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060「一休」/水上勉(2013年12月21日)

一休/水上勉/中央公論社/中公文庫
/19780310初版/349頁/\360

 親鸞は、<性>に対峙し、女性を愛し、悩み、そして妻帯した。そこには明解な理論があったとは思えないが、真っ直ぐに向かい、死ぬまでそれを悩み貫いた。そして、親鸞の苦悩を他所(よそ)に、彼の子孫は当然のごとく妻帯を継承した。その結果、幾代にも渡る親鸞の血統を繋いだ権威が生まれることとなり、今日の浄土真宗の反映の一つの礎となっている。それは、親鸞の思いとは異なる歴史を生んだともいえる。親鸞は、決して自分が始めた後の「浄土真宗」となる「親鸞経」を伝えるために妻帯し、子をなした訳ではなかった。生活の糧を生むためでもなかった。親鸞には、子孫に財を残すといった経済的感性はほとんど欠けていた。親鸞は、法然の思想を受け継ぎ、弥陀の本願を信じるとともに、自己の葛藤を深く掘り下げ、1262年に90歳で亡くなるまで、そこを満たすものを探し続けた、真実そのままの人だった。

 親鸞没後、10年を経た1272年、親鸞の遺骨を吉水の北に改葬して大谷廟堂を建てたのは末娘の覚信尼だった。今日の本願寺の始まりといえる。覚信尼は、親鸞が布教した関東の教団と協定を結び、廟堂の管理者としての「留守識(るすしき)」を世襲とすることを認めて貰う。それは、生活の糧を得るためでもあった。留守識は、教団の主導権を握るためのものではなかったが、2世紀の後、本願寺8世の蓮如に至り、巨大となっていった本願寺教団の権威の象徴へと変貌を遂げる。生涯に渡り4人の妻を亡くし、5人の妻を得て、27人の子をなした蓮如は、1499年に85歳で亡くなるが、その後、歴史の必然性から、本願寺教団の「留守識」は「法主(ほっす)」にすり替わって行くとともに、本願寺教団自体が政治権力化をしていくこととなる。


 それは、親鸞が始めた親鸞経とは余りにもかけ離れた姿だった。1570年に始まる、今日の大阪城跡にあった石山本願寺における織田信長と本願寺11世顕如との争いを「石山合戦」というが、親鸞にしろ、蓮如にしろ、その様な事態が起こることを想像もしていなかったであろう。石山本願寺は、蓮如が隠居先として選んだ土地にしか過ぎなかった。

 その本願寺8世の蓮如と同時代に生きたのが一休宗純である。一休は、1394年正月元旦に生まれ、1481年に88歳で亡くなっている。蓮如は1415年の生まれと伝わるから、一休は蓮如より19歳年長であった。一休が、親鸞聖人200回忌の本願寺に参拝するなど、お互いの交流が知られている。室町時代という戦乱の世にあたるが、1467年に始まった「応仁の乱」など、政治権力者たちが無責任かつ複雑怪奇に争いを演じた時代でもあった。応仁の乱は、京都の町も各宗派も打撃を受け、寺は焼かれ、寺宝や財物を略奪されるという時代でもあった。

 西洋では大航海時代が始まり、長い間イスラム勢力の圧力を受けていた西洋が、インドやアジアそしてアメリカ大陸に対して覇権を握り始めたころとなる。大陸では明の時代にあたる。1401年から1549年に渡り日本と明の間で行われた交易を勘合貿易(日明貿易)というが、それまで盛んであった後期倭寇との峻別が行われた。足利幕府将軍が明の皇帝から「日本国王」として冊封を受ける朝貢外交であったが、硫黄や銅などの鉱物の他に刀剣や漆器・屏風などを輸出し、輸入された明銭(永楽通宝)・生糸・織物や書画などは、北山文化や東山文化を演出することとなる。農業や工業の技術が発達した時代であったが、世の中の人々の暮らしは貧しいままであり、戦火を受けた京の街では、死人が巷に溢れていた。



一休
水上勉
中央公論社
中公文庫

 一休宗純は、後小松天皇の落胤とする説が広く知られているが、事実は判らない。母親に育てられ、6歳で京都の安国寺に入門・受戒して周建と名付けられる。そのころの逸話が江戸時代につくられた「一休咄」となり、今日の頓知で知られる童話や紙芝居の題材とされているが、史実性は殆どない。

 1410年、17歳になると、清貧で知られる謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純とするが、謙翁が1414年に突然亡くなると、一休は悲嘆の余り自殺未遂を起こす。1415年には、水運で栄えた堅田(現在の大津市北部)の禅興庵の華叟宗雲(かそうそうどん)の弟子となるが、そこでは想像を絶する巖氓ネ修行と、辛辣苛酷な生活が待っていた。水上勉は、後の一休の無頼魂の培養期とみている。その後、華叟より一休の道号を授かることとなる。1420年、27歳になった一休は、(からす)の啼き声を聞いて大悟したと伝えられているが、そこに一休の「風狂」の覚醒をみることができる。一休が鴉の啼き声を聞いたのが闇夜だと伝わっているが、闇夜に鴉とは。一休の人生における結節点であったことは間違いがない。

 1428年の後花園天皇の即位は、一休の推挙があったと伝えられるが、一休は詩、狂歌、書画を勝手気儘に嗜み、風狂の生活を送っていた。七言絶句による風狂の世界を詠んだ漢詩集「狂雲集」では、歓楽街を徘徊し、女色に耽溺する自分を詠んでいる。常識を超えた風狂に、世の人々、特に文化人たちに多大な影響を与えている。世間が奇人、風狂を見る姿に、本人も進んで受け入れた風があることと、皇胤との噂をまんざらでもない気持ちで楽しんでいたことは間違いはない。晩年の1474年、81歳になった一休は、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となるが、たちまちその職を辞そうとする。

 78歳になった時、住吉大社薬師堂で盲目の森女(しんにょ)の舞を見た一休は、遙かに年の離れた彼女を見初め、当時、住んでいた酬恩庵(しゅうおんあん)にて同棲を始める。それ


は、一休が亡くなる88歳まで続いたとされている。そのことを、丹羽文雄は「蓮如」で蓮如の言葉を借りて無責任と批判をしている。一休が亡くなった後の酬恩庵では、森女の居場所はなくなることとなり、その後の薄幸を予想しているからだ。妻帯して、正式に妻を迎えている蓮如だからこそ言えた言葉であろうし、蓮如自身の生母の不幸をもそこに重ねている。

 蓮如は5人の妻を迎えたが、複数の妻を同時に持ったことは一度もなかった。しかし、蓮如の生母は、父(本願寺7世、存如)が正式の母を迎えたときに行方知れずとなっている。庶子であった蓮如の前半生の苦しみはそこに兆している。一休の墓は、京都府京田辺市にある酬恩庵にあるが、驚くべきことに宮内庁が御廟所(陵墓)として管理しているため、一般の立入は不可能となっている。

 水上勉は、2004年に85歳で亡くなっている。福井県に生まれ、5人兄弟の次男として育ったが、口減らしのため、10歳の時に京都の相国寺(臨済宗)瑞春院に童行として出家させられた。しかし、あまりの厳しさに出奔するが、連れ戻され等持院に移される。その後、寺を出てから様々な職業や会社経営(後に破産)や数度の結婚、離婚、そして家族問題など、決して恵まれた環境には育たなかった。立命館大学国文学科を生活苦により中退しているが、国民学校助教などを経て、作家として名をなすことになる。

 1960年に、等持院を舞台にした「雁の寺」で直木賞を受賞すると、「飢餓海峡」「はなれ瞽女おりん」「五番町夕霧楼」「良寛」「一休」「金閣炎上」などを発表して国民的作家となった。晩年は、パソコンやインターネットに強い興味を示して、地元の子供たちのためにマッキントッシュを複数台導入して「電脳小学校」と名付けて長野県小諸市の仕事場を開放しようとしていた。また、水俣病を題材とした作品「海の牙」や、次女が脊椎に障害を持っていたため、社会福祉に関する啓蒙でも知られている。9月8日の命日は、直木賞受賞作「雁の寺」にちなみ、「帰雁忌(きがんき)」といわれている。


「親鸞(一)」
丹羽文雄
新潮社
新潮文庫

 一休の時代、禅宗の語録や祖師の行実記の漢文体は難解であった。今日では使われていない漢字も多い。禅宗では、武家、公卿の信者が多かったため、文盲の接化は二の次だったともいえる。しかも、難解な漢文を尊ぶ気風があり、唐宋の国柄や思想を理解する早道でもあるとも考えられていた。それがまた彼らの優越性を競わせていたのである。それに対して、一休の『仮名法語』や蓮如の『御文(おふみ)/東本願寺では御文というが西本願寺では御文章(ごぶんしょう)という』では、女子や一般民衆にも判りやすく説くために、漢字仮名混じり文章が用いられた。水上勉は、一休が『仮名法語』を生み出したのは、浄土信仰者であった母に判りやすく一休の臨済宗(禅宗の一つ)を説くためであったとしている。

 『狂雲集』に、「南坊に示す 偵」と題した一詩がある。

 勇巴興尽きて妻に対して淫す、
 狭路
(きょうろ)の慈明逆行(じみょうぎゃくぎょう)の心。
 容易に禅を説く能
(よ)くロを忌(い)む、
 任他
(さもあらば)あれ雲雨楚台(そだい)の吟ぎん)

 勇巴とは男色のことである。雲雨は楚の喪王が神女に会った故事から男女の密会を意味しているが、水上勉の解釈によると、「今まで稚児を相手にして男色にふけってきたが、これも興がつきたので、この頃は女性の方が楽しく、妻と淫にふけっている。まあいってみれば慈明さんの逆行というところだが、たやすく禅などとロにだしていう修行面をしているよりも、女体の肌のきめこまかな汗ばみの中で、こんな馬鹿げた詩を口ずさんでいるのだ」となる。水上勉は、寺院における自己の童行時代を振り返って、僧職たちの男色についても述懐している。丹羽文雄も「蓮如」において、本願寺3世となった親鸞のひ孫である覚如の稚児時代の男色を描いているが、いつの時代も寺院における男色は公然の秘密であったのであろう。


 一休を取り巻く晩年には、金春善竹、村田珠光、柴屋宗長など多くの文化人の名前が出てくる。金春善竹は連歌、和歌、仏教に深く通じたといわれる猿楽師、村田珠光は「わび茶」の創始者であり、柴屋宗長は連歌師といったところであろうか。いずれも交流の詳細は判らないが、一休が茶道、絵画、連歌、能といった領域に関心を示した証であろう。水上勉の「一休」では、厳しい修行時代の一休が、京へ出て、香包(においつつみ)づくり、雛人形の彩衣づくりなどして衣食の資としていたことが描かれているが、素養はそのころから培わられていったのであろう。

 酒色を帯び、木剣をたずさえ、今日は遊女と、明日は町の娘と浮き名を流し、頼まれれば破れ法衣で葬式にも法事にも出向く、風狂僧一休であったが、堺の町の人々は親しみを感じて帰依するようになっていった。応仁の乱で京都が焦土と化していた時代風景である。老いらくの恋の相手であった森如についての記録は殆どない。どこに生まれて、どこに育ったかも不明だが、一休遷化(せんげ)後、一休の13回忌と33回忌の法事が大徳寺で営まれた際に、参詣して500文と100文の布施をした記録が「真珠庵文書」に残っているという。真珠庵は、一休ゆかりの大徳寺塔頭である。

 前述したが、丹羽文雄は「蓮如」で、人知れず森如が酬恩庵から去らねばならなくなった不幸を一休の無責任さとして批判していたが、必ずしもそうとはいい切れないようである。盲目の舞女であった森如が、33回忌まで布施をしていたことは、かなりの高齢になるまで、ある程度の暮らしをしていた可能性を想像させてくれる。一休が、森女の行く末まで案じて手配をしていた可能性も考えられなくはない。とはいえ、真珠庵文書が後世の作文ということも考えられる。森如を菩薩の化身と譬喩する向きもあるが、いずれの事実もほとんどが不明である。



「蓮如(一)」
覚信尼の巻
丹羽文雄
中央公論社
中公文庫

 仏教の女性観では、女性こそは五障三従の身として男に勝って罪ぶかいものとされたが、一休は道歌でこう詠んでいる。

 色の世界に色なき人は、
        金仏木仏
(かなぶつきぶつ)石ほとけ

 水上勉は、人間の自然を否定して何処に人生があるか。煩悩を罪悪視して何処に人間があるか。私はそう受け取るともいっている。一休は、27歳の夏の夜、鴉が啼くの聞いて大悟した際に、明け方、師の華叟の前でその見解を述べたところ、華叟は「それは羅漢の境地だ。作家(さっけ)の境界ではないぞ」といったという。すると一休は、「これが羅漢だといわれますなら羅漢で大いに結構です。私は作家などになりたくありません」と答えたという。華叟は微笑して、「おまえこそ本当の作家だ」と言って、認可書を手渡そうとしたが、一休は目もくれず内職稼ぎに出て行ったという。後日、華叟が送り届けた印可書も、引き裂いて火にくべた。一休には、おのれ一人しかいなかったのである。組織に生きる人ではなかった。蓮如との大きな違いがそこにはあった。おのれに正直に生きたともいえよう。


 一休は、栄西が伝えた臨済宗(禅宗)の僧であった。形式や権威を嫌い、安逸を貪る五山や大徳寺の僧達を激しく非難し続けた。その意味では、栄西に最も近かったのかも知れない。道元が伝えた曹洞宗(禅宗)とは坐禅に対する心構えがまったく異なっていた。曹洞宗の坐禅では、ただ黙々と何も考えない<只管打坐(しかんたざ)>が基本とされているが、臨済宗では、坐禅を悟りに至る手段として、思索し工夫をする<公案禅>が基本とされている。曹洞宗が一般民衆に広がったのに対して、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと武士階級に広まっていたこともあった。

 龍宝山(りゅうほうざん)中の悪知識
 言栓
(ごんせん)の古則は尽(ことごと)く虚伝(きょでん)

 旧来の権威を否定するとともに、自己の解放を目指していたともいえる。しかし、80歳を過ぎてから大徳寺の住持となると、応仁の乱で焼失した大徳寺の復興に尽力したという。一休の名声があっったればこそ、成し遂げられた復興であった。一休は、大徳寺には住まず、報酬庵にて森如との生活を送っていた。重文となっている絵本淡彩一休和尚像が残されている。一休晩年の姿であるが、ひげ面の貧相な面構えが描かれている。しかし、風狂に生きた一休の生涯を考えると、その眼の奥にある矜持の塊の存在を思わずにはいられない。


一休和尚像
(部分)
ウィキペディアより
元出典
紙本淡彩一休和尚像
東京国立博物館
<重文>

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059「2045年問題−コンピュータが人類を越える日」/松田卓也(2013年12月8日)

2045年問題−コンピュータが人類を越える日/松田卓也
/廣済堂/20130101初版/223頁/\800+税

 フランスの没落貴族だったヴィリエ・ド・リラダンが、貧困の中で書き綴った『未来のイヴ(原題:L'Eve future)』は、1886年に発表されたSF作品だ。リラダンは、1838年の生まれ。明治の元勳山縣有朋や早稲田を創立した大隈重信、土佐の後藤象二郎と同年になる。坂本龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎も同年だ。ちなみに、坂本龍馬は2歳年上になる。

 ヴィーナスのごとき完璧な美女でありながら、知性のかけらもない俗物の歌姫アリシヤを恋人にした青年貴族エワルドが、エディソン博士が製作した人造人間ハダリーの改造を依頼する。ハダリーは、見かけは完璧な美女アリシヤと瓜二つでありながら、知性においてはエワルドが求める理想の女性を体現することになる。少し長くて読み辛いかも知れないが、結末は原作を読んで頂くものとして、約130年前に書かれたこの作品は、後世に多くの影響を残すこととなった。ちなみに、「ハダリー」とは古代ペルシャ語で「理想」という意味だった。

『未来のイヴ』は、押井守監督作品で知られている『攻殻機動隊』や『イノセンス』にも多大な影響を与えたという。例えば『イノセンス』にも「ハダリー」が登場しているが、イメージは異なるものの、その影響を垣間見ることができる。また、『攻殻機動隊』そのものは士郎正宗原作だが、押井守監督以外にも神山健治監督の作品など複数の作品がパラレルワールドを形成している。かなり特徴があるセリフ回しが多いが、多くのファンがいることは複数の作品が存在していることからも判る。

 最近も『天地明察』の冲方丁が脚本を書いた黄瀬和哉監督の新シリーズ『攻殻機動隊 ARISE』が始まっている。脳の神経組織に直接、接続する電脳化技術が発達した未来社会を描いているが、ハリウッド映画の『マトリックス』シリーズは、間違いなくその影響下にある。また、スピルバーグ監督が『攻殻機動隊』の実写権を買い取ったことは注目すべき話題といえる。

『攻殻機動隊』は、「第3次世界大戦(核戦争)」から、「第4次世界大戦(非核戦争)」を経て、「義体(ぎたい)」と呼ばれるサイボーグ化した人々や、アンドロイド、バイオロイド、ロボットなどが混在する未来社会が舞台となっている。しかも、その社会では、高度に発達したコンピュータネットワークと人間の脳が直接接続することが可能となっている。そこでは、電脳化と呼ばれる脳に埋め込まれたマイクロマシンが可能としたバイオネットワーク技術が浸透しているのだった。



「少佐」と呼ばれる女性の主人公である草薙素子は、脳と脊髄の一部以外はすべて義体化しているが、超越した身体能力の高さはもちろんのこと、あの冷徹な語りとともに、コンピュータネットワークを描いた世界の映像が興味深い。そして、『イノセンス』の世界においては、その脳までをも捨て去った存在となっていた。しかも戦慄すべきは、進化したネットワーク自体が、何らかの意識を持ち始めているということを想像させてくれる。現実世界においても、その兆候が既に始まっているのかも知れないほどの危惧を与えているのだ。

 インターネット上にあるデータの8割はアメリカを経由しているとの情報もある。正確には、インターネットはもともとアメリカが自分たちの軍事目的で始めたものだった、インターネットの基幹部分はアメリカに集中することとなった。そのため、世界の情報通信の多くはアメリカを経由するのだが、全世界のサーバーシェアのほとんどをアメリカ企業が占めていることも忘れてはならない。

    
           アメリカ国防総省庁舎(ペンタゴン)

 そして、アメリカが世界各地の情報を秘密裏に収集していたことが、最近の注目されたニュースとなったが、アメリカ自体がそのことの非を認めるどころか、世界平和のためとうそぶいている始末だ。それは、ロシアで亡命しようとした元国家安全保障局(NSA)の局員だったエドワード・スノーデンへの対応からも判る。非合法なことをしたのはアメリカ政府なのにも関わらず、自分たちの問題は棚上げにしたまま、告発をした彼を犯罪者として、引渡すよう各国にごり押しする姿はほとんど我が儘の域を超えている。


2045年問題
-コンピュータが
人類を越える日-
松田卓也
廣済堂




未来のイブ
ヴィリエ・ド・リラダン
齋藤磯雄訳
東京創元社




攻殻機動隊より
GHOST IN THE SHELL


 リベラルといわれるオバマ大統領にしてからこの程度なのだ。もっともオバマ自体がレームダックと化しているという見方もある。「特定秘密保護法案」は、そのアメリカの思惑の延長線上にあることと、日本の行政側にも自分たちの問題を隠したいとの発想があることに基本的な問題がある。

『2045年問題−コンピュータが人類を越える日』は、宇宙物理学者である松田卓也が書いた本だが、『攻殻機動隊』や『マトリックス』とともにアーサー・C・クラークが描いた『2001年宇宙の旅』のシリーズの話題が出てくる。ちなみに『未来のイブ』は出てこない。音声認識の話題など、著者が老齢(失礼)に所以すると思われる苦労話などが出てくるのが微笑ましい。

 インテルの共同創業者であるゴードン・ムーアが経験的に見つけ出した「ムーアの法則」は有名だが、集積回路の集積度が1年〜2年で指数関数的に倍増するというものだった。幾多の批判もあったが、40年以上経た現在でも有効とされている。

 指数関数的に倍増する進歩速度では、1年後は2倍、2年後は2の2乗倍=4倍、3年後は2の3乗倍=8倍、10年後には約1000倍、20年後には約100万倍、30年後には10億倍に達することになる。実際、1980年代末に使われたスーパーコンピュータは部屋一杯の大きさがあったが、その能力は現在のスマートフォン以下だという。世界順位は下がったが、日本最強のスーパーコンピュータ「京(けい)」は、1980年代末の1000万倍のスピードがあるのだ。

  
         日本最強のスーパーコンピュータ「京」
               富士通のホームページより


 このように指数関数的に進歩したコンピュータ技術は、<ある時点>で人間の予測が不能となり、全人類の知能を超える「技術的特異点」に達するという主張をアメリカのコンピュータ研究者であるレイ・カーツワイルが唱えている。その時点がこ


の本のタイトルである『2045年』だというものだ。カーツワイルの説では、2029年には人工知能を備えたコンピュータが現れ、2045年には、さらに教育を重ねることによって人間の知能を超えた知性をもつコンピュータが完成するという。そして、この特異点においては、コンピュータの知能が地球の人類を合わせた全知能を凌ぐというものだ。

 また、カーツワイルよりもさらに上回る予測をしているヒューゴ・デ・ガリスは、2050年から2100年までの間に、人間の能力の1兆の1兆倍も優れた「人工知性」が生まれると予想をしている。さらに彼は、21世紀後半に、「人類と人工知能の間の大戦争」の可能性を予言している。その闘いでは、数十億人の人類が死ぬことになるというものだ。現実はどうあれ、それほど遠い未来のことではないといえる。

 人工知能の開発計画には、アメリカの国防総省の支援を受けたIBMが始めた「シナプス計画」や、ヨーロッパの「ブルー・ブレイン・プロジェクト」などがあるが、人間の脳をスーパーコンピュータでシミュレーションしようというものだ。後者では、人間の頭のなかで起こっているすべての化学反応をコンピュータでシミュレーションできるようになるのを2023年と予想をしている。

 IBMが公表している利用方法には、世界中の海にブイを浮かべて、波の高さや温度、湿度などの情報をコンピュータに入れると、津波情報などへの利用が可能になるというものがあるが、その予報システムではコンピュータによる自動プログラムが動くようになるという。コンピュータの独自判断はともかく、こちらはすぐにでも計画に取りかかって貰いたいプランといえよう。IBMのシナプス計画であろうが、ヒューマン・ブレイン・プロジェクトであろうが、いずれも人間の経験則をコンピュータに情報として与えることによって、人間の脳そっくり、あるいは人間の脳を超える人口知能をつくろうとしているともいえる。

 2012年末に亡くなった米長邦雄前日本将棋連盟会長は、自らコンピュータとの棋戦に挑み、敗れ去り、『われ敗れたり』の本を残したが、プロ棋士たちが培ってきた戦略、戦術を学び、将棋アルゴリズムを瞬時にして計算するコンピュータ棋士がプロ棋士たちを凌駕する日はそう遠くないことを想像させてくれる。事実、2013年に行われたプロ棋士とコンピュータ棋士との『第2回将棋電王戦』では、コンピュータ側の3勝1敗1引き分けとなった。大将戦にあたる第5局では、670台のコンピュータを接続して、1秒間に2億5千万手を読む「GPS将棋」が、A級棋士である三浦弘之八段を破る結果となった。


イノセンスより
押井守監督




Intel 8086
1978年発売
PC-9801などに採用
トランジスタ数
2万9千個





Intel Pentium
1993年発売
トランジスタ数
310万個


 人工知能には、「強い人工知能」と「弱い人工知能」があるという。強い人工知能とは、「意識」をもった人工知能のことで、弱い人工知能とは、将棋など何か特定の目的だけに特化した人工知能のことをいう。また、人間の「意識」には、定まった形などはない。人の脳に浮かぶぼんやりとしたイメージにしか過ぎない。人間の脳を形成しているニューロンやシナプスは、それ自体が意識を持っているわけではない。コンピュータも同様に、単体で何かをしているというよりも、全体で一つの目的を果たしているといえる。その意味では、コンピュータが意識を持っているか否かの判断は非常に難しい。『攻殻機動隊』や『イノセンス』が描いていたように、ネット自体が何らかの意識を持ち始めるようになることも考えられる。否、既に何かが始まっているかも知れないのだ。

 アメリカの哲学者であるジョン・サールが1980年に発表した『中国語の部屋』というパラドックスがある。外部と紙切れでやりとりができる小さな穴しか空いていない小部屋にアルファベットしか理解できない人間を閉じ込めたとしよう。その穴を通して、漢字を並べた紙片を入れると、彼は書かれていた漢字に対して、紙片に漢字を書いて戻さなければならないのだが、部屋の中には一冊のマニュアルがあり、そのマニュアルには、どの漢字の羅列には、どう答えるべきかが書いてある。すると、結果として、外にいる人間から見ると、小部屋にいる彼が漢字を理解しているように見えるのだ。

 しかし、本当のところ、彼は何も理解をしていない。それでも漢字(この場合は中国語)による会話が成立しているかのような状況が起きているのだ。現在の会話ができるロボットと同じことがここでは成り立っている。その機械が知的かどうか、意識があるかどうかを判定するための、チューリングテストの一種ともいわれている。

 このとき、彼が中国語を理解しているとみるべきかどうかということが問題になってくるのだが、2045年問題を掲げるカーツワイルは、「理解している」と見なすべきという立場だ。本書の著者である松田卓也は、「理解しているかどうかは問題ではない」といいながらも、「結果は同じならば同じ」といって


いるが、私にはカーツワイルと同じ理屈に思える。理解しているかどうかが問題なのではないということは、コンピュータが意識を持っているかどうかは問題にならないことでもある。見方を変えると、人類には理解できない次元の可能性もあるのだ。

 かつて、人類はこの地球上で、唯一道具を使う生物だといわれたことや、唯一言語を使う生物だといわれたことがあったが、いずれも今日では否定されている。人類が扱う意識の概念を超えた次元が、動物界にも存在していたわけだ。知識レベル=意識レベルとはなり得ない次元があるからだともいえる。そして、ネットが意識を持ったかどうかを人が認知することさえできないことも考えられる。人の意識の存在自体にしても明確なものは定義付けられていないわけで、人の意識レベルを超えた次元の世界が存在することは否定はできない。地球を一個の生命体とみる『ガイア理論』もその一つといえる。

 人の脳細胞の数はおよそ150億個あるが、そのうちの10%、10億個を常時働かせている人は天才だといわれている。現在、集積回路では、1cm角のシリコンの板の中に約10億個のトランジスタの作り込みに成功している。人の脳細胞1個とトランジスタ1個が同じ働きをするとはいいきれないが、2020年頃には、1cm角あたり約100億個のトランジスタが集積できるようになると考えられている。その技術の根幹を支えているのは、『薄膜技術』だ。人の頭くらいの容器は、およそ1リットル程度といわれているが、1cm角の1000倍の容量があることになり、そのなかには10兆個のトランジスタが組み込まれることが可能になるわけだ。

 コンピュータのさらなる進歩は、私たちの生活を今後どう変えるのだろうか? 産業革命による機械化によって、人間が失業に追い込まれたのが第1回目の技術革新だったが、第2回目の技術革新では、近年の産業ロボットにより多くのブルーワーカーが失業する問題が指摘されている。グローバリゼーションにより、「ものづくり」はどんどん低賃金の国に流れていったが、産業ロボットの導入は低賃金によるものづくりさえ破綻させることになる。


われ敗れたり
米長邦雄
中央公論社





トコトンやさしい
薄膜の本
麻蒔立男
日刊工業新聞社


 アップルのiphoneは、フォックスコン社という台湾企業の中国工場で生産されているという。ちなみに私がメインで使っているディスクトップのグラフィックボードは、この会社のブランドによるものだが、多くのメーカーに各種の部品等を提供している。フォックスコン社では、100万人が働いているそうだが、2012年以降の3年間で100万台のロボットを導入して、50万人の労働に置き換えると発表したため、大規模な抗議行動も起きているという。

 グローバリゼーションは、国家間では均一化、国内では格差拡大として働くのだ。まさに、「エンデの遺言」にも書いたが「グローバリゼーションに未来はない」ことになる。見方を変えると、多くの国際間で活躍する企業は「グローバリズム」を目指しているのだろうが、彼らは「希望がない未来」に向かっているともいえる。それとも、他の何を目指しているのだろうか?

 人類の未来についての4つのシナリオがあるという。

  1)人類がコンピュータに支配されるという暗い未来
  2)巨大化したコンピュータのなかに、意識をアップロード
    し、人類は肉体を失う
  3)人類はそのまま存続し、コンピュータが人類の知能
    を補強する
  4)人工知能にはあまりにもコストが掛かるので、
    結局は何も起こらない

 いずれにしても、あまり明るい未来を著者は予想をしていないようだ。人類対人工知能が争いを起こす要因すら、いくつもの可能性が考えられる。

 人類の近未来の予測として良く知られているが、1972年に、アメリカのデニス・メドウズがローマ・クラブへ報告したシ


ミュレーションがある。そのシミュレーションでは、人口は初めの数十年はどんどん増加するが、21世紀のなかばにピークを迎え、その後、激減するという結果だった。しかも、仮に農業革新や技術革新が起こり、パラメーターが変わったとしても、ピークが後ろに数十年移るだけで、結果は変わらないばかりか、時期が後退したことにより、崩壊の度合いが大規模になるというものだった。

 メドウズは、その後「持続可能社会」を提案している。社会を持続させるためには、人口、工業生産、サービス、農業生産、エネルギー使用量、汚染などを人為的に管理することだという。著者も述べているが、そこでは「政治」が重要なキーワードとなってくる。「市場原理主義」を謳い、「グローバリゼーション」が叫ばれ、「規制緩和」が呪文のように唱えられている政治や経済の世界だが、一部の資本家だけに富が集中し、格差が助長されているだけだともいえなくはない。規制緩和が悪いとはいわないが、市場原理を基点とするのならば絶対にやるべきではない。一部の官僚や既得権団体の問題は別に考えるべきであり、そこでは理論のすり替えが行われている。「戦略的特区」なるものも、そのような胡散臭さを感じる。

 この本のタイトルは『2045年問題』だが、問題はコンピュータが人類の知性を超える可能性を危惧することよりも、ロボットなどの技術革新により、人類が働く機会を失い、結果として、一部の資産階級のみに富が集中することが問題なのだということを指摘しているともいえる。今のままでは「未来」はないのだ。「富」が偏ることは、「富の価値の死滅」を意味しているともいえる。ヴィリエ・ド・リラダンが『ハダリー』に託した「理想」は、個人的な「野望」だったが、そこに至る「技術革新」と「富の未来」は決して個人的なものであってはいけないのだ。「人類すべての希望」を語ると同時に「地域に住む人の未来」を語る必要があるのだ。


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058「武士の娘」/杉本鉞子/大岩美代訳(2013年11月22日) 

■武士の娘/杉本鉞子/大岩美代訳
/筑摩書房/ちくま文庫/19940124第1刷/20081015第9刷
/384頁/\950+税

 2009年に、車で日本一周をした際、岡山県の高梁市にある「備中松山城」を訪ねた。山の上にあるお城だが、ほとんどが登山だったという記憶がある。小堀遠州が城主になっていたことや、何度かの城主交代があって、1693(元禄6)年、後継ぎがいなかった水谷家が断絶した際に、城受け渡しに来たのが赤穂藩の大石内蔵助であり、代官として1年間住んでいたこともあるなど、いわくの歴史が残されている。その後も城主交代が続き、幕末には、徳川吉宗の玄孫にあたる、老中首座も勤めた板倉勝静(かつきよ)が藩主だったが、藩政に山田方谷(ほうこく)を起用して藩政改革を成功させたことが知られている。しかし、幕府の要職にあったため、戊辰戦争を経て函館までの転戦を余儀なくされる。

    
                   備中松山城

                (2009年11月29日撮影)

 山田方谷の説く「理財論」と「擬対策」は、今で言う「財政改革」「規制改革」「商工業の発展」「専売制の導入」「綱紀粛正」などを実践したものだ。信用を失っていた藩札を回収して公衆の面前で焼却処分をした話は有名だ。藩札の信用度が回復、備中松山藩に多額の資金が流れ込むようになった。明治維新後も、山田方谷の財政改革の実行力を評価する新政府は再三の出仕を求めたが、それを固持し、1877(明治10)年に死去するまで、閑谷学校(しずたにがっこう)で民間教育の実践に余生を捧げた。

 その山田方谷に師事したのが長岡藩の河井継之助(つぎのすけ)である。幕末期の1865(慶応元)年に、家格を超えて郡奉行に抜擢されると、役職を重ねるとともに「藩政改革」を主導し、長岡藩の実力者となっていった。長岡藩主牧野忠恭(ただゆき)は京都所司代となるが、鳥羽・伏見の戦いを契機として戊辰戦争に突入していくことになる。主戦派の河井継之助に対して、長岡藩の家格筆頭であった稲垣平助たちは恭順を説くが、恭順派は藩主を含め藩における信と力を失っていく。この河井継之助を主人公とした司馬遼太郎の作品が『峠』である。そして、この『武士の娘』を書いた杉本鉞子が、稲垣平助の娘である。『武士の娘』には、河井継之助のことは一切出てこない。





 南北戦争は、1861−1865年にかけて起きたアメリカ合衆国における内戦である。16世紀から19世紀にかけてアフリカから強制的に連れて来られた黒人奴隷により、アメリカ南部はプランテーション農業が経済の中心だったが、工業化を発展の中心にしたアメリカ北部と「奴隷制度」を主な争点として争った。1865年4月の南部の首都リッチモンドが陥落すると、南北戦争は事実上終了した。その結果、大量の武器が余ることになった。アメリカでは二束三文になってしまった兵器が、幕末の日本では高値で売れたという。殺傷能力の高いミニエー銃や連射ができるガトリング砲が日本に持ち込まれたのだった。当時、日本に三門しかなかったガトリング砲だったが、アメリカで取引される価格の十倍以上の値段で、うち二門を長岡藩の河井継之助が仕入れたと伝えられている話はあまねく知られている。

『武士の娘』は、稲垣家という、豊かな米の集散地であり、信濃川の流域に広がる越後平野の中心に位置する水運交易の地、新潟の湊(みなと)を支配していた長岡藩7万4千石の家老職を勤める五家筆頭であり、将軍にお目見えが許された家に育った女性が、動乱の幕末を経て没落し、ふとした縁でアメリカに渡り、現地にいた日本人と家庭を持った後、英文で日本の情景を綴った物語だ。心が洗われる美しい文章が続く。とにかく、訳が素晴らしい。恐らく原文(英文)も素晴らしいからに他ならない。著者は前述したように杉本鉞子、日本語の訳者は大岩美代。鉞子(えつこ)は、鉞(まさかり)の子と名付けられたことも凄い。門閥家老だった父の稲垣平助は、時代の流れに抗し得なかった控えめな古いタイプの『サムライ』だったかのイメージが強いが、その心の底に流れていた思いは異なっていたかもしれない。

 こんな文章が続く、

  私共が興味深げにしているのを見られて、お祖母さまは大切にしておられたらしい笄(こうがい)をとり出してこられました。笄と申しますと、刃のない細身の小刀で、手裏剣とともに、太刀の鍔(つば)に差込むものなのです。古(いにし)えの武士の戦術には厳格な方式がありました。武器の使い方に一々定まった方式があってその掟にはずれて、敵を傷つけましても、何の誇りにもなりませんでした。即ち、太刀のねらいは面、小手、胴、脛(すね)の四つ、手裏剣は矢の如くあやまたず、額、咽喉、手頸(てくび)の何れかに当らなければなりませんでした。が、笄は様々に使われたもので、太刀の鍔に納めれば鍵となり、耳掻形の先は印籠中の薬をすくうために用い、又腹合に作られた笄は野営の折りの箸となり、また、戦場や、退却の折りには瀕死の重傷に苦しむ敵や戦友の踝(くるぶし)の動脈を刺して(死を与える)情の業にも使われました。また、藩と藩との争いで、この笄が死んだ仇の足頸に真直にさしこまれている時は「帰来をまつ」という無言の挑戦を意味したものだといわれています。それには定紋が彫ってありますので、やがては元の持主に返ったということもあります。笄も中世の物語や仇討にはいろいろの役割を演じました。

 今では、私たちが忘れ去ってしまった古えの習慣などが淡々と語られる。欧米でベストセラーとなったことにも驚かされる。一読すべき価値がある名作だ。



武士の娘
杉本鉞子
大岩美代訳
筑摩書房

■鉞子(えつこ)世界を魅了した「武士の娘」の生涯
  /内田義雄/講談社/20130325第1刷
  /254頁/\1,600+税

 『武士の娘』を紹介した本が2013年の春に出版された。『鉞子―世界を魅了した「武士の娘」の生涯/内田義雄』だ。著者は、鉞子の父である稲垣平助の手記などを丹念に調べ、明治後に長岡藩再興に尽力した姿を描いている。「官軍」に対して、激しい抗戦を行った長岡藩が、7万4千石から2万4千石に厳封されたとはいえ、同じ長岡での「主家再興」が認められたことが、関係者を驚かせたという。稲垣平助の労苦もあるが、その陰には、鉞子の祖母であり、平助の母であった菊の存在があった。平助が6歳の時に、故あって稲垣家を去った菊は、薩摩藩島津家の姫君に仕えていたという。その鉞子と祖母の静かな交流も、描かれているが、主家再興を果たした平助に、牧野忠恭の養子となって藩を継いだ牧野忠訓(ただくに)は、お目通りすらも許さなかったという。長岡城落城の少し前に出奔し、江戸に出て官軍に投降したためだった。

