権現の尊号を賜ったとの記録があります。もっともこの武田信広自体、南部氏、安東氏の争いの中から北海道に渡り、そして蠣崎季繁の婿養子になり、蠣崎姓を名乗るなど、あるいはアイヌとの戦い(コマシャインの戦い)に制することから松前藩の礎となった経過など、詐称を含めた謎の部分が多い人物です。拝殿で参拝をしましたが、祭神は猿田彦大神です。当初は太田権現を祀っていたのですが、明治の廃仏毀釈で神社となり、猿田彦大神を祀るようになったようです。拝殿は、太田山山腹の本殿の方向を向いているようですが、双眼鏡でも分かりませんでした。後で調べると、拝殿から見て黄色のマークをしたところにありました。 |
|||
ロープを伝って |
||||
登る |
||||
さらに登る |
||||
仏像がある |
さらに登ると |
女人遙拝堂 |
また登る |
|
■鳥居前に戻り、登山の準備です。登山用の靴に履き替え、リュックにお茶と手帳、そして軍手、カメラはα900を持ちたかったのですが、重たいので諦めてデジカメDSC−HX7Vにしました。先日来痛めていた脚の調子はなんとかなりそうです。立ち上がるとしびれ感が残っていますが、痛みはありません。ふくらはぎに無力感があったのですが、大丈夫そうです。今朝の温泉の水シャワーが効いたかも知れません。雨は上がったようです。傘やステッキは邪魔になると思い持っていきませんでした。 鳥居の前に小さな狛犬?が二対ありましたが、かなり劣化していてどうも分かりません。鳥居からいきなりの石段です。傾斜角45度に近いそうですが、問題は踏面がとても小さいことです。かかとの後ろ半分が完全に出ます。ロープが2本あります。ロープを持っていなければ転げ落ちてしまいそうです。結局、その後も、本殿まで、ロープをほとんど持ちっぱなし状態でした。139段といわれる石段の上にも鳥居がありました。見返すと凄い急峻ですね。そこからは完全に登山になりました。三徳山投入堂を思い出します。途中、鉄製の梯子もありました。木の根を掴んだり、足場にしたりのところもあります。鳥の鳴き声だけが聞こえます。人の気配はまったくありません。熊はいるかも知れません。 しばらく登ると、岩の下に仏像が数体置かれていました。ブロックの賽銭台がありましたので、お賽銭を上げて拝礼。この辺は修験道の名残でしょうか? そこからの登山は、ガレ場までは行きませんが、小さな礫石が多く、足下が滑ります。ロープがなければ転んでしまいそうです。女人遙拝堂が見えて来ました。ここでもお賽銭を上げて拝礼。ここで半分程度でしょうか? 案内がないので分かりません。まあ観光地ではないということでしょう。礫石がますます多くなって歩きづらいですね。汗をかきますので、給水が大事です。これは三徳山投入堂より厳しい登山ですね。しばらく登ると、鳥居とその手前に梯子が見えて来ました。梯子を登るのかと思ったのですが、違うようです。雰囲気が変わってきました。 少し石段を登ると、ネットが張ってありました。その先は、さび付いた鉄骨と抜け掛かったような金属製のメッシュが繋がった橋でした。橋は崖面に張り付いた状態です。ところどころ桟木を使ってメッシュを針金で止めてあります。そして、その下はもちろん崖下です。かなり危ないですね。ここで落ちたなら、誰も助けには来てくれないでしょう。とはいえ、ここで止めるわけにはいきませんので、橋を進むと、先端に鉄の鎖輪がほぼ垂直に数本垂れ下がっていました。写真でみた恐ろしいやつです。7mほどあるそうです。ここに手と足を掛けながらよじ登らなければなりません。体は完全に崖に投げ出した状態になります。「北尋坊の崖」にぶら下がる鉄輪に着いたのでした。 勇気を出して体を投げ出すことにしました。どの鉄輪が登りやすいかどうかも分かりませんでしたので、左の2本を利用しました。登りづらいですね。体が崖の上でゆらゆらします。足も掛けづらいですね。本当によじ登る感じです。途中の岩の出っ張りが大変です。頑張ってよじ登ると、3段程度の石段がありました。何とか登り切ることができました。小さな岩屋のなかの本殿です。小さな鳥居があります。ペットボトルやお酒がたくさん置いてあります。ちょっと無残ですね。ペットボトルは持ち帰るべきでしょう。お賽銭を上げて拝礼。休むところもありませんので、崖の頂部の石段に腰掛けて給水です。少し達成感があります。遙か彼方には拝殿が見えました。下を見ると恐ろしいですね。石段の横には石棒風のものが屹立していました。 |
礫石で登り辛い |
|||
何とかさらに |
||||
登る |
||||
また登る |
||||
ここを登るの? |
大丈夫か? |
橋を渡る |
崖に掛かる橋が見えた |
|
岩屋の本殿に着いた |
■時計を見ると、10:05でした。登るのに1時間ほど掛かったようです。さて、戻らなくてはいけません。10分ほど休憩して、鉄輪を降りました。ここでも覚悟がいる瞬間でしたが、降りる方が少し楽でした。メッシュの橋は滑るのでかがみながら、注意をして渡りました。鳥居の前で拝礼をしたのですが、少し足が笑っています。ふくらはぎの状態は大丈夫そうです。普通は降りる方が楽なのですが、ここは違いました。最初はロープを使いながら、下を向いて降りて行ったのですが、急なため、不安定なので、横向きに、そして最後には登るときと同じ状態で降りることになりました。こんなことは初めてです。特に礫石は滑るので大変です。三徳山投入堂より厳しいのは間違いありません。雨が降らなくて助かりました。 しばらく降りて、木の根伝いに降りたところで、岩を掴みながらそのまま降りたのですが、どうも雰囲気が違います。通った記憶がありません。このまま降りると、崖伝いになりそうです。戻ってみることにしました。登っていくと、少し登り加減の異なる道にロープが見えました。危ないところでした。事故はこんなところで起きるものです。確かに、登って来たときに、一度、降りかけたところがありました。さらに降りると、鉄製の梯子、そして石段が見えて来ました。石段も慎重にロープを使いながら降りきることができました。11:05でした。 降りると、あわび山荘で同宿だったおばさんの二人連れがいましたので挨拶。結局、登山に65分、休憩10分、下山に50分の登山でした。登りは、ところどころで撮影をしながらの登山でしたので、まあ予想通りの合計2時間の登山でした。大汗をかいてしまいましたので、下着も含めて着替えです。スボンには、鉄輪での錆があちこち付いていました。ここからは、仕事でニセコ方面を経由して、余市方面に出て、新しく繋がった高速道路を経由して家に帰りました。峠では、結構な雨が降っていました。それだけでも助かりました。 ■その後、8月に入って、仕事で再び函館方面に行くことがありました。その時は、熊石に宿泊したのですが、太田神社拝殿からの太田山本殿の写真が撮りたくて、超望遠レンズを持って行きました。温泉旅館を7:30ころ出発して、太田神社拝殿に向かいました。曇り空でした。雨は降りそうにも思えなかったのですが、太田神社手前、帆越山トンネル当たりから雨が降り出しました。トンネルを過ぎて、拝殿前に来ますと、土砂降りの雨です。車内から撮影を試みたのですが、無理でした。簡単には止みそうにもありません。完全に拒否されたようです。 ■9月に入ると、朝日新聞の記事に目が行きました。せたな町の「常燈籠(じょうとうろう)」の記事です。せたな町の太田地区にある燈籠ですが、1857年に安芸国の行者が奉納したという道内最古の燈籠が、何と太田神社拝殿のすぐ近くにあるというのです。知りませんでした。しかし、太田神社本殿下にある鳥居の横には「B常灯篭」の案内があったことに気がつきました。現在の灯篭は、1998年に町が復元したものですが、これでまた、行ってみる理由ができました。さて、今年の温泉はどこに泊まりましょうか? |
|||
本殿の下を見る |
||||
本殿で |
||||
遙か向こうに拝殿が |
||||
拝殿が見える |
鉄輪を降りた |
橋を渡った |
鳥居までたどり着いた |
|
ページのトップへ |
137 2015年旅の終わり(2015年12月13_14日の記録) |
■道の駅/ろくのへは良く冷えました。電気毛布が必携でした。道の駅は、ウォシュレットはもちろんなく、ゴミ処理も不可、自販機はありましたが、夜間は撤収しているのかも知れませんが、空き缶を捨てる箱もない徹底ぶりでした。停泊は3〜4台でしょうか? 他に大型が1台駐まっていました。敷地内に「旧苫米地家住宅」がありました。隣にはホームセンターがあり、向かいにGS、コンビニも近くにあります。 案内板によると旧苫米地家住宅は、六戸町において、奥入瀬川流域に現存する家屋のうちでは最古とされる苫米地勲氏の住宅とのことです。史料はなく、建築手法から江戸時代後半の建築と推測されているようです。当初は六戸町大字柳町字柳町にありましたが、平成4年に六戸町指定有形文化財に指定され、平成17年に現在に移築保存されたとのことでした。 ■大間フェリータミナルに向かいました。ナビは内陸経由を示していますが、東海岸を経由することにしました。三沢に向かったのですが、昨夜は霜が降りたため、田園風景が白く霞んでいます。海岸は遠望する程度です。六ヶ所村を通り、尻屋崎に至る道を横目に見て進みました。2009年は、この辺りから雪模様となりましたが、道路脇に時々残雪が少し見える程度で、晴れていて良く乾いています。途中、何度か海岸線を撮影しながら、2009年に入った下風呂温泉の横を通りました。 約150kmの道のりでしたが、何の障害も無く、何と、大間フェリータミナルに10:24に着いてしまいました。予約していたフェリーの出港は14:10ですので、4時間近くもあります。間もなく、乗る予定の大函丸が大間に入ってきました。地元の女性陣が、旗を持って歓迎しています。いつもの光景なのでしょうか? 少し大間の街中を流すことにしました。マグロ丼はあまり食べたい気が起きません。ラーメン屋さんがあったので、そこに入りました。昆布ラーメンの大盛りを注文したのですが、全然、美味しくありませんでした。 行くところも無くなり、12時ころには、フェリーターミナルに戻りました。12:30から発券するとのことでしたので、しばし、車でテレビを観て待っていました。待機場には、乗用車が2台と大型が1台駐まっています。発券には車検証が必要でした。しかし、入庫は13:40からです。またまたしばし待つこととなりました。 ■13:40きっかりに、入庫が始まりました。出航は、予定通りの14:10でした。風邪の具合は余り良くなく、休息日となった感があります。船内ではデータ整理など。函館に着いたのは15:40です。一気に家に帰ることも可能ですが、道の駅/しかべ間歇泉公園に向かいました。しかし、秋には登録予定との情報を得ていたのですが、まだ建設前の道の駅でした。後で調べると、11月に登録したのですが、オープンは翌年3月の道の駅でした。 少し戻って、道の駅/縄文ロマン南かやべに行くか、少し先の道の駅/つど〜る・プラザ・さわらに行くかです。まあ、戻る選択はあまり考えられなく、先に向かうことにしました。その前に食事と、温泉です。鹿部間歇泉は、かつては、道路脇から見えたのですが、間歇泉を建屋で囲ったため、観ることができなくなっています。。そこまで囲う必要があったのでしょうか? 200〜300m程度離れた近くの太田食堂(鮨政)に行ってみました。普通の食堂の感じです。1,200円の海鮮丼を注文したのですが、これは値段以上、豪華な海鮮丼でした。店内に鹿部の温泉のパンフがありました。この近辺には公衆浴場も含めた小ぶりな温泉宿が多数あります。 以前に入ったこともある鹿の湯に行くことにしました。すぐ近くにあります。浴槽は小ぶりですが、超熱い温泉でした。他に誰もいなかったため、少し水を足して入りました。風邪気味には気持ちが良い風呂です。入浴後、21km離れた道の駅/つど〜る・プラザ・さわに向かいました。途中のコンビニで缶ビールを買って、最後の夜を楽しむことにしました。モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなど ■2015年12月14日、今日で最終日、63日目です。夜中にトイレに行くと、大型が5〜6台エンジン音が鳴り響いていました。乗用車が他に1台駐まっていましたが、停泊には見えません。朝は、よく冷えていました。支度はゆっくりと。ゴミ処理は不可、自販機の空き缶入れもありません。ここも夜の間は撤収するのでしょうか? 体調とタイヤの減り具合を考えて、中山峠はパスをして、30〜40キロ遠回りとなりますが、太平洋岸を通り帰ることとしました。タイヤは、今回の旅の最初から履き潰すつもりで、スタッドレスタイヤを装着していましたが、減り具合が顕著になっていました。 ■自宅に着いたのが、13:27です。総走行距離15,002.3km(日平均約238km)でした。自宅では、我が家の階段吹き抜けに、妻が書いたのぼりが下がっていました。「お父さん、無事で帰ってきてくれてありがとう!」感動の一瞬でした。 |
道の駅/ろくのへにて 旧苫米地家住宅 |
|||
太平洋側を見渡す |
||||
大間フェリー港 |
||||
噴火湾にて/駒ヶ岳を遠望 |
函館フェリータミナルに着く |
函館山が見えてきた |
下北半島を後に |
|
ページのトップへ |
136 浄土ヶ浜、龍泉洞から六戸まで(2015年12月12日の記録) |
道の駅/みやこ 津波到達ラインが表示 |
■2019年が明けました。平成最後の年となりますが、国際的にも政権を担う人たちの不安定さに危惧を覚える時代です。私は、一貫してカルロスゴーンをまったく評価してきませんでしたが、まさかに逮捕されるとは想像だにしていませんでした。裁判の結果は分かりませんが、報道されることの一部でも真実だとすれば、彼は孤高の人などではなく、亡者から抜け出せない我欲の塊だったことがよく分かります。これも金融資本主義が生んだ幻を追い求める人の一つの末路なのでしょう。 私は、TPPなどではなく、最初からFTAでアメリカと堂々と交渉すれば良いと考えていましたが、TPPからアメリカが抜けたことにより、結局、元の木阿弥に戻ってしまいました。その結果、トランプに押し切られた形になりましたが、日本はアメリカとFTA交渉に臨まなければなってしまいました。それをTAGなのでFTAではないといった小手先の説明に逃げるいつもの政府の弱腰が問題なのだと思います。とくに今の安倍政権の「御飯論法」では、国際的には通用しないことを肝に銘じるべきでしょうね。アメリカとの交渉では負け続けた日本ですが、昨年のアメリカの上下院選挙結果を受けて、「歴史的な勝利でしたね」と恥知らずなおべっかを使うような日本の首相で本当に良いのでしょうか?(2018年1月6日記) ■岩手県宮古市の道の駅/みやこ、「シートピアなあど」「宮古魚市場」といった看板もあります。東日本大震災の際の、津波到達点が建物に表示されています。海岸沿いというよりも、宮古湾に迫り出した埠頭の中にありますので、大きな被害を受けたのは間違いないでしょう。「なあど」とは「いかがですか?」という意味だそうです。夜着いて、朝早く出ますので、これといったものは何もない感があります。停泊は3〜4台、他に大型車が1〜2台程度ですが、車中泊かどうかは不明です。 夜中に船の音で起きたような気がしますが、大型車の音だったかも知れません。風邪も強く、波の音も聞こえます。昨夜は、21時前に寝ましたので、9時間近く寝たことになります。風邪はかなり良くなりましたが、咳とタンが出始めたのが辛いですね。トイレには、ウォシュレットはありませんでした。、ゴミ処理も不可です。 ■「浄土ヶ浜」までは、2〜3キロの距離です。朝食を取って、7:25に出発しました。7:37に浄土浜の第一駐車場に着きましたが、2009年の雰囲気と異なりましたので、先に進みました。2009年には、夕方に着いたのですが、浄土ヶ浜の幻想的な景観にたじろいだ記憶があります。湾岸の道路は一方通行です。浄土ヶ浜の看板があるレストハウスの駐車場に車を駐めました。浄土ヶ浜が良く見えますが、どうも、ここも景色が異なります。波が強いですね。一方通行を先に進み、車で一廻りをしました。第一や第二駐車場では、それぞれ景色が異なって見えます。 |
|||
浄土ヶ浜 |
||||
浄土ヶ浜 |
||||
浄土ヶ浜 |
浄土ヶ浜 |
浄土ヶ浜 |
田老にて |
|
一旦、先ほど駐めたレストハウスに戻り、そこから歩くことにしました。工事関係者が朝礼中です。南に向かって歩いて行くと、覚えのある景色がそこにありました。工事中のような海岸沿いの遊歩道を歩いたのですが、途中、波が遊歩道まで攻めてきます。凄い波です。膝下まで波を被ってしまいました。湾岸を整備しているようですが、再び浸食を受けている姿がありました。所々で護岸が一部破損しています。遊歩道にまで、小石が転がっています。怒濤に飛ばされてきた小石です。 岩手県宮古市の浄土ヶ浜(じょうどがはま)は、国の名勝に指定された三陸海岸を代表する景勝地の一つです。約5200万年前の古第三紀に形成された火山岩が、太平洋の荒波の浸食を受けて、奇怪な景観を醸し出したところです。名前の由来は、17世紀後半の天和年間に、宮古山常安寺(曹洞宗)七世の霊鏡竜湖(1727年没)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたとする説が有力ですが、まさに不思議な景観を演出しています。機会があれば、海側からの景観も堪能してみたいですね。 ■田老方面に向かいました。ここも現在の東日本大震災の復興の姿があります。街中を過ぎると高台にスペースがありましたので、そこに車を駐めて撮影をしました。6階建てで、2階まで被災した建物がありました。ニュースなどで見た記憶があります。途中の道路は、各ゼネコンの看板を付けたダンプのオンパレードでした。私が以前勤めていたゼネコンの名前も見ました。 ■「龍泉洞」に向かいました。途中から、内陸に入ります。龍泉洞に多数の無料駐車場がありましたが、意識して土産物店の駐車場に駐めました。龍泉洞の見学は、1,000円らしいのですが、+250円で500円の買い物券が付いているそうです。ここで土産物を仕入れることにして、パック券を購入しました。龍泉洞は、新洞と合わせて二つあるらしいのですが、それぞれ750円の券が付いています。 龍泉洞に入ると、頭上から水が滴っています。波板プラスチック坂を傘状に通路状に被せているのは、水滴対策ですね。照明の効果で色を演出していますが、照明不足でシャッターが切れないヶ所が多数あります。水深が100mに近い地底湖がありました。不思議な藍色に光が点滅しています。冷たいでしょうね。最も、今は冬ですから、逆に暖かく感じるのかもしれません。 途中から、狭く急な階段を上がったり、下がったり。洞窟も凄いと思いますが、この観光施設を造った方が凄いと思います。洞窟を出ると、飲料水と表示された垂れ流しの水があるので、飲んでみました。すっきりとしています。ポリタンクに入れることも考えましたが、残り日数を考えて止めておきました。新洞は、道路を挟んだ向かいにあります。こちらは撮影禁止でした。洞窟は短いですが、多数の説明があります。 |
田老にて |
|||
龍泉洞入り口 |
||||
龍泉洞 |
||||
龍泉洞 |
龍泉洞 |
龍泉洞 |
龍泉洞 |
|
葛巻町にて |
龍泉洞(りゅうせんどう)は、日本の岩手県岩泉町にある日本を代表する鍾乳洞です。総延長は約1,200m(実際の全長は2.5km以上あるともいわれている)もあるそうです。高低差が約249mもあり、山口県美祢市秋芳洞と高知県香美市の龍河洞と共に「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられています。龍泉新洞(りゅうせんしんどう)では、土器・石器などが多数発見されています。2016年の台風10号の影響で、洞内から水が噴き出す映像がニュースで流れましたが、その後、復旧はどうなったでしょうか? ■さらに内陸を経由して北に向かい、岩手県の葛巻(くずまき)町に向かいました。葛巻町は、北緯40度に丁度位置する町です。ペレット発祥の地ということでしたが、「ミルクとワインとクリーンエネルギーのまち」のキャッチフレーズもあります。何故か、ピンクの帯が建物の外装に目立ちます。どういう意味でしょうか? バイオガスなどの新エネルギー発電で、電力160%以上といいますから、素晴らしいですね。 ■東に向かい、久慈市に向かいました。途中、2009年に寄った琥珀美術館の看板がありました。その際停泊した道の駅が街中にありました。朝ドラで有名になった小袖海岸に向かってみましたが、海岸線の道路は工事中です。迂回路があり、そちらに進んだのですが、どんどん離れて行きます。超迂回路でした。今回の度の最後の狭隘路となりました。不親切な案内ですね。 途中、諦めて戻ろうかなとも思いましたが、しばらく走り、小袖海岸に着くことができました。オレンジ色の服を着た人が駐車案内をしています。今日は、土曜日のため案内があるようですが、余り観光客の姿はありません。波が高く防波堤には行けないそうです。海女の実演は無理ですが、海女センターの屋上には無料で行けるとのことでした。途中にあったサケなどを干しているのが豪華ですね。カモメなどの海鳥も凄い数です。確かに波はとても高いですね。 ■ここから、一気に六戸へ向かいました。2時間近く走って、暗くなってから六戸に着きました。一旦、道の駅/ろくのへに寄って見ましたが、何もなさそうです。外気温は5度前後です。六戸温泉は近いので、まず食事です。向かいにローソンがありましたが、ファミレスをナビで調べると約7km先にイオンがあり、そこにガストがあるようです。しかし、ガストがあればイオンのことですし、他の店もあるだろうと思い、向かってみることにしました。 やはり、ガストの隣に北泉という和風の店がありました。そこで生姜焼き定食を注文して、データ整理など、しかもモバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなどもしました。その後、六戸温泉に向かいました。六戸温泉は、旅館の奥にありました。かつての公衆浴場の雰囲気です。広い浴槽(正確には二つに分離)とさらに水槽がありました。すべての浴槽で、ものすごい勢いで、源泉を垂れ流しになっています。もったいないくらいです。気持ちが良いお風呂でした。道の駅に戻ったのが20時半頃でしたが、モバイルルーターが繋がりません。今日は電気毛布をセットして寝ることにしました。 |
|||
小袖海岸に向かう |
||||
小袖海岸 |
||||
小袖海岸 |
小袖海岸 |
小袖海岸 |
小袖海岸 |
|
ページのトップへ |
135 毛越寺、中尊寺、碁石海岸(2015年12月11日の記録) |
■震度7を記録した9月6(木)午前3時8分の地震ですが、未だその影響を計り得ない段階といえます。その前日の台風21号に続く、自然の猛威に戦慄を覚えたというのが正直な気持ちです。 強烈な振動音と揺れにまず目が覚めました。ベッドから起き上がり、何をすることもできませんでした。まもなく携帯の警告情報が流れましたが、意味をなしていません。我が家が住む地域では震度5強程度を記録したようです。瞬時に停電となり、棚の上にあった本類が落ちたり、固定していなかった棚が移動したりの被害はありましたが、多くの棚類は壁に固定してあったため、倒れたりすることはありませんでした。PCに繋いでいる無停電装置のビープ音を止めて、体の揺れの余韻が残ったまま、4時頃には片付けが終了しました。 今回の地震でもっとも影響を受けたのが「電気」でした。我が家では水道も止まりませんでした。しかし、生活における電気の重要性を改めて知らされる結果となりました。電気が復旧したのは9月7日の夜20:22です。約41時間の停電でした。北海道内の過半の電気が復旧したという9月7日朝には我が家が復旧していませんでしたので、我が家がその過半にも入っていないことも認識できました。別に非難をする気持ちはまったくありません。冷蔵庫は、24時間程度は電気が止まっても有効だということも知りました。 私は車中泊での旅行を趣味としていますので、バッテリーやインバーターのサブ電源、ランタンや工事関係で使用する多数の強力な懐中電灯を所持しています。買い置きの水やカップ麺などとともに、それらを有効に活用することができました。電気がないので、メインのPCを使用しませんでしたから、仕事もせず、時々繋がるモバイルルーターでのメール確認以外は、ラジオを聞いて過ごす時間の長かったこと。。。日中は本を読んでいました。それと、電気がほとんどついていない星空の綺麗だったこと。。。 大きな被害を受けたのは、母が住むマンションでした。7階建てのマンションなのですが、7階のためか大きな揺れとともに、給湯タンクに繋がる配管が破断したため、多量の水が流れ出てしまったことです。たまたまその日は、母がマンションにいなかったため、地震があった日の昼頃、私が確認をしに行って見つけたのです。既に、管理人さんが閉栓をしてくれていました。多くの部屋で同様な事態が起きたようです。下の階の方にも迷惑をお掛けしてしまいました。 ■経済産業省のホームページを見ると、 【停電の原因】は、 「需給の大半を占める火力発電所が密集するエリアでの地震により、火力がトリップしたことによる供給力の不足」 と出ています。要するに、送電のシステムに欠陥があり、メインの発電所が停止したことにより、すべての発電所が停止してしまったことだといえます。結果、他の火力発電所ばかりか、水力も太陽光・風力などの新エネルギーの発電も停止してしまいました。経済産業省のホームページには、新エネルギー関連の情報がほとんど出ていませんが、何か作為的なものを感じてしまいます。 しかも、誰とはいいませんが、泊原発の再稼働を唱える人たちまで現れてしまいました。馬鹿な理論といえます。この状況で、もし泊原発が動いていたならばと考えると空恐ろしくなります。もっといえば、泊原発の近くで地震が起きなかった、あるいはこれからも起きないといった安全神話などどこにもないからです。送電システムの再構築とともに、新エネルギー発電の推進を改めて考えるべきでしょう。 |
毛越寺 |
|||
毛越寺 本堂 |
||||
本堂 薬師如来像 |
||||
毛越寺 南大門跡と大泉が池 |
||||
