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040「コーヒーの真実」/アントニー・ワイルド(2012年7月15日)

コーヒーの真実/アントニー・ワイルド
 /(植民地主義の歴史を専門とする英国のジャーナリスト)
 /三角和代訳/白揚社/20070520第1刷/\3,500+税

 緑色の生豆が、熟成から焙煎という過程を経て、薫り高き飲み物に変わる。それは、奇跡ともいうべき変化でもあるが、コーヒーが初めて飲まれたのは、15世紀後半のイエメンのイスラム神秘主義者の宗教儀式においてであった。蔑まれたアルコールとは異なり、コーヒーは歓迎すべき興奮剤としてイスラム社会に広がっていった。

 17世紀にはオスマン帝国によって、外交と戦争という二つの経路を辿り、コーヒーはヨーロッパに紹介された。18世紀初めには、オランダ、フランス、イギリスがコーヒーの苗木をどうにか手に入れ、それぞれの熱帯植民地で、奴隷を主体とする労働力によって、プランテーション制度の下で栽培するようになっていった。このようにコーヒーの歴史は、奴隷制度の歴史と重なっていく。ロンドンのロイズは、もともとはロイズ・コーヒー・ハウスに集って、船の動きについてのニュースやゴシップを交換する顧客の利益のために生まれたものだった。

 紅茶によるカフェインの作用は、紀元前500年頃の中国に、その記録があるという。18世紀、スウェーデンのグスタフ三世は、殺人の罪で終身刑となった双子の兄弟に対して、一人には一日にボウル3杯の紅茶、もう一人にはボウル3杯のコーヒー、それ以外には同じ食事を与えることで、刑罰を死刑に変えた。結果、紅茶を飲んでいた方が先に死亡したという。今日のスウェーデンが、一人当たりのコーヒー消費量が世界一であることの説明が付くかも知れないと著者はいう。

 コーヒーは、アラビカ種といわれる品種が市場を支配してきたが、ベトナム・コーヒーの拡大の結果、味も品質も劣るロブスタ種が市場を席巻し始めた。洗練された種類であるアラビカ種に比べ、病気に強く、値段もかなり安かったロブスタ種は、コーヒー価格の下落を促した。その結果、大規模農園を除いて、高品質のアラビカ種を生産していた小規模生産者の利益は目も当てられないほど低くなった。質の良いコーヒーが、それなりの価格で生産されても、その生産価格が世界の市場では通用しないことになってしまったのだ。

 しかも、蒸したロブスタ種からまずい風味の部分を取り除く技術も発案され、焙煎業者達はさらに多くのロブスタ種をブレンドすることができるようになった。かつてはインスタントコーヒーなどにしか使われていなかった品種が、紛れ込むようになっていったのだ。多くの会社が、アラビカ種100%を謳っているが、それも怪しいという。余談だが、日本における米の品種の流通にも同じ事がいえる。ちなみに、ロブスタ種は、カフェインの含有量も高いという。

 ニューヨークのコーヒー市場は、「アザー・マイルド」(コロンビア、ケニヤ、タンザニアのアラビカ種のこと)に基づいて価格を決め、ロンドン市場はロブスタ種で価格を決めるといわれているが、コーヒーの先物取引は、今や現物取引からかけ離れた金融市場となってしまっている。投資家や信託会社は、コーヒーを実際に目にすることなく、金融で市場を操作しているのだ。そして、世界のコーヒー市場を支配しているのは、多国籍企業となった四大焙煎業者(プロクター・アンド・ギャンブル、クラフト・フーズ、サラ・リー、ネスレ)と六大輸出業者だという。

 アラビカ種のコーヒーは、ニューヨークの市場で、約500gが50セント(約40円)程度の値が付くという。500gは、約40杯分のコーヒーだが、世界中のカフェでのコーヒー一杯の値段は、東京では3.57ドル、バンコクでは1.44ドル、香港では1.45ドル、ケープタウンでは0.54ドル、イスタンブールでは0.47ドル、ロンドンでは1.94ドル、モスクワでは2ドル、ニューヨークでは2ドル、パリでも2ドル、ローマでは3.1ドル、シドニーでは1.6ドルだという。この本が発行されてから数年を経ているが、現在でもそれほど大差ないと思う。一番高い東京では、コーヒー豆の市場価格は0.35%、一番安いイスタンブールでも2.7%に過ぎない。これは、コーヒー豆の市場価格との比較だから、実際の農家が受け取る対価が如何に低いかが判る。逆にいえば、コーヒー豆の原価は、市場価格にそれほど影響を与えないともいえる。

 異常なまでの臭覚の鋭さを示したナポレオンは、コーヒー好きだったらしいが、セントヘレナ島のコーヒーの歴史や、ブラジル、メキシコ、グアテマラ、エルサドバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ボリビア、エクアドル、ペルー、コロンビア、ベトナムにおけるコーヒーの歴史が詳しく記されている。それらの多くの国の名前を聞いただけでも、ヨーロッパやアメリカの血塗られた歴史が刻まれていることが判る。

 グアテマラでは、社会改革を行おうとしたハコボ・アルペンス・グスマンが、1954年にCIAが工作したクーデターにより葬り去られている。ホンジュラスでは、1980年代にレーガン政権が、ニカラグアのサンディニスタを排除するための、コントラの本拠地としている。いずれもCIAの暗躍による暗殺、拷問などの工作が繰り広げられた。1989年には、ブッシュ父政権はパナマへ侵攻し、マヌエル・ノリエガ将軍を逮捕している。ノリエガ将軍は、かつてはCIAのために活動していたともいわれている。2006年のベネズエラのチャペス大統領の国連総会でのブッシュ息子政権批判は記憶に新しい。これらを書き出すときりがないので、また機会を改めたい。

 気になった言葉があった。「エスプレッソは良いコーヒーを作るすばらしい方法だが、すばらしいコーヒーを作る良い方法ではない」、まったく同感である。


コーヒーの真実
アントニー・ワイルド著
三角和代訳
白楊社
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039 2万年前の土器発見(2012年7月7日)

 中国江西省の仙人洞遺跡から見つかっていた土器片が、土器としては世界最古の約2万年前のものだったとの新聞報道があった。これまで、世界最古といわれていた土器が、日本の青森県にある大平山元1(おおだいやまもといち)遺跡で見つかった、およそ1万6000年前の縄文土器や、中国の湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から見つかった約1万8千年前の土器といわれていたのだから、それを上まわる古いものといえる。

 今回の年代測定は、土器の出た地層に含まれる動物の骨や炭などを放射性炭素年代法を使って判定したということから、例により、その年代測定を疑問視する見解がネット等でも見られるが、その真偽があるとしても、日本の土器が先行したという可能性はあり得ないだろう。要するに、中国のおける考古学的知見の整理が追いついていないのだ。ちなみに、大平山元1遺跡では、縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法で算定されている。

 注目すべきは、約1万6千年前の東アジアは、氷河期の寒さも和らぎ、カシやブナなど食べられる植物が出てきた頃で、そうした植物の煮炊きをして食べるために土器が生まれたという解釈がされたきた。しかし、約2万年前は最終氷河期の真っ最中であり、土器が生まれたとするそれまでの解釈を改めな
ければならなくなるからだ。中国でも、農耕が始まるのは約1万年前とされているが、さらにその1万年前の土器の発見という事実は、氷河期の中で人類がどういった生活をしていたのかということを考える手がかりになる。

 かつては、世界四大文明の一つとして、黄河文明があげられていたが、浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡から、約5千年から7千年前の水稲のモミが大量に発見されて、黄河文明と並ぶ長江文明の存在が明らかになってきている。同じ長江文明に属する仙人洞遺跡や玉蟾岩遺跡でも、約1万2千年前のイネの化石が見つかっているが、稲作の起源につながる可能性が高いと見られている。

 ステーヴン・オッペンハイマー著の「人類の足跡10万年全史」でも書いたが、人類(ホモサピエンス)はアフリカで生まれた。10数万年前にアフリカを出た人類は、世界各地に移動していった。アラスカを渡った人類は、1万数千年前には、南米のチリにまで達しているのである。移動の時期とルートには多数の説があるが、いくつもの交接点が想定されている。そこでは、程度の差こそあれ、多様な文明が発達したと考えるのが自然といえる。歴史は、発見される考古学的知見により、さらに古く、遡っていく。



朝日新聞
2012年6月29日
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038「国家の罠」/佐藤優 他(2012年7月1日)

国家の罠/外務省のラスプーチンと呼ばれて/佐藤優
/新潮社/20050610第7刷/\1,600+税/398頁

 読んだ本の批判は書きやすいが、つまらないと思った本を余り紹介はしたくない。閑無し本は読んでいるのだが、このコーナーに掲載したいと思うものになかなか巡り会わないのが実情となっている。結局、かなり以前に読んだ本を改めて見直したりするのだ。私の場合、読んだ本の気になったところを、スキャンして、気になったことを付け加えて、テキスト保存するという習慣を10年以上続けている。そのテキストを見直すだけだから、余程のことがなければ、本全体を読み直すことは滅多にはない。とはいえ、気に入った本は何度でも読むことがある。例えば、トルストイの「戦争と平和」は2度読んだ。

 少し古い本だが、2002年の鈴木宗男に絡む事件で起訴され、最高裁まで争うが、執行猶予付きの有罪判決を受けた佐藤優(さとうまさる)の第1冊目の本である。サブタイトルには、「外務省のラスプーチンと呼ばれて」と書かれている。容疑は、テルアビブに学者らを派遣した際に、その費用を外務省の支援委員会から違法に引き出したことと、国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で三井物産に便宜を図ったというものだった。しかし、著者は「国家の罠」とのタイトルにあるように、国策捜査だったとしている。特に、前者は公的な決裁を受けての行為だったというのだ。

 霞ヶ関(官界)と永田町(政界)は、隣町だが、地球を反対に一周しなければ行き着けない遠さがあるという。その2つの町の間の通訳能力を持っていたのが、東郷和彦(当時外務省欧亜局長)と佐藤優だったという。彼らはロシアスクールと呼ばれた。

 小泉内閣となり、田中真紀子が外務大臣に着くと、鈴木宗男とともにロシアスクールが葬り去られた。継いで、田中真紀子が失脚すると、アジア主義が後退しチャイナスクールの影響力も限定的となった。そして、親米主義が唯一の路線として残った。ブッシュと小泉の蜜月は、鮮明な記憶として残っているが、それと同時に外交チャンネルを次々に失っていった。

 そのような状況で、ポピュリズムに訴える排外主義的なナショナリズムが急速に強まっていった。対北朝鮮外交にそれが良く現れている。小泉政権への権力集中は、国会の中央官庁に与える影響力を弱め、外務官僚の力を相対的に強くした。しかし、鈴木宗男のような外交に通暁した政治家との研鑽がなくなった結果、官僚の絶対的な力は落ちていった。そして、現在の民主党政権に繋がる外交の迷走となっている。鳩山元総理は、東アジア共同体構想をぶち上げたが、それを支える官僚組織などまるでなかったのだ。

 著者は、外務省の国際情報分析のエキスパートとして、特にロシア関連の人脈を活かした活躍をしていたことは間違いない。その明晰な分析能力は、本を読めば理解できる。あのフロッピーディスクを改竄して起訴された検事の事件に関わり、起訴された大坪弘道・元大阪地検特捜部長が、獄中で佐藤優の書籍を読み、文通もしていたということを新聞記事で見たが、その故もあろうと思う。

 国際情報屋には、猟犬型と野良猫型がいるという。猟犬型の情報屋は、ヒエラルキーの中で与えられた場所を良く守り、上司の命令を忠実に遂行する。野良猫型の情報屋は、たとえ
与えられた命令でも、自分が心底納得し、自分なりの全体像を掴まない限りリスクを引き受けないという。いずれもが必要なタイプだが、全体像で見れば野良猫型は5%の割合しかいないという。著者は、野良猫型なのだろう。

 情報の入手の手法は、虎式と蜘蛛式に分かれるという。虎式は、獲物の通り道を見つけ、誰にも見えないような場所でひたすら待つ。蜘蛛式は、幅広く網を張り、獲物がかかるのを待つ。美しい蝶が網にかかれば、蜘蛛はそっと蝶に近付き、針を刺し、蝶の体液を吸う。著者は、諸外国の専門家から、「佐藤さんは蜘蛛式が得意だ」とよく言われたらしい。

 著者は、拘置中に弁護方針として、弁護団に以下の点を要請していた

  1)第一に、国益を重視すること
   (日本外交に実害がないようにすること)
  2)第二に、特殊情報の話が表に出ないこと
  3)佐藤氏と鈴木宗男氏の利害が対立した場合、
    鈴木宗男氏の利益を優先すること
  4)全体像に関する情報をもつ人を限定すること

しかしながら、3)については、依頼人の利益を最優先するという弁護士倫理に反するため、弁護団が反対し、鈴木・佐藤の両弁護団は緊密な連絡をとるということで合意していた。

 何故、国策捜査が行われたのかという問いに、取り調べの検察官とのやりとりのなかから著者は、一定の方向性を出している。

 それは日本が、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換と、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があったというのだ。その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいたため、国策捜査の対象になったのではないかという見方だ。まさに、出来過ぎた話ではあるが、当時、「小さな政府」「官から民へ」「規制緩和」などなど市場原理に基づく、ハイエク型新自由主義が盛んに喧伝されたのは事実だ。メディアもこぞって、謳い挙げていた。

 鈴木宗男に限らず、政治献金問題で橋本龍太郎や野中広務などが、次々と政治的影響力を失っていった構図がそこに浮かび上がってくる。決して、彼らを弁護しようとは思わないが、その結果、何が残ったのだろうか。しかも、ポピュリズムを権力基盤とする小泉劇場に、未だに幻想を抱き続けている人びとが、昨今のマスメディアにも度々登場しているが、小泉純一郎が一体、何を成し遂げたのだろうか?橋本大阪市長が、民意?だとして、好き勝手をやろうとしていることにも危惧を覚える。ちょっと、話が横にずれすぎたようだ。

 また、付け加えておくと、著者は決して、小泉元総理の批判はしていない。そのサポートをするべき官僚を批判しているだけである。世の中は、善悪で成り立っているのではない。如何に多くの正確な情報を得て、適正な総合判断をして、国家指導者に如何に伝えられる能力を研鑽しているかが官僚に問われているのである。自己保身に陥る官僚が、多すぎるのである。



国家の罠
佐藤優
新潮社

国家の自縛/佐藤優・聞き手:齋藤勉
/産経新聞出版/20050930初版/\1,500+税/239頁

 産経新聞元ロシア支局長の齋藤勉が佐藤優にインタビューをするという形式の本だが、「国家の罠」を補完する内容が込められている。

 もし北朝鮮に行って拉致問題を解決してこいと密命を受けたならば、佐藤はロシアから行くという。自分が使えるロシアのルートを使うというのだ。その際、総理からロシア大統領にメッセージを入れておく必要があるという。それにアメリカにも仁義を切っておく必要があるが、中国は使わないという。この本が書かれて6年以上経っていることを留意しておく必要があるが、中国は、国家指導者が民意で選ばれていない国だから、一緒のゲームをやることはできないという。中国は、「人権」の意味合いが判らない国なのだ。

 そして、中国とロシアは、日本が追いつめない限り、絶対に仲良くならないという。日本が中央アジア、トランスコーカサス地方で、ロシアと提携することとパッケージで北方領土問題の解決を戦略として提示すれば、プーチンは関心を示す可能性があるという。南方のイスラム原理主義を封じ込めるカードが使えるというのだ。いずれも正確な情報に基づいたゲームが必要だということなのだ。

 佐藤は、物事には「究極的な価値」と「究極以前の価値」があるという。国際政治において、「究極的な価値」とは、人類であり、平和であり、愛であるという。一方、日本の国益も自己の生命も「究極以前の価値」となる。この2つの関係をどう結びつけるか、あるいは結びつけないかで、人の価値観、世界は変わってくるのだ。そして、「究極的な価値」に至るためには、民族/国家という「究極以前の価値」に真摯に取り組む必要があるという。同志社大学大学院神学研究科を修了した佐藤の人生観が垣間見える。

 小泉政権の初期に、日本はイランとの関係が進んでいたことがあった。しかし、アザデガンの油田開発などでは、鈴木宗男がストップをかけていた。そういった石油利権からも鈴木宗男達が外された可能性があったという。

 他にも、ネオコン、環境問題などなど話題が多岐に渡っている非常に興味深い本といえる。最後の所には、「東アジア共同体」構想に対する批判が出ている。それは、国民国家システムを超えるような共通の価値観が東アジアにはないことと、唯一の超大国であるアメリカを抜きにやることの非現実さから、東アジア共同体の環境が整っていないということだ。まさにその認識ができないレベルの人間が、総理大臣になったことが実に恐ろしいことだと思われる。



国家の自縛
佐藤優
産経新聞出版

北方領土「特命交渉」/鈴木宗男・佐藤優
/講談社/20061013第2刷/\1,600+税/302頁

 メトベージェフが再び北方領土を訪れるというが、佐藤優の2011年10月4日朝日新聞/朝刊の記事を読んでからは、少し見方が変わった。プーチンとの争いに負けて、その存在価値が落ちたメドベージェフは、再びポピュリズムに訴えようとしているのだ。早晩、首相の座からも引きづり降ろされるかも知れない。何事もプーチン次第だということだろう。

 佐藤優の本書でのエピローグが良い。

  領土問題は国民の愛国心を刺激する。謀略外交で有名な19世紀フランスの外交官タレーランは、「愛国心は悪人の最後の逃げ場」と述べたというが、それは現代にも当てはまる。

 まさに、昨今の領土問題(竹島、尖閣諸島)にそのまま当てはまるのだろう。中国も韓国も自国のポピュリズムに訴えているのだ。同じ土俵で日本が戦っても、何も解決しないといえる。

 異なる土俵で戦おうとしていたのが、鈴木宗男や佐藤優だったと本書を読んで感じた。その個性的なキャラクター故に、マスコミはこぞって彼らを叩いた。現在ほど、検察の権威が地に落ちていたならば、彼らが有罪となったかどうかは判らない。とはいえ、最高裁まで争って、有罪判決(鈴木宗男は実刑判決、佐藤優は執行猶予付き)を受けた事実は、無視はできないだろう。

 1945年8月8日、日本が無条件降伏をするわずか6日前に、ソ連は日ソ中立条約を侵犯して日本への宣戦布告を行った。その歴史を振り返ったとき、鈴木宗男は、ソ連の国民が日本を侵略してきたと考えてはいけないという。それは、「スターリンの残滓(ざんし)」だったというのだ。決してロシア国民を恨

んだりしてはいけないという。そこに彼のすべての考え方と行動があるようだ。

 1951年のサンフランシスコ講和条約では、日本は南樺太とともに千島列島を放棄している。当時の外務省の西村熊雄条約局長は、「南千島」という言葉を使いながら、千島のなかには、国後島と択捉島は含まれると発言している。歯舞島と色丹島とは異なるのだ。要するに、日本にもロシアにも、それぞれに言い分があるともいえる。その認識で、四島返還の努力をしなければ、何も解決はしない。

 もちろん、1956年の日ソ共同宣言において、歯舞群島と色丹島の引き渡しが触れられている事実もある。ソ連からロシアと国は変わったが、彼らの考え方にも幅があるのだ。メドベージェフは、自己の保身のために、ポピュリズムに訴えているにすぎないのだ。

 鈴木宗男たちが、四島返還の前提で、二島返還を進めようとしたことへの非難が、マスコミを通じて広まった。多くの人がそう思っただろう。しかし、鈴木も佐藤も、そのことの反論に、「北方領土ビジネス」なるものが存在するという。児玉泰子(北方領土復帰期成同盟事務局長)や袴田茂樹(青山学院大学教授)に代表される人たちだ。彼らは、北方領土交渉を食い物にしているという。彼らの運動によって、北方領土交渉が前進した試しはないという。むしろ自分たちの仕事が続くためには、北方領土問題が解決して貰っては困る立場にいるというのだ。

 橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の三総理から「特命」を受けた鈴木宗男が、各国に自ら構築した人脈を駆使して活躍したが、ラスプーチンと呼ばれた佐藤優の助力を得て、ぎりぎり公表できる内容を記録した対談集である。彼らの言っていることが、すべて正しいかどうかは一部疑問も残るが、ものの見方を考え直すには格好の本であった。


北方領土「特命交渉」
鈴木宗男・佐藤優
講談社
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037「ガリヴァー旅行記」/ジョナサン・スウィフト(2012年5月27日)

ガリヴァー旅行記/ジョナサン・スウィフト/平井正穂訳
/岩波書店/岩波文庫/19801016初版/19990906第39刷
/\760/461頁

 かなり以前、沼正三(覆面作家:幾多の説がある)作の「家畜人ヤプー」という本を読んだことがある。そのヤプーを、当時、「JAPAN」をそう読ませたのかと思っていたのだが、ガリヴァー旅行記から取ったものかも知れないと思った。少なくとも、意識しているのは間違いないだろう。さらに勘ぐると、スウィフト自体が「JAPAN」から後述する「ヤフー」の名前を考えたのではないかというと、飛躍が過ぎるだろうか?

