旅の思い出・その8 | <次の記事へ> |
079 札幌を出発して大間岬から竜飛岬を経由して十三湊まで(2015年10月13〜14日の記録) |
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2015年10月13日(火)9時28分、雨が少し残っていましたが、雲の切れ間に青空が覗く秋の景色の中、札幌を出発しました。天気予報では、峠や山では積雪があるとのことです。季節的には少し早いのですが、途中でのタイヤ交換が困難なため、はきつぶすつもりでスタッドレスタイヤを装着した愛車ヴォクシーです。自宅近くの札幌ドーム西側の道路の紅葉は、もう少しで盛りとなるでしょう。定山渓手前の八剣山の紅葉は見事です。青空が際立ってきました。 中山峠に入ると、この付近の紅葉は終わり、白樺の木々に小さく縮んだ葉が少しだけ残り香のように今にも落ちそうな気配を漂わせています。残念ながらエゾ富士こと羊蹄山は、上半分だけ雲が掛かっていて霞んで見えています。洞爺湖を望む展望台で撮影。晴れたり曇ったり、そして少し雨がパラ付きますが、旅への期待と共に、空気感は清々しい秋の空です。 ■途中、長万部付近で、持参したオニギリで昼食を取った後、給油をして15時25分に函館フェリーターミナルに着きました。印刷したQRカードをスマートチェックインにかざしたのですが、何度やってもエラーとなります。しかも、時間変更で明朝の便に変更になっていますとのメッセージまで。欠航になったとすれば、函館泊となります。それは困ったなと思い、ターミナルの発券売場に行ってみると、16時30分の大間行きのフェリーは発券中でした。良かった、発券して貰えました。カウンターで聞くと、時々、風などでエラーが出るとのことでしたが、理解不能です。ましてや、明朝に変更になっているとのメッセージが分かりません。 ■風がとても強い中、待機場に並び、16時丁度にフェリーに入車開始です。フェリーは空いていました。1階の大広間のような客室でゆったりと。16時20分ころ、見送りの人の退船を促す放送がありましたが、救命胴衣の具体的な説明などは聞いた記憶がありません。単に、聞き落としただけかもしれませんが。予定時間きっかりに出港です。客室で放送中のテレビ画面では、14時過ぎから、中山峠で積雪があったとのことです。自分が通った後のことでした。上部のデッキに行って見ましたが、風が強いですね。 ■17時45分ころ、館内放送があり、着く前に車内で待機するように指示がされました。車に移動です。18時丁度に降車が始まりました。すべて予定時間通りです。辺りはすっかり暗くなっていましたが、まっすぐ大間温泉海峡保養センターに向かいました。レストランは20時までということですので、先に入浴をすることにしました。入浴料は380円と、一般の銭湯よりも安いですね。大きなお風呂です。ここで失態をしてしまいました。貴重品ロッカーに財布を預けたのは良かったのですが、鍵をどこに置いたかを忘失してしまっていました。一度、戻って駕籠を探したのですが、ありません。仕方がないので、簡単に入浴を済まして、再度、戻ってみると椅子の上に鍵がしっかりと置き忘れたままになっていました。手に付けようと、一度、置いたのが悪かったようです。とはいえ、誰もそれをどうしようともしなかったのが凄いですね。 |
札幌近郊の八剣山の紅葉 |
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洞爺湖にて |
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フェリーから函館山を見る |
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大間岬にて |
大間岬にて |
大間温泉海峡保養センターにて |
本州へ |
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願掛岩付近 |
■レストランに行き、マグロ丼を注文しようと思っていたのですが、2,700円もします。2009年に食べたときは1,500円でしたから、倍近い値段になりましたね。もう一つの名物、大間すき焼き定食が1,300円ですが、1,200円の刺身定食を頼むことにしました。出てきた刺身にはマグロも付いているので満足です。私の後に入ってきた二人連れがマグロ丼を頼んだのですが、1時間待ちと言われていました。材料が切れたので、仕入れに行かなければならないそうです。結局、一人前だけあったので、マグロ丼とすき焼き定食を一人前ずつ頼んでいました。19時半ころに保養センターを出て、再び大間フェリータミナルです。ここに停泊するのは3度目です。20時を過ぎたころからいつものように風が強くなってきました。車が揺れます。外気温は10度を少し切るくらいですので、毛布なしで寝ることができます。モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなど。 ■翌朝は、5時10分に起きました。夜中ぢゅう風が強く、車が揺れる程でしたが、それなりに最初の夜を過ごすことができました。車内食は、電子レンジで温めたご飯と缶詰、小さなカップ麺です。トイレはフェリータミナルを利用させて貰いました。6時50分ころ行ったのですが、7時発のフェリーに乗る方ですかと聞かれてしまいました。ギリギリでも乗せてくれるようです。 ■7時20分に出発、予定外でしたが、大間岬に寄ってみました。曇っていますが、相変わらず風が強いですね。大間岬には大きなマグロのモニュメントもあります。観光相手のお店がこの時間帯でも開いています。どうですかと声も掛けられてしまいましたが、旅のこの段階で買う物はありません。下北半島西側に入り、建設途中の大間原発を横目に南下しました。原発が余りにも街場に近いのが驚きです。途中、日本猿が二匹道路沿いにいました。北限の日本猿です。 ■願掛岩に来ました。案内では女岩が右手、男岩が左手(写真は反対)とのことです。登山をすると展望が良いでしょうね。その山側に矢越八幡宮がありましたので、参拝。賽銭入れがありませんでしたので、お堂を開けて畳の上に5円玉。後で気がつきましたが、この付近は八幡宮が多いようです。さらに進むと仏ヶ浦に着きました。仏ヶ浦の海岸線散策は今回はパスして、展望台からの遠景撮影のみです。曇っていますが、時々パラパラと雨が降ります。しかし、時々青空も刺しています。 ■浅虫を経由して、青森に入ったところで、入浴とレストランを予定していた竜飛岬のホテルに電話をしたのですが、今日は混んでいるので入浴は早く締め切る予定で、レストランも無理と迷惑そうなので、諦めることにしました。第2の予定候補だった温泉に電話をしましたが、電話が使用されていないとのメッセージ、結局、安全を見て、途中の平不老ふ死温泉に寄っていくことにしました。津軽半島で最も古い温泉宿だそうです。ネットも検索しましたが、大手の情報は、宿泊者を対象にしたものだけですので、使い物にならない情報ばかりでした。途中、外ヶ浜では虹が出ていてその方向にフェリーが向かっていました。小樽に向かうフェリーでしょうか? |
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矢越八幡宮 |
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願掛岩 |
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仏ヶ浦を遠望 |
仏ヶ浦付近 |
外ヶ浜にて |
平不老ふ死温泉 |
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■不老ふ死温泉の入浴の後、竜飛岬に向かいました。竜飛岬に着いたときは、日暮れ少し前でしたが、何とか撮影可能でした。すぐ側に停泊予定の道の駅みんまやもありますが、余りにも寒々とした感があります。風が強いことと、食事をすることができるところもないため、先に進むことにしました。第2候補の道の駅こまどりもパスして、その先道の駅十三湖高原まで行くことにしました。しかも、途中にはコンビニも何もなく、道の駅近くでやっとコンビニがありましたので、今晩はコンビニ弁当と相成りました。先が思いやられますが、40km近く先に進んだことを吉とすべきでしょう。ここは風もなく、静かに休むことができます。道の駅十三湖高原は広い道の駅です。他に停泊は、1〜2台でしょうか? | 竜飛岬にて |
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078 再びの日本一周2015年 |
■2009年の「日本一周・巡礼の旅」から早6年を経ました。短期の北海道内を巡る旅は、仕事も兼ねて幾度となく繰り返していましたが、チャンスがあればまた渉猟の旅に出たいといった気持ちが、この1〜2年の内に高ぶって来ていました。そして、数少ないチャンスと妻の理解を得て、再び日本一周・車中泊旅行に出発することができました。 今回の旅のテーマは、「日本の原風景を辿る」でした。失われつつある原風景、既に失われた原風景、新たに形成されようとしている原風景、を辿りながら、想いを巡らす旅となりました。特に大きなポイントとしては、「棚田」と「滝」をリストアップしていたため、ハードルの高い旅程となりました。それぞれが一般道路から離れた峻険な場所にあることが多いからです。 当然、徒歩、登山?などに苦しめられることもありました。土砂崩れなどのため、途中で断念するところもありました。案内標識が見つけられず、目的地付近まで行ったのですが、そこが果たして目的とする場所だったのかが未だに不明なところもあります。小熊を含めた野生の動物が車の前を横切ることもありましたが、懸念をしていた「ヤマビル」には、季節的にまったく苦しめられることはありませんでした。 ■2009年は、49日間に渡り車中泊を貫徹しましたが、今回は途中で車の故障が起きたりしたため、2泊をホテルなどに停泊する63日間の行程となりました。都合60泊が車中泊だった訳です。2009年に比べて、建築物・神社・仏閣等の比重は少ないですが、休みなしに63日間も廻りますと、膨大な数の記録と写真が残りました。今回は、沖縄県以外の全都道府県を廻っています。 ■2015年10月13日、紅葉が深まりつつある札幌を出発、函館からフェリーで大間に渡り、下北から竜飛岬を経由して、内陸部を主体に東北を南下、一旦、諏訪湖方面に入り、黒部ダムを東西から攻めて、能登半島を廻り、日本海側を主体に出雲を経て九州、島原半島や阿蘇、霧島などを経由して最南端の佐多岬、太平洋側主体に北上、山陰の内陸部を縦断して反転、姫路から瀬戸内海側を西へ、そこから四国に渡り四国中央部を横断、室戸岬を経て、淡路島から京都、奈良、明日香、吉野などを巡って熊野三山、伊勢神宮から名古屋、富士山五合目、伊豆半島、そして東京、千葉、日光を経て、東日本大震災の傷跡が残る東北を北上、再び大間からフェリーにて北海道に帰ってきました。札幌に着いたのは12月14日でした。そのような行程を描いたのが添付地図です。 ■今回の旅では、前半の九州に渡るまで、日中はほとんど雨に当たらず、輝くばかりの美しい景色を堪能することができました。南九州では、気温が28℃まで上がり、夏服を用意していなかったため、暑さに苦労することもありました。人混みの山寺、夜明け前の竹田城址、険しい登山の投入堂、雨の中の天滝(てんだき)、登山に近い貴船神社から鞍馬山の往復といった思い出も残りました。 ■そのような足取りが、下の日程表です。当初は、61日間を予定していましたが、結果的に63日間の旅となりました。 ・走った距離 15,002.3km 一日平均 238.1km ・使用したガソリン 1,265リットル 154,141円 ・交通費(フェリー代、有料道路、駐車料金など) 56,960円 ・食費(札幌から持ち込んだ缶詰類は別) 139,288円 ・入浴料(今回は、入浴できない日はありませんでした) 34,050円 ・入館・拝観料 29,390円 ・その他(クリーニング、備品、モバイル通信費など) 67,696円 合 計 481,525円 2009年同様、安上がりの旅行ができたのは、ガソリン代の平均単価が121.85円/リットルのお陰でもありました。前回同様、車中泊はほとんど道の駅を利用させて貰いました。もちろん車は、後部座席以降が上下2段になるワンボックスカーヴォクシーです。このタイプは現在は無くなったそうですから、貴重な車といえましょう。新品のディープサイクルタイプの大型サブバッテリーを積んで、チャージャーを経由して、本体のバッテリーと繋いで、純正弦波タイプ(最大2000W)のインバーターで電子レンジや電気毛布を利用したのは前回と同様です。タイヤは、履きつぶすつもりで、スタッドレスタイヤを装着して行きました。 ■今回の旅の重要なテーマである「棚田」と「滝」は、光村推古書院の日本の名景シリーズを参考としました。ただ、本やネットに出ている住所などでは、辿り着くことはほとんど難しかったと思います。Googleの地図やそれをベースにした「日本棚田百選マップ」を事前にダウンロードして、画像に変換、娘に買って貰ったタブレットに保存して、行き先でタブレットとナビゲーターを比較しながら行程を決めるといった手法がとても役に立ちました。何故なら、それらがある山間ではネットが繋がらないことが多いからです。 棚田を巡っていて気になったのは、多くの棚田で、一番景色が良いところ、全体を見渡すことができる場所にお墓があることでした。亡くなった後でも、地域の自然を感じながら、稲や作物の成長の移り変わりを見守ることができる場所にお墓があったのです。それは、棚田の景観に自然と溶け込む美しい佇まいを見せていました。棚田がある限り、先祖を敬う伝統が引き継がれていくのだといえます。 ■日本一周とは直接関係がありませんが、年明けの悲惨なバス事故には衝撃を受けました。日本一周の道中、気になったのは大型のバスでした。対抗する大型の工事用などのダンプが中央車線をはみ出して来ることは殆どありませんでしたが、道幅が狭くなったところやカーブなどでは、大型バスはかなりの確率で中央車線をはみ出して走ってくることが多いのです。向かいに大型バスの姿が見えたときは本当に注意しました。しかも、異常なスピードで走って行く大型観光バスを時々見かけました。報道では伝え切れてはいない、隠れた問題が多くあるような気がしています。そんな中で、故障はありましたが無事に行程を終えることができたことを感謝したいと思います。 |