 稲垣平助を蔑む風潮が現在でも残っているが、その後、見直す動きも出ているという。稲垣平助一家には、辛い維新後の余生が待っていた。幾つもの事業を経営したが、「武士の商法」でもあったため、いずれも失敗し破産の憂き目にも遭っている。鉞子は、稲垣平助の六女として生まれている。

 『鉞子―世界・・・』では、『武士の娘』には存在すら隠されていた、鉞子のアメリカの母ともいえるフローレンスが紹介されている。鉞子より16歳年上であったフローレンス・ウィルソンは、鉞子がアメリカで世話になるウィルソン夫妻の姪だったが、本人の意向で『武士の娘』にはほとんど出てこない。鉞子の生活から、著書の出版に至るまで、いつも鉞子の問いに答えてくれた存在だった。鉞子が日本に戻ると、フローレンスは鉞子を追って来日をする。一旦、アメリカに帰るが、その後、 日本で生涯を終え、杉本家の墓に葬られることになる。また、




鉞子の長女の名前が花野だが、フローレンスの名前を投影している。フローレンスなくしては、『武士の娘』は生まれなかったのである。

 鉞子は、兄の平十郎(後、央と改名)がアメリカで世話になった杉本松雄と結婚するために単身アメリカに渡る。しかし、郷里長岡で厳格な武士の教育を受け、東京のミッションスクールで開放的な女性の生き方を学んで、すぐに渡米した訳ではなかった。『武士の娘』には、21歳から26歳までの5年間の空白があるのだが、その間の経緯(いきさつ)が『鉞子−世界・・・』で明らかにされている。鉞子は、横浜のメソジスト系の海岸女学校で働いていたのだった。その5年間の経験は、杉本鉞子の精神的・人格的形成に大きな影響を及ぼし、自立心の高い女性に成長する試練となった。

 鉞子は『武士の娘』で、「日本のこころ」を描いたが、『菊と刀』のルース・ベネディクトなどにも大きな影響を与えた。ベネディクトは、『文化の型』であらゆる民族は固有個別の文化をもつという「文化の多様性」を論じたが、西洋文明の優越性を信じていた西洋に人々に対して、大きな影響を与える。

 新渡戸稲造は、欧米人の道徳の規範としてのキリスト教に代わるものとして、日本人の心における規範を『武士道』に求めた。日露戦争では、破竹の勢いだった日本軍の強さや、ロシア人捕虜に対する寛大な対応の規範として「武士道」が賞賛されたが、日中戦争や太平洋戦争における日本軍の侵略や残虐行為を理由付ける日本的精神の理解にも使われるようになっていく。そこには、内輪の論理しかなかったからである。今日の靖国神社を信奉する人たちの論理にも同じような傾向がある。世界に発信する、あるいは世界の人々が理解する論理がそこにはない。それに気付かない人たちが政権を担っている悲劇があるともいえる。



鉞子
世界を魅了した
「武士の娘」
内田義雄
講談社

■峠/司馬遼太郎//新潮社/新潮文庫
/19750530初版/(上巻)597頁/(下巻)548頁

 さて、その『峠』の方だが、テレビの時代劇ドラマ「河井継之助」では主人公を今は亡き中村勘三郎が演じていたが、あのもったりとした雰囲気と、主人公のイメージが合わなかった記憶がある。小説では、河井継之助が上京を願って、長岡藩筆頭家老の稲垣平助宅を日参するところから始まるが、ドラマは、維新後、河井継之助の墓が破却されるシーンが冒頭に出てくる。

『峠』には、二人の『福』が出てくる。その一人、福澤諭吉は、豊前(大分県)中津藩士の家に生まれ、洋学を志し、21歳で長崎に出て蘭学を学んだが、その後大阪に出て緒方洪庵塾に入り、後に塾頭にまでなった。そして、江戸の鉄砲洲(てっぽうず)に洋学塾を設け、後の慶応義塾の基礎としたが、万延元年、幕府が軍艦咸臨丸をアメリカに派遣するにあたり、軍幹奉行木村摂津守の従者として渡航した。帰国後、幕府の外国方翻訳掛として幕臣となった。

 同じように、長崎の町医者の家に生まれ、長崎で蘭学を学び江戸に出て来たが、そこで英語を学び外国奉行支配通弁御用雇として幕臣となった福地源一郎がいる。福澤と福地は、明治になってから「天下の双福」と言われたが、いずれも根っからの幕臣ではなかった。この時代、幕府には人材が少なかった。潜在能力が高かろうとも、時代を読み取る力を持っていなかったからである。

 『峠』では、福地源一郎はこう語っている。
「学問も、ありゃしない。日本中の侍のなかでいちばん無学なのは江戸の直参でしょう。無学も無学、ひどいものだ」と。
 どの藩でも藩士のための教育機関をもっていたが、幕府だけは旗本のための教育機関を長い間もっていなかったのである。良くいわれるが、学力が高く知識は優れているが、国際的に通用しない現代の官僚に繋がるという見解がそこには生まれてくる。しかし、確かに官僚にも問題があるかも知れないが、その官僚を使い切れない政治家にこそ、より多くの問題があるのではないかと私は考えている。使い切れないから、騙されてしまっているのだ。しかも最近では、官僚以外にも政治的ブレーンといわれる人たちが政治の方向性を左右している。

 郡奉行兼町奉行から、年寄役となった河井継之助に長岡藩の主導権は移っていった。旧来の家老職には世情をみる能力が欠けていた。彼らには世の動きを理解する能力がなかった。世界を見て育たなかったからである。自分の周りの世界が彼らの世界のすべてだった。いずれには藩政を担うことを予感し、若い頃から国内を検分し、多くの人と会っていた継之助の見識に期待せざるを得なくなっていく。

 継之助本人は、長岡を独立王国とすることを理想としていた。徳川、薩長のいずれにも付かず、長岡の主権を確立したいという考え方である。司馬遼太郎の『峠』では、そのモデルとしてスイスが描かれている。一方、旧来の老臣たちは、勝敗の行方が気になっていた。特に主席家老だった稲垣平助は、他の多くの藩と同様に勝ち馬に乗るべきと言う考え方だった。保身のためという見方もあるであろう。しかしならが、大殿となっていた牧野忠恭(ただゆき)は、徳川への忠誠を大事に考えていた。牧野忠恭は養子であった。三河西尾藩主松平乗寛の三男であり、徳川幕府の中での牧野家という発想から抜け出ることはできなかった。結局は、河井や稲垣がどう考えても、幕府に心中したいという殿様の発想が長岡藩の基礎にあった。

『峠』では、官軍と争った「北越戦争」の前に行われた「小千谷談判」において、決裂してしまった主因は、河井継之助の会談相手だった官軍の軍監岩村高俊(精一郎)の偏狭さを主な原因としている。もし、相手が山県狂介(有朋)か黒田了介(清驕jであったなら、歴史は変わっていたかも知れないとみている。歴史に「もし」は禁句ではあるが、「もし河井継之助が明治維新を生きのびたなら」、その能力の可能性は計り知れないものがあることも間違いはない。

 戊辰戦争後、徳川慶喜が密かに逃げ出したことを知ると、当時、大阪にいた河井継之助を初めとする長岡藩は、急ぎ江戸に戻る。その江戸に戻ってからの動きが面白い。江戸で藩主 を真っ直ぐ長岡に帰すと、江戸藩邸を処分し、その利益で「米」と「銅貨」を買っている。江戸から長岡に帰る方法は、陸路ではなく、外国人とも付き合いの多かった河井継之助は、外国船で太平洋を周り、津軽海峡を経て日本海に出て、越後に入り、そこからは陸路で長岡に向かっている。船には、会津藩と桑名藩の藩士も載せていた。その中には、桑名藩の領地を官軍に押さえられた、京都所司代だった桑名藩主松平定敬(さだあき)も含まれていた。松平定敬は、会津藩主松平容保の実弟でもあった。会津藩は仙台、桑名藩は新潟で降りるのだが、河井継之助の凄いところは、江戸で仕入れた「米」を「米」の値段が高い函館で売り、「銅貨」は二万両あったと言うが、銅相場が高い新潟で売っているのである。それぞれ巨利を得たという。

 このような商売ができる傑物といえば、同時代では坂本龍馬と岩崎弥太郎を思い出すことができる。坂本龍馬も幕末に命を落とすが、河井継之助とともに明治を生き残れば、三菱財閥と並ぶ経済的巨人となっていた可能性があるのではないだろうか。政治的巨人というよりも、経済・経営的な巨人となっていたような気がする。好き嫌いは別として、河井継之助の思想的根柢には経済的な感覚が根付いていたのだろう。『鉞子世界を・・・』では、河井継之助に否定的な見解が出されているが、それほど嫌いになる理由が私にはない。


峠(上巻)
司馬遼太郎
新潮社





峠(下巻)
司馬遼太郎
新潮社
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057「エンデの遺言」/河邑厚徳他(2013年10月23日)

エンデの遺言/河邑厚徳+グループ現代/講談社
/講談社α文庫/20110320第1刷/\838+税/332頁

 先日、ある講演会があり、「グレートジャーニー」で知られる関野吉晴の講演を聞いてきた。人類がアフリカに生まれ、南米大陸の最南端までに至る5万キロメートルの人類拡散の大遠征をイギリスの考古学者であるブライアン・M・フェイガンは「グレートジャーニー」と呼んだ。この人類の旅を、逆ルートで南米の最南端から自分の脚力と腕力だけで辿ろうとしたのが関野吉晴であり、テレビでも放送されたし、私はそのほとんどをDVDで観た。関野吉晴は一橋大学を1975年に卒業したが、南米などの世界各地を行きつつする中で、現地の人の役に立てるようにと横浜市立大学医学部に入り直して「医者」となり、1993年から10年近くをかけてグレートジャーニーを達成した驚くべき人だ。現在は武蔵野美術大学の教授職にあるが、映像で観るあの人柄そのままの講演会に聞き入ってしまった。

 関野は当初、人類が拡散していった源泉となったパワーは、「向上心」だと思っていたという。しかし、人類拡散の最終到達点にいた人たちは、亡びようとしている民族だった。向上心もあったかもしれないが、「最も弱い人たち」がそこには残されていた。弱かったからこそ、追い立てられるようにして拡散していった可能性があるのではないかと気付いたというのだ。第二部のシンポジウムで関野は、「グローバリゼーションには未来はない」とか「エンデの遺言」などを語ったことが私には強い印象として残った。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』は、1971年に発行された、世界で30以上もの言語に翻訳された児童文学作品である。エンデは1995年に亡くなったが、翻訳者でもある日本人女性と結婚していたり、NHKの『アインシュタイン・ロマン』などにもプレゼンテーターとして出演するなど、日本との関わりが深かった。本書は、『アインシュタイン・ロマン』や『シルクロード』などのNHK特集を手掛けた河邑厚徳(かわむらあつのり)が、1999年にNHKで放送した『エンデの遺言』を書籍化したものだ。河邑厚徳他、森野榮一、村山純子、鎌仲ひとみなどの共

同執筆者によって構成されている。残念ながら、放送された『エンデの遺言』を私は見ることはなかった。

『モモ』は、ある街の円形劇場跡に現れた「モモ」と呼ばれた小さな女の子が、人々に親切にして貰いながら街で暮らし始める。女の子には不思議な能力が備わっていた。モモに話を聞いてもらうと、何故か人々は自分自身を取り戻すことができて、幸せな気持ちになるのだった。だが、ある日、街に時間貯蓄銀行から来たという「灰色の男」たちが現れる、灰色の男たちは、街の人々に時間を貯蓄するように勧めるのだった。時間を節約して時間を預けると、利子が利子を生んで、人生の時間が何十倍にもなるというのだった。言葉巧みな灰色の男たちの誘惑にのせられた人々は、時間を貯蓄することによって、余裕のない生活に追い立てられていくことになる。道路の掃除を仕事としていた愚直なペッボまでもが、時間を貯蓄することによって人柄が変わっていく。

 だが、灰色の男たちは、人々から時間を奪おうとする時間泥棒だったのだ。モモは、叡智の象徴であるカシオペイアというカメに案内されて「時間の国」に行く。そこには時間を支配しているマイスター・ホラがいた。しかも、マイスター・ホラが眠ると時間が止まり、世界が動きを止めてしまうのだ。モモは、人々に奪われた時間を取り戻すために、カシオペイアとともに灰色の男たちとの闘いに挑む。それぞれの人がそれぞれに刻む『時』に、利子などが付くはずもなく、増殖をするはずもないのだった。何故なら、時はその人の存在とは別なところにあるからだともいえる。

『モモ』には「時間」というテーマがあったが、その背景には「お金」という問題意識が込められていた。そのことに気付いて、エンデ本人に手紙を書いた最初の人は、ドイツの経済学者ヴェルナー・オンケンだった。オンケンは、『モモ』には時間とともに価値が減るというシルビオ・ゲゼルの「自由貨幣の理論」と、ルドルフ・シュタイナーが提唱した「老化するお金」というアイデアが描き込まれていると明察したのだった。オンケンの手紙に対して、エンデは、



モモ
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
岩波少年文庫

「お金の問題が解決されなければ、われわれの文化に関するすべての問題は解決されないでしょう」
との返信を送っている。灰色の男たちは、不正な貨幣システムの受益者にすぎず、灰色の金利生活者たちが利子(時間)を盗むことができなくなってしまえば、彼らは人間存在としてではなく、不正なシステムの受益者として<安楽死>を受け入れなければならなくなるのだった。エンデは、こうも語っている。
「重要なポイントは、パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、2つの異なる種類のお金であるという認識です」と。

『エンデの遺言』のプロローグで、経済評論家の内橋克人は、こう語っている。
「2000年当時、世界をめぐるマネーは300兆ドルといわれた(年間通貨取引高)。それに対し、地球上に存在する国々の国内総生産(GDP)の総計は30兆ドル。同じく世界の輸出入高は8兆ドルに過ぎなかった」

 それから十数年、グルーバリゼイションの名の元に、国際的な金融資本主義は世界の実体経済を遙かに凌駕する市場とお金を生み出している。国によっても異なるが、一般的な人の年間平均収入が数万円から数百万円程度にも関わらず、数億から数十億の年収を貪る一部の傲慢な経済人のお金が同一の物差しにあるということが間違っていることに人々は何故気が付かないのだろうか? 働くことの価値に、それほどの違いがあるはずもないのだ。一部のマスコミなどがちやほやする傲慢な人たちのことである。あるいは、金融市場で高配当を貪る人たちのことでもある。金融資本市場にあるお金は、「商品として売買される通貨」が前提とされており、利子が利子を呼ぶが如く、無限の増殖が期待されている。アメリカでは、人口の1%が、その他の99%の人たちの合計よりも多くを所有していることは、あまねく知られている。法外な利益を吸い上げる人たちが、貧しい人々を搾取しているともいえる。それは、国と国との関係についても同様のことがいえる。


 日本における実質GDP(国内総生産)は、2012年現在、520兆円程度だが、同年の日本銀行券の発行高は80兆円程度。GDPは、国民が生産したモノやサービスの売上高。80兆円の日銀券(お札)で520兆円の取引が行われたということは、約6.5倍の取引が行われた計算になるが、同じお金が年間6回以上も使われている訳もなく、現実には、莫大なお金が金融機関が信用貨幣として、金融システムのなかでお金を貸し借りしているに過ぎない。それらの信用貨幣には、必ずプラスの利子が付くことが前提になっており、それらの利子が利子という名の下に、誰かの負担となって増殖しているのが現実の姿なのだともいえる。お金が無限に増え続けるはずもないのだが、今日の金融資本市場においてはそれが当然だと思う人々が経済社会を蝕んでいる。

 かつては、お金は「金」などによって担保されてきた。しかし、1971年のニクソン米大統領の「金とドル」との交換停止によって、変動相場制に移行すると、世界中のお金が何によっても担保されず、ただ信用だけで成り立つようになってしまった。今日、世界中で動いているお金の95%以上が、実際の経済の商品やサービスの取引に対応したものではないといわれている。それらの多くは、投資先を求めた動きや投機に使用されているのだ。グローバリゼーションの名の下に、マネーゲームが拡大していっているともいえる。しかも、その取引にはコンピュータがプログラムの下に自動で判断するという恐ろしいシステムまでも存在している。

地域通貨」という考え方がある。その地域でのみ流通する貨幣のことだ。無利子または、マイナスの利子を基本として、「法定通貨」とは交換ができないようになっている。その地域での経済効果を期待した貨幣であり、アングローバルな通貨だが、1930年代に各地で発行された「緊急通貨」もその一種でもある。世界大恐慌は、1929年に始まったといわれているが、アメリカではルーズベルトによるニューディール政策が取られると、政府が市場経済に積極的に関与して、地方にお金を注ぐようになり、地域の環境整備や幾多のプロジェクトが実施されることによって、地域通貨は姿を消した。



エンデの遺言
河邑厚徳

グループ現代
講談社
講談社α文庫

 1932年、オーストリアのスイス国境に近いザルツブルク近郊の町ヴェルグルでも、世界大恐慌の波は深刻な影響を及ぼした。生産は停滞し、失業者は町に溢れていた。工場は次々に閉鎖に追い込まれ、失業者は日増しに増加、新規事業は何も着手されず、町への税納付もほとんど行われない状態にあった。そこで、ゲゼルの自由貨幣理論を信奉していた鉄道工夫のウンターグッゲンベルガーが町長に選出された。ヴェルグルの人口は4300人だったのだが、そのうちの1500人を町は公共事業を開始して、雇い入れた。道路の整備、橋の建設、スキーのジャンプ台など、観光地としてヴェルグルをよみがえらせるための事業を始めたのだ。その代わりに失業手当の支給を止めると、賃金の支払いのために町独自の「労働証明書」といわれる地域通貨を発行した。公共事業に従事した労働者だけでなく、町長をはじめすべての職員も給与の半分をこれで受け取った。ウンターグッゲンベルガー町長は、地域の貯蓄銀行から32000オーストリアシリングを借り入れ、それをそのまま貯金として預け、それを担保として労働証明書を発行したのだった。

 労働証明書は、町はビルや排水路の建設などの公共事業の資金に支出されたのだが、それらの事業がなければ、失業したままの人間に失業手当として支払われていったものだった。また労働証明書は、毎月その額面の価値の1%を失うというマイナス利子の仕組みになっていた。つまり、手元に持っていても持っているだけ価値を失うという「老化するお金」だったのだ。損をしたくない人々は急いで労働証明書を使うのだった。労働証明書は、猛烈なスピードで循環しはじめ、循環するほどに、取引を成り立たせていった。町には税金が支払われるようになり、あまりに早く税金の支払いという形で町に労働証明書が環流してくるので、町の会計課の役人が、これは誰かが偽札を刷っているに違いない、と叫んだほどだったという。

 町はこの労働証明書の発行後、4ヵ月で10万シリング分の


公共事業を実施、滞納された税は解消され、なかには税を前納したいといいだす市民も現れたそうだ。町の税収は労働証明書発行前の8倍にも増え、失業はみるみる解消し、ヴェルグルだけが、大不況のなか繁栄する事態となっていた。しかし、オーストリアの中央銀行は、紙券発行の独占を侵害したとして訴訟を起こし、この取り組みを妨害をしたのだった。結果は、町の敗北に終わり、ふたたび30%近い失業率を記録することになる。

 毎日、その漁の成果は異なるものの、捕れただけの魚で生活をしていた人々が、紙幣が導入されたことにより、銀行のローンで大きな船を買い、さらに効果の高い漁法を採用し、魚を早く、たくさん捕ることに努めた結果、銀行のローンに追われ、生活の糧だった湖の魚が一匹もいなくなってしまったことが、ビンズヴァンガーの著書に出ているという。今日のTPPを巡る議論にも通じる話ではないだろうか? 大量生産を目指した農業を採用することにより、化学肥料を大量に撒布し、環境破壊を引き起こした結果、その地域の農業が壊滅する姿にも似ている。

 シルビオ・ゲゼルは、1862年、第一次世界大戦終了まではドイツ領であった、現在はベルギー領であるサンクト・フィットに生まれた。『お金は老化しなければならない』というテーゼを述べたことが知られている。ゲゼルは、お金で買ったものは、ジャガイモにせよ靴にせよ消費される。ジャガイモは食べられ靴は履きつぶされるが、その購入に使ったお金はなくならないことは、モノとしてのお金と消費物資との間で不当競争が行われている、とゲゼルは考えた。このゲゼルの考え方を実践したのが、ヴェルグルの労働証明書だった。

 エンデは、
「現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として扱われていることだ」
と語る。



グレートジャーニー
地球を這う(2)
ユーラシア−アフリカ篇
関野吉晴
筑摩書房
ちくま新書

「本来、等価代償であるべきお金がそれ自体商品となったこと、これが決定的な問題だ」
というのだ。お金自体が売買されることによって、貨幣の本質を歪めるものが入ってしまったのだという。その理由として、シュタイナーの「社会有機体三層論」を引いている。人間は、国家という法による生活(政治)と経済生活及び精神・文化生活の3つの異なる社会的レベルで生きているが、それらが一緒くたにされていることが問題なのだ。フランス革命のスローガンである『自由・平等・博愛』は、革命前からあるフリーメーソンのスローガンが元になっているが、自由は精神と文化、平等は法と政治、そして今日ではまったく奇異に聞こえるのだが、友愛は経済生活だというのだ。

「仕立て屋は自分のスーツをつくるのではなく、他人のスーツをつくり、皆が自家製パンを焼くより、パン屋が他の人のパンを焼くほうが、経済的に安上がりなのです。そうしたほうが、万人の欲求を満たすのに有利になるのです。こうして仕事は分けられます。誰もが他人のために働くことは友愛にほかなりません」
とエンデは語る。

『モモ』では、モモは進もうとして強烈な向かい風にあい、どうにも進めなくなるのだが、立ちどまると風は止む。そのとき、カシオペイアは後ろ向きに進めというメッセージをくれる。そうして彼女は、マイスター・ホラのところに辿り着くことができるのだが、向かい風に向かって進むことはプラスの利子システムのなかを進もうとすることであり、立ちどまるのはゼロ利子のシステムであり、そこでは、この利子率の零点は不思議な性格をもっていて、貨幣の時間が止まるのだ。いまのお金のシステムでは現金だけがゼロ利子なのだが、お金の貸し借りもすべてゼロ利子になると、貨幣は時間次元を喪失してしまう。そこでは、お金を貸したのだから、利息を払うべきだという理屈は成り立たなくなってしまう。結局、融資額も借入額も時間がたっても増減しないことになる。

 人類は常にプラスの利子のつく貨幣システムで生きてきたわけではない。例えば、エジプトは発展途上の国家と認識されているが、古代世界でエジプトは世界の最先進国だった。

ナイル河流域は砂漠地帯ではなく、広大な穀倉地帯だった。そこでは、「減価するお金のシステム」があったという。当時、農民は穀物を収穫すると、それを穀物備蓄倉庫に持っていった。そこで保管してもらうのだが、納入した穀物量と引き渡し日が焼き込まれた陶片を受け取る。この陶片は穀物の受領を証明するものだが、同時にお金としても使われた。

 それは倉庫に収められた穀物によって担保されたお金だった。当然、穀物はネズミなどによる食害や保管費用がかかることになる。したがって、その担保物の減価率をそのお金も反映しなければならなかった。即ち、「マイナスの利子のお金」であった。そうすると農業者は、このお金を貯めておいても損となるため、別なモノの形で、自分の豊かさを維持しようとした。当時の農民は、そこで自分の豊かさを潅漑施設の整備や土地の改良にそそぎ込んだのだ。豊かさをお金の形でもたず、自分たちに長期的な利益をもたらすものに投資したのだ。そのため、ナイル河流域は豊かな穀倉地帯となっていた。それはローマ人がエジプトを支配し、自分たちのお金の仕組みであるプラスの利子の付くお金のシステムを強制するまで続いた。しかしそのシステムが終焉したとき、エジプトの繁栄も終わったのだともいえる。

 ミヒヤエル・エンデはインタビューで
「自然界に存在せず、純粋に人間によってつくられたものがこの世にあるとすれば、それはお金なのです」
と語っている。そして、
「人々はお金を変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間がつくったのですから」
とも結んでいる。

 今日の金融資本市場の恩恵を受けて利子を貪り続けている一部の人々や経営者には、理解ができない領域であろう。そして、彼らが追い立てられるようにして、利益を追い続けることと、「グレートジャーニー」に関野が見た、「追い立てられるように拡散していった弱い人々の姿」が重なって見えないだろうか? 追い立てられるように拡散していった果ての終着点には、何があったといえるのだろうか? あるいは見方を変えると、極東といわれるこの国も、人類が到達した終着点の一つだったと見ることもできるのだ。


エンデの警鐘
地域通貨の希望
と銀行の未来
坂本龍一、河邑厚徳
日本放送出版協会

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056「風立ちぬ」を観て(2013年9月11日)

 宮崎駿監督が長編からの引退を表明した。NHKのインタビューでは、ファンタジーに限界を感じていたことにより、『風立ちぬ』の製作に繋がったと説明していたが、『風立ちぬ』を作ったことで、さらにそこに限界を感じた上での結論だったのだろう。事実、『風立ちぬ』を映画館で観て、映像の美しさには感嘆したが、物語の内容としては不満が残った。否、むしろ欲求不満を感じてしまった。このところの作品の完成度もかつてのレベルには達していないように私は感じていた。

 また『風立ちぬ』では、素人を使った主人公の声や、あの擬音のいかにも人の声らしき響きのためか、私は物語に入り込むことが難しかった。宮崎駿監督自身、内輪の試写会の挨拶で、自分の作った映画を観て始めて泣いたと言っていたが、その時は既に引退を決意していたこともあろうが、彼自身だけが、映像に表現できなかった「何か」に感動していたからではないだろうか?それが視聴者には伝わり得なかったのではないだろうか?少なくとも、私には伝わらなかったが、私の理解力不足だけではないような気がする。宮崎駿監督自身が、もっと伝えたかった何かが、表現しきれていなかったのではないだろうか?

 一部のメディアでは、戦闘機を作った人の物語ということで、戦争への関わりについて批判的な論調も見られたが、宮崎駿監督の作品すべてに共通して描かれてきたことは、戦争を否定し、環境破壊を否定してきたことに間違いはない。それは、作品を観ればすぐにわかることだ。喫煙シーンが多いことは、時代背景を考えると止むを得ないのだろう。最も、宮崎駿監督自身もタバコを吸っているシーンを良く目にするが、それは個人の問題として考えるしかない。


 正直に告白すると、『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のように、主人公に入り込みやすい映像とは異なった『風たちぬ』の世界に、私自身が拒否反応を示したような気もしないではない。ただ、間違って貰っては困るが、私は宮崎アニメの大ファンであることには変わらない。なぜなら、ほとんどの映画を、しかも何度も何度も見て、その度に何かを考えるきっかけにさせて貰っていたのだから。

 映画で、主人公の友人の同僚が設計した飛行機(おそらく「隼」と思われるが)を褒めるシーンがあった。「風が立っているね」というセリフがあったが、あの響きは素晴らしかった。飛行機に限らず、「風が立っている建物」を演出したい思いがした。もっとも、堀越二郎のことについては、余り調べる気持ちが沸き上がって来なかったのは、戦争に対する自分自身の拒否反応がどこかにあるのかもしれない。戦後は、三菱重工に務めたり、「YS−11」に関わった話は有名だ。

 宮崎駿監督は、以前、アメリカにある「零戦」を購入しようとしたそうだが、戦争を批判する自己の思いとは別に、兵器の本や模型を集めていたことを、自分自身を「矛盾の塊」と語っている(2013年7月20日朝日新聞記事)。美しい飛行機を作りたいという夢に向けて力を尽くしたが、映画にも描かれたように、敗戦後、飛行機の残骸の山を前に堀越二郎の心はずたずたになったに違いないとも語っている。自己の映画作りの限界をそこに投影もしている。かつては、世界のため人類のために何かをしなければならないとも思っていたが、自分のできる範囲でやるしかないという気持ちに変わってきたようだ。ファンタジーから離れざるを得なかった心境が読み取れる。文化事業ではなく仕事として映画を作っているとも語っている。宮崎駿監督は、戦争に加担したといわれようが、それは後世から見た矛盾に過ぎない訳で、「飛行機」だろうが「映画」だろうが、仕事として、ものを作り続ける姿を堀越二郎と自分自身を重ねていたのだろう。

 ところで、映画を観てから、久しぶりに堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだ。堀辰雄の『風立ちぬ』では、映画と異なり、婚約者と一緒にサナトリウムまで主人公が付いて行く。しかし、婚約者はそのかいもなく亡くなってしまう。実話に基づいた私小説だが、今、読んで、改めて感慨を深くすることはできなかった。仕方がないので、同じ本に入っていた『大和路・信濃路』を久しぶりに読んだが、こちらは当方の好きな紀行文ということもあり、じっくりと味わって読むことができた。とにかく、文章が素晴らしい。この『大和路・信濃路』には、忘れられない思い出があるのだが、書き出すと今回の本文より長くなってくるので、また機会を改めたい。同じ本には、映画『風立ちぬ』の主人公の相手役の名前と同じ『菜穂子』も入っているが、今回は読む気が起きなかった。菜穂子がサナトリウムを抜け出す挿話はここから引用されていたり、主人公が建築設計士であることなどのエピソードがある。

 その後、宮崎駿監督の引退記者会見なども見たが、製作のスピードが落ちたことと、ジブリの経営とのバランスを考えたとの見解があった。とはいえ、すべてについての引退ではないようなので、いずれ何かを始めることを期待しても良いようだ。

 公式の「引退の辞」には、こうあった。
 「ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。」

 以前、東京に単身赴任をしていたときには、完成間もない「ジブリ美術館」の近くに住んでいたのだが、訪ねることはできなかった。今度、東京に行った折には、ジブリを訪ねてみるのも良いかもしれない。運が良ければ、宮崎駿監督に会えるかも知れない。
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055「空海の夢」/松岡正剛(2013年8月11日)

空海の夢/松岡正剛/春秋社/20051230新版第1刷
/19840725初版第1刷/411頁/\2,000+税

 司馬遼太郎の「空海の風景」を宮坂宥洪が批判したことは、「空海の風景」でも触れたが、それはネット上の「エンサイクロメディア空海」に記載されていたからである。そのホームページには、松岡正剛のページもある。この「風景」と「夢」の二つを一緒に掲載しようと思ったのだが、「空海の夢」を読んで、ちょっとそれは無理だと感じた。

「空海の夢」は、「空海の風景」とは、まったく異なるコンセプトで書かれていたことはもちろん、その中味の濃さに感嘆してしまった。私が読んだのはその新版(第三版)だったが、松岡正剛自身、かなり肩に力を入れて構想を練って書き、何度も改版を試みた本だった。「風景」を書いた司馬遼太郎は、「風景」を最も情熱を傾けた最高傑作と自負していたらしいが、1996年に亡くなった司馬が「夢」を読んだかどうかは不明である。一方、松岡正剛が「風景」に目を通していたことは間違いないが、これといった評価を私は目しない。

「空海の夢」は、あたかも「千夜千冊」の縮刷版を読んでいるかの感があった。宇宙論から生命の発祥などへも至る知の思考の変遷だ。少し堅苦しく大仰に構えている嫌いはあるが、空海に対する著者の思い入れの深さが現れている。初版は、著者が30歳代に出している。私には、難解で理解不能の部分も多い。文意をこの著作だけを読んで理解するのは難しいだろう。初版は1984年7月だったが、私が読んだ新版(第三版)は、2005年12月版だった。ちなみに、第二版は1995年5月。比較した訳ではないが、当然、そこには追加・加筆という変遷があるだろう。文庫本にもならずに、ハードカバーだけが改訂再版されて来た歴史を考えると、本書の位置付けが判るような気がする。

 密教の原点ともいえる『大日経』や『金剛頂経』が生まれたのは、西南インドであった。そこは、紀元前5世紀頃、ブッダが生まれた北インドとは異なる風土にあった。西ローマ帝国滅亡の余波により、インド経済が破綻し、旬奴系エフタルの連続的侵入によりグプタ王朝の中央集権制が崩壊、群小王朝期に入ると、混乱の時代が始まった。6世紀頃のことである。その混乱の中で、本尊を短い梵字で表示する種字のアイデアや本尊を持ち物によって代行させる三昧耶形(サマーヤ)のアイデアが用意された。こうして、7世紀に入ると「密教の独立」が成就した。ヒンドゥー教が隆盛したことにより、ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図った結果が密教だとの見方もある。

 密教には二つの体系があることは、「風景」でも触れた。物質原理を説く「大日経系」と、精神原理を説く「金剛頂経系」の密教だが、中国に伝わったのは、前著は善無畏(ぜんむい)というインド僧、後者については金剛智というインド僧だった。金剛智は、不空の師にあたる。724年に80歳でインドより長安に赴いた善無異(シュバカラシンハ)が漢訳した『大日教』、正式名を『大毘慮遮那神変加持経』という全七巻の経典であることは知られているが、いずれも正確なことは判らない。日本には、8世紀の初めに『大日教』が伝わったといわれている。『金剛頂教』は空海が中国から持ち帰ることになる。

 日本に伝わった『大日教』の漢訳は、梵字(ぼんじ)が多く使われていたため、難解で理解できる人がなかったといわれている。空海は、この『大日経』を久米寺の東塔で読んだが、強烈な啓示は受けたものの細部はよくわからなかった。他人に尋ねてもわからない。そこでその疑義をはらすためにいよいよ入唐を決意したといわれている。松岡正剛は、その通説に疑義を覚えていたが、図書館で大日経を見て一遍に氷解したという。空海ならば、ただちに秘密の芳香を感得して、その独占のために入唐を決断しかねまいと思われたというのである。


「空海の夢」
新版(第3版)
松岡正剛
春秋社

 少し歴史は戻るが、奈良朝では、韓国連広足のような陰陽道官僚が幅をきかしていた。その傾向はその後も続き、716年に遣唐留学生として阿倍仲麻呂や玄ムらと共に入唐した吉備真備も20年の留学生期間を終えて735(天平7)年に多くの典籍を携えて帰朝したが、その中には太陰太陽暦の暦法である「大衍暦(たいえんれき)」なども含まれていた。空海が生まれる約40年前のことである。陰陽道が政治に活用されていた時代である。史実性はともかく、前鬼と後鬼を従えた役行者が活躍したといわれる時代の少し後のことである。

 淳仁天皇に『黄帝九宮経』の説を認めさせて専制をほしいままにしていた藤原仲麻呂(後の恵美押勝)が倒れ、仲麻呂についで陰陽道権力者の名をほしいままにして孝謙女帝の疫病を祈祷治療したことにより法王までに登りつめ、天皇になる目前で和気清麻呂による宇佐八幡の神託に敗れ去ったのが道鏡だった。余談だが、日本の歴史上私が最も注目しているのがこの道鏡である。道鏡のことについては、いずれ触れたいと考えているが、道鏡をこの前代未聞の位置にまで運んだのは、このころ合流しはじめていた陰陽タオイズムと雑密との力に他ならない。道鏡が下野の薬師寺別当に左遷された後に死んだのは772年、すなわち空海生誕の2年前のことだった。そのころの中国では、不空が活躍している。不空から、恵果に繋がれ、その後を受けた空海が真言宗八世の法主になったことは「風景」でも触れた。不空は774年に入寂するが、同じ年に空海は生まれている。

西暦 和暦 天皇 空海の足どりと歴史的事実 空海の満年齢
紀元前400〜600年頃 - 北インドで釈迦が生まれる -
紀元0〜100年頃 - 中国に仏教が伝わる -
紀元200年前後 - 中国に初期密教が伝わる -
538 宣化天皇3 宣化天皇 日本に仏教が伝わる(552年という説もある) -
701 大宝元 文武天皇 役小角が入寂したと伝わる -
702 大宝2 倭が唐の武周王朝(則天武后)に使者を送り国名を日本とする -
705 慶雲2 文武天皇 武周王朝が滅亡して唐が復活、以後200年続く -
706 慶雲3 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱 -
710 和銅3 元明天皇 藤原京から平城京に遷都 -
716 霊亀2 元正天皇 インド僧善無畏が唐に入る(大日経系の密教が伝わる)/長安には724年に入ったとも -
719 養老3 元正天皇 インド僧金剛智が唐に入る(金剛頂経系の密教が伝わる) -
720 養老4 「日本書紀」が完成 -
735 天平7 聖武天皇 20年の留学生期間を終えた吉備真備が帰国 -
743 天平15 大仏建立の詔 -
745 天平17 唐の玄宗が楊太真を貴妃とする -
764 天平宝字8 称徳天皇 道鏡が法王になる -
769 神護景雲3 称徳天皇 道鏡が失脚 -
770 宝亀元 光仁天皇 臣下に下っていた白壁王が立太子の後、即位する -
774 宝亀5 空海が生まれる/不空が唐で入寂 0
781 宝亀12 桓武天皇 光仁天皇の子である桓武天皇が即位 7
784 延暦3 長岡京の建設開始(遷都は787年) 10
788 延暦7 空海が平城京に上る/最澄が延暦寺を創建 14
789 延暦8 阿刀大足に論語などを学ぶ 15
792 延暦11 京の大学寮に入る 18
793 延暦12 山林での修行を始める 19
・吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行
・一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かる
・「大日経」を初めとする密教経典に出会う
・中国語や梵字・悉曇などを学ぶ
794 延暦13 平安京に遷都 20
798 延暦17 「聾瞽指帰」を著す 24
800 延暦19 ローマ教皇がフランク王カール大帝にローマ皇帝の帝冠を授ける 26
802 延暦21 坂上田村麻呂による胆沢城の築城、阿弖流為らの降伏 28
804 延暦23 東大寺戒壇院で空海が得度受戒(有力な説) 30
第16次遣唐使留学僧として唐に渡る/最澄は還学生として
805 延暦24 恵果より灌頂を受け、「遍昭金剛」の灌頂名を与えられる 31
806 延暦25 恵果が60歳で入寂 32
806 大同元 平城天皇 空海が日本に戻る、太宰府に滞在 32
朝廷に「請来目録」を提出
807 大同2 伊予親王の変(阿刀大足も政治的に失脚) 33
809 大同4 嵯峨天皇 入京、高雄山(後の神護寺)に入る 35
810 大同5 薬子の変(平城上皇と嵯峨天皇の対立) 36
811 大同6 乙訓寺の別当を務める 37
812 大同7 高雄山寺において金剛界結縁灌頂を開壇 38
816 弘仁7 高野山の下賜を受ける 42
821 弘仁12 四国の満濃池の改修を手掛ける 43
822 弘仁13 東大寺に灌頂道場真言院建立 48
824 弘仁15 淳和天皇 神泉苑で祈雨法を修する 50
少僧都に任命される
827 天長4 大僧都に任命される 53
828 天長5 「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設 54
832 天長9 高野山において最初の「万灯万華会」が修される 58
834 承和元 仁明天皇 東大寺真言院にて「法華経」「般若心経秘鍵」を講じる 60
835 承和2 宮中で後七日御修法を修する 61
高野山にて入滅(満60歳/数え62歳) -
842 承和9 嵯峨上皇が亡くなる。橘逸勢が失脚し病没/承和の変 -
921 延喜21 醍醐天皇 「弘法大師」の諡号が贈られる -