「家畜人ヤプー」は、日本人が家畜として、生きながらえているおぞましい世界を描いたものだったが、自虐的ともいえる未来世界に気持ちが沈んだ記憶がある。また、「ミカドの肖像」でも書いたが、イギリス人が「オペレッタ・ミカド」で、当時のイギリス社会を風刺するために、<遠い国>日本へ、喜劇の舞台を設定していた。いずれもが気分を損なわれたというのが私の感想だ。

 ガリヴァー旅行記は、読み進むに従って、おぞましく、不可思議な世界が描かれている。ある意味、少年少女全集などで読む「ガリヴァー旅行記」が小人国や巨人国しか掲載されていないということは、スウィフトにとって幸いなのだろう。読み進むに従って、暗く沈んだ気持ちになってくるのも、また間違いない。

 アイルランド系イギリス人であるスウィフトが、1726年、59歳の時の作品である。アン女王の治世、1707年にイングランドとスコットランドが統合して、グレートブリテン王国が成立したが、スウィフトの出身であるアイルランドは、王国として形の上は独立しているとはいえ、1652年のクロムウェルによる侵略などにより、植民地化された状態だった。アン女王には子供がいなかったため、グレートブリテン王国は、1714年、ドイツから、現在まで繋がるウィンザー朝のスチュアート1世(英語が話せなかった)を迎えるが、彼は1727年には亡くなり、子息のジョージ2世が後を継ぐ。しかし、政治的にはホイッグ党と
トーリー党が争う議院内閣制の基礎が築かれつつあった時代だった。ガリヴァー旅行記は、当時の社会を風刺した作品として知られているが、現在の日本にも置き換えてみると、なかなか興味深いものかもしれない。

第1篇 リリパット国渡航記

 おなじみの小人の国。ここでは、ガリヴァーが超人として活躍するが、次第に疎んじられるようになる。リリパット国は、隣の同じく小人国であるブレフスキュ国と争っているが、争いのきっかけになったのが、卵の殻を剥くときは、それまでの常識の反対となる、「小さな方から割るべし」という通達がきっかけだった。ガリヴァーは、小人国同士の争いにも巻き込まれるが、以前に宮殿の火災を彼の小便で消し止めたことなどがたたり、国を脱出することになる。

 リリパット国はイギリス、ブレフスキュ国はフランスを風刺したと考えられているが、何故か日本と韓国のいがみあいを見る感がした。

第2篇 プロブディンナグ国渡航記

 巨人の国。ここでは、ガリヴァーは小人となり、庇護される立場になる。初めは見世物的な扱いを受けるが、王妃へ売り飛ばされ、人形の家を与えられて生活をするようになる。ところがある日、一羽の鳥(おそらく鷲)が、ガリヴァーの住む箱ごと連れ去るという事件が起こる。何が起こったか判らないまま、ガリヴァーは海の上に箱ごと放り出され、イギリス船に助け出され、イギリスへの帰還がかなう。

 小人国と反対の立場に置かれたガリヴァーだが、自意識だけは盛んである。しかし、実態は子供以下の存在としか見なされていない。最後まで、運命に翻弄されるのだが、救出されて間もないガリヴァーが、助けてくれた船長に大声で喋り続ける姿が可笑しい。巨人の国にいたため、大声で会話することが習慣づけられていたのだ。巨人の国は、さしずめアメリカか中国のイメージか? 声高に喋るのは、日本のイメージとは合わない。


ガリヴァー旅行記
ジョナサン・スウィフト
平井正穂訳
岩波文庫/岩波書店


第3篇 ラピュータ、バルニバービ、グラブダブドリップ、、ラグナグ、および日本への渡航記

 イギリスに戻ったガリヴァーだったが、2ヶ月ほどで、船医として三度目の出航をすることになる。途中、海賊に捕まり、日本人の海賊船船長にも遭遇するが、ガリヴァーは逃れて、辿り着いた先で、天空の国(島)ラピュータに引き上げられることになる。ラピュータの人びとは、頭が右か左に傾いていて、一方の眼は内側に、片方の眼は真っ直ぐ天を向いていた。彼らは絶えず不安に襲われていて、一瞬といえども心の平安を味わうということができない人びとだった。夜もおちおち寝ることもできず、朝の挨拶でも、接近しつつある彗星の一撃を免れる何か良い方法はないかと語り合う始末だ。王にしても国民にしても、数学と音楽の他はどんな分野の知識に対してもまったく関心を示さなかった。宮崎駿の映画では、「ラピュタ」は廃墟と化していた。このラピュータでは、国(島)は存在すれども、人間性や精神性が失われているともいえる。方向性が狂っているのだ。

 この島が飛ぶ範囲の陸地は、ラピュータの国王の支配下にあるバルニバービという土地だったが、ガリヴァーは、その土地に吊り下ろして貰う。そこは、ラピュータの圧政により、貧しくみすぼらしい土地だった。住民は、ボロをまとい、大半はあばら屋に住んでいた。そこで、ムノーディ卿という貴族に連れられて、彼の領地に行くと、そこは素晴らしい田園風景が広がる土地だったが、バルニバービの国民からは、時代遅れの農場経営をしていると軽蔑されていた。狂った価値観が支配していたわけだ。

 その国には、大研究所があった。キュウリから如何にして太陽光線を抽出するかという研究や、人糞をもとの食糧に還元する研究をしている老人、氷に熱を加えて火薬を造ろうとしている男もいた。頭脳チンキなるものをを調合して、それで命題と証明を書き付けたオブラートを飲むことによって、それらが脳に記憶されることを狙った研究があったが、成果は上がっていなかった。人民を苦しめないでお金を巻き上げるには、悪徳と愚行に対して一定の税金を掛けるのが良いと主張する教授や、各人が自分で特に自慢している美点に対して課税するのが良いと主張する教授がいた。等々、ほとんど無益なことばかりに明け暮れた研究所だった。スウィフトの科学に対する不信と狂気性が垣間見える。


 続いて、ガリヴァーが訪れたのは、グラブダブドリップという魔法使いの島だった。そこでは、ガリヴァーは、アレキサンダー大王やシーザー、ブルータス、ソクラテス、ホメロス、アリストテレスなどの歴史上、著名な人びとを呼び出して貰うことに成功する。ガリヴァーは、アリストテレスにも会う。アリストテレスは、自分の自然哲学についての誤りを率直に認める。自然に関する新しいといわれる体系的な学説は、時代と共に流行が変わるように変わるというのだ。

 ガリヴァーは、さらにラグナグ王国を訪れる。ラグナグ人は礼儀正しい国民だったが、国王に謁見する時は、床を舐め舐めの匍匐(ほふく)前進を求められた。国王の前で、唾を吐いたり、口を拭ったりするのは、罪死に価するのだ。そして、その国には<不死の人間>がいた。彼らは、その年齢に比例して、名状すべからざる老醜を漂わせていた。死があることによって、人類は現在の幸せを噛みしめることができるともいえる。宗教的には、「来世」がないことの不幸を明示しているともいえるのだろう。

 ラグナグ王国と<偉大な日本帝国>との間には、絶えず貿易が行われていた。ラグナグ王国の皇帝から推薦状と金貨を渡されたガリヴァーは、日本を訪れる。江戸で日本の皇帝に拝謁したガリヴァーは、オランダ人に義務づけられている「踏み絵」の免除を願い出る。ガリヴァーをオンランダ人と勘違いした皇帝は、そんなオランダ人は今までいなかったので、驚くというのだ。オランダ人に対する皮肉なのだろうか? ガリヴァーは、1ヶ月ほどを日本で過ごしてから、長崎からヨーロッパに帰る。日本における内容は、短いのだが、不可思議な国々と同列に描かれているのが、当時のヨーロッパ人の日本人感なのだろう。

第4篇 フウイヌム国渡航記

 ガリヴァーは、5年6ヶ月振りにイギリスに帰るのだが、それから5ヶ月を過ぎたころには、身重の妻を残して、またも家を飛び出す。とにかく、家族に対する愛情のかけらもない男なのだ。そして、350トンの商船の船長となり、出港するのだが、途中に補充した船員の大半が海賊だったため、長艇とともに一人放り出されることになる。




 そして行き着いたのが、フウイヌム国だった。そこでは、驚いたことに、<馬>が言語を持つ知識階級だった。創造性に欠けてはいるが、規律的な規範に縛られた社会だった。高い地位につこうと思ったときは、巧みに女房か娘か姉妹を利用するか、前任者を裏切り陥れること、あるいは公開の席上で宮廷の腐敗を糾弾する必要があった。当時のイギリス社会を風刺しているのだろうが、非難するだけの現在の日本のマスメディアにも繋がる。

 そして、醜悪な生物にも出くわすのだが、良く見るとそれは<人類>だった。「ヤフー」と呼ばれるそれらの醜悪な生物は、野生種もいるが、主人である馬にも飼われていた。彼らは、絶えず争い合い、アルコールに浸り、輝く石を求めていた。しかも手当たり次第あらゆるものを片っ端からがつがつ食らう姿は、フウイヌムたちから軽蔑されていた。さらにその悪臭からも嫌われていたのだが、ガリヴァーも、次第にヤフーの悪臭を毛嫌いするようになっていく。

 ガリヴァーは、フウイヌムとの交流からその世界に溶け込もうとしていたが、ガリヴァーを養っているフウイヌムは、他のフウイヌムたちから非難を受けるようになる。ガリヴァーは、本意ではないが、5年以上を過ごした世界から脱出をする。結局、ガリヴァーも飼われていたに過ぎなかったのだ。

 ガリヴァーは、親切なポルトガル人船長に助けられ、イギリスに戻ることになる。家の者全員が彼を喜んで迎えてくれた(こんな不自然さが、さらりと出てくる)が、ガリヴァーは人類の「体臭」に耐えられない体になってしまっていた。彼が戻ってから、最初に買ったものは、まだ去勢されていない若い雄馬2頭だった。スウィフトは、女性に対する偏見も目立つようである。あるいは、性的に倒錯していたのかも知れない。

 スウィフトがガリヴァー旅行記を世に出したのが1726年。アメリカが独立宣言をしたのが、1776年だから、その50年前。西洋が大航海時代にあったのは、1世紀以上も前のことだ。1688年には、名誉革命も起きている。ガリヴァー旅行記のころ、日本は徳川時代。8代将軍徳川吉宗が就任したのが、1716年。ガリヴァーは、徳川吉宗に謁見したことになる。吉宗が、「享保の改革」で財政再建に励んでいた頃だ。イギリスには国王がいたが、議院内閣制が始まっていた。そのころのフランスは、戦争などにより財政が破綻しかかっていたルイ14世の後のルイ15世の時代。ドイツは、プロイセン王国の時代と、いずれも王政が強固に残っていた。そんな時代に書かれた物語だ。

 スウィフトは、聖パトリック聖堂の主任司祭を務めた聖職者でもあった。ガリヴァー旅行記は、発売時、少年少女向けの本ではなかったが、大変な好評を博している。彼は、「アイルランド貧民児処理に関する一私案」というパンフレットを出すが、そこでは、嬰児の大半を食肉その他の用に当てたら、アイルランド人の貧窮救済の妙案となるのではないかという提案をしている。痛烈な風刺だったとされているが、そのような発想を思いつくことに恐ろしさを感じる。そう思ってガリヴァー旅行記を読むと、彼の特異さが理解できるだろう。その後の彼は、精神に異常をきたし、78歳で亡くなっている。日本で、ガリヴァー旅行記を知らない人は、ほとんどいないだろう。しかし、全篇を読んだことがある人は少ないだろう。読んで、喝采に価する本でもないが、時代背景と著者自身の歴史を考えると、悲しくも、恐ろしくもある本である。




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036「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」と「新・陰翳礼賛」(2012年3月20日)

陰翳礼賛/谷崎潤一郎/中央公論新社/中公文庫
19751010初版/20110620改訂21版/\476+税/213頁

 文豪の個人的趣味を記述したものといってしまえば、それまでだが、少し懐かしい気持ちになって読んだ。以下の6編が収録されている。

 陰翳礼讃 「経済往来」 昭和八年一二月号・九年一月号
 懶惰(らんだ)の説 「経済往来」昭和五年五月号
 恋愛及び色情 「婦人公論」昭和六年四月号−六月号
 客ぎらい 「文学の世界」昭和二三年十月号
 旅のいろいろ 「文藝春秋」昭和十年七月号
 厠のいろいろ 「経済往来」昭和十年八月号

「客ぎらい」以外は、昭和初期の作品だ。LED電球が、省エネの名の下に盛んに喧伝されているが、蛍光灯すらまだ普及していなかった時代に、シェード付きの裸電球がぽつんと灯っているのをみると、風流を感じるという景色だ。扇風機などというものは、あの音響といい形態といい、日本座敷とは調和しにくいと続く。昔の石油ランプや有明行燈や枕行燈を古道具屋から捜して来て、文豪はそれに電球を取り付けている。母屋から離れて、青葉の匂いや苔の匂のしてくるような植え込みの蔭にある「厠」で、しとしとと降る雨の音を聴くのを文豪は好むが、現在の私たちの生活感からは少し離れている。もっとも、それに近い生活を私たちも嗜(たしな)んでいたのは、ほんの少し前のことだった。

 昼間でも照明を付けるのが当たり前になったオフィスで日中を過ごして、夜、家に帰っても、煌々と光があまねく照らす部屋で過ごしている。そんな生活をいつから私たちはするようになったのだろうか? 明るい光の下で見る漆器や蒔絵(まきえ)などを施した光輝く蝋塗りの手箱は、けばけばしく落ち着きがなく見えるが、暗闇の中で一点の灯明か蝋燭の下でみると、忽ちそのけばけばしさが底深く沈んで、渋い、重々しいものに変わると文豪はいう。ピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり、風のおとづれをあることを教えて、そぞろに人を瞑想に誘い込むのである。まことに風流である。

 文豪は、西洋建築も批判をする。例えば、ゴシック建築の尖塔にしても、日光の直射をそのまま軒先に受けているが、日本の重く面積の大きい屋根は、大地に日影を落とし、その薄暗い陰翳の中に家づくりをしているという。レンガやガラスやセメントなどを使わず、横なぐりの風雨を防ぐために庇を深くしているのだ。陰翳を受けた日の光は、さらに紙の障子を通して、室内に穏やかな明かりを届けている。

 書かれたのが、80年も前ということが、不思議な感覚を呼び覚ましてくれる。「LED照明について」でも触れたが、昼も夜もとにかく照らすという生活を改めて考えさせられた思いがする。LED照明は、その配光特性から、蛍光灯と異なり、指向性が強い。陰を作りやすいのである。あまねく照らす生活に慣れてきた私たちは、その特性をLEDの欠点と見なしがちだが、それを利点と見なす新しい照明の考え方をしなければならないのである。省エネルギーを進めるためにも、今一度、生活感を変える必要がある。
新・陰翳礼賛/美しい「あかり」を求めて/石井幹子/祥伝社
20080915初版/\1,600+税/259頁

 こちらは、石井幹子(もとこ)の作品だが、フランスの著名な照明デザイナー、ルイ・クレア氏が照明デザインの教科書に谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の翻訳本を使っているということが出てくる。氏が、芸大の美術学部を卒業して、フランスやドイツで学んで、1968年に、まだ照明デザインが確立していなかった日本で事務所を開いてからのエピソードが主体の本だ。

 石井幹子は、1970年に開催された大阪万博などで一気に花開くが、石油ショック以降、日本での仕事がパッタリとなくなる。照明は、無駄なものと見なされたのだ。その後、手弁当で、日本各地にてライトアップの提案をしていく。そのバイタリティーは、凄まじい。京都、横浜、函舘、姫路、倉敷、北九州、白川クなどへと続く。1989年の東京タワーや1994年のレインボーブリッジなどで大きく注目されてからの、今日の活躍は語るまでもない。

 感心した内容があった、氏の演出ではないが、ドバイを本拠とする工ミレーツ航空に乗ったときの話だ。その照明が、搭乗したときは、柔らかな間接照明で温白色に天井が照らされている。食事が終わりオーディオプログラムを楽しんで眠りについて時間が経つと、天井には満天の星が瞬(またた)いていた。光ファイバーで演出された星々は、全体としてはわずかな光量で、乗客の眠りを妨げるものではない。さらに数時間経過すると、今度は朝焼けとなり、コーラルピンクの間接光が天井を徐々に照らし上げ、その光はゆっくりと青に変わるという。陽が昇り晴天の朝になったのである。引き続き間接光はだんだんと白色光となり、朝食の時間となったという。その後照度は徐々に高くなり、窓から差し込む中近東の強い光と呼応するほどになった。要は、乗客の時差調整を助けるための照明だったのである。

 日本のオフィス照明は、天井に蛍光灯を露出して取り付けたものが多い。欧米から来るビジネスマンを驚かすという。特に青い眼の人は、蛍光灯からのグレア(不快な眩しさ)で眼を痛めるという。欧米のオフィスでは、天井に蛍光灯を付ける場合、必ず埋込にして下面をルーバーなどで直射光をカットしているという。最近の、日本のオフイスではほとんどがそうなっているが、かつては露出型が珍しくなかった。施工性優先だったのである。

 氏のライトアップを実際に見ても、写真で見ても、対象となるものを照らしている訳ではない。まさに、陰翳を作っているのである。その照明に使う光源が多彩だ。メタルハライドランプ、高圧ナトリウムランプ、もちろんLEDも含めて、各種の光源をその特性や色を活かしながら演出している。まさに「陰翳礼賛」だ。


陰翳礼賛
谷崎潤一郎
中公新書












新・陰翳礼賛
石井幹子
祥伝社
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035 2012年春 芥川賞2作「共食い」「道化師の蝶」(2012年2月19日)

2012年春 芥川賞2作「共食い」「道化師の蝶」

「共喰い」
田中慎弥

 少しくどいが文章力もある。構成も古典的である。従って、私には読みやすかった。しかし、読み進みにつれて、性描写の繰り返しに食傷気味になる。他に書くことはないのだろうか? セックスの時に相手を殴りつけるという奇癖がある父親と、いつしかその父親の奇癖を受け継ぐことを恐れている若者との葛藤だが、戦いにはなっていない。父も息子もただ、本能におもむくままに生きているだけである。むしろ強烈な印象を残したのが、息子の実の母であり、父の前妻だった、空襲で右腕の手首から先を無くした仁子だ。その仁子の義手が最後には、父親の腹を突き刺す。氾濫した川に浮かぶ父親の死体の腹に直立する義手、映像が浮かぶようだ。仁子が義手を外すときの、「ぽこん」という音のリアル感も恐ろしい。

 タイトルの「共喰い」であるが、もしかして、「共喰い」ではなく、「共に喰う」のではないだろうかと思いながら読み進んだが、やはりであった。後味の悪さが残った。他に、意味を持たせているとしたなら、私には判らなかった。社会的には狂人ともいえる人たちが織りなす世界にしか、私には見えない。ステレオタイプの人々の物語でも困るのだろうが、ここまで徹底する必要があるのだろうか? 芥川賞がそれを求めているのだとしたなら、選考委員にも狂気の人たちがいることになる。否、作者がそれを狙ったのだろう。機会があれば、別な作品を読んでみたいとは思った。
「道化師の蝶」
円城塔

 意味深な言葉の羅列である。その意味を考えることを途中から諦めた。結局、流し読みになってしまった。小説としての構成は面白い。選評にもあったが、もう少し読者のことを意識してもらいたいものである。今回は、賞に該当すべきでなかったと私は思う。可能性は感じるが、未完成な小説?と感じた。

 作者へのインタビュー記事でこういうくだりがある。「エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、多分楽しくないんですよ。(中略)彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです」。では、全然、面白くない場合は、どうするんだ、といいたくなる。

 5つの章立てで構成されている小説だが、それらが関連しているようで関連していない。気になるのは、銀色の糸で編まれた捕虫網袋だ。脂が染みて黒光りするボールペンに巻き付けられている。それで、蝶を捕らえるという。蝶は、頭の中に卵を産み付けるという。頭の中で、言葉を食べて卵は孵(かえ)り、彼女が育つ。なんだか円城塔風になってきたので、ここで止めておく。もう二度と彼の作品を読むことはないだろう。

文芸春秋
2012年3月号
芥川賞発表
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034「伊勢神宮・魅惑の日本建築」/井上章一(2012年2月11日)

伊勢神宮・魅惑の日本建築/井上章一/講談社
/20090514第1刷/\2,800+税/556頁

 サブタイトル「魅惑の日本建築」を「疑惑の日本建築」と読んでしまった。日本建築史に対する疑惑の書である。それは、建築史を扱う建築学界にも考古学界にも向けられた疑惑の本だからである。井上章一の本では、「つくられた桂離宮神話」で氏を見直す結果になったが、この本も丹念な調査で埋め尽くされた入魂の本である。文章は、美しくない。決して、読みやすいとは言えない。氏は、決して読み直したりはしないのではないかと時々感じてしまう文章である。

 この本では、着想を得てから書き終えるまで、15年の歳月が流れたという。それは、氏の一連の著作に対して、既成の建築史学界が、だんまりを決め込んだからだという。畢竟(ひっきょう)、世に発表する意欲が萎えてしまったようだ。建築史学界が「学問の書」ではなく、「読みもの」として無視したのだろうか? あるいは、急所を突かれた故、誰も応えられなかったのだろうか。この本も、氏による新たな視点に光が当たっているのだが、2009年に出版されて、今のところ、これといった反響は目につかない。少なくとも私は目にしない。

 伊勢神宮は、20年ごとに建て替えられている。式年遷宮である。そのことは、かなりの人に知られている。そんな営みが「千年以上も続けられている」といわれている。遷宮の理由は、建物の老朽化に対応するためと、技術の伝承が主な理由とされている。しかし、千年も前から、本当に今の様な「神明造り」だったのだろうか。しかも、戦国時代には、100年以上に渡り、中絶の期間もあったのだ。途絶していた可能性もあるのだ。安土桃山時代以降に甦った神宮が、果たして以前の神宮を再現したという保証もない。

 神宮の社殿は、棟持柱(むなもちばしら)をともなう高床建築になっているが、この様式を取り入れているのは、神宮と神宮を手本にした各地の神社だけであり、日本建築としてはすでに
もう残っていない。一方、有史以前の日本列島には、こういう棟持柱をともなう高床建築が数多く建っていたということは、考古学者たちによって確かめられている。しかし、その後、大陸から新しい建築が取り入れられたことにより、この様式は顧みられなくなっていった。中国渡来の仏教建築が主流となっていったのである。もちろん、仏教建築も、その後日本風に変化を遂げていくのだが、神宮の造りが、中国の影響を受けていない「真の日本建築」だとされてきたのである。

 神宮で、式年遷宮の決まりができたのは、7世紀後半である。しかし、そのころの社殿がどのような形になっていたのかも、実際は判らない。平安時代の初めにまとめられた『延暦儀式帳』をみると、9世紀初頭の神宮は、今日の神宮と割合によく似ていたという。千木(ちぎ)や勝男木(かつおぎ)もあったことは、良く通じ合うという。それがため、建築史学界は、7世紀後半の神宮も現在とほぼ同じであると見なしてきた。