毛越寺 遣水 |
開山堂 慈覚大師像 |
毛越寺 開山堂 |
毛越寺 本堂 |
|
毛越寺 常行堂 |
■私は遭遇したことはないのですが、『車中泊禁止』を謳う道の駅が出てきたそうです。車中泊の駐車場だけが少し離れたところに設定されている道の駅はいくつか経験しましたが、完全禁止が現れるとは驚きました。長期間滞在する人や洗面所で釣った魚をさばく不心得者がいるからだそうです。そのような人はキャンプ場に行って貰いたいものですが、一律に車中泊禁止とは厳しいですね。もちろん、運営や整備をする人の判断が優先するのでしょう。例えば、「棚田」に対して、棚田を観光資源と捕らえて人々を呼び込もうとするところもあれば、棚田は観光資源ではないと看板を上げて、あまり来て欲しくない雰囲気のところもあります。一律に決めつける訳には行きませんが、基本的な良識を持ち合わせていない人の迷惑がこういった動きになるのでしょうね。 ■諸官庁や自治体での身障者の就労数を作為的に誤魔化していたニュースには驚きました。ここまで来たのかとも思いました。一番多かったのが国税庁だったということも恐ろしい気がします。行政や政治に携わる人たちの基本的な良識に齟齬が感じられます。経済産業省の公文書管理では、内部文書について、「議事録のように、個別の発言まで記録する必要はない」と指示をしたと報道もされています。日本の行政や政治に対する抜本的な対策が必要になってきました。(2018年9月9日記) ■2015年12月11日になります。道の駅/巖美渓は、静かな道の駅でした。昨夜来の雨が続いています。起きたときの外気温が4.9度と少し高いので、明け方は電気毛布のスィッチを切って寝ていました。夜中にトイレに起きたのは、薬のせいかも知れません。停泊は、他に1台、大型が1台。トイレはすべてウォシュレット付きでゴミ処理可です。近くの景勝地「厳美渓」に寄ってみました。 厳美渓(げんびけい)は、岩手県一関市にある磐井川中流の渓谷帯です。栗駒山を水源として、全長約2kmに渡り、栗駒山の噴火によって堆積したデイサイト質凝灰岩が、水流によって浸食され、奇岩を形成しています。巨石の隙間を流れた礫が水流により弧を描いて、岩盤を球状に削ったという甌穴(おうけつ、かめ穴ともいう)が顕著です。雨が降り続いていたため、写真は撮りませんでしたが、不思議な景観を演出していました。 ■「毛越寺(もうつうじ)」に向かいました。真っ直ぐ行けば、8km程度ですが、給油をするため、一関市を経由して、2〜3キロ遠回りの道を選択しました。プリカを持っているオカモトで115.8円で給油。家が近づいて来た感があります。プリカを更新してくれました。 毛越寺に着いたのですが、駐車場には誰もいないので、そのまま入りました。雨が降り続いています。拝観料は500円です。傘をさしての毛越寺散策ですが、寒いですね。毛越寺は、岩手県平泉町にある天台宗の寺院です。開山は円仁(慈覚大師)と伝わります。慈覚大師の創建後、大火で焼失していたそうですが、奥州藤原氏第二代基衡夫妻、および、子の第三代秀衡によって壮大な伽藍が再興されたそうです。 かつては堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの偉容を誇っていたそうですが、奥州藤原氏の滅亡後、度重なる災禍とともにすべての建物が焼失してしまいました。現在は、「大泉が池」を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍の「遺構」が保存されています。平成元年には、平安様式の新本堂が建立されています。 山門を入ると手水舎があり、左手に宝物館がありました。進むと朱色の本堂が見えて来ました。本尊の薬師如来が黄金色に輝いています。本堂右手の南大門跡の後方には大きな「大泉が池」が見えましたが、雨で霞んでいます。少し強く降ってきました。傘を持つ手がしびれるくらいの寒さです。築山(つきやま)があり、松の木が池に向かい迫り出しています。棚田のような花菖蒲園の先に開山堂がありました。慈覚大師の像が祀ってあり、藤原三代の画像も見えます。 開山堂から少し回り込むように嘉寺跡をみて、講堂跡、金堂円骼寳ユ、そしてせせらぎを表現した遣水(やりみず)には、玉石が敷き詰められています。常行堂には、阿弥陀如来が祀ってありましたが、その奥には秘仏摩多羅神が祀られているそうです。堂行堂とは別に、以前の常行堂跡、法華堂跡もありました。ほぼ一回りをしたところに州浜があり、対岸の山が借景となり、見事な景観を見せていました。毛越寺は初めて来ました。 ■数キロ先の「中尊寺」に向かいました。こちらは駐車料金400円です。毛越寺の駐車料金の割引券を貰ったのですが、先に行った毛越寺には誰もいなかったので払わずに来てしまいました。外気温は6〜7度で雨が強く降っていますので、冬用の防寒コートを着て出発です。金色堂までは800m程度の道のりです。最初の登りが結構応えます。月見坂という名称です。雨の降り方がさらに激しくなってきました。途中、「辨慶堂」という文政9(1826)年に再建されたお堂がありました。内部には弁慶が自作したと伝わる高さ60cmの弁慶木造があるそうです。小さなお堂ですが、木組みと彫刻が見事です。 薬師堂などを見て、中尊寺の宗務所の門にやってきました。すぐに明治42年に再建された大きな本堂が見えます。釈迦如来像が黄金色に輝いています。丈六仏といいますから、座像ですが、約4.85mの高さがあります。不動堂などを見て、鑚衡藏(さんこうぞう)という宝物館にやってきました。ここで拝観料を払うことになります。本堂までは無料ですが、宝物殿と金色堂で拝観料800円でした。客もほとんどいないので、ゆっくりと堪能できます。 |
|||
常行堂 阿弥陀如来像 |
||||
毛越寺 州浜付近から大泉が池 |
||||
中尊寺 |
||||
中尊寺 山門 |
||||
中尊寺 本堂 |
中尊寺 本堂 |
本堂 釈迦如来像 |
金色堂に至る |
|
中尊寺は、岩手県平泉町にある天台宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来。寺伝では嘉3(850)年に円仁(慈覚大師)と開基と伝わりますが、奥州藤原三代の初代、藤原清衡が長治2(1105)年に供養塔を建てたのが実質的な始まりと伝えられます。最盛期には寺塔40余、禅坊300余宇に及んだといわれます。 冷気が染み渡るもやのような雨の中を進むと、緩やかな石段の先に「金色堂」が入る覆堂(ふくどう)が見えて来ました。写真などでよく見るアングルです。金色堂には何度か来ています。石段を進むと、覆堂の扉が開いていて、奥に黄金に輝く金色堂が見えています。方三間といいますから、約5.5m四方の金色堂ですが、1114〜1116年ころといわれる創建時はそのまま屋外に建っていたといわれています。風雨から守るための覆堂は、建立の数十年後には造られたそうですが、現在の鉄筋コンクリート造りの覆堂は1965年に建てられたものです。現在の金色堂自体は、1962〜1968年に掛けて解体修理をされたものです。 金色堂の須弥壇内には、ミイラ化した藤原清衡、基衡、秀衡と泰衡の首級が納められているそうです。誰もいない静かな時間を金色堂で体感することができました。外に出ると、創建時の古材を用いて再建された「経藏」がありました。以前の覆堂を移築したという「旧覆堂」もありました。ほとんど貸し切りの毛越寺・中尊寺を堪能した時間でした。 ■車に戻り、東に向かい、陸前高田市の北10数キロにある住田町に向かいました。来た道を戻らずに北東に進む感じです。途中の山道は、路面以外はすっかり雪で白くなっていました。「住田町役場」に着いたのですが、雨が強く、車内から撮影です。最近の木造の建物もデザインが良くなってきた感があります。木造のラチス、外壁は一部下見板張りに見えます。地元産の木材を使い、2015年度の日経ニューオフィス賞を受賞した建物です。 ■ここで、一旦南に向かい、陸前高田市方面に戻りました。普門寺の前を通り、陸前高田市に入り、「碁石海岸」に向かったのです。2009年の際には、碁石を敷き詰めたような崖岸を散策しました。しかし、被災を受けたため、ここでも護岸の嵩上げが進められています。以前の景観は失われてしまった感があります。強い雨が降り続いています。穴通磯方面に向かったのですが、行き止まりになっていて、諦めて引き返してきました。風もかなり強くなってきました。 ■ここから、大船渡、三陸、釜石、大槌などを通りましたが、どこも同じ景色です。延々と復旧現場が続きます。釜石の海岸線を通る予定はキャンセルすることにしました。今日の入浴予定の岩手県山田町の「光山温泉」に電話をしてみました。最終入浴は20時ですが、温泉宿のため食事はありません。その手前10kmに道の駅/やまだがありましたので、一旦、休憩です。時刻は16時少し前です。風が強い中、車の中でデータ整理をしました。 光山温泉に着きました。工事関係者が多く宿泊しているようです。小さい風呂と大きい風呂があり、小さい風呂から入る様にいわれました。大きい風呂は熱く、小さい風呂は温いとの設定のようです。でも、小さい風呂がかなり熱いですね。誰も入っていないので、水で薄めたのですが、段々熱くなってきます。お陰で、気持ち良い温泉を堪能することができました。しかし、脱衣所はとても綺麗とはいえない状態でした。 入浴後、約22km離れた宮古市にある道の駅/みやこに向かいました。途中で、コンビニによる弁当を購入。道の駅/みやこは、みなとオアシスなども併設して、愛称は「シートピアなあど」ということですが、海岸沿いにあるため被災したようです。閑散とした雰囲気でした。風が強い中、車内のコンビニ弁当は、少し寂しい雰囲気がありました。雨の降りが弱くなってきました。強烈な風も吹いています。でも、外気温は9度近くありました。食事が終わってもまだ19:30です。モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなどゆっくりとしていました。 |
少しだけ金色堂が |
|||
中尊寺 経藏 |
||||
住田町へ向かう峠に雪 |
||||
住田町役場 |
||||
ページのトップへ |
134 石巻から気仙沼、陸前高田と北限の棚田(2015年12月10日の記録) |
道の駅/上品の郷 |
釣石神社 |
落ちそうで落ちない釣石 |
釣石神社拝殿 |
|
釣石神社から観た河川復旧状況 |
■人の存在を「生産性」で捕らえるなどと市場原理主義も極まったかと思いましたが、相変わらず自民党の軽薄な議員の主張が問題となっています。本人のツィッターやホームページを見ると全文を見て欲しいといった弁明がありますが、週刊誌を手に入れてまで精査をする気はまったくおきません。要はLGBTのカップルでは子供ができないのは、人工的な処置をしない限りは不可能なことにかこつけたのでしょうが、何の意味があるのでしょうか? 本質的な問題を見ていないからでしょうが、一番問題なのは、「生産性」という言葉を使ったことに尽きるのだといえます。 人が生活していく「生業(なりわい)」をすべて「生産性」すなわち「経済」で考えようとすることがすべての問題なのだと私は考えています。鉄道を経済で考えるから、地方の鉄道は廃線すべきとなり、ますます生活基盤は衰えて行くのは自明の理です。国の支援しか唱えない悲しい首長もお粗末ですが、農業や林業を経済で考えるから、国土がどんどん荒れていくことも同じことを起因としています。 グローバル化によって恩恵を受ける人も多いのですが、格差を生み出す主因もグローバルなのです。グローバルによって生み出された「鬼っ子」の一つが仮想通貨でしょう。金(きん)でもない、主要通貨でもない、兌換不能な仮想通貨が増えることで、ブラックホールを生み出していることに何故気がつかないのでしょう。無から有が生まれたと思っても、その背後には必ずマイナスとなる反宇宙があるのです。即刻、仮想通貨は禁止すべきと私は考えていますが、日本を含め、国々の政権を担っている人たちの陳腐化とともに、「恐ろしい未来」が待っているともいえます。「子供たちの未来」を奪ってはなりません。そんな中で朗報もありましたね。行方不明の2歳の子供を発見した尾さんの行動には「無償の愛」を感じました。(2018年8月24日記) ■2015年の12月10日の記録です。石巻市の道の駅/上品の郷(じょうぼんのさと)は、新しく大きな道の駅でした。木材を多用した、にわか作りのようなイメージの施設ですが、それなりのデザインなのでしょう。後で調べると、2010年度の公共建築賞を取った「関・空間設計」の作品でした。屋根は太陽工業の膜構造でしたね。多くの工事関係者が出入りをしています。多数の車が駐まっていますが、停泊は不明です。復興事業のまっただ中にいる感があります。トイレはウォシュレットが付いているようですが、待ち人がいる状態です。ゴミ処理は可能でした。温浴施設も併設しています、復興事業が落ち着いたなら、良い道の駅になりそうです。起きたときの外気温はマイナス0.2度でした。 ■石巻市の北上川の河口近くにある釣石神社(つるいしじんじゃ、つりいしじんじゃ)に向かいました。海に面した河川の復旧作業が長く長く続いています。気がつかず、釣石神社への入り口を過ぎてしまいました。少し戻ると、すぐ手前でも何かの施設を建設中です。社務所もプレファブです。社務所は被災を受けたようですが、大きく迫り出した巨岩が東日本大震災などの幾多の地震にも耐え、落ちずに頑張っていることから、「落ちない」パワースポットとして、多くの受験生が訪れることで有名な場所です。 |
|||
神割崎 |
||||
神割崎 |
||||
神割崎にて |
気仙沼に向かう |
気仙沼に向かう |
気仙沼に入る |
|
由来を見ると、祭神は天児屋命(アメノコヤネノミコト)ですから、アマテラスが岩戸隠れをしたときに、岩戸の前で祝詞を唱え、アマテラスが少し岩戸を開いた時に鏡を差し出した神として知られています。春日権現・春日大明神ともいわれますから、藤原氏の氏神になります。鷹巣山の産土沢の山上に祀られていたものを江戸時代初期に遷宮したと伝えられています。 由来では、巨岩は4つあるとのことでしたが、入り口に巨大な石がありました。その上に大きな丸く見える巨岩が突き出ています。この二つが陰陽を示しているようです。確かに、よく持ちこたえたと思います。注連縄で吊り上げているかの説明もありましたが、注連縄は少し緩んでいますので、地震に耐える源には思えません。それとも何かの霊力を発揮するのでしょうか? 石段を登ると、途中に津波到達点の看板がありました。鳥居も流されたようです。さらに急な石段を上がると、拝殿がありました。本殿は、外壁がカラー天板ですから、まあ巨岩がご神体なのでしょうね。小さな狛犬もありました。少し下ると、河川復旧の全景が見渡せます。湾に面して巨大な津波が押し寄せてきた姿に、自然の猛威を改めて感じさせられました。 ■南三陸に入り、気仙沼方面に向かいました。途中、「神割岬」の看板を見たのですが、通り過ぎてしまいました。すると、先の方にも、ユーターンする形で神割岬に行く別な道があるので、道に沿って戻って見ました。キャンプ場があり、少し降りてみると、先客がいました。余り良いアングルが取れません。先に進むと岩々に荒波がぶつかる轟音が聞こえて来ます。さらに道を進むと、駐車場やトイレがありましたが、ここの景色が一番良かったですね。雲間に刺す光が紺碧の海に映えて美しいですね。最初の道を入るべきでした。神割崎の看板を下に降りると、「地盤沈下のため波に注意をしてください」の看板があります。海岸近くまで降りると、割れた奇岩の間から波しぶきが吹き上がっています。迫力がありますね。 南三陸町を経由して、気仙沼市に入りました。海岸側の低い土地に行ってみると、ほとんどが解体されて、土盛りがされています。2009年の時は、南気仙沼駅近くの温浴施設に入りましたが、そこは被災して解体されてしまいました。街中の大型ショッピングセンターで買い物とトイレタイムです。気仙沼市内の低い土地は、大幅な都市改造となっています。先に進みました。唐桑半島の御碕神社にナビを設定していたのですが、「巨釜・半造」の看板がありましたので、そちらに寄って見ました。半造の看板を見て進むと、住宅に繋がる道で行ったり来たりになってしまいました。海岸に続く道の真ん中に来が通られないように丸太が置いてあります。そこに車を駐めて、歩いて海岸へ行って見ると、船泊がありましたが、震災の影響を受けたようです。半造へ0.5kの看板も傾いています。 車に戻り、道を戻ると、半造の看板がありました。先ほどは、見逃したようです。進むと、しっかりとした駐車場がありました。かなりの段を下り、絶壁近くに行ってみました。まだ、先の道があったのですが、絶壁が見えるところで止めました。先ほど寄った海岸の船泊が遠くに見えます。 車に戻り、巨釜へ向かいました。すぐに大きな駐車場に着きました。宿泊施設があり、多数の車が駐まっています。洗濯物を干しているところをみると、工事関係者の宿泊施設になっているようです。巨釜の崖の上の道を進むと、松食い虫の被害を受けたため、多くの木が伐採されています。入り江の上、数十メートルの高さに立っているのですが、「折石」が見えます。「水取場」の看板がありましたが、この下にあるのでしょうか? 巨釜・半造(おおがま・はんぞう)は、唐桑半島の北側にある景勝地です。古生代ペルム紀(2億8000万〜2億5100万年前 )から中生代白亜紀(1億4000万〜6550万年前)の石灰岩地帯に『隕石』が落下し、その熱と反動によって形造られた熱変成岩地帯です。巨釜とは、波が荒い日に半造の方から見ると、「大きな釜が煮えたぎっているように見える」ことから、そして半造とは、鮑(あわび)が沢山取れて「繁昌」したため、その呼び名が訛って「ハンゾウ」と言われるようになったとされているそうですが、本当でしょうか? ちなみに折石(おれいし)という名は、1896(明治29)年の明治三陸地震の津波の際に、先端が2mほど折れて現在の姿になったそうです。 |
巨釜・半造 |
|||
巨釜・半造 |
||||
巨釜・半造 |
||||
巨釜・半造 |
||||
奇跡の一本松に向かう |
折石 |
巨釜・半造 |
巨釜・半造 |
|
奇跡の一本松と被災した道の駅 |
■唐桑半島の先端に行くのは止めて、陸前高田に向かいました。こちらも工事が延々と続きます。陸前高田は大規模な都市改造中でした。一本松が道路から見えてきました。車では行けないため、向かいの一本松茶屋の駐車場に車を駐めて歩いて行くことにしました。フェンスで囲われた道を歩くことになりました。かなりの距離があります。何度か途中で、止めようと思ったくらいです。破損した道の駅の建物がそのまま残っています。ここだけ時が止まったように感じます。一本松は、モニュメント化されたようですが、見ただけでは分かりません。道の駅の建物は、被災して悲惨な状態で残されています。そのコントラストが妙です。 誰もいませんでしたが、帰り道で複数の人と会いました。最後に会ったのが、老婆3人でした。海岸に行けるかと聞かれたので、「行けませんよ」と答えたのですが、それでも納得していないようです。分かれてから呼び戻されて、「青山さんですか?」と聞かれました。意味が分かりません。 2009年の際には、この道の駅に停泊をしました。350年掛けて植林された、約7万本からなる高田松原が景勝地として存在していたのですが、東日本大震災の津波でほとんどの松の木がなぎ倒されてしまいました。しかし、松原の西端近くにあった一本の松の木が津波に耐えて、立ったままの状態で残ったことから、「奇跡の一本松」と呼ばれるようになりました。そして震災後、根が腐り枯死と判断されたのですが、震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業を経て、現在の姿で復元されました。 ■まだ昼を廻ってそれほどの時間がたっていませんが、今日の停泊予定の道の駅/かわさきの近くのホテルに電話をしてみました。入浴は21時までですが、食事がないとのことです。その少し先のホテル渓泉閣にも電話をしてみました。事前情報では、日帰り入浴は16時までとなっていましたが、一人なら17〜18時でも良いと言ってくれました。しかし、食事はありません。その近くの道の駅/厳美渓に電話をすると、食事の最終オーダーは16:30です。さてどうしましょうか? まあ何とかなるでしょう。 陸前高田市の内陸にある「普門寺」に向かいました。すぐに着きました。ここの三重塔は、高さが12.5mですが、軒裏に特徴があります。初層が二軒繁垂木(しげだるき)二手先(ふたてさき)、二層は垂木を設けず全面に彫刻を施し、三層は二軒扇垂木と各層に異なることです。2009年の際に訪れたときは、改修のため足場が掛かっていました。当然、今回は足場がありません。静かな佇まいの寺院でした。 ■岩手県一関市にある北限の棚田「山吹の棚田」に向かいました。途中の峠では、道路脇には雪が積もっていました。しかも、スリップしたらしくフェンスにぶつかった車が置き去りになっていました。多分、夏タイヤだったのでしょうね。北限の棚田は、少し雪が溜まっていました。規模は小さいですが、今回の旅の最後の棚田になります。約2haに40枚ほどの田んぼがあります。近くには、中世の大原千葉氏の居城である「山吹城」があった地域だそうです。 道の駅/厳美渓の食事、16:30はギリギリに間に合いそうですが、一関市に入ると店舗が多数あります。市内のファミレスでゆっくりと食事をすることにしました。データ整理がしやすいガストに入りました。まだ、ランチをやっています。ほうれん草ベーコンを頼んだのですが、小さなベーコンが二きれしか入っていません。しかも、ほうれん草は芯ばかりです。まあ、値段を考えると無理もいえません。ここでは、モバイルルーターが繋がりませんでした。都市部なのに悲しいですね。17:30ころまでデータ整理をして、温泉に向かいました。 渓泉閣はすぐ近くです。道の駅/厳美渓の先0.8kmにあります。比較的大きめの温泉宿でした。風呂には何の特徴もありませんが、さすがに気持ちが良い湯温でした。道の駅には少し戻りとなります。まだ19時前でしたので、今日はたっぶり時間があります。ここではモバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなど。明日は、一関市経由で給油をして、毛越寺に行ってから、中尊寺の予定です。 |
|||
奇跡の一本松を見上げる |
||||
普門寺 |
||||
普門寺本堂 |
普門寺三重塔 |
三重塔の二手先 |
北限の棚田/山吹の棚田 |
|
ページのトップへ |
133 松島から震災復興中の石巻(2015年12月9日の記録) |
南相馬市原町区の前方後方墳 |
鹿島地区牛島に霜が降りた |
鹿島地区牛島で |
鹿島地区牛島付近 |
|
■このところスポーツを巡るスキャンダルが後を絶ちませんが、大学や各団体の顔というべき個人のイメージに品性が感じられないところがマスコミの餌食にされてしまっている感があります。そもそもは、JOC(日本オリンピック委員会)が東京誘致の際に、IOCの有力者に多額の金銭を渡した事実や、「新国立競技場」の建設を巡っての政官を含む、無責任体制などの、スポーツ界ばかりではない、日本全体に漂う悪しき慣例に人々の関心が向きつつあるということでしょうか。その根源にあるのが「忖度」なのでしょう。忖度は、自主的なものといえますが、どうもここには「忖度させられた」ような気配のものが見え隠れします。 ■支持を不支持が上回っても一強が続く安倍政権ですが、国会での答弁を聞いても、不誠実な答弁を繰り返すような男を誰が支持をしているのかが私には理解できません。やはり株高と円安の経済状況で利益を得ている人達の一定の支持を受けているからなのでしょうね。国民の大多数が反対していたカジノ法案までも強行採決してしまいました。しかし、日銀による野放図な低金利も終わりを告げようとしています。 この経済状況が一変する恐れが出てきました。主要因と考えられるのは、独りよがりの政策を次々と打ち出しているあのトランプです。これもあのような男を大統領に選んだアメリカ国民の選択が私には理解ができませんが、やはり一定の支持層が彼を支えているのでしょう。時代は、いずれは歴史が証明するのでしょうが、これを未来の問題と捕らえることもできません。(2018年8月6日記) ■2015年の12月に戻ります。「道の駅/南相馬」は、新しい道の駅でした。駐車している車は多く、停泊かどうかは不明な車が多い状況でした。トイレも新しく、ウォシュレット、石鹸、エアータオルが揃っています。ゴミ処理も可です。ところが、駐車場には吸い殻やバナナの皮があちこちに落ちています。作業服を着た人が目立ちます。道の駅というよりは、工事現場の雰囲気です。5時半に起きたのですが、7時半には出発をしました。 初冬の冷気を感じながら、鹿島地区牛島に向かいました。途中、2009年に散策した全長74.5mの前方後方墳の桜井古墳が見えていました。鹿島地区は、2009年の静かな住宅街の雰囲気とも、2011年の震災直後の雰囲気とも、すっかり変わっていました。先端部に行くことはできません。産業廃棄物の一次処理や、残土等の置場になっています。対岸に行こうとしたのですが、右折禁止となり、警官が立っています。手前では新しい施設が建設中でした。被災していましたが、建物は残っていた体育館も壊したようです。牛島地区にあった住宅街は何もかも無くなっていました。地面をみると草々に霜が降りていました。早朝の鹿島は零下に凍り付いていました。 |
牛島の対岸を観る |
|||
松川浦 |
||||
松川浦で |
||||
仙台方面に向かう |
||||
松島 |
松島近く |
仙台方面に向かう |
刺した木に哀愁が漂います |
|
瑞巌寺庫裏 |