森田敏隆 「日本の名景−棚田 光村推古書院 |
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鉄 弘一 「日本の名景−滝」 光村推古書院 |
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鉄 弘一 「日本の名景−滝2」 光村推古書院 |
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鉄 弘一 「日本の名景−滝3」 光村推古書院 |
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森田敏隆 「日本の名景−水」 光村推古書院 |
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077 初夏の北海道を巡る(2015年6月1日〜6月19日の記録) |
大空町の芝桜公園 |
大空町の芝桜公園 |
江部乙町の菜の花畑 |
江部乙町の菜の花畑 |
芝桜公園の山津見神社 |
■この2ヶ月の間、地方に行くことが多く、ほとんど休みもなく、しっかりと働いていました。特に地方に行ったときは、得意の車中泊が主体となるため、日常の生活がほとんど飛んでしまうということになります。道すがら、時々、車中で国会中継などを聞くのですが、質問にはほとんど答えず、どう聞いても不明瞭な持論をくどくどと繰り返し述べるだけの人物を何故、総理大臣にしてしまったのか、安保法制を含め、時の政権の独断と偏見に憤りを感じる今日この頃といえます。この話題は、また別な機会に譲ることとしましょう。 ■2015年の6月、道北方面から道東を廻ってきました。単発の地方行きは別として、その2週間後には、道南方面を廻ってきました。6月1日は道の駅「滝川」に寄りました。目的は、江部乙の菜の花畑です。しかし、道の駅周辺にはわずかな群生しか見当たりません。少し東の方に向かうと菜の花畑の群生がありました。菜の花といえば、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を思い出しますが、幕末期に活躍した高田屋嘉兵衛が主人公の小説です。函館の護国神社坂に高田屋嘉兵衛の像が建っていますが、ロシアとの交渉で正論を語る彼の姿が思い描かれている像といえます。今の政治家にはほとんどこのような人物がいませんね。少し北に行くと、菜の花畑のスィートスポットともいえる場所がありました。車が何台も止まっています。青空に映えて美しい写真が撮れました。菜の花はもう少しで終わりのようです。 その日は、道の駅「当麻」で車中泊をしましたが、翌日の夜は、女満別温泉に行ってみました。ここは温泉旅館が通常の入浴施設もやっているという感じです。近隣の人たちがひっきりなしに入ってきます。湯元ホテル山水は、美肌の湯の源泉掛け流しとのことでした。お湯は肌に粘り付くような気持ちの良い感じでした。ここにはレストランもありました。停泊は、2〜3km離れた道の駅「めるへん女満別」です。温泉の近くにも女満別湖畔の駐車場がありトイレ施設もありました。車中泊のスポットかも知れません。 昨夜、寝たときの車内温度は19℃でしたが、朝方は寒くなり冬掛け布団を持ってきて正解でした。朝は5時ころ起きたのですが、車の周りをキタキツネがうろうろとしていました。午前の仕事の後、大空町の東藻琴「芝桜公園」に寄ってみました。芝桜祭りの期間中とのことですが、今年の開花の時期が早かったせいか、芝桜が終わりかけの状態になっていました。入園料も無料になっています。とはいえ、結構、咲いていますので、公園内を散策してみました。山頂にある「山津見神社」にも参拝。しかも、中国人観光客が多く、中国語が飛び交っています。気になったのは、「日本人」団体客のマナーの悪さです。 中標津に向かったのですが、途中、摩周湖に寄ってみました。昨年は、「裏」摩周を通ったのですが、今年は「表」側です。曇っていましたが、摩周湖には霧がかかっていませんでした。摩周湖には、恐らく数十回来ていますが、霧の摩周湖は一、二度しか見たことがありません。途中、屈斜路湖や硫黄山が遠景できます。摩周湖は、やはり第一展望台が一番美しいですね。ここも中国人観光客ばかりが目立ちます。 その日の停泊予定は、釧路近くの道の駅「阿寒丹頂の里」です。ここは、道の駅の向かいに温泉サークルハウス赤いベレーがあります。昨年も来たのですが、レストラン終了間際だったため、落ち着いた食事ができませんでした。今年は余裕を持って、17時過ぎに着きました。ところが、まるで閉館したかのような雰囲気です。電話確認をするべきでした。約10日間のメンテナンス休館に入っていたのです。近くを探すと、20kmほど東にオートキャンプ場山花公園があり、そこに山花温泉リフレがありました。しかし、電話をしてみると今日から3日間のメンテナンス休館とのことでした。 |
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屈斜路湖を望む |
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第二展望台からの摩周湖 |
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第一展望台からの摩周湖 |
室蘭 チャラツナイ展望台 |
室蘭 地球岬 |
室蘭 金屏風 |
これは、阿寒まで40km戻るしかないかなと思いましたが、こんな時は道の駅です。行ってみると、丁度、女性の担当の方が帰るところでしたが、親切に教えて貰えました。地図まで頂きました。30kmほどほとんど戻るのですが、鶴居村に温泉施設がたくさんあるようです。グリーンパーク、民宿、ホテルなどがあり、いずれも良いモール温泉だそうです。ホテルTAITOを教えて貰い、電話確認をしてから向かいました。ホテルの近くに良さそうな停泊場所を探したのですが、見つけることはできませんでした。停泊は、道の駅丹頂の里まで戻ることに決めて、綺麗なモール温泉を堪能することができました。ここのレストランで頼んだ生姜焼き定食はもの凄いボリュームでしたが、食べ切ってしまいました。 昨夜は、強い雨が車の屋根を叩いていましたが、朝方の4時に震度5の地震があったのも気づかず寝ていました。信じられません。その日は、釧路から帯広に入り、帯広でいつものホテル「鳳の舞」にて食事と温泉、そして道の駅「音更」に停泊して、帰ってきました。最近は、野菜の値段が高いということでしたので、帰り道、道の駅「マオイの丘」で野菜を大量に購入してきました。走った距離は、4泊5日で1,070kmでした。 ■6月16日、苫小牧方面から、室蘭に向かいました。早めに室蘭に着きましたので、地球岬に寄って見ました。今年の地球岬は晴れていたので期待していたのですが、海の碧さは今ひとつでした。もっとも写真にすると、それなりでしょうか? この辺の海岸線は見事です。道の駅みたら室蘭で見る沈む太陽も美しいですね。白鳥大橋も姿が良いです。今年は、時間帯が会わず、見ることはありませんでしたが、道の駅みたら室蘭近くの室蘭温泉ゆららの露天風呂から覗む白鳥大橋を含めた室蘭の夜景はなかなかのものがあります。隠れた名景ではないでしょうか? (2013年の記録もあります) 翌日は、室蘭の仕事です。そして、その翌日の函館の仕事に備えて、停泊は南茅部ひろめ荘近くの駐車場です。ここに停泊するのは、今年3度目になります。トイレもあるのですが、利用したことはありません。露天風呂が素晴らしく、接客マナーが優れたひろめ荘で温泉と食事と少しのお酒を楽しみ、近くの駐車場に停泊し、朝起きるとすぐに約8kmほど離れた、道の駅縄文ロマン南かやべに向かうからです。道の駅は函館市縄文文化交流センターを併設していますが、以前の道の駅案内地図には掲載されていない新しい道の駅です。北海道初の国宝「中空土偶」が常設展示されています。 気持ちの良い朝を過ごして、函館の仕事の後、今年は日本海側を経由して北に向かうことにしました。途中、新函館北斗駅に寄ってみました。大平原の中の新駅です。ほとんど何もありません。来年春に新幹線がここまで開通するそうですが、大丈夫なのでしょうか。本州方面から北海道に来られる方には、魅力があるかも知れません。 今宵は、厚沢部(あっさぶ)町のうずら温泉にやってきました。電話で確認したときは、辺鄙な温泉をイメージしていたのですが、新しいホテルの温泉施設でした。施設内の中華レストランも本格的な雰囲気でした。電話では、中華しかないけれども良いですかといった怪訝そうなお答えだったのが意外でした。停泊は、約10km先の道の駅あっさぶを予定していたのですが、トイレ付きの良く整備された公園も隣接していますし、さらに隣接した施設の駐車場もあります。ここに停泊することに決めました。天の川は見えませんでしたが、綺麗な星空に包まれて眠ることができました。 |
室蘭 トッカリショ |
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室蘭 祝津港 |
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室蘭 白鳥大橋 |
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せたな町の親子熊岩 |
奥尻島を望む |
新函館北斗駅 |
中空土偶 |
せたな町の窓岩 |
明朝は、道南の日本海側の海岸線をゆっくりと堪能しました。素晴らしい天気です。海も静かで碧い海原が広がっています。奥尻島もよく見えます。海中に溺れそうになった小熊を助けようと手を伸ばす親熊の姿がそのまま岩に変身したというせたな町の「親子熊岩」は、彫像のようですね。「窓岩」などの奇岩も続きます。何度も通った道ですが、今日は格別美しい風景を見せてくれました。 島牧町の「賀老の滝」に寄ってみることにしました。日本滝百選にも選定されている落差70mの滝です。道の駅島牧の少し手前を14kmほど東に入ります。狭い山道が続きますが、対向車はほとんどいません。さらに広い高地を抜けると雪渓が美しい景色のなかに駐車場がありました。ここに停泊した方もいるようです。案内板を見ていると、夫婦連れもやってきました。日差しの熱い中、数百メートルの木々に覆われた舗装道を歩きます。虫が五月蠅いですね。 案内板がありました。700mで第一展望台とあります。舗装道を進みました。実は、これが間違いでした。数百メートル歩くと、駐車場がありました。その右手をさらに数百メートル進むと、車が通る広い道に出てしまいました。駐車場から先の道のようです。「昇龍の橋」の案内板があります。どうも、道を間違えたことに気づきました。汗をかきかき辿り着いた末の結果ですが、気を取り直して来た道を引き返しました。先ほど左手に見た駐車場は、「昇龍の橋」と賀老の滝の「第二展望台」への駐車場だったのです。ここに駐車する手もあったようです。 せっかくですので、「昇龍の橋」に行ってみました。途中、恐らく雪害で手摺が破損したらしき大きな橋を渡ると、案内パンフレットで見た吊り橋がありました。「ヒグマに注意」の看板もあります。さらに山道を少し登ると第二展望台がありました。しかし、木々の間に賀老の滝の頂部しか見えません。ちょっと興ざめでした。とはいえ、元気を出して来た道を引き返しました。来たときに賀老の滝まで700mとの看板があったのですが、その際、舗装道を進まずに、左手の山道を下るのが賀老の滝の第一展望台へ至る道だったのです。「行きは20分帰りは30分」の看板があります。道を下り始めると、先ほど後にした夫婦が汗をかきながら道を登ってきました。「大変ですよ」と仰っていました。それからひたすら道を折り返しながら狭い道を下ります。誰ともすれ違いません。 降りきったところに、小展望台と大展望台がありました。水量が多い時期のようです。確かに見事な滝ですね。来たかいがありました。実は、この後の予定があったものですから、帰りは急いで一気に山道を登り始めました。ほとんど登山です。途中、息が切れそうになりましたが、頑張って登り切ったところで13分を所要しました。約半分の時間で登り切ったことになります。日頃の鍛錬のたまものです。考えてみると、道を間違えなかったならば、恐らく第二展望台や昇龍の橋には行かなかったと思います。何事もプラス思考の自分がいます。 結局、賀老の滝には2時間近くいたことになります。次の予定先は倶知安だったのですが、20分ほど遅刻してしまいました。申し訳ありませんでした。その後は、京極の噴水公園に寄り、持って行ったタンクに給水をして、中山峠経由で帰りました。今回の走った距離は、3泊4日で830kmでした。 |