 平安時代初期、桓武天皇(在位781〜806)から文徳天皇(在位850〜858)の時代は、日本がもっとも唐礼を取り入れていた。そのころの天皇家の宗廟も中国的なものに改められている。そんな時代の神宮が、現在のものに近かったのだ。故に、それ以前も同じだっただろうとされているわけだ。氏も大筋ではそれを認めている。だが、『延暦儀式帳』自体には、氏は疑いを入れている。

 神宮の正殿は、回廊や勾欄がめぐらされ、正面平入りの、桁三間、梁二間というかまえで、建てられている。妻かざりは、京都大学名誉教授であり、神宮司庁嘱託であった福山敏男(1905〜1995)の研究により、室町以前は別な形であったことが指摘された。それが、消失した法隆寺金堂と同じだったというのだ。井上章一は、他の例もあげながら、決して神宮は同じ形が連綿と続いているわけではないとしている。それを受けて、桓武朝に、神宮は大陸的に組み替えられたかも知れないと述べている。どうも気持ちに揺らぎがあるようだ。まあ、細かい造りだけは影響を受けているということなのだろう。

伊勢神宮
井上章一
講談社

御稲御倉(みしねのみくら)
伊勢神宮内宮にある/正宮の1/5のレプリカといわれている

2009年12月7日撮影


伊勢神宮外宮 正宮
2009年12月7日撮影

伊勢神宮内宮
井上章一著 伊勢神宮より
(原典は、香川元太郎著 分解図鑑 日本の建造物 東京堂出版


 神宮の両端の棟には、千木が付いている。先端部が水平に切られる「内削(うちそ)ぎ」と垂直に切られる「外削(そとそ)ぎ」がある。内削ぎは女性、外削ぎは男性の神様を祀っているといわれているが、例外もある。伊勢神宮の内宮は、天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀っているので内削ぎになっているが、豊受大神(トヨウケオオミカミ)を祀っている外宮は、女性の神にも関わらず外削ぎになっている。祀っている神様が時代とともに変わったことだってあり得るし、他に理由があるのかも知れない。さらには、後の時代に、内削ぎは女性、外削ぎは男性と決められたために、その後の千木はそのように造られたのかもしれない。卵と鶏が逆転した可能性だってあるのだ。

 本書は、伊藤仁斎の門人である並河天民(なみかわてんみん)が1790年に刊行した「近世畸人(きじん)伝」という本で、京都の北郊にある雲ヶ畑(くもがはた)において、天民が千木を載せた集落を見た話から始まる。続いて、新井白石や真野時綱(まのときつな)、賀茂真淵、天野信景、本居宣長などの江戸時代の文献を詳細に調べている。現代も含めて、明治期以降の建築史家の多くが、ことさらに無視してきた資料である。

 明治期以降の建築史は、伊東忠太に始まる。伊東忠太以後、南方的な高床は日本で磨きあげられ、神明造になったとされてきた。南洋あたりの未開建築とは違い、はるかに洗練された神社建築に生まれかわったと、考えられてきたのである。だが、南洋風の未開性をぬぐいさったのは、日本文化の力などではなく、大陸からの新しい建築工法の力だったのかも知れない。その方が現実的に思えてくる。しかし、建築史界の多くは、伊東忠太と変わらない態度を取っていた。本書では、そこで固定観念に凝り固まった東大系と、柔軟性がある京都大系の違いを描き出しながら、建築史界の行きつ戻りつの考え方の変遷を綴っている。

 池上曽根遺跡の弥生時代の復元家形写真を初めて見たときには、かなりの違和感を抱いた記憶がある。18世紀以降、太古のすまいは神宮から遡及することで、想像されてきた。神明造りを簡略化した「天地根元宮造」なるものも現れていた。しかし、20世紀の考古学はその幻想を打ち砕く。円形平面の竪穴住居跡が、四角平面の天地根元宮造を否定したのだ。ところが、20世紀末の考古学界は、形をかえつつその天地根元宮造に基づく、棟持柱がある高床建築を「神殿」として描き出す。それが、復元されていく弥生建築の姿となっていた。その姿と異なる池上曽根遺跡の復元家形は、屋根の形が逆台形となっていて、インドネシアやオセアニアの民族建築によく似ている。発見された土器破片の絵を基にしているという。氏は、ここで宮本長二郎の復元案と実際に復元された浅川滋男案を対比させながら、考古学界に切り込んでいく。

 多様な人たちの記録を詳細に調べ、またその人たちの考え方の移り変わりまでを丹念に追っている力作と言えよう。日本書紀では、紀元前後といわれる垂仁天皇の時代に、現在の地、五十鈴川(いすずがわ)のほとり、伊勢に伊勢神宮が創建されたとしている。歴史は、さらに1000年近く遡るのだ。史実性はともかく、伊勢神宮自体もそれまでは各地を巡ったとされている。そのため、各地に元伊勢神社と呼ばれる神社がある。しかし、それらの神社とても、神殿を構えていたかどうかすら不明なのだ。単なる「場所」だったかもしれないのだ。歴史とは、それぞれの人が描く失われた記録への想像の産物なのかもしれないが、自己の想像を満足させるために、失われてもいない記録に目を向けないという姿勢が、学界のどこかにあるという事実を考えさせられた一冊であった。伊勢神宮には、歴史という問題の他に、政治性が込められているだけに、なおさらである。



よみがえる弥生
の都市と神殿
池上曽根遺跡
巨大建築の構造と分析
乾 哲也 (編集)
摂河泉地域史研究会
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033 2012年、年頭新聞拾い読み(2012年1月9日)

 正月明けの朝日新聞で、興味を持った記事を拾い読みしてみた。別に朝日新聞の宣伝をするわけではないが、わが家で購読しているのが朝日だけなので、他の新聞社には悪しからず。

1月1日 カレ・ラースン
 「さよなら、消費社会」の著者。エストニア生まれでカナダ在住。「ウォール街占拠の仕掛け人」といわれている。奥さんは、日本人で北海道登別の人。

 なぜウォール街を選んだのかという質問に
「多くの人々を苦しめている経済格差の象徴だからです」

 1960年代に、10年近く東京に住んでいて、
「これほど外界と隔絶した国があるのかと驚いた。」

「米国主導の経済モデルに取って代わるものを打ち出せるとしたら、おそらく日本しかない。経済成長が永遠に続くと思いこんできた米国中心のシステムはもうダメになった」

「成長一辺倒モデルの限界を世界で最も早く体感した国だからです。高度成長をへて、バブル崩壊と20年の停滞。日本の困難を欧州や米国は遅れて経験しているのです。いま求められているのは壮大な構想力」


 カレ・ラースンがいうように、このグローバル社会において、経済格差を生み出している象徴がウォール街にある。リーマンショックで経営危機になった金融資本に税金が注ぎ込まれ、救われたとたん、業績回復になるとともに莫大な報酬に戻った破廉恥な輩たちだ。日本でも、莫大な報酬はないにしても、高額な報酬が継続されるなど、同様なことが税金を投入された金融業界で行われている。また、それほど結果も出ていないのに、外国人経営者に莫大な報酬を払うなどの例がいくつかの大企業でもある。日産やソニーなどがその代表例である。高級官僚のことなども、考えるときりがなくなってくる。

 そんな日本にもっとも欠けているものの1つが「構想力」だと思わざるを得ないが、カレ・ラースンは、日本に期待しているという。失われた30年や40年とならないために、何をどう構築するか、考えたいものだ。

1月1日 梅原猛
 哲学者であり、86歳の現在も「梅原日本史」といわれる独自の日本文明論を展開、昨年には東日本大震災復興構想会議特別顧問を務めた。

「文明が変わらなくてはいけないし、文明を基礎づける哲学も変わらなくてはいけない。現代の科学技術文明を基礎づけたのは17世紀のフランスの哲学、つまりデカルトですね。科学が発展すれば、人間は自然を奴隷のように支配できるという彼の哲学が人類の思想となったわけです」

「世界の文明国は多かれ少なかれエネルギーを原発に頼っている。事故は文明の災害でもある」

「結果として、悪魔のエネルギーだった。一部の人は原発容認を言っているけれど、10年、20年の対策としては必要だとしても、脱原発は歴史の必然です」


 現在、日本で稼動している原発は、54基のうち、6基に過ぎない。それが、2012年1月末までに、3基になってしまう。原発の寿命も原則40年と定められた。ということは、これから5年経つと、54基のうち12基が廃炉になることになる。もう残された時間は、余りないのだ。

 梅原猛が描く日本の姿は美しすぎる。道徳精神が残り、自然の恩恵を受け、感謝して生きる。そんな文明は確かに素晴らしいが、現実的には思えない。その精神は大事にしたいと思うが、日本だけの考えで、このグローバル社会を生きていくことはできまい。再び、鎖国をして、自立独立社会を構築しなければならないことになる。やらなければならないのは、悪魔のエネルギーと決別した技術開発を強力に進めることだろう。現実をみながら、10年先、20年先を目指すべきだ。それには、既存にある規制、特に電力会社にメスを入れなければならない。





1月1日 米倉浩昌
 経団連の会長であり、住友化学工業会長

「今後、日本は財政健全化、持続可能な社会保障制度のため、10年先まで実質2%、名目3%ほどの経済成長が必要だと考えている。そのためにはエネルギーをどう確保していくか。非常に重要なことだ」

「日本はGDPで世界の8%を占めるけれども、二酸化炭素排出量は世界の4%、エネルギーを非常にうまく使っている。じゃあ2%まで落とせますかというと、すぐには無理な面もあろうかと思う」

 原発は、ないに越したことはないですかと聞かれて、
「それが夢だと思う。僕は、本当に。だけど、産業自体が成り立たない状況にまでして、本当にすぐさまやめられるのか。もう少し、頑張ってもらわないと」


 決して、原発推進論者でないことが判った。現実論者なのだ。ただ、どうしても経団連の会長という立場からか、既得権益の温存が言葉の端々に出てくる。守る立場ではなく、未来を展望する指導者が経団連の会長になる必要があるのではないだろうか。

1月3日 ジャレド・ダイアモンド
 「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」などが日本でもベストセラーに

「いまも昔も同じ問題に悩まされているからです。環境破壊や人口爆発は現代だけの問題ではない。人類が狩猟技術を開花させた5万年前から、環境との共存は難しかった。オーストラリア大陸やアメリカ大陸に進出した人類は、大型生物の大半を乱獲で絶滅させてしまった」

「今の文明の環境・人口問題は12に分類できます。自然破壊、漁業資源の枯渇、種の多様性喪失、土壌浸食、化石燃料の枯渇、水不足、光合成で得られるエネルギーの限界、化学物質汚染、外来種の被害、地球温暖化、人口増、1人あたり消費エネルギーの増加です。そのひとつでも対策に失敗すれば、50年以内に現代の文明全体が崩壊の危機に陥るでしょう」

「過去にも環境と共存できる社会をつくりあげた例は数多くあります。グリーンランドに入植したノルウェー人たちは環境に適応できず、集落自体が消えてしまったが、同じ地域でイヌイットたちは生きのびました。江戸時代の日本も森林を保護し、人口の伸びをおさえたことで、260年間、ほぼ自給自足を続けました」

「社会を存続させる秘訣(ひけつ)は、結婚生活を続ける秘訣と同じ。『現実的であれ』といいうことです」

「一度にたくさんの人が死亡する可能性のある事故、人間の力ではコントロールできないと感じる事故について、人々はリスクを過大評価しがちです。日本をおそった地震と津波は確かに大惨事でしたが、長期的にはずっと多くの人々が、交通事故、たばこ、お酒、塩分の取りすぎが原因で死亡しています」

「私たち米国人もスリーマイル島原発事故の後、1人の死者も出なかったのに、新しい原発の建設をやめてしまいました。それはあやまちだったと思います。原子力のかかえる問題は、石油や石炭を使い続けることで起きる問題に比べれば小さい、と考えるからです」


 殺人強姦をはたらく、強盗団と変わりないスペインの将軍ピサロが、インカ王国をわずかな兵力と27頭の馬によって、短期間で打ち破り、皇帝アタワルパを捕らえることができたのは、銃と鉄製の武器、そして病原菌のおかげだった。それも事実だが、インカ帝国は権力争いを繰り返していた。内部分裂の国が如何に脆いかともいえる。日本に限らず、政治家が、国の行く末よりも権力争いをしている現実が、文明の崩壊の助長をしているのではないだろうか。

 東日本大震災の事故は、死亡した人の問題ももちろん大事なことだが、地域が崩壊しかかる事態を生んだことに、より大きな問題がある。地震・津波は、人知を超えた自然の力の驚異を人々に見せつけ、さらに原発の問題は、科学の限界を改めて人々に認識させた。この人の現実的にという理論は、歴史的には正しいのかも知れないが、何か割り切れなさが残る。



1月1日
カレー・ラースン








1月1日
梅原猛
米倉浩昌








1月3日
ジャレド・ダイアモンド


1月4日 アントニオ・ネグリ
 マイケル・ハートとの共著「帝国」が世界的な論争の書となる。現代ヨーロッパを代表するイタリアの左派知識人。2008年、来日の予定だったが、日本のピザがおりなかった。

「国家がグローバルな市場の動きに追いつけないことです。もっと根源的な問題があります。企業と労働者の関係やお金の流れが変わってしまったことです」

「金融は、労働者が生み出した富を取り込み、それを貨幣や証券、あるいはポケットの中のクレジットカードに変えてしまう。それが労働者の負債を生み出しています」

「各国の政府が危機に陥っているのは、もはや政府が社会を代表するものとは言えなくなってしまったためです」

「今こそ広大な領域に及ぶ、新しい民主主義を考える時期です。20万人、30万人の規模で『自分たち』を組織し、自分たちで自分たちを直接、統治する。そういう時に来ています。まず、現状に対して『ノー』ということから始めたらどうでしょう」


 グローバルな市場が旧来の国家の仕組みを超えてしまったのが、今の世界なのだろう。ただ、「ノー」というだけでは、何も解決をしないだろう。単なるクレイマーと変わらないと思う。むしろ、批判をするだけのクレイマーが、今の世界を縛っているとしか思えない。批判することも大事だが、構築することも必要だと思う。

1月4日 石井幹子(いしいもとこ)
 白川クや東京タワーなどの照明を手掛けた照明デザイナーである。

「少し抑えめな心地よい明かりをつくっていくことを考えた方がいいのでは。女性や子供には、街にある程度の明るさがないと、怖い。やみくもに暗くするのは良くない」

「日本人は、提灯(ちょうちん)や行灯(あんどん)とか、温かい柔らかい明かりの中で暮らしていた。明かりの使い方を、本来の姿に戻していくことでしょう。『陰影礼賛』です」

「だんだん照度が低くなって、寝るときにはゼロに近くなっていくことが、心地よい眠りを誘う。ほの明かりを楽しんでいただきたい」


 LED照明が今の話題だが、メリハリを付けることにより、省エネ効果が生み出せることが理解できた。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」を読み返してみたくなった。

■1月4日 星野佳路(ほしのよしはる)
 破綻したリゾートの再生を手掛ける星野リゾートの社長である。

「軽井沢で冷房で電気を使うのは、夏の昼間の3〜4時間ぐらいなんですよ。それを減らすために考え出したのが、旅館の各部屋につくった風楼なんですよね。暖気を天井から排出して、窓から涼しい風を入れる仕組みです。これを入れると、冷房する部屋が減り、時間帯も短くなった」

「電力自由化が進んだ米カリフォルニアを視察したことがある。直後に大停電がおきて米国内でも自由化批判が出たが、大停電の方が原発事故よりもはるかにいいでしょ」


 さすが経営者と思わせられた。何事も採算があうエコが必要なんだと。ただ、企業の経営者は短期を考えざるを得ないが、国家のレベルで考えると長期も必要だと思う。

1月6日 呉敬l(ウーチンリエン)
 中国経済学会の重鎮。かつての研究グループの部下には、中国人民銀行総裁、中国証券監督管理委員会主席、国家ファンド中国投資会長などがいる。

「中国モデルの特徴は、政府がとても強い権限をもっていることだが、先進国を追いかける途上国だからこそ、強みがある。いわば過度期のモデルだ」

「中国は日本から多くを学んだ。1980年代以降、欧米や日本などへ視察団を派遣した。当時、最も深い印象を与えたのは、市場経済を標榜(ひょうぼう)しながらも、政府が行政指導をたくみに使って、高度成長を成し遂げた日本だった」

「日本は追いかけるだけの立場じゃないから、新しいものを自ら打ち出す力を育てなければならない。日本経済の長い低迷はひょっとしたら、いまもこの問題を解決し切れていないからではないか。技術革新を促す社会づくりや国際貿易ルールづくりに力を入れるべきだ」

「我々がめざすべきは国家資本主義ではない。公正なルールに基づいた市場経済をもっと取り入れるべきだ。試行錯誤を繰り返すだろうが、政府よりも公平に、さまざまな富を分配できるはずだ」


 新聞を読んだ限りは、とても中国の経済人とは思えなかった。日本が新しいものを打ち出せないでいることは、耳の痛い話だった。

1月8日 内橋克人
 「匠の時代」などで知られる経済評論家。一貫して市場原理至上主義、新自由主義的改革に警鐘を鳴らしてきた。

「日本社会でも新たな階層が生まれてきている。国民皆年金など基礎的な社会保障からさえも排除された人たちが多数派となる『貧困マジョリティー』だ。グローバル化やマネー資本主義が進み、非正規雇用が増えて中間層が崩壊する社会の到来は、危険な時代への予兆ではないか」

「『政治のリーダーシップ不足』と言われるが、民主政治を基盤とする国でのヒーロー待望論ほど異常なものはない。日本古来の『頂点同調主義』に加え、異議を唱える者を排除する『熱狂的等質化現象』が一体となる。『うっぷん晴らし政治』の渇望を満たそうとすれば、1930年代の政治が繰り返される」

「日本がTPPに入れば、外資は日本政府を米国の経済法廷に訴えることができる。米企業はオーストラリアでの医薬品への公的補助でさえ『自由市場に反する』と問題視している」

「私は新たな基幹産業として『FEC自給圏』を提唱してきた。FはFoods(食糧)。日本の穀物自給率は世界で124番目だが、食糧自給は国の自立条件で新たな産業も形成する。EはEnergy(エネルギー)。再生可能エネルギーとしてデンマークでは風力発電、太陽熱発電を推進し、エネルギー自給率が今では200%近い。日本は国策として原発に集中し、ほかの選択肢を排除した。CはCare(介護)。市場に任せるのではなく、社会による介護自給圏を形成すれば北欧諸国のように強力な産業になる」「『うっぷん晴らし政治』ではなく、世界のモデルに目を向け、食糧、介護、エネルギーの自給圏を志向すべきだ。地味でもいいから、グローバル化の中で、それに対抗できる『新たな経済』を作ることが本当の政治の役割だと思う」


 少し堅いが、一番大きくうなずいたのが、内橋克人の記事だった。この人の「匠の時代」は何冊か読んだが、改めて別な本も読んでみようと思わせられた。


1月4日
アントニオ・ネグリ






1月4日
石井幹子
星野佳路






1月6日
ウーチンリエン






1月8日
内橋克人
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032「神道」の虚像と実像/井上寛司(2011年12月15日)

「神道」の虚像と実像/井上寛司(いのうえひろし)/講談社
/講談社新書2109/20110620第1刷/\760+税

 かつては世界をイデオロギーで分けようとしていた時代があった。今は、宗教で分けようとしている考え方もある。その是非はともかく、今日の日本の宗教に対する姿勢は、著者がいう<世界のなかにあってきわめて特異な位置>にあることは否定できない。

 各種の統計類から、日本人の7割は「無宗教」(無神論とは異なる)を標榜しているという。しかし、各宗教団体から報告される信者数の総数は、総務省の統計をみても、1980年から2007年の間でも、<2億人程度>で推移している。乳幼児を含む全人口の2倍の信者がいることになるのだ。しかも、総務省の統計によると、22万もの宗教団体が登録されているという。ちなみに、神道系の信者総数は日本国の人口数にほぼ匹敵しているのが凄い。著者は、日本中世史を専攻する大阪工業大学と島根大学の名誉教授だが、私はこの本で初めて接することになった。出雲鰐淵寺などの研究もある。

年度 総数 神道系 仏教系 キリスト教系 諸教
宗教団体 信者数 宗教法人 信者数 宗教法人 信者数 宗教法人(教会,その他) 信者数 宗教法人 信者数
1980 224,935 200,395 81,290 95,848 75,100 87,745 3,375 1,019 45 15,783
1985 226,088 223,798 81,330 115,602 75,574 92,065 3,614 1,688 36 14,444
1990 230,704 217,230 81,402 109,000 75,800 96,255 3,937 1,464 40 10,511
1995 229,969 215,984 81,326 116,922 75,900 87,481 4,000 1,450 46 10,131
2000 226,117 215,366 81,167 107,953 75,725 95,420 4,110 1,772 79 10,221
2005 223,871 211,021 81,143 107,248 75,924 91,260 4,275 2,595 81 9,918
2006 223,970 208,845 81,248 106,818 75,885 89,178 4,298 3,032 78 9,818
2007 223,428 206,596 81,102 105,825 75,903 89,541 4,347 2,144 89 9,086
                   総務省統計より 単位 千人

 「神道(しんとう)は太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つとされる宗教である<ウィキペディアより>」。
あるいは、「神道とは神の道である。神の道とは日本民族祖先以来の生活原理である。日本民族は皇祖天照大神の御神徳を歎美し体現し発揚し奉ることを以って生活の原理とし、日本国の理想として来たのである<河野省三(元國學院大學学長/故人)>」等々、神道を語る言葉は多い。しかし、神道は古来から続いてきたものではなかった。