2009年にお風呂を借りた相馬市の「蒲庭温泉」に向かってみました。震災直後はてっきり被災したと思っていたのですが、少し低い土地にあるにも関わらず、手前に大きな丘があるため、無事だったようです。しっかり営業を継続していました。北に向かい、松川浦にも行ってみました。松川浦は、南北5km・東西3kmに及ぶ潟湖です。震災直後には車が埋まったりしていましたが、すっかり綺麗になっていました。しかし、水中にホイールキャップが見えます。 ■海岸線に沿って、北へ向かいました。走っても走っても工事現場が続く感があります。とてつもない巨大なプロジェクトが継続しています。すっかりと綺麗になったところもありますが、放置されたままのところもあります。亘理から名取、仙台へと向かいましたが、津波で破損した状態の建物は殆ど無くなっていました。すっかり壊されて、残土置場のようになっているところがあります。嵩上げも含めた、護岸の復旧はかなり進んでいるようです。何故か、トンネルでも点灯をしない車が多いですね。どういうことなのでしょう。 ■松島付近に着きました。この辺りの震災の影響は良く分かりません。複雑な入江が津波のエネルギーを吸収したようです。日本三景といわれる松島にある「瑞巌寺(ずいがんじ)」にやってきました。駐車場が見あたりません。手前に300円の表示の有料駐車場がありましたので、そこに駐車をしました。拝観料は700円でした。 瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県松島町の日本三景・松島にある臨済宗妙心寺派の寺院です。創建は平安時代とされ、かつては松島寺ともいわれていました。毎年、11月には芭蕉祭りが行われ、境内にある伊達政宗お手植えと伝えられる紅白二本の梅の木「臥龍梅」が有名です。伊達政宗による庇護のもと、領内随一の格式を備えるようになりました。6〜7kmほど南にある2009年には訪れた鹽竈(しおがま)神社も伊達家の篤い庇護を受けたそうです。参道にある杉並木が東日本大震災による塩害のため、約300本が伐採されたそうです。 本堂は、改築中でした。見ることはできません。大きな庫裏がありました。千鳥破風の先端が天に向かい、壁面が唐草模様に彫刻された庫裏です。全体は切妻造本瓦葺ですが、煙出があり、中に入って見上げた組屋根が見事です。その下中央に高村光雲作の「光雲観音」が鎮座していました。美しい観音様です。ここから仮本堂に行くことができるようです。本尊観世音菩薩立像がありました。墨絵の間があり、襖などは写真復元です。見所はたくさんありますね。一度外に出て、岩をくり抜いた道を通り、欅造りという埋木書院を見て、石段を登ると伊達政宗正室の陽徳院御霊屋がありました。仙台市青葉区にある正宗の御霊屋「瑞宝殿」は以前に訪れたことがありますが、美しさに驚いた記憶があります。 |
|||
瑞巌寺の光雲観音 |
||||
瑞巌寺 |
||||
瑞巌寺 |
||||
瑞巌寺 |
陽徳院御霊屋 |
洞窟遺跡群 |
五大堂を眺める |
|
境内を出て、海岸に向かっていくと、左手に「洞窟遺跡群」が見えて来ました。震災の対応でしょうか、右手にはフェンスが並んでいます。洞窟内には、卒塔婆・五輪塔などが並んでいます。海岸に出て、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる「五大堂」を眺めて、駐車場に戻りました。坂上田村麻呂は、平安時代の武将ですが、800年ころの阿弖流為(アテルイ)との戦いが有名ですね。この地は、古代からの鎮魂の地だったのだと思います。 奥松島に向かいました。月浜などで撮影して、石巻に入りました。ナビの行き先は金華山に設定していたのですが、石巻市内に寄ってみることにしました。自衛隊機でしょうか? 空に曲線が描かれています。震災から復興しつつあるところ、残土置場のようになっているところ、震災で大きな被害を受けた石巻ですが、車の噴煙と埃にまみれた復興のなかに石巻がありました。まだまだですね。 金華山方面に向かいました。途中、月浦では支倉常永の銅像がありました。ここから支倉長常は、スペインに向けて旅立ちをしたそうです。海岸は復興が進んだ所、仮設の所など様々です。金華山の手前、湯の浜大町に来たところで、戻ることにしました。予定のコインランドリーが石巻だったため、30km程度戻ることになります。道の駅/上品の郷は、その北10数キロにあります。電話をすると、ラストオーダーは、食事19:30、入浴20:50(終了21時)でした。 石巻のコインランドリーは、2ヶ所ほど、事前調査をしていたのですが、その手前6〜8キロに新しそうなコインランドリーがありました。「コインランドリーひまわり」です。混んでいることを心配していたのですが、空いていました。しかし入って見ると、入れっぱなしにしている人が多く、余り空いていません。洗濯機の性能は新しいせいか、綺麗なような気がします。16:20に着きましたので、ある程度余裕があります。 2時間近く、データ整理をしたりして、道の駅/上品の郷に向かいました。車が混んでいます。寝支度をしたり、途中で風邪薬を買ったりして、19時近くになったので、先に食事をすることにしました。酢豚定食を注文しました。大きな道の駅です。そして、ゆっくりと温泉に入りました。少しは薬が効くでしょうか? コインランドリーでは、モバイルルーターが繋がりませんでしたが、道の駅では接続に成功しました。二日ぶりです。明日尋ねる予定の、「釣石神社」を検索。 |
月浦に向かう |
|||
奥松島 |
||||
月浦付近 |
||||
石巻にて |
||||
松島 |
||||
ページのトップへ |
132 袋田の滝を観て浜通りを北へ(2015年12月8日の記録) |
国見棚田 |
■宇宙から見た地球には国境がないと良く言われますが、2018年3月23日の朝日新聞「天声人語」を読んで、前文部次官の前川喜平氏が名古屋市の中学校で講演したことで文部科学省に噛みついたという赤池誠章(まさあき)元文部科学大臣政務官(参議院議員)のブログを知りました。天声人語には、文部科学省がタイアップした映画「ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」のポスターに「友達に国境はな〜い!」とあったことに、赤池氏は「思わず仰(の)け反りそうになりました」「国家意識なく教育行政を執行させられたら、日本という国家はなくなってしまう」とあったからです。 伝聞は危ないと思い、氏の公式ホームページに行ってみましたが、こちらが仰け反りそうなことが多数書き連ねてありました。「国境は歴然としてあります。国家があってこそ、私達の平和で安全な暮らしが守られています。国家が発行するパスポートがなければ、出国もできませんし、他国へ入国することもできません。」といった弁明などが書かれていましたが、こんな可笑しな人が参議院文部科学委員長も担当していることに驚きを禁じ得ませんでした。 映画「ちびまる子ちゃん」では、国境があるからこそ「友達に国境はな〜い!」と訴えていることが何故判らないのでしょう。氏は、安倍晋三首相のバックボーンといわれる「日本会議」の関連団体である「日本会議国会議員懇談会」の事務局次長も務めているようですが、井の中の蛙状態から抜け出せていないレベルなのでしょうね。このような男に教育行政を語って貰いたくはありません。即刻、議員は辞職すべきでしょうね。(2018年4月9日記) ■2015年12月8日の記録です。道の駅/うつのみやロマンチック村は大きな道の駅でした。停泊は、5〜6台程度でしょうか。他にも駐車場があり、そちらに大型が駐まっています。昨夜の外気温は始めてマイナスとなりました。夜中に電気毛布のスィッチを入れて、マスクをして寝ていました。道の駅には、ウォシュレットはなく、ゴミ処理も不可でした。道の駅の売店前にゴミ箱が見えたのですが、フェンスで遮られています。マッサージ機が効いたのか、昨夜は楽になったのですが、風邪気味状態が続いています。 ■那須烏山市の「国見の棚田」に向かいました。約50kmほど離れています。山道に入ったのですが、案内が見あたりません。すると木製2階建ての展望台が見えて来ました。そこに地図があり、国見の棚田の案内が表示されていました。示された場所に行ってみると、日本棚田百選の看板がありました。2.2haに50枚の棚田があるようです。 国見の棚田は、季節外れのためでしょうか、少し荒れた状態に見えました。「棚田は観光地ではありません」の看板もあります。観光資源にしている棚田もありますが、基本的にはこれが正論なのでしょう。国見の棚田は天水を水源としています。 ■続いて、栃木県茂木町の「石畑(いしばたけ)棚田」に向かいました。ナビは8〜9km程度の廻り道を示します。ナビに従い進むと、途中で道を間違ってしまいました。しかし、それがナビにない近道でした。数キロで石畑の棚田に着くことができました。途中、国見の棚田の案内板がありましたが、こちらから入るのが正解のようだったようです。 石畑の棚田は綺麗に整備された棚田でした。可愛いカエルが描かれた看板もあります。下の方にも看板が見えるので行ってみると、下から見上げるのが良い景観のようです。すると丁度、農家の奥さんが出てきたので挨拶をしました。車のナンバーを見たようで、札幌からですかと聞かれました。少しお話をしてしまいました。「綺麗に整備されていますね」というと、棚田協議会が整備をしてくれているようです。帰るまで、いろいろと気遣いの言葉を頂くことができました。4.9haに187枚の棚田でした。 |
|||
国見棚田 |
||||
石畑棚田 |
||||
石畑棚田 |
||||
馬頭美術館 |
馬頭美術館 |
馬頭美術館 |
馬頭美術館 |
|
■約20km離れた、栃木県那珂川町にある「馬頭美術館」に向かいました。現在、日本で最も活躍をしている建築家/隈研吾の2000年の作品です。近くには馬頭温泉がありますので、名前の由来はそこからと思えます。歌川広重の作品を主体とする馬頭美術館は、基本は鉄骨造ですが、建物全体を地元の八溝山系で伐採された八溝杉(やみぞすぎ)の格子で覆っています。新国立競技場などでも多用されている現在の隈研吾のスタイルが踏襲された初期の作品でしょうか? ポストモダンの代表作ともいわれる1991年の東京都世田谷区のM2(現・東京メモリードホール)以降、逼塞していた隈研吾が「梼原町での建築」で木の質感に目覚め、この馬頭美術館で鮮やかに蘇ったともいえます。格子の杉は、そろそろ痛みが目立っています。更新時期が近づいていると思います。床には、那須町にある「石の美術館」でも使われていた芦野石が多用されていました。最近は、これでもかというような複雑な木材の組み合わせ方法が出てきて、少しうんざりさせられますが、初期の作品は鮮やかでした。 ■今回の旅の主要なテーマでした「滝」の中でも、訪れてみたい重要度が高かった「茨城県大子町の「袋田の滝」に向かいました。「華厳滝」と「那智滝」と並び日本三名瀑の一つとされ、高さ120m、幅73mを誇ります。滝の流れが四段に落下することから、別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれています。 約26km程で袋田温泉街を過ぎると、川に沿った道路があり、観光用の駐車場案内が続いています。橋があり、その手前に500円の駐車場がありましたが、その少し手前で300円の表示を見ましたので、戻ってそこに駐めることにしました。後で考えると、500円の駐車場はお土産や飲食店がありましたので、そこで昼食をする手があったのかも知れません。 約0.9kmを歩くことになりましたが、穏やかな温もりの中の平坦な道です。入口に着くと、階段があり、受付で500円を払いました。すぐにトンネルがあり、200m程歩くと、吊り橋の観望台がありました。切符の提出を求められましたで、切符を示すと、袋田の滝の側面が見えてきました。本などで見た撮影ポイントのようです。 どうもここは帰り道のようだったので戻ることにしました。火曜日のためか人の気配が余りありません。紅葉も終わり頃の景色です。再び、切符を見せてトンネルを進むと、第1観望台が見えて来ました。ここでは余りにも近すぎて、撮影が難しいですね。大岩壁を幾筋もの流れが白い糸を引いたように見えます。 さらにトンネル内の神社を過ぎるとエレベーターがありました。女性がエレベーターの案内をしています。エレベーターで登ると、滝の全貌が見える観望台がありました。少し下の方が欠けていますが、確かに迫力がありますね。帰りに、エレベーターの前にいた男性に聞くと、11月の紅葉の最盛期にはエレベーターが40〜50分待ちになるとのことでした。帰りは、また別な角度からの袋田の滝を横目に見ながらの景観となりましたが、余りにも観光地化されていますね。 |
八溝杉の格子のアップ |
|||
袋田の滝にて |
||||
袋田の滝 |
||||
袋田の滝 |
||||
アクアマリン福島 |
袋田の滝 |
袋田の滝 |
袋田の滝 |
|
浜通りを北へ |
■東に向かいました。高萩市付近から海岸線に出ました。そこからは浜通を北上していわきに向かいました。「アクアマリンふくしま」が見えるところまでやってきました。洗濯物が溜まっていますので、いわきで洗濯をして停泊をするか、相馬まで向かうか悩むところです。現在は、14:40になっていました。丁度、娘からメールが来たり、妻に電話などをしてから、確認です。 南相馬に新しい道の駅があり、そこから10km前後で複数の温泉があります。事前情報を得てはいましたが、営業をしているかどうかが問題です。第2候補としていた「そうまユッサ」というところに電話をしてみました。20時まで、浴室も食事も受け付けているそうです。今夜は道の駅/南相馬に停泊をすることにしました。 今日の洗濯は諦めて、約90kmの道のりを北上しました。海岸線からは少し離れた浜通りを北に向かいます。車の流れは良いですね。福島第二原発付近からは、規制が始まりました。歩行は禁止されています。パトカーや警官の姿が目立ちます。海岸線に向かう東側の交差点にはフェンスが置かれ、警備がされています。かなり長い規制路線となっていました。工事用の車両が目立ちます。 すっかり暗くなってきたところで、南相馬市の原町に着きました。30年ほど前に住んだことがある町です。2006年に原町市と小高町と鹿島町が合併して南相馬市が誕生しました。30年ほど前は、仕事で鹿島町に来たのですが、原町市に一時期住んでいました。 先に道の駅に寄ってみました。道の駅/南相馬は新しい綺麗な道の駅です。工事関係者と思われる車が多数駐まっています。何かと騒がしい雰囲気でした。寝支度をして、そうまユッサに向かいました。10kmほど離れていたのですが、入口が分からず通り過ぎてしまいました。 戻ったのですが、乱暴な運転をする人が多いですね。真っ暗でもトンネルで点灯しない車が多くいます。後で分かったのですが、本来の進入口ではない方向から入ってしまったようです。そうまユッサは不安になるような道を経由して辿り着いたのですが、思いの外大きな温浴施設でした。野菜いため定食を食べて、データ整理をしました。モバイルルーターは繋がりませんでした。温泉に入り、道の駅に戻ったときは21時を過ぎていました。外気温は5.8度とそれほど寒くありません。 |
|||
浜通りを北へ |
||||
浜通りを北へ |
||||
ページのトップへ |
131 大谷石と日光(2015年12月7日の記録) |
フォレスト益子 |
■少し前に、確定申告を終了してきました。例年、私は確定申告の受付が始まるという2月中旬よりも前の1月末か2月初めには申告をすることにしています。イータックスはなじまないので、近いこともありますが、書面で申告をすることにしています。国税庁のホームページを利用して入力すると、確定申告に必要な書類を簡単に印刷することができます。自宅で入力できることは、イータックスと余り変わらないものと思っています。 さらに、その時期の申告では、税務署にまったく行列ができていません。数分で終了することができます。国会で嘘をついた長官がいる国税庁といわれていますが、そのうち彼もいなくなるでしょうから、納税義務とは別な問題と捕らえるべきでしょう。 JR西日本の新幹線のぞみの台車で破断寸前の亀裂が見つかった問題ですが、川崎重工業が台車の鋼材を薄く削っていたことが報道され、川重の社長他が謝罪会見を開きました。ものづくりへの信頼が揺るがされる事態となったわけですが、何か問題がすり替わったような気がします。確かに薄く削っていた川重の責任が問われることは当然ですが、一番の問題はそこではないと私は考えます。 今回の問題で一番問われるべきはJR西日本ではないかということです。異常を感じたにも関わらず、運転を継続させてしまった責任を誰が負うのかが最大の問題なのです。報道では、車掌、車両保守担当社員、運用司令員などが関わっているようですが、自分が判断するという認識を誰も持っていなかったために、運転を中止して確認するという原則が守られませんでした。すべて他人任せの体制にあったのです。そして、JR東海の管轄下に入ったときに初めてJR東海の車両保守担当者が名古屋駅で床下点検を実施して、亀裂を発見したのが事実でした。ものづくりへの問題にすり替えてはいけないものと思っています。(2018年3月8日記) ■2015年12月7日です。手賀沼に近接する千葉県柏市の道の駅/しょうなんはよく冷えました。電気毛布は使いませんでした。停泊は20〜30台はあるでしょうか? 大型も多数います。向かいに満天の湯がある以外は、取り立てて何もない道の駅でした。今日は、初めてセーターを着ての出発です。どうも風邪気味となってしまいましたので、念のためマスクもしました。 栃木県益子町の「フォレストイン益子」に向かいました。約86kmの道のりです。「益子焼」の看板があります。フォレストイン益子は宿泊施設でした。正確には、施設名が「フォレスト益子」で、その宿泊施設が「フォレストイン益子」というのですね。2002年の内藤廣の作品です。木・鉄骨造の2階建ての円弧を描く建物です。家族連れが散策をしていました。のどかな雰囲気の環境の中にあります。 ■続いて、「大谷石資料館」に向かいました。30km程離れています。駐車場がありました。そこに車を駐めたのですが、後続の車が追い越していきます。車で先に進んでみると、身障者用の駐車場がありました。多くの車が駐まっています。複雑な心境ですが、かなり空いていましたので、駐めさせて貰いました。 横に洞窟があり、地下空間への入口は、「大谷資料館」と看板が出ている別な建物から入るようになっています。700円を払って、地下に入りました。壁面は大谷石を削った通路になっています。多数の地下空間があり、多様な色にライトアップされています。写真で見た景色がそこにありました。 大谷石を削った壁面は思っていた以上に粗い削面ですね。広大な空間の中は結構寒いです。カメラのフィルターが曇ってしまいました。何か小物を作る教室の展示もありました。暗いため撮影が厳しいところもあります。 |
|||
大谷石採掘場前 |
||||
大谷石資料館地下内部 |
||||
大谷石資料館のライトアップ |
||||
日光駅 |
日光東照宮の五重塔 |
日光東照宮表門 |
みざる きかざる いわざる |
|
薄い緑色の波紋岩質緑色凝灰岩(大谷石)は、宇都宮市の北西に位置して、東西に約8km、南北に約37kmに渡って、地下200〜300mの深さで10度前後の傾斜で分布しています。採掘区域は、東西に約3km、南北に約6kmに及んでいますが、古墳時代から利用され、江戸時代中期に本格的な採掘が始められました。 太平洋戦争時には、陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用され、中島飛行機(現・富士重工)の地下軍需工場としても使用されました。地下気温が8度前後と安定しているため、古々米の保管庫としても利用されたこともありました。 1989年に約3,300u(深さ30m)、1990年に約7,500u、1991年には約17,500uに渡る大規模陥没などで話題になりましたが、1946年以降、33件の陥没が記録されているそうです。ここでは、数々の映画やプロモーションビデオも撮影されていますね。一度、来てみたかったところでした。 ■さて、結構時間を使ってしまったが、日光に向かうかどうか? 現在時刻は、12:30ですが、時間を考えると厳しいですね。日光の最遠端となる「湯滝」までは40km程度です。しかし、ナビを調べると、日光駅まで12kmしかありません。しかも高速が通っていて、100円で10kmも進めるようです。これは利用しない手はありません。一気に日光駅に向かいました。 日光駅前は、月曜日のためか閑散としていました。日光駅は、栃木県日光市相生町にあるJR東日本の日光線の終着駅になっています。ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建ての駅舎は、鐵道院の明石虎雄の設計とされています。落ち着いたデザインですね。 ■昼食は、コンビニで買ったオニギリで済ませて、「日光東照宮」に向かいました。予定に入れていた「田母沢御用邸」はパスして、途中、「二荒山」を撮影して、東照宮に着いたのですが、こちらの駐車場も空いています。ただ、小学生の修学旅行団とかち合い、少し騒がしくなってしまいました。 五重塔は、心柱の公開をしていましたが、見物料が1,000円は高いですね。説明の放送では、心柱の「振り子の原理」を江戸時代に開発と盛んに權伝していましたが、少し違うような気がします。五重塔は他の建物が邪魔をして、良いアングルが取れません。常設の仮殿がありました。本殿他の見学料は1,300円です。高いような気もしますが、ここまで来てパスをするわけにはいきません。 素木造りの神厩舎には、あの「見ざる、聞かざる、言わざる」がありました。陽明門は改修中ですが、透明なプラスチックを通して、工事中の状況も含めて見物をすることができます。左甚五郎作と伝わる「眠り猫」は、奥宮に向かう回廊に入ったところにありました。坂下門を通って、200段の石段を登って奥宮に向かいます。 途中、木立の伐採でもやっているのでしょうか、上部でロープを渡して木に登った人達が何かをやっています。観光客が多く通る場所での頭上作業です。ちょっと不安になりました。石段を登り切ると鳥居があり、御宝蔵が見えて来ました。遺臣が奉納したという小さな狛犬がありました。 将軍でなければ昇段参拝できなかったという奥宮拝殿があり、その奥に格調ある鋳抜門(いぬきもん)が見えます。そして写真でしか見たことがなかった奥宮御宝塔がありました。徳川家康を祀る神域です。ほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝わる叶杉がありました。 |
日光東照宮 |
|||
陽明門は工事中 |
||||
日光東照宮 |
||||
眠り猫 |
||||
日光二荒山神社 |
日光東照宮唐門 |
徳川家康を祀る御宝塔 |
日光東照宮奥宮 |
|
華厳滝 |
石段を戻り、唐門、神輿舎、拝殿、本殿へと進みました。本殿も改修中ですが、ここは撮影禁止になっています。またもや別な修学旅行の集団とぶつかってしまいました。薬師堂に入り「鳴竜」は、修学旅行生と一緒に説明を聞くことになりました。拍子木を叩くと、確かに鈴のような反響音が聞こえます。 門を出て、日光二荒山(ふたらさん)神社に行ってみました。ここも本殿は素屋根を掛けて改修中です。「ふたらさん」の名前の由来は諸説あり、「二荒(にっこう)」や「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったとも、あるいはここにも空海の来訪伝承があり、日光の名付け親ともされています。 ■「華厳滝」に向かいました。途中、第二いろは坂を経由したのですが、現在は無料になっています。30年以上前にここを訪れた際、混雑で進まなかった記憶があります。途中から、雪が道路脇に見えて来ました。中禅寺温泉に着くと、華厳滝はすぐでした。駐車場があり、料金は310円。高台から撮影をしたのですが、木の葉がまったくないため寒々としています。500円のエレベータで落差97mを下から見上げることができますが、以前に来ましたのでパスしました。 ■「竜頭の滝」に向かいました。中禅寺湖や、途中の山間の景色は今ひとつですね。竜頭の滝は閑散としていました。お店があり、そこから眺めるのが良いポイントのようです。標高1,350mにある竜頭の滝は、全長210m、滝幅10mですが、二手に分かれて斜面を流れ落ちる滝です。 ■続いて、奥日光の「湯滝」に向かいました。中禅寺湖金谷ホテルがありましたが、冬期休業中でした。現存する日本最古のリゾートクラシックホテルといわれています。30年以上前に妻と来たときは、奥日光で泊まったのですが、どこに泊まったのかは、すっかり忘れてしまいました。 雪が道路に残っている状況になってきました。湯滝の駐車場までは、雪道を下ることになりました。冬タイヤですが、少しタイヤが減り気味なので不安はありますが、全然問題ありませんでした。家族連れが雪道を歩いて上がって来ました。駐車場付近は、完全な積雪状態です。 湯滝は撮影の良いアングルが難しいですね。川には大きな湯の華が漂っています。落差50m、滝幅25mですが、流れ落ちるのはお湯ではありません。側にある「湯の湖」付近一帯にお湯が湧いていることからその名が付いたそうです。この水は、下って竜頭の滝を経由して、中禅寺湖へ行っているそうです。 駐車場からの戻りは、雪道を登ることになりましたので、四駆に変えて一気に進みました。先ほどの家族がバス停で寒そうに待っています。日光市側にオプションで予定をしていた「霧降の滝」はパスすることにしました。戻る途中の男体山の夕焼けが美しかったですね。標高が2,486mもあります。 ■東に向かいました。第1いろは坂を下ることになります。途中、道の駅/きづれがわに電話をしました。温泉は遅くまで営業をしているそうですが、食堂は既に閉まっていました。時刻は17時を過ぎていました。その35km先に道の駅/うつのみやロマンチック村があります。電話をすると、温泉も食堂も21時まで営業しているそうです。そちらに向かうことにしました。 着きますと、温泉はプールもある大きな施設でした。先に、レストランでほうとう鍋を食べることにしました。ここでデータ整理なども。浴室は、何も無い単純な浴場です。露天風呂がありました。水栓の温度が使っている途中に頻繁に変わります。ちょっと不満の温泉でした。明日からは東北に入ります。 |
|||
竜頭の滝 |
||||
湯滝 |
||||
男体山の夕焼け |
||||
ページのトップへ |