歴史年表と空海の関係
※年度で表記しているため、正確な年齢と合わないところがあります

 松岡正剛は、道鏡の師である義淵が阿刀氏の可能性があることから、空海の母方の叔父である阿刀大足との関係をみて、義淵と玄ムと空海の繋がりの可能性を示唆している。ちなみに義淵の門下には、玄ム・行基・良弁・道鏡などがいるが、玄ムも阿刀氏である。

 松岡正剛は、『大日経』を「内」と見る。一方、『秘蔵宝鍮(ひぞうほうとう)』は「外」だという。空海は内なる『大日経』を外なる『秘蔵宝鍮』に内示したのだ。また高野山は「内」であり、教王護国寺(東寺)や綜芸種智院は「外」だった。アウトサイドパワーを強く出し過ぎて失敗したのが、玄ムや道鏡だった。空海はこうした「内と外の関係」をバランス良く考えることができる人だった。空海に比べて、そこの按配を欠いてしまったのが最澄だったが、密教に関するかぎり、最澄ははじめに「外」を強調しすぎて、後から気がついて「内」を固めようとした。

『恵果阿閣梨行状』と『三朝供奉大徳行状』によれば、恵果が伝法を与えた僧の名が判るという。両部伝法をした者に恵応・恵則・惟尚・弁弘・恵口・空海・義満・義明・義照・義愍など、胎蔵法単伝に悟真・義澄・法潤など、金剛界単伝に義政・義一・呉段・義智・義円などの名があるという。両部伝法した弟子も数多くいたという記録があるのだ。このほかに義恒・義雲・智興・行堅・円通・義倫・義潤・開丕などがいる。かなり多いのだが、新羅の恵日・悟真、ジャワの弁弘、日本の空海らの異邦僧にも好んで伝法しているという。そこに、恵果の国際性が見ることができる。恵果の時代の唐帝国は凋落に向かっていたが、その内外を理解する才幹の持ち主だった。その恵果の理解の後に、空海が続くという空海の幸運があった。それは、恵果の英断だったともいえる。


 空海は、長安を退去して唐土を離れるまでの半年間に、越州に5ケ月ほど滞在して龍興寺の密教阿闇梨順暁(じゅんぎょう)に会っている。また、同時期に華厳宗の神秀にも会っている。順暁は、最澄に密教の付法を伝授した人であった。松岡正剛は、空海はそのことを聞いて愕然としたに違いないと想像している。

 日本に帰ってからの空海は、筑紫に1年ほど留め置かれる。20年間という留学僧の身分にも関わらず、2年間で帰ってきたため留め置かれたという見方が一般的だが、司馬遼太郎はそこに空海の商売人としての資質をみている。都での評判が高くなるのを待っていたというのだ。恵果に会うまでの半年間という期間も同様にみている。それに対して、松岡正剛は少し違った見方をしている。第一には空海が「思想の完成」というレベルをかなり高い線においていたため、第二には空海が実は相当に失敗を許さない慎重の人であったのかもしれないということ、第三には時代動向のヨミが微細にわたっていたであろうことなどを挙げている。第三のヨミは司馬遼太郎の考え方に近いかも知れないが、空海が明州から九州に向かっている間に、桓武天皇が亡くなった時代背景に重きを置いている。

 809年、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位したが、空海は、槇尾山寺に止宿した後、太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入る。そこに政変から逃れた叔父である阿刀大足が駆け込んで来た。礼も義も智もわきまえた大足の存在は、空海にとっての良き相談相手となった。

 松岡正剛は「空海の夢」で、今日にも及ぶ密教の特色を宮坂宥洪の父である宮坂宥勝と松長有慶の見解に依拠している。宮坂説では密教の特色は、「神秘性、象徴性、儀礼性」のほぼ3点にまとめられているという。一方、松長説では、「神秘主義、象徴主義、総合主義、活動主義」の4つの特色があげ


られているという。そこから、密教の基本的本質を「神秘・象徴・儀礼・総合・活動」という5つの特色があるとみている。

 それを、「絶対の神秘」「象徴の提示」「儀礼の充実」「総合と包摂」「活動の飛躍」の5つに言いかえて説明しているが、私には難解で一言では説明できない。著述は、生体エネルギーの原理から、ゾロアスター教、そして仏教の起源へと続く。あるいは、唐代の僧である圭峰宗密(けいほうしゅうみつ)、同じく唐代の華厳宗第四祖の澄観(ちょうかん)の四法界の説などが展開される。ちなみに圭峰宗密は、その著『原人論(げんにんろん)』で、儒教や道教も仏教のもとに統合しようとした人だ。空海より4歳年上だから、空海とは唐ですれ違ったことになる。ただ宗密は華厳から禅に出て、空海は華厳から密教に出た違いがあった。

 空海の華厳的即身論は、むしろ「精神の自然」というべきを前提と思われることから、もし空海を現代思想と比較するならユージェヌ・ミンコフスキーやグレゴリー・ベイトソンの身体論との比較をすべきなどと書かれると私には手が出なくなる。グレゴリー・ベイトソンは、アメリカ合衆国の医学者だが、精神病棟でのフィールドワークから、「ダブルバインド」という概念を生みだし、統合失調症をコミュニケーションに基づく見地から説明し、イルカのコミュニケーションから生物進化まで、自然界の広い事象を包括する「マインドのエコロジー」を提唱した人だ。

 真言密教では、一心に修行をして祈り、仏さまと一体になることによって仏さまの加護を受けることができるとされている。「即身成仏」という。この身そのままで、この世において成仏することができるという、他の宗派と異なる特徴がある。松岡正剛は、「宗教とは、ある意味では想像力と因果律を共有することである」という。「南無大師遍昭金剛」を唱えながらの四国巡礼も共有である。生きる者と死んだ者との間が共有まで進んだとき、宗教は始めて「生命の海」を持つことになり、それが「即身」となる。



梵字による
種字曼荼羅

 空海は、日本という国において、「父なる大師」と「母なる空海」の両方を発揮した比類のない宗教文化の体現者だった。真言宗のお寺では、本堂の東側に胎蔵曼荼羅、西側に金剛界曼荼羅を揚げ、一対としているが、母性的な胎蔵界と父性的な金剛界を鮮明に両立させ、これを羯摩曼荼羅(かつままんだら)や種字曼荼羅(しゅじまんだら)にまでおよぼしたことである。羯摩曼荼羅とは立体曼荼羅のことであり、種字曼荼羅とは梵字(ぼんじ)による曼荼羅のことであることは、「風景」でも触れた。

 太陽が照りつける乾燥した砂漠では、右へ行くか左へ行くかはその先にオアシスがあるか死が待っているかの必至の選択が求められる。そういった苛酷な風土では、右へ行くか左へ行くかを決定するのは絶対的な一人のリーダーでなければならない。つまり神は一人であってほしいのだ。ところが、鬱蒼としたアジアの森林では歩きすぎることが迷うことであるから、右へ行くか左へ行くかという判断も単一的なものではない。むしろいったん止まって熟慮するほうがよいということになる。そこから、ヒンドゥ=ブディズムでは「乾季には歩き、湿李には坐る」という活動様式と認識様式が生まれていった。砂漠とは対照的に、情報は四方に多様多彩に存在しているため、多神多仏的な考え方が生まれてきた。


東寺の講堂における立体曼荼羅の配置

 密教は、最初は雑部(ぞうぶ)密教、即ち雑密(ぞうみつ)とよばれるような雑多なものだったが、5世紀ころに少しずつ盛んになって、グブタ王朝の中央集権体制が崩壊する6世紀になると、しだいに結集化されていった。古代インドにおいても、雑密集団は護国的となり、防衛的な護摩壇をつくり、これを「来たるべき王国」に見立てていくようになる。そこから、神仏の名を借りたヴァーチャル・キャビネットとしての立体の護摩壇が形成され、さらに教団の組織形態にもなっていく。それが曼荼羅となっていった。7世紀になると、幾多の雑密は束ねられ、理論的に体系化されると、正純密教(純密)と呼ばれるようになり『大日経』と『金剛頂経』という二大経典に昇華されていった。

 しかし、この密教集団の蜂起は当時のインド社会には合わなかったようで、密教はチベットへ、中国へ、南海へと流れていった。中国においては、もともと下地としての儒教とタオイズム(道教)の流れがあり、特に密教とタオイズムが大きく絡まった。神仙思想や陰陽思想との習合だった。中国でこのような仏教とタオイズムが習合したことは、日本での神仏習合への促進ともなる。さらに日本においては、タオイズムとの関係もあったが、華厳経や大衍暦を編纂した中国の一行(大慧禅師)の影響を受けた義淵や玄ムの存在があった。それらのいずれをも継承することによって、日本密教が形づくられていったのだが、その「要」の位置に空海がいた。

 真言密教では密教が密教であるためには、身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)の三密が確立していなければならないといわれている。動作と言葉と思惟のことであるが、歴史的にはこのうちの意密、すなわちヨーガ行(瑜伽行)が先行したといわれている。空海は、山林での厳しい修行を


するとともに、明らかにタオイズムの洗礼をもどこかで受けていた。とはいえ、空海は陰陽タオイストにも神仙タオイストにもならなかったが、後日、密教タオイストとしての性格を発揮する人であったと松岡正剛はみている。

 新版のあとがきでオウム真理教事件に触れている。日本がオウム事件に対する宗教的総括をしていないという問題がある。オウムに限らず、日本では何か事件が起こっても、その事件に対する宗教者の意見が尊重されることがない。ましてや、「日本宗教の終焉」や「宗教学者願い下げ」を言い出す者まであらわれる始末なのだ。宗教者の本質が問われているといえる。「風景」の冒頭にも書いたが、俗化した宗教者ばかりが注目されるのではないだろうか。マスコミが注目しないのか、声を大にして本質を語る宗教者が現れないのだともいえる。

千夜千冊の828夜」には、湯川秀樹の言葉が引用されている。「日本人の歴史は、聖徳太子以降の浄土感覚が出てくる前に長い感覚の錬磨があって、そこではきっと生命とか欲望ということを重視していたはずだ。そうでなければ縄文土器などつくれなかった。そういう生命感や欲望の吐露が基底にあるところへ、外来仏教が入ってきた。だから最初は輸入仏教そのままを模倣していたのだが、そのうち日本人の奥にあった基底のものがそこから溢れて出てきて交じったのではないか。それが空海の密教だったのではないかと気がついたというのだ」

「空海の夢」は、松岡正剛の力作といえるが、「これは空海が見たかもしれない夢を、私と読者も見ているという相互複合の夢なのである」と書いているが、もう少し夢を見る必要があるかも知れない。



東寺 講堂
2009年6月15日撮影
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054「空海の風景」/司馬遼太郎(2013年8月6日)

空海の風景/司馬遼太郎/中央公論社/中公文庫
(上巻)/19780110初版/19940225改版/370頁/\620
(下巻)/19780210初版/19940310改版/417頁/\738+税

 少し前のニュースでは、高野山が浄財(?)でリスク商品も含む30億円の投資をしたとか、粉飾の疑いがあるとか、前宗会議長が総長に対して不信任案を提出したといった話題がかまびすしいが、借金を返すためだったとか、蓄財だったとかの理由はともかく、さすがの空海も驚くようなことが現代の宗教界には起こっている。失敗はしたが、朝鮮総連破綻後の本部の土地建物を競売で取得しようとしたのも高野山真言宗の宗教法人だった。浄財の定義を改めなくてはならないかも知れない。宗教とは、そういったものなのだろう。宗教集団が歴史とともに巨大化していくことによって、その宗教を始めた人の意志とは関わりがなくなっていく歴史はどこにでもある。それは、親鸞と浄土真宗や本願寺の問題にしても、日蓮宗と創価学会の問題にしても、キリスト教とローマ法王庁の問題にしても何ら変わりがないことといえるのだろう。

 してみると、彼らに空海や親鸞やキリストを説く資格が本当にあるのだろうかと思えてくる。いずれにしても、後代の彼らがどう考えているかといったことは大した問題ではなく、今一度、原点に立ち返って考えることも必要なのではないだろうか。何故ならば、「言葉」というものは「言い伝えられたもの」であろうとも、「書物」で記録が残っていようとも、解釈次第でいかようにも捉えられるということがあるからである。それが、「情報」というものの真実の姿であろう。宗教集団に限らず、時と共に次元が異なってくるのが現実の姿なのだともいえる。

 言語や翻訳者の違いによっても多様な解釈が成り立つという現実もある。原点に立ち返ったとき、自己がどう考えるか、そういった意味では、論争大いに結構。考えることが重要なのである。妙に知ったかぶりをして、お互いに自己解釈者同士が納得し合う姿が一番醜い姿ではないだろうか。テレビの無責任なコメンテーターなるもの達の多くの会話にその姿が重なって見えてくる。立ち位置も異なり、まるで異なったことを話しているのにしか聞こえないのに、お互いがそれぞれに納得している姿を良くみることがある。とはいえ、いきなり空海や親鸞の原典に触れたとしても、それらの多くを研究するまでの労苦を掛けることは現実的ではない。勢い、その人の実像に迫ろう

とした著作に頼るのが、私などにとっては親しみやすいことになる。

 日本の歴史を振り返ってみると、異論はあるかも知れないが、最も尊敬を込めて語られるのが聖徳太子であり、最も多能・多才を語られるのが空海ではないだろうか。空海は、日本の歴史に現れた数少ないスーパーマンだった。両手両足と口を使って別々に字を書いた逸話はともかく、「いろは歌」も空海の作とする説まである。医薬品から土木・建築、文房具、日本初の字典、仏画、民間学校、等々にあまねく才能を繰り広げた。四国八十八ヶ所を巡礼するお遍路さんが唱えるのが「南無大師遍昭金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」だが、「南無」は帰依する、「大師」は空海のこと、「遍昭金剛」は大日如来のことだが空海の灌頂(かんじょう)名でもあり、真言宗ではすべての神仏の根本となる仏でもあった。

 司馬遼太郎は、「あとがき」でこう語っている。

 「風がはげしく吹きおこっているとする。そのことを、自分の皮膚感覚やまわりの樹木の揺らぎや通りゆくひとびとの衣の飜(ひるがえ)りようや、あるいは風速計でその強さを知ることを顕教的理解であるとすれば、私は、多くのひとびとと同様、まだしもそのほうにむいている。密教はまったく異っている。認識や知覚をとびこえて風そのものに化なることであり、さらに密教にあっては風そのものですら宇宙の普遍的原理の一現象にすぎない。もし即身にしてそういう現象に化ってしまうにしても、それはほんのちっぽけな一目的でしかない。本来、風のもとである宇宙の普遍的原理の胎内に入り、原理そのものに化りはててしまうことを密教は目的としている。」

 さらに続く、

 「正密という体系的密教を伝えた空海よりも、むしろその先駆的存在である役ノ行者のような雑密の徒のほうに関心をつよくもったのは、そこに海の風のふしぎさを感ずるからにちがいなかった。」「私は、雑密の世界がすきであった。雑密というのは、インドの非アリアン民族の土俗的な呪文から出たと思われるが、その異国の呪文を唱えることによって何等かの超自然的な力を得たいと願うこの島々の山林修行者が、ときに痛ましく、ときに可愛らしく思われた。」


「空海の風景」
(上巻)
司馬遼太郎
中公文庫

 唐においては、密教は一つの宗派とはみなされていなかった。いずれもインドから伝わって来たものであるとはいえ、既成仏教に付帯する呪術部門という見なされ方をしていた。それが、先駆的存在だったともいえる役行者以来の雑密が整えられていた日本に伝わった途端、既成仏教を「顕教」として対置することにより、「密教」という体系が完成されていった。嵯峨天皇が中心にいた国家を<利用>する事により、それを成し遂げようとしたのが空海だった。司馬遼太郎の考え方を取ると、唐に渡り、真言密教第八世となった空海は、日本という国家をそれよりも大きな視点で見下すように、密教を拡げていったという。

 司馬遼太郎は、この小説であり、小説でもないような著作を「風景」という言葉で修飾した。司馬は、この構想を練るために「空海全集」を読み続けたようだが、その時、同時に下調べをしていたのが「坂の上の雲」だったという。史実が数多く残されている明治という現実を、大きな構想のもとに小説として成り立たせる作業の合間に、司馬は殆ど歴史的事実が残されていない空海とその周りの世界を想像することに癒やしていたという。それが、「風景」として、ある意味「空想」をすることによって、空海の真実に迫ろうとしたともいえる。

 密教は時とともに原産地のインドにおいて左道化していった。左道化とは、正しくない道、あるいは邪道のことをいうが、そこでは「生殖崇拝なのかと思われるほどに他愛のないもの」になっていった。その現象を視覚化するために歓喜仏も生まれた。生殖礼賛の彫刻も生まれた。それらは、ヒンズー教とも関係し合っているという。ブータンやネパール、チベットの仏教芸樹においては、性的に結合した構図が描かれるようになっていくのである。同じようなことが、空海亡き後の日本でも起きた。


 性的な論拠を基にした記述が「空海の風景」には多用されている。それを「エンサイクロメディア空海」で、宮坂宥洪(ゆうこう)が強烈に反応している。しかし、理由はともかく司馬遼太郎の見解に私はそれほどの違和感を感じなかった。ちなみに、この本には宮坂宥洪の実父である、2011年に亡くなった宮坂宥勝(ゆうしょう)が何度か出てくる。

 空海は、774年、讃岐に豪族の子として生まれた。香川県の善通寺は、空海生誕地として有名だが、現在もその巨刹を誇っている。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が鎮圧されたのは764年、その後、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の時代、道鏡が法王までに登るが宇佐八幡宮の神託により失脚するのが769年、まもなく臣下に下っていた白壁王が立太子の後、光仁天皇として即位したのが770年である。白壁王は、それまでの天武系から天智系への回帰でもあった。その子の桓武天皇が即位したのが781年である。桓武天皇の母親は朝鮮半島からの渡来人である百済系の人として有名であり、そのため天皇となることは予想されていなかったが、藤原氏を含む混乱の時代を受けて、歴史の偶然性から即位を果たすこととなる。

 桓武天皇は、唐への憧れが強く、平城京から長岡京遷都の後、平安京遷都を実現した。坂上田村麻呂に代表される東北地方などの支配も実行した。そこでは、強欲なイメージで描かれることもある。国司・郡司に対する監督強化のための勘解由使の設置や出挙(すいこ)の利率の引き下げや雑徭(ぞうよう)の軽減など強力な天皇政治を主導したが、人民の賦役や国家財力などの莫大な投入により国家は疲弊した。最澄を重用したことでも知られている。そんな時代に空海は育った。


「空海の風景」
(下巻)
司馬遼太郎
中公文庫





善通寺五重塔
空海生誕地といわれる
2008年3月22日撮影

 788年、空海は15歳で京に上り、18歳で大学入学を果たす。京では、叔父にあたる阿刀大足(あとうのおおたり)の指導を受けている。しかし、儒学や儒者の世界が古ぼけて色あせてみえた空海は、大学を辞め、19歳で7年間の修行生活に入る。吉野の金剛山や四国の石鎚山などでの山林修行が有名だが、この7年間の詳細は判っていない。とはいえ、最も興味が沸くのがこの間の空海の鍛錬の時代である。『聾瞽指帰(ろうごしいき/これを補訂改題したものが三教指帰)』で、儒教・道教・仏教の比較思想論を現したが、24歳の頃の著作だ。宮坂宥洪は、司馬遼太郎がこれを18歳で書いたとした間違いを糾弾しているが、それほどのこととも思えない。空海は、山林で修行をしつつも、多くの寺を歩き、それらの経藏に籠もり、文字通り万巻の教典を読んだといわれている。空海の入唐後のただならぬ自信は、この時期の充実感をよりどころにしている。ある意味、空海にとって最も重要なこの修行生活の時代のことが、ほとんど記録もなく多くの想像力をかき立ててくれる。

 この時代の日本では、世界性をもつということは唐の学問を学ぶことであった。日本にとっての文明は唐にしかなかったといえる。学問が地方にまで広まるような状況はなく、都だけは中国の文物を導入しているとはいえ、地方の民度は古墳時代と何ら変わりはなかった。この当時、日本に存在していた仏教は、華厳、倶舎、成実、法相、三論、律という六部門に分かれ、付宗として唯識論、瑜伽論(ゆがろん)なども含まれていたが、これらはすべて仏教的思考法を中心としたインド思想そのものの体系であり、宗教といえるほどの発展を示してはいなかった。

 とはいえ、空海がこれらのほとんどを修めていなければ、後年、かれが唐都の長安において、既にもたらされていた純粋密教というものに接するやたちどころに了解したというようなことは成立しえなかった。空海は、この7年間に、「独学」で、一部門さへ非常な難事といわれる仏教を悉(ことごと)く己(おのれ)のものにしようとしていた。恐るべき知力である。そして、日本における勉学に限界を感じた空海は、唐土へ渡る決心を確かなものにする。「大日経」における不明な部分を説くためであったともいわれている。


 空海31歳の時、804年、第16次遣唐使留学僧として唐の長安に渡ることになる。この時の遣唐大使は藤原葛野麻呂(ふじわらのかどまろ)、後には中納言として太政官の次席まで勤めることになる。空海より7つ年上であった最澄は、正式な還学生として空海と同時に唐に渡る。ここで、空海が唐に渡ることになるには、一つの偶然があった。その前年、藤原葛野麻呂を遣唐大使として、最澄とともに難波ノ津を遣唐使船が出発したのだが、6日目に暴風雨に遭い、船が多少破損したため一度引き返していたのだ。その偶然から、翌年に延期された遣唐使船に空海は乗船することが可能となる。空海の人生の結節点には、常に偶然が道を開く。

 空海の身分は、「留学生」であった。留学生は唐に、20年間留まることが条件だった。天皇や権勢家の庇護を受けている「還学生」である最澄は、短期が条件であり、しかも多額な公費を授かっていた。空海は、自費に近い。その多くを、讃岐の実家などから受けていたことは想像に難くない。遣唐使船は、4隻出た。空海は遣唐大使の乗る船だったが、最澄は別な船だった。ところが、空海が乗る船と最澄が乗る船だけが無事に入唐を果たすことができた。他の2隻は行方知れずとなる。

 空海が乗る船は、34日間の漂流の後、唐の「福州長渓県赤岸鎭已南ノ海口」に着く。以前、NHKスペシャルで「空海の風景」を見たが、現在の福建省赤岸村になる。そこで空海は、「空海大師」と呼ばれ、現在でも村人皆々が空海を信仰している。空海の威徳を偲び、「空海大師紀念堂」も建てられ、空海像が安置されている。小さい子供に空海を知っているかと聞くと、「日本人だよ」と恐らく日本の方を指さして応えていた。

「福州長渓県赤岸鎭已南ノ海口」に着いた後、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)が地方長官に何度も嘆願書を出したという。しかし、その遣唐使一団は、殆ど罪人同様に扱われたため、唐の都長安へ行くこともままならず、その地に据え置かれていた。ほとんど、海賊が受ける待遇に近かったようだ。そこで、藤原葛野麻呂にとっては無名の留学僧である空海が文章家であることを聞きつけて、空海に嘆願書を書かせたのだが、たちまち待遇が変わったという。司馬遼太郎風に言うと、「空海という、ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧にすぎなかった者が、幕を跳ねあげるようにして歴史的空間という舞台に出てくるのは、この瞬間からである」となる。



東大寺
空海が別当を勤めていた
2010/3/11撮影


 空海は、しばらく長安の西明寺に滞在する。当時の世界最大の都市である長安は、左京と右京に別れていたが、左京は屋敷町、右京は商家が多くつねに雑踏していた。空海が滞在した西明寺は右京にあった。長安には、常時四千人もの異国の使臣と随員が滞留していたという。「科挙」の試験を受けるために上京していた官吏志願者だけでも、毎年千人、多い年では二千人を超えていた。異国の情緒がふんだんに溢れた国際都市だった。後に日本における三筆(空海・橘逸勢・嵯峨天皇)の一人といわれる橘逸勢(たちばなのはやなり)も一緒だった。

 この長安に、組織的に密教をもたらしたのは、当然ながらインド人であった。密教には二つの体系がある。物質原理を説く「大日経系」と、精神原理を説く「金剛頂経系」の密教だが、前著は善無畏(ぜんむい)というインド僧が伝え、後者については金剛智(こんごうち)というインド僧が伝えた。それぞれが、唐の朝廷から賓師の礼遇を受けている。金剛智は、その法を唐僧である不空に伝えた。その不空から灌頂を受けたのが、空海が灌頂を受けることになる恵果だった。恵果は20歳のとき不空から具足戒をうけたが、そのとき不空が専門とする金剛頂経系の密教体系をことごとく相続した。さらに密教発達史上驚くべき事に、ほぼ同時期に、恵果は、不空の専門でない大日経系の密教体系も受けたのである。この大日経系の相続は、不空その人からそれを受けたという説と、そうではなく大日経を専門とする善無畏の弟子玄超(新羅人)から受けたという説などがあるが、いずれにせよ、インドの本国にあってさえ別個に発達してきた密教の両体系を一身に受けていたのが恵果だった。

 空海は、すぐには青竜寺の恵果を訪ねなかった。彼は長安に入ってから5ヶ月、西明寺に居を構えてから3ヶ月の後に恵果に会うことになる。司馬はこういっている。「空海には、妙なところがある。その『御請来目録』において、自分は恵果に偶然遇ったのだ、としている。」つまり、空海が長安城中の諸寺を歴訪して歩いていたとき、偶然遇ったのだというのだ。空海のけれんじみた性格を想像させてくれると司馬はいう。


 不空が亡くなって30年以上を経ていたが、恵果は、その人生が終わろうとする最後の数ヶ月という時期にあった。事実、恵果はその7ヶ月後に亡くなる。恵果の門人は千人といわれた。しかし、大日経系と金剛頂経系の二つは、インドにおいて別々に発生し発達したのだが、その二つを一人格のなかにおさめた人物はインドにもいなかった。恵果は自分の高弟たちに伝法するにあたってそのいずれか一つを授けたのみで、二つながらを授けたのは法臘(ほうろう)主座の門弟である義明だけだった(多数いるという異説もある)のだが、この義明は空海が長安にあるときに死の床についていたか、それともその前後に亡くなっていた。そのような微妙なタイミングに空海が出現したのだった。

 恵果の空海に対する厚遇は、異常ともいえる。空海をひと目みただけで、この若者にのみ両部をゆずることができると判断し、事実、大急ぎでそのことごとくを譲ってしまったのである。空海は日本にあってどの師にもつかず密教を独習した。恵果はそんな空海に教えることがなかったということに驚く。伝法の期間、口伝の必要なところは口伝を授け、印契その他動作が必要なところはその所作を教えただけで、密教そのものの思想をいちいち教えたわけでなく、すべて空海が独学してきたものを追認しただけである。空海の能力の高さがその異常さに現れている。

 もちろん、恵果の弟子達からは異論がでた。長安の密教僧として重い地位にあった玉堂寺の珍賀などは大いに不満として、恵果に毒づいたという。しかし、恵果は取り合わない。ところが翌日朝、珍賀は人変りがしたように自分の非を悔い、恵果の門人たちを説いてまわって、師匠が正しかった、空海が正嫡の座につくことは正しい、それをさえぎろうとしたわしが間違っていた、わしは罪を怖れている、皆もふたたび不平の声を上げるな、と言い、一同を驚かしたという。それは、珍賀が夢を見たからだった。恵果に苦情を言いに行った夜、夢に仏法の外護(げご)神である四天王があらわれ、珍賀をぶったり蹴ったりして、その足の下に踏みくだいてしまったらしい。珍賀は空海にも会い、まるで仏の宝前に進み出たように三度拝し、自分の過ちを告白して詫びたという。



石山寺の多宝塔
多宝塔がある寺院は、真言宗であるか、かつては真言宗であった例が多い
2009年12月8日撮影

 空海は恵果によって、2ヶ月ほどのあいだに、三度濯頂を受けたらしい。潅頂とは、文字どおり、水を頭の頂辺にそそぐということで、もともとインドの王が即位するときのもっとも重要な儀式であったが、仏教においても、菩薩が修行の階程を終えて仏の位にのぼるとき、濯頂が行われるとされるが、おそらく地上の即位式から連想されたものであろう。密教では、これが儀式として取り入れられた。

 潅頂の前に、投花という儀式がある。潅頂を受ける者が潅頂壇に入ってゆくと、そこに曼荼羅の、いわば仏や菩薩たちの絵が置かれているのだが、そこに向かって目隠しをして花を投げ入れるのだ。花が落ちていずれかの仏、菩薩の上に触れたとき、その仏、菩薩が、その僧の生涯の念持仏になるという。恵果は若いころ、不空三蔵から濯頂をうけて投花したとき、「転法輪菩薩」の上に落ちた。不空は恵果のためにそれを喜んだという。果たして、空海が投げた花は、中央の「大日如来」の上に落ちた。恵果はこれをみて、「不可思議、不可思議」と叫んだという。それは6月の灌頂のときであったが、7月の濯頂のときも、空海の花は「大日如来」の上に落ちた。8月の伝法潅頂では投花の儀式はなかったから、恵果はこの重なる宿縁を奇とし、空海に対し、大日如来の密号である「遍照金剛」という号をあたえた。空海は、真言密教の第七世恵果に継ぐ第八世法王となったのだった。

 真言宗においては、法流の正系を、大日如来(だいにちにょらい)、金剛薩<土+垂>(こんごうさった)、龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)、龍智菩薩(りゅうちぼさつ)、金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)、不空三蔵(ふくうさんぞう)、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)、弘法大師空海までを真言八祖という。一代から二代は実在しない。三代から五代まではインド人、六代と七代は唐人、八代目の空海は日本人ということになる。ただし、六代の不空には異説があり、父はインド出身のバラモンだが母が康国(サマルカンド)の人ともいわれる。いずれにしても西域から来た人であったようだ。


 そのころ、最澄は日本に帰っていた。正式な短期の還学生だったからである。最澄は、長安に寄ることもなく、天台山に登り、天台教学を学び、ついでに善無畏の弟子義林に師事した越州の順暁から密教の灌頂を受けていた。その最澄が持ち帰った密教が評判を呼んでいたのだった。唐の玄宗皇帝が不空の密教に傾倒したといったたぐいの具体的な事例や話題が日本の宮廷に入っていたからだともいえる。その最澄によって、日本密教史上最初の灌頂が、高雄山寺において行われた。もちろん、最澄は空海が唐において、正統である真言密教の第八世法王となったことは知るよしもない。最澄の日本における密教の短い独壇場の時代であった。

 真言密教第七世恵果は、空海にその法をことごとく与えた後、それを境に気根が虚脱したようになり、その年の12月15日青竜寺において亡くなる。恵果の弟子千余人による葬儀が執り行われるが、同時にその碑が建てられた。碑文は、空海の撰および書であるが、空海が選ばれたのは、かれが恵果の法嗣であるということでは、必ずしもなかった。恵果ほどの人物の碑文の場合、文も書も当代一流の名士に委嘱されるのが普通であったからである。空海の文章と書芸の評判が、いかに優れていたかが判る。

 その評判を唐の皇帝が聞いていいないはずはない。空海は、20年の勅命を受けて入唐した留学僧であったが、日本に帰ることを決意する。空海が入唐してわずか2年であった。このようなとき、時の皇帝順帝の即位を祝うため、日本から高階真人遠成(たかしなまひととおなり)が使者として長安に入る。空海と一緒に長安に入った遣唐大使藤原葛野麻呂は既に日本に帰っている。帰国するためには、日本の正使を通じて皇帝へ上啓する決まりがあるのだ。ところが、高階真人遠成が長安に着いたときには、順帝が憲帝に世を譲り、ほどなく世を去っていた。空海の帰国を願う、皇帝への上啓文を朝廷に高階真人遠成が差し出すことになる。



根来寺の大塔
多宝塔の大型のもの
を大塔という
2009年12月5日撮影

 日本からの正使がそれほど頻繁にあった時代ではない。事実、このタイミングを逃すと、次の遣唐使が入唐するのは30年の後であった。空海が高野山で入定する3年の後となる。恐るべき強運の持ち主である。左右の手足と口を使って、王羲之の五行の詩を一気に書いたという有名な五筆和尚の話は、この時皇帝に拝謁(したとすれば)でのことだったといわれているが、その時の皇帝が順帝とされていることからも、事実は少し怪しい。ただし、それ以前に拝謁していた可能性も残る。

 806年10月、空海は日本に戻るが、1年近くも筑紫(現在の太宰府)に留まる。国家が20年間という期間を命じた留学僧にも関わらず帰ってしまったことが理由と考えられるが、著者はさらに推測する。空海は、日本のみならず三国における不空密教の正嫡となっている。かつて長安に入ったときも、すぐには恵果には会わず、空海の評判が聞こえ、恵果が焦がれるようになってから会っている。恵果は、待つことが久しかったといって、相伝の法を悉く授けるのである。空海は、都での評判が高くなるのを待っていたというのだ。言葉は悪いが、なかなかの商売人なのだという見方だ。

 その少し前、806年3月に桓武天皇が亡くなり、平城天皇が即位していた。空海の叔父である阿刀大足は、桓武天皇の第三皇子といわれる伊予親王に仕えていたが、翌年、伊予親王が失脚し亡くなるという事件(伊予親王の変)が起こる。阿刀大足の境涯は一変した。空海は、恵果から法を嗣ぐに当たって、掛かったはずの莫大な費用をどうして調達し得たのかが、依然として不明だが、故郷の讃岐の佐伯氏やこの阿刀大足からの援助があったことは想像に難くない。空海は、和泉国槇尾山寺に滞在してから、太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入るのだが、その空海を大足は頼って来る。阿刀大足は、830年に87歳で亡くなるまで、空海の身辺にいて、別当のような仕事をしていたという。良き相談相手となっていたことが推測される。一方、809年には平城天皇が退位し、空海とともに三筆と謳われる嵯峨天皇が即位している。


 恵果の師匠である西域人不空は、金剛智に師事したことは前述した。不空は金剛頂経系の人であり、恵果も本来その系統の人だったのだが、恵果はたまたま善無畏の弟子であった玄超を知り、玄超から大日経系の密教をも悉く譲られたため、かれは密教史上最初の両系の継承者になったといわれている。インドにおいても唐においても、両系を一身に兼ねそなえているのは恵果だけであった。しかしながら、恵果の中においていかにも堅牢な体系だったのは年少のころからやっていた金剛頂経系でもあった。そのため、恵果は門人のなかで俊秀が出れば、金剛頂経系の方を譲ってきた。

 大日経系は理(物質の原理)を説き、金剛頂経系は智(精神の原理)を説くといわれるが、双方異質なものでもあった。異質な二つを一つの精神の中に抱えたとき、その人の思想性がくずれ去るほどに苦痛がもたらされるのだが、恵果はそれを克服していた。しかし、恵果はそれを著述するまでに至っていなかった。師の不空は異域の出身でありながらみごとな漢文を書く才があったといわれるが、恵果にはそれができなかった。恵果は強い記憶力の持ち主ではあったが、精密な文章で論理を構成する能力には欠けていた。それを恵果は空海に期待したのであろうと司馬遼太郎は語る。インドや中国では単なる呪法のようなものに見られがちだった密教を、仏教として仕上げることを恵果は空海に期待したのだ。それがためには、密教を再構成するというよりも、今までの仏教のすべてを援用して、新たに創りだすほどの基本的姿勢をもって編成せねばならなかったといえる。

 仏教渡来以来、それまでに日本にもたらされた仏教は、奈良六宗や最澄の天台宗を含め、中国で完成されたものを、そのまま将来して、定着したものだった。ただ海を渡って移動したものに過ぎなかったともいえる。最澄の天台宗にとっても、最澄よりも2百数十年前の中国僧智(ちぎ)が、天台宗についての精密な教相判釈(きょうそうはんじゃく)を残していた。最澄においては、それを理解することに専念すれば良かっただけなのである。ここにおいて、空海と最澄の大いなる違いがあったともいえる。