 その根拠となっているのが、ノルウェー・オスロ大学のマーク・テーウンの、[マーク・テーウン二〇〇八]。「神道」の語はもとは中国から古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音の「ジンドウ」であり、その意味は、「仏教下の神々をさす仏教語」だったのだ。その(ジンドウ)が14世紀の室町期に、清音表記による「シントウ」へと転換したのだという。室町時代の応永26年(1419)に、天台宗の僧艮遍(りょうへん)が著した『日本書紀巻第一聞書』(神道大系・論説編『天台神道』上)の冒頭に、「神道名字の事、神道(じんだう)と読まず神道(しんとう)と清(す)んでこれを読むこと直なる義なり、直なるとはただありのままなりといふ意なり」と見えるからである。


 神社の成立にも著者は疑問を投げかける。そこにいたる長い歴史までもを否定はしていないが、古(いにしえ)からあった祭祀施設(ヤシロ・ミヤ・モリ・ホコラなどと称された)とを不用意に結びつけて理解したために、神社とはなにかがきわめて曖味なものとなってしまったのだ。神社とは、7世紀後半の律令制の成立にともなって、中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された、官社と呼ばれる常設神殿をもった新たな宗教施設に過ぎないというのだ。

 しかも、地域社会において、在地の首長層などが祭祀をおこなう目的で設けていた施設までが、律令制の成立と共に、その祭祀権が国家(天皇)の手に独占されていった。その背景には、隨・唐などの中国大陸における中央集権的な国家システム、さらには周辺地域をも含めた世界システムへの対応としての意味をもっていた。「倭」から「日本」への転換は、日本列島における本格的な国家成立を示す、象徴的なできごとであり、世界システムに対応する動きだったわけだ。

「神道」の虚像と実像
井上寛司
講談社新書
講談社


 中国において、自然発生的に成立したとされる道教的信仰が、外来宗教である仏教に対抗して、教団的な組織を整えたのが2世紀中頃とされている。一方、日本においては、最澄・弘法による天台・真言の両宗は、それ自体が一個の顕教であると同時に、密教を合わせ行ずることが不可欠のものとされた。 顕教とは、経典の学習や討論などを通じて学問的に修得することであり、密教とは、目には見えない釈迦の教えの真理を、修行や瞑想などを通じて直感的に会得することをいう。とくに、密教は日本古来にあった呪術的な祈祷とも結びついて、日本独自の発展を示していくことになる。世界が天竺(てんじく/インド)と震旦(しんたん/中国)および本朝(日本)の三つからなるとする三国世界観は、天台宗を開いた最澄によって初めてとなえられた。そして本地垂逆説も現れ、神と仏の本質は同じであって、そのあらわれかたが違うのだと説明・理解されたことにより、仏教や神祇信仰・修験道・陰陽道などをそれぞれ適宜使い分けるという、日本特有の宗教が成立することになる。

 中世に至ると、「神社神道」といっても、実際には各神社に所属する顕密僧などがその直接的な担い手だった。出雲大社が鰐淵寺を本寺としていたのはその例であろう。ところが、室町期になると、卜部氏(うらべし)の出である吉田兼倶(かねとも)によって創出された「吉田神道」が大きく発展し、寺院・仏教と神社・神祇信仰との一体的な関係が否定され、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置くことになる。それが、江戸幕府においても続くことになる。神道が仏教とは異なる体裁を整え始めたのだ。

 一方、江戸初期において、林羅山は、兼倶のいう唯一神道論が「道の教え」ではないと批判した。それが、本居宣長らへ継承されるあいだに、「復古神道」と呼ばれる新たな神道論が出てくることになる。国学の大成者とされる宣長は、神道を日本に固有の「神の道」であり、日本の社会に固有の生活規範として存在したものだとした。今日の「神道」の考え方そのものといえよう。そして、吉田神道に対する批判が伊勢外宮の神官・度会延佳(わたらいのぶよし)によって着手される。それは、吉田家の神

職の本所としての圧倒的な地位が否定されたわけではなかったが、吉田神道そのものが、その影響により<変質>していく。「我国天照大神の道を神道といへる」と転換していくのだ。「伊勢神道」が「国家神道」となる道筋が見えてくる。

 明治期に入ると「神仏分離」が明確な方針として打ち出され、神社から仏具・仏像を除去する「廃仏毀釈令」が発令される。さらには、寺院の廃絶や仏堂・仏具の徹底的な破壊までが一部では行われた。西欧においては、前近代から近代への移行は政治と宗教との分離を一般的な特徴としていたが、日本の場合は、国家権力が強権的にその教義内容にまで踏みこんで宗教に厳しい統制を加え、それが政治的に利用されたのだった。靖国神社が、国家(天皇)のために、命を捧げた帝国臣民の戦没者への公的なかたちでの鎮魂するという性格を与えられていく。

 著者は、柳田国男の「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」とする考えは、「国家神道」と本質的に同じ土俵のうえに立っていたと批判をしている。しかし、柳田国雄が「国家神道」を考えていたかどうかは疑問である。神道という言葉を使ったのは確かに間違いかも知れないが、柳田は単に古から続く信仰心を言いたかっただけではないだろうか? 同様な論理で、梅原猛への批判の矛先を向けているが、「神道」に対する誤謬だけで、すべてを批判しているようにしか思えない。

 「神道」が自然発生的で、その起源が縄文・弥生時代などの太古の昔にさかのぼるという考え方は、確かに否定された。しかし、宗教と捉えるまでの体系的な教義や教典などはないにしても、「自然への信仰」が古代からの日本に続いてきたことまでは筆者は否定していない。私は、古くからある神社を訪ねたときは、特別な事情がない限り、拝殿の奥にある本殿を必ず概観することにしている。そして、その奥にある気配を感じることにしている。多くの神社には、背面に山がある。そして、その山に登ることもある。
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031「ダイオキシン神話の終焉」 VS 「実は危険なダイオキシン」(2011年11月9日)

 ダイオキシン類とは、化学物質の合成過程、燃焼過程などで生成される、ポリ塩化ジベンゾ−p−ジオキシン(PCDD)とポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)の総称であり、PCDDには75種類、PCDFには135種類もの異性体が存在する。ダイオキシン類のなかでもっとも強い毒性を持つのは、2,3,7,8−テトラ・クロロ・ジ・ベンゾ・パラ・ジ・オキシン(2,3,7,8−TCDD、あるいは2、3、7、8−四塩化ダイオキシンともいう)であり、よく引き合いに出されるのが、このTCDDのことだ。

 コプラナーポリ塩化ビフェニル(コプラナーPCB、またはダイオキシン様PCBとも呼ばれている)のようなダイオキシン類と同様の毒性を示す物質をダイオキシン類似化合物と呼んでいる。

 ダイオキシン類は、通常は無色の固体で、水に溶けにくく、蒸発しにくい反面、脂肪などには溶けやすい。また、ダイオキシン類は他の化学物質や酸、アルカリにも簡単に反応せず、安定した状態を保つが、太陽光の紫外線には、徐々に分解されるという性質を持つ。ダイオキシン類は、炭素・酸素・水素・塩素を含む物質が熱せられるような過程で、自然にできてしまう副生成物でもある。日本では、1997年には、8,000pg−TEQ/m3を超えていた総排出量が、2007年には、約300pg−TEQ/m3(環境省のデータによる)にまで下がっている。環境中への排出量が、10年間で、約26分の1にまで削減されたのだ。

「ダイオキシンは青酸カリの2万倍、サリンの数倍の毒性」といった表現がかつて新聞紙上を賑わしたが、この数値は、次の表(※1)を根拠にしている。(若干、計算が合わないが

毒性物質 LD50(mg/kg体重) 種類
ボツリヌス菌毒素A 0.0000011〜0.001 細菌毒素
破傷風菌毒素 0.000002 細菌毒素
パリトキシン 0.00025 イソギンチャク毒
ダイオキシン(2,3,7,8-TCDD) 0.0006〜0.002 合成有機化合物
テトロドトキシン 0.01 フグ毒
α-アマニチン 0.1 テングダケの毒
サリン 0.35 有機リン化合物
ストリーキニーネ 0.6〜2 殺鼠剤
青酸カリ 3〜7 無機化合物
DDT 110 有機塩素系農薬
カフェイン 200 茶・コーヒー
              表(※1) モルモットのLD50比較
kg キログラム 1000g 1000g
グラム 1g 1g
mg ミリグラム 千分の1g 0.001g
μg マイクログラム 百万分の1g 0.000001g
ng ナノグラム 十億分の1g 0.000000001g
pg ピコグラム 一兆分の1g 0.000000000001g
                   表(※2) 単位の比較
 これは、実験動物(この表はモルモット)に対する、「ある物質を、その半数が死に至った量」を示しているもので、「半数致死

量」といわれるが、LD50(50% Lethal Doseの略)と表示される。調べるとかなり数値にバラツキがある。それは、異なった実験動物の数値を引用していることがあるためだ。しかもこれは、急性・遅効性に関係がない数値であり、青酸カリは急性毒性、ダイオキシンは遅効性の毒性で知られている。
 ダイオキシン類が体内に入ると、その大部分は脂肪に蓄積されて体内にとどまるといわれている。ダイオキシンが脂肪に溶けやすいからだ。分解されたりして体外に排出される速度は非常に遅く、人の場合は排出されて半分の量に達するには約7年かかるとされている。 

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「ダイオキシン 神話の終焉」
シリーズ−地球と人間の環境を考える2/渡辺正・林俊郎
/日本評論社/20030130第1刷/\1,600+税/211頁

 著者は、東京大学生産技術研究所教授の渡辺正氏と目白大学人間社会学部教授の林俊郎氏だ。この本の主な主張を列記してみる。

1)ダイオキシンでは死ねない
  実験動物によっては、LD50の差が大きく、仮にモルモットの数値を使っても、実験動物の体重を人間の体重に換算すると、現在の日本で生活する限りは、820年かからないと致死量には至らない。「なんでもない物質」と著者は、結論づけている。

2)自然界には、ダイオキシンも足元にも及ばない猛毒がいくらでもある。
  TCDDのヒトへの実験結果がないため、TCDDはサルの数値を代用して、破傷風(はしょうふう)菌の毒素、ボツリヌス菌の毒素、ブドウ球菌の毒素、フグ毒はヒトの数値と比較して、それぞれTCDDの2万5000倍、5000倍、500倍、5倍も毒性が高いとしている(表※3)。

LD50の比較 LD50(μg/kg体重)
ダイオキシン(2,3,7,8-TCDD) モルモット 0.6〜20
ミンク 5
ラット 10〜300
サル 50
ウサギ 100
マウス 100〜3000
ハムスター 1000〜5000
破傷風菌の毒素 ヒト 0.002
ポツリヌス菌の毒素 0.01
ブドウ球菌の毒素 0.1
フグ毒 10
サリン 200(最小値)
アフラトキシンB1(カビ) 300
青酸カリ 3000
                  表(※3) LD50の比較



「ダイオキシン
神話の終焉」
渡辺正
林俊郎
日本評論社

 しかし、すべてサルならサルの数値で比較しなかったのか、疑問が残る。いずれにしても、青酸カリの毒性は意外と低いことが判る。青酸カリは猛毒といわれているが、胃洗浄などで救命できる可能性は高いのだ。もちろん、早期の発見と対応が必要なことはいうまでもない。

3)イタリアのセベソでの事故では誰も死ななかった
  1976年7月にセペソ市で、トリクロロフェノール(農薬)の製造工場が爆発事故を起こし、不純物のTCDDが少なくとも300g(3kgとか130kgとかの推定値もある)が、わずか数平方キロの区域に一瞬でばらまかれ、ほぼ3万人の住民が被曝(ひばく)したと推定されている事故があった。ダイオキシンがヒトに起こす急性症状のうち、いちばんはっきりした症状は、塩素座瘡(ざそう)(別名クロルアクネ。短期間で全治する皮膚炎)であり、ダイオキシン混じりの農薬を浴びた住民3万人のうち150人ほどに塩素座瘡が出て(ほかの急性症状は報告なし)、とくに子どもでは顕著だった。幸い死者はひとりも出ていない。そもそもこれは「事故」であり、日常生活に結びつく危険性がある話ではないことを強調している。
 また、国法で中絶を禁じているイタリア政府は、政権を揺るがすほどの激論のすえ、妊娠3か月以内の妊婦には中絶を許した。犠牲になった胎児(たいじ)は公式発表で40人とも80人ともいうが、国外で中絶する人も後を絶たなかったという。要するに、事故では誰も死ななかったが、中絶という風評被害があったということだ。

4)アメリカ・タイムズビーチの事故
  1971年にはミズーリ州タイムズビーチで、有機塩素系除草剤をつくる工場から出た汚泥(おでい)を清掃業者が道路にまき、汚泥には不純物のダイオキシンが混じっていた。その周辺で昆虫や野ウサギが死に始め、馬も何頭か死んだという。住民のうち7人に中毒症状が現れたものの、セペソの事故と同様、死者はいなかった。

5)オランダ・デユファール市の事故
  1963年、フィリップス社の農薬工場で爆発事故が起きた。工場内にまき散らされた農薬には、不純物として200gを超すTCDDが含まれていた。現場を清掃した作業員50人のうち16人に塩素座瘡(やがて全治)が出たほか、以後、数か月のうちに4人が亡くなっている。唯一の死亡事故例としてあげている。「なんでもない物質」と結論づけたが、死亡事故があったことは認めている。

6)日本・カネミ油症事故
  1968年の秋から、北九州を中心とする一帯で「カネミ油症」事故が起きた。米ぬか油(ライスオイル)の製造プラント


で、熱媒体(ねつぱいたい)のPCB(ポリ塩素化ビフェニル)を循環させていたパイプに小さな穴が空き、PCBが食用の米ぬか油に混じってしまった。原因物質は何かをめぐって、話が二転三転したすえ、ようやく1987年、PCBが化学変化して生まれたポリ塩素化ジベンゾフランやコプラナーPCBなどの「ダイオキシン類」が原因らしいという結論になっている。
 この事故では、米ぬか油を食べた人たちが初期に「目ヤニの増加」「塩素座瘡」「皮膚の異変」「吐き気」などを発症し、まだ後遺症に悩んでいる。
 1968年からほぼ30年間に、認定患者1870人のうち300人が亡くなったという話だったが、調べてみると、1970年から90年までの21年間に、患者1815人(男性916、女性899)のうち200人(男性127、女性73)が亡くなっている。男性の死亡数127は全国平均107よりやや多いが、女性の死亡数73は全国平均82よりむしろ少ない。この事実を筆者は「異常なし」とみている。要するに、高齢になったから亡くなったのだと結論づけている。
 カネミ油症の権威・宮田秀明氏は、「油症患者の死亡率も通常の1.9倍で、死亡の原因も呼吸器系疾患が高い、つまり先に挙げたように免疫抑制(めんえきよくせい)によるものです」と述べているが、そんなデータはどこを探しても見つからないとのことだ。

7)塩ビ主犯説は、否定された
  ダイオキシン類の生成を抑えたいなら、ゴミを「きれいに」するのではなく、燃焼条件をくふうする。つまり、高温(八〇〇℃以上)のもと、酸素を十分に通じて完全燃焼に近づけ、廃ガスを急冷すればよいのであり、塩ビとの因果関係はない

8)日本の環境を「汚している」ダイオキシンの源はおもに過去の農薬によるものだ
  1990年代の初期、日本・ベトナムの共同研究で日本の水田とベトナム国土のダイオキシン濃度が調べられたが、ベトナムの場合、オレンジ剤がまかれた地区のダイオキシン濃度は、ほかの地区よりずっと高いのだが、さらに輪をかけて高いのが日本の水田であった。日本におけるダイオキシンは大部分は、「1960〜70年代の農薬由来だろう」と横浜国大の益永・中西グループの論文をもとに説明している。
 こうした事実から、焼却炉をどれほどいじっても「ダイオキシン汚染」対策にはならないとしている。要するに、ダイオキシンが減ったのは、焼却炉を改良したからではなく、農薬中のダイオキシンが減ったからだというのだ。

9)日本人のからだに入るダイオキシンの大半は、かつて環境に出た負の遺産だ
  ここ数十年、ダイオキシン摂取量の減少に歩調を合わせ


て体内量も減ってきているが、日本が焼却炉対策を始めたの
は1997年だから、こうしたトレンドと焼却炉は関係ない。
 また、焼却炉のそばに住む人と、焼却炉のない地区に住む人で、一日摂取量にも血中脂肪のダイオキシン濃度にも、差はほとんどない。

10)「煙の毒」はダイオキシンにあらず
  いま日本でがん死のトップを占める肺がんも、煙に入っている毒が引き起こす。がんの研究は「煙の毒の研究」だったといってよい。最強の発がん物質といわれるベンズ[a]ピレンも、ものの燃焼から生まれる。かたやダイオキシンは、遺伝子を傷つける性質はないため本物の発がん物質ではない。高温連続焼却炉は、ダイオキシンをほとんど出さなくても、有害なカドミウムや水銀などの重金属を気化させて大気に出す。ふつうの焼却で出る量ならダイオキシンの害はほぼゼロだが、重金属のほうは確実に害を及ぼす。  2001年9月1日には新宿の歌舞伎町でビル火災があり、犠牲者44名のほとんどが即死だった。ひと呼吸でたちまち命を奪ったのはダイオキシンではなく、一酸化炭素だった。
 こうした面に目をつぶり、「焼却炉を改善したら国民の命が守れる」という神話・幻想の上にできたのが、世界に類のないダイオキシン法だったとしている。ダイオキシンよりも危ない物質が、今でも排出されているとのことを強調している。

11)利権の構図の可能性
  焼却炉建造の巨額なお金は、競争原理のない指定業者の談合が横行し、天下りが常態化した業界を潤した。しかも、、炉の心臓部は欧米のノウハウだとほのめかす資料まである。とすれば、焼却炉建造費の一部(一部とはいえ巨額なお金)は、欧米に流れたはずだ。

12)「環境ホルモン」まで登場したが
  所沢の騒ぎに続き、横浜市立大学(当時)の井口泰泉(いぐちたいせん)氏が、NHKの科学番組で、ダイオキシンの影響から「環境ホルモン」という言葉を使った。こうした不用意な発言に対して、多くの方々が抗議の声をあげ、それに驚いたの
か井口氏は、あるシンポジウムで「火消し」発言に終始した。

13)アトピー誘発説も登場
 日本のダイオキシン汚染は世界一になり、「厚生省の全国実態調査によると、新生児のほぼ七%が胎内でダイオキシンを浴び、生まれながらのアトピー児になる」という話が流布


された。母体にたまったダイオキシンが胎盤(たいばん)からどんどん胎児に移り、免疫系を狂わせてアトピー性皮膚炎を起こすというのだ。そんな話を聞いた若い夫婦は、子どもをつくる気がなくなっても当然だろう。ダイオキシンとアトピー性皮膚炎の因果関係はない。


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実は危険なダイオキシン/「神話の終焉」の虚構を衝く
川名英之/緑風出版/20080115初版/\2,600+税/388頁

 さて、「実は危険なダイオキシン」であるが、この本はジャーナリストである川名英之氏の本だが、東京都公害局(現環境局)に勤務する藤原寿和氏が「はしがき」を書いている。前掲の「ダイオキシン 神話の終焉」や「環境問題のウソ/池田清彦著」「環境問題はなぜウソがまかり通るのか/武田邦彦著」に反論する形で書かれている。その趣旨を抜粋してみる。

1)焼却灰は野積みも多かった
  山梨県の山梨市が運営している「山梨市環境センター」は1985年の開業以来、ゴミ焼却によって発生したダイオキシンを含んだ焼却灰を敷地内に野積みしてきた。その量は1994年までに約1万トンに達し、小山のように積み上げられた焼却灰が降雨のたびに川に流入していた。他、例を複数あげている。対して、ドイツは、ゴミ焼却灰を放射性廃棄物並みに危険視し、早くから各種の有害廃棄物を鉱山の地下坑道奥にきちんと保管してきたという。

2)農薬由来のダイオキシンは、過去の問題だ
  農薬由来のダイオキシンとしては、水田除草剤のPCPと、CNPに不純物として含まれていたダイオキシン類があげられるが、未だに東京湾の底質に残り、魚介類に移行して人々の体に取り込まれたというのが、益永・中西教授グループの初期論文の要点であった。確かに水田除草剤のPCPやCNPは1960〜70年代にはダイオキシン汚染の”主犯”だったが、PCPは1970年代初め以降、CNPは1980年代半ば以降、ほとんど使われなくなり、新たな環境汚染はストップしている。
 一方、ゴミ焼却由来のダイオキシンの排出量は厚生省のダイオキシン排出規制の大幅な立ち遅れのため急増し続けた。日本のゴミ焼却炉からダイオキシンが排出されていることを初めて検出したほか、ダイオキシンやPCBなどによる海洋汚染



実は危険なダイオキシン
「神話の終焉」の虚構を衝く
川名英之
緑風出版

状況に関する多くの研究実績を持つ専門家の立川涼元高知大学学長は、これまでの調査研究の経験を基に、海底や湖底で泥をかぶって動かない農薬由来のダイオキシンに代わって、閉鎖性の海湾や湖沼などの水質中に活発に浮遊しているのはゴミ焼却炉から排出されたダイオキシンであり、これが魚介類に取り込まれ、その魚介類を通して人体を汚染していると「農薬汚染主犯説」をきっぱりと否定している。
 しかも、水田に除草剤として投入されたPCPとCNPを起源とするダイオキシンは土壌粒子と固く結合しているため、植物への吸収も無視できる状況にあるという。

3)焼却炉や塩ビに問題がないなどと決して言えない
  東京都環境科学研究所グループ九人による「都市ごみ焼却炉における塩化ビニルの排ガスへの影響に関する研究」(『東京都環境科学研究所年報』二〇〇三年)がある。この研究では、特別なダイオキシン発生抑制対策をしていないゴミ焼却炉のホッパー内投入ゴミの上に、切断した硬質の塩ビ廃棄物を散布した。
 塩ビ添加率を三通りにして焼却後に排ガス中のダイオキシン濃度を測定したところ、塩ビ添加率と発生したダイオキシン類濃度との間には次のような関係があった。
  塩ビ添加率(%)排ガス中のダイオキシン類濃度
                 (ng−TEQ/m3N)
     〔A焼却炉〕  0.57        8.2
              1.8         9.4
              3.9        13.0
     〔B焼却炉〕  0.65       11.0
              1.4         8.0
              4.2        14.0