130 房総半島を周り犬吠埼から成田(2015年12月4〜6日の記録) |
■日本を訪れていた今年度のノーベル平和賞を受賞したICANの事務局長が安倍総理との面会を求めていたが、断られたとの報道が流れていました。政府寄りの報道は海外に行っていたのだから無理だろうと政府を擁護していますが、反論する側は、帰ってきたその日か翌日には設定することが可能だったと見ています。どちらが正しいのかは分かりませんが、会いたくなかった印象を国際的に広めたことは間違いないでしょう。事実は、ICANに国際運営グループとして参加しているピースボートとは会いたくなかったということだと私は見ています。いずれにしても、核兵器廃絶には積極的に関わりたくない現在の政府の下心の現れでしかないでしょう。 大意を失い自己主張の果てに崩壊していく政党があれば、危うい大意と知りつつも自己を押さえて忖度する人達が集まっている政党があります。権力を失っていた数年間に戻りたくないという心理がおのれを滅しているのでしょうが、そのような状況を求めている人達が本当の意味で日本を動かしているといえます。今の日本を動かしているのは政治ではないのが明確になってきましたね。軍が政治を牛耳っていたのも同じような状況だったのではないでしょうか?(2018年1月20日記) ■2015年の12月4日は、朝5時に起きました。お湯を沸かそうと思ったのですが、インバーターの調子が悪く、諦めてすぐに首都圏に向けて出発しました。この日は、都内で娘の引っ越しを手伝うことになっています。そして、娘の新居に泊まる予定です。一昨日、一人で行って気に入った近くの銭湯に二人で行ったのですが、新しく設備の整った今風の銭湯です。湯温も高く暖まりました。 ■翌日の12月5日は、昼近くまで娘と過ごして、分かれた後、千葉方面に向かいました。停泊候補だった道の駅/市原を過ぎて、「大山千枚田」に向かいました。その後は、道の駅/とみうらに停泊予定ですが、厳しいかも知れません。向かう途中の、逆光が眩しいですね。暗くなってきました。 山道に入り、さらに暗くなったところで、大山千枚田に着きました。さすが首都圏ですね。こんなところにもたくさんの人と車が来ています。大山千枚田(おおやませんまいだ)は、千葉県鴨川市大山にある棚田です。東京からもっとも近い棚田とされています。東西600mに渡り375枚の棚田があります。日本で唯一、雨水のみの耕作がされている天水田とのことですが、本当に他にないのでしょうか? 毎年秋には、「棚田の夜祭」と題し、3千本のたいまつが灯されると聞いていましたが、無数のLEDキャンドルが配置されています。着いたときはまだかなり明るさが残っていたのですが、空が暗くなるとともに、キャンドルが少しずつ光り輝き初めました。少し幻想的ですね。来て良かったと思った瞬間です。後で調べると、キャンドルは1万本もあるそうです。 ■道の駅/とみうらの手前2kmほどに、事前情報で調べていた「くろしおの湯」がありましたので、電話をしてみました。食事はないそうです。20kmほど離れていましたが、向かうことにしました。道の駅が近いので、一旦、道の駅/とみうらに寄り、支度をしてくろしおの湯に向かいました。道の駅には、余り車が駐まっていませんでした。すでに18時を過ぎていましたので、今日はコンビニ弁当です。 くろしおの湯は、何と民宿風の旅館でした。お風呂も家庭用のような小ささでした。今回の旅行で入ったお風呂の中では最小ですね。木のフタがしてあり、誰も入っていませんでしたので、自分で開け閉めをするスタイルです。温泉を謳っていますが、蛇口も一つです。経営をしているのは、設備工事会社のようでした。帰るとき、奥さんが話しかけてきましたので、長話をしてしまいました。電話をかけてきた人かどうか確認したかったようです。 |
千葉県鴨川市の大山千枚田 |
|||
大山千枚田のキャンドルが光る |
||||
キャンドルの一つ |
||||
千葉県館山市のくろしおの湯 |
||||
千葉県館山市の蟹田地区にて |
||||
房総半島南端の野島崎にて(左端に見えるのが野島埼灯台) |
||||
野島埼にて |
後で調べると、犬吠埼(九十九里浜方面)のホテルにもくろしおの湯がありましたが、案内本に出ていた電話番号はこちらでした。ホテルの方にはレストランもあるようです。道の駅/とみうらに戻りましたが、やはり停泊はほとんどありませんでした。 ■2015年12月6日になりました。道の駅/とみうら自体は小さいようですが、周りに複数の施設が展開されているかのような雰囲気があります。どちらかというとついでに道の駅もできたような感じです。停泊は数台程度と少ないですが、道路を挟んだ駐車場には多数の車が駐まっていますが、地元の車と思われます。身障者トイレにウォシュレットが付いていましたので、利用させてもらいました。ゴミ処理は不可でした。対岸に富士がうっすらと見えます。山の頂が白く光っているのが神々しいですね。 朝、5:05ころ、叫び声と走り去る足音で目が覚めましたが、何だったのかは不明です。いつもの車内食とみかんを食べて、館山市にある「かにた婦人の碑」に向かいました。蟹田地区に着くと、「部外者許可無く進入不可」の看板があります。車を駐めて、坂道を歩いて行ったのですが、良く分かりません。何かの宗教施設のような雰囲気があります。かつての大砲の砲台があったとのことなどが記されています。 「かにた婦人の村」は、売春防止法の施行に伴い、従軍慰安婦のために、生活の場を失った女性たちを保護するため、故・深津文雄牧師が、1965年に旧海軍の砲台があった約10万平方メートルの山林の払い下げを受け開設した施設です。従軍慰安婦というと韓国の問題が、クローズアップされますが、国内においても同様な問題があった事実を忘れる訳にはいきません。 ■車に戻り、さらに南下して、「野島崎」へ向かいました。途中、ゴルフ場の中を通りました。美しいゴルフ場ですね。房州カントリークラブです。間もなく、房総半島の南海岸に出てきました。南国風で美しい白浜オーシャンリゾートを通って、野島崎灯台が見えて来ました。駐車場に車を駐めて、灯台に至る道を歩くと厳島神社がありました。 溶岩が不定型に固まったような海岸です。伝説の岩屋があり、中にタコのレリーフがありました。「頼朝公の隠れ岩」と伝わっているそうです。投げ銭をして、タコの口に嵌まると御利益があるそうですが、普通に、お賽銭を上げてお参りをしました。看板には強く投げ銭をしないでくださいと書いてありましたが、タコの口に嵌まったお賽銭が複数見えましたが、さてどうだったでしょうか? 野島崎の先端部に出て、岩場を上がり、ベンチで一休みです。風は強いですが、穏やかな気候です。日の出と日の入りが見られるとのことです。ここはかつては房総半島と離れた小島でしたが、1703(元禄16)年のあの元禄大地震で隆起、地続きとなりました。 ■続いて、海岸線に沿って北上し、九十九里浜方面に向かいました。サーフィンをする人が姿が多く見られます。考えて見れば、今日は日曜日でした。長い海岸線を走り、途中、匝瑳(そうさ)市で昼食を取り、犬吠崎に向かいました。犬吠埼灯台らしき灯台が見えて来ましたが、駐車場がありません。道路には複数の車が駐まっています。仕方がないので、道路に駐めて灯台を撮影したのですが、よく見ると北側にもう一つの灯台がありました。それが犬吠埼灯台でした。こちらは長崎鼻にある灯台です。犬吠埼灯台にはしっかりとした駐車場がありました。しかも灯台に登ることができます。200円を払って、煉瓦製の灯台としては尻屋崎灯台に次ぐ国内第2位、高さ31.3mの灯台の中を登ってみました。 |
|||
頼朝公の隠れ岩入口 |
||||
隠れ岩のタコのレリーフ |
||||
房総半島最南端の碑と灯台 |
||||
銚子半島最東端の犬吠埼にて(右手に見えるのは長崎鼻の灯台) |
||||
■次は、「成田山新勝寺」です。近くには何度も来ていましたが、ここを訪れるのは初めてです。所々で渋滞がありました。旭市を抜けるのが大変でした。暗くなってきましたので、余裕がありません。16:10ころに着いたのですが、駐車場が判りません。小さな駐車場が多数あり、どこに駐めて良いのか分かりません。うろうろと狭い道に入ってしまい、苦労をしてしまいました。諦めて、少し高いと思ったのですが、門前の800円もする駐車場に車を駐めることにしました。 駐車場の係の人に、料金を払おうとしたのですが、もう閉めたので不要といわれました。出入りは自由にしておくので、勝手に出入りしてくれとのことです。こんなこともあるのですね。東門から入り、総門まで戻ってみました。撮影をしたのですが、かなり暗くなってきました。 三重塔がありましたが、かなり厳しい撮影となりました。とはいえ、多数ある施設の彩りが華やかです。さすがに日本でも明治神宮に次いで、全国第2位の初詣客がある寺院です。真言宗智山派の大本山ですが、総門の前には狛犬がいました。本院で参拝。少し散策すると、「大塔」の案内がありました。その手前には奥の院がありましたが、塀に遮られています。奥の院には、成田山新勝寺の本尊である「不動明王」の本地仏「大日如来」が安置されています。 大塔とは、巨大な多宝塔を指します。中に入ることもできるようです。「平和の大塔」とも称され、鉄筋コンクリート造で高さは58.1mあります。撮影限界まで粘って、撮影を試みました。成田山新勝寺は、朱雀天皇の密勅を請けた寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて、940(天慶3)年、海路で上総国尾垂浜に上陸後、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを起源としています。 地方豪族出身の平将門が、瀬戸内海の藤原純友の乱と呼応するかのように、勢いを得て関東全域を手中に収め、、朝廷に対して「新皇」を称し、関東諸国に国司を任命するほどの存在となったのですが、朝廷軍と戦い、それを打ち破ったかに見えたときに、流れ矢に当たり死亡したという「承平天慶の乱」は、海音寺潮五郎原作の「平将門」でかつてNHKの大河ドラマでも放映されました。平将門は、神田明神の祭神でもありますし、首塚があるように、関東では現在でも崇拝されている存在です。 ■駐車場に戻り、千葉県柏市にあるスーパー銭湯「満天の湯」に電話をしました。浴場もレストランも夜中近くまでやっているようです。安心して、道の駅/しょうなんに向かいました。危惧したほどの渋滞はありませんでしたので、18:20に着きました。確かに道路を挟んで、道の駅と満天の湯があります。 寝支度をして、満天の湯へ歩いて向かいました。日曜日なので、100円入浴料が高いようです。浴場は多数、露天風呂も多数あります。サウナも二つあります。難点はテッシュを置いていないことなど細かいところでしょうか。コインマッサージ料金は、10分で300円と高めでしたが、高級な機械が置いてあります。効果はてきめんでした。少し風邪気味でしたので、緩んだでしょうか? ルートを変えましたので、道の駅/しょうなんに着いたのは、予定より2日遅れとなっています。ゆったりとした後で食事をしました。豚と野菜炒めが主で、刺身、天麩羅、煮物などが入った季房膳という御膳を頼みました。熱燗も一本。食事が遅かったので、22時近くまでゆっくりとしました。 |
犬吠埼灯台 |
|||
犬吠埼灯台から見た景色 |
||||
犬吠埼灯台の内部階段 |
||||
成田山新勝寺の総門 |
||||
成田山新勝寺の大本堂 |
||||
成田山新勝寺の大塔 |
成田山新勝寺の奥の院 |
三重塔の初重 |
成田山新勝寺の三重塔 |
|
ページのトップへ |
129 関東北部を廻る(2015年12月3日の記録) |
歓喜院聖天堂の灯籠の後ろに | ■かつては「高気密・高断熱」を批判する本や記事を時々目にしたことがありましたが、最近ではほとんど目にすることが無くなってきました。とはいえ、非寒冷地で建築に携わる方々の根強い抵抗は未だに健在のようです。昨年4月に完全施行された「建築物省エネ法」は、そのような抵抗に対するとどめの役割を果たすことができるでしょうか? 吉田兼好は「家のつくりやうは、夏を旨とすべし」と徒然草で述べましたが、「冬を旨とすべし」でもないのです。 「東京五輪」は、建設業界にも大きな特需を与えているようですが、地方に住む我々からすれば、どちらかと言えば迷惑な話ばかりのような気もします。関東を中心とした報道等はそのような地方の意見を聞こうとはしていないかのようです。何かと弊害が目立っている東京五輪ですが、後の祭りとならないことを願うばかりです。 国内にある森林を何とか活用して、整備された木材供給システムを作り上げるために、都市木造が注目されていますが、法整備は未だ道半ばかも知れません。一昨年12月の糸魚川大火では、木造密集地帯の火災の恐ろしさを実感させられましたが、昨年の6月のロンドンタワー火災では、外断熱の断熱材の火災に対する脆さに衝撃を受けてしまいました。難燃材とは謳っていますが、事実上の可燃材を外壁に使う恐ろしさを改めて認識しなければなりません。 そして、地震です。「想定外」の言葉がちまたには溢れていますが、震度7が続けて発生した4月の熊本地震では、自然の脅威を目の当たりにさせられました。数万年あるいは数十万年の単位で繰り返される「阿蘇カルデラ」の中に人々は居住しているのです。数万年とは、46億年といわれる地球の歴史の中では、一瞬の出来事なのです。かつては、太平洋に流れ出でていた石狩川も、約4.4万年前の支笏カルデラが形成された大噴火によってせき止められ、現在のように日本海に流れ出るようになりました。 いつどこで、大規模地震が発生してもおかしくはないのが日本列島なのです。もちろん、原発などはもっての外といえます。年頭に当たり、改めて地球の歴史の偉大さを思い知らされました。(2018年1月4日記) ■道の駅めぬま(妻沼)は、大きな道の駅でした。停泊は10台程度、他に大型が10台程度駐まっています。大型のエンジン音が五月蠅かったのですが、離れて駐車しました。トイレは、ウォシュレットなしでしたが、ゴミ処理が可能でした。いろいろ迷ったのですが、この道の駅を選んで正解だったようです。最初の目的地の歓喜院と石上寺の中間にある道の駅です。 「歓喜院聖天堂」は、2.4kmの近さです。昨夜は遅かったので、朝食は近くのコンビニで買ったサンドイッチです。7:46に歓喜院に着きました。駐車場が複数あります。本坊の近くの駐車場に入れました。本殿は、200m離れた信号のある道路を渡ったところにありました。総門に来ると参道が長いですね。ちょっと不思議な感じがするお寺です。 手水舎や狛犬もあり、かつての神仏習合の名残なのでしょうか。「埼玉の小日光」とも呼ばれる歓喜院は「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん )」とも称される高野山真言宗の仏教寺院です。寺伝では治承3(1179)年に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされています。2012年に国宝に指定された現在の本殿(聖天堂)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものです。平成15(2003)年から平成23(2011)年に掛けて修復工事が行われました。 |
|||
歓喜院聖天堂拝殿にて | ||||
歓喜院聖天堂拝殿 | ||||
歓喜院聖天堂本殿 | 星渓園にて | 石上寺の冬桜 | 石上寺本堂 | |
拝殿の前に石舞台があるのが特徴的ですね。拝殿の彫刻は流石です。拝殿からは本殿はよく見えません。本殿の拝観は9時からでしたが、左側の塀の間から本殿が垣間見えます。素晴らしい彫刻や彩色の極致が少し見えます。立派な施設が並んだ寺院でした。 ■続いて、「石上寺」に向かいました。近いのですぐに着きました。石上寺の塀が見えたのですが、駐車場に入るために一廻りをしてしまいました。すると、「星渓園」の小さな駐車場がありました。そこに駐めて星渓園に入って見ると、立派な庭園があります。記帳をして先に進むと、茶室や待合などもあります。池を半周りすると出口があり、そちらに行ってみると石上寺の門がありました。 星溪園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如翁によって慶応年間から明治初年にかけて造られたもので、現在は熊谷市が管理をしています。星溪寮、松風庵、積翠閣の3つの建物があり、日本文化教養の場として利用されているそうです。 石上寺の門は閉まっていましたが、その横の入口が開いています。入るとすぐに本堂が見えました。新しい美しい建物です。シャチホコが金色に輝いています。石段を登ると掃除をしているおばさんが話しかけてきました。話し好きのようで、庭に咲いている木々の説明をしてくれます。冬桜が咲いています。札幌から来たというと、ベルを鳴らすと和尚さんが来るので、話をすると良いとまで言ってくれましたが、ちょっと気後れがしてしまいました。 石上寺(せきじょうじ)は、開基は1600年代のようですが、1945年の熊谷空襲で本堂・庫裏・山門他すべてを焼失、その後、妻沼にある農家の建物を移築、改装して本堂としていたのですが、住職の熱い情熱により、唐招提寺をモデルとして2011年に本堂が再建されました。 しかも、その再建に携わったのが、あの西岡常一棟梁の唯一の内弟子であった小川三夫氏でした。西岡棟梁亡き後、鵤工舎を興した小川三夫氏が住職の願いを聞き入れ、カナダ産のヒノキを使用、屋根瓦は唐招提寺のシャチホコを製作した山本瓦工業が担ったとのことです。もっとも、入母屋造りの本堂は、唐招提寺とは異なりますが、そのイメージを受け継いだということなのでしょう。美しい本堂でした。 ■続いて、高崎市の「群馬県立近代美術館」に向かいました。着いたのは「群馬の森」、駐車場があります。群馬県立近代美術館は、「明治百年記念事業」として群馬県立歴史博物館とともに高崎市東部に建設された磯崎新の1974年の作品です。旧東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」跡地に築かれましたが、ここには日本化薬高崎工場、日本原子力研究開発機構高崎量子応用研究所(旧日本原子力研究所高崎研究所)も置かれているそうです。 流石の傑作です。手前の飛び出している矩計の前には池があり、その反射も美しいですね。隣では、ピラミッド型の県立博物館が建設中でした。本当はもっとゆっくりしたかったのですが、先を急ぐことにしました。 ■同じ高崎市の「保渡田古墳群」に向かいました。広い敷地に複数の古墳がありますが、八幡塚古墳は葺石が復元されています。しかしセメントで固めているのが無粋ですね。円筒埴輪などが並んでいます。説明板を見ると、葺石は下の方は粗になっているとのことです。後円部には、地下に降りる階段がありました。石室が残っています。複数の埋葬があったようですが盗掘された歴史があるようです。 保渡田古墳群(ほとだこふんぐん)は、群馬県高崎市の榛名山の南麓に分布する古墳群です。二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っています。二子山古墳は墳丘長108m、八幡塚古墳は墳丘長102m、薬師塚古墳は、推定墳丘長100mといわれています。 築造年代は、5世紀代の後半から6世紀前半代にかけてですから、古墳時代の関東の位置づけを改めて考え直すものといえますし、日本の歴史がこのような考古学的資料からも、かつていわれていた時代考証からもかなり遡ることを証明するものでしょう。八幡塚古墳からは鵜形埴輪が出土したことから、鵜飼いの歴史がいかに古いものであったか物語っています。 ■桐生市の「桐生明治館」に向かいました。ところが、その次の予定先だった「岩宿遺跡」がその3km手前にありました。ちょっと事前情報が間違っていたようです。もちろん、岩宿遺跡に先に寄ることにしました。岩宿博物館などがあり、複数の施設や池がありましたが、肝心の岩宿ドームが分かりません。案内板がありましたが、分かりにくいですね。しばらく歩くと、やっと岩宿ドームを見つけることができました。相沢忠洋の銅像がありました。 駐車場があり、最初からこちらに来れば良かったようですが、仕方がありません。岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、1948(昭和21)年に発見された、群馬県みどり市にある後期旧石器時代(約3万年前〜1.2万年前)の遺跡ですが、在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見され、日本列島に旧石器時代が存在したことが証明されたという、貴重な遺跡です。 あの神の手(ゴッドハンド)が活躍した旧石器捏造事件では、日本にも前期・中期旧石器時代(最大で約70万年前まで遡った)の遺跡があったとされた考古学的発見がすべて無に化してしまいました。神の手といわれた藤村新一が第1回相沢忠洋賞(後に返上)を受賞したのは皮肉なことでしたが、相沢忠洋が岩宿遺跡を発見したときは、時の考古学会は彼を認めようとはしなかったのに対して、藤村新一が旧石器を発見し続けたときは、多くの考古学者が彼を疑う考え方を逆に排除したことは、忘れてはならないと思います。 相沢忠洋が発見する10数年前に直良信夫によって発見された「明石原人」も日本における旧石器時代の存在を示す指標となる可能性があったのですが、当時の考古学会は、それを冷たく見放したといいます(「新・北海道の古代 1・2・3」)。 |
群馬県立近代美術館 | |||
建設中の群馬県立博物館 | ||||
群馬県立近代美術館 |
||||
八幡塚古墳 | ||||
岩宿遺跡にて | 八幡塚古墳の石室内部 | 八幡塚古墳の石室に至る | 保渡田古墳群 | |
岩宿ドーム入口 | 岩宿ドーム内に入ってみると、説明のおばさんがDVDを掛けてくれました。約8分間のマンガでした。相沢忠洋に混じって、芹沢長介や杉原荘介の映像もありました。マンガを見終わると、発掘した積層のライトアップです。訪れる人も余りいないようですが、考古学会に思いを馳せたひとときでした。 ■桐生明治館に向かいました。3km程度の離れです。かなり外装は傷んでいるようです。入館料は通常150円ですが、キャンペーンらしく110円でした。家具の猫足が見事ですね。壁のクロスは金唐革紙ではなく、普通のクロスの様な気がします。藍染めの和紙らしいものを張った天井が2部屋ありました。大河ドラマに合わせた展示もあります。桐生明治館は、1878(明治11)年に衛生所兼医学校として、前橋に新築されたものですが、その後現在地に移築され、保存修理がされました。 ■さて、15時近くになっていますが、群馬県みどりの市にある「小中の大滝」をどうするか、28km程度の離れです。往復をすることになりますが、頑張って行って見ることにしました。少し腰が痛かったのですが、ロキソニンテープが効いたようです。楽になってきました。 当初は、大滝から渡良瀬逍遙を試みて、日光に西から回り込む予定だったのですが、首都圏に戻る必要があったため、大幅なルート変更となっています。大滝まで6〜7kmを残して山道に入りました。ここから日光までは30〜40km程度です。少し暗くなってきました。 大滝の駐車場に着きました。シルバー人材センターの人がいて、清掃中でした。辺りの木々の葉はほとんど落ちています。橋が綺麗になったと言っていましたが、始めてなので判りません。整備されたような道を進むと、道がどうも判らなくなってきました。岩や荒れた道が続き、駐車場の先の道路に出てしまいました。どうも間違ったみたいですね。駐車場に戻って来てしまいました。 先ほどの人材センターの人は、何故教えてくれなかったのでしょうと人のせいにしても始まりません。良く見ると、上に登る階段がありました。登っていくと、滝の音が聞こえてきました。しかも短いトンネルがあり、そこを通ると、不思議な橋が掛かっています。これが「袈裟かけ橋」でした。橋が綺麗になったといったのはこの橋のことだったのですね。1/4円弧を描いている橋です。橋を下ると滝が見えてきました。橋を渡りさらに段を上ると今にも落ちそうな大きな岩があり、その上に展望台がありましたが、結果的に、橋の上の方が良い展望だったような気がします。 ■駐車場に戻り、道の駅を選択しようと思ったのですが、電話は圏外でした。結局、吉岡温泉を選定しました。翌日に行く首都圏の目的地までは80kmを残すことになります。ナビは、山道を選択します。歪路もありましたが、距離選択を設定してそのまま進みました。着いたのは道の駅/吉岡温泉、ほとんど前橋市です。ここで改めて翌朝の距離を調べると110km程度ありましたが、まあ仕方がありません。吉岡温泉は混んでいました。群馬県産の生姜焼き定食が1,000円でしたが、他に、冷や奴とモロキュウと少し贅沢して、缶ビール500mlを美味しく頂きました。昨夜の寝不足のせいか酔った気がします。 |
|||
岩宿ドーム内にて | ||||
桐生明治館 | ||||
桐生明治館で見た美しい猫足 | 袈裟かけ橋 | 小中の大滝 | 小中の大滝の展望台 | |
ページのトップへ |
128 熱海から関東に(2015年12月2日の記録) |