真言宗根本道場
東寺(教王護国寺)
五重塔を臨む
2009年6月15日撮影

 かつては、最澄は僧としては空海よりも遙か上の存在であった。唐に渡ったときも、最澄は国を代表する正式な環学生であり、空海は唐に20年留まることが条件付けられた留学僧の違いがあった。ところが、空海が真言密教の第八世法主として多くの教典や仏具を日本にもたらすことによって、その二人の立場が大きく変わり始める。また、最澄は人に対しても虚勢を張るような人物ではなかった。最澄は、空海に教典を借りるときにも、「弟子最澄」と書くこともあった。最澄は、そういう人物であった。あるいは、国家公認の天台宗という法門を指導する最澄が、空海に謙(へりくだ)るという事実を空海は醒めた見方で見ていた。最澄が天台宗を捨ててまで、真言密教に帰依するとは思えなかったからである。最澄の基本はあくまでも天台宗にあった。

 空海は、高雄山寺(後の神護寺)に入り、その後、高雄山寺の別当となった。高雄山寺は、道鏡が天皇になることを阻止した宇佐八幡神託を伝えた和気清麻呂が始めた寺である。最澄が、国家の命令による灌頂を行った寺でもある。その翌年には、空海は37歳で東大寺の別当も兼ねる。

 灌頂には、3つの区別がある。結縁(けちえん)灌頂、受明(じゅみょう)灌頂、そして伝法灌頂の3つである。結縁灌頂というのは文字どおり縁をむすぷだけの濯頂で、灌頂の初歩ともいえる。最澄が色々と奔走して、空海から受けた灌頂は大勢の人と一緒の結縁灌頂だったらしい。異説もあり、受明灌頂だともいわれているが、受明灌頂といえども行者に対して、ほんの一部の秘密の法を伝授する灌頂に過ぎない。最澄は、伝法灌頂を期待していたが、それが行われることはなかった。空海においては、長安で恵果からたった2ヶ月の間に、そのすべての灌頂を受けていた。

 最澄が最も信頼していた弟子に、泰範がいる。最澄は、泰範をして叡山の総別当たらしめ、文書司を兼ねさせようとしていた。即ち、最澄が泰範を自分の後継者に擬することを、内外にあきらかにした人物である。最澄は、空海に借経をする際、泰範か円澄を通して借りるのである。泰範らが借りてきた教典を、最澄はしきりに叡山で筆写することが続いた。


 空海は、そのことも不満に思っていた。経を読んで知識として教義を知ることは真言密教にとっては第二義のことであった。真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法であった。師のもとで一定の修行法則が与えられ、それに心身を投入することによって自分を仏という宇宙に近づけ得るのである。三密とは、動作と言葉と思惟のことであるが、仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしているのだ。その宇宙の三密に通じる自分の三密<印をむすび、真言(宇宙のことば)をとなえ、そして本尊を念じること>を行じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことができないのだ。それを最澄は筆授で得ようとしていたともいえる。

 二人の間には、大きな溝が横たわることになる。と同時に、空海に魅せられていった泰範が空海の下に走ることとなる。しかも、煮え切らない泰範に代わって、泰範から最澄への絶縁状を空海が代筆するのである。その空海作の代筆の文章が、空海の死後、弟子たちによって編まれた『性霊集』に入れられている。空海には、司馬遼太郎が言うように、そのようなえげつなさもあった。最澄と泰範のつながりは、この一文で切れたと同時に、10年近くも続いた空海その人とも断交する。最澄には、この文章が誰が書いたかが判らなかったはずはない。最澄はこれ以後、閉鎖的になり、自己の教団の壁を高くし、弟子の他宗に流れることを留める諸規則、諸制度をつくる。叡山そのものがいわば城郭化していくのだ。その流れは、その後も続くことになる。

 一方の空海は、多忙を極めた。日本思想史上の最初の著作ともいうべき『十住心論』その他を書き、密教教団を形成し、密教に必要な絵画、彫刻、建築からこまごまとした法具にいたるまでの制作、さらには制作の指導や制作法についての儀軌を定めた。また、庶民階級に対する最初の学校ともいうべき綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都に開設し、詩や文章を作るための法則を論じた『文鏡秘府論』を書き、『篆隷(てんれい)万象名義』という日本における最初の字書もつくった。このほか、讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池の工宮にまで参与した。可能性は低いが、「いろは」と五十音図の制作者とまでいわれた。まさに、スーパーマンである。



胎藏曼荼羅
ウィキペディアより

 高雄山寺が官寺(定額寺)に編入されるのは824(天長元)年、空海51歳のときだが、空海はそのときも東大寺別当を兼ねている。その2年前には東寺も賜っている。空海は、本来は仏教に付属した呪術部門であった密教を一宗にしたばかりでなく、既成仏教のすべてを、密教と対置する顕教として規定し去り、密教を仏教が発展して到達した最高の段階であるとし、従って既成仏教を下位に置いたばかりか、『十住心論』においては顕教諸宗の優劣を論断して、それらを順序付けることまでしている。ここにおいて、空海は唐離れをしたのである。

 空海は東寺に講堂を建立し、そこに納めた二十一の仏像(五仏、五菩薩、五大明王、六天)は、わが国最初の密教の正規の法則(儀軌)による彫像となった。仏像のまわりの装飾的な装置も、祈念するに必要な法具も正密によるすべてであり、密教の造形上の法則とシステムは、高野山に先んじて東寺において形作られた。立体曼荼羅の完成である。東寺は、密教における根本道場となった。

「曼荼羅(まんだら)」は、「曼陀羅」とも書かれるが、漢字に意味はない。サンスクリット語(梵語)の音を漢字で表したものにすぎない。密教においては、仏の悟りの境地・世界観などを仏像やシンボルなどを用いて視覚的に表したものである。元々は「丸い」という意味があり、中国では「円満具足」とも言われることがあるという。チベット仏教などでは、祭礼の際に色砂でマンダラを描く。ちなみに、密教以外の日本仏教や神道においても曼荼羅は表現される。日蓮正宗では、「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれた十界互具の曼荼羅本尊のみが曼荼羅とされる。

 密教では、宇宙には4つの面があると考えられ、大曼荼羅(両部曼荼羅)、三魔耶(さんまや)曼荼羅、法曼荼羅、羯磨(かつま)曼荼羅の「四曼」で表される。大曼荼羅には、胎藏(たいぞう)曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つがあり、大日如来を中心に諸仏諸尊が色鮮やかに描かれる。三魔耶曼荼羅は、仏が持っている標幟(ひょうじ)・刀剣・輪宝(りんぽう)・金剛・蓮華(れんげ)などによって宇宙の姿を表現する。法曼荼羅は、梵字で諸仏諸尊を表したもので種字曼荼羅ともいわれる。羯磨曼荼羅は、梵語の「カルマ(働き)」からきたもので、諸仏の動きを示し、その動きによって表現する。空海が完成させた立体曼荼羅は、まさに羯磨曼荼羅である。

 空海は、芸術的気分の強かった嵯峨天皇から深く尊崇された。その友人関係も、空海の方が兄貴分として接する風があ


ったという。空海、嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)が「三筆」とされるが、空海と嵯峨天皇の間の話題は、とくに書に関して多かった。あるとき、嵯峨天皇は自分が収集した書を多く取り出し、空海に見せてその意見を聞いたり、自分の感想をのべたりしていたのだが、天皇がとくに珍重している一巻があり、「是は唐人の手跡なり。その名を知らず。いかにもかくは学びがたし。目出度き重宝なり」と言ったという。ところが、空海は嵯峨天皇に十分に言わせてから、「それは私の書です」と言ったという逸話がある。

 835(承和2)年、病を得ていた空海は高野山において62歳(満年齢60歳)で入定する。火葬か即神仏かの議論をするつもりはないが、高野山金剛峯寺の奥の院では、未だに空海が瞑想を続けているとされ、その御廟では維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕し続けている。空海から高野山を譲られた実慧は、唐の長安に空海の死を報じている。その文章も残っているが、空海の帰国後の活動を列挙して、師の恵果の期待に背かなかったことなどが書かれている。実慧は師匠の死を表現して、「薪尽キ、火滅ス。行年六十二。鳴呼悲シイ哉」と、書いている。この報をうけた長安の青竜寺では、一山粛然とし、ことごとく素服をつけてこれを弔したという。

 上皇となっていた嵯峨上皇は、842年に亡くなっている。橘逸勢は、その数日後に謀叛の疑いがかけられ、伊豆に流される途中病没した。空海の没後、数百年を経ずして密教も左道化した。「真言立川流」とよばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に現れ、南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん)が後醍醐天皇の崇敬をうけ、立川流が密教の正統であるかのような座を占めた。その体系には、性欲崇拝を顕在化させものであった。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることにあった。司馬遼太郎は、ここに密教における性欲崇拝の内在の芽を見ている。

 作家の大岡信は、本書の解説文で、「『不空が漢民族の社会に生れた漢人であったとすれば、不空の超越性は成立しにくかったであろう』と司馬氏がいうとき、氏の念頭には、日本民族の社会に生れながら、日本では類例のない『超越性』を獲得して、普遍的存在、人類的存在になり得た空海という「天才」が二重映しになっていた。」と書いている。まさに、司馬遼太郎がいうように、「空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的な存在でなく、人類的な存在だった」のである。日本の歴史上、このレベルを極めた人物が他にいるのだろうか。



金剛界曼荼羅
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053「訣別 ゴールドマン・サックス」/グレッグ・スミス(2013年6月9日)

訣別 ゴールドマンサックス/グレッグ・スミス
/徳川家広訳/講談社/20121022第1刷
/453頁/\1,900+税

 非常に読み易い本だった。日本語訳が良いからだろう。時々、癖のある文字の使い方などに気になるところもあったが、自然に読むことができた。訳者は徳川宗家19代目とのことだが、徳川宗家が翻訳をしていることも面白い。大政奉還から150年近くを経て、浮き世の移り変わりを映し出しているのだろうか?本書では、著者が勤めていたゴールドマン・サックスが苦境にあったとき、何もしようとしなかったフロアの責任者で最上級の職階であった「パートナー」を<糞っタレ野郎>と著者が評価していたが、書いている本人自体も<糞っタレ野郎>に間違いはないなと思いながら読み進んでいた。

「訣別」というタイトルだが、ハイエナがその手法を変えただけであり、自分の経験を本にして、またぞろ商売をすることこそあくどい手口といえるのではないか、面白くはあるが、虫唾が走る思いを幾度も抱きながら読み進んでいた。しかし、終盤からその雰囲気が変わってきた。まともな人間になってきたのである。まともになったころからこそ、「訣別」したのだろう。著者は、ゴールドマン・サックスの社風が変わったからと書いているが、社風が変わったのではなく、本人が変わったのがその理由であろう。そのことに著者は、最後まで気付いていない。恐らく、今も。

 21世紀に入ると、ウォール街の金融機関は複雑なデリバティブを組み立てて、ギリシヤやイタリアなどのヨーロッパの国々の政府が政府債務を隠して国家財政を実態よりも健全に見せかける手伝いをしてきた。そして、これらの取引で金融機関が手にした手数料は、膨大な額になっていた。彼らは、複雑な金融商品を作ることによって、あの手この手の手数料をむしり取ってきたのだ。それは、ヨーロッパの国々の財政問題を先送りする効果にしかならず、世界を苦しめている欧州政府債務危機の原因の一つとなっている。

 日本でも、幾多の年金基金がその基金の多くを失うという事件が一部明らかになっているが、実態は、未だに明らかにされてはいない。それらの損失の多くが彼らのようなハイエナの輩に吸い取られていったことも間違いはない。2007年のサブプライムローン危機問題に端を発したリーマンブラザースやメリルリンチの破綻は、「リーマン・ショック」と呼ばれる世界的金融危機の引き金となった。リーマンブラザース


の倒産では、負債総額が約6千億ドル(約64兆円)という市場最大の額を記録した。それらの失われた資産の多くはどこかに消えていったのだが、消えていく課程で、その分け前を自分の懐に仕舞い込む輩が多くいた。最近は、ブラック企業を批判する論調が出ているが、彼らはさらにその上前をはねる、より深くダークな寄生体だといえる。

 その少し前になるが、2006年という年は、ゴールドマン・サックスにとって豊作の1年となった。市場は沸きつづけ、デリバティブ営業は収益を上げつづけていた。5月の末には、CEOのハンク・ポールソンがアメリカ連邦政府の財務長官に任命され、ロイド・ブランクファインが後任の会長兼CEOとなった。アメリカでは、政府高官に就任する際に、利益相反を回避するために、所有している株式を売却しなければならないのだが、ポールソンもこの規則に従って、ゴールドマン・サックスの株をすべて売却していた。まさに、金融危機の直前に約5億ドルほどの売却益をポールソンは手にすることになった。それは、たまたまだったかも知れないが、絶妙なタイミングで売り抜けた結果となっている。彼のゴールドマン・サックスにおける命運は、既に尽きかけていたという見方まであったのだが。

 リーマン・ショックでは、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が破綻直前にまで至るが、FRB(連邦準備制度理事会)による850億ドルもの救済資金が投入された。また、リーマン・ショックにより、ゴールドマン・サックスも苦境に追い込まれるが、ウォーレン・パフェットの資本注入50億ドルなどの救済を得て、救われる。もちろん、ウォーレン・バフェットがその分け前を確保していたことは当然であった。その過程で、ゴールドマン・サックスは、投資銀行から銀行持ち株会社への業態転換を果たす。

 2008年の10月には、ポールソン財務長官は、全米1位から9位までの大手銀行への資金投入を決定する。銀行がその受入を希望するしないに関わらず投入が決定された。ゴールドマン・サックスは、資金の受入を拒否しようとしたが、その要望は無視された。受け取らない銀行が出てくれば、受け取った銀行の暖簾に傷が付くという理由からだった。ところが、これらの銀行のほとんどが、12月になると、役員たちに高額なボーナスを支払ったことが問題となる。世界的なニュースにもなった。強欲金融資本主義の象徴ともいえる事象だった。著者は、そのことを擁護して開き直っているが、この段階では著者も目覚めてはいない。



訣別
ゴールドマン・サックス
グレッグ・スミス
徳川家広訳
講談社


 カジノで、ブラックジャックの勝負しているとき、手札の数の合計が19であればディーラーが「ヒットしてください」と告げるなどという状況はあり得ない。21が満額のカードゲームだからだ。ところが、「カジノ・ウォール街」のディーラーは、ときに19の手札を揃えた客に、トランプの札をもう1枚、取らせようとすると著者は告白する。皮肉なことに、今日では本物のカジノの方が、ウォール街の金融機関よりも、規制の中にあるともいえる。事実、ゴールドマン・サックスとJPモルガン・チェースのどちらも、自前のオープン型投資信託をそれぞれの資産運用部門のなかに持っているが、金融情報サイトのモーニングスターによれば、これら2つの投資信託の成績は、業界でも下位にくるという。あるいは、超一流の金融機関で大成功をおさめたトレーダーが独立して自分のヘッジファンドを立ち上げて、失敗するということも珍しくはないという。彼らが利益を上げる場所は、個人の手の届かない次元に存在しているのだ。

 ゴールドマン・サックスでは、超難関の入社選抜を切り抜けると新人アナリストとして採用される。しかし、このアナリストは2〜3年の短期雇用契約でしかない。いかに成績を上げようとも、景気が下り坂となり、人員整理が始まると真っ先に首を切られるトカゲの尻尾だともいえる。アナリストの上がアソシエイトだが、これはゴールドマン・サックスの正規社員になる。アナリスト全体の4割程度しかアソシエイトにはなれない。アソシエイトを4年程度勤めると、ヴァイス・プレジデントとなる。ヴァイス・プレジデントは、全社員3万人のうち、約1万2千人もの数がいる。その上が、マネージング・ディレクター、そして一番上がパートナーという職階になっている。ゴールドマン・サックスが株式を一般公開する前からのパートナーは、1999年の株式上場とともに、何千万ドル、何億ドルもの大金を手にしたという。総じていえるのは、彼らのお金に関する感覚が一般の社会感覚からは、かけ離れていることに多くの問題が含まれている。この本では、著者が入社選抜を経て新人アナリストとして採用され、ヴァイス・プレジデントとしてロンドン支社に転勤して、「訣別」するまでのドキュメントとなっている。

 著者は、グレツグ・スミス(Greg Smith)。1978年、南アフリカ共和国ヨハネスブルグ郊外に生まれ、高校を総代で卒業すると同時に、米スタンフォード大学の全額給費奨学生の権利を得て渡米。大学3年次の2000年にゴールドマン・サ

ックスで夏期インターンシップを経験し、新卒で採用される。入社3年目で20億ドルの先物取引をこなし、20代後半でヴァイス・プレジデントとなる。その4年後、32歳の時にロンドン支店に異動をする。ロンドン時代は、欧州、中東、アフリカ向けのデリバティブ事業責任者として活躍したが、2008年の世界金融危機以降の社風の変化に疑問を持ち始め、2012年春に12年勤務したゴールドマン・サックスを退職した。「なぜ私はゴールドマン・サックスを辞めるのか/Why l am Leaving Goldman Sachs」と題する手記を『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿して、全米で話題となった。原文を今でもネットでも読むことができる。日本語訳もネット上に掲載されている。

 著者は「訣別」したが、「ウォール街」は何も変わっていない。また、少し陰りが出てきた「アベノミクス」をもてはやす向きもあるが、日本株の値動きは予断を許さない。強欲な市場は、さらに上前をはねようと、より好色な要求を表明し続けている。株価の値動きを見れば判ることだ。また、株の振幅には、「プログラム売買」による影響が大きいという。人間が判断する売買の感覚を、遙かに超える取引スピードでコンピュータが自動売買するからだ。見方を変えると、現在の金融市場は、人類の思惑を超える次元の存在が支配をしているかに思える。だが、ブルームバーグのニュースなどを見ていると、日本経済はアメリカ経済の動向に大きく影響を受けていることも判る。思惑が思惑を呼んでいるのだ。安倍政権の成長戦略よりも、東日本大震災を契機とした日本企業のアニマルスピリッツの再来を予言する海外の見解もある。

 とはいえ、背景がどうであろうとも、アベノミクスが触媒効果を果たしたという分析は当たっているのではないだろうか。アベノミクス自体の問題よりも、金融市場がきっかけを求めていただけかも知れない。今後の経済動向は、多分、誰にも判らないというのが現実なのだろう。だが、株が上昇しようが下落しようが、常に手数料をむしり取る金融のハイエナたちだけが、安定した利益をむさぼり続けている事実を忘れてはならない。彼らが金融資本主義を真に支配している訳ではないのだ。強欲資本主義と呼ぶ人もいるが、金融資本主義という虚像たるロボットの関節に巣くう寄生虫にしか過ぎないといえる。それは、想像を絶する年俸をむしり取る一部の傲慢な経営者にも共通する世界だともいえる。
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052「出雲と大和−古代国家の原像を訪ねて」/村井康彦(2013年5月6日)

出雲と大和−古代国家の原像を訪ねて−/村井康彦
/岩波書店/岩波新書1405/20130122第1刷/252頁
/\840+税

 松本清張原作の映画「砂の器(松竹/1974年)」では、刑事役の丹波哲郎と森田健作が秋田県の「羽後亀田」を訪れるところから映画が始まる。殺された身元不明の被害者が、繰り返し話していた「カメダ」という言葉と東北弁風の訛があったことが判ったからだった。しかし、被害者の手がかりがそれ以上掴(つか)めず、迷宮入りになろうとしていた。ところが思わぬところから糸口がほぐれる。東北弁と似た言葉を出雲地方の人が話すという情報を得たのだった。さらに、奥出雲には「亀嵩(カメダケ)」という地名があることが判る。果たして、被害者は亀嵩駐在所の巡査をしていた人だったことが判明する。被害者を実直そうに緒形拳が演じていたのが懐かしい。

 映画の終盤の、行く当てもないハンセン氏病に罹った加藤嘉一演じる父と、小さな男の子が白装束で、菅野光亮+芥川也寸志の感動的な音楽とともに放浪の旅を続ける回想シーンが思い出される。その後、原作とは異なるが、療養所に保護されていた加藤嘉一が、成長した加藤剛演じる我が子の写真を見て「知らない」と否定する演技は、思い出すたびに胸が詰まりそうになる。映画の話はここまでとして、出雲に残る言葉と東北地方、正確には日本海沿岸地域に残る言葉には共通の訛があるという。それを「縄文語」と名付けている言語学者もいる。弥生文化の浸食を受けて、縄文文化が日本海を背景に細長く残ったという見方だ。

 縁結びの神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)には、大黒天、大黒様、大穴牟遅神(おおなむぢ)、大穴持命(おおあなもち)、大己貴命(おほなむち)、大汝命(おほなむち)、大名持神(おおなもち)、 八千矛神(やちほこ)、葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを)、大物主神(おおものぬし)、大國魂大神(おほくにたま)、大國主大神、顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)、伊和大神(いわおほかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)、幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)、杵築大神(きづきのおおかみ)などの多くの別称があるが、多様な歴史が憑依しているのだろう。出雲大社の祭神であることは広く知られている。また、息子が事代主(ことしろぬし)神、別名えびす様だが、えびすは蝦夷(えみし)の別称という考え方もある。




 日本書紀では、天照神(あまてらす)の命を受けた建雷命(たけみかづち)は、出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ち、大国主命に国譲りを迫る。大国主命は、結論を息子に託すのだが、息子の一人、事代主神は素直に国譲りを認める。もう一人の諏訪大社の祭神となる建御名方神(たけみなかた)が、力比べをして負けたなら国を譲ると勝負に臨むのだが、あっさりと建雷命に負けてしまう。負けた建御名方神が諏訪に降り立った歴史も興味深いのだが、今回の趣旨とは異なるので触れない。こうして国譲りが成ったのだが、その際の条件として大国主命は、立派な宮殿を建てることを求める。それが出雲大社だといわれている。また、建雷命は、武甕槌神とも書くが武神として鹿島神宮の祭神としても知られている。しかし何故、建雷命は、出雲に降り立ったのだろうか?

 本書の新聞広告記事を新聞で見てから注文した本だが、Amazonから送られてくるまで10日以上もかかった。そんなことは今までなかっただけに、注文が殺到したことが推測される。「出雲−ヤマト−邪馬台国」といったキーワードが、それだけ日本人の注目を引くということなのだろう。

 奈良県桜井市に日本最古の神社の一つともいわれる大神(おおみわ)神社があるが、その祭神が何故、出雲大社の祭神である大物主神(おおものぬし)なのだろうかというところからこの本は始まる。また、8世紀の始め 出雲国造が朝廷に出かけて奏上した「出雲国造神賀詞(かむよごと)」のなかで貢置を申し出た「皇孫の命の近き守神」が三輪山の大神神社、葛城の高鴨神社など、いずれも出雲系の神々であったこと。そして、「魏志倭人伝」で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が、「古事記」「日本書紀」に全く出て来ないことなどから、著者は次の推論に至る。

 大国主神に象徴される出雲勢力が大和地方に早くから進出していたが、それが邪馬台国だった。「魏志倭人伝」の記述が終わる頃、つまり魏が滅亡する前後に邪馬台国も滅んだのだが、少し前に卑弥呼が没した頃、倭国の争乱に乗じて、神武東征に象徴される新たな勢力が東に向けて移動し初め、やがて邪馬台国は激しい攻撃にさらされることになる。その結果、国譲りが行われ、新たな大和朝廷が成立したというものだ。



出雲と大和
古代国家の原像を訪ねて
村井康彦
岩波書店
岩波新書



稲佐の浜
(建雷命が降り立ったといわれる出雲の伊耶佐小浜)
2007年10月25日撮影


大神神社
2009年12月3日撮影

 大神神社の祭神が大物主神であることや、大和地方にも出雲の地名が残るなど、大物主神(大国主神)勢力が大和地方を治めていた痕跡があることや、出雲勢力が神武東征勢力により征服されたとの考え方は、これまでにも多くの人達が書いているが、大国主神勢力が邪馬台国だったという見解は、ほとんどお目にかかった記憶がない。

 京都府亀岡市に丹波の出雲といわれる「出雲大神宮」があるが、ここは「元出雲」と呼ばれてきたという。ここの社伝によれば奈良時代の709(和銅2)年の前年に丹波守に任じられて赴任した大神(おおみわ)朝臣狛麻呂(こままろ)が整備したものだという。大神という姓からも推測されるように、ここでも大神神社の神主氏族の立場で関与した痕跡が出雲という名前で残っているのだ。

 邪馬台国の中心は、著者は、最近有力候補となっている「纏向遺跡」ではなく、「唐古・鍵遺跡」ではないかと推定している。唐古・鍵遺跡は現在の奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町だ。ここは、纏向遺跡に先行して発達した地域といわれている(古代出雲と大和朝廷の謎/倉橋日出夫/学習研究社)。「出雲と大和」では、邪馬台国の領域を4つに分け、イコマ(生駒山を含む奈良県西北部一帯/物部氏)、ミマス(奈良県西南部の葛城一帯/鴨氏)、ミマキ(奈良県三輪山の麓、天理から桜井にかけて/大神氏)とナカト(邪馬台国中心部)に比定している。いずれも出雲系の氏族連合だった。

 また、奈良県田原本町今里の杵築(きづき)神社や御所(ごせ)市蛇穴(さらぎ)の野口神社などでは蛇巻きが見られるが、三輪山の大神神社の祭神である大物主神も本来は蛇であり、出雲大社も神在月で八百万神を先導するのは竜蛇神で、ともに蛇神信仰がもとになっているという。また、各


地に残る磐座信仰は、出雲に顕著な鉱生産の開発の影響が残っていると著者は見ている。

 神殿構造の違いの見解が面白い。出雲大社は9本柱でほぼ正方形の平面構成を取っているが、中心に心御柱がある。これが天井や屋根を支える上で大きな力となっているが、この構造は、よく知られるように高床式倉庫にも見られるものである。その利点を生かして、穀物などの貯蔵用だけでなく、住居としても用いられていた。これに対して神明造と呼ばれる伊勢神宮の神殿建築は、同様に高床式ではあるが、部屋の中央に心御柱がなく、建物の両側外に棟持柱があるのが特徴としている。これは心御柱がないために弱体化する天井・屋根への支えを補う役割をもったものであるが、心御柱を取り除くことで部屋の内部を広く使うことができるようになったというのだ。そのため、建物の構造としては空間を広く利用できる伊勢神宮の方が新しいとの見解を出している。一方が、土地に住む人々によって祭られる土着神であるのに対して、他方は国家の社稜(しゃしょく)、天下の宗廟(そうびょう)であったともいう。

 島根県の出雲大社から東に直線距離で35kmほど離れて、日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)ともいわれる「熊野大社」がある。主祭神は八岐大蛇(やまたのおろち)退治の素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、拝殿の左手に鑚火殿(さんかでん)という小さな茅葺きの小屋がある。「鑚火祭(さんかさい/きりびまつり)」の舞台となる場所であり、燧杵(ひきりきぬ)・燧臼(ひきりうす)が保管されている。出雲国造が亡くなると、新しい国造は喪に服する間もなく熊野大社に参向して、鑽火殿において燧杵と燧臼によって火を起こし、鑽(き)り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べることによって初めて出雲国造と認められるという。



古代出雲と大和朝廷の謎
倉橋日出夫
学習研究社
学研M文庫



纏向の箸墓古墳


熊野大社
2007年10月27日撮影

 その後、神魂神社において饗宴を受けて、出雲大社に戻り奉告の儀式を行って「火継ぎ式」が終わるのだ。また、毎年10月15日になると、出雲大社で行なわれる「古代新嘗(なめ)祭」に使用するために、国造自ら熊野大社に燧杵と燧臼を受け取りに行くのだが、その際「餅」を奉納して「百番の舞」を踊ることになっている。その餅に対して、熊野大社の社人(しゃにん)である下級神職(亀太夫)がケチを付けるのが習わしとなっているという。それを鑚火祭(亀大夫神事)という。実際の映像をユーチューブでも見ることができるので、興味がある方は参照されるとよい。

 この神事の意味するところは、熊野大社の出雲大社に対する上位性ばかりでなく、出雲国造の本拠が杵築(きづき)ではなく、熊野大社がある意宇(おう)だったという定説があるからだが、その考え方を著者は否定している。熊野大社の祭神は、素戔嗚尊だが別名を櫛御気野命(くしみけぬのみこと)という。ミケ(食事)の神といえばすぐ想起されるのは、伊勢にある豊受大神を祭るやしろ(外宮)だという。伊勢の内宮と外宮の関係と同様に、出雲大社を内宮とすれば熊野大社は外宮であった。

 本書は、本来の出雲国造の本拠地が杵築(きづき:現在の出雲大社の地)ではないとの推論に進む。「出雲国風土記」にある出雲郡建部ク条にみる地名伝承、

   「字夜都弁(うやつべ)の命がその山に高天原から
   お下りになり、その神の社がいまでも鎮座するので

   宇夜の里といった。しかし纏向の日代(ひしろ)宮
   にお住いの天皇(景行天皇)が『私の御子倭建命の
   名を忘れまい』とそこに健部の制を定められた」

ということから、仏経山の麓、宇屋谷川が流れ、川の東が字屋谷、西に荒神谷があるが、現在も旧地名の「宇夜」が「字屋谷」として残っており、字夜の里=健部郷がこの荒神谷をふくむ一帯であったことが推測できるという。荒神谷といえば、358本の銅剣、16本の鋼矛、6個の銅鐸がまとまった形で出土した場所だが、荒神谷こそが出雲国造の元々の本拠地であったと同時に、神庭荒神谷遺跡で発掘された銅剣や銅鐸などの不可解さの説明にしている。

 著者は、1930(昭和5)年生まれの歴史学者だが、茶の湯の研究で知られている。著作歴を見ると、初期の頃は日本古代史の研究もしていたようだが、多くは平安時代から中世の千利休を初めとする茶の湯の関連本が殆どのようだ。「源氏物語千年紀」の呼びかけ人になったらしい。私には、松岡正剛の千夜千冊に出ていた「武家文化と同朋衆」が気になった著作だった。本書では、少し強引に感じるところもあるが、大和朝廷成立以前の歴史感には共感を覚えるところが多い。少なくとも、魏志倭人伝の時代となる3世紀には、日本最大の国家は、北九州などではなく近畿地方にあったことは外れていないと思う。それが邪馬台国かどうかは、これからの考古学的知見に期待したい。



熊野大社の鑚火殿
2007年10月27日撮影


荒神谷遺跡
2009年11月15日撮影





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051「原発ゼロ世界へ」-ぜんぶなくす-/小出裕章(2013年3月31日)

■原発ゼロ世界へ

 今日の福島を含めた原子力発電の問題は、「日本のエネルギー問題」と捉えるか、「日本の核抑止力の問題」と捉えるかで、まったく異なる様相を示す。単純にエネルギー問題と捉えるならば、想像を超える厖大な復旧・補償費用を考えると、原子力発電はほとんどその存在意味を失っているのが現実だろう。今後、原子力発電は、<人知を超えた新たな制御法が開発されなければ>、コスト競争力においても、環境問題を考えても、既にその存在価値を失っているのが現実といえる。事故が起きることによって、長い年月に渡って、人が住めなくなる現実を考えると、どのような説明も空虚に響いてくる。民主党政権末期及び今の自民党政権においても、立地点を必ずしもエネルギー問題に置いていなかったからこそ、原子力への固執が現れているといえる。この点に関して、発足当時は別として、鳩山政権の結果的な存在意味は私には判らないが、菅政権は大きくその舵を切ろうとしたのは間違いない。そこで政権を投げ出さざるを得ない状況に追い込まれた。もちろん、それ以外の事情もあろうが、この問題においてはそれが決定打となったと私は考えている。

原発ゼロ世界へ/-ぜんぶなくす-/小出裕章
/エイシア出版/20120120初版第1刷/309頁/\1,524+税

 ワシントン州バンフォードに巨大なプルトニウム製造用原子炉と、そこで生み出されたプルトニウムを分離するための再処理工場が作られた。「マンハッタン計画」だ。そこでは、「ウラン」と「プルトニウム」の2種類の原子爆弾を作る作業が並行して進められた。いずれも、とてつもない危険を抱え、多大な被曝と環境汚染を引き起こしながらも開発された魔界の申し子だった。1945年夏、アメリカは3発の原子爆弾を完成させた。そのうち2発がプルトニウム原子爆弾で、1発がトリニティ、もう1発が長崎に落とされた原子爆弾・ファットマンとなった。核分裂性のウランで作られたウラン原子爆弾は広島に落とされたリトルボーイだった。

 原子力発電では、ウランを濃縮する課程で、「劣化ウラン」というものが発生する。これは放射能にまみれた「魔性のゴミ」ともいえるが、1基の原子力発電所が1年動くたびに、こ

のゴミが160トン生じる。アメリカでは現在100基の原子力発電所が動いているが、毎年1万6,000トンの劣化ウランが生じている。そこで、アメリカはこの放射能を含んだゴミの有効な使用法を思い付いた。「劣化ウラン弾」だ。ウランは大変重たい金属(比重18.9)で、戦車の装甲すら貫通する砲弾になるのだが、金属ウランは空気中で容易に発火するので、標的に命中すると同時に爆発・火災を引き起こすことになる。アメリカは、湾岸戦争では800トン(公式には約300トンと発表している)、コソボでは約10トン(公式には約3万発を認めている)の劣化ウラン弾を使用した。その結果、現地住民は言うまでもなく、参戦した米軍の兵士にまで癌・白血病、免疫不全、極度の慢性疲労などが多発した。それらは「湾岸戦争症候群」、「バルカン症候群」と呼ばれ、劣化ウランとの因果関係が疑われている。

 今、核兵器保有国と呼ばれる国のうち、米・英・仏・露・中の5カ国は「ウラン濃縮」、「原子炉」、「再処理」の『核開発中心3技術』を持っているが、非核兵器保有国で唯一、それら3つの技術を合わせ持っているのが日本だけであることを忘れてはならない。

 日本では、原子力委員会が策定する「原子力開発利用長期計画」に基づいて、民間の原子力発電所の設置が進められてきた。その計画で、「高速増殖炉」開発の見通しが出されたのは、1967年に出された「第3回長期計画」だった。その計画によれば、1980年代前半に高速増殖炉が実用化するはずだったが、それは不可能だった。計画はほぼ5年ごとに改定されてきたが、改定されるたびに、実用化年度は先に送られ、1987年度の計画では、目標年度は2020年代に先延ばしにされた。しかも、その目標は、実用化ではなく、「技術体系の確立」に変わっていた。さらに、2000年の計画では、高速増殖炉は選択肢の一つだとされ、ついに目標年度を示すこともできなくなってしまった。2005年に出された「原子力政策大綱」では、「2050年度に1基目の高速増殖炉を動かす」といった姿に変貌を遂げてしまった。初めは実用化、次は技術の確立、最新の計画では1基目、それも動かすだけと、幾度もの換骨奪胎が行われてきたのだ。このように、原子力関連の技術開発の見通しには、常に期待値が大きく掛けられていた歴史がある。勘ぐれば、技術開発が目的ではなかったのではないかと思えてくる。



原発ゼロ世界へ
ぜんぶなくす−
小出裕章
エイシア出版

 1994年に、高速増殖炉「もんじゅ」が作られ、1995年12月に発電を始めたのだが、全体の試験を始めようとした途端に事故を起こしてしまった。2次冷却系が破損し、冷却材として使っていたナトリウムが噴出して火災が発生したのだ。その後15年近くも止まったままでいたが、2010年5月8日、再び「もんじゅ」を動かし始めた。この運転は単に臨界状態が達成できるかどうかを調べるだけの試験だったが、936回の警報が鳴り、32個の不具合が発見された。同年8月には、長さ約12m、重量約3.3トンもの「燃料交換用炉内中継装置」を原子炉の中に落とす重大事故が発生、日本原子力研究開発機構は、2011年6月にようやくこの中継装置を引き揚げる作業の完了を発表した。その少し前、2011年2月には、復旧作業にあたっていた日本原子力研究開発機構の課長が山の中で自殺するという痛ましい事件が起こっている。「もんじゅ」は、開発費だけで1兆810億円(会計監査院、2011年11月)の金が費やされている事実を忘れてはならない。

 原子炉は、プルトニウムを生み出すために開発された道具ともいえるが、今、動いている日本の原子力発電所は高速増殖炉ではなく、軽水炉と呼ばれる原子炉が使われている。しかし、そこで生み出されるプルニウムを「再処理」をする技術が日本にはないため、それを英仏の再処理工場に送ってプルトニウムを取り出して貰っている。その量はすでに45トンも溜まっているという。これは長崎型の原子爆弾に換算して4,000発にあたる量だという。

 ウランにも核分裂性ウランと非核分裂性ウランがあったように、プルトニウムにも核分裂性プルトニウム(Pu−239、Pu−241)と非核分裂性プルトニウム(Pu−238、Pu−240、Pu−242)がある。軽水炉の使用済み燃料から取り出したプルトニウムでは、高性能の原子爆弾はできない。そこで、高速増殖炉の特殊な役割が価値を持ってくる。高速増殖炉では、核分裂性プルトニウム(Pu−239)に変えることができ、それはPu−239が全体の98%を占めることになる。

 この溜まり続けるプルトニウムをなんとか処理しようと苦し紛れに考え出されたのが「プルサーマル」計画だった。「プル


サーマル」は、プルトニウムを熱(サーマル)中性子炉で燃やす、という和製英語だが、国や電力会社は、「プルサーマルは資源のリサイクルで、すばらしい」と唱え続けている。しかし、もともと石炭の10分の1しか資源のない原子力の燃料が2割増えたところで、そんなものは資源的な価値を持たないのだ。むしろ、使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、加工し、原子炉の燃料にするために必要なエネルギーを考えれば、エネルギーの浪費になるだけだという。もし原子力をエネルギー資源にしたいのであれば、プルトニウムは高速増殖炉が完成するまで大切な燃料としてとっておくべきものともいえる。そこには、別の理由が考えられると筆者はいう。