 この焼却実験により、ほんの僅かな塩ビがゴミ焼却炉に混入するだけで、排出ガス中のダイオキシン類濃度が増大すること、および塩化ビニルの混入率を上げると、それに応じて排出ガス中のダイオキシン類の濃度も上昇することが明らかになった。このことから、プラスチックゴミの分別を徹底すれば、ゴミ焼却炉からのダイオキシン排出量が減ることがわかる。
  この研究報告書を私も確認したところ、B焼却炉はダイオキシン対策済みの焼却炉だった。引用に間違いがある。


 いずれにしても同報告書の結論は、塩ビとダイオキシンの因果関係は、あると結論づけている。
 また、埼玉県久喜宮代町では1993年10月、老朽化したゴミ焼却炉二号炉(1980年に建設、焼却能力75トン)の排出ガスを市議会議員の要求で測定したところ、厚生省による新設炉の目標値の190倍に当たる1立方メートル当たり最高95ナノグラムという数値が出た。翌1994年、炉を改修した後、再び測定したが、改善は見られなかったため、同組合が同年10月からプラスチックゴミを生ゴミなどと区別する分別収集を始めた。その結果、1995年3月の3回目の測定ではダイオキシン濃度がそれまでの1/10に激減し、分別の効果が実証されたなどと複数の例をあげている。

4)アトピー性皮膚炎とダイオキシン類との因果関係は現段階では究明されていない
  埼玉県に事務局を持つNPO(民間非常組織)「ダイオキシン問題を考える会」が1997年に出版した本の中の「母乳保育はどアトピー性皮膚炎の発症率が高い」という主張の根拠とした「アトピー性皮膚炎の発症率のグラフ」でのデータの使い方の誤りを認めた上で、グラフと記述内容に誤りがあったからといって、ダイオキシンとアトピー性皮膚炎との因果関係まで否定されたわけではないとしている。ただ、宮田秀明教授が「アトピー性皮膚炎が出生時に発症していることは周知の事実」と言ったと付け加えているが、根拠に乏しいことを書いても意味がないであろう。宮田氏のコメントは危ないが、因果関係は不明だということだけだろう。

5)ダイオキシンを摂取させた実験では子宮内膜症の発生頻度と重篤度との間に量・反応関係が認められた
  これは、前掲のアトピー性皮膚炎の説明に出された、アカゲザルでの例だ。アトピー性皮膚炎への影響を説明するには、説得力を余り感じなかったが、米国南フロリダ大学のシェリー・E・リール博士らが低濃度の2、3、7、8−四塩化ダイオキシン(1,3,7,8−TCDD)をアカゲザルに長期間投与する動物実験で明らかにし、1993年に論文にまとめて発表したものだ。
 年齢6〜10歳のアカゲザルのメス24匹を8匹ずつ3つのグ


ループに分け、グループ別に25ピコグラム(ppt)、5ピコグラム、0ピコグラムの2、3、7、8−四塩化ダイオキシンを含む餌を5年間にわたって食べさせ、アカゲザルの状況を投与期間終了後も長く観察した。すると、25ピコグラムを投与したグループのアカゲザルが投与終了の7年後、9年後、10年後にそれぞれ1匹ずつ死んだ。解剖の結果、これら3匹のサルは全て重い子宮内膜症を患っていた。
 研究グループは3匹目が死んだあと、生存している17匹のアカゲザルが子宮内膜症を患っているかどうかを腹腔鏡検査で調べたところ、5ピコグラム投与のグループでは71パーセント、25ピコグラム投与グループでは86パーセントが羅患していたというものだ。
 この実験は、厚生労働省が実験確認調査のために、高額な研究費を使ったとか、実験を認めなかったとかの話題をネット上でみたが、ダイオキシンには危険性があることを否定するものではない。

6)ダイオキシン類には、ポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)とコプラナーPCBも含まれる
  ダイオキシンには75種類の異性体がある。75異性体のうち、ダイオキシンの毒性の強さがはっきり調べ上げられているのは2、3、7、8−四塩化ダイオキシンなど7種類だけである。毒性が最も強いのが、2、3、7、8−四塩化ダイオキシンで、いわばダイオキシンの代表格。ダイオキシンの毒性の程度は2、3、7、8−四塩化ダイオキシンに換算して表わすことが多い。この換算をした場合にはTEQ(毒性等価量のこと)と表記する。
 ダイオキシン類というのは、このダイオキシンにポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)とコプラナーPCBの二つを加えたものの総称である。ポリ塩化ジベンゾフランは135種類の異性体を持ち、略称はPCDF。カネミ油症の発症にはポリ塩化ジベンゾフランが大きく関わっている。コプラナーPCBはPCBの一種だが、ダイオキシンと類似した構造を持ち、生体への作用もダイオキシンやポリ塩化ジベンゾフランに類似している、このためダイオキシン類に加えられた。生体蓄積性はダイオキシンより高いものが多い。
 3種類のダイオキシン類の毒性には、それぞれ違いがあるが、それらの毒性は不妊、流産、子宮内膜症、精子をつくる機能の低下などの生殖障害、肝臓障害(たんぱく質合成や脂肪代謝機能の低下)、造血機能と血液凝固因子合成機能の低下などの原因になるとしている。


7)ダイオキシンの慢性毒性こそが人体に危険
 ダイオキシンで問題になっているのは急性毒性ではなく、慢性毒性である。人がダイオキシンによって急性致死をしていないのは、実際に急性毒性を引き起こすだけの大きな曝露事故がないためである。人がダイオキシンを体内に取り込んでも、直ちに死なないからという理由で、「ダイオキシンは猛毒物質ではない」などというのは大きな間違いである。 2、3、7、8−四塩化ダイオキシンに代表されるダイオキシン類の慢性毒性、生殖毒性は非常に強い。ダイオキシンの持つ慢性毒性こそが人体にとって危険なのだ。

8)ダイオキシンには、奇形児出産の危険性がある
  1973年に米国環境保護庁(EPA)のバーンバウム氏らは、まず2、4、5−Tが奇形を引き起こすかどうかの動物実験を行ない、その結果、2、4、5−Tに含まれている2、3、7、8−四塩化ダイオキシンが奇形の発生に大きく関係していることを究明した。ラットやマウスの妊娠中に2、3、7、8−四塩化ダイオキシンや、これを含む2、4、5−Tを投与したところ、胎児の腎臓に奇形が生じたのである。

9)「セペソでは一人も死ななかった」というのは嘘だ
  宮田秀明著『よくわかるダイオキシン汚染』には、事故による死者は未成年者だけで23人出たと書かれている。未成年の死因の中で特に多いのは、胸腺腫瘍と骨髄性白血病。胸腺はダイオキシンが蓄積しやすいところと言われ、胸腺にできた腫瘍の死亡率はダイオキシンに汚染されていない地域(対照地域)の4.8倍、骨髄性白血病の死亡率は2.3倍高いという。
 成人の死亡率を見ると、20歳から74歳までの成人を対象にして行なわれた調査の結果では、事故発生後の数年間は男性の場合、慢性貧血性疾患の死亡率が対照地域の3.2倍、女性では心疾患の死亡率が1.9倍に増えた。リンパ網内性肉腫は5.3倍と特に高く、肝臓ガンになることが多いとされている胆管腫瘍の死亡率は2.1倍、造血組織の腫瘍も同じく2.1倍であった。
 動物の被害も大きかった。セペソでは爆発事故発生の7月9日頃からダイオキシン汚染の著しい地域で牛や豚などの家畜が鼻から血を出すなどして次々に死に、付近一帯の樹木が枯死した。事故の3カ月後の10月中頃までにウサギ、ニワトリ、アヒルなどの小動物の死亡数は3281匹。牛、馬、豚、羊は合わせて12頭死んだ。


 餌に汚染のひどい草を与えていたA地区のウサギは肝臓障害や肺水腫などを起こして全部死亡した。このような動物の汚染が人の健康に及ぼす影響を考えた当局は牛、馬、豚、羊、合わせて670頭、小動物8万359匹を薬殺処分した。

10)藤森照信氏への批判
  2003年3月23日の「毎日新聞」では、建築史家の藤森照信が「ことダイオキシンに関するかぎり、焼却炉や塩素系プラスチックを悪とみるのは見当違いの極致だった。将来に禍根を残さないためにも、『ダイオキシン法』の見直し(望むらくは廃止)を決断すべきだろう」といった。さらに、「ダイオキシンに関する限り、焼却炉や塩素系プラスチックを悪とみるのは見当違いの極致」と決め付け、『ダイオキシン神話の終焉』を高く評価するとともに、「ダイオキシン類対策特別措置法」の廃止を主張した。素人がよく調べないで、何を書くのかといった反論だ。まあ、説明はいらないだろう。

11)武田邦彦氏への批判
  武田邦彦のダイオキシン論の中で驚くべき記述は「急性毒性、慢性毒性、発ガン性、蓄積性など全ての面で問題がない。ダイオキシンが猛毒であるという科学的な根拠はない。『ダイオキシンは猛毒だ』というのは世紀の大誤報だ」と、これまでの長年のダイオキシン研究の成果を否定するかのようなことを断定的に書いている。そしてインドネシアにわたる熱帯地方の一部には、昔から遺伝的に体がくっついた状態で子供が生まれる傾向が見られることだ。ベトちゃんドクちゃんには可愛そうだが、そういう一般的な傾向の中で生まれてきた子供だという可能性は排除できない」などと述べているが、戦争終結(1971年)から36年後の今なおベトナム戦争に従軍した兵士の孫が奇形児として生まれている事実を知るべきである。など、複数の反論をあげている。

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 素人である当方としても、ダイオキシンの毒性の可否をここで断定するつもりもない。しかし、判ってきたことは、ダイオキシンには急性毒性はないが、遅効性の毒性があることはどうも確かなようである。武田邦彦が「全ての面で問題がない」と断定しているのは、無責任きまわりないようである。「ダイオキシン 神話の終焉」では、「何でもない物質」とは書いてはいるが、良く読むと、実際には毒性を否定していない。タイトルに出した以上、うけを狙っているだけにすぎないのだろう。

 要は、世の中には、他にもたくさんの有害物質があり、ダイオキシン法で莫大な税金を使うことへの警鐘を鳴らしているに


過ぎない。受け狙いに乗ってしまったのが、藤森照信なのだろう。武田邦彦は、最近は、放射能クライシスを煽っているが、今後しばらくは彼のことは、論評する気も起きない。

「実は危険なダイオキシン」のイタリアのセベソ事件の詳細も不明瞭である。宮田秀明の著作の引用だけであり、反論する側の人達は、自分で調べたら「大した被害はなかった」としている。どちらを信用すれば良いのか? 詳細な調査が知りたいものである。また、事故の影響から、中絶が行われた事実は事実だが、問題は別なところにある。しかし、小動物への影響は多大なものだったのは事実のようだ。武田邦彦が「軽い皮膚炎だけ」と書くのも無責任だろう。「ダイオキシン 神話の終焉」の、これは「事故」なのだから、ダイオキシンの問題と結びつけるには無理があるとの論拠は、「原発事故」を「放射能の問題」に結びつけるなというに等しい。事故だろうが、何だろうが、人が起こすことに代わりはない。自然災害でもないだろう。

 どうも、「ダイオキシン 神話の終焉」は、ダイオキシン無害説を謳いあげようとしてはいるが、読んだ限りは無害説には説得力を感じなかった。一方、「実は危険なダイオキシン」は、こちらが後から出た本だけに、反論に一部は成功しているが、反証根拠の一部は、他者の本の引用だけというお粗末なものが見受けられる。しかし、塩ビに問題があるとの指摘などは、実証に基づいており、渡辺・林氏には反論があるならば、根拠をあげてもらいたいものである。

 海外のメーカーの謀略説もどきも出てきたが、日本の焼却炉メーカーとの関係を調べてみたいものである。環境省発表のデータを見ると、日本におけるダイオキシン発生量は激減している。とはいえ、その費用対効果の判定は、まことに難しい。

 環境省では、POPs(残留性有機汚染物質)として、ダイオキシン類やDDTの他、アルドリン、ヘキサクロロベンゼン、エンドリン、ヘプタクロル、ディルドリン、クロルデン、ポリ塩化ビフェニル(PCB)、トキサフェン、マイレックスの12物質(POPs条約では、ダイオキシン類については、PCDDs、PCDFsの2物質として数えている)を指定している。これは、2004年に50カ国目のフランスが締結して発効された国際条約を基にしている。条約では、意図せず生成してしまうダイオキシン類、ヘキサクロロベンゼン、PCBはできる限り廃絶するとしている。要するに、ダイオキシン類の廃絶は、国際的な動きなのだ。「ダイオキシン無害説」を唱えるならば、「ダイオキシン 神話の終焉」程度の内容では、無責任といわざるを得ないだろう。



POPs
環境省より
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030「親鸞」/丹羽文雄(2011年10月24日)

「親鸞」/丹羽文雄//新潮社/新潮文庫
(一)叡山の巻/19810925初版/\400/412頁
(二)法難の巻/19810925初版/\480/533頁
(三)越後・東国の巻/19811025初版/\520/549頁
(四)善鸞の巻/19811025初版/\480/499頁

 このところ、買ってきた新刊本の不作が多く、タイトルに引かれて買うと、ろくなものがないなと思っていた矢先、たまたま入った街の普通の古本屋さんでこれを見つけた。ビニルで包まれた四冊の文庫本だった。価格は、四冊で950円。定価の約半値だが、1981年初版の絶版だから、新版であれば、現在の定価は倍近くにはなるのだろう。丹羽文雄作というのも興味が沸いた。若き日の親鸞を五木寛之が最近出版しているが、量的にはこちらが遙かに凌駕している。私自身は、仏教信者でもなく、実家の宗派は曹洞宗である。浄土真宗には基本的には縁もゆかりもないのだが、2009年の日本一周の時には、幾度となく「歎異抄」を紐解いた。何故かは判らないが、親鸞が気になっていたのである。

 親鸞は藤原氏に連なる家系に生まれたが、幼くして両親を失い、9歳で出家し比叡山延暦寺に登る。そこで若き親鸞は、ひたすら修行に励むのだが、僧兵が悪行をつくし、時の政治権力に関わろうとする寺や僧侶の現実を見るにつけ、山を下りることを決心する。親鸞は29歳になっていた。(丹羽文雄の小説では、比叡山にいたのは16年間となっている)。ちなみに最近、親鸞は源頼朝の甥との説が出ているが、梅原猛が注目して話題となった。

 山を下りた親鸞は、京都の六角堂で100日間の参籠(さんろう)を行い、続いて、京都の吉水にいた専修念仏の「法然」の思想に感銘を受け、弟子入りをする。しかし、既存の仏教界から異端視されていた法然は、後鳥羽上皇の女房の出家をきっかけとして、上皇の怒りを買い、還俗させられて土佐に流罪となる。後鳥羽上皇は、女房が出家したのは、法然の高弟が女房と密通したと疑ったからに他ならない。と同時に、古参ではなかったが、妻帯していた親鸞も還俗させられ、越後へ流罪となる。
 越後に下った親鸞は、信仰心を挫(くじ)くことなく布教活動に励む。事実、法然の流罪と同時に各地に流罪となった高弟達は、各地で布教活動に勤しむ。結果的に、専修念仏の浄土宗の布教が全国的な展開をみせる。法然も、流罪先は土佐だったはずだが、実際には讃岐までしか行っていない。権力が流罪先を決めても、人を支える思想とネットワークがあったことになる。恐らくは、源平の争いに疲弊した地方には、朝廷の意向を無視する動きがあったのだろう。しかも、源氏を統領とする武家権力が、日本全域に次第に浸食していった時代でもある。その数年後、法然とともに、親鸞の流罪は解かれるが、京都には帰らず、越後から関東への布教活動を続け、信者も膨大な数になっていく。

 再び京都へ帰るとき、親鸞は60歳を過ぎていた。その後、関東での宗派内での争いを治めるため、派遣した長男である善鸞(ぜんらん)を義絶した話は余りにも有名。また、弟子の唯円(ゆいえん)が書いたとされる「歎異抄」の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや/悪人正機(あくにんしょうき)説」は、「他力本願」とともに広く知られている。また、親鸞は妻帯肉食をしたことも有名である。

 東大寺の大仏殿の勧進は、当初、法然におりたが、法然は断っている。勧進を受けたのは、法然の弟子だった重源だった。世は、源平の争いが終わり、鎌倉幕府が開かれたが、実権は執権北条氏に移っていく。北条氏が平氏の流れを汲んでいるというのも皮肉だ。宮中では、妖怪/後白河法皇から、後鳥羽上皇に実権が移り、寺院では僧兵が跋扈(ばっこ)し、俗悪化した高野聖(こうやのひじり)も横行していた。

 親鸞は、数えで90歳まで生きた。その教えはその後、本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)・興正(こうしょう)派の三派を初めとして、高田門徒・鹿島門徒など多岐の流れを派生させて、巨大教団となり現在も続いている。中興の祖ともいえる蓮如は八世ということだが、この人の歴史にも壮大なものがある。



「親鸞(一)」
丹羽文雄
新潮文庫
 ざっとこのような歴史認識はあった。しかし、この丹羽文雄作「親鸞」には、その認識を遙かに超えるドラマと教義が詰まっていた。決して、ドラマチックな展開をみせる物語ではないが、久しぶりに小説に引き込まれてしまった。このレベルを「文学性」とされたなら、それに叶う日本文学はどれだけあるのだろう。ちなみに1970年の仏教伝道文化賞を受けているというから、氏が60歳を超えてからの作品だ。調べて知ったのが、氏は、三重県四日市市にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で住職の長男として生まれている。母は、丹羽文雄が4歳の時に、旅役者の後を追って出奔したというのも悲しい。しかも、その原因を作ったのが、僧籍にある父の義母との不倫だった。

 ここでやっと本論に入るが、仏教はインドで始まった。それが中国にはいると、理論的究明の点ではほとんどその極に達し、華厳、天台等の諸宗が生れ、三論唯識のような哲学的仏教が発達した。それが日本にはいると、学問的というより信仰の方面に発達した。中国においては、宗派として独立ができなかった寓宗ともいえる密教や浄土教が、日本に入ると急速に発展したのである。最澄や空海が伝えた、現世利益を重視する密教は、平安朝の諸宗を風靡し、霊山を神聖視する日本の山岳信仰とも結びついた。法然も親鸞も中国には行っていない。日本独自に深化した密教を舞台に、法然も親鸞も信仰を深めるのである。ちなみに浄土教は、来世での阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを説いている。

 人間にとって、一番恐ろしいことは死であった。そのため、仏教の悟りは、生死を解脱(げだつ)することにある。仏教では、死とはいわない。往生するという。それは、生が展(ひら)けるという解釈だった。永遠の世界へ誕生するという考え方だ。六角堂に参籠した親鸞は、「生滅を滅し巳(をは)りて、寂滅を楽しみと為す」ことを理屈では理解しているが、悟りを開くまでには至らない。救世観音の化身である聖徳太子の夢告を受けるべく、日夜、研鑽する。

 親鸞は妻帯をしたが、丹羽文雄は六角堂での参籠の同僚だった居中(ごちゅう)にこう語らせている。
「わしは、生涯女人を近付けず、悟りすましたような顔をしていた法師を知っている。三十をすぎたころは、もうかさかさの人間になっていた。何のために生きているのやら、わしは疑った
ものだ。何のことはない、その法師の修行は、女犯(にょぼん)の罪からのがれることだけだった。だから、そいつの頑の中にはいつも女人があった。それで一生をつかいはたした。馬鹿馬鹿しいことだ。ひとを救うためにその法師はえらい苦労をしたつもりだったろう。そんな修行をするくらいなら、むしろ女といっしょになって、女のために苦労した方がはるかにためになったろう」

 戦乱の世、敗軍の将の娘は、白拍子(しらびょうし)となり、京都や鎌倉で名を売るようになる。権力を持った男の子息は、母が白拍子であっても要職につくこともままあった。また、人身売買も行われていた。平安末期から鎌倉期にかけて、遊女、夜発(やはち)、浮かれ女(め)、桂女(かつらめ)、君、傀儡(くぐつ)、販婦(ひさめ)などと呼ばれる娼婦が巷に溢れた。平安末期には、良民と賤民の区別が曖昧になると同時に、従者(ずさ)、所従(しょじゅう)、譜代、被官、下人(げにん)、雑人などと呼ばれる「良民」の他、「賤民」も陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私(し)奴稗などと細分化されるようになっていった。それに加えて、鎌倉期に入ると、公卿社会から武家社会への変動にしたがって、神社や社寺の所領がいちじるしく減少し、また荘園制度の崩壊から、社会の枠からはみ出た敗残者がおびただしい数になり、賤民が激増するようになった。その背景には、仏教戒律の思想の影響があったのは、紛れもない事実であった。非人といわれる総称が生まれたのもこのころである。そのような時代に、職業の区別なく、貴賤の区別なく、専修念仏で救われるとする法然の教えに人々はすがるようになっていく。

 法然に弟子入りした親鸞(当時は、範宴(はんねん)から綽空(しゃくくう)と名のっている)は、常に謙虚な姿勢でいたが、宗門のなかで次第に頭角を現していく。弟子達の間では、「多念義」か「一念義」かについては、しばしば議論がたたかわされた。往生は一念の信心、あるいは一声の称名においてすでに決定するのであるから、ひとたび往生の因がさだまれば、その後は念仏を唱える必要がないというのが極端な「一念義」であった。一方、往生は臨終のきわまで決定しないのだから、一生涯をかけて自己の力のかぎりをつくして称名にはげまねばならないと主張するのが「多念義」であった。親鸞は、「一念義」にシンパシーを感じていた。