■馬鹿な男が馬鹿な決定をして、世の中の不穏を煽っています。その馬鹿な男を非難できない男が日本の首相を務めています。森友問題でも、つじつまがあわない答弁を繰り返す財務官僚が日本の行政の中枢にいるという現実をどう捕らえて良いのでしょうか? このような不実がまかり通ることを許すことはできません。 今年初め10万円ほどだったビットコインが一時期200万を超えたとのニュースに驚きました。エンデは、等価代償であるべきお金がそれ自体商品となったことに警鐘を鳴らしていましたが、ビットコインはお金でもありません。仮想通貨といわれる夢まぼろしのようなものといえます。これは現在の黒田日銀が垂れ流す円の影響と考えるべきでしょう。(2017年12月10日記) ■2015年の12月です。道の駅/花の三聖苑伊豆松崎は小さな道の駅でした。停泊は4〜5台程度ですが、大型はいません。道路側に別な駐車場がありましたが、そちらに2台ほどが駐まっていました。トイレはウォシュレット付きと意外でした。歴史的建造物を道の駅のテーマにしているようです。伊豆長八が関わったという建物や塑像などがのどかな風景の中にありました。 「道の駅/花の三聖苑伊豆松崎」は、郷土の三聖人の業績を中心に、松崎の歴史、文化を紹介する複合施設です。かじかの湯も併設されていました。幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家の依田佐二平、そしてその弟で北海道の十勝平野の開拓者として著名な依田勉三が三聖人でした。敷地内には、依田佐二平が私財を投じて開校した公立小学校である「大沢学舎」も移築されていました。 ■熱海方面に向かいました。途中、昨日通った道を少し経由して、伊豆半島東側に出ました。曇り空です。海が淀んでいます。雲間から指す太陽の光が美しいですね。ナビは渋滞情報を示していましたが、その情報に反して順調に進みました。熱海市内に入り、「起雲閣」に寄ってみましたが、外観というよりも塀を眺めただけです。 起雲閣(きうんかく)は静岡県熱海市昭和町にある熱海市指定有形文化財になっている近代建築です。1919(大正18)年に、実業家根津嘉一郎、農商相・内田信也の別邸として建設されました。その後、旅館として営業していましたが、2000年からは熱海市所有の観光施設となっています。暖炉やガラスの採光、そしてローマ風呂といった大正時代以降のモダンが残っているそうです。映画やドラマの撮影の舞台となったことでも有名です。 ■「日向邸」に向かいました。目指す建物は熱海駅の近くにあります。車で急な細い斜路を登るのは諦めました。近くの駐車場に車を駐めて歩いて行くことにしました。近くで高層マンションを建設中でしたが、私が務めていた建設会社が施工中でした。工事用看板には懐かしい人の名前が複数出ていました。 急な斜路を歩いて行くと狭い階段がありました。ここを登ると良いようです。正解でした。すぐに日向邸の案内がありました。その手前に「海峯樓」がありました。海に溶け込むという設定でガラススクリーン越しに熱海の海が望めるという隈研吾の設計として、テレビでも放映されました。木々に囲まれていて石の壁しか見えません。 その横を通って石段を下ると日向邸がありました。外観は普通の民家です。予想通り休館中でした。外観のみの撮影となりました。海を望む場所にあり、沖合に小さな島が見えます。日向邸から見えるであろう海側を望むことができます。 |
道の駅/花の三聖苑伊豆松崎 |
|||
道の駅/花の三聖苑伊豆松崎 |
||||
道の駅/花の三聖苑伊豆松崎 | ||||
移築した旧大沢学舎 | ||||
旧日向邸 | 海峯樓 | 起雲閣 | 道の駅/花の三聖苑伊豆松崎 | |
寒川神社楼門 | 日向邸は、明治期に貿易商として活躍した日向利兵衛の別邸として1936(昭和11)年に建てられました。この建物が有名になったのは、あのブルーノ・タウトがその地下のインテリアを手がけたからです。建物全体の設計をしたのは渡部仁ですが、タウトは在日中は建築家としての作品を殆ど残してはいませんので、この建物が特に注目されているということでしょうか。他にはわずかに麻布の大蔵邸とミラテスが知られていますが、現存するのはここだけです。 タウトはその後、トルコに行き、間もなく亡くなっています。ここは内部を見たかったですね。撮影をしていると、丁度、カラスが目の前を横切っていきました。 ■車に戻り、出発です。警告灯が点灯し始めましたので、小田原で給油です。ウォッシャー液をサービスしてくれました。マットも無料で洗って貰いました。先に進むと、より安いGSがありましたが、まあ良いでしょう。順調に進み、「寒川神社」に着きました。横浜支店にいたときは、何度か寒川町にも来たのですが、参拝が叶わなかった神社です。当時、建設中だった施設では、蛍光管を曲げる技術に驚いた記憶があります。 寒川神社は、神奈川県寒川町宮山にある相模国一宮とされる神社です。古代には、ここまで海が入り込んでいたそうです。寒川比古命 (さむかわひこのみこと)と寒川比女命 (さむかわひめのみこと)を合わせて寒川大明神が祭神となっています。八方除の守護神として関東一円から参拝者が訪れるそうです。 人の一生の間には何度かの節目があるといわれています。数え年で男性は25・42・61歳、女性は19・33・61歳に心身に何らかの歪みが生じるとされるのが、「厄年(やくどし)」です。それ以外にも、運気が停滞する歳を八方塞(はっぽうふさがり)の歳といい、9年に一度訪れるといわれます。ちなみに平成30年の八方塞がりに当たるのは、男女共、昭和12・21・30・39・48・57年、平成3・12・21年生まれだそうです。まあ、気にしない方が良いでしょう。 寒川神社は、予想以上に大きく立派な神社でした。駐車場も広く複数あります。豪華な楼門があり、拝殿に掛かる注連縄の張り方に特徴があります。楼門の横で、祈祷を上げている集団がいました。何かの宗教集団でしょうか? 拝殿で参拝をすると祈祷中でしたが、祝詞がちょっと異なる雰囲気がありました。八方除にちなむとして、平成24年に作られた「方位盤と渾天儀(こんてんぎ)」が拝殿の横にありました。 本殿は表側からは見えません。一旦、外に出ると、神苑があり、本殿で祈祷をした人に開放されているとのことでした。千木が左右不揃いと変わっています。 ■今日は、この後、東京にいる娘と会うことになっています。娘が引っ越しのため、たまたまその手伝いをすることになりました。今日は、その準備です。一緒に、家具店などに行って、分かれた後、埼玉県熊谷市の道の駅/めぬまに着いたのは、0時近くになってしまいました。寝たのは0:45でした。 |
|||
寒川神社拝殿 | ||||
方位盤と渾天儀 | ||||
寒川神社本殿 | ||||
ページのトップへ |
127 伊豆を巡る(2015年12月1日の記録) |
■昨年秋に自作したPCですが、起動用のSSDの温度が50度を超えることもあり、気になっていましたので、ヒートシンクを付けてみました。元々は、M.2のヒートシンクなしのスケルトンタイプのSSDですが、PCケース中央に直立しているため、ケーブルの隙間に危なげに佇んでいる気配です。 ヒートシンクの効果がイマイチでしたので、ヒートシンクに小型のファンを付けてみました。25mmしかないファンのため、気休め程度の気分もあったのですが、効果が絶大でした。負荷をかけると40度を超すこともありますが、通常の使用では38度程度で推移するようになりました。何でもやってみるものです。メモリーが露出した裸のSSDが、鎧を付けてファンまで背負ってしまいました。姿は滑稽といえます。誰かに似ていますね。(2017年11月5日記) ■今日から2015年の12月に入りました。朝方は、足下が冷えた感がありました。4:30ころ、トイレに起きてしまいました。そのまま何となくうたた寝をした感じです。道の駅/くるら戸田は、新しく綺麗な施設でした。特に浴場は綺麗ですね。露天風呂があり、温度設定が高かったので、気持ち良く入ることができました。停泊は5〜6台でしょうか? 近隣の車も多数駐まっているようです。ゆっくりと朝食を取り、7:30に出発しました。 ■近くの「北山の棚田」に向かいました。昨日通って来た途中、4km戻った位置にありました。少し山道に入ったところに棚田がありました。山間のこぢんまりとした棚田です。柑橘類が多く栽培されています。良いアングルがないかと見上げると、傾斜地に家が張り付いています。その上に道路も見えます。沼津市の北山の棚田は、総面積1.5ha、棚田の枚数が20枚です。 ■修善寺温泉に向かったのですが、先ほど見た斜面に張り付いていた家の上の道路を通ることになりました。そこから見下ろした写真が添付画像です。修善寺町内に入ったのですが、一方通行規制が厳しいですね。まだ早朝のため、余り車は通っていません。修善寺前の橋の横に一時停車して、修善寺を撮影しました。修善寺は、以前にお参りしたことがありますので、何となく流す感じです。橋の上からは、「どっこの湯」が見えました。 修善寺温泉は、弘法大師空海が開いたと伝わります。川原で病気の父親の体を洗う少年のために、弘法大師が独鈷を用いて岩を砕き、そこから湯が湧出した逸話が残っています。夏目漱石が、前期三部作『三四郎』『それから』に続く『門』を執筆しているころに、この修善寺温泉で大喀血をしたことは有名です。漱石は、その6年後、『明暗』執筆中に亡くなります。 ■伊豆市天城湯ケ島にある「荒原(あれはら)の棚田」に向かいました。こちらは整然とした風景です。棚田の中間にしか撮影ポイントが見つからず、全景は難しいですね。案内本では、道路から全体を見渡していますが、そのポイントが分かりません。この辺りには、わさび田も多いそうです。名前の通り、昔から山崩れや水害の被害が多かった場所です。今は整然とした感がありましたが、そのような歴史があるのですね。 ■国道の反対側にある「下ノ段の棚田」に行って見ました。川の対岸からの撮影となりました。川のせせらぎが美しく、紅葉も綺麗ですね。耕作放棄地もありますが、自然に囲まれた景色が素晴らしいです。慶長年間には、金が採掘されていたそうです。川に注ぐ小さな滝が風情を醸し出していました。 |
北山棚田 | |||
修善寺 | ||||
修善寺温泉のどっこの湯 | ||||
荒原棚田 | ||||
天城越 (ドライブレコーダーの記録) |
旧天城トンネル | 浄蓮の滝 | 下ノ段棚田 | |
二階滝付近で | ■伊豆半島中央部を南に下りました。途中、「浄蓮の滝」の駐車場がありましたので寄ってみました。ここも中国語の観光客が多いですね。石段を降りると滝が見えて来ました。小さいですが、予想に反して美しい滝ですね。とにかく名前が素晴らしい。歌い上げている石川さゆりの姿が見えてきました。浄蓮の滝は落差25m、かつて滝の近くに浄蓮寺という寺があったことから名付けられたと伝えられます。 ■さらに伊豆半島を南に下ると天城越えに入りました。途中、左手に旧道の案内がありました。挑戦してみましょう。舗装なしの細い山道が続きます。右側は崖、左側は山ですが、道路すぐ横に石積みが続きます。間もなく、小型のトラックが向かいから走ってきました。すれ違うのが大変です。左側の石壁にこすりそうになりました。 山道を進むと、工事現場があり、その先に旧天城トンネル(天城山隧道)がありました。細いトンネルです。1905(明治38)年に完成した全長445.5m、幅員3.5mの石積みのトンネルです。車両のすれ違いはまったく無理です。ゆっくりと進むと、トンネルの先が明るく見えてきました。くっきりと光っています。何故か幻想的ですね。 トンネルを過ぎると二股がありました。左に進むとさらに旧道、右に出ると現在の国道に出ます。少し迷いましたが、天城トンネルを堪能しましたので、右の国道に出ることにしました。国道に出ると、二階滝の駐車場がありました。山道に入って間もなくから二階滝の駐車場までの記録が添付のドライブレコーダーの記録です。約8分あります。実際はもう少し掛かりましたが、一部カットしました。 駐車場に車を駐めて、「二階滝(にかいだる)」に寄ってみようと思い、看板を見て山道を登りました。すると、先ほど通って来た二股の所に出てしまいました。バス停もありました。どうも間違ったようです。そのまま、先ほど車で通った道を歩いて国道まで出てきましたが、分かりません。諦めて、国道を歩いて行くと、滝の音がします。駐車場の近くです。でもこれは違うようです。後で調べると、二股の近くにあったようですが、気がつかなかったようです。 ■車に戻り、「河津大滝」に向かいました。大きな駐車場があり、河津七滝との案内があります。一時間半程度で、滝巡りができるようです。案内板を見ると、大滝には一般の人は行けないと出ています。一番手前にある「出会滝」の横にあるようです。出会滝に行ってみました。石段を下ると、小さな多段の滝が見えてきました。その先に、もう一つの滝があり、二つが合流するので出会滝というらしいですね。 その先に、大滝がありました。丁度、頂部が見えます。対岸から見るポイントもありそうです。しかし、何の説明もありません。この地域は、観光で有名な地域ですが、観光の場所他を丁寧に案内するという姿勢が欠けていると思います。とにかく、お店に寄って、買物をして貰いたいという雰囲気だけが満ちています。大滝には、恐らく行く道があると思いましたが、止めておくことにしました。 車に戻ると、蕎麦屋が目に入ってきました。その横で湧水が流れています。蕎麦を食べて、水を汲ませて貰おうと思ったのですが、11:45から営業との案内が出ています。現在、11:38です。先に水を汲ませて貰っている内に、蕎麦の用意が出来るだろうと思い、入口を開けようとしたのですが、鍵が掛かっています。これは諦めざるを得ません。 静岡県河津町を流れる河津川の約1.5kmの間にある七つの滝の総称を「河津七滝(かわづななだる)」といいます。高さ22mの釜滝(かまだる)、高さ5mのえび滝(えびだる)、高さ3mの蛇滝(へびだる)、高さ10mの初景滝(しょけいだる)、高さ2mのかに滝(かにだる)、高さ2mの出合滝(であいだる)、そして伊豆最大を誇る高さ30mの大滝(おおだる)から成っています。 |
|||
出合滝 | ||||
出合滝 | ||||
出合滝 | ||||
石廊崎 | 石廊崎 | 石廊崎灯台 | 石廊崎の突端 | |
■伊豆半島南端の石廊崎に向かいました。途中、お腹が空いたので、下田の讃岐うどん店でうどんを食べることにしました。蕎麦に裏切られてしまったので、うどんを食べようということです。駐車場が判らなく、一廻りをしてしまいましたが、商店街の有料駐車場に車を入れました。多分、無料駐車券が貰えるだろうと判断したわけです。 納豆ぶっかけを注文しましたが、なかなか出てきません。隣のカウンターの中国人4人組が騒がしいですね。窓が開いていて、店内は寒いです。結局、17〜18分も待ってしまいました。しかし、待った甲斐がありました。美味しいうどんです。注文を受けてから、茹でていたのでしょう。ところが、隣の中国人のおばさんが、こちらを見て「ナットウ」と言ったので、4人みんながこちらを見て何か話をしています。興味深かったのでしょうが、あまり良い気分ではありません。うどんは美味しかったのですが、すっかり体も心を冷めてしまいました。 とはいえ、駐車料金が無料になりましたので、気分を換えて、石廊崎に向かいました。カーブが多い道が続きましたが、ある程度広い道のため、走り易いですね。石廊崎に着くと、有料駐車場がありました。500円だそうです。駐車場のおじさんは、聞いてもいないのに、500円の価値がある景観だとのことです。恐らく最近、値段を変えたか、有料にしたのでしょうね。 1kmほど歩くとのことでしたので、現在13:21でしたが、今日の停泊予定の道の駅/伊豆松崎に電話をしてみました。浴場は20時までですが、蕎麦屋が16:30で受付終了とのことです。今日は、蕎麦には縁がなかったようです。途中で食べていくか、何かを買っていくしかありません。 石廊崎の岬に歩いて行きました。石段を登ると、入り江が美しく見えて来ました。途中、廃屋になった大きなお店がありました。観光客が減ったのでしょうね。蘇鉄などの南国の木が茂っています。何とも表現できない不思議な実がなる木がありました。さらに進むと石廊崎灯台が岬の先端に見えて来ました。鳥居があり、「石室神社」と出ています。 石廊崎灯台の横を進むと岬の先端に行く道が見えて来ました。岬の途中の石段を降りると石室神社がありました。社務所では、神職が睡眠中です。ここにも役小角の逸話が残っています。岬の岩に沿って細い回廊があります。景観は確かに素晴らしいですね。晴れていますので、伊豆七島が見えます。500円以上の価値はあるかも知れません。 ■車に戻り、松崎方面に向かいました。目的の「伊豆長八美術館」に着きました。こてと漆喰の名人・入江長八の左官技術の業績を伝えることを目的として、1984(昭和59)年に竣工した石山修武の代表作です。写真では何度も見ていましたが、流石のポストモダンですね。少し痛みが目立っていましたが、面白い建物です。隣にも変わった建物が建っていました。 広い駐車場の端には、鏝絵を記念した小さな建物がありました。しかもその横にはコインランドリーまでがありました。今日は洗濯日です。予定していたコンランドリーに行く必要はないようです。洗濯は17時まで掛かりましたが、近くで買物をして、データ整理などをしていました。買物は、生寿司、サラダ、ベーコン、お酒です。 ■道の駅/花の三聖苑・伊豆松崎に着きました。カジカの湯が併設です。電話では入浴料が150円とのことでしたが、町外は500円でした。まあそれでも安いでしょう。しかし、ロッカー代が有料でした。ロッカーが有料の施設は珍しいです。カジカの湯自体は、小さな入浴施設でしたが、露天風呂があり、湯温が高く気持ちが良いお風呂でした。 車内で食べた生寿司は、なかなか美味しかったですね。流石、伊豆です。電子レンジの燗酒はちょっとぬるめでしたが、のんびりとしたのは20:30ころでした。モバイルルーターは繋がりませんでした。隣のキャンピングカーからでしょうか、聞こえるステレオの音がやかましいですね。お酒を飲んでしまったので、車の移動はできません。 |
石室神社を見返す | |||
伊豆長八美術館前の小さな建物 | ||||
伊豆長八美術館 | ||||
伊豆長八美術館の横の建物 | ||||
ページのトップへ |
126 富士を巡る(2015年11月30日の記録) |
■私はカルロス・ゴーンという人物をまったく評価していませんでしたので、日産の検査態勢の偽装には驚きを覚えませんでした。彼の進める経営方針だからこそ、偽装が生まれやすいと思っていたからです。コストカッターの異名を取りながら、従来の下請協力体制を刷新し、本人は異常な収入を得る経営感に正義があるとは思えません。 しかし、今回の神戸製鋼所のデータ偽装には、驚かされました。国際ブランド「コベルコ」で知られる鉄鋼などの複合メーカーの信頼性は、日本の信頼性そのものだからです。東洋ゴムの偽装などのレベルの比ではありません。日本の信頼性が地に落ちてしまったかのような気がしました。 「日本が素晴らしい」と繰り返し流すテレビ番組がありますが、見ていると心地が良いのですが、何故か妙な不信感が広がり私は滅多に見ることはなくなりました。何かを間違ってしまっているような気がします。国際的に信頼を得ていなかった製品群が今日の「Made in Japan」の評価を得るようになった歴史とその努力を改めて考え直す時期にきているのかも知れません。(2017年10月15日記) ■2015年11月最後の日、富士の偉容が目の前に聳え立つ標高909mの道の駅/朝霧高原に、昨夜22時ころ着いたときは車外温度が1.1度でしたので、てっきり氷点下になると思ったのですが、それほど気温は下がらなかったようです。電気毛布をセットして寝たのですが、結局は使用しませんでした。道の駅/朝霧高原は大規模な道の駅ですが、周りに停泊は3〜4台程度と閑散としています。遠くに大型が5〜6台駐車しているのが見えますが、離れているので、エンジン音が微かに聞こえる程度です。起きたときの外気温は2.8度、車内温度は6.9度でした。 朝霧高原は、富士山西麓の標高700〜1,000mに広がる高原ですが、朝に霧が発生しやすいことから、その名が付いたといいます。朝起きたのは、5:46でしたが、富士山はやはり雲の中にありました。2009年には、5時ころに起きてダイヤモンド富士を見に行きました。ゴミ処理可、トイレはウォシュレット付き、洗面にも水石鹸が付いていました。 ■7:22に出発、少し道を戻り、2009年に停泊した本栖湖の駐車場に行って見ました。途中には、ダイヤモンド富士を待っている人達がいましたが、雲が晴れるのを待っているようです。本栖湖に着きました。2009年に停泊したときは、他に車はいなかったのですが、3〜4台の車が停泊をしていました。本栖湖湖畔に行ってみたのですが、2009年に感じた幻想的な雰囲気はありませんでした。少し時期が早いのでしょうか? ■さらに戻りになる田貫湖はパスして、数キロ北東にある精進湖に向かいました。精進湖は富士五湖の中で最も小さな湖です。対岸に富士山の山麓が見えています。続いて西湖(さいこ)に向かったのですが、少しずつ富士山に掛かる雲が切れてきました。湖畔に着くと、富士山の全容がみえます。湖畔で撮影をしている人がいます。湖面に向かってしゃがむように撮影をしています。真似をしてみました。確かに逆さ富士が写っています。 |
本栖湖 | |||
精進湖 |
||||
西湖 |
||||
河口浅間神社 |
星のや富士から見た景観 |
星のや富士 |
河口湖 |
|
河口浅間神社本殿 |
かつての富士山北側には、<せの海>という広大な湖があったそうです。その西側に溶岩流が流れ込んで分断された結果、本栖湖が生まれ、さらに平安時代初期の富士山大噴火(貞観大噴火)により流れ出た膨大な溶岩流によって、湖の粗方が埋め尽くされてしまい、東端に残ったのが西湖で、北側に残ったのが精進湖になりました。しかし、それらの湖は地下で繋がっているため、水位が一定しているそうです。 ■河口湖に向かいました。河口湖が見えて来たのですが、河口湖畔で見る富士山の中腹には雲がかかっていました。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持つという河口湖畔の数カ所で撮影をして、扇崎トンネルを過ぎると、気になる建物が目に入ってきました。斜面から幾何学的な形の建物群が連なって突出しています。少し違和感もありますが、斜面を登ってみました。建物郡は、富士山を目指して口が開いた状態で広がっていました。東利恵設計の「星のや富士」でした。事前には知らなかったのですが、数ヶ月後の建築雑誌に掲載されていましたね。ここから見る河口湖と富士山の景観は素晴らしいものがありました。 ■山梨県富士河口湖町にある「河口浅間神社」に寄ってみました。ここで見る富士山の姿も凜々しいですね。河口浅間神社は、864(貞観6)年の富士山大噴火の鎮火を願って、翌年、勅命により創建されたと伝わっています。木花咲耶姫を祭神としています。参道の杉並木は、800年の歴史を持っているそうです。一間社流造で唐破風付きの向拝を持つ折衷様の本殿の前には、七本杉がありました。七本杉には巡回路が示されていて、縁結びの杉と銘されたパワースポットがありました。 ■そして、いよいよ富士山に向かいます。富士スバルラインを通ったのですが、改札口で料金を徴収されると思ったのですが、無料でした。2,060円が助かったことになります。時期的なものがあるのでしょうか? 道路は渇いていますが、登るにつれ気温がどんどん下がっていきます。ついに0度になったと思ったのですが、雲間を抜けると逆に気温が上がってきました。3〜4度を示すようになりました。途中、駐車場があり、パノラマが見えて来ましたが、とくかく五合目を目指して登りました。 雪が所々に見えて来ましたが、道路上にはありません。私はスタッドレスタイヤでしたが、夏タイヤでも走行可能なようです。五合目に着くと、たくさんの人が見えて来ました。案内に従って駐めた駐車場は無料です。風が強く寒いですね。冬用の防寒コートを着て、カメラを用意して出発です。後ろから来たバスから降りるのは、ほとんどが中国系の人です。さすがに五月蠅い人が多いですね。どこに行っても人だかりです。大パノラマが素晴らしいですね。富士山頂は、太陽の光を受けて、雪渓が光輝いています。小御嶽神社がありました。木花咲耶姫の姉の磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀っています。 大パノラマを満喫、メールが使えますので、娘にメールをした後、スバルラインを少し下ったところに、「景観随一、奥庭遊歩道」の看板がありました。これより300mの看板もありましたが、いきなり下りとなり、歩きづらい石の歩道が続いていました。ねじれ曲がった木々が自然の猛威を見せています。確かに良い景観です。特に、見返した富士山が素晴らしいですね。山頂付近を飛行機でしょうか、真っ直ぐな線を描いて見せてくれました。絵になりますね。さらに山を下る途中、いくつかの景観場所に寄りましたが、確かに奥庭遊歩道が一番だったと思います。 |
|||
富士山五合目のパノラマ |
||||
富士山五合目 |
||||
富士山五合目の小御嶽神社 |
富士山五合目にて |
奥庭遊歩道 |
奥庭遊歩道のパノラマ |
|
■今日は、富士山巡りです。「忍野八海(おしのはっかい)」に向かいました。カレンダーなどで何度も見た所ですが、来たのは初めてです。忍野八海は山梨県忍野村にある湧泉群ですが、富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で、約20年の歳月をかけてろ過され、湧水となって8か所の泉をつくりだしたところです。桜の季節の写真が有名ですね。大きい駐車場がありました。有料300円でした。後で考えると、蕎麦屋にでも駐めて、蕎麦を食べれば良かったかも知れません。 ここも中国系の人が多いですね。透き通った湧水では鯉などの魚が泳いでいますが、ちょっと余計なような気もします。湧水を飲んでみましたが、透き通った味がしますね。出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池などがありましたが、余りにも観光地化され過ぎた嫌いがあります。ここから見る富士山は逆光でしたが、光輝いて見えました。 ■富士五湖で最大の面積を誇る山梨県山中湖村の山中湖に向かいました。湖面の標高も最も高い位置にあります。ここから見る富士山も素晴らしいですが、湖面に浮かぶ船が妙に印象的でした。予想以上に順調に進んだため、現在14時ですが、今日の予定が終わってしまいました。 今日は道の駅/須走に停泊する予定でしたが、先に進むことにしました。温泉第2候補の伊東マリンに電話確認をして、第3候補の沼津市の新しい道の駅/くるら戸田(へだ)に電話をしてみました。戸田には温泉が併設されています。ところが、電話をしてみると、使われていない電話番号とのメッセージが出てしまいました。閉鎖かとも思ったのですが、ネットで調べて見ました。調べた電話番号に掛けると、施設を建て替えたので電話が変わったそうです。営業をしていました。21時まで入浴可能だそうです。ただし、レストランが軽食しかなく、18時で終了するそうです。真っ直ぐ、道の駅/くるら戸田に向かうことにしました。 富士山スバルラインのドライブレコーダーの記録をCOPYするのを忘れていたのを思い出しました。先の方は消えてしまったようです。ドライブレコーダーの記録は、上書きされて古い方が消されるシステムになっています。道の駅/くるら戸田に16:51に着きました。先に食事をすることにしました。軽食コーナーで、カレー600円、フランクフルト200円を注文しました。プラスチック皿に入ってこの値段は少し高いような気もします。 続いて、寝支度をしないまま、道の駅のホールでデータ整理など。ここにはフリースポットもあり、超早いです。しかし、何故かメールは繋がるのですが、インターネット閲覧はダメです。分かりません。モバイルルーターが繋がりましたので、そちらでネット接続をしました。さすが伊豆です、温かいですね。しかも新しい道の駅のため綺麗ですね。しかしウォシュレットが着いていないのは残念です。ゴミ処理は可能でした。 |