 日本には1977年に当初計画「210トン/年」で運転を開始した東海再処理工場がある。その再処理工場はすでに役務運転を終えているが、2008年1月11日までに再処理した使用済核燃料は累積で1,180トン、稼働率は20%にも満たない。仮に六ヶ所再処理工場が操業し、さらに百歩譲って計画通り40年にわたって順調に工場が稼働したとしても、処理できる使用済核燃料は総量で3万2,000トン。そして、工場の運転・廃止措置に必要となる費用とMOX燃料加工費の合計は、国や電力会社による甘い見積もりで12兆1,900億円。そんなことはしないで、単純にウランを購入して充てるとすれば9,000億円で済むというのに。1兆円に満たない利益のために、12兆円を超える資金を投入しているのだ。株式会社であり、利潤が何よりも大切なはずの電力会社が、自らの利益にならないことを初めから認めているのは、その損を電力料金に上乗せできるからに他ならない。ここにも、「日本のエネルギー問題」と異なる理由が隠されている。

 フクシマの事故を受け、イギリス・セラフィールドのMOX燃料工場もついに命運が尽いた。1969年以降、日本から持ち込まれた使用済み核燃料からプルトニウムを取り出してきたこの工場では、これまでトラブルが頻発、MOX燃料がほとんど作られてこなかったという。この工場の閉鎖は2011年10月に明らかとなったが、イギリスで保管する日本のプルトニウムは行き場を失い、日本の電力会社が委託のため拠出してきた数十億円も、水の泡になってしまったという。



蒸気タービン模型
北海道泊村
原子力PRセンター
とまりん館にて


 フクシマの事故の収束に向けた工程表が出され、ステップ○といった段階が明示され、いかにも順調に行っているかの操作が行われ、関西電力の大飯原発が再稼働された。しかし、この工程表が発表された段階では、東京電力も政府も、原子炉の燃料棒は溶けてなく、メルトダウンはしていないとの前提に立っていた。しかし実際には、炉心は溶融し、メルトダウンはおろか、原子炉圧力容器に穴が開きメルトスルーが起こっていたことが現在は明らかになっている。前提条件が覆された以上、工程表を見直すべきだと著者はいっているのだ。「冷温停止状態」の定義にも問題があるという。要するに、原発事故は収束といえるような段階ではなく、まだまだ事故が継続しているとの立場だ。

 もっと恐ろしいのが、メルトスルーが起きた以上、ウラン燃料はどんどん原子炉建屋下部の分厚いコンクリートにめり込み、その下の地面、深さ5〜10mまで行き着いて固まるのだが、前例がないため、実際のところは不明だという。しかし、その溶融体が地下水と接触することにより、超高濃度の汚染物質が周辺の地下、恐らく海まで汚染物を出すことになる。著者は、早急に原子炉の周りを取り囲むように穴を掘り、地下遮水壁という囲いを早急に作るべきだと提案している。東京電力は、この提案に対して海岸沿いの遮水壁だけで海への流出はほぼ防げると回答したが、溶融体が地下水と接触して海に流れさえしなければ良い、という理屈ではないという。

 地下遮水壁と同時に、チェルノブイリのような石棺を構築することも提案している。チェルノブイリでは、25年が経過して、さらにその外側に第2石棺を構築する必要が出て来ている。福島でも、それと同じような経過をとるだろうという。また、汚染水を巨大タンカーに入れ、放射性廃液を処理できる柏崎刈羽原子力発電所まで運ぶことも提案している。いずれも、著者の提案を採用する向きは今のところ無い。

 小出裕章、福島事故以降、テレビに時々出てくる人である。私とほぼ同年代であるが、年齢を考えると、とっくに教授になっておかしくない、京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻の助教である。助教は、かつての助手に等しいといえよう。エリートコースを歩まなかった、反骨の人である。この本を読んで行くにつれ、どんどん暗い気持ちになってしまった。結局、解決策はないということなのだろう。原発事故が発生すると、被災地域の復旧は基本的にあり得ないとのスタンスだ。人間には御し得ない、人知を超えたものに手を出した結果、制御不能な事故が起こってしまったという。福島原発の被害を押さえるには、石棺しかないという。しかも数十年後、その石棺が老朽化する前に、それを覆う第2石棺を造る必要にまで言及しているのは前述した通りだ。


 人形峠におけるウラン鉱床による健康被害の問題がある。岡山と鳥取に跨がる人形峠にかつてウラン鉱山があった。1954年に原子力予算が成立すると、1955年に人形峠のウラン鉱山が注目されるようになった。原子燃料公社(1967年に動力炉核燃料開発事業団[動燃]に拡大改組)は、およそ10年間に渡りウランの試験採取を行ったが、その間に掘り出されたウランはわずか85トンだった。平均的規模とされる100万kw規模の原発を5ヶ月しか稼動させることしかできない量だ。結局、動燃は人形峠でのウラン採掘を諦め、海外からのウラン鉱石を人形峠に運び込んで製錬・濃縮をしたが、採算に合わず閉山となり、その跡には8万トンの鉱滓と45万m3の残土が残された。

 鉱石混じりの土砂に放射能ゴミがうち捨てられていることが問題となったのは、1988年のことだった。ウラン発見から33年の歳月が流れていた。坑口付近では放射線取扱施設から敷地外に放出が許される濃度の1万倍ものラドンが測定されたが、動燃は残土堆積場を柵で囲い込むなどのおざなりの対応で残土を放置し続け、行政は「安全宣言」を出してお墨付きを与えた。いつもの「決して安全でない安全宣言」である。しかし、豪雨のたびに残土が下流へ押し流され、水田にまで汚染が拡がった結果、住民たちは長い戦いの末最高裁まで争われた裁判で勝訴し、ついに3,000m3の残土の撤去命令確定を勝ち取った。

 ところが、この問題には後があった。人形峠から出た放射能のゴミが海を渡って運ばれ、アメリカのユタ州ホワイトメサで精錬されたのだが、そこでは精錬の際の泥水を垂れ流すという愚挙を犯したのだ。ホワイトメサは、ナバホ族、ホピ族などアメリカ大陸の先住民が白人から虐殺や迫害を受けながら「居住区」に押し込められた土地だった。しかも、ウラン残土の多くは、未だに人形峠に残ったままだという。

 如何に、国が、政治家が、電力会社や動燃などが、国民を騙してきたかを明解に綴っている。当然、今後の原発の再稼働はもちろん、再建設への全面否定がタイトルだ。突き詰めて考えてみると、この人の科学的見地を借りると、現在開発されている技術では、原発に対抗するものは、現実には何もないことに気付かされる。この著者は、確かに正しいことしか言っていない。すべてこれから開発できるかもしれない技術でしか、原発に対抗し得ないのが現実なのだ。しかし、福島事故は現実に起きてしまった。否定する論理には強いものがあるが、そのパワーを少しは創造に向けて欲しいと、少し感傷的になってしまったのが、読後感だ。



使用済燃料ピットの模
北海道泊村
原子力PRセンター
とまりん館にて


原発と上手につきあおう−原発報道に異議あり−/
二見喜章/ERC出版/20010226初版/235頁/\600+税

 反原発の本ばかりでは偏るかなと思い、たまたま図書館で目にしたこの本を借りてきた。2001年の出版と、少しばかり古いのが気になるが、私が行った図書館では、原発推進の本を他には目にすることができなかった。冒頭から、新潟県巻町で、反原発推進派が推進派の町長をリコールした話から始まった。巻町は、「新潟県下でも『比較的インテリの多い町』として知られていた。が、その実態はというと「こんなもの」だったのである」と結論づけているのには、驚いてしまった。

 続いて、巻原子力懇談会が出した公開質問状に対するマスコミの報道姿勢を評価している。筆者が、「誠実な回答」と判断したのは、『産経新聞』と『読売新聞』だけだが、その評価理由は、「原子力が必要」との回答を示していたからに他ならない。読売新聞が原子力発電を肯定するのは当然だろうが、他の日経や朝日、毎日などは、原子力を肯定も否定もしなかったことは、マスコミの報道姿勢として問題だと非難しているのだ。公正中立の立場を表示すること自体が、「国益」を無視した問題姿勢だと結論付けている。

 「天然資源」に恵まれない日本のエネルギー政策として、あるいはエネルギーの30%余(当時)を原子力発電に頼っている現実をみたとき、原子力発電の「技術水準の高さ」と「技術者の意識の高さ・経験知の豊富さ」からいっても「なくてはならないエネルギー源」が原子力発電だという。「原発


立地は是か非か」などというのは「机上の空論」にも等しい議論だというのだ。原子力発電を肯定しないマスコミは、国益を考えないメディアだと切って捨てている。全体で235頁ある本だが、最初の20数頁で読み切ってしまった感がある。

 著者は、1992年9月、「世界一の技術水準と安全性の高さ」を誇る、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の建設物語である『ドキュメント原発建設−世界一の巨大科学に挑んだ男たち−』で社団法人日本図書館協会から「選定図書」に指定されたとのことだが、その出版に際して、大手の出版社から出版拒否を受けた恨みを強く持っているようだ。その柏崎刈羽原子力発電所だが、2007年7月の新潟県中越沖地震により、7基ある原子炉のすべてが停止、3号機の変圧器からの出火、6号機では微量の放射性の水が漏洩、7号機の排気筒からは放射性ヨウ素が約3.12億ベクレルと算定される放出があるなど、その対応のお粗末さが問題となった。その後、2009年から営業運転が再開されたが、東日本大震災の影響により、現在は停止されている。しかも、原子炉建屋の直下を通る断層が、活断層と判定される可能性が高く、風前の灯火となっている。

 著者は、二見喜章(ふたみきしょう)だが、新聞記者、雑誌記者を経て独立、現在、ノンフィクション作家・教育評論家として、執筆、TV出演をしているとのことだが、まったく記憶にはなかった。巻末に、自宅の電話番号が出ていたが、大変であったろう。



原発と上手につきあおう
-原発報道に異議あり-
二見喜章
ERC出版

福島の原発事故をめぐって−いくつか学び考えたこと
/山本義隆/みすず書房/20110825第1刷/101頁
/\1,000+税

 名前を聞いて思い出す人も多いと思うが、70年安保で東大闘争全学共闘会議代表だった山本義隆だ。遠隔力概念の発展史についての研究書である「磁力と重力の発見」では、毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞している。原発の専門家ではないが、物理学を専攻していた人である。現在は、予備校の講師をしているとのことだが、良くは判らない。しかし、この本は読みやすかった。非常に良く整理されている。「原発と上手につきあおう」の後に読んだだけあって、非常に品良く感じたというと書きすぎだろうか?

 最初の方に、岸信介の回顧録が出て来た。「日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器を持たないが、〔核兵器保有の〕潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る。」どうやら、岸信介は原子力開発を国際政治の発言力の一つとして考えていたらしいことがよく判る。


 原子炉でも原爆でも、エネルギーの発生は、天然のウラン鉱中にわずかしかないウラン235か、原子炉内で作り出されるプルトニウム239による原子核の核分裂による。この核分裂によるエネルギーを制御するか一挙に解放させるかで、原子炉と原爆の違いになる。しかし、いずれの場合でももとの燃料とほぼ同質量の核分裂生成物が高熱とともに生み出されるが、それは「死の灰」なのである。それは、不安定でかつ人体に有害なα線やγ線、中性子などを放出し続けるのだが、人類は未だにそれらを回収し無害化する技術を持っていない。プルトニウム239に至っては、半減期が約2万4千年で、無害になるのに50万年の時間を要する。46億年といわれる地球の歴史からみるとわずかな時間だが、丁度、原人(ホモ・エレクトス)などが生まれたのが50万年前ころといわれている。少なくとも、今の人類が現在の姿を留めているとは思えない永遠のサイクルに近いのだ。ちなみに、現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカで発祥したのは、15〜20万年前に過ぎない。

 著者は、こう語っている。「日本人は、ヒロシマとナガサキで被曝しただけではない。今後日本は、フクシマの事故でもってアメリカとイギリスそしてフランスについで太平洋を放射性物質で汚染した四番目の国として、世界から語られることになるであろう。」それほどの分量もなく、繰り返しもほとんどなく、今までの原発問題を整理するには最適な本だった。


福島の原発事故を
めぐって

-いくつか学び考えたこと-
山本義隆
みすず書房
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050「化石の分子生物学」−生命進化の謎を解く−/更科功(2013年3月10日)

化石の分子生物学−生命進化の謎を解く−/更科功
/講談社/講談社現代新書2166/20120720第1刷
/236頁/\760+税

 1960年代ころから、ズッカーカンドルらにより、進化の研究が分子レベルで行われるようになってきた。そのころ国立遺伝学研究所の木村資生(もとお)は妙なことに気がついたという。一つは、次々に報告される遺伝子やタンパク質の進化速度がとても速いことである。たとえばホールデーンという集団遺伝学者が推定した、DNAの世代あたりの塩基置換率と比べてみると、数百倍も速いのだ。もう一つは、多型と呼ばれる現象が非常に多いことだった。ヒトのABO式血液型のように、生物の集団内に複数の遺伝的な特徴が共存することを多型というが、従来はこのような多型は珍しいことだと考えられていた。ところが遺伝子やタンパク質を簡単に調べられるようになってくると、どんどん多型が見つかり始めたのだ。ルウィントンとハピーの1966年の報告によると、ウスグロショウジョウバエで調べた遺伝子のうち、30%が多型を示したという。筆者がヒヨクガイという二枚貝のタンパク質で多型を調べた時は、17個のタンパク質のうち、多型を示したのが7個もあったという。ここでも、およそ40%超の多型があることになる。ダーウィンが提唱したのは、生物の形態レベルにおける進化のおもなメカニズムは自然選択だったが、有利な遺伝的特質だけが生き残るという「自然選択説」だけではどうも説明しきれなくなってきた

 今西錦司は、加茂川におけるヒラタカゲロウ幼虫が、流れの速さに応じて、流心の方から、エペオラス・ウエノイ、エペオラス・カーバチュラス、エペオラス・ラティフォリウム、エクデイオナラス・ヨシダエの順に並んで分布していることを見つけ、やがて「棲みわけ理論」に発展していったが、生物の進化は単純な自然選択だけでは説明できないことを、今西錦司が提唱していたことを思い出した(「主体性の進化論/中公新書/1980」)。

 昔、ある村に村長がいて、1、2、3、4という四つの数字を使って四則演算(足し算、引き算、掛け算、都り算)で10にした。そこで伝記作家は、村長がどうやって10にしたのかを伝記に書こうとして、計算をしてみると、四つの数字を全部足せば、10になることがわかり、伝記には「村長は四つの数字を全部足して10を作ったのであろう」と記した。ところが後に村長の残したメモが発見され、じつは村長は3を2で割ってから1を足し、最後に4を掛けて10を作ったことが明らかになったという。

 著者の説明は、読みやすくはあるが、判りやすいようで判りにくい嫌いもある。こちらの理解力が低いといわれればそ

れまでだが、化石の分子構造を調べる作業は、結果ももちろん重要だが、そこに至る過程がより重要であり、それらが繰り返し検証され、精査されていくのだが、断定をすることは滅多にない、可能性の追求の学問だということが文章に良く現れているような気がする。

 ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)と現生人類(ホモ・サピエンス)の間では交配が不可能だったと従来はみられていたが、その後の<化石>のDNAの研究で、僅かながら交配が見られたということに驚いた。ネアンデルタール人は、およそ60万年から30万年前の間に、現生人類につづく系統から分岐した。一方、アフリカで誕生した現生人類が、アフリカから出て、まず西アジアに移住し、そこから世界中に広がっていったのは、古くてもおよそ10万年前である。一方、ネアンデルタール人はすでにヨーロッパや西アジアに住んでいた。現生人類の一部がアフリカから出て西アジアに移住したとき、彼らはそこでネアンデルタール人と出会い、交配がある程度行われたというのだ。

 解剖学者ストラウスとケイブが1957年に述べた、有名な言葉がある。「ネアンデルタール人が現代にあらわれて、ニューヨークの地下鉄に乗っていたとしても、もし彼が風呂に入ってひげを剃り、服を着ていたなら、誰の注意もひかないだろう」

 両者のゲノムは、完全に混じったわけではないので、全面的な交配がおこったわけではない。交配は、まれな出来事だったらしい。現生人類は、その後、ヨーロッパや東アジアへと分布を広げていき、ネアンデルタール人との交配は行われなくなった。一方、アフリカにとどまった現生人類は、ネアンデルタール人と出会うこともなかったので、当然交配もおこなわれずに現在に至った。それらのことが、DNA研究から明らかにされた。ネアンデルタール人は、恐らく東アジアには住んでいなかったが、ヨーロッパでは、約3万年前に絶滅するまで、ずっと住んでいたと想定されている。我々の遺伝子には、ネアンデルタール人の遺伝子もわずかながらも含まれていたのだ。

 同様なDNAの研究から、北海道の縄文人のDNAは、日本の本州などの人々より北東アジアの人々との強い結びつきを示しているという。縄文時代の北海道の人々は、日本の縄文人の周辺集団というよりは、北東アジアの人々の周辺集団といった方が良いかも知れないのだ。また、この北海道の縄文人のデータは、現代のアイヌのデータとも大きく異なっていた。これは「アイヌが縄文人の直系の子孫である」とは考えにくいことを示しているという。



化石の分子生物学
−生命の進化の謎を解く−
更科功
講談社現代新書
講談社

 また、北海道以外に住んでいた縄文人のミトコンドリアDNAも多数解析されているが、縄文人が属するグループは、現代の東南アジアだけでなく、比較的、北の方まで含めて東アジアに広く分布していることも判った。とくに東南アジアからの影響が強いという訳でもない。弥生時代の人骨からもミトコンドリアDNAが解析され、それは本州の縄文人のものとは大きく異なっていた。したがって弥生時代になると、何度も外から人々が日本列島に侵入し、縄文時代から日本列島に住んでいた人々と混血していったという仮説は、DNA研究の結果からも概ね支持されるという。

 テレビの「カンブリア宮殿」を初めて観たとき、冒頭で画面を泳ぐアノマロカリスに驚きを覚えた記憶がある。1994年頃に放送された「NHKスペシャル/生命40億年はるかな旅」で、カンブリア紀の最大捕食者として、アノマロカリスが発見されたストーリーを思い出したからだ。そのときのアノマロカリスの印象は、まことに強烈だった。もっともその後、アノマロカリスの化石が幾種類も発見されたり、最大捕食者説が疑問視しされたり、泳げなかったのではないかとする異説が出たりしているが、すべて想像の域を出てはいない。

 地球の歴史は、古生代、中生代、新生代という時代区分に分けられる。現在は新生代に属しているが、恐竜がいたのは中生代だ。古生代はそれより古く、三葉虫がいた時代である。古生代の中で最初の時代を、カンブリア紀という。およそ5億4千万年前から4億9千万年前までの時代である。この時代は、生命の発生が大爆発した時代といわれ、多様な生物が大発生した。カンブリア紀に何故、生命の大爆発があったかは、いろいろな考え方があるようだ。

 カンブリア紀に、多くの動物のグループが、「硬組織」を作り始めたことも判っている。骨格に筋肉が付着することによって敏捷な運動ができるようになり、また、捕食者からの防御のために、体を硬組織で守る動物も現れた。反面、硬組織は捕食者が獲物を襲う道具としても使われるようにもなった。鶏が先か卵が先かといった議論になってしまうが、あるいは「目の誕生」がその主要因だったのかといった論もあるが、硬組織の発明が地球上の世界を一変させることになったのは、間違いがない。それまでの平和なのんびりした世界から、食う食われるかの激しい関係が成立し、地球上が騒がしくなったのだ。

 私たち人類は、ホモ・サピエンスという種である。分類学的にいうと、私たちは動物の中の、脊索動物門、脊椎動物亜門、哺乳網、霊長目、ヒト科に属している。大きな分類群で

いえば、私たちは脊索動物門の一員となる。そして「門」という分類群は、動物においては基本的な体の構造の違い、つまりボディプランによって分けられている。

 動物は30以上の「門」というグループに分けられているが、そのほとんどは左右対称な体をしている。海綿動物門や刺胞動物門のようないくつかの原始的なグループを除けば、大部分の動物は左右対称な体をもっている。内臓などは完璧に左右対称とはいえないが、大まかには左右対称な体をもっている。しかも、左右ばかりでなく、頭があって、そこにはロがある。そして、ロとは別に肛門があり、摂取する食物と、排出する排泄物が混ざらないようになっている。人間の一生は受精卵から始まるが、受精卵は一つの細胞から、卵割とよばれる細胞分裂により、二つの細胞になる。さらに卵割をくりかえして細胞の数が増えていき、桑実胚(そうじつはい)、胞胚(ほうはい)をへて、原腸胚(げんちょうはい)にいたる。原腸胚になると、ボールのように丸かった胚の一部がへこみ始め、この陥入した部分が、原腸とよばれる構造をつくるのだが、この陥入の入り口を「原口」という。人間では、原口は成体になったときには肛門になる。ところが、原口が口になるものもいる。この原口が、成体になったときに口になるか肛門になるかで、左右相称動物は、口になる「前口動物」と肛門になる「後口動物」に分けられている。人間は後口動物である。

 現在生きている生物の中で、ヒトに一番近いと考えられているのはチンパンジーだが、お互いのゲノムの塩基配列が異なるのは、1〜2%ということは良く知られている。しかし、ヒトやチンパンジーのゲノムに含まれている塩基はそれぞれ約30億対ぐらいなのだから、1%違うだけでも3000万対もの塩基が異なることになるのだ。実際には、ヒトとチンパンジーのゲノムはおよそ4000万対の塩基が異なっていると考えられている。また、ヒト同士の塩基の違いは、多くても300万対以下だ。ホモ・サピエンス(現生人類)とホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)との違いはその中間になるが、当然、その分岐点はヒト同士により近いことになる。

 現生人類(ホモ・サピエンス)のDNAのゲノム(遺伝情報)の解読作業は、1991年から始まり、2003年には解読完了が宣言された。しかしながら、解読がされたというだけで、その働きを含めて、まだまだ判っていないことが余りにも多くあるのだ。本書には、化石を通じたDNA研究による、最近の成果が書かれているが、生物の進化の過程を追求する作業は、果てしなく遠い道程にあるようだ。

アノマロカリス
想像図の一つ
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049「アラブの春」の正体−欧米とメディアに踊らされた民主化革命/重信メイ(2013年2月27日)

「アラブの春」の正体
     −欧米とメディアに踊らされた民主化革命
/重信メイ/角川書店/角川ONEテーマ21/20121010初版
/231頁/\781+税

 2013年1月、北アフリカのアルジェリア/イナメナス付近の天然ガス精製プラントで、痛ましい事件が起きたが、世界地図を見なければアルジェリアが何処にあるのかも判らないのが日本国民の大多数だろう。「カスバの女」と聞いて、アルジェリアを思い出す人も多いと思われるが、地中海沿岸以外の国土の大部分は、世界最大の砂漠であるサハラ砂漠に呑み込まれている。サハラ砂漠は、アフリカ大陸の3分の1を占めるといわれているが、かつては草原だった歴史もある。しかも、サハラ北部のアルジェリアとリビアには、豊富な石油が埋蔵されている。また、燐酸塩やリン砿石、鉄鉱石が算出されるなど、資源的には豊かな地域だ。北西側にはモロッコ、南側にはマリとニジェール、東側はカダフィが銃殺(撲殺)されたリビアやチュニジアに接している。マリは、かつてはフランス領スーダンと呼ばれていたが、マリ北部をフランス軍が空爆をしたとのニュースが2013年の初頭に流れたが、メディアは詳細を報じようとはしていない。

 近東とは、ヨーロッパから見て東にある国々で、比較的近隣の国を指している。中東とは、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。したがって、中近東とは、近東と中東の総称になるが、明確な定義はない。しかも、北西アフリカのアルジェリアやモロッコなども中近東に含める考え方もある。外務省のホームページを見ると、世界をアジア、北米、中南米、欧州、大洋州、中東、アフリカに分けていて、中東はアフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノンとしている。したがって、アフリカ大陸にある国々は、当然、エジプトを含め中東に含めていない。近東も、中近東も外務省の区分にはないのだ。

 何故、こんなことを書くかというと、私たちが一般に使う「中近東」や「中東」という言葉の定義が、かなりいい加減だということを言いたいことだからだ。経済的にはかなり、日本と密接な関係を持っている中東だが、政治的にも、社会的にも、日本国民の認識は薄い。では、「アラブ」と言うと、アラビア語を話すアラブ文化をイメージするが、中東や西アジア、北アフリカに跨がる国々にアラブのイメージがある。しかし、その地域の国々がすべてアラブ人ということでもなければ、必ずしもイスラム教でもない。例えば、トルコ人やイラン(ペルシャ)人は
アラブ人ではないが、宗教的にはイスラム教を信仰する人が多い。

 2013年2月23日と24日の2日に渡って、NHKが「激動イスラム アラブの春はどこへ」を放送した。第1回目は、「エジプト」だった。インターネットを武器に若者が「革命」を起こしたが、新たな国家の建設に向かうなか、勢いを増したのは、イスラム原理主義集団のムスリム同胞団だった。イスラムの台頭により、若者たちの反発は高まり、混迷の度をさらに深めている。第2回目は、「イラン」。核開発問題をめぐって国際社会から圧力を受けながらも、中東地域で、その存在感を際立たせようとしているのが、国民の大多数をイスラム教シーア派が占めるイランだ。また、同じく国民の大多数をシーア派が占めるバーレーンでは、権力を握るスンニ派の親米政権打倒を掲げ、デモが繰り広げられている。イスラム内部の宗派争いにスポットを当てているようだ。いずれも、混迷の度を深めているアラブを描いている。アラブに「春」は、未だ来ていないといえよう。

 さて、「『アラブの春』の正体−欧米とメディアに踊らされた民主化革命」だが、著者の重信メイは、あの日本赤軍のリーダーだった重信房子とパレスチナ人の父の間に生まれ、無国籍のままアラブ社会で育ったが、1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業後、同国際政治学科大学院で政治学国際関係論を専攻。2001年3月に日本国籍を取得後、アラブ関連のジャーナリストとして活躍している。2011年2月、同志社大学大学院でメディア学専攻博士課程を修了、現在は、ジャーナリストとしてパレスチナ問題を中心に広く講演活動を行なっている。博士号を取得した時の論文のタイトルは、「アルジャジーラ放送アラビア語報道局によるフレーミングと議題設定効果の研究 :衛星チャンネルのアラブ社会への影響の視点から」となっている。原文は英語で書かれているが、筆者は、英語、アラビア語、日本語に堪能だ。宗教・宗派的対立を際立たせようとする欧米や日本のメディアに対して、彼女の視点は、否定的な立ち位置にある。また、博士論文の主旨から判るように、国際メディアに対する慧眼(けいがん)は注目に値する。

 アラブ・ナショナリズムは政教分離だという。アラブはイスラム教徒がマジョリティを占めているが、イスラム教のなかでもスンニ派、シーア派、アラウィ派のように多数の宗派があり、ほかにもキリスト教徒やユダヤ教徒なども多くいる。それらの宗教や宗派が異なる人たちが友好的に団結するために、共通の基盤として浮かび上がってきたのが「アラビア語」だという。西はモロッコから東はイラクまで、アラビア語を話し、同じ歴史を共有できる民族が作った国が連なっているのだ。


「アラブの春」の正体
欧米とメディアに踊らされた民主化革命
重信メイ

角川ONEテーマ21
角川書店
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 国境線を見れば判るが、定規で引いたような直線が多い。それは、イギリスやフランスなどの欧米の帝国主義、植民地主義によって勝手に引かれたラインを明示している。アラブ人に限らず、歴史的に存続してきた多様な民族も含めて、共通の言語・文化・歴史を共有していることがアラブの定義だという。アラブ・ナショナリズムは、排除の論理を持たないため、宗教や宗派を問わないのだ。キリスト教徒もユダヤ教徒も受け入れることができるイデオロギーだという。

 歴史的に、イスラム教が広まる前はレバノン、パレスチナ、イラクなど、いろいろなアラブの国々に、先祖からアラブ以外の人が住んでた。アラブ民族はサウジアラビアなど湾岸を出自とする民族なのだが、その前にいた別の民族や、その後にやってきた人たちと徐々に融合して、いまのアラブが構成された。「代々、私はアラブ人」とはっきり言える人は少数派に過ぎない。アラブに住んでいるが、先祖はアルメニア人、クルド人という人たちや、ヨルダンにいるシャルカス、北アフリカのベルベル人など、いまだはっきりとアラブとはまた違う歴史を持っている人たちもいる。

 良く話題になるのが、「スンニ派」と「シーア派」の問題だ。西暦610年頃、ムハンマドはメッカで天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けイスラム教を始めた。ムハンマドは幼い頃に両親を相次いで亡くしたため、祖父と叔父(おじ)が引き取って育てた。ムハンマドよりはかなり年下だった叔父の子アリーとムハンマドは、兄弟のようにして育った。シーア派の祖となるアリーは哲学や天文学に明るく、教養があったといわれている。一方、「スンニ」とは、「預言者ムハンマドがいた時代のスンナ(慣行)を守る人」という意味だが、共同体での話し合いを重視して、最高指導者も話し合いで決めようと主張した。結果的にスンニ派の意見が通り、ムハンマドの後継者には、イスラム帝国の初代カリフ(首長)となったアブーニバクルが選ばれた。それから4人のカリフがイスラム帝国を大きくしていった。

 アリーは、4代目のカリフとなるが、アリーと敵対していたスンニ派のムアーウィヤとの戦いに敗れ、その後暗殺される。


ムアーウィヤが開いたのが、ウマイヤ朝だった。アリーの子孫のみがイスラム共同体を指導する資格があると主張する「シーア派(シーア・アリー)」はウマイヤ朝に対して反乱を起こすが、鎮圧される。以後、スンニ派とシーア派はまったく別の歴史を作ってきた。

チュニジアのジャスミン革命

 アラブでの紛争には、ソーシャル・ネットワークの普及が大きく関わっている。特に、各国のアメリカ大使館やCIAの情報を暴露したウィキーリークスの影響が大きいという。従来のメディアが報じなかった支配層の腐敗した個人情報がソーシャル・ネットワークを通じて、広く知らしめられることにより、一般市民の怒りに油を注ぐこととなった。

 特に、地中海に面する、リビアとアルジェリアに挟まれた小国チュニジアでは、インターネット人口が多かったことも影響した。日本の半分弱の面積に、人口は東京都の人口よりも少ない約1050万人。また、石油などの資源もないので、欧米からの注目度も低く、欧米もさほど事態を深刻には考えていなかったという。

 ブーアズィーズィーの焼身自殺から1ヶ月足らずの間に、ベン・アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、ちょうど1ヶ月後の2011年1月17日には、下院議長が暫定大統領を務める暫定政権が樹立された。ジャスミン革命が起こったのだ。女性の権利を認めるといった点で中東の他の国より進歩的だったチュニジアだったが、それは、ベン・アリー元大統領の第二夫人が大きな役割を果たしたと言われている。しかし、同時に、この第二夫人の一族が政権の腐敗に大きく関わっていたため、ベン・アリー以上に国民から嫌われている存在でもあった。

 初の議会選挙で勝利したのはムスリム同胞団が母体になった「アンナハダ」だった。217議席中89議席を獲得し、第1党となる。チュニジア国民の平均年齢は30歳。しかし、30歳の約4割が職を持っていないという。ちなみに日本の平均年齢は45歳だそうだ。

エジプトとムスリム同胞団

 エジプトという国の根幹を握っているのは軍だ。ムバラクが大統領になるよりも前、1952年に軍がクーデターを起こし、王政を廃してからはずっと軍事政権が続いていた。エジプトはアメリカから毎年、約20億ドルの経済援助を受けていたが、その大半は軍に流れ、軍は大企業に投資をしていたという。エジプトでは軍が金融機構を持ち、経済活動に深く関わっていたわけだ。


 ハーリド・サイードという一人の男性ブロガーがいた。彼は警察官が没収した麻薬を横流しする現場を撮影した映像を何処からか入手して、「この映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅したという。警官たちは、インターネット・カフェにいた彼を、多くの人が見ている前で殴る蹴るの暴行を加えて逮捕した。警察は、獄中で亡くなった彼の遺体を家族の元に送り返した。サイードのブロガー仲間たちは、「私たちすべてがハーリド・サイードだ」というフェイスブック・ページを作ると、かねてからエジプト政府の弾圧や、労働者の待遇、失業率の高さなどの経済面で不溝があった若者たちがそのページに集まるようになり、そこから運動が大きくなっていった。

 「エジプト革命」によって、ムバラクは大統領の座を追われ、逮捕、起訴されたことで革命が成就したかのような印象を世界に与えたが、その後の推移を見ていると、結局のところ、ムバラクはスケープゴートに過ぎなかったようだ。すべてをムバラクと内相だったアドリに罪をかぶせ、イスラム系政党の支持を得たムハンマド・ムルシーが大統領に選ばれたが、エジプト革命を先導した左派やリベラルな人たちが求めていた「自由」はむしろ規制される方向に向かう可能性があるという。

 エジプトには、その後の国づくりのビジョンはなかったことが


大きい。しかも、スエズ運河をアメリカ軍が好きなように使っていることに対する不満も国民の間に存在している。経済的な面でアメリカに使わせるならまだしも、アメリカ軍がスエズ運河を経由して入ってくることで、イスラエルと協同してアラブ諸国に脅威を与えているという現実があるのだ。大統領選挙で選ばれた、ムスリム同胞団に支持基盤を持つムルシー大統領は同時に軍が主導した憲法改正を無効とし、再び権力を大統領に集中させている。そのため、ムルシー政権に警戒感を持つリベラル派の国民も多いという。

 チュニジアでもエジプトでも「ムスリム同胞団」系の候補が選挙で勝ったが、ムスリム同胞団は1つの組織ではなく、1種のムーブメント、運動体だという。ムスリム同胞団と名乗る条件として、イスラム教をもとにしていること、スンニ派の宗教指導者が作ったドクトリンに基づいて行動することが挙げられるが、1つの組織ではなく、その目標を実現するための手法は、国や地域によって異なっている。たとえば、シリアのムスリム同胞団はテロ活動も行う軍事的組織だが、エジプトでは、軍事的な行動を行うことはない。とはいえ、かつてのサダト大統領を暗殺したのはムスリム同胞団のメンバーだった。

 ムスリム同胞団にせよ、サラフィにせよ、イスラム原理主義者はアメリカやイスラエルにとって、もはや真の脅威ではないという。ムスリム同胞団も、アメリカ、イスラエルと敵対することで世界から孤立することを恐れているのだ。パレスチナのハマスはイスラエルと敵対する唯一のイスラム原理主義グループだったが、その結果、世界から孤立してしまい、国際社会の中で窮地に陥ってしまった。

リビア

 42年間に渡って維持されてきたカダフィ政権が倒されたが、チュニジアとエジプトで起こった「民衆革命」とリビアの「革命」は、かなり事情が異なっていた。リビアで起こったのは、「アラブの春」などではなかったのだ。リビアは石油や天然ガスが豊富にが採れるために、潤沢な資金があり、世界中の革命勢力や、民衆運動をカダフィ政権が支えていた。1960年代、70年代は反核運動などの民衆運動を、地域に関わらず支援した。たとえば、あまり日本では知られていないが、インドネシアのイスラムやフィリピンの民衆運動ばかりか、オーストラリアの労働組合に資金援助をしていたことが知られている。しかも、欧米の顔色をうかがったり、様子見ばかりする他の中東の指導者とは異なり、思ったことをはっきりと口にするリーダーとして知られていた。リビア国民からも一定の支持を受けていた。「カダフィ政権を倒したい」という欧米の意向が、何処かで働いていたのだろう。


 カダフィはアラブ・ナショナリズムとイスラム教を政治の柱にしたが、さらにもう一つの思想を政治に取り入れた。それが「社会主義」だった。カダフィが掲げていたのは「イスラム社会主義」だった。イスラム教には、もともと富を分け合い、助け合おうという考え方があり、社会主義とは相性が良かったともいえる。しかも、議会制民主主義や政党政治を否定した直接民主制による独自のイスラム国家建設を志向していた。

 リビアはアフリカ大陸で4番目に広い国土を持っているが、もともとは東(キレナイカ)と西(トリポリタニア)、南(フェザーン)に分かれていた。それぞれが別の部族で、文化や歴史が異なっていた。第2次世界大戦後の1951年に、英仏の共同統治から独立してリビア連合王国(1963年からリビア王国)ができたが、東(キレナイカ)の王様だったイドリースが東・西・南を統合して、リビアを1つの国にした。それから18年後に、カダフィがクーデターを起こして政権を握る。カダフィは西(トリポリタニア)を代表する大きな部族の出身だったが、このクーデターには東と西の部族の権力闘争という側面もあった。今回、リビアで起こったのは、いわゆる「革命」ではなく、東が西に仕掛けた「内戦」でもあった。当初は、カダフィ政権側が有利だったが、国連安保理の決議を受けたNATO(北大西洋条約機構)などの軍事的支援の結果、カダフィは追い詰められ、銃殺(撲殺)されるに至る。そのとき、日本は東日本大震災直後のまっただ中にいた。