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昇龍の橋 |
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賀老の滝 第二展望台 |
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賀老の滝駐車場から雪渓を望む |
賀老の滝に向かう山道 |
賀老の滝 小展望台から |
京極町の噴水公園 |
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076 道北と道東を巡る旅(2014年6月16〜19日の記録) |
小平文化交流センター |
旧花田屋番屋 |
オロロン街道の風力発電 |
羽幌町太田理容院 |
■仕事で道北・道東方面に行ったついでに、今年は北は稚内、東は丸瀬布まで足を伸ばしてみました。今年の北海道の気候は、異常気象が続いています。6月3日には、北海道の17地点で35度を超える猛暑日となりました。音更(おとふけ)では、37.8度を記録しています。37.8度は、90年前の帯広で観測された北海道の最高記録に並んだ気温です。その後、一転して10日以上も雨が続く気候のなかの旅程でした。長期予報では、ほぼ晴れを目論んでいただけに残念なことでした。 自宅を出発して、石狩方面に出て海岸線に沿って北上しました。石狩市厚田区は、「恋人の聖地」プロジェクトで、北海道で始めて選出されたところです。ここでプロポーズをすると良いそうですが。。。雄冬方面に向かいました。トンネルが多いですね。工事中のため、車線が交互になっているところもあります。赤く崩れやすそうな岩肌も見えます。雄冬は、かつては陸の孤島ともいわれ、トンネルが開通する前は、船でなければ行けないところでした。30年ほど前に、船に乗って観光に来たことがあります。映画「駅STATION」の舞台にもなりました。 増毛を抜け、小平(おびら)町に入りました。小平文化交流センターが気になった建物です。さらに走ると、小平町内ですが、さらに北の鬼鹿地区の道の駅にやってきました。ここには、「旧花田屋番屋」が隣接しています。日本最北端の国指定重要文化財です。総2階のこけら葺きの大きな建物ですね。間口39.39m、奥行き22.722mもあります。残念ながら、休館日でした。前面は、外構の工事中でした。国道232号線を挟んで、北海道の名付け親といわれる「松浦武四郎」の像がありました。昼食タイムとしました。時々、パラパラと雨が来ますが、曇った空模様です。 小樽から石狩、留萌、稚内に続く322kmの北海道の西海岸線を「オロロン街道」といいます。オロロンとは、羽幌から西30kmの先にある天売島を中心として生息しているウミガラス(オロロン鳥)から取ったネーミングです。天売島のオロロン鳥も生息数が激減していると聞いています。やはり30年ほど前の別な機会でしたが、羽幌から天売島に渡ったときに、手摺もない断崖絶壁から恐る恐る海を望むと、厖大な数のオロロン鳥が「オロロン オロロン」と鳴いて飛び交っていたことを思い出します。今日の天気では、天売・焼尻島を望むことはできませんでした。また、この海岸線では、風力発電の風車も景観に彩りを与えています。 羽幌町に入ったところで、「太田理容院」に寄ってみました。鮮やかな青色が大正モダンを色濃く残しています。1918(大正7)年に建てられたときは、洋服店だったそうです。ここから内陸に入り、手塩町にやってきました。役場庁舎として、1951(昭和26)年に建てられた赤レンガの「手塩歴史資料館」がありました。私の年令にほぼ近い建物ですが、良く整備されているようです。正面横にある板張りの資料保存庫は、昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造の公設質屋蔵だったそうです。 |
手塩歴史資料館 |
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右手にあるのが資料保存庫 |
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豊富町に向かう |
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ノシャップ岬 |
稚内に向かう海岸線 |
サロベツ湿原センター |
サロベツマイハート |
ノシャップ岬のレーダー基地 |
さらに内陸に進み豊富町に向かいました。目的は、2012(平成24)年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞した「サロベツマイハート『夢工房』」です。しかし、なかなか見つかりません。町内を走り、庭仕事をしていたおじさんに聞いてみました。とても親切に教えて貰いました。教えに従い向かってみると、小ぶりな平屋の老健施設が見えてきました。確かに「サロベツマイハート」と看板が出ています。しかし、どうも違います。また、国道に戻り探しましたが、判りませんでした。多分、同じ設計の施設だったと思います。まあ、またの機会があるでしょう。 ここから西に向かい海岸線に出ました。途中、「サロベツ湿原センター」がありましたので、寄って見ました。2011(平成23)年の竣工の建物です。映画「北のカナリヤ」の舞台としても使用されたそうです。再び海岸線を走ると、小ぶりな黄色い花が美しく咲き並んでいます。空模様が晴れてきました。海の色も青く見えます。残念ながら、利尻礼文を見ることはできません。ノシャップ岬に着きました。ここは風が強いですね。天気模様も変わり、雨が少し降ってきました。自衛隊のレーダーサイトが異様に見えます。さらに稚内市内を抜け、北の最北端宗谷岬までやってきました。霧も出て来ました。海が少し荒れて見えます。後ろを振り返ると、神社と鳥居があります。 今度は、海岸線を南に下りました。霧が濃くなってきます。18時も過ぎています。気温も8度まで下がっていました。着いたのが今日の停泊予定地「道の駅さるふつ」です。時刻は、18:40になりました。ここは、ホテルも併設をしていて、レストランがあります。ラストオーダーは19:30と事前に調べてありました。名物ホタテカレーを注文しました。ホタテが8枚も入っているとのことです。確かに8枚入っていましたが、どうもスライスしているような気がします。とはいえ、大きなホタテですし、美味しく頂くことができました。 さらに、ここには「憩いの湯」という公共温泉があります。湧出量の低下により、温泉利用を取りやめたそうですが、かつては「さるふつ温泉」となっていたそうです。小さな公衆浴場でしたが、浴槽は入浴剤で満たされていました。サウナも併設しています。しかし、おじさん3人組の声の大きいこと、会社での愚痴が浴場内に響き渡っていました。 ■昨夜は、少し寒いくらいでした。毛布を持って来て正解でした。夜中に、激しく車の屋根を叩く雨音に目が覚めることもありましたが、慣れた車中泊です、しっかりと寝ることができました。朝に気が付いたのですが、ここにはパークゴルフ場もあります。霧がかなり出ています。少し雨も降ってきました。出発して少し行くと、慰霊碑がありました。インデギルカ号遭難者の慰霊碑です。1939年に、旧ソ連の貨客船が、暴風雨でこの先にて座礁、猿払村の住民が総出で救出にあたり、子供を含め429名を救出したのですが、700名以上が死亡したといわれる遭難事故でした。当時の余りにも冷淡なソ連当局の対応が記録として残っています。天気が良ければ、ここからサハリンの島影を望むこともできます。隣には、「いさりの碑」もありました。 少し南に下り、「クッチャロ湖」に寄って見ました。整備された湖畔の駐車場もあります。人気のない湖畔では、多くのカモメが羽を休めていました。霧が出ていなければ、美しい湖だと思います。内陸に入り、中頓別に向かい、さらに小頓別までやってきました。1914(大正3)年ころに建てられた2階建ての木造旅館「旧丹波屋」がありました。寂れた町に存在感のある建物でした。少し傷んだ感は止むを得ませんが、煙突から立ち登る煙に風情があります。旧国鉄天北線の駅舎がバス停として傍にありました。こちらも綺麗に維持されています。 |
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宗谷岬 |
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インデギルカ号遭難慰霊碑 |
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クッチャロ湖にて |
中頓別の旧丹波屋 |
小頓別付近で |
歌登にて |
ここから海岸線に戻りました。歌登を過ぎたところで、ロール状になった牧草がピンク色のテープで巻かれたのが気になりました。トラクターの後ろに「ロールベーラー」という機械を付けて、牧草をロール状にするのですが、さらにビニルテープでくるくると巻いて、密封そして発酵させて牛の飼料となるわけです。この発酵させた飼料を「サイレージ」というそうですが、ロール状になったときで350kgもの重さがあるといいます。一般的なビニルテープは、白か黒、若しくは白黒のゼブラが多いのですが、ピンクは始めて見ました。下幌別では、雪のためか崩れ落ちた牛舎?が気になりました。 海岸線に出たところで、少し晴れ間が見えてきました。海岸線に多数の太陽光発電のパネルが並んでいます。下には、ホタテの貝殻を砕いたものが敷かれています。反射光を得るためでしょうか? 雄武町に入ると道の駅がありましたので、寄って見ました。展望タワーが気になったので登って見ると、雄武港が一望できました。 さらに海岸線を走って、日の出岬の突端までやってきました。「ラ・ルーナ」があります。近くには「ホテル日の出岬」もあり、良く整備された一体です。ラ・ルーナの横には、昔の灯台の跡がありましたが、かつてはたき火によって利用した時代のものだそうです。ラ・ルーナの中に入ることもできました。2階建てで、1階はほぼトイレ、2階が展望台になっています。屋根を支える構造体は木造+金物です。岬の先の海が美しく見えます。ネット上には、ラ・ルーナを投光した映像があります。小ぶりですがなかなか印象的な建物です。 ここからは、海岸線を離れ、国道239号線を西へ向かいました。途中、西興部(にしおこっぺ)の道の駅に立ち寄り昼食タイムです。何と、道の駅は休館日でした。道の駅の建物もオレンジ色でしたが、公共建築を始めオレンジ色が村のテーマカラーのようです。ここから下川町、名寄市方面に抜ける峠を「天北峠(てんぽくとうげ)」といいます。名寄から国道40号線に入り、風連(ふうれん)町を抜け、剣淵に入りました。 早速、「絵本の館」の案内があるので寄って見ました。2002(平成14)年のアトリエアクの作品です。予想以上に大きな建物でした。少し雨が降ってきました。続いて、もう一つの目的である、2012(平成24)年度の北海道赤レンガ奨励賞の「つちのこ館」に行ってみました。すぐ近くの剣淵小学校の敷地内にあります。こちらは、板金張りの小ぶりな建物です。雨が激しく降ってきましたので、しばし車の中で待機しました。少し小ぶりになってきたところで、傘をさしての見学です。 ここからは、当麻町を通り旭川です。旭川は何となく懐かしい佇まいがあります。いろいろと思い出があるところを通り、今年は温泉は避けて、市内の永山にある「大雪の湯」に行ってみることにしました。大きなスーパー銭湯です。時間帯が早いせいもあり、空いていましたので、ゆったりと時間を過ごしました。夕食も取り、来た道を10km程度戻り、道の駅とうまに今日は停泊です。 |
下幌別にて |
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雄武町にて |
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道の駅おうむ |
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丸瀬布町の憩いの森 |
剣淵町のつちのこ館 |
剣淵町の絵本の館 |
日の出岬のラ・ルーナ |
山彦の滝に向かう山道 |