奥庭遊歩道から見返した富士 |
|||
奥庭遊歩道 |
||||
忍野八海 |
||||
駿河湾にて |
山中湖 |
忍野八海から見た富士 |
忍野八海 |
|
ページのトップへ |
125 静岡の棚田巡りと阿寺七滝、三保の松原(2015年11月29日の記録) |
四谷千枚田 |
■期待していた小池百合子都知事でしたが、なんだか安倍晋三首相との違いが見えなくなってきましたね。「サラサラない」とか「立憲なんとか」とか、人の気持ちを逆なでする気配が目立ってきました。横文字が多いのも気になりますが、関東大震災における朝鮮人虐殺問題の対応などを見ても、バカの一つ覚えのように北朝鮮に対する圧力しか繰り返し語らない男と何も変わらないような気がしてきました。 その男は、憲法上の問題も指摘されていますが、突然と解散を決行してしまいました。数年先の消費税の使い道や、北朝鮮の脅威を盛んに煽っての解散ですが、彼の目的は憲法改正その一つのみでしょう。聞いたことには決して答えず、持論をくどくどと語り、都合の悪いことは隠すのみ、こんな男に日本の未来を宅して良いとはとても思えません。対立軸を一瞬期待させた民進党の前原代表ですが、竹中平蔵氏らに騙されてしまったのが現実だったようです。(2017年10月5日記) ■2015年11月29日に戻ります。道の駅/どんぐりの里いなぶはかなり冷えました。さすが内陸部です。起きたときの外気温がマイナス0.2度、車内温度2.5度でした。霧がかかっていたのですが、晴れて来ました。夜中の凄いエンジン音で、一度目が覚めましたが、常識のない連中がいるものです。昨夜の酒がたたって1時過ぎにトイレにも起きてしまいました。とはいえ、よく寝た感があります。足元が冷えてきましたので、今夜から電気毛布を用意しようと思います。 綺麗な道の駅です。トイレはウォシュレット付きで、洗面に石鹸などもあり、ゴミ処理も可能です。停泊は7〜8台でしょうか? 起きたのは5:10でしたが、7:05に出発しました。 ■8時少し前に静岡県新城市の「四谷千枚田」に着きました。途中の山道は、それほどの歪路ではありませんでした。四谷千枚田は、標高883mの鞍掛山の南西斜面の約200mに渡る石積みの棚田です。千枚田を囲むように大代、大林、身平橋、田の口という四つの集落が複合されている広大な棚田群です。棚田の間に、農家や東屋、農機具などが点在して見えますが、素晴らしい景観ですね。実りの秋の景色が想い描かれます。 約400年前に開墾された棚田には、鞍掛山の中腹からの湧水が流れていますが、大雨が降っても濁ることはないそうです。後から来た人が三脚をセットして、カメラを用意していますが、日が差すのを待っているのでしょうか? 挨拶をしたのですが、素っ気のない方でした。地元の方のようです。 ■予定していた「長江の棚田」はパスして、同じ新城市にある「阿寺の七滝」に向かいました。2009年には、その近くの道の駅/鳳来に停泊をしました。案内に従って狭い道に入ったのですが、ナビが示す道がありません。どんどん遠ざかっていきます。1kmほど進んだところで戻ることにしました。戻ると、来たときに通り過ぎてしまったところに看板がありました。気がつかなかった道があり、数キロ先に阿寺の滝の駐車場があるようです。 ほとんど突き当たりの感じで駐車場に着きました。有料駐車場になっていて、300円の案内があります。無人ですが、300円を赤い箱に入れました。トイレもあります。トイレの横に水が湧き出ているところがありました。給水をしたかったのですが、ちょっと雰囲気的にパスをしました。 |
|||
阿寺の七滝に向かう |
||||
巣山礫岩の看板 |
||||
子抱石と賽銭箱 |
||||
阿寺の七滝に向かう |
阿寺の七滝 |
阿寺の七滝横の階段 |
子抱石 |
|
紅葉が敷き詰められた川沿いの広い山道を歩いて行きました。少し登りですが、苦にはなりません。紅葉や脇の川の流れを撮影をしながらゆっくりと歩いていたのですが、突然、無言で私を追い越して行く若い人がいました。びっくりしてしまいました。何の気配も感じられなかったからですが、普通は何か声をかけると思いますが。。。 途中に看板があり、「巣山礫岩」と書かれた説明がありました。新生代の新第三紀・中新世の2千数百万年前、古日本列島が誕生したころに堆積したこの一帯に分布している『子抱石』と呼ばれる礫岩のことです。『くいちがい石』とも呼ばれますが、石自体が割れて、ずれ、再びくっついたような状態になったものです。 日本列島は、大陸間プレートの動きにより、中央構造線に沿って何度も断層活動が発生していますが、その際の自然の力による凄まじさを見せつけてくれます。崖面に大きな子抱石が突出していました。賽銭箱があり、子抱石にも賽銭が乗せられています。辺り一面の苔も良いですね。さらに撮影をしながら進むと、先ほど追い越していった人が戻ってきました。今度は挨拶を返して行きましたが、良く分かりません。 歩き始めて15分ほどで、阿寺の七滝に着きました。七滝といいますが、滝が七つあるわけではなく、七段の滝で構成されています。途中には、深さ7mに及ぶ滝壺(甌穴)があるそうです。観覧施設もあり、石橋を渡ると、対岸に鉄骨の斜路階段がありました。斜路を登りましたが、滝の景観としては、下からの景色が一番見事です。水量は多くはありませんが、綺麗な滝です。陰陽師の安倍晴明が若年期に滝で修行したという伝説があるそうです。車に戻り、トイレを借りました。お店があり、餅や山菜などが売られていました。何の木か私には分かりませんが、紫色の小さな花が咲いていました。 ■静岡県浜松市にある「大栗安(おおぐりやす)の棚田」に向かいました。かなりの歪路が続きます。結構大変ですが、対向車が殆どありません。途中、小さな動物が道路から逃げて行きました。狸かなと思ったのですが、どうも小熊のようです。添付のドライブレコーダーの記録には、その様子が写っていますが、一瞬ですので分からないかも知れません。 棚田の案内の看板に従って進んだのですが、どうも違うようです。一度、看板を見たところまで戻ってみました。すると、またもや先ほどは気が付かなかった道がありました。進むと、「木村棚田」の上段と下段の案内がありました。さらに登ると、大栗安棚田がありました。正確には、大栗安木村棚田と言うようです。下段にも行って見ましたが、上段の方がの景観が良いようです。 大栗安の棚田は、その起源を平安から室町まで遡るそうです。総面積8.6ha、棚田の枚数は481枚、平均標高は425mにあります。昭和33年の天竜市と浜松市の合併により、浜松市天竜区となりました。茶畑もありました。 ■浜松市北区にある「久留女木の棚田」に向かいました。続く歪路の先に棚田がありました。棚田の看板があったのですが、入口の柵が閉鎖されていました。諦めて戻り、道路を先に進んだのですが、どうも撮影には向きません。先ほどの柵のところに戻ってみました。すると、何故か入口が開いています。 進んで見ると、棚田が見えて来ました。しかし、全景を見渡すことは無理です。久留女木の棚田は、浜名湖に流れる都田川上流部東側に位置する標高250mの棚田です。総面積7.7ha、約800枚の棚田です。やはり起源が平安から室町期まで遡る歴史があります。 少し撮影をして戻ると、軽トラックが先を走っています。柵のところで、降りて門を閉めようとしましたが、こちらに気づいて、閉鎖を依頼されました。門を閉鎖して分かったのですが、自由に入って良かったようです。入った人は、門の閉鎖をして下さいとの看板がありました。 ■予定では、予備にしていた2015年のBCS賞を受賞した小堀哲夫設計の「ROKI Global Innovation Center」に向かいました。途中、浜松の「いなさ湖」がありましたので、撮影。都田川に架かるロックフィル式の防災ダムですが、景観が良いですね。 ナビに従って、向かったのですが、そのポイントには目指す建物がありません。周りを廻って見ましたが、分かりません。駅が近くにあり、学生の集団が降りてきました。近隣を廻っていると、再びその集団に会いましたが、どうも近くにある本田宗一郎記念館に向かっているようでした。これは、諦めざるを得ません。後で、調べても結局分かりませんでした。縁がなかったのでしょうね。 ■気分を変えて、「三保の松原」に向かいました。途中から、国道1号線に入ったのですが、自動車専用道路になりました。気持ち良く進むことができ、一気に三保の松原に着きました。駐車場は無料です。奥に進むように促されましたが、そこから海岸に出ると、丁度、鎌ケ崎でした。丁度、海岸側から富士山が見えます。曇っているため、頂部と下側が隠れています。しかし、藍色に光り、神々しく見えますね。 この海岸は、松林から海側の途中まで砂浜なのですが、海岸近くは小石になっています。記念に小石を一つ拾いました。羽衣神社に行ってみたのですが、羽衣の松は既に枯れています。代替わりをしていて、現在は三代目が認定されているようです。 |
大栗安棚田に向かう山道 途中のドライブレコーダーの記録 |
|||
大栗安棚田の茶畑 |
||||
大栗安棚田 |
||||
久留米木棚田の柵 |
||||
久留米木棚田 |
||||
いなさ湖 |
||||
浅間大社から見た富士山 |
羽衣神社の松 |
三保の松原から見た富士山 |
三保の松原 |
|
浅間大社 |
■いよいよ富士山巡りです。静岡建富士宮市にある「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」に向かいました。浅間神社(せんげんじんじゃ/あさまじんじゃ)は、笛吹市や河口市にある河口浅間神社、西八代郡市にある一宮浅間神社が有名ですが、富士山本宮浅間大社が全国に約1,300社ある浅間神社の総本社とされています。 1号線を走っているまでは順調だったのですが、途中、西に折れた途端、山道になりました。暗くなってきました。浅間大社付近では渋滞です。大鳥居があったところに無料駐車場がありましたので、神社の駐車場ではありませんでしたが、駐めて歩いて行くことにしました。参道を進むと浅間大社が見えて来ました。何と、こちらには有料駐車場がありました。薄暗い中の参拝・撮影となりました。 ■車に戻り、「富嶽温泉花の湯」に電話をしました。レストランのラストオーダーは21:30、入浴は深夜まで良いようです。予定の道の駅/富士川楽座までは、11キロの戻り、道の駅/朝霧高原へは24キロ先です。朝霧高原に行くことにしました。富嶽温泉花の湯に着いてナビを確認すると、朝霧に行った方がさらに有利なことも分かりました。 花の湯は、1,500円の入浴料でした。日曜日なので高い設定になっています。先に食事をすることにしました。黒酢あんかけ定食/880円を頼みました。レストランは人員不足ですね。てんてこ舞い状態です。料理が来たのですが、投げ捨てるように置いていきました。大きな施設ですが、いまいちの感があります。データを整理してから入浴をすることにしました。 そういえば、奈良の健康ランドに入って大河ドラマを観たのも今日と同じ日曜でした。大浴場は各種の風呂があり、露天風呂も充実しています。結局、途中からでしたが、大河ドラマを見てしまいました。また、マッサージ機も無料です。マッサージ機自体は、イマイチの機械でした。帰りに、少し高かったのですが、みかんを購入、8個で390円です。地下駐車場に車を駐めたのですが、暑いくらいです。 21:37頃に温泉を出て道の駅/朝霧高原に向かいました。すぐに60キロ制限の道に入るなど、一気に朝霧高原に向かいました。広大な道の駅の駐車場に着くと、数台の車しか停泊していません。気温が低いせいでしょうか。外気温が0度、車の窓に付けた温度計も1.1度を示しています。電気毛布をセットしました。寒い夜が予想されます。明朝は、無理をしないことにしました。 |
|||
浅間大社にて |
||||
浅間大社の湧玉池(富士湧水) |
||||
ページのトップへ |
124 多度大社から名古屋を経て(2015年11月28日の記録) |
多度大社 |
■民進党の山尾志桜里議員議員が離党しました。漫画家というよりも、その発言が良く注目される小林よしのり氏は、これほどの能力を失うのは、民進党にとっても、国家にとっても大きな損失となると書いています。数々のスキャンダルが報じられた他の雑多な議員連中とは質が違いすぎるというわけです。2期目だった議員があれほどの実績を残してきたわけですから、その考え方には思わず納得してしまいそうになります。 かつての政治家は、愛人がいようとも、それを問題にされる事はまったくありませんでした。時代背景が変わったからと簡単に片付けるべきものでもないと思います。何かスキャンダルめいたことが報道されると、それを繰り返し何度もテレビやネットに映され、国民意識を煽り立てるマスコミやネット社会の報道の過熱ぶりを改めて考え直す必要があるのかも知れません。既存マスコミは、ネットに負けじとしているような感もあります。 イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領などなど数え上げればキリがないほど、世界情勢が不安定化をしてきています。日本の安倍首相の発言も決して平和思考にあるとは思えません。日露戦争の結果はあのようになりましたが、日本に戦争を継続する能力は残されていませんでした。しかし、それを煽るマスコミ、国民世論は戦争の勝利に酔いしれました。その結果が太平洋戦争へと繋がっていったのがかつての日本の姿でした。再び、何かがおかしくなっているのではないでしょうか。(2017年9月10日記) ■2015年の11月28日です。道の駅/関宿は、小ぶりな道の駅でした。気温が下がったため、うすら寒い感じがありました。忘れましたが、夢見も悪かった記憶があります。2009年に、予定をしていなかったため、特定できずにパスしてしまった三重県桑名市多度町にある「多度大社」に向かいました。雲が少し点在していますが、秋晴れが見事です。 8:33に多度大社に着きました。神社ですが、駐車料金が200円かかります。珍しいですね。まだ朝の早い時間帯ですので、混んではいません。鳥居を潜ると石段があり、左側に多層になった観覧席がありました。多度大社は、天津彦根命(天照大神の第3子)を主祭神としています。「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われたように、お伊勢参りとの関係が偲ばれます 毎年5月の4日〜5日に掛けて実施される「上げ馬神事 (あげうましんじ) 」が有名ですが、境内の坂道を人馬が駆け上がり、上がった人馬の数や順番でその年の豊凶を占うとされています。南北朝時代から続いてきているそうですが、日本各地に残る荒っぽい神事の一つといえます。 |
|||
多度祭御殿 |
||||
多度大社/本宮 |
||||
興正寺 |
八勝館/玄関 |
メディアコスモス |
メディアコスモス内部 |
|
石段を登り切ると、白い神馬が小屋に入っていました。社務所前では、白装束の女性が見えます。結婚式ですね。本殿までは遠くありませんが、神職が丁度、掃除を始めたところでした。少しためらっていると、後から来た人が構わず参拝をしていきましたので、私も続いて参拝です。思いの他小さな本殿があり、天津彦根命の子の天目一箇命を祀る別宮や摂社が多数ありました。大社という雰囲気は余りありませんね。 ■名古屋市内の興正寺に向かいました。市内は渋滞しています。興正寺の駐車場を通り過ぎてしまい、街中を一廻りして、ガードマンが案内をしているところから、駐車場に入りました。事前確認が間違っていたようです。隣に「かに本家」があり、その間から駐車場に入るようになっています。丁度、祭りの最中でした。凄い人混みです。出店や色々な呼び込みをやっています。大道芸もあり、子供が僧職と将棋をやっていたり、説法をしている僧もいます。多宝塔や各種の施設があり、派手な雰囲気があります。少し胡散臭い雰囲気を私は感じてしまいました。 目的である五重塔の前には大きな釈迦牟尼大仏像がありました。五重塔は1808(文化5)年に建立された、高さ26mのものです。初重中央に本尊の大日如来が安置されています。上層に上がるほど屋根が小さくなる逓減率の割合が高いため、実際の高さよりも高く見えます。200年以上を経た年輪を感じさせてくれます。 八事山興正寺は、高野山真言寺系ですが、尾張徳川家の祈願寺として繁栄したため「尾張高野」とも称されています。数年前には、通夜などの弔事をハローワークなどで募った見習いに行わせていたことが発覚したことがあります。その後、興正寺の財産である土地を勝手に売却したとして、本山である高野山が住職を罷免したため、本山との関係を巡って、前住職と新住職が対立するなど、檀家も含めた争いが続いています。とはいえ、多くの人がお祭りに来ていますので、現在の争いと地域のお寺に対する信仰心は別なものなのですね。 ■その向かいにある「八勝館(はっしょうかん)」に行って見ました。中に入ることは無理とは分かっていましたが、雰囲気だけでも見てみようと思ったわけです。八勝館は、名古屋市昭和区広路町にある老舗料亭ですが、食器から便器に至るまでの北大路魯山人の演出が知られています。建物は、茶室・数奇屋建築で有名な堀口捨己の戦後初の設計としても知られています。庭も見事らしいですね。まあ、機会があれば訪れてみたいものです。 ■岐阜市にある「メディアコスモス」に向かいました。名古屋市から一宮市までは、渋滞していました。なかなか進まないので、途中で、昼食。メディアコスモスには13:22に着きました。有料駐車場でしたが、中で印字をすると2時間無料になりました。外部は、写真で見たそのままの施設でしたが、内部の雰囲気は素晴らしいですね。木の香りが漂っています。 |
メディアコスモス内部 |
|||
上代田棚田 |
||||
赤薙棚田 |
||||
坂折棚田 |
||||
坂折棚田 |
みんなの森ぎふメディアコスモスは、岐阜大学医学部の跡地に建てられた図書館と市民活動交流センター・展示ギャラリーで構成された施設です。せんだいメディアテークや出雲市の大社文化プレイスと繋がる伊藤豊雄の2015年の作品です。ヒノキの板で組んだ天井の格子や布製の天蓋が特徴的です。何ともいえないような穏やかな空間を演出しています。入札不調や竣工後の雨漏りが問題となりましたが、いかにも伊藤豊雄の作品を感じさせてくれました。 ■もう少しゆっくりしたかったのですが、天気模様が悪くなってきましたので、先を急ぐことにしました。岐阜県加茂郡八百津町にある「上代田棚田」に向かいました。ほとんど山道にならなかったのですが、案内が見つからず、特定ができません。事前情報と照らし合わせて、「杉浦千畝の生家」の看板がありましたので、ここだと判断して撮影。石積みが見事です。稲が茂っているときは美しいでしょうね。 通って来たときに、「岐阜棚田21選」の看板があったので、帰りに寄って見ました。「ようこそ「赤薙(あかなぎ)棚田」と書いてあります。地図があり、先ほど撮影したのは間違いなく上代田棚田でした。赤薙棚田は、ちょっと辛い感じがします。続いて、「坂折棚田」に向かいました。少し戻り加減で先に進みました。山道に入りましたが、難易度は高くありません。すぐに看板がありました。先客のアベックがいて、撮影をしていました。駐車場もありましたが、上の道路に駐車して撮影。かなり大きな棚田です。緑の季節に来たいですね。こちらも石積みが見事な棚田です。 ■愛知県豊田市にある道の駅/どんぐりの里いなぶに電話をしました。入浴の最終受付は20時です。今日は土曜日ですが、案内本では、土日は20時半と出ていましたが、まあ問題ありません。レストランを聞くと、「多分、やっている」といった感じの回答です。道の駅のインフォメーションが、役場にでも繋がっているのでしょうか? そんなところもたまにありますが、親切に教えて貰える道の駅の方が多いので、由としましょう。 ナビを設定して進むと、すぐに国道に出ました。来たときは山道を通って来たのですが、こちらから入ると楽だったようです。しかも棚田の案内看板もありました。そんなことも良くあります。道路状況が良く、予想より早く道の駅に着きました。17:26です。温泉施設はとても充実していました。心配になるくらいです。浴槽も多数あります。露天風呂も立派です。入浴後、レストランでわっぱ飯を注文しました。山菜などが入ったご飯に煮物などが付いています(添付写真)。これは熱燗ですね。さらに休憩所で缶ビールを飲みながらデータ整理です。モバイルルーターも繋がりましたので、ゆったりとさせて貰いました。 |
|||
坂折棚田 |
||||
道の駅/どんぐりの里/わっぱ飯 |
||||
ページのトップへ |
123 花窟神社、瀧原宮、二見浦、伊勢神宮など(2015年11月27日の記録) |
丸山千枚田 |
丸山千枚田の石積み |
花窟神社 |
花窟神社/御神体 |
|
■関東大震災は1923(大正12)年9月1日に発生しましたが、その8日前に、加藤友三郎首相が急死したため、日本は政治的空白状態にありました。その時、「パニックに襲われて自制心を失ったのは、家財産を失った民衆ではなく、むしろロシア革命や米騒動の残像に脅える政府当局者たちの方だった/『巨怪伝/佐野眞一/文春文庫』」。緊急時の体制として、水野錬太郎内相、赤池濃警視総監、後藤文夫内務省警保局長という加藤内閣時代の”治安トリオ”がその任に当たっていたのですが、それを支えていたのが後の読売新聞社主となる警視庁官房主事の正力松太郎でした。 正力は後に、自分の不明を恥じています。朝鮮人が地震の発生する9月1日に向けて謀反の計画があったというデマを信じてしまったのです。しかし、今年の7月21日の政府の中央防災会議でも東海地震の予知が不可能であると発表されたことからも分かるように、当時の日本在住の朝鮮人がそのような計画ができるはずもありません。自分の心の中にそのような妄想があるからこそ、そのようなデマを信じてしまったともいえます。 関東大震災における朝鮮人虐殺事件は、人的数量を根拠として、それを否定する暴言も見られますが、実際に発生したことは間違いのないことです。また大震災に乗じて、亀戸事件や大杉栄一家が惨殺された甘粕事件も発生しています。恐怖を煽ることによる官憲の暴走、それをさらに煽るマスコミの虚言には恐ろしい側面があることを忘れてはならないと思います。(2017年8月27日記) ■2015年11月27日に戻ります。温泉は閉まっていましたが、道の駅/なちは停泊しやすい道の駅でした。新しい道の駅ですね。ローカル線が時々通るJRの駅でもありますが、ほとんど気になりませんでした。トイレもウォシュレット付きですし、身障者用トイレが二つもありました。停泊は、7〜8台程度でしょうか。 わずかに雲がありますが、朝から晴れ渡ったのは久しぶりです。少し寒いくらいでしたが、まだ電気毛布の出番ではありません。起きたときの外気温は6.5度でした。7:20に出発しました。 ■向かったのは、熊野市紀和町にある「丸山千枚田」です。ガソリンメーターが少し寂しくなっていましたので、GSを探したのですが、どこも140円台後半と高いですね。しかし、熊野を抜けた途端、120円のGSがありました。この価格差は何でしょうね。もちろん給油です。 少し山道に入りました。途中、車道が少し膨らんだところで、いきなり千枚田が見えてきました。広大な千枚田です。大迫力ですね。少し進むと千枚田の中を散策できるようになっています。実際には、千枚田どころか、高低差160mの谷合に約1,340枚の棚田があるそうです。最も小さい田は、0.5uしかないそうですが、棚田の法面の野面積み(のづらづみ)の石積みも見事ですね。関ヶ原の戦いの後、1601(慶長6)年の検地の際には、約2,240枚の棚田の記録があったといいますから、壮大な人々の暮らしを支えて来たことが窺えます。 |
花窟神社/御縄 |
|||
瀧原宮 |
||||
瀧原宮/本殿 |
||||
二見浦/夫婦岩 |
二見輿玉神社 |
安土城か? |
瀧原竝宮/本殿 |
|
御塩浜 |