 マスメディアはカダフィが隠し財産を持っていると大々的に報じたが、それは政治的な報道だった。カダフィは、私有財産として海外に口座があったわけではない。ファイナンシャル・タイムズやペンギン出版社に投資しているとか、サッカーチームのユベントスに投資しているなど、国家名義の銀行口座や投資がほとんどだった。それがため口座の凍結が容易だった。一方、ムバラクの場合は、個人口座だったために、凍結したり没収するためには、ムバラクを法的に有罪にするまで待たなければならなかった。

 また、今日、中国がリビアも含めてアフリカへ巨額の投資をしていることは知られているが、欧米がその投資に対して、大きな懸念を持っていたことも背景にあるという。カダフィは、20


09年に、57の国と地域が参加したアフリカ連合の総会議長も務めた。カダフィは、欧米や、中東、アジアにアフリカが対抗する第一歩として、金本位のディナールという地域通貨を作ることも発表していた。イラクの元大統領サダム・フセインは2002年に石油の売買をドルではなく、ユーロで行うと発言したが、その年にアメリカによってイラク戦争が起こされている。それと同様に、金本位制の地域通貨が欧米に危機感をもたらしたことが、リビアの「内戦」の一つの原因だったと著者は見ている。NATO軍が空爆した施設は、鉄道、高速道路、病院、大学……といったインフラが中心だった。内戦が終われば再建される必要がでてくるものだ。そのとき、大きな投資資産が動き、外国資本が入ってくることを止めることはできないだろうという。欧米が企てるいつもの手口でもある。

 アメリカは、リビアの内戦に距離を取っていたように見せていたが、それは表向きのことだった。アメリカのCIAは国民評議会の兵士の軍事訓練に関わっていたことが、CIAの乗っているヘリコプターが墜落したことによりバレてしまった。しかし、そのことを取り上げたメディアはごくわずかだった。欧米からリビアに行く記者たちは、独裁者カダフィを印象づけるための報道しかしなかった。しかも、その後のリビアは内戦が納まるどころか、部族間の対立が激しくなっているという。それも、欧米や、カタール、バーレーンの支援で送り込まれた大量の武器が供給されてしまったからだ。しかし、リビアの現在を報道するメディアはほとんどない。1990年代にツチとフツの間で起こったルワンダ紛争で、100万人近い人が亡くなって初めて世界が報道したときのように。

カタールとアルジャジーラ

 CNNやBBC、そして日本のメディアもアルジャジーラからの報道を転用している。しかし、アルジャジーラは決して中東の公平な報道機関ではない。アルジャジーラに資金を提供しているのは、カタール政府だということは良く知られている。60万程度の人口しか要しないカタールが、国際的な存在感を増すために設立したのがアルジャジーラなのだ。いまや、スポンサーのカタールを超えるアラブを代表する衛星メディアとして、欧米のメディアからの一目置かれる存在になってしまった。


 カタールもリビアも天然ガスを輸出する国だったが、利害関係があり、対立するリビアを追い落とす狙いがカタールにはあった。カタールにはカダフィと対立していた米軍の基地もあり、王政を否定するカダフィとはいつか対立することが目に見えていたのだ。ハマド首長がアルジャジーラを設立するときに投じた資金は1億3600万ドル、年間3000万ドル程度の補助金を出しているといわれている。

 「アラブの春」ではインターネットのフェイスブックやツイッターを使った呼びかけがデモなどによる民衆の力を一つにしたと報道された。たしかにチュニジアやエジプトでは、国内で不満を持っていた人たちを団結させ、行動を起こさせる一方で、世界に対して現状を訴えることができたのは、インターネットの力が大きかった。しかし、チュニジア、エジプト以外の国では、インターネットの普及率が低いこともあって、アルジャジーラなどの衛星放送を中心としたメディアの報道の力の方が大きかった。

 しかし、チュニジア、エジプトでは民衆の生の声を伝え、メディアがフォローしきれない情報を世界に伝えることができたが、リビア内戦以降は、デマやねつ造がまかり通り、むしろそれらが内戦を煽ることに利用されている。「アラブの春」の本質はメディア戦争だったと著者は見ているのだ。「春」でも何でも無かったのだ、「内戦」を煽っていただけなのだ。アルジャジーラがウソの報道をすることにうんざりしたスタッフが大量に辞めているとの情報もある。チュニジア、エジプトのときは、反政府勢力と政府、両方の言い分を取り上げていたのが、リビアでは反カダフィ、シリアでは反アサドというスタンスでニュースを放送している。

バーレーン

 バーレーンはアラビア湾のなかにある大小さまざまな島からなる国だが、昔は漁業や真珠が産業だった。国民の大多数をシーア派が占めているが、王家のハリーファ家がスンニ派という変則的な国家だ。首都マナーマの「真珠広場」における抗議行動が、「アラブの春」の始まりだった。スンニ派、シーア派も関係がない抗議行動だったが、逮捕されたのがシーア派ばかりという報道がされたため、あたかも宗派対立のようにされてしまった。そして、ある日突然、サウジアラビア軍の戦車がやってきた。丁度、その時、日本では東日本大震災が起こり、福島第一原発の問題が世界から注目を集めていた時期だったため、バーレンで起きていることは世界的な注目を集めることはなかった。

 サウジアラビアにとってバーレーンはイランとの間にあり、緩衝となる国だった。ここがイラン寄りのシーア派の国になっては危機管理上危険だと見たサウジアラビアは、石油産業を守るという名目で、真珠広場に集まった人たちを鎮圧したのだった。バーレーン政府としては、反政府運動の陰にはイランがいるという陰謀説を根拠としていた。

 1981年から、アラブ首長国連邦、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、バーレーンの6カ国による年に一度の国際会議がある。湾岸協力会議(GCC)と呼ばれるものだが、湾岸の秩序と安定化を図るために経済的な協力体制を築こうとしている。2012年には、GCCでバーレーンとサウジアラビアを統合するという案が協議された。反対運動も起きているが、バーレン政府は乗り気だという。湾岸ではシーア派が差別され、弾圧されてきた歴史があるが、GCC全体での軍事力はサウジアラビアが突出しているのだ。

イエメンとノーベル平和賞

「アラブの春」は、アラビア半島の南まで飛び火した。現人類(ホモ・サピエンス)の祖先がアフリカから抜け出ることに成功したのが、アデン湾からイエメンに抜けるルートだといわれている。北方のエジプトからイスラエルに進出したルートは失敗したともいわれている。旧約聖書にあるソロモン王とシバの女王の話でも知られているシバ王国が栄えたのは紀元前7世紀頃のことだ。2011年、武装した反政府勢力のなかにはアルカイダも加わり、内戦状態の一歩手前まで混乱が進んだが、6月には大統領宮殿の敷地内が砲撃され、サーレハほか正副首相、国会議長も負傷し、サーレハは大統領権限を副大統領に譲り、サウジアラビアで火傷(やけど)の治療を受ける。

 その後、サーレハ政権打倒後に行われた大統領選挙では、サーレハ政権の副大統領だけが立候補し、選挙結果も99・8パーセントの票を得て当選した。本当の民衆の革命ではなく、秩序を維持するためのものだけだったのだ。2011年、イエメンの民主活動家タワックル・カルマンがノーベル平和賞を受賞したが、タワックル・カルマンが授賞したのは、欧米はイスラムに敵対していないというメッセージでしかないという。ノーベル平和賞は、政治的なものだということは、周知の通りである。タワックル・カルマンは、イスラムの普通の活動家で、特別な業績があったわけではないという。




 サーレハは表舞台から退場したが、石油も採れず、とても貧しく、識字率が低く、教育が不十分で、生活水準が低いイエメンでは、結局、何も変わっていないのだ。民衆が求めていたのは、貧困からの脱却だったが、サウジアラビアの援助と干渉、そしてアルカイダなどのイスラム過激派の入り込みなど、多くの問題を抱えたままだという。

オマーンとホルムズ海峡

 オマーンはアラビア半島の北東に位置し、北はアラブ首長国連邦、西にサウジアラビアとイエメンが国境を接しているが、石油が採れる国のなかでは、もっとも貧しい国だ。オマーンの人々が政府に対して要求したのは、チュニジア、エジプトでデモが起きた理由と同様に、生活水準の向上であり、公務員、政府高官の腐敗への不満の表明だった。2011年の2月には、デモに参加した人のなかから2人の死者が出ている。しかし、ほとんどの国際メディアが報じることはない。また、デモがチュニジアやエジプトのような大規模なものに発展しなかったのは、オマーンを治めている王家が民衆に対して比較的早い時期に改革を約束したためだという。

 オマーンは、他の湾岸諸国のように、スンニ派対シーア派といった宗教的な対立や部族間の対立はない。国王も、国民の3/4もスンニ派から独立したイバード派であり、残りも殆どがスンニ派だからだ。また、オマーンでデモが盛んになっていたときは、丁度、他のアラブ諸国では大きな動きが起きていたこともある。石油も僅かしか採れないオマーンでは、これからも自然観光に力を入れようとしている。



 世界の原油輸送量の約4割が、オマーンの領海内にあるホルムズ海峡を通るという。オマーンの政情が不安定になると、湾岸諸国全体に影響が生じるため、サウジアラビアもオマーン政府に資金援助を約束した。そして、カタールがスポンサーのアルジャジーラもデモを煽(あお)らないよう配慮して、ほとんど報道しなかったという。アルジャジーラの政治性は、ここでも判る。

サウジアラビアと奴隷制度

 アラブのマス・メディアでもっとも有力なのは衛星放送だが、エジプトの一つをのぞいて、あとはすべてサウジアラビアのものだという。衛星放送でサウジアラビア批判をすると、その放送局は放送自体ができなくなってしまう恐れがあるのだ。アルジャジーラは開局当初、サウジアラビアに対して批判を加えていたが、今ではその批判は抑えられている。サウジアラビアは、アラビア半島で最大の面積を持ち、世界最大の石油埋蔵量を誇る湾岸の盟主的存在にある。

 親米で知られるサウジアラビアは、サウード一族が支配する絶対君主王政国家だが、王家も国民の多くがスンニ派だ。人口の約1割、200万人の少数派のシーア派は、差別を加えられている。「アラブの春」に刺激された、シーア派の人たちは長年感じてきた不満を政府にぶつけ、人権擁護の要求をした。抗議の焼身自殺なども起きた。しかし、そうした行動やデモが報道されることは殆ど無い。アルジャジーラも報じることはない。

 サウジアラビアの多くの国民は、他の石油が出る豊かな湾岸諸国に共通な現象だが、政府に対して距離を置こうとする傾向がある。多くの人たちは、消費生活を謳歌(おうか)しているからだ。スンニ派と異なり、サウジアラビアのシーア派は、宗教的な儀式を行うことに制限が加えられている。シーア派はいつイランの手先になってもおかしくないという疑心暗鬼にもなっているという。

 サウジアラビアは18世紀にいまの首都リヤドの近くで部族を率いていたサウード家と、宗教的指導者だったワッハーブ家の2つの一族が団結したところから始まった。サウード家は政治を、ワッハープ家は宗教をそれぞれ統轄するという合意が、現代にも続いている。サウジアラビアには、イスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナが国土の中にあるため、宗教的指導者であるワッハーブ家の権威は強大となっている。しかも、サウジアラビアには、現在も奴隷制度が存続しているのだ。「奴隷」となっているのは、遊牧民が多いのだが、その土地で家畜の世話などの仕事をして暮らしているという。彼らは公民権を与えられることもなく、教育を受けることもない。豊かな国民の陰に、そのような存在があるのがサウジアラビアなのだ。


 さらに、サウジアラビアやクウェートに住んでいるのに国籍を持っていない人たちも存在している。「ビドゥーン」と呼ばれる人たちのことだ。国籍がないということは、社会福祉サービスも受けることもできず、病気にかかっても保険ももちろんないし、教育を受ける権利もない存在だ。欧米のメディアもこの人たちについて報道することは殆ど無い。

イラク

 イラクはサウジアラビア以外に、ヨルダン、シリア、トルコ、イラン、クウェートと国境を接している。ティグリス川とユーフラテス川が流れる平野部に、「メソポタミア文明」が栄えた歴史的な土地にあたる。シーア派が多数を占めるイラクだが、筆者は、イラクの大統領と2人の副大統領はスンニ派、シーア派、クルド人から一人ずつ選ばれることになっていること自体が問題を生んだと指摘している。国民が宗派を意識する結果を醸成したというのだ。ちなみに、フセインはスンニ派だった。

「イラク戦争」では、フセイン体制を倒したアメリカだが、イラクで作った政治システムには問題があり、腐敗もしている事実に目を向けないメディアの報道を問題視している。アルジャジーラにしても、イラクにだけの特殊な問題として報じる傾向があるという。





アルカイダ

 アラブでは戦争になると、現地の人ももちろん戦うが、外から自分たちの戦争を持ち込む勢力が現れる。たとえば、アルカイダは、対アメリカ、対シーア派の戦争をイラクに持ち込み、レバノンでもシリアでも同じことを起こしている。政情が不安定な国に、自分たちの主張する対立軸を持ち込み、テロ行為で戦争を煽るのだ。アルカイダ自体は、1つのまとまった組織ではなく、サラフィや原理主義的なイデオロギーを信奉するグループがあちこちにあるだけで、命令系統も定まっていない。ムスリム同胞団と同様に、指導者の教えがあればドクトリンとして機能し始める。そのため、いろいろな国でアルカイダを名乗る人たちが活動し、事件を起こしているのだ。また、意図的にアルカイダが起こした事件として片付けることで、政治的な成果を得ている場合もある。

ヨルダン

 イラク西部と国境を接しているのがヨルダンだ。イスラエル、パレスチナ自治区、サウジアラビア、シリアとも国境を接している。政治は立憲君主制だが、首相は国王が指名する。イスラエルがパレスチナを分割して建国して以来、逃げてきたパレスチナ人が定住しているため、ヨルダンの人口の約3/4がパレスチナ人だ。ヨルダンは砂漠地帯が多いので、もともと住んでいた人はベドウィンなどの遊牧民だという。

 物価の上昇とインフレ、失業率の悪化への不満を訴え、リファイ首相の辞任や政権打倒や減税を要求して、2011年には、デモが発生した。しかし、それらが報道されなかったのは、ヨルダンがサウジアラビアやバーレーン、カタールと同じ王政なので、王政への反対運動はあまり報道したくないというメディアのバイアスがかかっていたためだった。ヨルダンはタイと似ていて、国王は国民から一定の尊敬を受けているという。


モロッコと西サハラ

 ムハンマドの従兄弟であるアリーとムハンマドの末娘ファーティマとの息子、ハサンの末裔(まつえい)と自称しているのが、ヨルダンのハーシム家だが、同じように、ハサンの末裔だと名乗っているのが、モロッコのアラウイー王家だ。アルジェリアの隣、北アフリカの西端にモロッコはある。海を挟んでスペインがある。モロッコは立憲君主制だが、国王の権限は大きく、議会の解散権や条約の批准権を持っているほか、軍の最高司令官でもある。2011年2月、大規模なデモが計画され、フェイスブックやユーチューブでデモの様子が広められた。市民の自由、教育への予算、健康保険への期待など経済格差、政府の腐敗、選挙の不正などを目的としたデモだった。デモを沈静化するために、内閣が総辞職し、憲法を改正して国王の権力を少しだけ弱めるなどの譲歩が行われたが、その後もデモは続いている。

 モロッコの南側には、西サハラに独立を主張する「ポリサリオ戦線」という勢力がいる。1976年には「サハラ・アラブ民主共和国」として独立を宣言しているが、国連は承認をしていない。また、モロッコだけの問題ではないが、北アフリカには先住民のベルベル人の存在がある。彼らはアラビア語とは別のベルベル語を話し、イスラム教を信仰しているという。

シリア

 ヨルダンの北にあるシリアは、トルコ、イラク、レバノン、イスラエルとパレスチナ自治区に囲まれている。1946年、シリアはフランスから独立してエジプトと連合国をつくるが、1961年に再独立、バアス党が政権を握った。そして、1970年にハーフィズ・アル=アサドがクーデターを起こし、翌年大統領に就任するが、29年間の政権の座の後、2000年に亡くなる。現在のバッシャール・アル=アサド大統領は、その次男だ。シリアのムスリム同胞団は武力を手段としている。1980年代にはバスを爆破するなど一般市民を巻き添えにしたテロ活動を行っている。

 アサド家はアラウィ派というイスラム教のなかでもマイノリティの宗派で、シリアの社会には、ドゥルーズ派、シーア派、クルド人、キリスト教徒、アッシリア人、アルメニア人、シャルカス人などほかの宗派や民族も存在しているが、シリア全体では約7割がスンニ派だという、バーレーンと同じように、マイノリティがマジョリティを支配するというねじれ現象の国家形態になっていた。

 バアス党はアラブ・ナショナリズムを信奉し、政教分離と社会主義を理念としている。しかし、イラクのサダム・フセインが属



していたイラクのバアス党と、父アサドのバアス党とは、バアス党内の権力争いに端を発したことにより、対立している。

 シリアも「アラブの春」に刺激され、フェイスブックでデモを呼びかけたりする動きはあったが、実際に人々が街に出てデモを始めるたのは、ごく最近のことだった。それは、シリアでフェイスブックが閲覧可能になったのは、最近のことだったからだ。しかも、フェイスブックで、「シリアの革命」ページを作った人たちのほとんどは、海外から呼びかけていたという。ここでも、メディアが報道することと実態の違いが見えてくる。

 欧米の報道によると、シリアではアラウィ派の人たちが政権の要職を独占しているとされていたが、その実態も異なるという。スンニ派で政権中枢に近いところまで出世した人もいるし、イラクでスンニ派だけが権力を握っていたと報道されていたのとまったく同じように、宗派対立をあおろうとする意図が感じられるのだ。バアス党の党員という条件はあるが、バアス党は政教分離を掲げている政党なので、イデオロギーが同じであれば、キリスト教徒だろうとドゥルーズ派だろうと政権内部で出世する可能性はあった。

 シリアは社会主義国だが、ほかのアラブの国に比べて、経済格差は小さく、貧困層にはお米や砂糖など現物支給で支援するなどの福祉が充実していた。エジプト、チュニジアのように支配勢力に腐敗はあったが、政治的には反イスラエル、パレスチナ支持を明確に打ち出していていたにも関わらず、一気に不安定に向かっていった。それは、リビアでカダフィ政権が倒されると、メディアが突然シリアに目を向け始めたからだという。そして、国内の反政府勢力の活動も活発化し始めると、シリアは、内戦状態に突入してしまう。


 著者は、2012年の1月の1ヶ月間、シリアに滞在したが、その直前と滞在中に自爆攻撃があった。反政府勢力とアメリカはアサド政権が仕掛けたものと断定したが、自爆攻撃があった場所、犠牲者の層から考えても、反政府勢力の攻撃としか見えなかったという。シリア内のムスリム同胞団は、1982年の弾圧以来、ずっと武器を蓄積してきた。また、サウジアラビアの支援でレバノンやトルコからシリアに武器や爆発物が大量に輸入されている。その結果、武装した勢力が拡大しているのだ。自爆用の爆弾を作っている途中に、ミスで爆発させて亡くなっった人がいたが、レバノンでずっと指名手配されていたアルカイダのレバノン人だった。

 2012年5月、シリア中部の街ホウラで、少なくとも109人の犠牲者を出した虐殺事件が起きたが、国連安保理は早速シリア政府を批判した。アメリカと国連がシリア政府を非難する声明を出したことで、「犯人」はシリア政府ということになっているが、アサド大統領もこの虐殺事件はテロだとして批判している。虐殺事件が起きたホウラは9割がスンニ派の街だが、虐殺が起きたとき、この街は反政府勢力の支配下にあったという。さらに、108人中、20人ほどが戦車の砲弾により亡くなっている。そのほかの子どもや女性たちの犠牲者のほとんどは、首を切られるか、至近距離から拳銃で撃たれて亡くなっていたという。筆者は、ここでも政府軍による虐殺だったという見方に疑問を抱いている。首を切る殺害方法は、イスラム原理主義者のやり方だからだ。

 シリアの反政府勢力には、大きく分けて国内グループと国外グループとがあるが、国内で大きな勢力を持っているのが「NCC(民主的変革のための全国調整委員会)」。左派と政教分離派(世俗主義者)が合流したグループで、13の左派的な党と、3つのクルド民族主義の組織が含まれている。一方、国外グループの代表格は「SNC(シリア国民評議会)」。海外に住んでいるシリア人たちとムスリム同胞団が中心で、クルド人組織が1つ含まれている。NCC以外にも、SNCと交流がある組織が国内に2つあり、「LCC(地域調整委員会)」と「SCSR(革命最高評議会)」だが、どちらも反政府運動をしている小さなグループをつなぐ連絡会議と情報公開が主な活動で、武装闘争はしていない。国内で、ほかのグループと関係なく行動している「SGC(シリア革命総合委員会)」は武力闘争をしている。

 SNCは、リビア、アフガニスタンのようにシリアがなってしまうことを避けたかったため、当初は海外からの軍事介入には反対していた。海外から資金を集めて、「FSA(シリア自由軍)」に資金提供をしたり、難民支援に使っている。しかし、その資金の使途には不明瞭な点があり、腐敗も疑われている。


 今回のシリアの混乱を受けて、欧米や中東、トルコまでを加えた関係諸国による連絡グループ「シリアの友人」が作られた。2012年2月に、チュニジアで初会合が開かれ、4月にトルコで第2回の会合が、7月の第3回はパリで開かれた。「シリアの友人」はアサド政権に対し、経済制裁などの措置を呼びかけているが、SNCを「全シリア人の正当な代表」として、国際社会の窓口とすることを決めている。しかし、シリア国民の意思を問わずに、外国で開いた会合で、海外に住んでいるシリア人たちとムスリム同胞団が中心の特定の勢力を窓口にするのはおかしなことではないだろうかと筆者はいう。「シリアの友人」のパリでの会合には約100カ国が参加しているが、ロシアと中国は欠席している。

 アメリカはシリアの人たちのためであるかのような顔をしてシリア内戦に介入しているが、本当の狙いは、アサド政権を支持している対イラン政策にある。イランの影響力を封じ込めるには、この地域で、唯一の仲間である、シリアやレバノンにあるヒズボラという組織を押さえ込む必要があるとアメリカは考えているのだ。2006年に、ヒズボラはイスラエルのレバノン侵攻に対して反撃し、実戦でもメディア戦でも勝利を収めた。これはアラブにとってもイスラエルに勝った初めての戦争だった。ヒズボラを支援してきたシリアのアサド政権を叩くことは、ヒズボラの力を削(そ)ぐことにもつながるのだ。また、ロシアの唯一の中東・地中海にある軍事基地がシリアのタルトゥースにあるが、その対抗策でもあるという。

 日本版ウィキぺディアの「シリア騒乱」という項目で、「シャツビーハ」という言葉が引用されている。「シャッビーハとは、アル=アサド家に資金提供を受けた3000人以上の構成員からなる暴力団である。この呼称は幽霊を意味する言葉(shabah)であり、かつてアル=アサド家やその緑(ゆかり)の人達が使うメルセデス・ベンツの車に由来する。彼らは、政府を批判する人々が、たとえ武器を持たない者だとしても、批判者にあらゆることを行う権限を持っている。新聞やメディアニュースチャンネルによれば、シャッビーハの構成員はアサドの傭兵(ようへい)であるとも言われる。シャッビーハが人権を守らないことについては、地元の新聞やチヤンネルだけでなく国際メディアからも非難されており、特にFaceb00kやYouTubeなどのソーシャルメディアを通じて数百もの映像がアップロードされている」。だが、これはまったくのデマだという。「シャッビーハ」は現代の口語アラビア語で「シャバハ」と呼ばれている「メルセデス600」に乗る人のニックネームであり、それに乗った人をシャッビーハと呼んでいるのだ。もともとの意味は、見せびらかしながら派手な行動をする人のことに過ぎない。確かに、ウィキペディアの内容には、時々疑問を感じることも多いが、これは余りにも一方的に過ぎる。


レバノン

 筆者が生まれ育った国、レバノンはシリアの西にある。レバノンには18の宗派があり、刑法は宗派が違っても同じだが、結婚・離婚・財産分与などの民法がその宗派ごとにが異なる。人口でいうと多いのがマロン派とシーア派、その次がスンニ派という国だ。宗教・宗派の違う二人が結婚する場合は、どちらかが改宗しなければならない。無宗教での結婚という選択肢はないという。そのため、国民も宗派による区分けに敏感になっている。政府高官のポスト配分も技術や能力よりも、宗派に基づいて配分される。「アラブの春」の影響は、レバノンにも及んだが、メディアの反応も鈍く、盛り上がらなかった。

 今のレバノンは真っ二つに世論が分かれてしまっているという。「反ヒズボラ、反シリア、親サウジアラビア、親ハリーリー」という「3月14日」グループと、もう1つは「3月8日」グループで「親ヒズボラ、親シリア、反サウジアラビア、反ハリーリー」だ。サウジアラビアとイランの代理戦争ともいわれている。

 湾岸諸国では飲めないお酒もレバノンでは飲めることや、女性と遊ぶこともできるリベラルでオープンな雰囲気があるため、サウジアラビアなどの金持ちがレバノンの土地を買っているという。レバノンは、不動産バブルの状態にもなっているのだ。



トルコ

 オスマン・トルコ帝国の末期、アラブ・ナショナリズムの人々を弾圧して支配していた歴史があるトルコは、アラブ人にとって、良いイメージを持たれていないという。しかし、2003年にレジエツプ・タイイップ・エルドアンが首相になると、そのイメージが徐々に変わってきた。現在のトルコは、アラブと欧米、ア

ラブ諸国間の仲介役としての存在感を増している。エルドアン首相とアブドウラー・ギュル現大統領はムスリム同胞団系の公正発展党(AKP/党首はエルドアン)の所属なのだ。

 この9年間で、エルドアンはEUに入る交渉を進める一方で、アラブ諸国やイランとの距離を徐々に縮め、欧米、イスラエル寄りの立ち位置から、アラブとのバランスを取るようになってきた。リビア内戦のときにも、カダフィに退陣を勧めるなど、トルコの外交戦略は中東でリーダーシップを取ろうとしているかのようだ。経済的にも発展が進んでいるため、トルコはますます重要な役割を果たすことが予想される。

アラブ首長国連邦(UAE)

 カタール半島の北東、アラビア湾沿いにあるのがアラブ首長国連邦(UAE)。ドバイが世界的に注目を集める金融センター、観光地となったため、近年、にわかに脚光を浴びている。UAEもサウジアラビアやバーレーン、カタールのように湾岸のお金持ちの国であり、国民は一般に政治に関心が薄く、不満もあまり持っていない。社会は3層に分かれていて、「ローカル」「外国人の専門家」「外国人の労働者」の3つの層がそれぞれに差別し合っているという。「ローカル」の人たちは優遇されていて、企業は彼らを、有能無能にかかわらず一定数を雇って管理職にしないといけないのだ。

「アラブの春」とは

 アラブの問題の複雑性が垣間見えた一冊だった。メディアの報道にも問題があるとの指摘は正しいだろう。とはいえ、欧米の思惑通りにも動かないのがアラブだ。アラブの問題は、イスラム教とユダヤ教の問題でも、イスラム教内部の宗派問題に帰結するような単純なものでもないことは明白だ。2012年8月、ジャーナリストの山本美佳さんがシリアで亡くなった。多数の銃創痕があり、その残虐性も話題となった。日本も他人事とはいえない状況が生まれている。ソーシャルメディアの役割も注目されたが、ソーシャルメディアの危険性も浮き彫りとなっている。メディアは「アラブの春」を謳ったが、とても「春」と呼ばれるような状況には至っていないのだ。しかも、その混迷をますます深めているのが現実なのだろう。

 かつて、イスラエル建国を描いた「栄光への脱出」という映画があった。小学生だった私は、感動も持ってあの映画を観た記憶がある。インディアンと戦う西部劇や、ディビー・クロケットが活躍する映画も観た。反米大陸にも書いたが、それらのハリウッドなどの映画が、如何に虚飾と欺瞞に満ちていたことを思わずにはいられない。「アラブの春」を日本も含め多くのメディアが、当初は「民主化」への期待感を持って報じていたが、現実は異なるところにあったようだ。この本で著者が語っていることすべてが、事実かどうかは私には判断はできない。しかし、国際メディアが真実を伝えていないことは確実に判る。そして、アラブの「春」は、まだ遠いことも。



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048「文明」西洋が覇権をとれた6つの真因/ニーアル・ファーガソン(2013年2月10日)

文明/西洋が覇権をとれた6つの真因
/ニーアル・ファーガソン/仙名紀(せんなおさむ)訳
/頸草書房(けいそうしょぼう)/20120720第1刷
/\3,300+税/545頁

 ケーブルテレビの試写会で観た「東京家族」に続いて、地デジで放送された旧作「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」を観た。「ALWAYS 三丁目の夕日」のヒットもあるが、戦後復興を成し遂げた「栄光の日本」を考え直す気配が満ちてきたのだろう。いずれにも共通するのは、その映像美だ。懐かしく、美しい映像を観る度に、私たちが失ってきたものを思い出させてくれるような気がする。それが何かは、実は良く判らないのだが、何か「大事なもの」が潜んでいる気がしてならない。

 振り返ってみると、それは第二次世界大戦後だけの問題でもないような気がする。「西洋の物まね」をすることにより、「廃仏毀釈」を初めとして、旧来の日本を捨て去ろうとした「明治維新」から、すでに始まっていたのではないだろうか。「維新」を謳う政治家たちもいるが、一度、立ち止まって考えてみなければならないのではないだろうか。今、維新を起こそうという発想に「恐ろしいもの」がそこには潜んでいるような気がしてならないのだ。「尊皇攘夷」を起点として、「攘夷」だけを裏返すことによって、明治維新から何が始まっていったかを考えるとよく判る。

 ところで、このところのニュースは、学校関連、あるいはスポーツ界における「いじめ」や「体罰」を初めとした、各界の指導方法に対する告発報道が花盛りだ。その「魔女狩り」のような報道をするマスコミ自体に根源的な問題があると私は考えているのだが、マスコミに対する批判の目をそらすには、格好の材料となっている。出てくるコメンテーターなるものたちが、ここぞとばかりに振り翳(かざ)す言葉の多くが片腹痛い。間違って貰っても困るが、私は決して「いじめ」や「体罰」を容認している訳ではない。しかし、このような報道が続く限り、罪に対する懲罰の強化が果てしなく続いて行くのではないだろうか?親鸞は、「善人なをもて往生す、いわんや悪人をや」と言ったという。唯円が残した「歎異抄」にある有名な一文だが、今、一度、立ち止まってみる必要がある。このような報道に対する問題提起を起こさなければ、「裁判員制度」も「魔女狩り」と変わらない悪制度と化すことになろう。

 そもそもの始まりは、日本の国技たる「相撲」から出発した。相撲における、八百長、体罰といった問題が発端となって、相撲協会の体質的な問題に発展していった。しかも、その相撲界の現役のエンジンとなっているのは、ほとんどが外国人ばかりだという不思議な世界なのだ。マスコミの報道は、それらの相撲やスポーツ関連、教育関連をすべて「組織」の体質的な問題にしているところが共通している。一方、自分たちの問

題には、決して目を向けようとはしない。ここで問題とされる「組織」は当然、「日本そのもの」に向かっていく。こんなことを書き始めると、どんどん話題がそれていくので本題に戻ろう。

 「文明/西洋が覇権をとれた6つの真因/ニーアル・ファーガソン」である。仙名紀の訳が素晴らしい。安心して読むことができた。失礼だが、しっかりした日本語になっているのである。こんな本であれば、気持ち良く読むことができる。

 1400年ころのヨーロッパは惨めな状況だった。1347年から1351年にかけて蔓延した黒死病からの立ち直りがやっと始まったところだった。一方、中国は明の永楽帝の時代であり、紫禁城(現在の故宮)が建設中だった。永楽帝の命により、鄭和が第一次航海に出るのは1405年である。オスマントルコが、1453年にコンスタンチノーブルを包囲したことなどにより、ビザンツ帝国は崩壊する。東洋の文化が大きく花開いていたのだ。イギリスでは、リチャード2世からヘンリー4世が王位を簒奪し、フランスでは内戦が続き、英仏百年戦争も継続されていた。本書では、百年戦争の火ぶたが切って落とされようとしていたと書かれているが、間違いだろう。百年戦争が始まったのは1337年(1339年という説もある)のことだ。その他のヨーロッパの諸国でも、戦争が絶えない状態にあった。西洋は、暗黒の時代にあったといえる。

 ところが、何らかの理由によって、15世紀の末頃から、ヨーロッパのいくつかの小国がラテン語(および少々のギリシャ語)を崩した地方言語を用い、ナザレ生まれのユダヤ人の教えを宗教として押し立て、東洋の数学や天文学や技術を借りながら、一つの文化を築き上げた。そして、東洋の偉大な帝国を制圧し、アフリカや南北アメリカ、オーストラリアを配下に収め、これらの地域の人びとをヨーロッパ風の生活様式に転換させてしまった。その理由が何かというのが本書の主題だ。

 ニーアル・ファーガソンは、西洋だけが持っていたものとして、次の6つの要因を挙げている。

  @競争(コンペティション)
  A科学(サイエンス)
  B所有権(プロパティ・ライツ)
  C医学(メディスン)
  D消費社会(コンスーマー・ソサエティ)
  E労働倫理(ワーク・エシック)
がそれだが、これらの要因を切り口として、章立てで詳細に考察している。西洋だけが持っていたと判断しているのが気になるが、本書の説明も総じて歯切れが悪い。とはいえ、その結果、次の6つのキラーアプリケーションが、西洋が覇権を握った理由だと結論づけている。見方を変えると、最初からこれありきの説明が、少し気になったが、その6つのキラーアプリケーションをまとめるとこうなっている。



文明
西洋が覇権をとれた6つの真因

ニーアル・ファーガソン
仙名紀訳
頸草書房

  @競争 ヨーロッパ全土が、政治的に細分化され、国家
      形態が王制であっても共和制であっても、競争
      に熱心な企業がひしめいていた。

  A科学革命 17世紀の西ヨーロッパでは、数学・天文
      学・物理学・化学・生物学などの分野で画期的
      な進展が見られた。

  B法の支配と代議制 まず英語圏で、社会的・政治的
      秩序の最善と思われるシステムが確立された。
      その根底には私的所有権という概念があり、資
      産所有者が政治的代表に選出されるようになった。

  C現代医学 医療の面で19世紀、20世紀には目覚ま
      しい進展が見られ、西ヨーロッパや北米の人び
      とによって多くの熱帯病などが制圧された。

  D消費社会 産業革命の結果、大量生産をうながす技術
      が開発され、需要が喚起された。綿製品をはじ
      めとして、安くていい商品が供給可能になった。

  E労働倫理 西洋では大量の労働力が集約的に合理化
      され、貯蓄が増え、資本蓄積が継続的に進めら
      れるようになった。


 最初に、西洋に追いついてきたのは、明治維新後の日本だが、それはこの6つのアプリケーションをダウンロードし始めるところから始まったのだという。日本では西洋の文化や制度のうち、どれが最も大切か判断できなかったため、ひたすらに真似た。洋服やヘアスタイルも模倣し、外国を植民地化することまでも追従した。だが不運なことに、帝国建設のコストがかさんで利益が上がらなくなってきた時期に重なっていた。イギリスのエドワード8世は自分の妃に当てた手紙で、後の昭和天皇(当時は皇太子)を「めかしたサル」に譬(たと)え、日本人は「ウサギのように繁殖する」と論評した逸話も出てくる。「ブルーノ・タウト」でも書いたが、明治維新以降の日本は西洋のことなら何でも真似たのだった。「猿マネ」と極評されようとも。そこから、「ものづくり」へと進化したことは否定できまい。そして立場が変わり、苦しみの時代を迎えている。

 アジアのその他の国、たとえばインドは、イギリスの保護主義と高い生産性がインドの伝統的な手作りの織物産業を台なしにしたという理由もあったが、ソ連で着手された社会主義路線が、アメリカ主導の市場経済よりすぐれていると考えて、何十年も遠回りしてムダな時期を過ごしてしまっていた。あるいは、インドと中国が産業開発の離陸には失敗したのは、労賃が安いが、生産性はため息が出るほど低かったからだという。

 中国が経済的に停滞し、地政学的に世界の片隅に押しやられたのは、アヘン戦争(1840〜42)が引き金だったわけではないという。極東の耕作システムと帝国的統治システムに、いわば動脈硬化のタネが内在していたからだという。

 アヘン戦争は、1840年から2年間に渡って引き起こされた。茶、陶磁器、絹を大量に輸入していたイギリスは、その支払のため銀が流出することを恐れ、植民地としていたインドで栽培したアヘンを清に密輸出するという三角貿易で帳尻を合わせていた。それは、貿易どころか、立派な犯罪行為だった。当時の中国は、夷狄(いてき)とされた満州族が漢民族を支配する清帝国だったが、圧倒的な軍事力の前に、多額の賠償金と香港の割譲などを余儀なくされる。続く、第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍の間で起きるが、清は半植民地化されるに至る。幕末の日本にとっては、いずれも衝撃の事件だった。崇拝してきた強大国である中国が西洋に打ち負かされたからだ。日本で、攘夷論が巻き起こるのはこの頃だ。

 オスマントルコがヨーロッパ大陸から姿を消して衰退に向かったのは、軍事的な敗北だけが原因ではないという。長年にわたって科学革命にそっぽをむいてきた帰結とされていることは、周知の通りだ。北米と南米の間には、大きな文明の衝突はなかったが、北米の組織や制度が南米より優れていた(?)ために、南米に対して自由(!)に介入することができた。