■翌朝は、早朝から仕事でした。その後、国道333号線を東に走り、丸瀬布(まるせっぷ)に向かいました。途中、午後からは雨になるとの予報がありましたので、滅多には乗らない高速道路に入り、一気に丸瀬布に向かいました。高速はやはり早いですね。しかも、この区間の高速料金は無料でした。高速を下り、丸瀬布町内から丸瀬布温泉方面の山道へ向かいました。この道は、留辺蘂(るべしべ)に抜ける道ですが、現在は不通になっています。 丸瀬布温泉手前の「憩いの森」でトイレタイムです。ここには、観光用の「雨宮21号」が動態保存によるSL列車として運行されています。一体は、綺麗に整備されています。丸瀬布温泉を過ぎて、数キロ先に「山彦(やまびこ)の滝/高低差28m」がありました。駐車場があり、そこから200mの山道を入らなければなりません。熊も出るそうです。倒木が多く、虫に悩まされながら、五月蠅いほどの鳥の鳴き声を聞きつつ、山道を登ると滝が木立の間から見えてきました。滝の音も聞こえます。この滝は、滝の裏側にも廻ることができるため、「裏見の滝」とも呼ばれています。滝の裏側から登ってきた山道をみると、年配の男の人が登ってきました。まもなく、女性と杖をついた老女もやってきました。女性と挨拶をしたのですが、軽い気持ちで登ってきたが失敗だったと後悔をしています。 山彦の滝からは、さらに500mの山道を進むと「鹿鳴(ろくめい)の滝/高低差20m」に至ることができます。案内板もありましたが、この道はパスです。ネットで調べたところでは、かなり厳しい山道になるとのことでした。駐車場に戻ると、二つの滝の案内板がありました。事前情報では、川を挟んで反対側にそれぞれの滝があるとの認識でしたが、どうも並行にあるようです。車に乗り、さらに道を500mほど進むと、車が1〜2台程度駐めることができる空き地が路肩にありました。鹿鳴の滝の看板もあります。 少し先まで歩いて行くと、鹿鳴の滝の案内がありました。こちらの山道はかなり厳しい状態でした。足跡もほとんど笹に覆われていて、途中、水も流れています。足元が悪く、少しふらつく状態にもなります。当たりには、人の気配はありません。聞こえるのは鳥の合唱のみです。ゆっくりと山道を200mほど登ると、滝が見えてきました。鹿鳴の滝です。ビューポイントも足場が悪く、ここで怪我をするわけには行きません。帰る途中、少し雨が降ってきました。足元が悪く走るわけには行きませんが、なんとか無事に車に辿り着いたところで、雨が激しく降ってきました。危ないところでした。 ナビで帯広方面を検索すると、不通になっている山道を進むように指示が出ましたが、ここは反対の東に向かい遠軽方面を経由です。途中、生田原から242号線に入り、留辺蘂、置戸まで来たのですが、ナビは242号線を避けて、「おけと湖」経由の山道を示します。この道は通ったことがありませんでしたので、行ってみることにしました。この辺の牧草風景は見事です。おけと湖は「鹿ノ戸ダム」が造った人工湖です。おけと湖に至るには、往復8kmほどの寄り道を行かなければなりませんが、寄って見ることにしました。 鹿ノ戸ダムには、立派な管理事務所もありました。ほとんど人の気配もありません。こんな事務所が必要なのでしょうか? キャンプ場もありました。ダムの堤防から見るおけと湖は美しい景色です。来た道を戻り、山越えの道を進みましたが、予想に反してほとんど険しいところはありませんでした。砂利道となったのは200m程度だけでした。大型の車も結構通りますし、意外と走りやすい道でした。 峠を抜けると、上士幌の牧草地帯に入りました。まもなく、道内最高気温(タイ記録)を記録した音更の町です。昨年に続いて、「鳳の舞」にてゆったりと時間を過ごしました。風呂上がりには、マッサージ機で疲れた体をもみほぐしました。停泊場所は、少し戻り、道の駅音更です。ここには何度も来ています。 ■翌朝は、早朝からの仕事でした。午前中には終わりましたので、予定では美瑛方面を廻って帰るつもりでいましたが、相変わらず天候不順のため、真っ直ぐ家に帰ることにしました。雨こそ降っていませんでしたが、日勝峠は霧に霞んでいました。そして、札幌では、美しい青空が待っていました。 |
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山彦の滝 |
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山彦の滝を裏側から |
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山彦の滝から鹿鳴の滝に向かう山道 |
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鹿鳴の滝の入口 |
鹿鳴の滝に向かう山道 |
鹿鳴の滝 |
鹿ノ戸ダム(おけと湖) |
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075 ニセコから洞爺湖、室蘭、支笏湖を1泊2日で(2013年6月25〜26日の記録) |
雲間に羊蹄山が見えた |
ニセコ比羅夫スキー場 |
洞爺湖(道の駅から) |
壮瞥町役場 |
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■恒例となった室蘭の仕事に兼ねて、昨年はキング・オブ・秘境駅を訪ねましたが、今年はニセコを経由した1泊2日の小旅行をしてきました。6月25日の朝に札幌の自宅を出発。中山峠から見る羊蹄山(蝦夷富士)は、雲に霞んでいました。そのままニセコ方面に向かうと、羊蹄山が正面に見えてきました。雪渓が少し残っています。ニセコは4年振りとなります。比羅夫(ひらふ)スキー場の麓に来てみると、4年前に建設中だった建物は完成していましたが、多数の計画中だった建物は余り建設されていないように感じました。一時期、騒がれたバブルは落ち着いたようです。むしろこれからは、安定した観光地としての地位を築いていくのかも知れません。 ニセコ比羅夫を後にして、洞爺湖に向かいました。道の駅洞爺湖湖水の駅に着きました。大型の散水車が駐車場を清めていましたが、平日のため、落ち着いた雰囲気を漂わせています。洞爺湖の中の島は霞んで見えます。昨年は、洞爺湖の反時計回りで湖畔を走りましたので、今年は時計回りに廻ってみることにしました。昭和新山に登る道の手前で左(東)に折れると、立派な庁舎が見えてきました。壮瞥町役場です。素晴らしい建物ですね。地域交流センターも併設した、2008年の完成の庁舎です。その横に、保健センター壮瞥診療所があったのですが、丁度、写真の様に昭和新山と溶岩ドームに被った形になっているのが面白いと思いました。 伊達を経由して、室蘭方面に向かいました。途中、白鳥大橋展望台という施設があったので寄って見ました。200mほどの散策路があったので行ってみたのですが、何も展望できない草むらの中の散策路でした。散策路は、一回りして展望台に至るのですが、展望台に上ると白鳥大橋は、霧に霞んでいました。しかも、その手前の工場の白煙が盛大でほとんど見えません。室蘭は工場の街ですから仕方がないのでしょうね。 白鳥大橋を渡り、母恋(ぼこい)を通り、30年ほど前に工事施工のため単身赴任で下宿をしていたことがある付近を経由して、地球岬に向かいました。地球岬の手前にT字路があり、700mでトッカリショとの案内がありましたので寄って見ました。トッカリショとは、アザラシの岩という意味だそうですが、霧で霞んでいました。晴れたら良い景色でしょう。室蘭は、湾と平野部は工場地帯が占めていて、山側に住宅が貼り付いている都市構造になっています。その山の稜線に道路があり、反対の切り立った崖が太平洋(内浦湾)に呑み込まれています。その稜線から見る景観は、なかなか秀逸だと私は思っています。 |
保健センター壮瞥診療所 背景の溶岩ドームと建物が被っています |
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霧に霞む室蘭トッカリショ |
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温泉ゆららから見る白鳥大橋 |
室蘭絵鞆岬 |
測量山から見た白鳥大橋方面 |
霧の中の室蘭地球岬 |
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支笏湖湖畔道路から |
稜線を戻り、地球岬に来てみましたが、ここも霧で霞んでいます。語源であるポロ・チケップ(親である断崖)のチケップがチケウエからチキウと訛り、さらに地球岬と漢字が当てられたそうです。稜線を進み、測量山に向かいました。ほぼ山頂近くまで車で登ることができます。NHKの施設などがありました。そのまま、本町を抜け、絵鞆(えとも)岬に来てみました。こちらは、霧が出ていませんが、少し早い時間帯だったので、夕日が沈む景色を見るには早過ぎたようです。 昨年に続いて、道の駅みたら室蘭とその近くのむろらん温泉ゆららに停泊です。ゆららの露天風呂から見る白鳥大橋や工場地帯の夜景は素晴らしいのですが、今年は夜間の仕事があるため、まだ日が明るいうちの温浴となりました。ビールが飲みたくなり、ノンアルコールビールを嗜んでからの食事です。 ■翌朝は、また朝早くからの仕事がありましたが、午前中に終わりましたので、今年は苫小牧から樽前山を経由して帰宅をすることにしました。276号線を通ったのですが、樽前山の5合目くらいまで登ることになります。これといった景色もない季節限定の山道ですが、道は支笏湖の横に出ます。その後、恵庭岳、風不死(ふっぷし)岳などを見ながら、支笏湖の湖畔道路を通りました。霞んだ景色でしたが、魚が跳ねています。チップ(姫鱒)でしょうか。釣りをしている人もいました。今年も例年のようにオコタンペ湖を眺めてから、自宅に戻りました。車の前面には多数の虫が貼り付いていましたので、帰ってからこれを落とすのが大変なのです。 |
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オコタンペ湖 |
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074 釧路、霧多布、帯広、旭川を3泊4日で(2013年6月17〜20日の記録) |
厚岸味覚ターミナル「コンキリエ」 |
翌朝のコンキリエ |
本の森厚岸情報館 |
厚岸の正行寺 |
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■所要があり、釧路、帯広、旭川方面を3泊4日の車中泊で駆け抜けてきました。約1,000km程度でしたから、ちょっとした仕事を兼ねた小旅行といった感じです。あくまでも基本は仕事ですが、気分転換には最適な旅だったといえます。ただ、私事が札幌であったため、ちょっと後ろ髪を引かれる思いもありました。とはいえ、花粉症もほぼ終了した、一年のうちで最も気分が晴れる季節を感じた旅になりました。 札幌の自宅を6月17日の朝8時20分に出発しました。私の旅は、高速道路を利用しないことを基本としています。高速は、どこを走っても同じような景色が続き、ただ目的地に向かって走るだけの無味乾燥な旅となるため、滅多に走りません。夕張方面を抜け、樹海ロードを走り、道の駅日高で休憩を取りました。少し曇り空ですが、道は空いていて、清々しい空気感を抜けていきます。日勝峠は霧が出ていました。峠の上の方では、残雪がところどころで霧の合間に見え隠れします。峠を下り、雄大で遙かな牧草が続く芽室を抜け、帯広を一旦通り過ぎました。その先の豊頃(とよころ)の景色の良いところで、持って来たオニギリで昼食です。少し晴れて来ました。 そのまま釧路も抜け、厚岸(あっけし)に向かいました。最初の目的地は、道の駅も兼ねた厚岸味覚ターミナル「コンキリエ」です。初めてではありませんが、1995年の北海道赤レンガ建築奨励賞(URB建築研究所設計)の作品です。コンキリエとは、イタリア語で「貝殻」を意味する言葉です。厚岸湾を背景に、貝殻をイメージしたようですね。月曜日のため休館でしたので、中に入ることはできませんでした。 続いて、近くの「本の森厚岸情報館」に向かいました。こちらもコンキリエと同じURB建築研究所の作品で、1997年の北海道赤レンガ建築賞と2002年の公共建築賞優秀賞を受賞しています。いずれも同じ設計担当だったそうです。すぐ近くのため、ナビが役に立たず、コンキリエの周りをグルグルと廻ることになってしまいました。その時に撮影したコンキリエを下から見上げる写真を掲載してみました。厚岸湾を背景にした写真は、ネットでも沢山掲載されていますね。本の森情報館も月曜日のため、休館でしたが、外回りをぐるっと歩いてみました。 厚岸湾と厚岸湖を結ぶ水道にかかる厚岸大橋を渡り、対岸にある正行寺に向かいました。浄土真宗大谷派の寺院ですが、本堂は、新潟県の糸魚川にあった浄土真宗満長寺本堂を1909(明治42)年に解体して、船で運んで移築したというものです。移築してからも100年を経たことになります。手入れも良く、彫刻も立派です。太い柱には大きな亀裂が沢山入っていますが、木材というものの粘り強さを感じさせてくれます。隣には、曹洞宗の立派な寺がありましたが、涅槃像の巨大なレリーフが目を引きました。この辺りは、寺院街のようです。 霧多布岬に向かいました。少し霧が出て来ました。霧多布岬は、正式名称は湯佛岬(とうふつみさき)というそうです。駐車場に着くと、数百メートル先に灯台が見えます。灯台まで歩いて行ってみることにしました。霧の中に霞んで見える崖は迫力があります。灯台に来ると、さらに降りていく道が続きます。どこにも人の気配がありません。霧の中でタンポポだけが揺らいでいます。振り返ると、駐車場の車も霧に霞み見えません。その上に、太陽が雲を透かしてぼんやりと浮かんでいます。美しい景色と思い、写真を撮りましたが、良い映像にはなりませんでした。 |
霧多布岬(湯佛岬) |
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霧多布岬で海鳥の卵が |
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幣舞橋から見るmoo |
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幣舞中学校 |
釧路芸術館とモニュメント |
釧路芸術館 |
道路側から見たmoo |
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釧路市博物館(正面側) |