■来た道を少し戻り、国道に出ました。熊野市有馬町にある「花窟(はなのいわや)神社」に着きました。伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る神社ですが、社殿はなく、高さ約45mの巨岩/磐座(いわくら)が神体になっています。神倉神社のゴトビキ岩を「陽石」、それに対して花窟神社の巨岩は「陰石」として対をなすものとされています。 駐車場があり、お店が出ています。少しだけの参道があります。伊弉冉命が隠れたという岩屋として、岩屋の少し窪んだところが、神域になっています。日本最古の神社の触れ込みがあります。見上げると、縄が張ってあり、組子にした縄も垂れ下がっています。岩屋から道路側にまで繋がっていますが、どこに向かっているのでしょうか。後で確かめると、道路側まで出ていました。特別な田で作られたもち米の藁縄7本を束ねた長さおよそ170mの大綱による、『御縄掛け神事』が行われるそうです。 ■三重県境にある「かくれ滝」に向かいました。ところが、425号線に入ったところで、通行止めの看板がありました。数日前からの土砂崩れで通行止めになっているようです。落差約105mを誇る隠れ滝ですが、滝壺まで行けることを期待していましたが、残念です。諦めるしかありません。 今日は、伊勢神宮手前の道の駅/飯高駅に停泊する予定でしたが、それでは明日の土曜日が伊勢神宮になります。伊勢参拝が大変な人混みになる予想がありますので、かくれ滝を諦めたことを由として、一気に伊勢まで行くことを考えた方が良いようです。松阪市の飯南町の「深野のだんだん畑」もパスして、「瀧原宮(たきはらみや)」に向かいました。 ■三重県度会郡大紀町滝原にある瀧原宮には11:35に着きました。花窟神社からは80kmほど進んだことになります。国道からすぐに広い駐車場がありました。そこから600mとの看板があります。100m位行くと、鳥居の前に10台程度が駐められる場所がありましたが、いまさらですので、そのまま歩いて、神殿に向かいました。平地の600mはほとんど気になりません。神宮の警備の人と、何人もすれ違いました。ここも遷宮をしているようです。本殿は複数です。参拝の順序があるようです。伊勢神宮形式の神殿がありました。 瀧原宮は、内宮(皇大神宮)の別宮とされています。瀧原宮(たきはらのみや)と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の2つの別宮と瀧原宮所管社が3社あります。所管社である若宮(わかみや)神社には神体を入れる御船代を納める御船倉(みふなぐら)が併設されています。 第11代垂仁天皇の第4皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承があるそうですが、詳細は不明です。天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢神社といい各地にありますが、この瀧原宮だけは『別宮』と称されています。ほとんど伊勢神宮の雰囲気ですね。 駐車場に戻りました。食堂がありましたので、昼食を取りました。ミニ天丼蕎麦セットを頼んだのですが、天丼はミニではありませんでした。蕎麦も美味しかったです。お腹が一杯になったところで、伊勢方面に向かいました。途中、安土城とおぼしき城が見えましたが、後で調べると伊勢安土桃山文化村では、信長が建てた幻の名城「安土城」を原寸大で復元しているのですね。 ■13:24に三重県伊勢市二見町の「二見浦」に着きました。海岸線に無料駐車場がありましたが、明日であれば駐めることは難しかったでしょう。風が強いですね。ここに来たのは初めてです。何度も切手や映像で見た美しい景色がそこにはありました。猿田彦大神の使いという蛙の象が多数あります。良く晴れています。夫婦岩はやはり絵になりますね。 |
|||
外宮にて |
||||
外宮 |
||||
外宮 |
||||
猿田彦神社 |
猿田彦神社/本殿 |
内宮 |
内宮 |
|
二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、猿田彦大神と宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ/ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神としています。夫婦岩の沖合約700mの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝する神社です。宇迦御魂大神は、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記され、伏見稲荷大社の主祭神ともいわれています。天照大神が隠れたという天の岩屋がここにもありました。 ■「御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)」に向かいました。御塩殿神社は、伊勢神宮の神饌として神事に使う堅塩を作る設備を備えた神社です。しかし、正確な場所が判りませんでした。川沿いに御塩田があったので空き地に車を駐めてみました。誰も監理している様子がありません。後で、調べると行った先は、五十鈴川河口近くの右岸に入浜式塩田として移動された場所のようでした。約1kmほど、西側に行ってしまったようです。 ■2009年は、猿田彦・内宮・外宮の順に廻ったのですが、今回は、先に「外宮/豊受大神宮」に向かいました。駐車場には楽に入ることができました。手水舎の後、鳥居を潜り砂利道を進むと、正宮が見えて来ました。手前の広い敷地は、今回の遷宮前に正宮が建っていた場所です。2009年の際には、ここに参拝したことになります。広い敷地の奥に、「心御柱」を納めた覆屋がポツンと建っています。土宮や風宮などの別宮にも参拝しました。 ■「内宮/皇大神宮(こうたいじんぐう)」へ向かう途中に「猿田彦神社」がありましたので、寄って見ました。結構、若い女性が多いですね。社務所が工事中です。猿田彦神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の先導をしたということから、交通安全・方位除けの神社として信仰されています。本殿の千木は内削ぎですね。 ■続いて、内宮に向かいました。15:17に着いたのですが、駐車場が管理されていて、有料となっています。以前は無料でしたが、後で調べると1時間以内は無料となっているそうです。「おかげ横丁」方面は凄い人だかりです。駐車場も混んでいます。今日にして正解だったようです。内宮を参拝する外国人、特に中国系の人が多いですね。五十鈴川には、投げ銭をしないで下さいの看板がありましたが、投げ銭が目立ちます。内宮の参拝ルートは変わったようです。左右に分かれて歩くように、中央に2列の石が敷かれています。とにかく人が多いですね。参拝は丁度、1時間でした。 ■車に戻り、50km先の榊原自然の森温泉保養館湯の瀬に電話をしました。最終受付は20時とのことです。レストランはうどんしかなく、17:30が最終でした。休憩室があるので、食糧を持ち込んではと提案されました。現在は、16:20です。その方法を採用することにしました。ここ以外の近くの道の駅の温泉手段はあまり良くありません。 途中、イオンに寄り、食糧その他を購入しました。この辺りのガソリンは、115円があります。ガソリン価格も下がっているようです。湯の瀬には、18:10ころ着きました。寝支度をしたり、電話をしたりして、温泉に入ったのは、19時頃でした。休憩室で、食事をした後、データ整理などをして、持ち込んだノンアルコールビールを飲んでいたのですが、これは良かったのでしょうか、判りません。21時近くに、道の駅関宿に向かいました。距離は23km程度と少し遠いですね。途中、うり坊が4〜5匹、道路に出て来たのですが、慌てて引っ込んでしまいました。道の駅/関宿に着いたのは、21:30でした。 |
内宮 |
|||
五十鈴川 |
||||
内宮 |
||||
風日祈宮 |
風日祈宮/心御柱 |
風日祈宮(かざひのみのみや) |
御稲御倉(みしおのみくら) |
|
ページのトップへ |
122 熊野三山を巡る(2015年11月26日の記録) |
湯の峰温泉 |
■昨日は72回目の終戦記念日でしたが、NHKの「戦慄のインパール」を観ました。無能な指揮官と責任を取ろうとしない大本営の愚策が招いた結果が現在も残る遺骨の数々となっています。兵站の必要を説く参謀に対して、『大和魂』の精神論で押し切った悲惨な作戦でもありました。記録は破棄した、記憶がないなどと逃げの一手の現政権や官僚たちの対応に相通ずるものがあります。何も変わっていないのでしょうか。 アメリカが「かのような」愚かな男を大統領に選んだのは、世界にとっても不幸なことといえますが、日本も「こんな」男を首相に選んだことは、日本にとって悲しいことといえます。北朝鮮を擁護する気はまったくありませんが、制裁を強めることで、現在の北朝鮮が軟化すると考える論理はすでに破綻しています。核兵器禁止条約に「反対」をするなどの対米追従外交は見直す時期に来ているのではないでしょうか。 最悪のシナリオを考えると恐ろしいことになると思えますが、現在の状況を変える交渉を進めて貰えるような人が見あたりません。ドイツのメルケル首相のような人に期待をしたいのですが、あのトランプがその意見を聞くとは思えません。本来であれば、日本の首相によるアメリカを説き伏せるような主導を期待したいのですが、追従することしか頭の中にないような男では何も生むことはできないといえます。日本の政治家には、その次元で世界を俯瞰する考え方の人はいないのでしょうか?(2017年8月16日記) ■2015年に戻ります。湯の峰温泉で静かな朝を迎えました。昨夜は車内食の夜ご飯でしたので、朝食は外食をするつもりで少し朝寝をしました。6:23に起床。外気温は12.3度、車内温度は14.6度です。曇ってはいますが、雨上がりの朝靄に包まれた山間の風景です。停泊は10台程度でしょうか? キャンピングカーもいます。停泊以外の車もあるようです。 湯の峰温泉街を少し歩いてみました。谷間に川があり、その中に「小栗判官湯治場・つぼ湯」も見えます。川側に降りてみると、つぼ湯の横に小栗判官物語の縁起を書いた看板もありました。昨日入った共同浴場の手前には、熊野七薬師/東光寺がありましたので、お参りもしました。お寺というよりは、神社ですね。川から立ち上る湯気が温泉街の佇まいを演出しています。 7:20に出発しました。向かったのは、田辺市本宮町にある「熊野本宮大社」です。ナビは相変わらず、狭い道を示しますが、前に来たことがありますので、ナビが示す方向と反対側に廻りました。少し遠回りですが、多分こちらの方が広い通りになります。ナビが示したのは、2009年に通った道ですが、山間の曲がりくねった道でした。12〜13分程度で、熊野本宮大社に着きました。 ■まだ、時間帯が早いせいか、駐車場に車はいません。背面には、高さ33.9mの日本一といわれる大鳥居があります。2000(平成12)年に完成した鉄筋コンクリート製の鳥居です。その先は、「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれ、かつてはその一体に熊野本宮大社があったそうです。しかし、1889(明治22)年の大水害のため、社殿の多くが流出、その後、現在の地に遷座しました。以前は、橋がないため、参拝は川を歩いて渡ったそうです。2009年に散策をしましたので、今回はパスです。 熊野本宮大社の木製の鳥居には、熊野大権現と記されていました。その先の道の両脇には、熊野大権現の幟(のぼり)が数知れず並んでいます。本殿に至る158段の石段がありました。石畳を上ると、手水舎の先に神門が見えて来ました。神門を潜ると玉砂利の先に三つの社殿が見えます。向かって左手の一番大きな社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)と速玉大神(はやたまのおおかみ)の両祭神。中央は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名ともいわれる主祭神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。 |
|||
湯の峰温泉/つぼ湯 |
||||
熊野本宮大社/拝殿 |
||||
熊野本宮大社 |
大斎原 |
十二滝 |
玉置神社へ向かう |
|
熊野は、古来からよみがえりの聖地ともいわれてきました。熊野詣が最も盛んだったのは、平安時代の中期から鎌倉時代にかけてといわれます。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇に至っては34回、後鳥羽上皇も28回と伝わるほどです。その歴史は、遡ること崇神天皇までの2000年の歴史があるとも伝わりますが、詳細は不明です。神門には、「新たなる、自分自身の出発を、熊野で祈りて、光輝く」といった垂れ幕も下がっていました。その神門の左手に拝殿があるのですが、先に神門を潜ってしまって良かったのでしょうか? 拝殿の手前には、亀石、八咫烏を記した円形の黒石などがありました。拝殿の先には、先ほどお詣りした社殿方向を覆うように、白い幕が下げられていました。何となく、もう一度、玉砂利が敷き詰められた社殿を見に行ってみました。摂社などもありました。 ■そして、奈良県十津川村にある「玉置神社」に向かいました。玉置山の山頂付近にある玉置神社は、熊野信仰の「奥の院」とも伝わります。『玉置山縁起』では、崇神天皇によって、熊野本宮とともに創建されたと伝えられていますが、諸説があります。 全体で、28km程度、途中までの半分は広い道ですが、それからは山道が続きます。事前情報では、それほど難易度が高い道路ではないと判断しました。とはいえ、カーブが多いですね。途中に十二滝があったので、車を駐めて撮影しました。落差は80mとも100mとも伝わりますが、水量がなく、迫力はありません。静かに流れ落ちる滝です。 山道に入りました。歪路がありますが、対向車は全くありません。山頂付近に入ると、雲海が漂ってきました。山頂よりも、途中で見えた山々に沈む雲海が熊野信仰の不思議さを演出していました。雲海の隙間から見える集落も隔世感を抱かせてくれます。駐車場に着きました。うっすらと霧が立ちこめています。 鳥居を潜り、歩き始めましたが、格別の案内もありません。なだらかな山道が続きましたが、途中から、下り段となりました。約15分で、玉置神社に着きました。崩れやすそうな岩場が見えます。玉置山枕状溶岩堆積地の案内看板がありました。かつては、海底火山だったのですね。大陸プレートの動きにより、隆起した日本列島の歴史がここに現れています。巨大な杉の木に囲われた神域です。神代杉と銘が付いたものもあります。 駐車場から15分程度の玉置神社ですが、かつての修験道の名残が残っています。玉置山縁起では、神武東征の際に、八咫烏(やたがらす)の案内を受けて、玉置山に至り、身の安全を祈願して「十種(とくさ)の神宝(かみだから)を奉じたと伝えられています。下って、第十代崇神天皇が「天下安泰」などを祈願して創建したともされていますが、後作とみる考えが多いようです。本殿は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)・伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冊(いざなみ)尊が祀られていますが、明治期に天照大神と神武天皇が合祀されています。日本の最古の歴史そのものが詰まっていますね。結局、玉置神社には、2時間近くいたことになります。最近では、パワースポットとして知られるようになってきました。 ■来た道を戻り、「鼻白の滝」に向かいました。途中、熊野川沿いに、ナビにない道の駅/瀞峡(どろきょう)街道熊野川に停車しました。小さな食堂があり、めはり定食がありました。昨夜、食べ損ないましたので、これはチャンスです。年配の女性が働いています。ここでは、ゆったりとした時間が流れています。熊野川の観光船の受付もやっていました。 |
熊野三山を巡る |
|||
玉置神社の鳥居 |
||||
玉置神社へ向かう道 |
||||
玉置神社/本殿 |
||||
木々の間に見えた鼻白の滝 |
鼻白の滝に向かう |
めはり寿司 |
熊野川 |
|
神倉神社の遠景 |
めはり定食は、めはり3個に漬け物、きんぴら牛蒡などが付いています。作りたてのようですね。とても美味しいです。めはり寿司は、寿司飯を高菜の浅漬けで丸く包んだものです。酒の肴にもなります。11時頃の遅い朝食となりました。売店では、ちらし寿司を売っていましたので、昼食用に購入しました。めはり定食650円、ちらし寿司300円。トイレも新しく綺麗です。新しくできた道の駅ですね。 鼻白の滝は、道の駅からすぐにありました。登りの山道があり、熊注意の張り紙を気にしながら登りました。5〜6分程度の登山ですが、結構急な山道でした。木々が邪魔をして撮影ポイントが旨く取れません。ほぼ登り切ったところで、通行止めの表示がありました。途中からも滝は見えますが、なかなか良いポイントになりません。下に降り、下流側からの撮影を試みました。その時、石の上で滑って転びそうになりました。危なかったです。結局、車に戻り、国道に出る途中の橋の上から撮影したポイントが一番良かったですね。落差83mの鼻白の滝は、鼻の白いウナギが棲んでいたといわれその名がつきました。近くにあるという「桑ノ木の滝」はパスしました。 ■熊野三山の一山である「熊野速玉大社」の飛地境内摂社となっている「神倉神社」に向かいました。ナビが示す位置は判るのですが、なかなか神社には行き着けませんでした。山の上の方に神殿が見えて来ました。裁判所前という交差点から廻って入ると、小さな駐車場がありました。白い鳥居があり、出雲大社の額が掛かっていますが、こちらは別ですね。隣に出雲大社があるのが不思議です。 橋の向こうに赤い鳥居が見えています。そちらが神倉神社です。手水舎がありましたが、工事中とのことでした。石段の入り口に神仏混淆を示す両部鳥居がありました。石段が538段ということですが、いきなり急な石段になりました。結構、危険な状態です。頑張って登り始めたのですが、不揃いな石段のため、段数の判定は微妙ですね。そろそろ半分くらいかなと思ったところで着いてしまいました。ここにも手水舎があります。 琴引岩(ごとびきいわ)に寄り添う様に建つ磐座の神社に参拝をしました。先に来ていたアベックの女性が降りるのに苦労するほどの石段です。参拝後、戻りかけると、中年の男性がペットボトルを持って登ってきました。ここの手水舎の水は飲めるようです。すると、男性が岩伝いに上の方に上がって行きました。何と、大きな磐座二つの間に神域があったのです。確かに、テレビで見たような気がします。その男性の後を着いて行って参拝をしました。男性にお礼を言ったのですが、そっけないですね。手水舎に戻り、水を飲んでみたのですが温いですね。帰りも気を付けながら降りなければなりません。登って来たときは、あまり気にしなかったのですが、小さな社殿があり「猿田彦神社」と「神倉三宝荒神社」と銘打った石碑がありました。 ■「熊野速玉大社」に向かいました。ここも両部鳥居があります。熊野三山の一つで、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としています。熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神、熊野夫須美大神は伊邪那美神としています。熊野本宮大社では熊野速玉大神を日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)としていますので、両者の間の確執が窺えます。もともとは、神倉山の磐座に祀られていた神でしたから、神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶそうです。 神門の手前には、八咫烏神社、手水舎、神宝館などがありました。ここに来たのも2009年に続いて2度目です。神門手前左側に拝殿がありましたが、神門を潜ると、多くの社殿が並んでいました。築年代が新しいせいか美しいですね。左手拝殿の先に第一と第二の本宮があり、その右手に上三殿、八神殿などが並んでいます。どうやってお詣りをするか悩んでしまいます。 |
|||
神倉神社の入り口の鳥居 |
||||
ゴトビキ岩と神倉神社本殿 |
||||
ゴトビキ岩に向かう道 |
||||
ゴトビキ岩の神域 |
熊野速玉大社 |
阿須賀神社 |
阿須賀神社/徐福之宮 |
|
■続いて、近くの「阿須賀神社(あすかじんじゃ)」に向かいました。熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、その61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられています。阿須賀神社は住宅街の中にある感じで、本殿以外は郷土資料館のようなところでした。駐車場を月極で貸しているのか、参拝者用が少ないですね。境内に「徐福之宮」があるのも面白いですね。「アスカ」という名称が気になりました。 ■「熊野那智大社」に向かいました。那智勝浦に入ると、道の駅の案内がありましたが、パスして山方向に向かいました。途中、熊野の郷という温泉センターの駐車場で車を駐めて、買ってきたちらし寿司を食べました。とても量が多く、難儀をするほどでしたが、食べきることができました。先に進むと、落差133mの「那智の滝」が見えてきました。2009年には、ここの飛瀧神社に参拝して、かわらけや日本酒を買いました。その際は、近くのお土産屋さんの有料駐車場に駐車した記憶があります。お土産を買うと駐車料金が無料になりました。 今回は、構わず先に進みました。那智大社への道は有料道路になりました。その先は、800円の有料駐車料です。有料道路を通らなければ、700段の石段を自力で登らなければなりません。実は、石段を登るつもりだったのですが、何となく行きがかり上、車を進めてしまいました。まあ、下に駐めても500円、プラス300円で石段の手間が省けた事になります。ここには、70段の石段がありました。駐車場にいた人に聞くと、石段を登ると1時間かかるそうです。那智の滝の大鳥居の前にだけ無料駐車場があり、4〜5台駐めることができるそうです。 熊野那智大社は、熊野夫須美大神を主祭神とする熊野三山の一つの神社です。現在は、山の上に神社がありますが、元々は那智の滝に社殿があったものです。正確には、那智の滝そのものを祀っていたものと思われます。明治時代の神仏習合の際には、熊野本宮大社と熊野速玉大社では仏堂は全て廃されましたが、熊野那智大社では如意輪堂がその破却を免れ、その後、「青岸渡寺(せいがんとじ)」として復興したため、ここには神仏習合の名残が残っています。 青岸渡寺の先に行くと、那智の滝の対面となります。美しい滝です。一段の滝としては、日本一の落差を誇ります。日光の華厳滝と神戸の袋田の滝と並んで、日本三名瀑の一つとされています。その奥には、60を超える滝があるそうです。三重塔とのシルエットも絵になりますね。紅葉はこれからといったところでしょうか。那智の滝を満喫した後、車で下に戻りましたが、例の無料駐車場は一杯でした。 ■串本の「無量寺」に向かいました。途中、「橋杭岩」があったのですが、そこで少し時間をつぶして仕舞いました。溶岩の造りだした奇岩に見とれてしまいました。ここには道の駅もありました。良く考えると、無量寺の拝観終了が16時までですと、間に合わないことになります。ナビの予想では、到着が16:10になっています。 無量寺には、狭い道を通らなければ行けませんでした。両側が塀や建物が覆われた狭い道です。着いたのが16:20になっていました。何と拝観終了となっていました。若い男の人に、しっかりと拝観を断られてしまいました。するとおばさんが出てきて、どこからと聞かれました。札幌からと言うと、どうぞ見て下さいと親切に案内をしてくれました。 拝観料は1,300円と結構な値段です。先に寺院に行き、最近複製したふすま絵を見せて頂きました。ここにDVDがあり、私も見た「美の巨人たち」を放画していました。そして、30年前にCOPYした「虎図」の複製がありました。妙に愛嬌がある虎の絵です。さらに、宝仏殿に本物がありました。わざわざ電気を点けて見せて頂いたのですが、気のせいか本物が素晴らしく見えます。欄間の透かし彫りも見事です。住職と少しお話もさせて頂きました。 無量寺は、通称芦雪寺(ろせつじ)ともいわれ、円山応挙、長沢芦雪をはじめ、伊藤若冲、狩野山雪、狩野探幽、白隠らの作品が50点余り展示されています。国の重要文化財となっている長沢芦雪の『龍虎図』が今回の目的です。1707年の宝永地震による大津波で全壊・流失の憂き目にあったのですが、1786年に現在の地に愚海和尚により再建されました。その際、親交のあった円山応挙に襖絵を依頼したところ、応挙はお祝いに障壁画12面を描くなどをしたのですが、多忙なことと年齢的なことからも、弟子の芦雪に障壁画を託し、南紀に向かわせたのでした。芦雪はこの地でその才能を見事に開花したといいます。芦雪は、酒好きだったらしく、お酒のお礼という多数の絵も残しています。 ■車に戻り、道の駅/なちに電話をしたのですが、何と機械の故障で温泉は12月まで休みとのことです。近くに温泉があるかと聞くと、余りにもたくさんあるので説明できないとのことです。とにかく道の駅に向かってみました。数十キロの戻りとなりますが、これは予定通りです。道の駅にはJRの駅もありました。道の駅で温泉のパンフを調べると、4キロほどさらに戻りになりますが、昼過ぎに寄った熊野の郷も温泉です。電話をすると、入浴は21時最終受付、食事は20時最終受付です。 今日は、熊野の郷で温泉に入り、戻って道の駅に停泊することにしました。熊野の郷では、那智勝浦の名物マグロ丼を食べてから温泉に入りました。何もない普通の温泉ですが、露天風呂からの満月が美しかったですね。ほとんど貸し切り状態でした。ノンアルコールを飲みながら、食堂でデータ整理など。道の駅に戻ったのは21:15でした。モバイルルータは繋がりませんでした。 |
那智大社 |
|||
青岸渡寺 |
||||
青岸渡寺から観た那智の滝 |
||||
那智大社/本殿 |
||||
橋杭岩 |
||||
無量寺 |
||||
ページのトップへ |
121 高野山から湯の峰温泉へ(2015年11月25日の記録) |
丹生都比売神社/本殿 |
丹生都比売神社/本殿 |
丹生都比売神社/楼門 |
丹生都比売神社/工事中の輪橋 |
|
高野山 壇上伽藍 |