「親鸞(二)」
丹羽文雄
新潮文庫
 小説では、親鸞が越後に流されたとき、妻の承子(しょうし)が死亡する。長男(後の善鸞)は、妻の兄夫婦に預ける。そして、越後配流先で二人目の妻となる筑前(後の恵信尼)と再会する。越後では、愚禿親鸞を名のり、約6年を過ごす。途中、法然とともに前後して流罪は解かれるが、親鸞は京都へは帰らなかった。法然の訃報も親鸞の元に届く。

 親鸞の布教は、厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)という未知の世界へ持って行こうとしなかった。厭離穢土とは、穢れた現世を離れ阿弥陀如来の極楽世界を切望することであり、欣求浄土とは、極楽浄土に往生することを願い求めること。いずれも、源信(恵心僧都)が「往生要集」の中で記した言葉だ。源信は、「往生要集」の中で、極楽と共に、おぞましい八種類の地獄を描写し、末法の世を救うのは浄土教より他にはないとした。しかし親鸞は、日本に古くからある神々、鬼神とか魔神というようなものを信じていなかった。鹿島明神が白髪の翁となって、稲田にて親鸞の弟子となって、鹿島七つ井の一つの神原の井を献じた逸話なども、親鸞にとっては迷惑な話だと著者は見ている。

 念仏には、他力念仏自力念仏の二種類がある。「南無阿弥陀仏」の名号を唱えるとき、唱える心の如何(いかん)によって「他力念仏」にもなり、「自力念仏」にもなるという。他力念仏とは、弥陀の願力を信じ、自身の往生を仏の願力に託して仏名を唱えることである。その念仏は自分の往生の因にも縁にもならないものであり、純粋な他力心に他ならない。しかし、親鸞は、そのような解釈にあきたりなさを覚えるようになっていた。

 禅は中国仏教の独自な産物であって、中国の民族の資質と天性によってはじめて生れた仏教の新しい型であった。と同様に、法然の浄土宗は日本でなければ生れない新しい仏教であった。もちろん中国にも印度にも、その原型を見出すことは出来ない。また、禅宗では、「悪人正機説」をみとめることは出来なかった。悪に対する見解がそもそも違っていた。禅宗でも、仏の慈悲に救われることは説くが、極悪人に対しては救いの手はのびないのである。

 親鸞は、常陸の稲田(現在の茨城県笠間市)の稲田九郎の願いを聞き入れて、家族とともに関東への移住を決心する。
途中、常陸の下妻(現在の茨城県下妻市)滞在が3年にも及ぶが、稲田に落ちついたとき、親鸞は45歳になっていた。その後、稲田での布教活動は、20年に及ぶことになる。親鸞は、生涯、弟子を取らないと宣言していた。仏(ぶつ)の前では、皆、平等という考え方であった。親鸞の元には、「自称」弟子となった僧侶達が増えていく。法然の本尊は、三尺高さの定朝作の弥陀の立像だった。親鸞は、あえて阿弥陀像の排斥はしていなかったが、みずから用いたのが、「名号本尊」であった。現在も、親鸞真蹟と伝わる「帰命尽十方無碍(むげ)光如来」、「南無不可思議光仏」、「南無阿弥陀仏」などがある。

 親鸞の教えには、「無常」という言葉が少なかった。仏教は、諸行無常を智慧(ちえ)にまで自覚させようとするものであり、諸行無常であることが思索の舞台であったが、親鸞にはその舞台にとどまっているわけにはいかなかった。無常であることを何万遍くりかえしたところで、そこからは何ものも生れはしないのだ。当時の代表的な文学である「平家物語」や鴨長明の「方丈記」にしても、吉田兼好の「徒然草」にしても、人生の傍観者ともいえる立場だった。しかも、無常思想は出世間的な思想と結びつきやすかったともいえる。しかし、親鸞は出家仏教には満足していなかった。親鸞の考える仏教は、あくまで在家仏教にあった。

 往生とは、この娑婆から異なる世界に生まれ変わることではなく、この娑婆そのものの中に生きながら、真理の道を踏み外さない生活、即ち、すべての苦しみから解放された仏(ぶつ)の生活をすることであった。仏教伝来以来、日本ではそれが特権階級の独占にされてきた。日本の仏教は、支配階級の現世利益に仕えるものとなっていた。それがして、寺院堂塔の建立、写経などが重視された。悟りの道などは、顧みられなかったのである。しかも、武士階級が起こり、仏教は、現世嫌悪、欣求浄土を願う観念的な救いの道に変わっていた。そのような仏教の権威の中で、親鸞は教文の解釈も強引に変え、読み方も変える布教を行った。親鸞の教えは、関東の「」の意識を実践する農民にとっては、判りやすく、入り易いものであった。稲田を中心とする20年近い布教によって、おびただしい数の信者が増えていった。しかし、後に親鸞が京都へ帰った後に、多数の分派行動が生まれていく。


「親鸞(三)」
丹羽文雄
新潮文庫
 法然は、1133年の生まれ。親鸞は1173年に生まれている。一方、曹洞宗を開いた道元が生まれたのは、鎌倉幕府が成立(1192年)した後、1200年である。親鸞が叡山を降りて新しい道に入った1年前である。道元の父は、平氏、源氏、後白河法皇、後鳥羽上皇と、鉄面皮のごとく政権を渡り歩いた源通親(みちちか)である(異説もある)。政権が代わる度に、妻を捨てているのも凄まじい。皇室にも縁がある。しかし、道元が3歳の時、その父は亡くなっている。道元は、中国に渡り、当時勢力のあった臨済宗大慧派に対して、きびしい批判を向けていた如浄に学ぶ。如浄は禅の世俗化をいましめた異色な存在で、曹洞宗(そうとうしゅう)の系統を伝えていた。来る日も来る日も、朝三時から夜十一時まで、ぶっ通しの坐禅修行で、道元は身心脱落(しんしんだつらく)して悟りを得る。道元、26歳であった。そのとき親鸞は、関東に居る。

 その少し前、1221年、承久の乱が起こる。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して、倒幕の兵を挙げた。執権北条泰時の時である。その2年前には、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されている。北条政子が尼将軍として、健在な時だった。乱の結果は、鎌倉方の圧勝に終わる。後鳥羽上皇は隠岐の島、順徳上皇は佐渡島に島流しとなった。土御門上皇は自らすすんで、土佐に流され、後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉(れいぜい)宮も、但馬(たじま)、備前に流された。在位わずか七十余日の天皇は廃位となり、後鳥羽上皇の兄行助法親王の子が天皇の位についた。後堀河天皇である。後鳥羽上皇は、「新古今和歌集」の実質的な選者だったともいわれている。藤原定家は補助にすぎないという見方だ。19年間の配流後、1239年に隠岐で亡くなっている。その間、「隠岐本新古今集」などを選定している。安徳天皇がわずか4歳で、壇ノ浦に沈んだ後を継いだ天皇であった。

 道元は、1228年日本に戻り、京都東山の建仁寺において布教に努めるが、叡山の迫害を受ける。道元は念仏者のあり方を追求しようとせず、軽蔑(けいべつ)し、自分のうちにたてこもり、知識の開発につとめたという。それがおのれを師とす
る意識を強め、人との交わりを忌避して、ついに出家至上主義にたてこもる結果になったと著者は見る。非僧非俗主義をとる親鸞とは、あまりにも対比的であった。それは、宋へ渡ったという選民意識もあっただろう。

 今ひとつ真相が小説でも、はっきりしないのだが、親鸞は家族とともに念仏迫害を避けるために京へ、家族と共に戻る。親鸞、63歳であった。親鸞と道元は、一時期同じ京都に住む。しかし親鸞は、京都では目立った布教はせず、ひたすら著述の日々を送る。道元は、積極的な活動をしていたが、道元が意識していた念仏宗の代表者は、故人であった法然だった。二人は、相まみえることはなかった。

 親鸞が京都で会ったのは、越後に配流されるときに、京都に置いてきた長男の善鸞だった。善鸞は、29歳になっていた。西大寺の堂僧であったが、妻帯して子供(後の如信)もいた。親鸞は、善鸞を家族と共に身近に置き、自己の信条を善鸞に伝えるべく努力する。しかし善鸞は、父の教えを白紙となって受け入れるには、29年間の様々な体験が邪魔になっていた。

 関東からは、弟子からの手紙がひっきりなしに届く。親鸞は、書簡によって教えるという、新しい道を見つけたのであった。親鸞の返書を貰うことは、関東の信者にとっても、箔が付くというものである。関東からの手紙には、「喜捨」が付けられていた。それが親鸞の生活を支えた。親鸞は、関東に返書を送り返す前に、必ず善鸞に見せた。それが、14〜15年もの間に渡って続くが、次第に、親鸞は関東の弟子との間に不安を感じるようになっていく。いつか、善鸞を関東に自分の名代として、送ることになるかも知れないと思い始めていた。そして、善鸞が関東に行くことになったとき、善鸞は47歳になっていた。その時、親鸞81歳。建長5(1253)年の年である。善鸞が関東に下向したときは、親鸞が関東を離れて20年近くの年月を経ていた。関東においては、親鸞の本来の姿が失われようとしていた。それに親鸞は気がつかない。


「親鸞(四)」
丹羽文雄
新潮文庫
 建長5年は、道元が亡くなった年である。53歳であった。また、日蓮が朝日に向って、はじめて南無妙法蓮華経を唱えたのも、この建長5年4月28日であった。そして、宋から来た蘭渓道驕iらんけいどうりゅう)を導師として、北条時頼が鎌倉に建長寺(臨済宗)を建立した年でもある。禅宗が、武士階級と結んで、国家主義の要素を現していく時代でもあった。武士が実戦にのぞみ、生死の境を切り抜け、経験的に悟り得た気風は、儒教とともに、禅宗の教風と一致していた。一方、そのころの朝廷にあっては、平安時代と同じように祈祷が主流であった。平安朝に伝教(最澄)、弘法(空海)によって開かれた天台(台密)、真言(東密)も、日本においては密教の祈祷を特色としていた。本来の密教にある哲学的傾向は、発達をしなかったのである。

 眼を西方に転じると、モンゴル帝国は1206年に設立されている。1225年までには、チンギス・ハーンはハンガリーまで侵出する。しかし、チンギス・ハーンにとっては、ヨーロッパは魅力がある場所ではなかった。彼は、西に背を向け、東に大きく切り返す。1232年には、金朝が亡び、日本があれほど影響を受けた宋もモンゴル帝国により1279年に亡ぼされている(杭州が占領された1276年という見方もある)。モンゴル帝国自体もそのころ最大版図を形成するが、世代は代わり、内部分裂の兆しを示していた頃でもある。モンゴル(蒙古)が日本に襲来したのは、1274年と1281年。さらに西に転じると、マルコポーロが1254年に生まれている。西洋が大航海時代を迎える約200年前のことである。

 親鸞は、「馬鹿になって他力の本願を信じ、ただ念仏をとなえよ」と法然上人に教えられた。しかし、自力を捨てよと言われても捨てきれず、馬鹿になれと言われてもなりきれず、他力を信じよと言われても信じ切れなかった。自分は、地獄に落ちるほかないとも考えていた。地獄は、彼にとって一定の住みかなのだとも考えていた。親鸞のいう絶望の深さが善鸞には理解できなかった。親鸞は、信じられたから念仏しているのではなく、信じられようと信じられまいと、他力にまかせるほかに地獄から逃れる道が残されていなかったのである。親鸞は、その深い「自覚」の中で人生を送っていた。しかし、善鸞にはそれが単なる「知識」という方法で伝わるという、不幸な結果になった。善鸞は、20年近くも父親鸞のそばにいたが、如来の本
願を聞きながら、念仏一つだけということを、心からは納得していなかった。

 法然は、「悪人なをもて往生す、いはんや善人をや」といったが、
 親鸞は、「善人なをもて往生す、いはんや悪人をや」といったという。その違いは、両者の「自覚」の相違ではなかったろうかと著者はいう。
 親鸞の「善人なをもて・・・」は、そのまま歎異抄に出ているので問題はないが、法然の「悪人なをもて・・・」は、丹羽文雄の意訳であろう。孫引きになるが、「歎異抄講話/暁鳥敏/講談社学術文庫」をみると、法然の法語集である「和語灯録」には、
 「善人なほ生まれ難し、いわんや悪人をや」とか、
 「罪人なほ生る、何(いか)に況(いはん)や善人をや」と出てくるという。大意は、丹羽文雄に近いとの解釈のようだ。しかし、最近の研究を見ると。「善人なをもて・・・」は、親鸞が法然から聞かされていたと見る考えが多いようである。

 善鸞が関東に行ったのは、父の名代としてだったが、関東の教団は一枚岩ではなかった。いずれも親鸞を背景としてはいたが、それぞれの教団が20年の間に、横の連絡もなく、強固にまとまっていた。いまさら善鸞に動き回られても迷惑なだけであった。親鸞の長男であろうと、名代であろうと、親鸞の教えに対しては平等であるという態度であった。

 関東において、自己の存在を認めさせようとした善鸞は、父親鸞から浄土真宗の「秘事」を伝えて貰っていると言い出す。東国の直弟子たちからは、「異安心」といわれている善鸞の教説こそが、正しく親鸞の教えを守っているものであり、直弟子たちのは「本願ぼこり」の教説であると決めつけた。そして、幕府へ関東の教団を訴えるという挙に出る。その中には、親鸞が不心得な関東の念仏者を損ぜよと称した、とも書かれていた。まだその判決は下りていないにかかわらず、まるでその判決が下りたも同様の弾圧が行われ始めた。そのことを知った親鸞は、善鸞を「義絶」することになる。関東にある多数の教団は死んだように鳴りをひそめていた。道場も閉められ、裁判の結果がどうなるか、誰もが壊滅を予想せざるを得ない状況に追い込まれていた。

「親鸞(上)」
五木寛之
講談社
 そのころ、京都の親鸞のところに、唯円に引率された東国の念仏者たち一行七人が訪ねてくる。善鸞がいう「秘伝」を、「深意」を聞きに来たのである。唯円は、「歎異抄」の作者とされているが、親鸞は彼らに対して冷たく言い放つ。訪ねてきた者の中には、高齢者もいたにも関わらずである。現代と違い、身命を顧みず、親鸞に藁にもすがる思いで訪ねてきた人達に、親鸞は、「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をも知たるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらば、大きなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学匠たちおはくおはせられて候なれば、かの人びとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり」と言い放った。自分は、念仏より他には知らない、どうしても聞きたいならば、南都(興福寺)北嶺(比叡山)の学生(がくしょう)のところに行けと言ったのである。

 しかし訴えの結果は、意外なものとなった。善鸞が敗訴となったのである。鎌倉幕府は、公式に、念仏禁止の非を認めた。

 親鸞は、己を語らない人であった。著作は幾多もあるのだが、そこに親鸞の姿は隠れてしまっている。親鸞が越後に流され、関東に行き、京都に戻るのは、現在、歴史的事実とされているが、かつては、親鸞の存在そのものが疑われた時期もあった。惠信尼から末娘の覚信尼への手紙が大正時代に発見されてからは、存在を否定する説はなくなった。しかし、小説に描かれている親鸞の行動や人間模様は、ほとんど著者の創作である。それが小説なのだから当たり前なのだが、親鸞が成長し、悩み抜く姿は、史実と見まごうばかりである。筋書きよりも、出てくる教義が、余りにも深く、そして悲しい。そこに丹羽文雄の人生が反映されているのだろう。

 「五木寛之の親鸞」は、若き日の親鸞を描いているが、まるで映画でも見ているようなエピソードが続く。読みものとしては、まことに面白い。氏も2004年に、仏教伝道文化賞を受賞している。悪人正機説を大きなテーマとして描いていると思われるが、美しい顔をした男たちが極悪非道を行う。悪人といわれる男たちが親鸞を助ける。善人といわれる人が、本当に善人なのか? 悪人といわれる人達が、本当に悪人なのか? 親鸞が法然を乗り越えて、もっとも忠実な弟子となる決意をするところで小説は終わる。
 親鸞は、非僧非俗を貫き、阿弥陀仏の前にはすべての人が平等であると説き、縁によって集う名もなき百姓、下人、猟師、女たちと、至るところで膝を交えて語り合った。生涯に一つの寺も築かず、教団も作らなかった。仏像よりは画像、画像よりは名号と、如来というものをものの形で考えさせないようにつとめ、ついには「自然法爾」にたどりついた。形があるのでは無上仏とはいわぬ。形がないからこそ無上仏であるという考え方だ。親鸞が「教行信証」を著した1224年(親鸞52歳)をもって、浄土真宗開宗年とする見方は、後年の創作である。親鸞は、ただ法然から受け継いだ「信」の立場を、生涯を通して守り抜いただけである。実際、教行信証も、その後何度となく添削している。

 浄土真宗が教団の形を取り始めるのは、親鸞の末娘の覚信尼が親鸞の遺骨を安置する大谷廟堂を京都に創建してからである。浄土真宗の実質的な開祖ともいわれる、三世覚如(覚信尼の孫)のときには関東の教団に対して、誓約書を差さざるを得なくなる事件も起きる。その後、「本願寺王国」とも呼ばれる大教団に発展するには、八世蓮如のときまで、100年の時を要する。巨大組織となった門徒集団は、農村の支配を強めつつあった大名権力や他宗派と各地で衝突して「一向一揆」を起こす。その後の、財力に加え、武力を持った本願寺と織田信長との争いは余りに凄まじい。さらに、天下は豊臣秀吉から徳川家康の時代と移り、権力と密接な関係を持っていた本願寺も東と西に別れることになる。

 浄土真宗の教団としての歴史を振り返ると、親鸞の説いた教義とは、余りにもかけ離れているとしか思えないものがある。結局、親鸞は歴史の中に埋もれるように、自己を深く見つめ、90歳まで人生を全うしたのである。「人間・親鸞」が丹羽文雄の「親鸞」であった。

 ところで、丹羽文雄「親鸞」の冒頭に出てくる「今昔物語」と題された不思議な女の話題が、読み終わるまで気になっていた。全体で、そこだけが異質な世界なのである。それが、大河内昭爾氏の解説を読んで、理解が出来た。仏教説話にある物語なのだという。そこで著者は、時代相を映し出そうとしていたのである。それを書いた人も、そうと理解した人にも感服した次第である。著者は、その物語に幼き日の親鸞(松若麿)をさりげなく登場させている。

「親鸞(下)」
五木寛之
講談社
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029 小沢秘書裁判に見るものの見方(2011年10月6日)

 控訴をしたようだが、小沢元民主党代表の政治資金収支報告書をめぐる元秘書3人の裁判で、一審では執行猶予がついたとはいえ、「有罪」と判決が出た。一人は、民主党を離党したとはいえ、現在も衆議院議員の職にある、故中川昭一と争って当選した石川友裕である。

 公判前整理手続きでは、会計責任者だった元秘書の大久保隆規被告の供述調書の証拠申請を、東京地検は撤回していた。あの郵便不正事件で証拠を改ざんした前田恒彦元検事が担当した調書だったからである。また、石川知裕被告が再聴取を受けた際に、こっそり録音していた取り調べの録音テープが証拠として採用されていた。そんな背景から、これは無罪になるのかなと思っていた人も多かったものと思われる。

 判決に対する批判のほとんどが、裁判官の推測で成り立っていおり、疑わしきは罰せずの原則に載っていないことなどをあげている。ニュース等でも、江川紹子などが「裁判官の価値観・想像で物語を組み立てているのには危惧を覚えた」と批判している。証拠の多くが不採用になりながら、判決文に「推認」という言葉で補っていることが、今ひとつ説得力に欠ける印象を与えているからだ。

 2011年10月4日の朝日新聞の朝刊で、元東京地検特捜部長の河上和雄弁護士の記事を見て、少し視点が変わった。今回の判決は、法廷に出された客観的な証拠を中心に、法廷が事実認定をしたとして、評価しているのである。旧来の調書中心の裁判ではないというのである。かねてから調書中心の裁判に疑問を投げかけていた人達が、今回の判決を批判していることを、首尾一貫していないと逆に糾弾している。

 その視点でみると、同載されている落合洋司・東海大法科大学院教授(弁護士)の「検証が粗っぽく、まるで裁判所と検察が一体化したような印象があります」との言い方が異なって聞こえる。落合教授は、「決めつけ」とも批判しているが、裁判所が決めること自体に問題があるとも思えない。また、4億円の金の流れは不透明だと思うが、刑事責任を問うことと同義語とは思えないとしているが、金額が余りにも大きいのではないだろうか?4億円もの金の流れを説明できない政治家が、まともであるはずがない。
 さらに同載されていた木谷明・法政大法科大学院教授(元裁判官)の論拠も、証拠採用を却下しておきながら、全体として検察側の主張するストーリーをほぼ認めていることを「すっきりしない判決」と批判している。無罪にすべきだったとも言っている。ところが、後半では「法廷中心主義」を支持もしている。どうも「すっきりしない」論のようだ。とはいえ、自分のこの文章も「証拠主義」に基づいて書いているなと思い知らされた次第でもある。

 同じ日の朝日新聞には、佐藤優元外務相主任分析官の記事が掲載されていた。北方領土支援にからむ偽計業務妨害で、鈴木宗男元衆議院議員とともに有罪判決を受けた人だ。「国家の罠」という本は、私も読んだが、読みものとしては実に面白かった。氏の明晰さを実感させられた記憶があるが、本では「国策捜査」として、厳しい検察批判をしていた。最近、起訴された大坪弘道・元大阪地検特捜部長が佐藤優の書籍を読み、文通もしているとのニュースをみたが、これもまた不思議な縁であろう。

 佐藤優の記事に話は戻るが、プーチンが次回の大統領選に出るということは、メドベージェフとの争いに勝利したということに他ならないという。メドベージェフは、側近政治を行ったことと、ポピュリズムに依拠した政治を行ったため、敗北したという視点だ。北方領土への訪問により、国民やマスメディアは、ナショナルズムに訴えるこの手法を歓迎したが、「ロシアの政治エリート(官僚、国会議員)と知的エリートは、日口関係を不必要に悪化させるポピュリズム外交に危倶を持ち、彼は指導者として力不足だという認識が共有された。」としている。氏は、プーチンが大統領になることにより、歯舞群島、色丹島の返還交渉が具体化する可能性があるとも書いている。さらに、日本が対ロ外交の体制を立て直すことにより、来春以降の日ロ関係の急速発展の可能性も説いている。