道は、どんどん下りながら続きます。かなり歩いて来ました。神威岬を思い出します。500mは歩いたでしょうか?先の岩々が険しく、波の音も激しくなりました。海が霧の中で迫ってきます。岬が海に呑み込まれる先端に来ました。足元に割れたばかりの卵が落ちていました。鶏卵よりは二回りほど大きいまだら模様の薄茶色の卵が割れて落ちています。中味が外に出ていました。生々しい雰囲気でした。来た道を戻り、車で近くの「霧多布温泉ゆうゆ」に行きました。18:00になっていました。 中に入ると、レストランがありません。出前をしてくれるとのことです。メニューを見ていたのですが、一人前では申し訳なく思い、食べに行くことにしました。実は、これが大正解だったのです。料金は払い済だったのですが、霧多布温泉の美人の受付の方にお願いして、一度、退出して2〜3km先の浜中の町に行ってみました。蕎麦屋か鮨屋さんがあるとのことでしたが、すべて休みでした。一軒だけ食堂が開いていました。諦めて入ったところ、マスクをしたおじいさんが注文を聞いてくれました。海の幸と思い、ホッキカレーの大盛りを注文しました。待っている間に、次のお客さんが入って来たのですが、もう時間なので終了だと断っているのです。本当に危ないところでした。コンビニ弁当になるところでした。しかも、出てきたホッキカレーの巨大な量に驚きましたが、実にこれが美味しい。無理と思ったのですが、完食してしまいました。 霧多布温泉に戻り、美人の受付の人から、「休みでなかったですか?」と聞かれた時は、少し驚きましたが、その愛想の良さと満腹感から腹も立ちませんでした。ミストサウナは故障していましたが、磯の香りのする露天風呂もゆったりとしていて、湯上がりの休憩所も落ち着くことができました。まずは、良かった良かった。今日の停泊場所のコンキリエに30kmほど戻り、素早く支度をして寝たのは22:00ころでした。夜中の2時半ころの強烈な車の屋根を叩く雨音に驚きましたが、少し寒いくらいの室温に気持ち良く寝ることができました。 ■翌6月18日は、釧路に行き、少し仕事をして、釧路フィッシャーマンズワーフmooに行ってみました。ここも何度も来ている、今は亡き毛綱毅曠(もづなきこう)の1989年の作品です。釧路市のシンボルと言われているアクの強い作品です。あの幣舞橋(ぬさまいばし)から見える景観が良く掲載されています。釧路川から見る景色と、道路側からみる景色が異なって見えます。近くの釧路芸術館にも行ってみました。1998年の象設計集団の作品です。道路と反対側のウオーターフロントに面して正面がありますが、その横にある鈍く金色に光る大きな球体が二つに割れて、内部のメカニックな造作を見せているモニュメント(Arnaldo Pomodoro作)が気になりました。 春採湖方面に向かい、釧路市博物館にも行ってみました。1984年に日本建築学会賞を受賞した毛綱毅曠の作品です。その手前には、同じく毛綱毅曠の幣舞中学もありました。付近を散策して気付いたのですが、毛綱毅曠の作品には裏表が無いことに気が付きました。表も裏もそれぞれに異なった表情を見せているのです。釧路博物館の外観が複雑なため、タラップが多く付いています。ふと、島根県にある加茂文化ホールラメールを思い出しました。いずれも、施工やメンテナンスが大変でしょうね。ラメールは、一昨年、訪ねた上湧別ふるさと館と同じ渡辺豊和の作品です。ポストモダンを象徴する建物です。 続いて、釧路市湿原展望台に向かいました。この付近は、釧路空港に向かうため何十回も通りましたが、湿原展望台に行くのは初めてです。これも1984年の毛綱毅曠の代表作の一つです。入場料を払って中に入ると展示物は貧弱ですね。ちょっとお金を取るのかなといった感じです。しかし、建物は強烈なイメージを持っています。内部中央にある通路を見上げると、加茂ラメールと同様に恐竜の肋骨を彷彿させる曲面が覆っています。水槽があり、イトウがボーッと水中に浮かんでいました。トイレを借りたのですが、大便器のスペースが余りにも狭く、利用するのは諦めました。トイレのディテールまでは気が回らなかったのでしょう。あるいは、施工業者にも問題があったかも知れません。展望台から見晴らす、釧路湿原は広大な景色でした。 |
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釧路市博物館(背面側) |
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釧路市湿原展望台 |
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釧路市湿原展望台の内部 |
釧路市湿原展望台にいたイトウ |
釧路湿原 |
釧路湿原にて |
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湿原を散策してみました。2.5kmということで、30分くらいかなと思ったのですが、木で作られた通路と階段を歩いて50分はかかりました。熊出没注意の看板が所々にありますが、どうやって注意をしたら良いのでしょう。湿原のイメージを抱いていたのですが、どちらかというと林の中を歩いている感覚でした。どれが谷地坊主(やちぼうず)なのかも良く判りませんでした。木製の散策路の手摺に食い込んで成長する木の生命力に感動して撮影したのですが、樹木が内包するエネルギーの力強さと毛綱毅曠のほとばしるエネルギーが重なっている思いがしました。彼の作品は、内包するエネルギーが溢れ出てくるイメージになっているのではないでしょうか。 車に戻り、帯広方面に向かいました。途中、道の駅しらぬか恋問(こいとい)にて昼食を取りました。レストランに入ろうとしたところで、小学生と覚しき少年からインタビューを受けてしまいました。道の駅恋問の印象を聞かれたのですが、「来たばかりでごめんね。判らない」と答えてしまいました。その後の質問がなく、終わってしまったのですが、もう少し考えて答えてあげると良かったなと後悔しました。牡蠣フライ定食を頼んだのですが、5つも入っていて850円は安いと思いました。それに結構、美味しかったのです。 豊頃に入ると「はるにれの木」の看板がありましたので、寄ってみることにしました。広い河畔の土手の上に休憩所があり、その下の河原に大きなはるにれと覚しき木が2本立っています。行ってみることにしました。木に真っ直ぐ向かう道もあるのですが、撮影スポットは右手に行く道を進むようです。確かに絵になる木です。この観光情報は知りませんでした。パラパラと観光客も来ます。すすきを前面に、撮影を試みてみましたが、絵になる写真を得ることはできませんでした。添付写真は、はるにれの木だけを撮影した物です。 帯広に入り、「十勝トテッポ工房」に向かいました。2012年度の北海道赤レンガ建築賞作品です。設計は、鈴木理アトリエです。「トテッポ」とは、旧十勝鉄道の線路跡を「とてっぽ通り」と通称することから名付けられたそうですが、チーズケーキなどを主体としたスィーツのお店です。おみやげに日持ちのするお菓子を買ってきました。建物は、木材で外装を覆って、黒くアクセントを取った小ぶりな建物です。江差の中山真琴設計の群来(旅館)を思い出しました。 その後、帯広競馬場に向かい、SBエナジーの太陽光発電の実験場を見たいと思っていたのですが、中に入ることができず、諦めざるを得ませんでした。今年は、天然温泉ホテル鳳乃舞で温泉に浸かって、3年ぶりの道の駅音更に停泊です。鳳乃舞は、沸かし湯のようですが、モール温泉主体でした。電気マッサージ浴に入ってみましたが、結構、強烈。湯上がりには、少し豪華な定食を頂きました。道の駅音更に行くと、昨夜もコンキリエにいた電気自転車を車の後ろに乗せた大坂ナンバーの高齢者マークの車がまた停泊していました。似たような道を走ってきたようです。 ■翌朝は、5時起きで仕事を午前中に済まして、旭川方面に向かいました。今年は、狩勝峠、富良野を通ったのですが、狩勝峠は霧が出ていました。美瑛、富良野の牧草地は、いつに変わらず広大な景色を形作っています。少し曇っているのが残念。景色に見とれながら道をそれたのですが、途中に、榎本孝明の作品を展示した共同美術館がありました。富良野を抜け、神楽町に入りました。目的は、神楽町の「東聖(とうせい)花の保育園」です。新しい住宅街の中にあります。肌色を基調とした建物に、ガラスのシルクスクリーンが緑の芝生に映えています。方杖もアクセントになっていますね。背面は河川敷、パークゴルフ場もあります。屋根のシルバー色も青空に溶け込んでいます。 続いて、上川神社に向かいました。ここは、初めてではありませんが、上川離宮の計画があったところです。時の明治政府が、この地に離宮を計画しましたが、実現しなかった幻の離宮予定地です。その予定地に上川神社が移設されたとのことです。上川神社は、参道を行くと、途中から右に90度廻るつくりになっています。左手に小さな鳥居がありましたが、その反対の右手を廻り石段を上がるとその左手に「上川離宮予定地」の立て看板と石碑が建っています。途中には、上川天満宮もありました。拝殿で参拝して、本殿を臨もうとしましたが、縄が張っていて、本殿の屋根が少し見える程度です。止むなく戻ったのですが、来たときに気になった鳥居を潜ってみました。進むと、本殿の横に出るようです。こういった散策が大好きなのです。 ■その日は、上川神社の近くの新しくできた温浴場に入り、昨年に続いて道の駅あさひかわにて停泊です。翌朝は、朝早くから仕事をして、午前中に終了しましたので、途中、「ポッポ屋」の舞台となった幾寅駅に40年振りに寄っただけで、気になっていた札幌にそのまま帰りました。 |
豊頃のはるにれの木 |
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十勝トテッポ工房 |
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富良野 |
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榎本孝明などの共同美術館 |
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ポッポ屋の舞台となった幾寅駅 |
上川離宮の碑文 |
上川神社 |
神楽町の東聖花の保育園 |
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073「神殿か獄舎か」と「関東の鎮守」の旅 その2(2008年11月の記録) |
池上本門寺仁王門 |
■翌日は、朝早くから、東急池上線に乗り、池上駅に向かいました。何か、昔懐かしい歌があったような気がします。目的は「池上本門寺の五重塔」です。池上駅から、本門寺まで歩きましたが、この辺はお寺が多いですね。門を潜ると、男坂と女坂がありました。見栄で男坂を歩いて行くと、朱色の仁王門が見えてきました。長栄山の額が係っています。阿吽像まで朱色に染まっています。朱色の堂明堂の台の上には猫(生きた猫)が佇んでいましたが、どこのお寺にも猫は多いですね。 鉄筋コンクリート造の大堂(祖師堂)の前では、菊展もやっていました。たくさんのお堂があります。日蓮が最後の20数日間を過ごしたといわれているお寺です。五重塔に向かいましたが、力道山のお墓の案内板もあり、しばらく歩くと、五重塔が見えてきました。空襲による焼失を免れた、1608(慶長13)年に建立された塔です。初層は和様、二重からは禅宗様の高さ29mの五重塔、全体がベンガラで朱色に塗られています。美しい五重塔ですね。 少し戻り大堂の右手奥を進み、大坊坂を下ると、宝塔は工事中でした。その向かいにはお墓が並んでいましたが、卒塔婆が多いのが特徴ですね。「御臨終之間」の看板がありました。日蓮聖人の入城之霊場などを見て、都営浅草線の西馬込駅まで歩きましたが、思いかけず長距離になってしまいました。足が少し痛くなってきました。 続いて、原宿に向かいました。原宿は天皇専用の駅である原宿駅側部乗降場(はらじゅくえきそくぶじょうこうじょう)が設置されています。少し、表参道のケヤキ並木を散策してみました。銀座とは、異なるファッションの通りですが、まだ朝が早かったためか、街はまだ眠っているかのようです。また、地下鉄に乗り、国会議事堂駅で降りました。地上に出ると、「国会議事堂」が見えてきました。塀の中で、記念撮影をしている人がたくさんいます。横の門のお巡りさんに尋ねると、許可なしには入られないとのことです。仕方がないので、正門に向かい、記念撮影。国会議事堂は、1936(昭和11)年に竣工した建物ですが、数々の歴史が込められた建物です。一度は、入って見たいと思っていますが、またの機会としましょう。 |
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池上本門寺の五重塔 |
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国会議事堂 |
今は懐かしい改修前の東京駅 |
丸ビル |
新丸ビル |