■竹中平蔵元経済財政担当大臣に秘書官として仕えた経験がある慶応大大学院教授の岸博幸氏が前川喜平前事務次官を「官僚のクズ」と語ったことが産経ニュースに掲載されていました。テレビに良く出ている岸氏も元官僚ですが、テレビで見る前川氏が決してクズには見えないため、かなりの違和感を感じたのは私だけではないでしょう。彼には、岩盤規制に穴を開けると語る安倍首相とその取り巻きがヒーローに見えるのでしょうか? 不思議な元官僚といえます。 竹中氏も岸氏も「規制緩和」を信条としていたことは、テレビでの竹中氏の発言などからも良く理解できます。しかし、規制のすべてが悪いとは誰も言い切れない以上、規制緩和を目的化することにいつも違和感を感じていました。「規制」ができたことの理由を考えてみる必要があるからです。規制によって、弱者が保護されることもあったはずです。彼らは、否定するでしょうが、彼らの言い分では、規制が常に悪いものとの前提にしか聞こえてきませんでした。規制が良いか悪いかは、その規制によって、誰が特をしているかに掛かっているといえますが、その判定は難しいと私は考えています。○か×かではないからです。 しかし、一番の問題は、規制に巣くって利権をむさぼる輩がいることなのではないでしょうか? 逆に言えば、規制を緩和することによって、利権をむさぼる輩もいるはずです。この度の加計学園問題も、まさにそこに問題があったと私は考えています。そのむさぼる輩の中心には、常に官僚が存在しています。そして、一部の政治家がそこに暗躍をしていました。私には、「記憶にない」とか「資料は既に廃棄した」とうそぶく人たちの方が「人間のクズ」のように見えます。廃棄した資料の一部が出てきても、正直に認めない人たちがまともな人なのでしょうか? (2017年7月15日記) ■2015年11月25日です。道の駅/吉野路大淀iセンターは、静かな道の駅でした。夜中まで太鼓の音が聞こえていましたので、祭りの練習でもしているのかなと思ったのですが、朝起きてみると裏側にカラオケがありました。そこから響く音でした。倉庫を改修したようなカラオケでした。停泊は4〜5台でしょうか? 大型は離れたところに駐車場があります。綺麗なトイレ設備がある道の駅でした。 ■和歌山県かつらぎ町にある「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ)」に向かいました。高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという、全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社です。自動車専用道路が利用できたのですが、途中から、広い道から一気に山路に入りました。かなり厳しい隘路が続きます。危険な臭いが漂う道ですが、対向車がまったくありません。道の駅を出発して1時間ほどで、丹生都比売神社に着きました。片田舎にある神社といった趣です。今は訪れる人も少ないのでしょうか? 赤い鳥居を過ぎたところで、シートで覆われて工事中の施設が見えて来ました。「輪橋(りんきょう)」という朱塗りの橋が改修中でした。両脇を鏡池というそうです。その先に「禊橋」があり、赤い中鳥居を通ると二層の楼門が見えて来ました。手前には手水舎があります。右手に拝殿があるのですが、楼門の先に本殿が見えます。そこで参拝が可能です。本殿は、五つあります。第一殿〜第四殿と若宮です。極彩色の跡が見事です。 第一殿に祭られている丹生都比売大神は、天照大神の妹とも伝わります。その子の第二殿に祭られている高野御子大神が、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、弘法大師を高野山に導いたとされています。『播磨国風土記』では、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進したとも伝わります。真言密教とアニミズムが混淆して明治の神仏分離まで神主と僧侶が守り伝えてきた神社です。左手の方から本殿を望んでみました。最左端の若宮だけが形が異なっていました。 |
|||
高野山 金剛峯寺 |
||||
高野山 金剛峯寺 |
||||
金剛峯寺 |
||||
金剛峯寺で見たアート作品 |
屋根の上に |
中門 |
金堂 |
|
■続いて「高野山」に向かいました。なだらかな丘陵地帯の歪路が続きます。高野山には無料の駐車場がたくさんありました。金峯山寺の駐車場に車を駐めて参拝と思いましたが、一旦、「大門」まで車で戻り、大門を撮影しました。そして、壇上伽藍駐車場までやってきました。金堂、根本大塔、東西の大塔、不動堂その他、映像で見た伽藍があります。高野山には初めての参拝です。愛染堂の欄間の龍の透かし彫りが見事です。 檜皮葺の不動堂は、鎌倉時代に建てられたそうですが、屋根は本堂の母屋部分から支えられる形で外側へ飛び出ているため、母屋に縋る(すがる)、すなわち「縋破風造り(すがるはふつくり)」と呼称されているそうです。丹生都比売神社の若宮の祭神となっている行勝上人が建てたと伝わっています。隅柱の色が他と異なっています。おそらく付け替えられたのではないでしょうか? 200円の拝観料を払うと根本大塔の内部に入ることができます。大日如来を中心とした曼荼羅が描かれていました。多くの菩薩像が円柱になっているのが、個人的には象徴的に感じられました。以前、曼荼羅を描いたときに、円柱を利用して表現したからです。車に戻ると雨が降ってきました。 車で奥の院に向かいました。奥の院の駐車場に車を駐めて、参拝です。色々な企業のお墓や、豪華なお墓があります。歴史的に有名な人々のお墓もあります。苔むしたお墓が連なります。全部で20万基を超える墓石があるというから驚きです。徳川家関連のお墓や春日局のお墓などもあるらしいですね。奥の院に近づくと、撮影禁止となっていました。内部には入ることができます。読経中でした。異なる雰囲気が漂っています。地下に行くと、弘法大師が眠る?と伝わる弘法大師御廟の不思議な体感をすることができました。絵が見えるとか見えないとか、同行二人の装束のお年寄りが会話していましたが、私には理解不能です。 ■高野山を堪能した後、高野山を源とする有田川の浸食によって形成された地に造られたという「あらぎ島棚田」に向かいました。江戸初期に開拓され、現在も当時の姿をとどめているそうです。ナビが案内する地点に来ましたが、分かりません。さらに進むと、一気に展望が変わりました。まるで絵に描いたような棚田です。身障者用の駐車場しかありませんでしたので、そこに駐めさせて貰いました。緑が映えて、実に美しい棚田です。少し車で進むと、別な駐車場がありました。大小54枚の水田が、自然に形成された土地に扇形のように広がっています。 ■西方にある和歌山県和歌山市の「日前宮(にちぜんぐう)」に向かいました。日前宮は、日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)の二つの神社の総称です。当初、名草に祀られたため名草宮とも呼ばれています。和歌山市内にある竈山神社、伊太祁曽神社とこの三つを参詣することを「三社参り」と呼ぶそうですが、社伝によれば、神武東征の後、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡(やたのかがみ)に先立って鋳造された鏡である日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたと伝えられています。日前宮の祭神である日前大神(ひのくまのおおかみ)は、天照大神の別名であるという説を唱える人もいます。 40kmほど走って着いたのですが、入り口が分からず一廻りをしてしまいました。駐車場が見つかりました。神社の駐車場は、基本無料です。詰め所にいる管理人が厳しい目で睨んでいます。社務所を過ぎると、木々の間に通路だけがあります。道が左右に分かれています。向かって左手に日前宮、右手に國懸神宮が双子のようにありました。日本の歴史上最も古い神社の一つと伝わります。今は街中にありますが、紀伊水道に面する和歌山市がその歴史を担ったことは、その地理的背景からも改めて認識を新たにしました。摂社も多いですね。 |
根本大塔 |
|||
愛染堂 |
||||
不動堂 |
||||
東塔 |
||||
弘法大師御廟 |
奥の院を歩く |
奥の院 入り口 |
御所(みやしろ) |
|
あらぎ島棚田 |
■ここからは、海南から有田(ありだ)まで高速を利用して、和歌山県田辺市龍神村の「龍神村民体育館」に向かいました。車の流れが良く、雨の中、一気に龍神村に着きました。ナビには、龍神ドームとの表示が出ていますが、道路からは、明らかに渡部豊和の作品と分かる建物が見えます。「上湧別ふるさと館」を少し小型にしたような建物です。彼にしては少し大人しく感じます。予算が厳しかったのかも知れません。1998年の作品です。しかし、内部は閉まっていました。 ■暗くなってきましたので、30kmほど離れた同じ田辺市にある「野中の清水」に向かいました。雨が降る中、野中の清水に着いたのですが、すっかり暗くなってしまいました。暗いため、池の水もよく見えません。水を汲みたかったのですが、給水場所が見あたりません。この辺りは、熊野古道に当たります。 ■諦めて、湯の峰温泉に向かいました。ナビが示す道は、危ないと感じました。来た道を1〜2kmほど戻り、向かったのですが、結局、ナビは歪路を案内します。もっと良い道があったはずなのですが、仕方がありません。真っ暗な中、湯の峰温泉の駐車場に着きました。ここには、2009年にも停泊しました。 湯の峰温泉は、和歌山県田辺市本宮町(旧国紀伊国牟婁郡)にある、四村川の流れる狭谷に沿って、十数軒の古風な旅館が軒を並べる、静かな温泉街です。ここには、共同浴場があり、その奥には日本最古の共同浴場ともいわれる「つぼ湯」があります。つぼ湯は、浄瑠璃や歌舞伎で演じられる小栗判官の伝説で有名です。 鎌倉時代、足利持氏に攻め落とされた小栗判官が、落ち延びた先で、盗賊のところにいた照手姫を見初めますが、その盗賊である横山一族に小栗判官は毒殺されてしまいます。しかし、閻魔大王の計らいで蘇生をすることが叶いますが、癩病にかかり、歩くこともままならない姿になってしまいます。一方、横山一族から逃れた照手姫は、さまざまな苦難の上、偶然、姿が変わった小栗判官と行き会いますが、お互いの素性に気づきませんでした。多くの人の善意を受けた小栗判官は、熊野に詣で、湯の峰温泉のつぼ湯の薬効により全快を果たし、再び照手姫を見つけ出し、ハッピーエンドとなるなど、幾多の伝説が伝わります。 駐車場には、意外にたくさんの車が駐まっています。傘をさして温泉に向かいました。2009年に食事をした、その手前にある食堂は閉まっていました。前回は、めはり寿司とそばで熱燗を頂いたのですが、残念なことです。今回の旅の楽しみの一つだったのですが。共同浴場に行くと、共同浴場は22時まで営業しているとのことでした。受付で、食堂が終わったのですねと聞くと、終わったみたいと教えてくれました。券売機があり、共同浴場とつぼ湯の券が買えます。つぼ湯は、一日に7回も色が変わるといわれてるそうですが、今回も、つぼ湯はパスをして、手前にある共同浴場に入ることにしました。 付近には、食堂らしき場所が他にはありませんので、車に戻り、先に食事をすることにしました。ご飯に缶詰、いつもの車内食です。非常時の食事にもなります。ひの菜を食べきってしまいました。再び、温泉に向かったのですが、食堂が開いていて宴会の最中でした。外国人の姿も見えます。もしかすると、入れてくれたかも知れませんが、後の祭りです。仕方がありませんので、共同浴場に入ったのですが、共同浴場は、貸し切りでした。ゆったりと温泉を満喫して、車に戻り、焼酎を飲みながら、データ整理など。車内は、20度近くありました。 |
|||
日前神宮 |
||||
國懸神宮 |
||||
國懸神宮 |
||||
龍神村体育館 |
龍神村体育館 |
野中の清水 |
湯の峰温泉 共同浴場 |
|
ページのトップへ |
120 一気に和泉市へ向かい、吉野へ返す(2015年11月24日の記録) |
■疑惑に対する不誠実な対応を続ける人たちによる憲法改正など、とんでもないことだといえます。あのような態度で、逃げ切りをはかることができると考えているのでしょうね。それを支えるマスコミの存在も無視することはできません。いずれ、歴史が証明することは間違いありません。(2017年6月5日記) ■2015年の11月に戻ります。再びの道の駅/針テラスの朝です。相変わらず混んでいますが、火曜日のせいか暴走族は見あたりません。少し大型車両が多いような気がします。大型のエンジン音が五月蠅いですね。朝は、5:40に起きました。ここから見えるGSの値段が、2円上がって117円になっていました。少し嬉しい気がします。片付けなどをして、7:40に出発をしました。 今日は、一気に高速に入りました。途中までは、一昨日通った自動車専用道路です。60kmほど走って大阪府和泉市まで着きました。高速料金は1,430円とお得感があります。高速は空いていましたが、出口で渋滞していました。向かったのは、「池上曽根遺跡」ですが、ナビが示す位置はずれているようです。「大阪府立弥生文化会館」という施設がありました。行って見たのですが、開館は10:15です。まだ20分近くあります。近くに池上曽根史跡公園というところがありましたので、行ってみることにしました。 入り口から入ると、何とここに復元された写真で見た池上曽根遺跡がありました。すぐ横にまで車で行くことができます。ボランティアの人が複数いますが、みなさんゴミ片付けに勤しんでいます。柵が巡らされていて、柵の中に入るには許可がいりそうですが、柵の外からでも充分に見ることができます。池上曽根遺跡は、大阪府の和泉市池上町と泉大津市にまたがる総面積60万uにも達する、弥生時代中期の環濠集落遺跡です。当時の古墳である方形周溝墓も20基ほど検出されています。 池上曽根遺跡にある<弥生神殿>は、浅川滋男が中心となって復元した棟持柱をもつ高床の切妻屋根の巨大建築ですが、大きくせり出した妻側の屋根に特徴があります。この復元案に対して、異論や様々な考察があることも書籍等で見聞きしていたため、一度見て見たいと思っていました。それを知ったのは、井上章一著の「伊勢神宮」などからでしたが、井上章一はいつもの口調で、伊勢神宮風の建物が本当に古墳時代以前から日本に存在したのかという疑問を投げかけていました。 池上曽根遺跡で当初発掘された柱穴から想定された復元案を示したのは、建築史家の宮本長二郎でした。彼は、伊勢神宮風の棟持柱を持つ神殿を提案しました。しかし、その後の発掘調査から新しい柱穴が発見されると共に、柱の径が想定より小さいことなどから、宮本長二郎の後を受けて復元案を造ったのが建築史家の浅川滋男でした。彼は、神殿風ではなく、南方風の建物を提案したのでした。それが現在立っている弥生神殿となっているのです。しかし、柱穴の小ささからも、その復元案よりもさらに小さい建物ではなかったのかという考え方もあるようです。 遺跡保存や再現を進めるのは地方自治体が中心となって予算付けをしています。そこに考古学者や建築史家、歴史家などが参加して、復元や保存がなされているのですが、地方自治体はできるだけ巨大なものを造ろうとします。観光マインドなどが働くからです。先日も、観光に理解がない学芸員を「ガン」と非難した大臣がいましたが、すべてに観光が優先するという考え方は、必要な部分もありますが、私は偏った考え方だと思います。 今回の旅行でも、「棚田」を観光資源と捕らえている自治体・住民と、そうは捕らえていない自治体・住民がいることが分かりました。どちらも私は正しいと思っています。久しぶりに訪れた吉野ヶ里遺跡では、巨大な観光施設が建設されているのを見て、私は見学することを止めました。私のイメージとはあまりにもかけ離れていたからです。それは遺跡ではありません。誰かが表現した単なる展示物となっていたからです。吉野ヶ里遺跡に壮大な夢を描くのはそれぞれの勝手ですが、壮大な観光施設を建設して維持する必要があるとは思えませんでした。 ■続いて向かったのは、安藤忠雄が設計した「大阪府立狭山池博物館」です。「狭山池」は、日本最古のダム式ため池とされています。そのため池に隣接する土木遺産の保存と公開を目的として、2001(平成13)年に開館した施設です。着いたのですが、駐車場の柵が閉まっています。狭山池自体は、巨大な土手の向こう側にあり、見えません。建物はその土手にある複数の巨大な箱がそうでした。 |
大阪府和泉市の池上曽根遺跡 |
|||
大阪府立狭山池博物館 |
||||
下赤坂の棚田 |
||||
下赤坂の棚田 |
||||
吉野神宮拝殿 (京都を向いている) |
吉野神宮 |
日本武尊の墓陵 |
日本武尊の墓陵への道 |
|
吉野山を登る |
ぐるりと廻ってから、何とか駐車可能な場所を見つけて車を駐めました。歩いて行ったのですが、柵の中に入るには、遠回りをする必要があります。しかも工事中で、至る所が通行禁止です。建物も城趾のような石積みの上に四角い倉庫を置いたような建物です。何らの感動も起きません。中を見ることさえ閉ざしている施設のようでした。いくつかの安藤忠雄の作品に見られる雰囲気です。 ■「下赤坂の棚田」に向かいました。千早赤坂町役場付近に来ましたが、案内看板はありません。ナビが示す狭い道を上がってみました。とても狭く、カーブが多く、路肩はすぐに車輪が外れそうです。何度も引き返そうと思ったのですが、引き返すことも出来ません。すると、登り切ったところに少し広いところがありました。ナビはさらに先を示しています。進んで見ましたが、ちょっと見当違いのようでした。車が一台駐まっていて、農家にしてはおしゃれなおばさんが農作業の準備でした。何とか空き地を見つけてUターン。 先ほど通った広い空き地が下赤坂城趾でした。しかも、先ほどは気がつかなかった棚田の看板がありました。ここが下赤坂の棚田でした。手入れが行き届いた棚田です。美しいですね。来たときとは別な下りの道があり、ここから登った方が良かったようです。でも、かなり急な傾斜路です。「楠正成生誕の地」の看板がありました。千早赤阪中学校があります。 ■吉野に向かいました。途中、「日本武尊の墓陵」の看板がありましたので、寄ってみました。思い切り狭い民家の横を通ります。車は無理なので、少し戻り、空き地を見つけました。歩いて墓陵に向かったのですが、民家の間の通路の先に墓陵がありました。あまり良く管理された雰囲気はありませんが、宮内庁管轄となっています。<入ってはいけません>と看板がでていますが、いくらでも入ることができそうです。 白鳥となった日本武尊が羽を休めるために留まったところが三カ所、墓陵に比定されています。白鳥はその後、その翼を夕日に染め、葛城の山を越えて、河内の古市へと飛び去ったといわれています。伝説に基づいて、日本武尊の墓は三重県亀岡市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市の三市にあり、一般に「白鳥三陵」と呼ばれています。ここ羽曳野市にある白鳥陵古墳(前の山古墳)は、全長約200mの前方後円墳です。 ■吉野に入りました。「吉野神宮」がありました。大きな駐車場があります。あまり人影はありません。吉野神宮は、奈良県吉野町にある後醍醐天皇を祭神とする神社です。後醍醐天皇は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した第96代の天皇です。当初は、兄の後二条天皇の長子である邦良親王が成人するまでの中継ぎの天皇と位置づけられていたのですが、徐々に力を付けていった後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒計画を企て、発覚してしまいます(正中の変)。六波羅探題は日野資朝らを処分しましたが、難を逃れた後醍醐天皇は、さらなる倒幕計画を図り挙兵、そして圧倒的な幕府軍により捕らえられてしまいます(元弘の変)。 1332(元弘2)年、隠岐島に流された後醍醐天皇は、翌年隠岐を脱出、伯耆船上山(鳥取県琴浦町)で挙兵、足利尊氏や新田義貞らの支援を受け、鎌倉幕府を倒し、北条氏を滅亡させることに成功します。天皇に復帰した後醍醐天皇が本来の大覚寺統の嫡流であった邦良親王系を皇位継承から外して始めたのが「建武の新政」です。しかし、その性急な改革や大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策に対する不満は、足利尊氏らの離反を招きます。いつの世にもいる、理想を追い求め現実を理解しない人だったようです。 足利尊氏は、一度は新田義貞や楠木正成、北畠顕家らに破れ九州に逃れますが、勢いを盛り返し、湊川の戦いで新田・楠軍を破り、比叡山に逃れた後醍醐天皇に対して、持明院統の光明天皇を擁立(北朝)、建武式目を制定して幕府を開設します。一方、その後花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は、吉野に逃れ朝廷(南朝)を開きます。これが南北朝時代です。後醍醐天皇は、1339(延元4/暦応2)年、吉野の金輪王寺にて、朝敵討伐を遺言して、50歳で亡くなります。まさに波瀾万丈の生涯を送った天皇でした。 吉野神宮の参拝後、上に登る方法を聞くと、車でなければ無理とのことでした。車で、1〜2kmほど登ると、広い無料駐車場がありました。吉野山観光案内図があり、歩いて15分ほどで金峯山寺に至ります。一旦、歩きかけたのですが、何となく車に戻り、車で先に行ってみることにしました。狭い登り口にお店が並んでいます。途中、有料駐車場があり、手招きをしています。どうやら、やはり歩いて登るべきでした。 |
|||
金峯山寺黒門 |
||||
金峯山寺銅門 |
||||
金峯山寺仁王門 |
||||
金峯山寺蔵王堂 |
金峯山寺にある天満宮 |
金峯山寺蔵王堂に入る |
蜻蛉の滝に向かう |
|
再び駐車場に戻り、気を取り直して歩いて登ることにしました。途中、道から外れた石段があり、その上に「銅門」がありました。銅門を潜り、さらに登ると「仁王門」が見えて来ました。仁王門は工事中のようですが、通ることができます。仁王門の石段を上がると、阿吽像があります。さらに進むと、開けた境内の中に「金峯山寺(きんぷせんじ)」の本堂・蔵王堂が見えてきました。桜の時期ではありませんが、桜の木々も見えます。 蔵王堂では、秘仏「蔵王権現」が1,000円で拝観可能とのことです。金峯山寺は、役小角が開基と伝わる修験道の本山です。前鬼と後鬼が活躍した時代が思い浮かばれます。高さ34mの重層入母屋造りの蔵王堂の中に、約7mの三体の蔵王権現がありました。すぐ真下の内陣まで入れてくれました。圧倒的な超巨大な三体の蔵王権現がもの凄い迫力で見下ろしています。残念ながら撮影禁止でしたが、お参りをすると、蔵王権現の右側にも案内をしてくれました。役小角と前鬼と後鬼の象もありました。 裏を廻り、再び、蔵王権現を見上げます。よく見ると、三体とも右足を上げています。恐ろしい顔をしていますが、四頭身くらいでしょうか、失礼ながら、何故か可愛らしくも見えます。赤ん坊のようにも見えてきました。これは貴重なものを見せて貰ったと思います。調べると、3体のうち中尊は像高7.28m、両脇の像も6m近くとのことです。寺伝では中央の像が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地として、それぞれ過去・現世・来世を象徴しています。吉水神社はパスして、歩いて車まで戻りました。 戻る途中、西行を偲んで吉野を訪れたという松尾芭蕉の句碑がありました。芭蕉は、 吉野にて桜見せふぞ檜の木笠 日は花に暮れてさびしやあすならふ 春雨の木下(こした)につたふ清水かな などの句を残しています。 ■奈良県川上町の「蜻蛉(せいれい)の滝」に向かいました。途中、大淀町にあるコインランドリーを確認して向かったのですが、川上温泉方面は不通となっているとの看板がありました。土砂崩れのようです。蜻蛉の滝は、良く整備された公園の中にありました。若い人が複数来ています。整備された山道を5分ほど登ると滝が見えて来ました。水量が多く、迫力がありますね。左手に道が見えました。その先に建物があり、廻り階段がぶら下がっています。その廻り階段を降りると、滝の迫力が迫っています。水しぶきがかかります。滝壺も水量も凄いですね。松尾芭蕉も訪れたといいます。 車に戻り、電話確認です。第二候補の津風呂温泉は、何度電話をしても出ません。15kmほど戻りになる、道の駅/吉野路黒滝近くの温泉は休業中でした。念のため、川上温泉の道の駅/杉の湯に電話をしてみました。すると、18時まで入浴受付が可能とのことです。道路は全然問題ないとのことです。あの看板は何だったのでしょう。ただし、温泉での食事は出来ないようです。道の駅にはうどん店があるとことでした。 現在は、16:09です。杉の湯までは4〜5kmです。先に入浴をすることにしました。杉の湯ホテルに着きました。道の駅と兼用で、並びに役場や駐在所があります。小さな温泉でしたが、貸し切りとなりました。露天風呂は木の風呂で気持ちが良いですね。まだ薄明るいため、露天風呂からは川や対岸の山が見えます。すっかり温泉気分です。 温泉の後、19kmほど戻り、大淀町のコインランドリーに向かいました。コインランドリーは混んでいましたが、全自動があり、1時間に設定しました。その間に食事をすることにしたのですが、近くのスーパーに行っても適当な弁当がありません。ローソンに行って、コンビニ弁当にすることにしました。ロースカツ丼とミックスサラダを購入したのですが、ロースカツ丼のレンジ設定が短かったのでしょうか、超まずいコンビニ弁当でした。設定が良ければ、結構、美味しいのですが。。。 コインランドリーに戻ると、私の機械の前で待っている人がいました。混んでいますね。何とか洗濯が終了しましたので、道の駅/吉野路大淀iセンターに向かいました。予定では、道の駅/吉野路黒滝を利用しようと考えていたのですが、大淀iセンターは、4〜5kmの近い距離にあります。途中、先ほど寄ったスーパーで缶ビールを購入して、道の駅に向かいました。着いたのは、19:45でしたが、ここでデータ整理などをして、今日は早めに寝ることにしました。明朝は、少し早めの出発を予定しています。しかし、iセンターとはいえ、モバイルルーターは繋がりませんでした。意味が不明です。 |
蜻蛉の滝に向かう |
|||
蜻蛉の滝に向かう |
||||
滝壺へ降りる階段 |
||||
蜻蛉の滝 |
||||
ページのトップへ |
ページのトップへ | |||
<前へ> | 「旅の思い出・その11」へ行く |