 ヨーロッパの諸帝国がアフリカを植民地化するにあたっての軍事行動は、ヨーロッパ域内の戦争と比べればはるかに小規模なものだったとまで言っている。表現は優しいが、植民地化に当たって、それほど酷いことはしていないと開き直っているわけだ。アフリカを従属させるに至ったのは、どちらかといえばミッションスクールや電報局で、マキシム重機関銃の実験場を通じてばかりではなかった。20世紀後半からの公衆衛生や教育の効果には、とくにその傾向が強く、欧州の統治が及ぶことによってアフリカの奥地で公衆衛生や平均寿命が改善されたとして「ヨーロッパ帝国は、いわば19世紀版の『国境なき医師団』だった」と評価をしている。産業革命や消費社会は、非西洋社会では押しつけられるまでもなかった。それが合理的だと判断されれば、日本で見られたように、自主的に取り入れられていった。労働の倫理を東洋に広めるにあたっては、刀(ソード)をもって迫る必要はなく、ことば(ワード)だけで十分だった。

 しかし、1950年以降、東アジア諸国は日本を見習って西洋の産業モデルの真似を初め、繊維や鉄鋼などの産業を手始めに、上向き傾向を持続させた。しかも、西洋のアプリケーションのダウンロードを厳しく選択するようになったため、その成長速度が速まっているという。

 サミュエル・ハンチントンの話題の書「文明の衝突」があるが、ニーアル・ファーガソンは、ロシアやギリシャ正教を信奉する国を除外したり、西洋の概念をヨーロッパの西部と中部(東方正教会の東方地域を除く)、北米(メキシコを除く)、オーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランド)のみとし、ギリシャ、イスラエル、ルーマニア、ウクライナなどや、カリブ海諸国を外す姿勢を否定している。西洋の概念は、地理的な区分では限界があるとみているのだ。

 文明の海洋史観
川勝平太
中央公論社

 先日、ケーブルテレビでトム・クルーズとニコール/キッドマンが共演した1992年の映画「遙かなる大地」を観た。アイルランドから、アメリカに自由の土地を得るために、オクラホマまでやってくるのだが、銃声と共に馬に乗り、馬車に乗り、100分の1の確立と言われる土地を得るための命がけのレースをする人々を描いている。殺し合いもあり、騙し合いもあるのだが、目指す土地に「旗」を立てた者がその土地を所有できるのだ。スタートの銃声の前に、先駆けて馬に乗り飛び出した男が狙撃されるシーンもある。要するに、運が良く、力がある者が土地を手にすることができるのだ。そこには、正義もある。正義の前では、抜け駆けは銃殺されるのが当然なのだ。すべての人が、平等に競争できる自由の国アメリカが描かれている。

 だが、「反米大陸」にも出てきたが、テキサスなどをだまし討ちの様にして、アメリカが手に入れた事実に、本書が触れることはない。そこには正義などどこにもなかった。デビー・クロケットに象徴される、アメリカに都合の良い偽正義だけを振りかざしている事実には、目を向けようとしてはいない。時代が変わり、現在のアメリカの政治に大きな影響力を行使し始めているのが、メキシコなど中南米からの移民であるヒスパニック系だといわれている。まさに、そこには歴史における皮肉が埋め込まれているのではないだろうか。ヒスパニック系の影響力が強大になったことにより、オバマが大統領になったとまでいわれている。

 4選を果たしたが、癌のためキューバで闘病生活に入っている、ベネズエラのチャベス大統領を、本書では切って捨てている。警察やマスコミは政敵に対する武器として使い、国内の豊富な油田からの歳入は、輸入価格、給付金、賄賂などに還元する形で大衆の支持を得るための助成金となり、アメリカでは法的・政治的価値観の中心になっている所有権は、つねに侵害されているという。セメント製造業からテレビ局や銀行まで、各種事業を意のままに国営化しているのは、まやかしの民主主義だというのだ。「反米大陸」にも書いたが、政治を握った親米政権が、アメリカ流の新自由主義の経済政策を採用して、貧富の格差は絶望的なまでに深めという事実には、まったく触れていない。

 ニーアル・ファーガソンは、スコットランドで生まれ、グラスゴー・アカデミーとオックスフォード大学で教育を受けた。20代と30代は、オックスフォード大学とケンブリッジ大学で研究に励んだ。その後、ニューヨーク大学スターン経営学大学院教授を経て、2004年からハーバード大学の教授。2004年、雑誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたという。

 現静岡県知事の川勝平太は、「文明の海洋史観」でこう語っている。「我々は、ともすると西洋中心の歴史観でものを考えてしまう。しかし近代以前は、海洋アジア(インドおよびイスラ

ム社会)という先進地域が世界の中心だった。西洋も日本も海洋アジアからの先進文物を得るために貴金属を支払っていたのである。そこから起こった経済危機へのレスポンスとして、西洋では「産業革命」が起こり、日本では「鎖国」による「生産革命」が起こったと見る視点である」。この理論の方が、私には遙かに明解に見える。

 現在の原子力行政を批判する科学者である小出裕章京大助教は、好んでマハトマ・ガンジーの墓碑に記されている「7つの大罪」を引用するという。本書での6つの要因、あるいは6つのキラーアプリケーションと対比すると良いだろう。

 1.原則なき政治
 2.道徳なき商業
 3.労働なき富
 4.人格なき教育
 5.人間性なき科学
 6.良心なき快楽
 7.犠牲なき宗教

 ガンジーと親しかったラビンドラナート・タゴールは、「ガンジーは自分自身に完全に誠実に生きた。それゆえに神に対しても誠実であり、すべての人々に対しても誠実だった」と語ったというが、本書でのニーアル・ファーガソンのインドに対する説明が、そこでは空虚に響く。彼は、個人の所有権を基本とした、現代の金融至上主義に繋がる発想の持ち主なのだろう。日本では、自己に誠実に生きた人として、非僧非俗を貫き、阿弥陀仏の前にはすべての人が平等であると説き、縁によって集う名もなき百姓、下人、猟師、女たちと、至るところで膝を交えて語り合い、生涯に一つの寺も築かず、教団も作らなかった「親鸞」を思い出す。親鸞は、「自然法爾」に辿りついたというが、その親鸞が始めた本願寺教団が、「蓮如」という存在を得て、その後の拡大発展を遂げている真因は何なのだろうか。少なくとも、歴史を考えずして、真実が見えてくるとは思えない。西洋が覇権を握り始めるとき、まさに日本では蓮如が活躍を始める時代にあたる。その時代は、朝廷には何らの実権も無く、政治を司るべき室町幕府は、酒宴、連歌会などにうつつを抜かしていた。応仁の乱が起きるのは、1467年のことである。日本でも、西洋と同じく、暗黒の時代に入っていく時期にあたる。

 期待を持って読んだ話題の書だったが、旧来の西洋史観から抜け出せていないのだろう。東洋がこれから成長する原動力が、「西洋化」だとの発想も頂けない。西洋が歴史の上で先頭に躍り出たのは、たかだかこの数世紀の話だ。人類の長い歴史を考えると、ほんの短い瞬間に過ぎないともいえる。西洋史観から抜け出せない古いタイプの学者なのだろう。古い西洋史観の「おさらい」にはうってつけの書だ。最大の収穫は、本書は触れていないが、ヨーロッパとアメリカを西洋という一括(くく)りにする矛盾が見えてきたこと。それと、「親鸞」と「ガンジー」の相似性、これについては、また機会を改めたい。

「親鸞(一)」
丹羽文雄
新潮文庫
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047「日本人が知っておくべき 竹島・尖閣の真相」/SAPIO編集部(2013年1月1日)

日本人が知っておくべき 竹島・尖閣の真相
/ポスト・サピオムック/SAPIO編集部/小学館/
20121017第1刷/162頁/\933+税

■2013年が明けたが、2012年暮れの衆議院選挙は、自民党の圧勝に終わった。「KY」という言葉が以前に流行ったが、民主党の国民に対する認識不足というか、感覚の鈍さが良く現れていたのだろう。結局、狷介固陋(けんかいころう)に陥り、大局を見ずして自壊していったのだともいえる。もっとも、自民党といえども、得票率が上がった訳ではなく、政党の乱立に伴い小選挙区制度の恩恵を受けただけというのが実情であろう。選挙後の間もない現時点では、その謙虚さが少し出ているようだが、そのうち「民意だ、民意だ」と言い始めて逸脱し始めなければ良いのだが。また、「一票の格差」が是正されないままの違憲状態の衆議院選挙だったが、国政を預かる人たちの感覚のずれがここでも現れているのだろう。とはいえ、結果は結果として、考えなければならない訳で、この辺で「竹島・尖閣」問題を一度、整理してみようと思う。

 SAPIO編集版ということで、少し偏りが気になったが、最新の刊行でもあるし、まずはここから入ってみようと思った。「竹島」や「尖閣」が問題になっているが、本来は、一体どうなんだろう?「竹島」は韓国が事実上の実効支配を確立しているが、「尖閣」は日本が事実上の実効支配権を確立している。「竹島」は、日本が国際司法裁判所に訴えたが、韓国は受けて立つ気配もない。一方、「尖閣」では、日本政府の公式見解は、領土問題自体が存在しないとしているが、中国の波状攻撃は止みそうもない。

 2012年12月21日の朝日新聞に、前中国大使の丹羽宇一郎へのインタビュー記事が掲載されていた。インタビューをしている記者がこう語っている。「他国の外交官から、政府がみずからの大使を支持も擁護もせず、公然と批判するのを見たことがないと指摘された」という。民主党政府は、尖閣列島を巡る対中強硬論に迎合し、大使を交代させた訳だが、丹羽前中国大使は、「外交上の係争があるのだから、それについては認め、中国と話をせざるを得ないでしょう」と語っている。領土問題すらないと言い続けていては、何も解決しないだろうということだ。至極、当然の理論だと私には思える。


■竹島の問題

 編集部の「はじめに」の文に続いて、井沢元彦が報道ステーションの古館伊知郎に噛みつく文章が出てくる。「どうでも良い人」に噛みついて何になるのだろうと思ったが、その報道姿勢を咎めるものだ。島根県が「竹島の日」を条例化したことを批判した報道を問題視している。その報道を見てもいないし、見る気もないので、それ以上は書けないが、続いて、井沢元彦は朝日新聞にも噛みついている。「朝日の『目的』は『反日』にあり」としている。朝日新聞が昔、「文化大革命」や「北朝鮮」を好意的に報道していたことを批判しているようだ。いずれにしても、「朝日新聞+テレビ朝日」が偏向していると言いたいものだといえる。この人の「逆説の日本史」を何冊か読んだが、逆説と言いながら、一つのことが何度も何度も繰り返し出てくる。逆説がよく判らないまま、それに閉口して、読むのを止めてしまった記憶がある。

 外務省のホームページに掲載されていた「竹島領有権に関する我が国の主張」がこの本に出ている。外務省のホームページは、現在は「竹島問題を理解するための10のポイント」に変えられているが、これについては、後述する。「竹島・尖閣の真相/SAPIO編集部」に戻りたい。

「竹島・尖閣の真相」は、複数の人が掲載した記事をSAPIO編集部がまとめたものだが、竹島に絡んで多数の島名が出てくるので、それを整理しておく必要がある。

       
      鬱陵島、竹島、隠岐の位置関係 (※1)
          (外務省のホームページより)


日本人が知っておくべき
竹島・尖閣の真相
SAPIO編集部
小学館

 地図(※1)は、外務省のホームページから転載したものだが、朝鮮半島から約130kmの東の沖合に鬱陵島(うつりょうとう)という島がある。旧日本名は、磯竹島、後に竹島とか松島という名前で呼ばれていた。その東の沖合約87kmの所に現在の竹島がある。実効支配している韓国名が独島だ。日本ではここも松島と呼ばれていたこともある。正確には、女島(東島)と男島(西島)と呼ばれる2つの小島と周辺の37の岩礁から形成されている。総面積で東京ドーム5つほどの広さで、断崖絶壁に覆われている。このように、鬱陵島と竹島の2つの島の名前がいずれも竹島あるいは松島と呼ばれていたことが問題を複雑にしている。

 それと、地図にはないが、韓国に現存する多数の古地図には、鬱陵島の西側に隣接する島として于山島(うざんとう)が描かれているのだが、これに比定できる島が存在しないため、鬱陵島の北東に隣接する現在の竹嶼(ちくしょ/韓国名チュクソ)とする見解がある。事実、「大韓地誌」に添付されている地図(※2)では、鬱陵島の東側に小さな島として于山が描かれている。地図は、SAPIO編集部版から転載させて貰ったが、GoogleMapの航空写真(※3)を見ると、鬱陵島の北東側に小さな島(?)があることが判る。話を整理すると、西から順に鬱陵島、竹嶼、少し離れて竹島があることになる。しかも、これらの島名が混同・混在していることが、今日の混迷を招いているともいえる。

 SAPIO編集部編では、報道写真家の山本皓一などが、繰り返し書いているが、その論点を整理してみよう。

1)日本外交では、江戸時代から明治政府においても、領土意識が低かった。
2)1905(明治38)年の日韓間の領土問題は、当時、竹島と呼ばれていた鬱陵島だった。(現在の竹島には領土問題すらなかった)
3)韓国が鬱陵島に絡んで領有権を主張する古地図にある竹島とは于山島のことだ。
4)于山島を、韓国側は竹島と主張しているが、竹嶼のことであり、竹島ではない

 以上が論点の中心となっている。

 ところで、韓国では「独島の領有を日本に認めさせた外交官」として英雄扱いになっている安龍福という人物がいる。1693(元禄6)年、鬱陵島(当時の日本は鬱陵島を竹島と呼んでいた)に渡り漁撈(外交官ではなく、漁師らしい)をした時に、鬱陵島を開発していた米子の大谷家の船頭たちによって、領海侵犯の罪で鳥取藩に連行され、その後、朝鮮へ送還される。一方、幕府は鬱陵島を巡って、日朝間で最初の領有問題が発生したため、日本政府(徳川幕府)は、1696年1月に鬱陵島(当時は竹島といわれていた)の権益を放棄している。


(上)韓国の高校地図帳(2003年版)
(中)「大韓地誌」に描かれている鬱陵島と于山島
(下)韓国国定高校歴史資料(2006年版)にある
鬱陵島と于山=竹島(独島)

(※2) SAPIO編集部版より


GoogleMapより 鬱陵島付近の航空写真 (※3)

朝日新聞
丹羽宇一郎前中国大使
2012年12月21日の記事

 1696年の5月になると、「日本が鬱陵島を放棄したことを知らない」安龍福は隠岐に来航し、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴えるのだが、帰国後、鎖国政策を取っていた朝鮮の備辺司(国境警備局)に捕らえられ流罪となっている。その時、安龍福は、備辺司の取り調べに対して、鳥取藩主と直談判して、竹島(当時の鬱陵島)と松島(当時の竹島)は朝鮮領土と認めさせたと語っているのだ。本書では、当時の鳥取藩主は江戸に滞在中であり、しかも幕府に内緒で勝手に相手国の領有権を認めることなどあり得ないとしているが、安龍福に関するその他の発言でも信憑性はどうも薄い。現在、安龍福が漁労に出ていた鬱陵島には「安竜福将軍忠魂碑」が建っている。「将軍」になっているのだ。北の体制を考えると、外交官の扱いどころではない。しかも、当時は流罪にしていたにも関わらずだ。

 その後、石見国浜田の八右衛門事件などもあったが、1900(明治33)年、大韓帝国が鬱陵島の領土宣言をしたため、正式に日本の支配が及ばなくなった。韓国併合(1910年)はその後のことである。

 韓国側の領有権の主張としては、「鬱陵島+于山島」が韓国領となったのは、歴史的事実なのだから、「于山島=独島=竹島」ということだとなっている。同書では、韓国の2003年版の高校教科書の地図(※2)が出ている。この地図を見ると、于山島が現在の竹島だとはとても思えない。ここまで、読んで思ったのは、どうも韓国の主張が弱いなと思った次第である。

 1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約で、日本は済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮の領土権を放棄する。ところが、1952(昭和27)年、大韓民国大統領李承晩が竹島(独島)を含む李承晩ラインを設定し、翌1953年には、


李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、船長が韓国軍に銃撃を受け死亡している。同4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯し、以降占拠を続けているという。韓国が実効支配する過程で、日本人が銃撃され死亡している事実があるのだ。韓国は、現在の竹島(独島)を武力で制圧したことになる。当時の日本の総理大臣は、吉田茂だった。

 ここで、外務省のホームページに掲載されている「竹島問題を理解するための10のポイント」を見ると、大筋でSAPIO編集部版の記事と大差がない。また、SAPIO版にも出ていたが、韓国が竹島の領有権の主張の根拠としている、1690年代の安龍福の記述の矛盾に関する記述も掲載されている。韓国側が主張するような書契などもなく、安龍福の体験談には、信憑性が薄いといえる。

 結局、論点は、于山島=竹島(独島)かどうかということに尽きるようだが、それを示す韓国側にとっての明確な歴史的事実は、私にはないものと思われた。むしろ、その反証が、韓国側の古地図にあるといえる。しかも、韓国にとっての最大の弱点は、日本が1952年の連合国との対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により独立を回復した際、竹島は日本領土とされたことである。韓国は自国領を主張したものの、米国をはじめ国際社会から認められなかった。そして、日本にとっての最大の弱点は、現在の実効支配をしているのが韓国だということだろう。韓国にとっては、歴史的事実よりも、国民の批判を日本に向けることにより、政府への批判に対する矛先を反らすのが目的となっている感がある。政権末期で、親族や側近に司法の手が及び、政権維持に苦しくなった李明博前大統領が最後の切り札としてクローズアップした。終いには、天皇まで引き合いに出したが、一線を越えた嫌いがあったため、少しトーンダウンしてしまった。そして、大統領が替わった。


竹島10のポイント
外務省ホームページより

■尖閣の問題

 2009年に日本に帰化した、テレビでおなじみの金美齢(台湾出身)が李登輝元台湾総統にインタビューをするところから、この本は始まる。李登輝は、尖閣列島が沖縄に属していることは間違いがないとする前提で、かつては独立していた琉球王国は、明が強かった時代には明に朝貢していたが、明が弱くなると薩摩に朝貢した「独立国家」だが、アメリカの統治以降、大多数の沖縄の人々が日本に返還されることを望んだため、現在は、沖縄が日本国にある以上、尖閣列島が日本領土である事実は疑いようもないとしている。国際法的にみても、台湾の領有には根拠はないという見解だ。1970年頃に、尖閣周辺の海底に石油の埋蔵が確認されてから、急に中国が「これはオレのものだ」と言い出したが、台湾でも「領有台湾」を言い出して騒いでいる連中がいると語っている。

 ジャーナリストの水間政憲の「SAPIO/2004年11月10日号」の記事をみると、1968年、日韓台の科学者を中心にしたアジア極東経済委員会(ECAFE)は、尖閣諸島周辺の約20万Kuの海底にベルシア湾級の石油・天然ガスの埋蔵の可能性を指摘した。すると中国は、歴史を改竄し、この資源を確保するべく、自国領土を認識させる基礎資料である地図を徹底的に改竄し始める。

 外務省情報文化局には、1958年に北京の地図出版社が発行した地図が掲載されているが、画面が粗くかすれるので、ほぼ同じものだが、SAPIO編集部版の1960年版として掲載されている地図(※4)を転載させて貰った。尖閣列島は魚釣島(島名が魚釣島となっている、釣魚島ではない)以外にも多数の島々から成り立っているが、台湾と琉球の間にラインが引かれている。国境を示していると思われるが、尖閣列島は中国側にはない。しかも、北緯25度を超えてラインが伸びている。

 ところが、1972年発行の北京市地図出版社発行の地図(※5)では、ラインを無視して、欄外の注意書きで、@釣魚島A赤尾嶼として中国領土としているのだ。欄外に領土を記入するという乱暴なことをやっている訳だ。その後も、中国の地図改竄は続く。

 報道写真家の山本皓一の記事では、1919年の年末に遭難した福建省(当時は中華民国)の漁民に対する翌年の中華民国長崎領事からの公印が押された感謝状が掲載されている。嵐で遭難した漁民31人が、漂流、沖縄県八重山群尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別名とのこと)に漂着して、当時、魚釣島にいた古賀善次以下が救助して、送り返したというものだ。魚釣島には、1884(明治17)年以降、古賀善次の父・辰四郎が鰹節工場などを建設、多いときには99戸、248人が住み着いていたが、沖縄海戦の戦況が悪化した1940(昭和15)年頃には引き払ったため、現在まで無人島となっていた。ちなみに、2012年に日本国政府が魚釣島などを買い取ったのは、古賀家からだ。


(上)世界地図帳 1960年版 北京市地図出版社
(下)中国地図冊(普及版) 1967年版 北京市地図出版社
SAPIO編集部版より
 (※4)

世界地図帳 1972年版 北京地図出版社
SAPIO編集部版より (※5)
破線は、SAPIO編集部による

尖閣諸島に関する
3つの事実
外務省ホームページより

 国立国会図書館の外交防衛課の濱川今日子が書いた「尖閣諸島の領有をめぐる論点」を見ると、中国の尖閣諸島に対する歴史的記録が詳しく掲載されている。インターネット上で見ることができるので、参考にできる。ここでは、中国が主張する「先占」に対する考え方や「権原」などもついても掲載されている。

 1972(昭和47)年、沖縄返還協定に基づいて尖閣列島を含む南西諸島は日本に返還されたが、冒頭の李登輝の見解にも係わらず、台湾政府は、その前年の1971年6月に尖閣諸島の領有権を主張する。中国もその半年後に領有権を主張している。背景は、前述したが、1960年代の後半に「国連アジア極東経済委員会(ECAFE)」が、海洋調査に基づいて尖閣列島周辺の海域にペルシア湾級の石油・天然ガスが埋蔵されている可能性を発表したためだ。

 台湾の1967(昭和42)年発行の中学校用教科書の「初中地理」の記述を見ても、琉球群島の範囲として「北緯24度から30度、統計122.5度から131度」と説明されていて、これに従えば尖閣諸島はすっぽり琉球群島に入るのだ。ところが、1987(昭和62)年発行の「国民中学 地理」を見ると、尖閣列島は別枠で記載されていて、「釣魚臺列嶼」となっていて自国の領土に組み入れている。台湾も中国と同じことをやっている訳だ。

 インターネットで検索すると、「地圖會説話」に掲載されている2枚の地図(※6、※7)が面白い。これは、日本語のホームページではない。中国語(台湾)が分からないので、断言しないが、尖閣列島を組み入れる前の地図と、組み入れようとして国境ラインをねじ曲げている地図の対比が分かる。

 井沢元彦が批判した朝日新聞だが、2012年の10月31日の朝刊では、尖閣問題を大きく取り上げている。中国政府は、明時代の1403年に書かれた「順風相風」に「釣魚嶼」が記載されているし、1561年頃の「籌海(ちゅうかい)図編」の図で魚釣島を明の防御地区に組み入れているとしている。また、琉球正史「中山世鑑/1650年」では、「久米島は琉球の領土だが、赤嶼(日本名・大正島)及びそれ以西は琉球の領土ではない」としていることなどを列挙している。ただし、中国は王朝ごとに政略範囲が変わっているので、「固有の領土」という概念自体存在しないという、村井友秀防衛大教授の反論も挙げている。日本政府も、中国側が挙げる資料はどれも島々が発見、認知されていたことを表すだけで、中国が実効支配をしていたものではないという立場を取っている。記事では、サンフランシスコ講和条約から、田中角栄と周恩来との会談や現在までの視点を詳細に書いている。


尖閣諸島を組み入れる前の地図 (※6)
(左下に台湾の北部が描かれているが、
その東側の赤いラインが真っ直ぐ伸びているのが判る)
「地圖會説話」より



尖閣諸島を組み入れた地図 (※7)
(赤いラインがS字状になり、
尖閣列島を組み入れてしまっている)
「地圖會説話」より

朝日新聞
「尖閣 過熱する主張」
2012年10月31日

 同じ朝日新聞の12月12日の朝刊では、精華大学当代国際関係研究院院長の閻学通(イエン・シュエトン)へのインタビューに驚いた。「中国の政治的目標は、かつての歴史の中で占めた国際的な地位の回復だからだ」「中国は、欧米のいう『民主主義』『自由』『平等』よりはるかに高いレベルの政治道徳を持っている。中国古代思想に言う『公平』は『平等』に勝り、『正義』は『民主主義』より高い。」と語っている。何という傲慢さだろう。ちょっと、論評する気も起きない。これが、現在の中国の指導者の平均値なのだろうか。日本でも恥ずかしい政治家が多いが、少し考えを改めなければといった気分になってしまった。

  
       朝日新聞2012年12月12日の記事

 司馬遼太郎は、「空海の風景」でこう書いている。「この当時(空海の生きていた時代/9世紀頃)、世界性をもつということは唐の学問を学ぶことであった。文明は唐にしかなかった。しかし学問が地方にまでひろまるような状況ではまったくなく、都だけは中国の文物を導入しているとはいえ、地方の民度は古墳時代とさほどのかわりはない。」しかも、こんなことまで書いている。「中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。<中略>インド人は、それとは別の極にいる」

 とはいえ、確かに、桓武天皇を筆頭に、古代の日本は、中国をお手本にしようとしていた。また当時、中国は世界の先進国だった。西洋が後進国だったことも間違いはない。アメリカは問題外だった。それは、歴史的に間違いのない事実であ


る。しかし、アメリカが現在の世界最大の強国であることも間違いのない事実なのである。歴史は作られることはあっても、回復させるものでもないだろう。かつての栄華に戻すことを目標にされてもたまらない。現実を見つめて貰いたいものである。

 2012年の12月14日のニュースを見ると、中国国連代表部は、中国沿岸から200カイリを超える東シナ海海域において、沖縄トラフまでの自国の大陸棚と主張する大陸棚境界画定案を国連事務局に提出した。画定案では、「地形や地質の特徴からみて、東シナ海の大陸棚は中国の陸地領土が自然に延びたもので、沖縄トラフが延伸の終わり」と主張している。自己主張もここに極まりといった感がある。韓国も負けじと、同様な主張をし始めた。

 2012年12月28日、1950年の中国共産党の外交文書に、中国が「尖閣諸嶼」という日本名で琉球の一部と論じているのが見つかったというニュースが流れた。1970年以前の中国では、「釣魚島」などは、どこにも無かったのだ。いずれにしても、中国や台湾の尖閣列島への領有権主張の根拠は、かなり薄弱なことは間違いない。これは、丹羽前中国大使が言うように、領土問題などないとうそぶくよりも、真っ向主張するのが正解なのではないだろうか?自信を持って議論ができる外交力が必要なのではないだろうか?

■領土とは何か

 松岡正剛は、千夜千冊の第1404夜/2011年2月28日の「遊牧民から見た世界史/杉山正明」でこう語っている、「中国史で純粋なチャイニーズの王朝なんて、漢と宋と明くらいだよ。あとはみんな異民族とのフュージョン。それもたいてい遊牧帝国の一群のどこかが噛んでいます。」「西洋中心史観があるように、中国は中国で、華夷秩序による中華中心史観で歴史をつくってきたからね。」と書いている。

新・北海道の古代 1・2・3」にも書いたが、国境と文化の境界はイコールではないのことを忘れてはならない。国境がどこにあろうとも、文化の境界に線を引くことはできないのだ。また、多くは武力に拠るか、相手国の政情不安の拠に乗じて国境が変わっているという歴史が存在する。そんな例は、枚挙にいとまがない。日本が鬱陵島を放棄したが、その後、韓国自体を併合したという歴史もある。歴史を遡及することによって、現在の国境を語ることには意味がないといえる。



 また、松岡正剛は、千夜千冊の第581夜/2002年7月16日の「開国/伊部英男」では、こう語っている。「結局、過去の日本は長期にわたる農本主義の国だったのである。一方、海国イギリスは商本主義であり、植民地主義であり、三角貿易主義である。清盛や薩摩藩などのいくつかの例外をのぞいて、日本はこういうことはしなかった。そのかわり日本は国内や領地内の治水に長け、産物を育て、それを加工する工夫に熱心だった。これがやがて時計やカメラやトランジスタや半導体技術の凱歌になった。これはこれですばらしい。しかし他方では、あいかわらず外交面や渉外面のダイナミズムを欠いてきた。」

 日本の外交に領土意識が低かったことは考え直さなければならないだろう。一方、中国の領土権に関する歴史的記録には、余り意味がない。中華中心史観に限界があるように、国土の概念が歴史的に変わっていた国が、歴史的根拠により領土を規定するには無理がある。領土問題には、歴史的記録はそれほど重要な要素ではないともいえる。日本がそれを指摘するならば、現実に実効支配している領土が国土だと言っていることと同義だといえる。となると、実効支配している尖閣は良いが、竹島には領有権が及ばないことになる。歴史的には、どのラインで線を引くのかが難しいといえるのだが、それが国際情勢の現実なのだろう。

 失った領土を回復するには、武力以外の方法があるのだろうか。言い方を変えると、領土を失わないためには、武力しかないのだろうか。中国が武力に訴えてくる可能性は、十分にあるだろう。そう遠くない将来、中国の内政が混沌としたときの、切り札になりかねないのだ。現在の私には、それに対する明解な答えはない。武力以外の方法に期待したい考えが何処かにあるが、武力も必要なのが現実だともいえる。

 とはいえ、武力を伴った李承晩ラインの強行は、歴史的事実だが、韓国以外の国が認めているものでもない。事実、1965(昭和40)年の日本と韓国の国交樹立と同時に締結された日韓漁業協定により、李承晩ラインは廃止されている。竹島が日本領有だと第三国が認めている歴史的事実は、1952年の連合国との対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)だが、そこには、60年の歴史が横たわっている。私の現時点の結論は、実効支配しているラインが国境だと認識せざるを得ない。いかなる歴史的記録も理論でしかないのだ。それが現実だということだ。


   
      尖閣諸島 手前から南小島、北小島、魚釣島
       2011年10月13日海上自衛隊撮影/時事通信社より

 要するに、竹島は韓国に取られたという事実があるのだ。一方、中国は日本が尖閣諸島を「かすめ取った」と卑劣な表現を使ったと報道されている。実際に出ている表現は「窃取」だと思われるが、言い方を変えると「取られた」ということを認識しているのは間違いがないことになる。中国が、日清戦争で負けて弱体化しているときに日本が強行したというものだ。インターネットで見られる中国領との主張の多くはそこにある。竹島を取り返したいのならば、取り返さなければならないし、尖閣を取られないためには、守らなければならない訳だ。執拗に中国を刺激することを強行したり、発言しているのは、決して上手な手法とはいえないだろう。そう語っている人の多くは、尖閣を守ることよりも、国内向けに自己主張をしているに過ぎないともいえる。ナショナリズムを煽ってはいるが、事実は亡国の輩と変わりがないことになる。

 もし、北方領土が帰ってくるのならば、武力行使以外の道があることになる。ロシアが不法に北方領土を占拠したのは間違いないが、実効支配している事実を忘れる訳には行かない。そして、武力行使以外の道がある可能性もあるのだ。それは、外交力に他ならないともいえる。しかも、外交力は政治だけではないだろう。経済も産業も農業も科学も医学もあらゆるものが外交力なのだ。形だけだったという考え方はあるが、実際に沖縄は帰ってきている事実があるのだ。日本は、もっと国際世論を味方に付ける必要があるといえる。そのためには、「領土論など無い」とうそぶいていることも愚策だといえる。むしろもっと領土論を展開すべきなのだといえる。そこでは、歴史論も意味をなしてくるのだ。


竹島の航空写真
左が東島、右が西島
東島に韓国海洋警察部隊が常駐している
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046 鈴木邦男・加藤良三インタビュー/朝日新聞より(2012年11月23日)

 2012年11月22日の朝日新聞朝刊を見た。右翼といわれる「一水会」顧問の鈴木邦男へのインタビューが掲載されていた。今、右翼として活動している人は、天敵がいなくなった動物みたいなものだという。安倍晋三や石原慎太郎の動きをキナ臭いとも思っているともいう。君が代や日の丸は大事だとは思っているが、やたらに振ったりヘタに歌ったりしたくない。合唱すると合わないので、口だけ開けて歌わないことも良くあるという。自分の立ち位置は変わっていないのだが、軸が動いた結果、転向したとまで言われることもあるという。憲法改正についても、じっくりと時間をかけ、丁寧に議論をすべきであり、自由のない自主憲法をつくるよりも、自由のある占領憲法の方がまだ良いという。読んでいるうちに、なるほどと感心するところが多くあった。リベラルな右翼といえるだろう。

 TPPと原発問題をセットにして、小泉劇場の再現を狙った野田佳彦総理は、世の中の人が考えていることを読み取る感覚が薄れているとしか思えないが、結局、彼は消費税増税を達成して、憲法違反とされる定数是正もままならないまま、総選挙に走ってしまった。それに対して、中国のことを「シナ」と呼んで憚らない石原慎太郎や、君が代斉唱などを強要する橋下徹、建設国債を日銀に買い取らせるなどという暴言を吐く安倍晋三など、国際的に見たならば恥ずかしいような政治家が勢いづいている。そんな世相に対抗でき得るリベラルがいないと思っていたのだが、想定外のところに人物がいたような気がした。もっとも、恥ずかしいと書いたが、アメリカ大統領選挙では、ロムニー大統領候補の低所得者層に対して、「そういった人々のことを心配するのは私の仕事ではない」と発言したのを隠し撮りされたり、ライアン副大統領候補も含めて数々の妄言が多数報道された。結局、恥ずかしい政治家はどこにでもいるのだろう。

 ところが、鈴木邦男の記事の下に、駐米大使を務め、日本プロ野球コミッショナーの加藤良三の「私の視点」が掲載されていた。私は、プロ野球はほとんど見ない。北海道の住人なので、日本ハムの試合はたまに見ることがあるが、それは日本ハムが、北海道を応援しているからである。以前から、WBC参加問題でも、読売巨人軍の問題でも、何もしようとしないコミッショナーに呆れはてていたが、掲載記事を見て、こんな人がプロ野球コミッショナーを努めているのかと思うと真に悲しくなってきた。


 記事は、次の「アーミテージ」を作れということである。尖閣を巡る情勢が悪化し、万が一のことを考えても、日米同盟の相対的評価がアメリカで低下している現実からも、第2のアーミテージを作る努力を日本がすべきだという見解には、私も賛成だ。しかし、後半が良くない。

「官邸を取り巻くデモの参加者が掲げる原発反対の声に応じることが、真の民主主義だと信ずる政府高官が少なからずいるようだが、私は疑問だ。」という。それがプロ野球コミショナーとして動かなかった理由なのだろうか?続いて、「たしかに国民各層から広く意見を聴くことは不可欠だ。しかしそれだけだと、国家・国民にとって本質的に何が最良の選択なのかを、真撃(しんし)な検討の末に決断する責任感、自覚が欠如するのではないか。」だという。基本的に、人の話を聞かないで、決断するのが責任であり自覚なのだろうか?もっとも、彼は何もしなかったのだが。

 アーミテージは、日本の代弁者ではなかったが、一貫して強固な愛国者であって、「アメリカにとって日米同盟の維持と発展が最も重要だという『地動説』を、30年以上、堅持している人物なのである。」と、ここで地動説が出てくる。最後には、「日本のリーダーがガリレオも驚く天動説的言辞を発し、内政上の要請を一方的に繰り返すだけでは、日米同盟を通じて「日本の安全」を守るため、第2の「アーミテージ」をつくる目的は達成されない。」と述べているが、彼にとっては、アメリカを中心にして世界が回っているという見解が「地動説」なのではないだろうか?