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再び、地下鉄にて大手町へ向かいました。「東京駅」は、この時点では改修中でしたが、大手町はすっかり景色が変わっています。超高層が林立して来ましたが、ファサードのみ残したり、往時のイメージを再現した建物が並んでいます。この発想は何でしょうね。代表例は、「新・丸ビル」でしょうか。ブルーノ・タウトが見たならば、さぞかし嘆くでしょう。日本人の文化に対する受け身の姿勢が良く現れています。井上章一が言う「霊柩車」を思い出しました。 大手町の新しくもあり、古くもある東京駅が建設されつつある横を抜けて日本橋に向かいました。途中、呉服橋がありました。COREDO日本橋(日本設計)を右手に見ると、日本橋が見えてきました。橋の手前には、「野村證券本社ビル」、橋を渡ると、横河民輔が設計した「三越日本橋店」です。日本橋の麓には、道路元票がありました。もちろん、悪名高き高速道路に覆われています。丸の内の文化に相通じているのではないでしょうか? 「日本銀行本館」は、改修中のようでした。1986(明治29)年竣工の辰野金吾の代表作です。「三井本館」もありました。1929(昭和4)年の設計は、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン社(米国)とのことです。一時期GHQに接収されていました。日本橋三井タワーもあります。「貨幣博物館」を横目に見ながら、目的とする室町の近三ビルに向かいました。 「近三ビル(旧森五商店東京支店)」は、1931(昭和6)年に竣工した村野藤吾の作品です。渡辺節設計事務所から独立した村野藤吾のデビュー作といわれています。デティールが気になりますね。建物の周りをぐるりと回って、エントランスから入ると、チャイムが鳴りました。暫く待つと、人が出て来たので、撮影をお願いしたのですが、断られてしまいました。仕方がないので、外回りをもう一度、しかし、年月を経ていますが、拘った建物ですね。 近くで昼食の後、神田からJR線でお茶の水に向かいました。お茶の水駅を降りて、お堀を眺めながら、相生坂(昌平坂)を通り、「湯島天神」に向かいました。どうも、降り口を間違えたようで、遠回りとなってしまいました。ニコライ堂が見えます。湯島天神に少し立ち寄った後、「神田神社」に向かいました。銅鳥居が見えてきました。派手な装飾の神社です。狛犬が見事ですね。将門塚保存会の大御輿があります。 |
東京工業倶楽部 |
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東京銀行協会 |
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近三ビル(旧森五商店東京支店) |
日本橋三井本館 |
日本銀行本店 |
日本橋を覆う首都高速 |
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近三ビル入口 |
関東における、平将門の祟り伝説は有名ですね。大國魂神社は関東の総鎮守ですが、神田明神は将門の鎮魂の社です。海音寺潮五郎の「平将門」は、かなり昔に読みましたが、その後NHKの大河ドラマにもなりましたね。しかし、社伝によると、大國魂神社と同様に出雲系の大己貴命(おほなむちのみこと/オオクニヌシ)を祖神として祀っています。私には、これが一番気になります。神田神社は、江戸の鬼門除け、江戸総鎮守とされています。神田祭りの山車もありました。 平将門に関しては、こんな逸話があります。今から1000年以上も前のことです。天皇に代わる「親王」を称した平将門は、940(天慶3)年に藤原秀ク軍の矢に当たって亡くなりますが、平将門の首級は、京都五条河原に晒されていました。しかし、切り離された胴を求めて、突然、東の空に飛び去り、力尽きて落ちたのが千代田区大手町との言い伝えがあり、そこに将門の首塚があります。胴は神田神社(明神)、手は鳥越神社(台東区)、足は筑士八幡神社(新宿区神楽坂)、兜が兜神社(中央区日本橋)、鎧が鎧神社(新宿区北新宿)に祀られています。その将門首塚から東北45度線にあり、江戸の霊的地場の中心といわれる浅草に、次は向かいました。江戸の方位線の話は、久能山、日光東照宮、仙台東照宮などいろいろな視点がありますね。この話題は、またの機会にしましょう。 少し、歩くと秋葉原の高層ビル街が見えてきました。随分、変わりましたね。つくばエキスプレスに乗ろうと思ったのですが、改札口が判りません。結局、大廻りをして辿り着くことができました。浅草は、凄い人出でした。日曜日です。ここの「五重塔」は、1648(慶安元)年の建立でしたが、関東大震災には耐えましたが、東京大空襲で焼失してしまいました。現在の塔は、1973(昭和48)年の再建の鉄筋コンクリート造です。高さは、48mあります。 再び、つくばエクスプレスに乗り、山手線を経由して、「上野寛永寺」に向かいました。鶯谷駅で降りて、寛永寺の寺域に入りました。この辺は、以前東京にいたときに良く散策しました。東京芸大やその他の施設と混在した寺々があります。当時のNHKの大河ドラマの天璋院のお墓の案内もありました。目的は、五重塔だったのですが、ウロウロとしているうちに、帰りの飛行機の時間が厳しくなってきました。寺域が大きいですね。まあ、またいつでも行けると思い、またの機会としました。 今回の旅も盛りだくさんだったのですが、大きなテーマは、「神殿か獄舎」と「関東の鎮魂」でした。銀座を中心としたファッショナブルな最新建築と大手町を中心とした高層ビルに付随するキッチョなファサード、再現しつつある東京駅などが目を引きました。そのついでに、私の好きな「五重塔巡り」などが入っていました。 |
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湯島天神 |
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神田明神 拝殿 |
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神田明神 隨神門 |
浅草寺 五重塔 |
上野 寛永寺・根本中堂 |
上野 両大師・開山堂 |
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072「神殿か獄舎か」と「関東の鎮守」の旅 その1(2008年11月の記録) |
日本テレビ本社ビルにて |
ミッドタウン地下の「意心帰」 |
ミッドタウン |
国立新美術館 |
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■2008年の11月に関東に行くことがありました。この時のテーマは、「神殿か獄舎か」と「関東の鎮魂」でした。11月21日にビックサイトにおいて予定していたイベントなどの後、人との待ち合わせまでの時間、シオサイト方面に行ってみました。以前、関東に単身赴任をしていた時は、この辺は丁度、一大工事中でした。江戸時代は、湿地帯だったそうですね。日本テレビ本社ビルには、「ごくせん神社」がありましたが、その裏にある、尻を上げた四つん這いの人形は何でしょうね。 その後、地下鉄六本木線駅から地下街を通って、ミッドタウンへ行ってみました。ガラススクリーンに水が流れているモニュメント前を通り、地下に入ると、安田侃の作品「意心帰」がいきなり上からの光を浴びて、どっしりと根付いている光景に出くわしました。迫力があります。ミッドタウンは、江戸時代は毛利藩の下屋敷があったそうです。明治時代に陸軍駐屯地となり、終戦後には米軍将校の宿舎、日本に返還された後は、防衛庁の施設がありました。その後、六本木ヒルズを横目に見て、国立新美術館に向かいました。その反対側に遠く見える、教会の淡いグリーンが気になりました。 国立新美術館は、メタポリズムの黒川紀章の遺作となった2007年に竣工した建物です。ちょっと目には小さく感じた美術館ですが、中に入るとその巨大さが判ります。これまで日本最大とされてきた大塚国際美術館の1.5倍の延床面積47,960uを誇っています。美術品を持たない、公募主体の美術館として話題となりました。内部では、日展が開催中でした。他にミッドダウンのサントリー美術館との共催でピカソ展をやっていました。 国立新美術館を出て、少し行った先のTOTOのギャラリー「間」では、安藤忠雄展をやっていました。エレベータの中でおじさんが、先ほどまで安藤忠雄が居たと言っていました。「住吉の長屋」を、ベニヤを使って、室内に再現しています。安藤忠雄の初期の仕事で、狭い敷地に中庭を囲んで建てられた話題作です。雨降りにトイレに行くためには傘をささなければならないことが、一部では批判を受けました。ベニヤのため、コンクリートのイメージとは合いませんが、空間感は判ります。写真を撮影しようとしたところで、怖い顔をしたお姉さんに優しく怒られました。なぜ、ダメなのでしょうかね。実は、既に数枚撮影をしていました。まあ、掲載するのは止めておきましょう。 その後、待ち合わせの人(実は、娘ですが)と会い、食事などをしました。ついでに、銀座方面を二人で散策しました。アメリカの建築家ピーター・マリノの「銀座シャネルビル」、壁面がシュールに歪んだフランスの建築家のクリストフ・カルペンテの「デビアス銀座」、壁面に不定形の開口(穴)がちりばめられている伊藤豊雄の「MIKIMOTO GINZA2」、マロニエ通りにある隈研吾がリノベーションを手掛けたと話題の「ティファニー銀座」、その他、「ブルガリ」、「ディオール」などがあります。古い歴史がある銀座が、最新のファッションで建物が彩られていますね。ここまでちりばめられると、何でもありの感があります。 少し前の銀座は、古い街並みそのままで、通りに面したファサードだけを変身させたキッチョな通りに変わりつつあると思っていましたが、街全体が変身しているのでしょうか?改修前の歌舞伎座も存在感を発揮していました。その後、たまたま築地方面に行ったのですが、築地本願寺(伊藤忠太)のライトアップが、妙に負けていないなと感じた次第です。 |
デビアス銀座 |
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MIKIMOTO GINZA2 |
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府中駅から見た富士山 |
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漱石公園 |
豊多摩監獄表門 |
大國魂神社本殿の「千木」 |
大國魂神社 |
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漱石公園の向かいの建物 |
■翌日は、一人で府中に向かいました。南武線は、以前、横浜に通っていた時に良く乗った路線です。土曜日だったため、新聞を持った競馬場に向かうおじさん達がたくさん乗っています。府中駅に降り立つと、澄んだ空気を通して、富士山が美しく光り輝いていました。武蔵総鎮守である大國魂(おおくにたま)神社は、すぐそこです。大國魂神は、オオクニヌシのことですが、武蔵国の総鎮守の主祭神がオオクニヌシというのも不思議ですね。社伝などによると、景行41(111)年の起源、その後、出雲臣の祖神天穂日命(アメノホヒ)の後裔が武蔵国造に任ぜられたとありますから、関東と出雲を繋ぐ歴史があったことになります。 神社内には、関東のあらゆる地酒が奉納されていました。本殿は、四代将軍徳川家綱の時代に完成した九間社流造、向背五間、三間社流造の社殿三棟を横に接続した相殿造と説明書きに書いてありました。本殿の裏に廻ると、千木に特徴があります。X字状になっていて、上は内削ぎ(水平)、下は外削ぎ(垂直)という、私は初めて見る形です。その裏に、イチョウの巨古木がありました。本殿の裏は、神社参拝には必須です。もっとも、遮られていて行くことを阻まれることが多いのですが。 南武線から中央線国分寺を経由して、西武新宿線に乗りました。懐かしいですね。30年以上前に住んでいたことがある花小金井を経由して、沼袋駅で降りました。当初は、中野からタクシーと思っていたのですが、天気も良く、こちらが気持ちが良さそうです。暖かい日差しの中を歩くと、平和の森公園が見えてきました。散歩やランニングを楽しむ人達が大勢います。弥生時代の復元住居などもあります。しらばく行くと、いかにも刑務所風の施設が見えてきました。 中野刑務所は、1910(明治43)年に完成したときは、豊島監獄といったそうですが、その後、1916(大正5)年に「豊多摩監獄」、1922(大正11)年に豊多摩刑務所となり、一時期GHQが使用していたことがありましたが、1957(昭和32)年に中野刑務所と改称され、1983(昭和58年)に廃止されました。大正12年の関東大震災では、一部が倒壊しています。大正4(1915)年に竣工した旧豊多摩監獄は、後藤慶二の代表作で、現在は表門の一部だけが残されています。日差しが強く、撮影ポイントと思われる場所からは、どうしても逆光になってしまいます。しばし、後藤慶二の佇まいを感じていました。 北側に戻り、平和の森公園を横断して、沼袋駅に戻り、さらに高田馬場から東西線に乗り換え、早稲田で降りました。行き先は、「漱石公園」です。歩きながら、少し回り道をしてしまったかなと思ったのですが、ついと出たところが漱石公園でした。夏目漱石終焉の地です。以前から、来よう来ようと思っていたのですが、今日になってしまった感じです。公園内には、漱石山房のベランダなどが復元され、展示室などもあります。夏目漱石の141回目の誕生日を記念して、2008(平成20)年にリニューアルしたそうです。留守番の人も居て、ゆったりとした人工的な公園ですね。 早稲田方面に行ってみました。漱石公園の斜め向かいにあった斬新な家が気になりました。すぐに早稲田小学校がありましたが、アールデコ風ですね。さらに行くと、早稲田大学が見えてきました。大隈講堂、大隈庭園を抜けて、神田川を渡り、椿山荘(ちんざんそう)方面に向かいました。途中、胸突坂がありました。以前から痛めていた右足の踵が痛くなってきましたので、ゆっくりと歩きます。左手には、水(すい)神社があり、右手に「関口芭蕉庵」があります。関口芭蕉庵の引き戸を開けて、ちょっと寄り道です。かつて松尾芭蕉が神田川の改修工事に携わった際に、住んでいた住居跡が元になっています。敷地内には芭蕉堂や庭園、池などもありました。通りすがりの、このような縁(えにし)が大好きです。 |