 この日、小沢一郎本人の裁判が始まった。実力は誰しも認めるところであろうが、小沢一郎を取り巻く環境は、決して良いとはいえない。また、これからの日本の政治に必要となる人物とも私には思えない。どのような判決が出ようとも、恐らく最高裁まで争う裁判になるのだろうが、彼のために日本の政治を滞留させるわけにはいかないのである。

「重要な証拠で
     大きく認定」
河上和雄
朝日新聞
2011年10月4日朝刊






「プーチンが大統領に
     戻る理由」
佐藤優
朝日新聞
2011年10月4日朝刊
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028「9.11 アメリカ同時多発テロ」から10年を迎えて思うこと(2011年9月26日)

■10年前のこの日、私は単身赴任先の東京の部屋であの映像を見た記憶がある。WTCが崩れ落ちる様は、建物の構造体に欠落があったときの恐ろしさを如実に示していた。考えてみれば、東日本大震災も3.11だったが、丁度、6ヶ月の差があることになる。

 2011年の9月20日付けの朝日新聞の藤原帰一東京大学大学院教授の「戦争に踏み切るとき」の記事を見た。戦争の是非を論じている。氏の見解では、2003年のイラク戦争は間違いとしている。一方、ユーゴスラビア連邦の解体過程におけるNATO軍の攻撃は、少なくともボスニア・ヘルツェゴビナに関連する限りは、必要であり、ルワンダの内戦についても、国連は大規模な介入を行うべきであったと見ている。そして、今年3月の「リビアのカダフィ政権に加えられた国際的軍事介入も必要だったと考えているようだ。

 その違いは、武力介入をしなければ、多くの犠牲者が生まれるかどうかにかかっているといえる。ただ、リビアへの武力介入によって、膨大な武器がリビア社会に拡散してしまったことも心配している。とはいえ、戦争を決める権限も責任もない国際政治学者が論じることも「滑稽な思い上がり」とも述べている。その辺は、テレビで観る氏の、今一歩踏みこみが足りない側面を垣間見せている。そして、「どのようなときに武力行使が認められるのか。綺麗(きれい)な答えはまだ見つからない」と締めている。

■同じ朝日新聞の2011年9月21日付けの「記者有論」では、ニューヨーク支局の田中光記者が「米国は例外主義捨てよ」と書いている。歴史学者で米コロンビア大のエリック・フォーナー教授は、「米国は独立戦争を通じて民主主義を打ち立てた特別な国であり、海外で何をしても構わないという偏狭な『米国例外主義』が、テロによって一層強まった」と嘆いていたが、その「例外主義的」な考え方を改めるべきだというのだ。

 追悼式典は、オバマとブッシュの現元大統領が出席して行われた。別な記事情報だが、オバマ大統領は、「米国はより強くなり、国際テロ組織アルカイダは敗北への途上にある」と語ったそうだが、ほとんど現実味がない言葉だ。ブッシュ元大統領の演説には「9月11日のUA93便やAA77便、とりわけUA93便の勇敢な乗客の行動によって“ホワイトハウス”への攻撃が防がれた」との趣旨があったが、ホワイトハウスが標的となっていたかどうかの物議をかもしている。結局、未だに「彼の正義」を振りかざしているとしか思えない。

 田中記者の記事に戻るが、追悼式典での一番のハイライトは、1960年代のサイモン&ガーファンクルの名曲「サウンド・オブ・サイレンス」をポール・サイモンがギター一本で静かに歌い終えた部分だったそうだ。インターネット上では、オバマ大統
領の演説とともに掲載されているので、ご覧になるとよいだろう。しかし、事前のプログラムでは、前向きな歌の「明日に架ける橋」のはずだったらしい。何故変わったのか?実に興味深い。

■11月23日のNHKでは、マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室が放送された。スタジオに3人の日系人ゲストとともに、中・日・米の3カ国の若者各8人が意見を述べた。テーマは、「ビンラディン殺害に正義はあるか?」だったが、その中で、質問に対する若者の反応に興味を持った。

 1)アメリカがビンラディンを殺害したのは正当か?
   上海   正当 5名  正当でない 3名
   東京   正当 1名  正当でない 7名
   ボストン 正当 4名  正当でない 4名

 2)敵への通報を防ぐために民間人を殺すことは正当か?
   上海   正当 0名  正当でない 8名
   東京   正当 2名  正当でない 6名
   ボストン 正当 0名  正当でない 8名

 3)自爆テロ目的の民間旅客機を撃墜できるか?
   上海   正当 6名  正当でない 2名
   東京   正当 6名  正当でない 2名
   ボストン 正当 3名  正当でない 5名

 4)テロリストの死刑は認められるか?
   上海   正当 7名  正当でない 1名
   東京   正当 4名  正当でない 4名
   ボストン 正当 2名  正当でない 6名

 正直、私の予想と異なる反応だったといえよう。特に、アメリカの若者の判断は、アメリカの現実との乖離(かいり)が大きいと感じた。サンデル教授は、国と文化が異なっても、ネットが進化した今、それぞれの国に多様な意見があるとまとめていた。しかし、2)の回答で日本のみが正当と判断する若者が2名出たのは驚いた。また、4)の回答でもアメリカが正当と判断する若者が一番少ないのも驚いた。番組では、人間の尊厳という言葉がでていたが、宗教からの影響もあるのだろう。

■9月18日に川崎市内で講演した小泉純一郎元首相は、「政府は原発建設を進めてきたが、この費用を安全な自然エネルギー開発に使い、原発依存度を下げるべきだ」と述べ、“減原発”実現を訴えたそうだ。確かにその通りだろうが、その前に自分の反省があったのだろうか?すぐ大衆に迎合するだけの男にしか思えない。それも大事だが、イラク戦争に賛成したのは間違いだった、とまず反省して貰いたいものだと思う。


「戦争に踏み切るとき」
藤原帰一
朝日新聞
2011年9月20日朝刊





「米国は例外主義
     捨てよ」
田中光
朝日新聞
2011年9月21日朝刊
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027「下町ロケット」と文学性(2011年9月3日)

下町ロケット/池井戸潤/小学館/
 2010年11月29日初版/\1,700+税/407頁

オール讀物2011年9月号/第145回直木賞発表

 久しぶりに、一気に本を読んでしまった。とにかく単純ではあるが、林真理子が批評するように、ステレオタイプの人達が繰り広げる痛快活劇であった。最初は、「オール讀物」を買って読んだのだが、これには前半の一部しか掲載されていなかった。選考委員の批評を読んでいる内に、全編が読みたくなり、単行本を購入した次第である。

 主人公は、宇宙科学開発機構(実在するJAXA:宇宙航空研究開発機構に似ている)の研究者だったが、ロケットの打ち上げに失敗したことと、父親の死をきっかけとして、電子部品を得意とする家業の佃製作所を継いだ。佃が社長になってからの佃製作所は、彼の研究者としての経験を生かして、精密エンジンやその周辺デバイスを手掛けるようになり、売上を3倍に伸ばし、年商100億に近づいていたというから、中小というよりは、中規模の企業といえよう。ただ、その企業が開発のために、年間10億の研究費をかけていたからというから、少しバランスがおかしいと感じたが、作者もその辺のことは認めているようだ。

 佃製作所は、特許取得申請の欠陥を突かれて、狡猾な大手企業から裁判に訴えられる。当初は、技術に知識のない顧問弁護士を立てて、出鼻をくじかれるが、別れた妻から教えられた技術に知識のある敏腕弁護士に変えて、自社の特許申請の盲点を整理して、逆に別な特許絡みでその大手企業を訴える。この辺は単純だが、実に痛快だ。私も、企業に在籍していたときに、裁判に関わったことがあるが、技術に知識のない顧問弁護士に苦労した記憶がある。結局、下資料を書いてくれと言われ、整理して弁護士に渡したところ、ほとんどそのままの内容が裁判資料になっていた。何の為の弁護士か、裏取引だけの弁護士だと思った記憶がある。

 その後、その特許申請を出し直して整理したことが、思わぬ展開を見せる。宇宙ロケットを製作する帝国重工のロケットエンジンのデバイスに佃製作所の特許が先行していたのだ。内製化を原則とする帝国重工は、その特許を我が物にしようとあの手この手の手を打ってくる。超大企業に存在する、いかにもいそうな人達が登場するのだ。佃製作所内部にも判りやす

い人達がいる。これを単純な読み物と言ってはそれまでだが、読んでいる当方は面白い。結末も呆気ない内容だった。帝国重工のモデルと思われる会社に何度か行ったことがあるが、確かに守備範囲の狭い人達が多い。もっとも、私が会った人達の守備範囲が狭かったともいえるのだろうが、なかなか上位者に意志が伝わりにくい組織になっている。

 この作品は、「東日本大震災」以前に書かれた小説であるが、今の日本の置かれた状況に、夢と希望を与える作品として語られることが多い。野田新首相が代表に選ばれたときも、この作品を挙げていた。「小さくとも技術に優れた日本」のイメージにオーバーラップするのだろう。ほとんど愚直なまでの人達に、偶然に近い事象が重なり、幸せの女神が微笑んでくれるのは、暗く先の見えない小説を読むよりも爽快感を与えてくれるのは間違いがない。

 「オール讀物」に出ていた選考委員の批評で、渡辺淳一の一文にこうあった。「わたしはここまで読みものに堕したものは採らない。直木賞は当然、文学賞であり、そこにそれなりの文学性とともに人間追求の姿勢も欠かすべきではない。」この批評が、他の選考委員に投げかけた効果は大きかったようだ。林真理子は、別な作品(ジェノサイド)の批評で「しかし文学性という名のひよわさが、昨今読者を小説から遠ざけてしまっているような気がしてならない。面白いだけの小説に直木賞はふさわしくないが、この小説は面白いだけではなく実もある。この実こそ文学性というものではなかろうか」と書いている。他の選考委員の「下町ロケット」の批評も「文学性」については、明快な意見を出していない。

 芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学といった区分けがある。芥川賞は新人、直木賞は、新人及び中堅を対象としているとも聞く。芥川賞は、私小説を基本とするとの言い方もある。改めて、文学賞の意味を考える機会となった。下町ロケットに文学性を求めるには無理が感じられる。渡辺淳一がいう人間追求は、ほとんど感じられないからである。しかし、掲載している雑誌が「オール讀物(全部読みもの)」なのも事実である。結局は、「文藝春秋」という出版社が出している文学賞といってしまえばそれまでである。歴史を紐解くと、両賞とも過去に、該当するか否かで大いに揉めていたようである。私の感覚では、直木賞に文学性を求めるのは、無理かなと今回感じた次第である。

「下町ロケット」
池井戸潤
小学館





「オール讀物」
2011年9月号
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026 CMオートカット機能がなくなっている(2011年8月14日)

 少し前の新聞情報によるが、2011年の2月10日の新聞に、「CMカット機種、生産中止」の記事が小さく掲載されていた。その後、あまり話題となっていないが、メディアが報道するはずもない。

 CMオートカットとは、テレビやレコーダーの再生時にCMを自動的にカットする機能のことだ。最後に残った三菱と東芝がこの機能の搭載を止めたために、大手では搭載機種がなくなったことになる。アナログ時代は、ステレオ部をカットすることなどによりその機能が達成されていたが、地上デジタル化により、その機能の確実性が増すことが、CMカット機能をなくすることに拍車をかけたようだ。

 CMカット機能は、民放各社で組織する日本民間放送連盟がさかんに問題視をしていた。民放連は「著作物を勝手に加工するような手段を講じて良いのか」とか「放送局は番組の本編だけでなく、CMにも著作隣接権をもつ」といった論拠でごり押しをしていた。さすがに、個人が録画して編集することを否定することは止めたようだが、個人が、放送されたCMまでも見る義務があるとも思えない。

 そもそも、放送される番組のスポンサーは、その放送された時間帯のみのスポンサーであったはずだ。再放送でも、同じスポンサーとは限らないではないか。言い換えれば、その番組とCMの間の一体性はないものといえよう。

 もっとも最近の民放の放送自体が、つまらない内容のものが多く、CMどころかチャンネルを飛ばすことが多くなっている。一つ当たると、同じような番組を横並びで放送している。「恥」がないのかといいたい。ドラマ仕立てでも、何故、韓国ドラマが受けるかという基本的なことを理解していないのだろう。演技が下手なタレントを多用する番組を作る立場の人も、深みもなく、科学的に低レベルな脚本などを書く人にも、総じて
猛省を促したいと思う。大河ドラマなどでも、歴史的に著名な場面に、頻繁に主人公が出てくる(あり得ない!)と、いい加減にうんざりせざるを得ない。何事も程度があるというものだ。

 話を元に戻そう。「電波利権」でも書いたが、池田信夫によると、衛星放送対応にすれば200億で済んだデジタル化を、既存民放の意向を丸呑みにして、1兆円以上もかかる地上デジタルを選択した結果が現在の状態だ。中国の高速鉄道事故では、真相を究明しようとした報道の責任者が更迭されているという。圧倒的な覇権を握っている日本のメディアに中国を非難する資格があるのだろうか。一見自由な報道をしている人達が、護送船団方式で、実は自分たちを強力に守っている事実に目を向けなければならない。

 とここまで書いてしばらく時間が経過していた。−−−すると、新聞に面白い広告が掲載されていた。「週刊ポスト」の8.19/26号だ。総力特集「テレビよ、さらば」に注目してしまった。週刊誌を購入するのは、数十年ぶりだが、やっと始まったなと思わざるを得ない。

 「もはや『手抜き』というレベルを超えていた」と始まるが、内容自体には目新しいものは感じられなかった。「電波利権」の焼き直しがほとんどともいえる。ただ、目新しい話題として、私は知らなかったが、利用価値が高くホワイトスペースと呼ばれるUHF帯域の「跡地」を、スマートフォンの台頭でニーズが減ったワンセグを使った新番組で埋めるという、ナンセンスな計画が進められているらしい。これも既存メディアが取りあえず電波帯域を埋めて、競合相手を排除する、電波利権のいつものパターンだ。もっとも、池田信夫の「新・電波利権」の受けうりなのだろう。ただ、<信頼性が薄い週刊誌>が、兎にも角にも<テレビ局という覇権メディア>に矛先を向けた事は評価したい。


週間ポスト
2011年8月19/26号
特集
「テレビよ、さらば」

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025「重源」/伊藤ていじ(2011年8月6日)

重源(ちょうげん)/伊藤ていじ/新潮社
19940920初版/\4369+税/428頁

 本書を知ったのは、松岡正剛の千夜千冊を読んだからである。著者の伊藤ていじは、建築史家として著名であり、民家の研究では第一人者だったが、2010年に亡くなっている。伊藤ていじ著の、「谷間の花が見えなかった時/彰国社」という本があるが、かなり以前に購入して読んだ記憶がある。辰野金吾を初めとする日本草創期の建築エリートを支えた、「松本與作」という建築家の存在を浮かび上がらせたものだ。その著者が、「東大寺」を再建した「重源」という歴史の中で余り目立たない人物を描いたことに非常に興味を持った。ところが、購入して読みたいと思ったが、絶版となり、プレミアムがついて、一時は、倍近い値段となっていた。そこまでの値段に思い切りがつかないときは、便利なものがある。公共図書館である。早速、検索すると2冊もヒットした。読んでから、欲しければ、購入すれば良い。

 著者によれば、わが国の仏寺の建築様式は、戦前においては、和様、天竺様、唐様(からよう)を基本様式としていたが、和様が亡びて天竺様が生まれ、天竺様が亡びて唐様が生まれたものではないという。日本の文化の歴史は西洋と異なり、古い様式の否定の上に創造するものではなく、新しい様式は常に先進国の様式の導入という形で行われるという。結果として文化は、蓄積されて洗練されていくが、新しい創造はないわけだ。和様とても、原型は中国にあり、天竺様は印度ともなんの関わりもない。重源の大仏殿に採用された様式は、金により黄河流域から、南方の長江流域に押しやられていた南宋の様式を取り入れていたという。重源が訪れ、大仏殿再建にあたって技術を指導した陳和卿が住んでいたのが、南宋の地だからである。ちなみに、著者は、わが国の仏寺の建築様式は、和様、大仏様、禅宗様、およびそれらを折衷した折衷様(せつちゅうよう)に大別されると述べている。

 創建当初である天平の大仏殿は、桁行(けたゆき)7間、梁行(はりゆき)3間を母屋(もや)部分として、その四周に裳層(もこし)をめぐらしている。したがって見かけは、正面11間、奥行(おくゆき)7間だったらしい。長さにすると、正面29丈(87.9m)、奥行17丈(51.5m)もあり、高さは15丈6尺(47.3m)とされている。

 現在の大仏殿は、江戸時代において建てられたもので、世界最大の木造建築を誇っているが、正面7間に奥行7間である。創建当初に比べて、奥行と高さは変らないが、正面は4間も短い。約3分の2のスケールと言われている。

 一方、重源が建立したといわれている大仏殿は、平面の規模と高さにおいては、創建当時とほぼ同じであったようだが、構造と外観が異なっている。重源の大仏殿の柱数は92本と、奈良時代より6本多く、現在(江戸時代)のものよりは28本も多い。しかも江戸時代の大屋根は正面5間部分にかけられているだけであるが、重源の大仏殿は正面11間全体に架けられている。体積のおいては、江戸時代の3倍もあったことになる。柱の本数が多くなったのは、重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したためだ。また、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導したことも大きい。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。

 柱の長さに至っては、母屋柱は9丈1尺(27.6m)が54本、庇柱で7丈5尺(22.7m)が38本という。これは仕上寸法だから、さらに長い用材を周防国(現在の山口県)から運んだらしい。そして注目すべきは、棟木の長さが、現在のものの倍以上といわれる13丈(約40m)もあったということだ。

 周防国では、海岸線から30km以上も入った山中から好材を見つけ出し、道路を造り、川幅を広げ、大木には千人もの人力により引き出したという。水深が浅い佐波川のためには、28ヶ所もの堰を設けて水深を確保、そして一材につき4艘の船を付けた淀川河口までの海送、そして再び綱引きと川船による淀川・木津川の水送、東大寺までは大力車と120頭の牛に加えて人力により運んだらしい。大力車でも叶わない場合は、古墳時代より続く修羅(しゅら)に乗せ、その下の「ころ」の
丸太に海藻などのぬめりを付けて引いたという。長さが13間4尺、重さが20トン以上もある大虹梁を東大寺に搬入するために、中御門わきの中家を壊したという記録が「吾妻鏡」に残っている。

 重源は、醍醐寺で出家して、法然の影響などを受け、宋に渡る。宋へは、本人は3度行ったと称しているが、どうも1度だけの様である。多少の法螺(ほら)も平気でつくような、目的のためには、手段を選ばない、かなり強引な性格なのだろう。しかし、それがして東大寺の再建という巨大事業を86歳で亡くなるまで続けたともいえる。しかも、東大寺の再建に関わる「大勧進」になったのは、61歳だという。伊能忠敬が50歳で隠居して、56歳から初めて、亡くなる74歳まで国内の測量・地図作成をやり遂げたのも凄いが、それを上まわるものがある。

 登場人物がきらびやかだ。西行、栄西、源頼朝、後白河天皇、藤原定家、法然、後鳥羽上皇、平清盛、などなど枚挙にいとまがない。それだけ時代が動いていたということだろう。浄土宗、浄土真宗、禅宗などの新興宗教が成立しつつある時代でもある。文章は、読みづらい。独特の文章が続く。

 当時は、自費あるいは国費によって造営・修造することを「成功(じょうごう)」、受領国司に請け負わせることを「造国(ぞうこく)」といった。造国による受領国司は、任国内の税物を自己の裁量で任意に加徴することができるばかりでなく、収入が残れば私物化できるため、希望者が多かったらしい。藤原氏の菩提寺である、隣接する興福寺は、当時、「造国」で造営・修造が行われていた。しかし、重源に認められたのは、「知識物(ちしきぶつ)」という方法だった。

 知識物とは、朝廷から大勧進の号が与えられるが、一切の国の補助はなく、勧進によって寄進を集めて、自分の責任において事業を実行することだった。その代わり、すべての権限を持たされていた。重源は、高野山で自ら構築したネットワークである「同行(どうぎょう)」の人達を動員する。「高野聖(こうやのひじり)」の原型ともいわれる。大勧進には一切の報酬は与えられない。

 重源は、一輪車を六輌製作し、京から放射状に延びる六つの街道に、一輌ずつ配したという。各車には、虚遮那仏と両脇侍(きょうじ)そして四天像を描いた画幅を添え、東大寺造営の「勅碇」(ちょうくじょう)をうけたことを示す宣旨の文をしるした絹布を縫いつけた幡(ばん)を立てた。それは、勧進は全国の衆庶の結縁から求めるという建て前と理念の表現でもあったのだ。大変なエンターティナーでもあったといえる。

 奈良時代の東大寺が、興福寺と共に平重衡の兵火で壊滅的な打撃を受けたのが、1180年。重源が大勧進の職に就いたのが1181年。未完成ながら、後白河法皇の臨席のもと大仏開眼法要が営まれたのが1185年。再建大仏殿の落慶法要が営まれたのが1190年だが、大仏殿は未だ未完成。この時は、後鳥羽院や源頼朝も列席している。重源は、70歳になっていた。

 大仏殿を含む堂塔伽藍がほぼ完成したのは、1195年、重源は、74歳になっていた。しかし、重源の勧進は、86歳で亡くなるまで、まだまだ続く。しかし、彼は亡くなるときには、一切の私物も残さなかったという。すべてを東大寺に捧げたのだ。逆に言えば、東大寺のためであれば、知謀を巡らし、必要とあれば、実の弟も簡単に切って捨ててしまう当時の政治の実力者である大施主となる源頼朝とも渡り合う。周防国(現在の山口県の一部)、後には備前(現在の岡山県の一部)の知行にも成功する。