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大隈講堂 |
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改修が終わった東京カテドラル教会 |
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東京カテドラル教会内部 |
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新宿のコクーンタワー |
コクーンタワーを遠望 |
法務省旧本館 |
日比谷公会堂 |
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さらに行くと、「永青文庫」があり、少しだけ覗いてみました。旧侯爵細川家の所蔵品を保管展示しています。その先には、講談社野間記念館がありましたが、こちらの敷居は高そうです。すると、右手に目的の東京カテドラル教会の尖塔が見えてきました。歩いて行くと、向かいが「椿山荘」です。庭造りに力を入れていた山県有朋の屋敷跡ですね。山県有朋は、若い頃は吉田松陰や高杉晋作の下で、山県狂介と名乗っています。時代が付けた名前ですね。1922(大正11)年に83歳で亡くなったときは、国葬となっています。この人が関わった建物や庭園は、椿山荘の他にも無鄰菴(むりんあん)、古希庵(こきあん)などがあります。 椿山荘の前から、横断歩道橋を渡り、東京カテドラル教会へ向かいました。正式名称は、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」です。1964(昭和39)年の丹下健三です。真上から見ると十字架の形状の屋根・外装はステンレスです。基本構造は鉄筋コンクリート造ですが、その上に鉄骨で外装の下地が構成されています。雨漏りが絶えなかったようで、上から別の屋根を架けたりしていたのですが、老朽化もあり、今回の大改修で下地を撤去して新たに屋根を架けたとのことです。雨漏りは止まったでしょうか?天気も素晴らしく、ステンレスが光り輝いています。丁度、結婚式の最中でした。何となく、中に入ってみましたが、ミサの残響に美しく包まれていました。ある人から、東京カテドラルの音響効果が悪いと聞いていたのですが、私の耳には荘厳に、神聖に響いていました。神秘的な結婚式です。少し、感動しました。 しばらく東京カテドラル周りを散策した後、タクシーで新宿に向かいました。お目当ては、東京モード学園の「コクーンタワー」です。これも丹下都市建築設計ですが、丹下健三亡き後の作品です。説明は不要ですね。2階部分を廻る外部廻廊に立つと、建物上部がせり出していいます。部分的に、中に入ることもできます。 ここから、地下鉄で霞ヶ関方面に向かいました。「法務省旧本館」に着きました。ドイツのヘルマン・エンド設計で、1895(明治28)年竣工です。1994(平成6)年に改修が終わりました。その道路を挟んだ向かいが「警視庁」です。皇居側を見ると「桜田門」があります。ちなみに、その日の夜、旧厚生省事務次官殺害の犯人が警視庁に自首したとのニュースが流れていました。そのまま、日比谷公園を通って「日比谷公会堂」に向かいました。公園内には、昔のアーク灯なども残されています。レストラン松本楼では、ランチを楽しむ人の姿が見えました。その近くには、ホームレスの人のダンボール住宅があります。このギャップは何でしょうね。「神殿と獄舎」ならぬ対比ですね。ちなみに、札幌で食べた松本楼のカレーライスは、私の口には合いませんでした。 日比谷公会堂は、1929(昭和4)年完成の、佐藤功一設計です。後藤新平に安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円を寄付して完成したそうです。1960(昭和35)年の浅沼稲次郎刺殺事件は、随分、昔のことのような気がします。正面から見上げると、老朽化が感じられます。それに引き替え、法務省旧本館は立派に見えました。少し、先に行くと、「日生劇場」がありました。1963(昭和38)年竣工の村野藤吾設計です。エントランスを観ただけでも独特のものがあります。この建物は内部を見なければ意味がありませんが、またの機会にします。 その向かいには、「帝国ホテル」があります。帝国ホテルには、インペリアルタワーも含めて、たまたま何度か宿泊した経験があります。特に、インペリアルタワーの客室では、贅沢な気分を味わせて貰いました。1階のロビーのコーヒーは、それほど美味しくありませんでしたが、値段はそこそこ高かった記憶があります。フランク・ロイド・ライトが設計した「ライト館」のエントランス部分は明治村にあります。先日、放送されたNHKの「負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂」では、明治村のライト館が使われていましたね。また、そのドラマでは吉田茂の公邸として、東京都庭園美術館の「朝香宮邸」が出ていました。何故だろうと思って調べてみると、外務大臣公邸として当時使われていたとのことでした。吉田茂は、この公邸から出たくなかったため外務大臣も兼務したとの説まであるそうです。「ミカドの肖像」にも書きましたが、その後、堤康次郎が旧朝香宮邸などを含めて、巧妙に手に入れています。 その向かいは、「東京宝塚劇場」です。2001(平成13)年に建て替えられました。一角に尖塔が付いています。さらに銀座方面に歩いて行くと、山手線高架を潜ったところで、古い小学校が気になりました。後で、調べると北村透谷や島崎藤村を輩出した「区立泰明小学校」とのことでした。夜景に、「東京国際フォーラム」が佇んでいました。 |
日生劇場 |
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明治村の帝国ホテル・ライト館の一部 |
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庭園美術館(旧朝香宮邸) |
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東京宝塚劇場 |
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071 下川町から層雲峡、タウシュベツそして平取方面へ(2012年6月19〜20日の記録) |
※枠がある画像をクリックすると画像が開きます。 |
下川町ふるさと館 展望台 |
下川町ふるさと館 トイレの洗面台 |
下川町ふるさと館 塔に登る内部階段 |
下川町の「万里長城」と 奥に見える塔が「ふるさと館」 |
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岩尾内ダム湖 |
■仕事で、旭川と帯広に行ってきました。旭川での早朝からの仕事が午前中に終わったので、少し北へ向かい、下川町にやってきました。目的は、「下川町ふるさと館」です。1991年の毛綱毅嚆です。時代的には、バブルの遺産でしょうね。今はこのような施設を建てる市町村は、そうないでしょう。併設されている「万里長城」は、予想を超える規模でした。いずれも下川町を一望できる桜ヶ丘公園にありました。下川町の万里長城は、外周が2kmあり、町民が主体となり、使われた石は15万個以上、石に名前を刻んだ人は12万5千人という規模です。2000年に完成しています。 桜ヶ丘公園に着くと、一帯が万里長城に覆われた雰囲気です。それぞれの石に、名前が刻まれています。凄いものを造ったなと思いました。ふるさと館に向かい丘を登っていくと、作業服を着た人が降りてきました。すれ違うと、その人は何故か戻ってきます。正面に塔があり、その周りは池になっています。池の中央に通路があり、そこがふるさと館の入口でした。受付がありましたが、誰もいませんと思ったら、先ほどの作業服の人がキャッシュボックスを持って出てきました。何か悪いことをしたなと思いました。平日には、訪れる人も余りいないのでしょう。入場料は、200円でした。塔に登ると美しい景色が見えると教えて貰いました。 内部階段があり、デザインされたステンレスの手摺が廻っています。内面には木端板が張られていますが、手摺の吊りボルトが板材の中間を通しています。板材を繋いだところもありますが、丸い天窓も付いていて、施工は大変だったなと思われます。展望台からは、下川町を360度見渡すことができました。本体から張り出した鉄骨で、展望台の手摺を吊っているのが、面白いですね。下に戻り、塔の奥の方にある展示も見てみました。どこにでもあるような展示ですが、変わっているのがスキーの展示でした。トイレの洗面台のデザインにも特徴がありました。 |
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エスポワールの鐘 |
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エスポワールの鐘 |
層雲峡 銀河滝 |
タウシュベツ橋梁展望台へ |
タウシュベツ橋梁を望む |
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■南に戻り、上川町に向かいました。途中にあった岩尾内のダム湖が美しかったので写真を撮りました。先に行くと、岩尾内ダム湖の展望台がありましたので、登って見ましたが、こんな施設を造る必要があったのでしょうか?数千万は掛かった施設と思われます。 上川町の上川公園に着くと、山の上の方に、目的の「エスポワールの鐘」がありました。1984年の六角鬼丈です。タイルを使った斬新なデザインです。こちらの塔には鍵が掛かっていて登ることはできませんでしたが、そこから見える山々の景色が良いですね。遠くの山には雲が掛かっていましたが、晴れていれば、残雪が美しいでしょう。時刻は、14:30頃でしたので、鐘の音を聞くことはできませんでした。エスポワールとは、フランス語で希望という意味だそうです。 層雲峡を通って、糠平湖に向かいました。層雲峡では、「銀河滝」と「流星滝」でちょっと休憩をしました。銀河滝はいつ見ても壮観ですね。大好きな滝の1つです。途中、大雪湖というダム湖を通り、さらに峠を越えて糠平湖に着きました。すぐに目的とする「タウシュベツ橋梁」の看板が目に入りました。道路沿いの数台の車が駐められる駐車場があります。そこから歩いて180mのところに展望台があります。林道を車で行って、さらに数キロ歩くと目的地そばまで行くことができるのですが、熊と遭遇しそうですね。 展望台に歩いて向かうとすぐに「熊出没注意」の看板が出ていました。5/19に出たとのことですが、いつの5/19何だ。多分、今年でしょうね。ここに来るまでに、車道で小狐が1匹、小鹿が2匹、鷹が1匹と遭遇しました。小狐は、車道にうずくまっていましたので、怪我でもしているのかと思いましたが、車が近づくと寄ってきました。餌を与えて貰うのを待っていたのですね。いつかは轢かれてしまいそうです。 展望台に向かう小路を歩くと、しっとりとした空気感が漂っています。倒木が多いですね。苔むした古木も気配を感じさせてくれます。展望台に着くと、遠くにタウシュベツ橋梁の上部だけが水に浮かんでいました。望遠で撮影しましたが、5月頃から水に埋もれるようです。また機会があれば、訪れてみたいと思います。今夜は、しほろ温泉にて車中泊です。 |
平取二風谷 |
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二風谷アイヌ文化会館 |
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イザベラ・バード記念碑 |
イザベラ・バード記念碑 |
沙流川歴史館背面 |
沙流川歴史館 |
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義経神社 |
■次の日は、朝4時に起きて、帯広に向かいました。午前中に仕事は終わりましたが、ただ帰るのは勿体ないので、平取を経由することにしました。平取の二風谷には、昼頃に着きました。ここは数限りなく通っていますが、見学をしたのは初めてのような気がします。駐車場に入ると、アイヌの集落が多数再現されていました。すぐに、「二風谷アイヌ文化会館」が目に入ってきました。1991年のアトリエブンクです。この施設もバブルの遺産でしょうか? 案内板を見ると「イザベラ・バード記念碑」があるとのことなので、行ってみることにしました。二風谷ダム湖の方に行くと、「沙流川歴史館」がありました。1998年の北海道開発コンサルタント(現ドーコン)です。盛り土に沈めて、最上階をダム湖の方に開放した建物です。旧石器時代からアイヌ文化、二風谷ダムにまつわる展示がありました。お金をかけていますね。イザベラ・バード記念碑は、さらにその先にありました。ダム湖に面した野外ステージ風のところに、小さなプレートがありました。ちょっとがっかりです。 ■昼食の後、5km先にある「義経神社」に行ってみることにしました。ここも前を通ったことは限りなくあるのですが、寄ったことはありません。車で案内に従っていくと、一気に山道を上がり、社務所の横までに来てしまいました。本当は、鳥居から登ろうと思っていたのですが、来てしまった以上、そのまま参拝です。義経神社は、思った以上に立派な神社でした。 日本各地に、義経にまつわるものが残っています。真偽は、はっきりしていると思いますが、古代や中世の人びとの「夢」には、いつも感心させられます。山陰地方を車で旅をしたときにも、楊貴妃の墓に驚いた記憶があります。参拝の後、社務所の手前にあった歴史館に寄ってみました。中に入ると、義経に関わる展示があります。無料かなと思って見学をしていたのですが、出がけに入場料の箱があることに気が付きました。危ないところでした。200円です。 義経神社の鳥居まで行ってみようと思い、車で向かったのですが、意外と苦労(九郎)しました。旧道に面していたのですが、国道に戻ったりと行ったり来たりをしてしまいました。かつては、この旧道を良く通った記憶があります。鳥居の横に広い駐車場があり、案内板がありました。案内板にもイザベラ・バードの記録が出ています。良く見ると、彼女の北海道の軌跡が出ています。何と、礼文華にも船で寄っているではありませんか! 先週、訪れたキング・オブ・秘境駅の小幌の海岸です。イザベラ・バードも円空仏を見ているのでしょうか?これには、少し驚きました。 帰って調べてみると、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には、確かに礼文華の項がありました。しかし、残念ながら記述がまったくありません。あまり印象は残っていなかったようです。むしろアイヌとの交流の印象が強すぎたのでしょうね。 |
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義経神社の鳥居 |
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イザベラ・バードの行程 |
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070 キング・オブ・秘境駅と洞爺湖・支笏湖方面を巡る(2012年6月12〜13日の記録) |
洞爺湖畔 |
豊浦の海岸線 |
大岸海岸 |
JR礼文駅 |
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■仕事で、室蘭方面に行くことがあり、ちょっと寄り道をしてきました。崖崩れで、一時期不通になっていた中山峠でしたが、工事が残っているとはいえ、問題も無く通り過ぎることができました。中山峠から見る山々には、曇り空とはいえ、残雪が映えていました。残念ながら、蝦夷富士(羊蹄山)は、雲に霞んでいました。その先の洞爺湖から見える昭和新山も、いつものように不気味な噴煙を漂わせていました。 ■豊浦の海岸線を走り、JR函館本線の礼文駅に向かいました。途中にある大岸(おおきし)の海岸線も険しく美しいですね。礼文駅は、開けたところにあるこぢんまりとした無人駅です。結構、通過列車があります。目的とする小幌(こぼろ)駅は、一駅先にあります。小幌駅に行くには、道路がありません。道なき山を歩くか、是非はともかく線路伝いを歩くしか行くことができないところにあります。断崖の上にあるトンネルとトンネルの間にある「キング・オブ・秘境駅」といわれる所以です。かつては、集落が存在した時代もあったそうです。比較的最近まで、「小幌仙人」と呼ばれたホームレス?が住み着いていたこともあったそうですが、今はいません。 礼文駅には、雑記帳がありました。失恋した若者の悔やみごとや小幌駅から歩いてきた人の疲れた話などが載っています。まもなく、14:49発の長万部行きの一両編成の電車が来ました。ワンマンカーです。お客さんが数人います。平野部を数分走ると、長いトンネルに入りましたが、トンネルを出たところが小幌駅でした。礼文駅から6〜7分の乗車時間です。料金は210円。 |
2011年11月27日の朝日新聞の小幌駅が掲載された記事 |
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■降りたのは私一人でした。何故か、置き去りにされた感覚になります。生い茂った木々の辺りから、鳥のさえずりが聞こえてきます。一瞬、ロビンソン・クルーソーを思い出しました。その先にもトンネルがあり、連続したトンネルの間、約160mの空間に小幌駅があります。反対側のプラットフォームに行ってみると、プラスチックの箱があり、中に「案内図」や「駅ノート」や「軍手」と重し(?)代わりの「石」が入っています。その時、軍手を借りなかったことを、後で悔やむことになります。 ベルが小さく鳴り、列車が来るとの案内放送がありました。間もなくスーパー北斗が突入してきました。こちら側に傾いて、まるで向かってくるように見えます。凄い瞬間です。屋根もない小さなプラットフォームですが、割と頻繁に列車が通ります。プラットフォーム間は、線路に降りるしかありませんから、少し恐怖を感じます。 礼文へ戻る電車は、15:14発がありますが、せっかくここまで来て、20分程度で戻る訳にはいきません。その次の電車は、17:55発です。そうなんです。約3時間は、ここにいるしかないのです。その電車を逃すと、野宿となります。恐ろしいですね。 海側に駅舎の施設がありますが、今は余りは使われていないようです。かなり荒れ果てた外付けのトイレもありますが、あまり利用したい雰囲気ではありません。その先に、草に覆われてはいますが、けもの道風の道筋がありました。背の高さ近くまである草を掻き分け辿っていくと、朽ちた材木が積んでありました。仙人の住みかの跡でしょうか?その先には、仙人が作ったといわれるベンチもありました。 急な下り坂になってきました。ロープが張ってあります。表面が軟らかく、油断して、尻餅をついてしまいました。結構、痛かった。。。ロープをしっかりつかんで、慎重に降りることにしました。カメラを首から下げて、リュックを背負った状態で、体が斜面に乗り出す場面もあります。軍手を借りてくれば良かったと後悔したのはその時でした。 |
小幌駅に着く |
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小幌駅 |
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海岸線への道 |
小幌駅の時刻表 |
スーパー北斗が向かってくる |
小幌駅にあっった案内図など |
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仙人が作ったというベンチ |
さらに行くと、木々の間から、下の方に小さな湾が見えてきました。縦長の大きな奇岩もあります。波の音が高くなってきました。その先には、斜面に梯子を敷いたところもありました。一部の梯子は壊れています。草に覆われているのと、ロープの切れ間などもあり、結構、不安定な状態にもなります。ほとんど登山ですね。こんな所で怪我をしても、誰も助けには来てくれないでしょう。 最後は、斜面に身を乗り出すようにして、ロープをつかんだ状態で、降り切ることができました。帰りがちょっと不安です。降りたところは、後から知ったのですが、ピリカ浜というところのようです。海岸線を伝い、西の方に行ってみました。時間は、まだまだあります。目指す小幌洞穴は見当たりません。大きな枯れ木が海岸線にあります。丸く美しい石がごろごろしています。歩きづらいですね。しばらく行くと、コンクリート製の防波堤がありました。思い切れば登れそうですが、止めておくことにしました。先の方には洞穴らしき所もあります。崖の上の方を見ると、落ちかかった大きな岩や洞穴も見えます。小幌洞穴が判りません。案内図をしっかり見てくれば良かったと思いましたが、後の祭りです。 まだ、帰りの電車の時間までは、2時間以上もあります。ここで駅に戻っても仕方がないので、枯れ木に座り、波しぶきを感じながら、持ってきた本を読んでいました。「ル・コルビジェ/C・ジェンクス著」です。波の音と鳥のさえずりしか聞こえません。カッコーの鳴き声も聞こえます。誰もいません。陸の孤島状態となりました。30分くらいも読んでいたでしょうか。小幌駅に戻り、案内書でも見てみようと思い立ちました。 ■再び、ロープを使い登山です。小幌駅に戻ったときには、帰りの電車の時間まで、1時間以上ありました。案内書を読んでいると、円空が1666年に小幌洞穴を訪れて、5体の仏像を作って納めたといわれています。1790年には、菅江真澄もここを訪れているのですね。東北を周遊すると、菅江真澄の紀行にたびたび巡り会います。こんなところにも来ているのですね。 しかも驚いたことに、小幌洞穴は、私が降りた浜からは行けない東側の浜にあることが案内書に出ていたのです。異なる道があったのですね。スーパー北斗がまた瞬間移動をしていきました。帰りの電車の時間まで、後1時間あります。思い切って、行ってみることにしました。今回は、軍手を借りて、カメラだけを持って、リュックをプラットフォームに置いていくことにしました。 案内図の通りに行ってみると、先ほどよりは少し広い道があります。すぐ先には、小幌洞穴と岩屋観音の看板が地面に倒れていました。こちらは比較的歩きやすい道でした。しかし、何故かどんどん上に登っていきます。でも、道が広いので、方角は間違いないと思います。しばらく曲がりくねった道を登ると、折り返しの下り坂になってきました。ロープも張ってあります。軍手が役にたちます。再び、湾が見えてきました。そして、小幌洞穴と岩屋観音もありました。洞穴の前には鳥居も建っています。 |
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海岸が見えてきた |
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梯子とロープを使って |
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海岸線に降りる |
今にも崩れそうな岩肌と洞穴 |
ピリカ浜 |
小幌洞穴への看板があった |
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薄暗い洞穴の奥に、円空仏も置いてありました。鳥居があったので、神式か仏式か迷いましたが、仏像があるので、仏式にお参りをさせて貰いました。円空仏を撮影しているときに、カメラの電池が切れてしまいました。予備のカメラはリュックの中でした。とんだ誤算でした。まあ、何枚かは撮影できましたので、良しとすることにしました。再び、小幌駅に戻ったのは、電車の時刻の20分前でした。 駅に戻ると、塀に立てかけていたリュックがプラットフォームの真ん中においてあります。不思議です。この時間帯に、ここに停車した列車はないはずなのですが、誰が移動したのでしょうか?中味は、そのままでした。実に、不思議です。とはいえ、気を取り直し、駅ノートに軍手のお礼などを記述しておくことにしました。考えてみると、最初に小幌洞穴の方に降りたならば、ピリカ浜には行かなかったと思いますので、結果良しですね。あくまでもプラス思考の私です。 ■東室蘭行きの電車に乗り、長いトンネルを抜けると、礼文駅の横に愛車が寂しく佇んでいました。何とか無事に帰ることができたのを感謝しなければなりません。大岸海岸を走ると向かいの山頂にエイペックスホテルが聳えていました。今日は、明朝の仕事のために、室蘭に停泊です。今年は、道の駅の近くのスーパー銭湯「ゆらら」に入ることにしました。露天風呂から見えた白鳥大橋と室蘭港の夜景が思いの外、素晴らしかったですね。対オーストラリアのサッカーも「ゆらら」で少し見ることができました。 ■翌朝、早くからの仕事を終え、帰るのですが、例により、さらに寄り道です。まずは、登別温泉にある「登別温泉科学館(現在、登別ふれあいセンター)」です。1957年の太田実です。何度も来ていましたが、改めて見たのは初めてです。川に跨がって建設されていますが、今はこのような建て方は、なかなかしないでしょうね。この近くにある登別温泉の共同浴場「さぎり湯」は、以前に入りましたが、なかなか良い温泉だった記憶があります。 登別温泉街を通り、カルルス温泉方面に向かいました。途中の新登別温泉付近で、廃墟のような建物に出会いました。かつての雰囲気を残した庭園の中にある温泉宿です。まるで遺跡のような雰囲気を漂わせていました。有名ホテルの別館の跡でした。その先のカルルス温泉を通り過ぎ、オロフレ峠に向かいましたが、オロフレ峠は霧で霞んでいました。 伊達市大滝町にある「三階滝」でいつものように湧水を汲んで、支笏湖畔を通り、オコタンペ湖に行ってみました。昨年は、ビューポイントが道路工事中のため、景観が損なわれていましたが、工事も終わり、緑に覆われた木々の間から、深い青のオコタンペ湖が展望できます。北海道の自然を感じる湖です。その後は、恵庭渓谷を通って帰ったのですが、恵庭渓谷は、秋が良いですね。 |
再び、浜に降り立つ |
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小幌洞穴遺跡 |
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岩屋観音 |
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オコタンペ湖 |
三階滝 |
新登別温泉の遺跡? |
登別温泉科学館 |
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