 その後、1567年の三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿はまたも焼失することになる。野ざらしとなった大仏に、三度目の現在の姿である江戸時代の大仏殿が再建されるのは、1709年のことだ。東大寺には、現在では余り目立たないが、もう一つの歴史があったことになる。背景には、膨大な資料の研究がうかがえる。重源という偉大な人物に光を当てた労大作といえる。


東大寺
2010/3/11撮影





「重源」
伊藤ていじ
新潮社





重源上人座像
(東大寺蔵)
新潮社「重源」より
原典・飛鳥園
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024「沈黙の春」/レイチェル・カーソン(2011年8月5日)

沈黙の春/レイチェル・カーソン/
青木簗一(あおきりょういち)訳/新潮社/新潮文庫
19740220初版/\552+税/358頁

 マメコガネという緑色の光沢をもつ日本在来種のコガネムシがいる。それが1916年のアメリカのニュージャージー州で発見され、天敵の少ない北アメリカで爆発的に増えた。日本初の外来種であることから、「ジャパニーズ・ビートル」と呼ばれ、農業害虫として嫌われている。日本からの苗木について入ってきたと言われている。

 著者によると、アメリカ東部ではマメコガネに対して天敵による防除が行われたが、西部では、化学薬品による駆除を選んだ。西部ではないが、ミシガン州では、アルドリンという化学薬品を空から大量に撒いた。その結果、動物、そして人間までも影響を与えたという。アルドリンは、現在、日本においても製造・使用が禁止されている。

 本が出版されて、半世紀近く経つが、この本をきっかけとして多数の国で、DDTが禁止されたのは間違いない。DDTに毒性があるか無いかは、私には判断はできないが、DDTの生産が激減したことにより、発展途上国ではマラリアを媒介するハマダラ蚊が息を吹き返したため、多数の死者を生んでいるとの指摘もある。だが、現実には中国やインドでは生産を継続しており、農薬としても使用されている。一方、食物連鎖により生体濃縮されることも判っている。

 生体への濃縮課程の記述が凄まじい。例えば、食品に付いた0.1〜1ppmのDDTは、体内の脂肪部に蓄えられると、その貯蔵所が増幅器となり、10〜15ppmkまで増幅される。と書くと、10倍以上の増え方と思うが、著者によると100倍以上の増え方となる。少し、誇張もあるようだ。さらに動物実験によると、3ppmでも心臓筋肉の大切な酵素が痛めつけられ、わずか5ppmで肝臓細胞の壊疽(えそ)、崩壊が見られる、となる。人体への影響が明確でないため、代わりにヨウ素など
の例が出される。繰り返しも多く、少し食傷気味になる記述が多い。

 とはいえ、DDTを初めとして除草剤や殺虫剤の化学薬品による防除は、空気中に散布されるため、目標を攻撃するだけでなく、それ以外の生物にも影響を与える。しかも、自然への堆積や食物連鎖のため、影響を与える濃度が想定以上に上がっていくことは、改めて考える必要があるだろう。

 著者は、化学薬品による環境への影響を盛んに喧伝(けんでん)するが、既存生態系への外来種の投入による、自然への干渉はあまり気にしていないようだ。もっとも、半世紀前の本ということも割り引いておく必要がある。最近も時々発生する「サイロ死」までもが、著者によると化学薬品のせいになってしまう。サイロ死は、CO2などのガスが発生して、酸欠になることが、今では判っている。

 どうも、批判的な事を書いてしまいそうになるが、著者が半世紀前に提起した、「べつな道」を歩むという考え方は、今でも変わらない問題だろう。いやむしろ、今、最も突きつけられているテーマといえる。化学薬品に限らず、遺伝子組み換え作物、外来種などによる、既存生態系への干渉は留まることを知らない。制御不能であることが判った原子力までもが、現実に生態系への影響を及ぼしているのだ。少し記述がくどいのが気になるが、改めて環境問題を考えるにあたって、チェックしておく必要を感じた本である。

 最近、著名メーカーのゴキブリ退治のTVコマーシャルを見て驚いた。化学薬品に適応した「抵抗性ゴキブリ」が出現しているという。殺虫剤が効かないゴキブリがいるのだ。そんなゴキブリに良く効くという、「史上最強のシリーズ」が登場したという。毒性を強くしたものが、人体に害がないと本当に言い切れるのだろうか。コマーシャルでは、ダニやノミもまとめて退治できるとなっている。そんなものが市販されていることの方が実に恐ろしい。

「沈黙の春」
レイチェル・カーソン
新潮文庫

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023「宇宙を読む/カラー版」/谷口義明(2011年7月18日)

宇宙を読む/カラー版/谷口義明
中公新書1856/20060725初版/179頁

 子供の頃、さる年配の人から、

宇宙には太陽がいくつもあるんだろう?
            3個くらいもあるのかな?


 と言われて、驚いた記憶がある。その時は、銀河という太陽の集団があって、その銀河が宇宙には多数あると話したような気がする。少し生意気だったかも知れない。

 いつのころからか、私たちが住むこの「天の川銀河」には、1,000億の恒星(太陽)があり、その銀河自体が宇宙には1,000億もあると認識していた。1,000億×1,000億は、10の22乗(1000垓(がい))という途方もない数値になるが、1兆の100億倍といった方が分かりやすいかも知れない。ちなみにこの本では、天の川銀河には、1,000億から2,000億の恒星があると予想されていると出ているが、最近はさらに大きな数値を予想する人もいるようだ。そう考えると、宇宙には他に生命体がいないと考えるには無理があるだろう。もっとも未だに、神代以前はないと考えている人が欧米には多いようだが。

 青春時代、現代教養文庫の「星座の楽しみ/草下英明」、「星座手帳/草下英明」や岩波新書の「宇宙と星/畑中武夫」などを見て、宇宙へ夢を馳せていた記憶がある。気分転換には、<宇宙もの>は最適なもののひとつだ。最近では、岩波文庫から1936年にハッブルが書いた「ハッブル 銀河の世界/戎崎俊一訳」が出たので買って読んだ記憶がある。また、野本陽代の連作である岩波新書の「カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産」「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」「続ハッブル望遠鏡が見た宇宙」などが、時を忘れさせてくれた。特に、カラー写真が美しい。

 以前から、疑問に思っていたことがある。何故、私たちから見る太陽と月は、ほぼ同じ大きさなのだろうと。この本を読んで謎が解けた。私たちから見える太陽の角直径は0.0093ラジアン、月は0.009ラジアンとのことだが、これはまったくの偶然なのだそうだ。なんだそうなのかと思ったが、この偶然がなければ皆既日食などは起こりえないのだ。

 私たちが住むこの宇宙が膨張していることは、今では広く知られている。だが、この宇宙がいつまで膨張し続けるかという運命を決めるのは、この宇宙の質量がどれくらいあるかだという。私たちが知っている原子核や陽子、中性子はバリオンと総称される。電子はレプトンと呼ばれるが、質量にはあまり影
響しない。そこで、最新の衛星観測などで宇宙の質量計算が試みられている。ところが、最新の観測結果では宇宙全体の質量のうち、バリオンが占める割合は4%しかないとわかってきた。

 残りは何かというと、最近話題のダークマター(暗黒物質)とダークエネルギーだという。ダークマターが23%、ダークエネルギーが73%も占めていると予想されているのだ。しかし、これらは今もって正体不明のままだという。正体不明なものの比率が予想されることも、物理学の不思議さともいえる。

 とはいえ、ダークマターによって、銀河あるいは銀河団の活動が支配されているらしい。そして、この宇宙が膨張し続けるためのエネルギーは、ダークエネルギーが供給し、さらに膨張は加速しているともいわれている。

 相対性理論で有名なアインシュタインは、静的な宇宙を考えていた。彼が編み出した「宇宙方程式(アインシュタイン方程式)」では、宇宙が静的になるように、「宇宙項」という常数をいれて細工をしたといわれている。彼自身は後に、深い悔恨を残したそうだ。しかし、このダークエネルギーの考え方は、その宇宙項を復権させることになっている。

 この宇宙ができて約137億年と予想されているが、宇宙における銀河の空間分布は、あたかも泡構造の様になっている。泡の表面にたくさんの銀河があり、泡の中にはあまり銀河がないという。その銀河も、例えば天の川銀河という私たちが住むこの銀河には、前述したように、1000億から2000億の恒星があるが、恒星の個数密度は、太平洋にスイカが2個浮かんでいるような感じだという。宇宙は、かくも広大なものだと思うと、心地良いため息がでる。

 女子サッカーのワールドカップで日本が金メダルを獲得した。お陰様で、今日は少し目がしょぼつくが、まずは素晴らしい出来事だと思う。とにかく小さい体で良く動く。努力も並大抵ではないと思うが、あの明るさが格別に素晴らしい。

(2012年1月9日 追記)
 1月9日の朝日新聞で、興味深い記事をみた。2012年の5月には、日本の多くの地域で、晴れていれば「金環日食」が見られるという。地球から見える太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じなのは、偶然の一致なのだが、もう一つの偶然の一致があった。月は、毎年4cmずつ地球から遠ざかっているという。かつては皆既日食しか見られなかったが、いずれは金環日食しか見られなくなるのだ。両方の日食が観測できるのは、この時代に文明を持った私たちだけだったのだ。



「宇宙を読む
     /カラー版」
谷口義明
中公新書
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022「ミカドの肖像」/猪瀬直樹(2011年7月12日)

ミカドの肖像/猪瀬直樹/小学館/小学館文庫
20050401初版第1刷/886頁

 1885年にイギリスで初演された「オペレッタ・ミカド」という歌劇(喜劇)がある。日本では余り知られていないが、イギリスで『ミカド』といえば、百年前も、現在も、喜劇の代名詞となる。死刑執行が大好きな独裁者ミカドの世に、ミカドが認めた年増で醜女(しこめ)の婚約者カティシャとの結婚を避けるために、旅芸人に身をやつした皇太子が、一目惚れした美しい娘であるヤムヤムを探して、ティティプ(秩父?)の町へやってくる。皇太子役はバンジョーを背負い、自転車に乗って登場するのだ。衣装は、和服ではなく、チェックのズポンにマフラーをひっかけたカジュアルないでたちと、その意外さが観客の笑いと拍手をさそう。そこで死刑執行をめぐり、繰り広げられるドタバタ?劇だ。ミカドは「トコトンヤレ節」のメロディーにのって登場する。最後は、ハッピーエンドで終わることが救われるが、当時のイギリス社会への風刺を、<遠い国>『日本』へ置き換えたものだといわれているそうだが、何となく気分が悪い。

 クリスタル・パレス(水晶宮)が造られた第一回のロンドン万国博覧会が1851年。エッフェル塔が建設された第4回のパリ万博博覧会が1889年であるから、ヨーロッパでジャポニズムによる文化的変革が巻き起こっていた時代に造られた風刺歌劇だといえよう。

 トルコにあるヨーロッパとアジアを区切るボスポラス海峡に架かる全長1,510mの第二ボスポラス橋(1988年完成)が、日本企業によって受注されたとき、イギリスのサッチャー首相は、日本の「官民一体の不公正な受注」と激しく非難したという(日経 1985年5月10日付)。この地域を自分たちの既得圏域とみる、発想がそこにはある。ヨーロッパが日本を見る視線は変わっていないということだろう。しかし、1980年のクーデターによって生まれた近代化路線によって、利権体質の旧勢力が一掃され、従来のダーティ・ビジネスが通用しなくなったことが背景にあると著者はみる。このパターンのせめぎ合いは、現在も続いているといえる。残念ながら、ダーティ・ビジネスを受け入れる国は今でもあるのだ。官民一体だけでもダメだということだろう。

 われわれがよく見る「明治天皇の肖像」といわれる写真がある。あれは、実際の写真ではなかったとのことだ。撮影されることを嫌った明治天皇のために、当時印刷局にいた、お雇い外国人であったイタリア人エドアルド・キヨソーネが肖像画を描き、それを撮影したものが「御真影」として流布されたものだという。いわれてみると確かに、風貌が洋風な趣を醸し出している。何度かご尊顔を垣間見ての肖像画だったため、本人とは多少の差異もあるという。著者は触れていないが、西郷隆盛の写真もキヨソーネが描いた絵が元になっているという。こちらは、キヨソーネが一度も西郷に会ったことがないといういわくつきの肖像画だ。西郷は、まったく異なる風貌だった可能性があるのだ。これも、諸説が流布されている。

 天皇制についての展開が今ひとつすっきりしない。哲学者久野収の「顕教と密教」や、美濃部達吉の「天皇機関説」などが出てくる。天皇裕仁は、天皇に事故あらば国家も同時にその生命を失うことの危惧から、「天皇機関説」の支持者であったという。戦後、「象徴」となった天皇だが、明治も今も、本当の演出家が官僚であったことは間違いない。それは伊藤博文がつくったシナリオだという。そこから著者の特殊法人や補助金の腐敗を暴く「日本国の研究」につながっていくのだろう。

 東京海上火災保険本社ビルの謎が面白い。1974年に竣工した前川圀男の設計だが、当初の計画では高さ128mだったものが、99.7mとされてしまったのだ。なぜ100m未満とされたのかがはっきりとしないのだ。当時の佐藤榮作首相まで登場するのだが、明確に法律がないことが、結論を長引かせ、そして日本を代表する建築家の設計までも押し込んでしまう、それが「ミカドの肖像」だったといえよう。「ミカドの肖像」をタテに、意志?を通す人達がいるのだ。

 戦争末期、東京がB29の波状攻撃にさらされているとき、地
下の防空壕で電話を何台も並べて、土地を買いあさる男がいた。西武の創業者堤康次郎である。土地が利益を生むようになるのは、その後10年以上も後のことである。なぜ彼は、土地を買い続けたのか?

 そして堤康次郎は、都心の一等地である旧皇族の土地を次々と手に入れる。旧朝香宮邸、旧竹田宮邸、旧北白河宮邸、旧東伏見宮邸、旧李王邸などである。旧久邇宮邸は、一足早く聖心女子大に買われてしまったらしいが。堤康次郎の土地代の支払い方法に特徴がある。彼は内金だけを入れて、中間金はあるが、残額は年1割の利息を支払うということで、支払いを猶予する仕組みを考えた。要するに、お金をかけずに一等地を手に入れたのだ。旧宮家でも課税を逃れる方法として得があった。重要なことは、宮家側にいた職員の就職を西武側が考慮するという一項が入っていたことだった。事実、宮家に使えて、その後西武の役員等になった人達がいる。彼らが、土地取引に一役買っているのだ。

 総工費250億円という新高輪プリンスは、旧白川宮邸跡地に建てられたが、その前月には、約1万坪の旧朝香宮邸跡地が東京都に139億円で売られている。その朝香宮邸は、1950年に坪700円で買ったものだ。こうして、戦前における最大の地主であった天皇家に変わって、西武が日本最大の地主になって行った。

 ヨーロッパが風刺したミカドが支配する日本を彼らは「新しいユダヤ人」とみたと著者はいう。そして、ミカド国にも体内には別な「ユダヤ人」が巣くっていた。それが西武の創始者堤康次郎であったと著者はみる。しかし、なぜ堤康次郎は、そこに挑んだのかが明快でない。その辺の切り下げがもう少し欲しかったといえば、欲の出し過ぎだろうか。886頁もある大著なだけに惜しまれる。

 その後の西武の凋落は、周知の事実である。2011年7月8日の新聞情報では、「堤清二氏らの請求棄却 東京地裁、旧コクド株主と認めず」の記事が三面以下の扱いとなっていた。争点は、堤康次郎が株の散逸を避けるため、側近や社員の名義を借りていたが、実質的な所有者は誰かということだ。堤清二氏や異母兄の堤義明氏が、実質的な所有権を主張して、プリンスホテルなどに計125億円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は請求を棄却した。

 解説の上田紀行の文章に妙に納得させられた。今まで感じていた謎が解けた思いがした。

 確かにプリンスホテルは妙なホテルブランドだとは感じていた。同じ名前を冠するホテルひとつひとつのレベルが著しく違う。品川にある三つのプリンスホテルにしても、狭苦しく隣の部屋の音が筒抜けする刑務所のようなホテルから、豪壮な内装を誇るホテルまであまりに差がありすぎる。しかし、村野藤吾(むらのとうご)設計の新高輪、丹下健三設計の赤坂という、二人の文化勲章受章者によるプリンスホテルの最高峰にしても、その外見や宴会場など、外から見える部分の立派さに比べて、ひとつひとつの部屋は、バスルームなどビジネスホテルかと思えるほどの貧弱さで決してクオリティーは高くない。外見と中身の激しいギャップ。しかし、その「何か妙だ」という感覚の原因はこれまで謎であった。
 本書を読んで、昔年の謎が解けた。稼働率は五割でもいい。ホテルの営業で儲けるのではなく、そこにホテルを建てること自体で儲けるというトリック。そもそもそれは人をもてなすホテルなのではなく、資産運用ビジネスの場なのだった。

 現在、東京都副知事の著者である。作品が発表されたのは、25年前である。文庫本になったのは、2005年のことだ。本では、三島由紀夫が理想とした構図は銭湯のペンキ絵とさして変わりのないものであり、彼が目指した崇高な理念はほとんどパロディすれすれと、こき下ろしているが、都知事とのこの辺の意見交換はどうなっているのか興味がわくところである。

「ミカドの肖像」
猪瀬直樹
小学館文庫
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021「山水思想/「負」の想像力」/松岡正剛(2011年6月30日)

山水思想・「負」の想像力/松岡正剛
筑摩書房/筑摩文庫/20080410第1刷/\1,500+税/502頁

 松岡正剛の文章はあまり好きではない。しかし、氏の知識の奥深さにはいつも圧倒される。インターネットで「千夜千冊」を時々眺めるのだが、どうしても斜め読みになってしまう。文意にもなかなかついていけないのだが、文章には違和感がいつもつきまとう。しかし、この本は読みやすかった。しいて問題をあげるとすれば、多数の墨絵等が出てくるのだが、文庫本のためあまりにも小さく、印刷も不明瞭なことが悔やまれるのだ。まあ、絵を見るために文庫本を買う人もいないだろうから、本物を観ることを勧めているのだろう。若干大きい単行本もあるようだが、似たようなものだろう。

 水墨画は禅僧とともに日本にもたらされた。しかし、日本の水墨画は禅とともに、中国とは異なる成長を示す。日本の水墨は、明兆から如拙・周文・雪舟へと本格派が目白押しになっていき、そのあいだに能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三代が入ってくる。このどこかで「中国離れ」をおこし、日本においては禅は禅よりひろくなったと著者はいう。

 話題はそれるが、日本の桃山文化にとっては、海外の音はルネサンスの音としてやってきたのではなく、イエズス会の世界布教の波として、ザビエルからヴィレラへ、ヴィレラからフロイスへとうけつがれ、そこで信長にぶつかったという見方が面白い。神も仏もどうでもよかった不敵な信長にとっては、退屈な日東の議論よりフロイスのエキゾチシズムのほうがずっとおもしろかった。このときに、日本はヨーロッパの受け入れかたを決めたのだと著者は見る。

 日本文化は、コードを輸入してモードを自前につくりなおすことにたけている。そういう文化の「様」をもっている。著者は、これを「渡来コードに自前モードを編集する文化」とよんでいる。例を挙げると、銅鏡、銅鐸、造仏、造寺、万葉仮名があるし、読経のスタイルや荘厳のデザインもそうだという。それが古墳時代や奈良時代からの編集的伝統だったと著者は見る。

 著者の言葉を借りると、外からコードを集め、内で独特のモードをつくるという「様」の方法からは、しばしばとびぬけた独創が生まれたという。空海や道元がそうであり、重源(ちようげ
ん)や雪舟がそうだった。四人が四人とも海外体験があった。

 しかし、海外体験がなくても、すぐれて自前の創造性を発揮する者もいた。人麻呂や運慶、夢窓や一遍、また世阿弥や利休がそうだった。かれらはもはや渡来コードを断ち切って、自前モードの中に独自の自前コードをさえつくっていった。そして、永徳や等伯もそのような一人だった。

 二世紀後半、西域から仏教が導入された後漢の桓帝時代、仏陀に対抗された老子をモデルとした「タオの神々」が生まれた。老子神格化がおこったのである。その思想はやがて、官僚社会を捨て、互いに自立して山野に遊ぶ「逸民」を生み、「山水思想」に結びついていく。そこから生まれた山水画を三遠で現される「全景山水」という。三遠とは、山の下より山の頂きを仰ぐようにする「高遠」、山の前方から山の奥後方を見通すような「深遠」、近くの山から連続する景色を望むような「平遠」をいう。

 それが中国の南に行くと、王維や李成や重源(とうげん)に代表される「江南山水」に変化する。三遠を無視してしまうのが特徴だ。著者によると、温和な山水の誕生ということだ。そして、馬遠や夏珪に代表される、「辺角山水」といわれるものになる。北から南に行くことにより、景色の省略・圧縮がおきたのだ。

 広大な中国から日本に渡ったとき、山水はさらに縮小される。しかし、ヴァーチャルな想像力は、禅とともに広がりをみせる。「枯山水」の登場だ。サブタイトルにある、「負の想像力」だ。しかし、その枯山水をもういっぺん画境に戻したときに、初めて日本の水墨山水が確立する。その画面には、かつて枯山水に流れた見えない水流が飛沫をあげて潤った。これが雪舟から等伯への道にあたる。これが本書のテーマだろう。

「あとがき」にも出てくるが、著者は「主題」よりも「方法」に関心をもっていると書いている。中国の水墨画が日本にもたらされたときは、その多くが禅画か道釈画(道教と仏教の人物画)であって、「水墨する」とは禅林寺院の日々のなかの余技のことだった。著者にいわせると、芭蕉や蕪村の俳諧も「負の山水」だということになる。「枯山水/負の山水」は、かくも奥が深いことになる。

「山水思想/
「負」の想像力
松岡正剛
ちくま学芸文庫
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