 結局、彼にとっての立ち位置は何もないのだろう。アメリカという太陽の周りを回る衛星以下でしかあり得ないのだろう。そして、太陽自体が動いていることも理解ができないままに。


         朝日新聞   2012年11月22日

朝日新聞
2012年11月22日




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045 ニセ建築士やニセ医者事件で思うこと(2012年11月6日)

 最近、何かとマスコミを賑わしているのが、業務独占資格に関する事件だ。業務独占資格とは、、資格を取得していなければ、その特定の業務ができないという国家資格のことだ。ニセ一級建築士やニセ医者事件などは、資格の詐称や資格証の偽造などが問題になった。不動産鑑定士が処分された事件では、資格の所有者が評価額のつり上げのために、鑑定に手心を加えたというものだった。多分、以前にも大なり小なり同じような事件はあったのだろうが、マスコミが取り上げる話題性が、時代とともに大きくなっているのだろう。また、インターネットの普及により、官公庁の発表をインターネットで見ているだけで、多くの問題がマスコミ発表の事前に分かることがある。時々、これを見ているだけで記事を書いているのではないかといった危惧を感じる事もある。

 構造計算の偽装事件以来、どうも建築士関係となると、マスコミは厳しく追及する姿勢がある。それは、検察や警察関係の問題においても同じ傾向がある。医者や当のマスコミ自身が関わる問題が起きても、それは特定の個人の問題と扱われるが、建築士や検察・警察関係となると、建築士全体、検察・警察全体、あるいはその制度に問題があると追求する嫌いがある。どうも、その業界に身を置いている立場の僻みととも取られかねないが。

 清貧なイメージがあるノーベル賞の山中教授にミソを付けかねない、「iPS細胞」による世界初の臨床応用をしたという

森口尚史に、すっかり騙された一部のマスコミもあったようだ。事実は未だに良く判らないが、その報道関係の責任者が処分を受けたとの報道もあった。疑わしきは掲載しなかった他のマスコミも、事件そのものの報道は大きかったが、その処分については、いたって冷ややかな扱いだ。「当社では、同じ情報を取得していましたが、その事実の確認が取れないため、報道を自粛していました」などと簡単に書いているだけだ。その背後で、したり顔でほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。といいながら、したり顔しているはずの新聞社系列のテレビ局は誤報道をした口だが、そこの社長は、速報であって誤報ではないと、こちらは開き直っていると新聞記事で見た。申し訳ないが、その確認はインターネットだけだが。

 同じ報道でも、尼崎の連続殺人事件の容疑者の写真を間違って掲載したマスコミは、たまたまiPSで誤報をした同じ大新聞社などだったが、基本的に報道の姿勢の根幹に関わる大問題と捉えているかどうかは疑問だ。プロ野球の問題でも、事件になるかなと思ったが、むしろその大新聞社は開き直っている感がある。結局、マスコミは自分の所の組織に抱える問題とは考えない傾向があるようだ。老害ともなっている人は、辞めそうもない。多くのマスコミは、担当者を処分することはあるが、会社の責任者を処分する感覚は薄いようだ。その割には、企業で問題が起きると、社長が出てこなかったなどとの批判的な報道を良く目にする。



朝日新聞
2012年10月9日

 週刊誌自体は読んでいないが、大阪市長の個人的問題をねじ曲げて報道した週刊誌は、責任を謝罪して連載を中止した。翌週号でその旨を記したまでは良かったが、何のコメントも付けず、当の大阪市長に翌週号を送りつけたため、また市長の怒りを買ってしまった。最低限の常識すらも持ち合わせていないのが、あの業界なのだろうか。

 2009年のイタリア中部地震で、大地震の兆候はないと表明していた防災庁付属委員会メンバーの学者等7人が、禁錮6年の実刑判決を受けた。求刑が4年だったことを考えても画期的な判決だ。最終審ではどうなるかは判らないが、責任者を特定して責任を取らせる西洋流の考え方だと言われている。

 ドイツでは、第二次世界大戦の戦争責任をヒトラーのナチスに負わさせて、戦争責任を謝罪した。日本では戦争責任を曖昧にしたまま、謝罪をきちんとしていないため、未だに戦争責任を負ったままでいるとの見解が一部にあるようだが、私はその意見には賛成しかねる。もっとも、戦争責任が間違いなくあったはずの天皇が、その責任を取らなかったことは問題だとする意見には、多少なりとも共感するところはある。だからと言っても、謝罪をきちんとしていないとの意見にもあまり賛同できない。無差別殺戮をもたらした原爆を落とされ、無条件降伏をして、国の憲法を丸呑みにして、問題のある「東京裁判」を受け入れて尚、何をすべきだったのだろうか。日本は、間違

いなく謝罪したと私は思っている。それは、私たちの心の中を感じれば判ることである。戦後70年近くになっても尚、憲法9条を維持したいと思っている国民が、多くの調査では過半を占めている事実は、それを物語っていると思う。

 それは、心の中の問題が大事なのではなく、如何に外に対して表明するべきが問題なのだという意見が出るだろうということは承知している。しかし、戦後間もなく、朝鮮戦争から冷戦期に至ったのは、日本の問題というよりも、アメリカの問題なのではないだろうか。中国における政治体制も変化した時期とも重なる。それらが、日本の謝罪の姿を抹殺してしまったのではないだろうか。未だに一部のタカ派が、日本はそもそも悪くなかったと言いたいのか、蒸し返すようなことまで言っているが、そこまで言い出しても、それは少数意見に過ぎない。少数意見は、どこにでも必ず居るものだ。

 尖閣諸島問題が起きて、日本にある中国大使館前で抗議をした一部の団体がいたようだが、中国ではここぞとばかりに大きく報道したであろう。盛んに、民意をという人達がいるが、民意が必ずしも正しいとは限らない。多くの問題を残した小泉劇場を見れば判るだろうし、日本が第二次世界大戦に走ったのも、大方は民意だったはずだ。そして、民意を煽っているのが、総体としてのマスコミだとも言える。。更に言えば、選挙で勝った勢いで、民意だとして好き勝手に近いことをするのも、さらに問題だ。

朝日新聞
2012年11月2日
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044「反米大陸」/伊藤千尋(2012年10月8日)

反米大陸/伊藤千尋/集英社/集英社新書0420D
/20071219第1刷/218頁/\700+税

イラクへの道

 2001年9月11日、アメリカで航空機を使った4つのテロ事件が発生したことは、余りにも衝撃的だった。ワールドトレードセンタービルが崩れ落ちる映像は、未だに生々しい記憶として残っている。その後、アメリカ軍はアフガニスタン紛争、イラク戦争に走っていく。アメリカが起こしたイラク戦争には、イギリスを初めイタリア、ポーランドなどの有志連合諸国が派兵したが、中南米から派兵したのは、中米のニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラス、そしてカリブ海のドミニカ共和国の4ヶ国だった。日本も自衛隊を派遣しているが、戦闘には参加していない。また、フランス、ドイツ、ロシア、中国などが強行に反対した。このうち派兵した中米の3ヶ国に共通しているのは、1980年代に、当時のレーガン大統領が、軍事、経済援助や経済制裁、情報操作などを通じて取り込もうとした国々だ。左翼政権だったニカラグアには、CIAが組織した反政府ゲリラを送り込み、経済制裁を行って、ついに政権を倒した。その反政府ゲリラの基地を置いたのが隣国のホンジェラス。エルサルバドルでは、アメリカが極右政権を軍事支援して、左翼ゲリラによる革命を阻止している。

 カリブ海にある島国グレナダは、美しい珊瑚礁に囲まれた島々から成り立っている。かつてこの国では、神秘的な宗教に凝って自らを「救世主」と呼んだ、独裁者ゲーリーが政権を握っていた。それに対して、欧米からの留学から帰国した若いインテリたちが中心となって、社会改革の運動を起こした。マルコムXの強い影響を受けたモーリス・ビショップたちはゼネストを展開、ゲーリー政権を倒す。ゲーリーは、アメリカに逃亡した。レーガンが大統領になると、親米政権を打ち立てるために、グレナダの政変に乗じて、1983年、宣戦布告もなしにアメリカ軍が侵攻した。侵攻の口実は、グレナダに在住するアメリカ市民の安全を確保するというものだった。

 1989年になると、ブッシュ(父)大統領、チェイニー国防長官、パウエル統合参謀本部議長は、パナマに侵攻している。パナマでは、国際法を踏みにじって他国に派兵し、首都を攻撃し、市民を殺傷して実力者を拉致するという行為に及んだ。彼らは、1991年には、前年のイラクのクェート侵攻を機に、湾岸戦争に走る。2003年には、ブッシュ(息子)大統領、チェイニー副大統領、パウエル国防長官の顔ぶれで、ありもしなかった大量破壊兵器のために、イラクに侵攻している。同じことを繰り返しているのだ。早くから、その行為を認めて応援した小泉純一郎元首相の責任は重い。

 著者の伊藤千尋は、東大在学中にキューバでのサトウキビ刈り国際ボランティに参加、「ジプシー」調査探検隊長として東欧を現地調査、その後朝日新聞社に入社、中南米特派員、バルセロナ支局長、ロサンゼルス支局長、「論座」編集部を経て、現在は「Be」編集部に所属している。 著書に「活憲の時代」「変革の時代」「ゲバラの夢、熱き中南米」、「一人の声が世界を変えた」、「観光コースでないベトナム」「闘う新聞−ハンギョレの12年」、「燃える中南米」などがある。

ベネズエラ

 南米の北の端、カリブ海に面する石油大国、ベネズエラ。政治を握った親米政権が、アメリカ流の新自由主義の経済政策を採用して、貧富の格差は絶望的なまでに深まっていた。1989年のガソリンの値上げを機に、首都を揺るがした「カラカソ」と呼ばれる大暴動が起きるが、軍による鎮圧で、スラムの住民約1000人が射殺された。1992年、その軍からクーデター事件が起きた。未遂に終わったクーデターの首謀者はチャペスだった。彼は投獄されたが、国民による赦免運動で釈放され、1998年の大統領選挙で圧勝する。

 チャペスによる政策は、先住民の権利を認め、石油の富を国民に平等に分けるものだった。2002年、ブッシュ(息子)大統領の時、アメリカのCIAの支援で、親米派の軍部によるグーデータが起き、チャペスは一旦失脚するが、圧倒的な国民のチャペスに対する支持を受け、クーデターは3日間で失敗に終わる。2006年の大統領選で彼は三選され、2009年にはチャペスの無制限再選が可能となる憲法改正も承認された。彼による、2006年の国連総会でのブッシュ(息子)大統領への「悪魔」発言は、余りにも有名。演説が終わると、各国の国連大使から長い拍手が続いたという。

 2012年10月2日の朝日新聞朝刊を見ると、4選を目指すチャベス大統領が野党候補に接戦を強いられているという。チャベス大統領は、石油マネーの収益を、国民の8割を占める貧困層支援につぎ込み、圧倒的な人気を得てきた。しかし、同時に近隣中南米の反米諸国への支援も惜しまなかった。主要他党の統一候補カプリレス氏は、治安や失業などの問題が一向に改善しない国内状況を背景に、国と富は国民のために使うべきだと訴えてきた。その後ろにアメリカが暗躍しているかどうかは私には判らないが、選挙結果は大いに注目される。

 2012年10月8日、今日のニュースによるとチャベス大統領が4選を果たしたという。詳細は、今後のニュースによるが、また、新たなる時代を迎えようとしているのかも知れない。


「反米大陸」
伊藤千尋
集英社
集英社新書

中南米地図


2012年10月2日
朝日新聞朝刊

※チャベス氏は4選目の大統領選に勝利したが、病魔には勝てず、2013年3月5日死去した。氏の政治手法には賛否両論もあったが、一つの時代が終わったのは間違いがない。
(2013年3月10日追記)

エクアドル

 赤道直下にあるエクアドルでは、コレアが大学教授から経済相に抜擢されたが、当時の大統領の方針に逆らい、IMFを批判し、アメリカとの自由貿易協定に反対した。そのため、4ヶ月で首になったが、2006年の大統領選で、接戦との噂を覆し圧勝している。彼は、国連総会でベネズエラのチャペス大統領がブッシュ(息子)を悪魔と呼んだ際に、「世界をひどく傷つけた間抜けなブッシュと比べるなんて、悪魔に失礼だ」といったという。

チリ

 チリでは、1973年にピノチェト将軍が率いる軍部が、左派のアジェンデ政権に対してクーデターを起こした。そのクーデターに反対した空軍司令官は逮捕され獄死している。そのクーデターを工作したのは、アメリカのCIAだった。その空軍司令官の娘だったミッチェル・バチュレも逮捕され投獄され、拷問されたが国外に逃亡した。ピノチェトは、大統領となると、それまでの政権を支持した人民運動の政治家や労組などに対して、容赦ない「左翼狩り」を行う。全国で10万人が逮捕され、3千人以上が殺された。人権団体の主張では、3万人が虐殺されたという。

 チリを代表する資源には、世界一の埋蔵量と生産量を誇る銅がある。生産量は、現在も世界の1/3を占めている。アジェンデの前の政権が、ケネディ大統領の「進歩のための同盟」政策に協調して、外資導入策をとった。結果、開発の名の下にアメリカ資本が流入し、チリの主要企業は軒並みアメリカの手に渡ってしまった。アジェンデは大統領となると、チリの5大銅山の国有化に手を付ける。アメリカ政府は、報復としてチリを経済封鎖する。さらにアメリカは、戦略的に備蓄していた銅を市場に放出する。そのため、銅の国際価格が下がり、チリ経済は急速に悪化した。

 そのときのアメリカ大統領は、ニクソンだったが、跡を継いだフォード大統領は、ニクソンがCIAに対して、チリ介入を指示したことを明らかにしている。CIAは、チリ軍部に対する援助を飛躍的に増やす。さらに、CIAの工作により、チリのトラック輸送業者に資金を渡してストを行わせる。そうして、ピノチェト将軍のクーデターが起きたのだった。ピノチェト軍政は、1990年までの17年間も続くが、アジェンデ政権によって国有化された企業は、再び元の持ち主の手に返った。アメリカの銅会社はもちろん、ゼネラズ・モーターズやダウ・ケミカルなどあらゆる企業がこのクーデターで資産を取り戻した。

 アジェンデ政権の閣僚だったオルランド・レテリエル元外相は、クーデター後に収容所や地下牢などに入れられたが、国際的な運動が実って釈放され、アメリカに亡命する。しかし、CIAとFBIの暗躍により暗殺されたといわれている。少なくともCIAは、見て見ないふりをしていたと非難されている。暗殺事件が起きたときのアメリカの大統領はカーターだったが、「国際テロ行為」とピノチェト政権を非難して、チリ大使を一時召還し

ている。しかし、カーターの後のレーガン大統領は、制裁を解除し、ピノチェト大統領を「友人の中の友人」と呼んだという。

 ピノチェトの引退後、3人の大統領を経て、2006年に与党チリ社会党の統一候補となって、大統領に当選したのは、国外逃亡から戻ったミッチェル・バチュレだった。(2010年からは、変革のための同盟・国民革新党のセバスティアン・ビニェラ大統領)

ボリビア

 1990年代のボリビアでは、新自由主義に基づく親米政権が、民営化省まで作って、国営企業の民営化を進めた。IMFは、債務返済のための条件として、水道事業の民営化を要求した。ボリビア政府は、アメリカ系の企業に水道事業を売り渡し、水道料金は一気に値上がりする。2000年には、国内の各地で数万人規模のデモが起きた。市民の抵抗運動が余りにも激しかったため、政府は、再び水道を国営に戻した。これを「水戦争」という。

 さらに「コカ戦争」が起きる。コカは、麻薬の原料の一種でもあるが、現地の住民には伝統的な「お茶」でもあった。化学精製さえしなければまっとうな作物であり、標高4000メートル級の高地に住む先住民にとっては、コカは高山病の症状を癒やす薬でもあった。ところが、コカを麻薬の原料としか見ないアメリカは、米軍をボリビアに派遣してコカ畑を焼き払い、軍のヘリコプターで枯葉剤を空中撒布した。さらに、天然ガスをきわめて安い価格でアメリカの輸出しようとしたため「ガス戦争」も起きる。

 先住民族アイマラ民族出身のモラレスは、2005年に大統領に当選すると、直ちに天然ガスと石油産業を国有化して、農地改革を進め、新自由主義を葬り去ることを宣言している。

メキシコ

 アメリカの国土は、1776年の独立当時、大西洋岸の東部13州しかなかった。イギリスとの独立戦争で、アパラチア山脈の西側にある「西方領土」を獲得、領土は倍以上になった。イギリスと戦うための戦費が必要だったフランスからは、ミシシッピ河一帯のフランス領ルイジアナを格安で買い入れ、領土はさらに二倍に膨む。スペインからは、フロリダを安く購入。フロリダへの進出の過程で、先住民アメリカ・インディアンを虐殺している。次に狙ったのが、メキシコの領土のテキサスだった。

 当時のテキサスは、先住民が住む砂漠地帯だったが、そこへアメリカから大量の移民が入って来て、綿花を栽培するための開拓を始めた。メキシコ政府は寛容で、どうせ不毛の土地だから、と移民を歓迎した。しかも一家庭当たり71万平方メートルの耕作地と、52平方キロメートルの広大な牧草地を「ただ」で与えた。

 最初の入植者は300家族だったが、彼らの成功と移住の条件の良さを聞いて、移民が押し寄せる。13年後には、2万人の白人と、2000人の奴隷で、テキサスの人口の5分の4を、アメリカ移民が占めるようになっていた。そこで彼らは、メキシコから独立し、テキサス共和国を打ち立てる運動を起こした。メキシコ政府は移民を禁止したが、アメリカ政府は、テキサスを500万ドルで買いたいと持ちかける。しかし、メキシコはこれを拒否する。

 そこで、アメリカの入植者たちは、武力による独立に動き出す。1835年に始まったテキサス革命である。武装蜂起により、メキシコ軍の守備隊を追い払い、翌年にはテキサス共和国の独立を宣言し、暫定政府を設置した。これを支援する人々が、アメリカから次々にやって来た。連邦下院議員を務めたディヴィ・クロケットも、その一人である。メキシコ政府軍が鎮圧に来るという知らせを聞いて、クロケットらは、古い教会跡に立てこもった。それが「アラモの砦」というわけだ。

 結果、メキシコの軍人大統領サンタ・アナによる攻撃で、アラモに立てこもったアメリカ人は、よく持ちこたえたが、13日で玉砕する。アラモの戦いから1ヶ月半後、ヒューストン司令官が率いるテキサス軍は、サンハシントの戦いでサンタ・アナのメキシコ軍を打ち破った。このとき叫ばれた言葉が、「リメンバー・ザ・アラモ」だ。五カ月後に、テキサスはメキシコからの独立を果たした。ヒューストンは、テキサス共和国初代大統領となり、宇宙基地で有名な地名としても名が残っている。1845年には、米大統領ポークが、テキサスの併合を宣言した。

 アメリカがテキサスを併合すると、メキシコは国交断絶をアメリカに通告した。一方アメリカは、メキシコ国境に軍を派遣し、メキシコ領の深くまで軍を進め、メキシコ領だった今のニューメキシコやカリフォルニアを占領する。メキシコは敗戦の結果、アメリカが主張する国境線を受け入れざるを得なかった。1848年、メキシコは、カリフォルニアやニューメキシコを、アメリカに格安で割譲したのである。その結果、アメリカは大西洋から太平洋にまたがる大陸国家となった。しかも、両国の講和条約が締結されるわずか一週間前、カリフォルニアで黄金が発見された。ゴールド・ラッシュが起きる。このアメリカによるメキシコ侵略戦争で米海軍メキシコ湾艦隊司令長官としてベラクルス攻略作戦を指揮したのが、その5年後に黒船を率いて日本にやってくるマシュ・ペリーだった。メキシコは、先住民の国家アステカ帝国をスペインの征服者コルテスによって滅ぼされたが、アメリカからは土地の略奪という、二つの征服された歴史を持っていることになる。
 
アメリカ合衆国と南米大陸

キューバ

 大航海時代のスペインは、キューバを中南米支配の拠点としていた。メキシコで奪った銀と、南米ペルーのインカ帝国を滅ぼして得た金をキューバで、大型帆船に積み替えて大西洋を渡った。そして、スペインはキューバを砂糖の島に変えた。アメリカの企業は、競うようにキューバの砂糖産業に投資する。1億ドルでキューバを買いたいとスペインに申し出るが、スペインは断る。それだけ両国とも、キューバの価値を重く見ていたのだ。

 この頃キューバでは、独立派が革命軍を結成して武装蜂起をし、独立運動を起こしていた。アメリカ政府はキューバに住むアメリカ人の保護を理由に、新鋭戦艦メイン号をキューバに派遣する。ところが、ハバナ湾に停泊していたメイン号は、1898年、謎の大爆発を起こして沈没、乗員354人のうち266人が船と運命をともにした。そこで叫ばれた言葉が「リメンバー・ザ・メイン」だった。新聞は連日、このスローガンを大きく掲載した。いつの時代にもあるように、マスコミが戦争を煽ったのだ。スペインに宣戦布告したアメリカは、没落しつつあった旧帝国スペインに圧勝する。わずか2ヶ月半の戦闘だった。後の調査では、メイン号が沈んだのは、燃料の石炭が摩擦などにより自然発火をして、火薬庫に引火した可能性が高いと見られている。

 キューバの革命派は、これで独立できると喜んだが、非情にもスペインに代わったアメリカによる軍事占領が続く。アメリカがキューバの政治に干渉する権利をもち、アメリカの基地をほぼ永久にキューバ国内に設置するという、アメリカ上院議員ブラットの名を取った「ブラッド修正」を無理強いしたのだ。このブラッド修正に基づいて、キューバ東部に基地を獲得したのが、アフガンやイラク戦争の捕虜を収容したことで悪名高い「グアンタナモ基地」である。100年以上も経た現在も、反米であるキューバの国内にアメリカの基地があるということが不思議といえば不思議だ。しかも、借り賃は年間約4000ドルに過ぎない。しかし、キューバ政府はグアンタナモ基地の即自返還を主張し、その受け取りを拒否している。

 歴史は戻るが、1952年にクーデターで実権を握った軍人バティスタは、アメリカの支持を背に、憲法を停止し、すべての政党を解散し独裁者となる。民主化を求める市民は秘密警察の手で暗殺された。殺された市民は、一説には2万人にも登るといわれている。アメリカ企業のキューバ進出はいっそう進み、アメリカからの投資は、キューバの電話や電気の資本の90%、鉄道の50%を占めるまでになっていた。牧場や観光も、アメリカ企業が牛耳った。

 1953年、26歳のカストロが組織した165人の若者が、モンカダ兵舎を襲撃するが、失敗し、カストロは投獄され、禁固15年の刑を受ける。やがて、全国各地でカストロたちの釈放を求める国民運動が起き、政府は仕方なくカストロたちを恩赦して国外追放とした。カストロは、アメリカのキューバ人社会を回って革命資金を集め、メキシコに渡り武装訓練を始める。このころ知り合ったのが、ゲバラだった。1956年から始まった武力革命闘争は、各地の戦いで政府軍に勝利をおさめ、都市では労働組合がゼネストを決行、学生も街頭闘争をするなど、独裁者バティスタを追い詰め、1959年バティスタはアメリカに亡命する。キューバ革命が達成されたのだった。

 キューバ革命政府は、ユナイテッド・フルーツ社などのアメリカ企業が耕作地の75%を所有していたが、それらの土地の多くを接収し、農地改革を断行する。その際、補償費を払っているが、年利4.5%で、期限20年の政府公債で支払うとした。独裁政権の時代に、アメリカ企業は税制面で優遇され、低率しか払っていなかったのがここで裏目に出る。もっとも第二次大戦後、GHQが日本で農地改革を行ったときのレート年利2.5%からみるとずっと良いという。キューバが農地改革をやったときのアメリカの大統領は、アイゼンハワーであり、副大統領はニクソンだった。

 アメリカ政府は、キューバ革命を非難し、キューバ産の砂糖の輸入を制限すると脅しをかけたが、ソビエト連邦がキューバの抱き込みを図る。ソ連が年間100万トンの砂糖を買い付けるとともに、ソ連の石油を国際価格よりも安くキューバに売り、1億ドルの援助をすると申し出たのだ。経済的に行き詰まった革命政権はこれを受け入れる。CIAは、カストロ政権を武力で転覆しようと考えた。1961年、アイゼンハワーから政権を引き継いだケネディ大統領は、首都ハバナなどキューバの軍用飛行場をアメリカ空軍により爆撃をする。爆撃から2日後、侵攻軍はグアテマラから船に乗り、上陸用舟挺でキューバのピッグス(コチノス)湾に上陸する。ところが、カストロが陣頭指揮をしたキューバ軍が侵攻軍に対して圧勝する。侵攻軍の3分の2が捕虜となってしまったのだ。ケネディは、CIAに騙されて、キューバに侵攻すればキューバ国民はもろ手を挙げて歓迎するという説明を真に受け、事情も良く分からないまま、侵攻の許可をしたといわれている。ケネディにしてもこの程度だったのだ。

 CIAは、その後、あの手この手でカストロ暗殺を企てるが、ことごとく失敗する。CIAは、キューバ市民に対しても生物兵器を持ち込んだという説がある。1962年には、ソ連による、キューバへの核ミサイルの配備を契機とする「キューバ危機」が起きる。さらに、キューバ上空で、アメリカ空軍の偵察機がソ連の地対空ミサイルで撃墜され、一触即発の事態となったが、フルシチョフとケネディは結果的に、危機を回避する。

 その後、1991年のソ連崩壊をも乗り越え、キューバは生き残り、2001年には、アメリカとの貿易が再開している。ハリケーンによる被害を受けたキューバに対して、アメリカ政府が人道的な支援を行うと申し出たのだが、カストロは経済制裁をしている国から施しを受ける訳には行かないので、食糧を貰うのではなく買おうといったのだ。実質的な貿易再開となった。このときのアメリカ大統領は、ブッシュ(息子)大統領だった。9・11テロの直後であり、反キューバより、反イスラム・アラブ感情が強かったといわれている。だが実際には、イリノイ州を中心とするアメリカの農産物業界は、キューバとの貿易を待ち望んでいたというのが事実であったろう。政治はカネの論理で変わるのだ。しかも、現在のキューバの最大の主要産業は、砂糖ではなく観光となっている。

 2006年には、約200万人の観光客がキューバを訪れているという。渡航規制しているアメリカからも、年間20万人がキューバを訪れているのだ。キューバの入国管理事務所では、入国印をパスポートに押さない。別紙に押すという。アメリカ人の観光客は、キューバを出た後でその紙を捨てれば、キューバに入国した記録が残らないのだ。抱いていたキューバに関する情報との乖離に愕然とする思いがある。

フィリピン

 アメリカとスペインの戦端が開かれたのは、キューバではなくフィリピンだった。メイン号の撃沈とほぼ時を同じくして、1898年アメリカのデューイ准将が率いるアジア艦隊は、宣戦布告とともに出動して、フィリピンのマニラ湾にいたスペイン艦隊を撃破した。当時のフィリピンは、エミリオ・アギナルドが率いる革命軍や農民のゲリラがスペイン支配の打倒を目指して戦っていた。デューイは、「アメリカは、フィリピンを解放するために来た。アメリカは領土も資源も豊かで、植民地を必要としない」とアギナルドに言ったという。しかし、それは口約束だった。文書としては残していないのだ。

 スペイン軍が降伏すると、アメリカはマニラに軍政を布く。そして、味方であったはずの革命軍を攻撃する。アギナルドらの革命軍は、山にこもってゲリラ戦を展開したが、アメリカによる見境のない掃討作戦は激烈を極めた。掃討戦の総指揮を執ったのが、あの日本占領軍の司令官となったダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサーだった。アメリカは、キューバでもフィリピンでも、独立運動を支援する姿勢を見せ、戦争に勝利すると、銃口を彼らに向けて植民地化した。

ハワイ

 その少し前、ハワイでは1810年ころに、カメハメハ大王により統一国家が築かれていた。ハワイ王朝は、王権を強化し、それまでの自然崇拝の多神教であった神官の権力を弱め

るために、アメリカから来たプロテスタントの宣教師を受け入れた。欧米型の近代化を目指したハワイ王朝は、アメリカ人を教育大臣や法務大臣に招いた。その結果、アメリカ人判事の手で土地法が作られ、外国人の土地私有が認められると、たちまちハワイの土地の75%が外国人の所有となった。もちろん、ほとんどがアメリカ人である。アメリカ人は、その土地をサトウキビやパイナップルの大農園にした。そのためにやって来たのが、宣教師たちだったが、その多くが宗教という仮面を被ったビジネスマンだったことはいうまでもない。

 新たに即位したカラカウア王は、アメリカとの互恵条約を締結したが、その内容は、ハワイ産の砂糖は関税なしにアメリカ本土に輸出できるが、ハワイの港や土地はアメリカ以外の国に渡さないという内容が盛り込まれていた。いつの時代も、アメリカは同じような手口を使うのだ。アメリカの植民地化を恐れたカラカウア大王は、日本との友好を望み、明治天皇に日本の皇室との縁組みを申し込んでいる。縁組みは成り立たなかったが、日本からの移民が多いのは、その理由からである。20年後には、ハワイの人口の4割を占めるほどになっている。

 カラカウア大王が病死の後、ハワイ王朝は、以前のハワイに戻そうと新憲法の発布するのだが、アメリカ公使スティーブンスは、アメリカ人の命と財産を守るためとして、武力を背景にアメリカ人の暫定政府を樹立する。さすがのアメリカ政府もやり過ぎと思ったのか、当時のクリープブランド大統領が特使を派遣して、スティーブンスとハワイの砂糖農園主による不法なクーデターだと判断する。しかし、翌年に大統領となった共和党のマッキンレーは、スペインとの戦争を始め、ハワイを併合する挙に出る。ハワイは、アメリカの準州となったのだ。第二次大戦後、ハワイはアメリカの50番目の州となる。

パナマ

 黒船で日本に来港したペリーは、太平洋を渡ったのではなく、大西洋を東へ横断し、アフリカの最南端、喜望峰を廻ってインド洋に入り、東南アジアから北上した。途中、琉球に上陸して、首里城を占領している。アメリカ東海岸のノーフォークを1852年11月に出航して、翌年の7月に浦賀に着いている。実に、8ヶ月もかかっている。パナマ運河がない時代だった。しかし、初期の運河候補地は、よりアメリカに近いニカラグアだった。ところが、ゴールド・ラッシュで沸くカルフォルニアを目指す黄金亡者たちは、船でパナマに行き、最短51キロの陸路を走り、太平洋側に出ると、また船でカルフォルニアに向かった。これに目を付けたのが、アメリカの郵船会社だったが、パナマに鉄道を建設することを計画して、世界で最も短い71キロという大陸横断鉄道を建設した。マラリアなどの熱帯病のため、労働者が9000人も死亡したという。地元の人だけでなく、中国からもクーリー(苦力)と呼ばれる労働者たちが多数投入され、犠牲になった。

 鉄道が完成すると、アメリカ政府はパナマに軍隊を派遣する口実とした。いつものやり口である。アメリカ国民の安全を確保するためには、軍隊を派兵する権利があるというのだ。鉄道は、運河建設のための前提条件でもあった。アメリカに先駆けて、フランスのレセップスが運河の掘削を開始していた。高低差があるパナマでは、スエズ運河のような海面と同じ高さの運河は無理であり、閘門(こうもん、ロック)式と呼ばれる方式を採用した。その閘門の水門の設計をしたのが、エッフェル塔で有名なフランス人エッフェルだった。レセップスは、鉄道使用の費用負担と、特殊な方式の工事による建設資金に行き詰まることになるのだが、そのデマを流したのがアメリカだといわれている。もちろん、アメリカはその後を引き継いで運河を完成させている。一方、ニカラグアでは、アメリカの財界人が運河会社を作って建設工事に取りかかったが、資金難で行き詰まった。

 パナマは、コロンビアの一部であったが、キューバの支配権を握ったのと同じやり方で、アメリカはコロンビアからパナマを独立させている。パナマ運河の工事に着手する半年前のことだった。独立運動の中心は、パナマ鉄道の医療を担当していたアマドールだった。アメリカにけしかけられたアマドールたちは、コロンビアに対して反乱を起こし、1903年パナマ独立を宣言する。反乱を鎮圧するためにやって来たコロンビア軍は、アメリカ軍によってパナマ上陸を阻止された。

 レセップスがパナマ運河を建設した時の技師長だったフランス人のバリーヤという人物がいたが、彼はアメリカ政府に対してはパナマ政府の代理人となり、パナマ新政府に対してはアメリカ政府の代理人となっていた。バリーヤは、勝手に運河地帯の主権はアメリカにあるとし、無期限でアメリカの主権を認める内容の条約草案を作り調印した。アマドールは、パナマの初代大統領となったが、アメリカに国を売った売国奴と呼ばれている。パナマ運河は、1914年に完成する。運河地帯には、アメリカ軍が司令部を置き、別荘地を思わせる軍人家族の住宅群が建てられた。その鉄条網の外には、貧しいパナマ人のバラックが広がっていた。

 パナマでは、伝統的に軍部の力が強かった。民族主義者で、パナマ運河返還条約を調印にこぎ着けたトリホス将軍は、国民的な人気があったが、謎の飛行機事故で死ぬ。跡を継いだのが、軍のトップだったノリエガ将軍だった。ノリエガ将軍はCIAとの繋がりが深く、アメリカと結託してトリホス将軍を暗殺したとの噂まである。だが、隣国コロンビアの麻薬組織と結びついて麻薬をアメリカに密輸したり、キューバのカストロ政権とも親密な付き合いをするようになる。

 レーガン大統領が始めた、CIAが組織した反政府ゲリラによるニカラグアの内戦が終わると、ブッシュ(父)大統領は、パナマの政情が不穏であり、アメリカ人の生命が危険に晒されているという得意の論法で、ノリエガ将軍を切り捨てることにし

た。1989年、パナマに駐留していた1万3千人の米南方軍、アメリカ本土からは9500人の海兵隊、陸軍、海軍が285機の米軍航空機と110機のヘリとともに、早朝一気に首都のパナマ国防軍総司令部を集中攻撃した。一旦、隠れたノリエガ将軍だったが、投降、そのままアメリカ軍に連行されて、マイアミで裁判にかけられ、麻薬取引、麻薬組織からの賄賂受け取りなどの罪で、禁固40年の実刑判決を受け、現在もアメリカの刑務所に服役している。

 それにしても、外国の指導者を自国の裁判で裁くなどということが許されるのだろうか。冒頭に書いた、「イラクへの道」でもブッシュ(息子)大統領が同じようなことをしている。パナマではパナマ市民がアメリカ軍を解放者として迎えたとか、あるいは、イラクでも同じような報道が一部ではされたが、現実が異なることはその後の情勢を見れば判る。侵攻後のパナマは、親米派のエンダラ大統領が就任するが、1994年の大統領選挙では、かつての軍部を支えた候補が当選し、一人を挟んで、2004年の大統領選挙では、トリホス将軍の息子が、返り咲きを狙ったエンダラを破っている。パナマ市民が、どちらを選んだかは、はっきりしている。(2009年には、マルティネリ大統領となっている)

グアテマラ

 グアテマラのノーベル賞作家アストゥリアスが書いた小説『緑の法王』のモデルとなったのは、アメリカのマイナー・キースだ。彼は、ニューヨークで洋服店を経営したり、テキサスで養豚をやってみたが長続きせず、中米で鉄道を建設していた叔父を頼り、コスタリカに渡り、工事責任者となる。その資金調達のために思い付いたのが、鉄道沿線の余った土地にバナナを植えることだった。1890年には、世界最大のバナナ農園主となる。小説では、主人公のアメリカ人がグアテマラでバナナ農園を買いあさり、買収に応じない農民を軍隊で暴力的に追い払って、バナナの会社を作って「国家の中の国家」といわれる存在にまで育て上げている。その後、ユナイテッド・フルーツ社を設立したキースは、合併を繰り返し、中米地域の枠を超えて、カリブ海諸国と併せて、計25万エーカーを持つ巨大企業となる。

 1911年には、ホンジュラス政府を崩壊させるために、対立陣営に資金を出している。ユナイテッド・フルーツ社の援助で二度も大統領になったマヌエル・ボニージャ将軍は、バナナへの課税を廃止している。ユナイテッド・フルーツ社は、政治家に働きかけて、土地法を骨抜きして、アメリカ籍の会社が合法的に広大な土地を持てるようにした。今日のグローバリズムの名のもとに、アメリカ企業がわがままを通そうとしているが、そのルーツがここにある。アイゼンハワー大統領時代、国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスと、その弟でCIA長官を務めたアレン・ウォルシュ・ダレスは、ユナイテッド・フルーツ社の大株主だった。ブッシュ一族とも関係が深いといわれている。

 1944年、暴政に怒ったグアテマラの民衆は、反政府デモを起こす。グアテマラ革命と呼ばれる政変だ。大学教授だったアレバロが大統領に当選し、民主的な政権が生まれる。続いて大統領となったハコボ・アルベンス大統領は、農地改革を進め、ユナイテッド・フルーツ社が国土の42%の土地を所有していたが、その大部分に対して補償金を払って没収した。また、ユナイテッド・フルーツ社は、ほとんど税金を払っていなかったのだが、相応の税金を払うように主張した。ユナイテッド・フルーツ社がホワイトハウスに泣きつくと、アメリカ政府はグアテマラ政府に対して、巨額の補償金をユナイテッド・フルーツ社に支払うように要求した。

 1954年、ダレス国務長官は、米州外相会議でグアテマラを共産主義の驚異だと非難し、アメリカはグアテマラと国交を断絶する。アイゼンハワー大統領の承認のもと、CIAはグアテマラへの秘密介入計画を作成し、隣国の親米国家であるホンジェラスに密かに武器を空輸する。さらに、反逆罪で罷免されたグアテマラのアルマス大佐を指導者にして、グアテマラに侵攻を開始する。アルマス大佐は、アメリカで軍事訓練を受けていた。しかも、アメリカ軍の爆撃機がグアテマラを空爆した。ユナイテッド・フルーツ社は、85隻のバナナ輸送船を動員して、反乱軍の兵士をホンジェラスから運んだ。武器も、同社が持つ鉄道を利用して反乱軍に届けたという。

 アメリカは米軍機で、反乱軍のアルマス大佐を首都グアテマラ市に送り、アルマスは大統領となり、農地改革を中止し、農民に配られた土地を元の大地主に戻し、ユナイテッド・フルーツ社は、元通り広大な土地を回復した。その3年後、アルマスは自身の護衛兵に暗殺される。以後は、クーデターが続き、軍政のもとでユナイテッド・フルーツ社の法律顧問が外相になった。軍部の左派は、農民と手を握り、左派ゲリラとなり、グアテマラの36年間も続く内戦状態に陥る。政府と左派ゲリラの和平協定が調印されたのは、1996年のことだったが、その間に約20万人の犠牲者が出ている。

南米南部共同市場(メルコスール)

 ソ連崩壊後の1994年、マイアミで第一回の米州サミットが開かれた、北米から南米まで、キューバを除く米州34ヶ国の首脳が集まった。当時のクリントン大統領は、FTAA(米州自由貿易地域)の創設を提唱した。実現すれば、総人口約8億の自由貿易圏となる。しかし、最初にメキシコから異議がでる。メキシコ南部での左翼ゲリラの武装蜂起が起きたのだ。蜂起した人々はマヤ民族系の先住民だった。スペインによって土地を奪われ、密林地帯で細々とトウモロコシ栽培などを続けて来た人達だった。しかし、協定が発効すると、アメリカ産の安いトウモロコシがなだれをうってメキシコに流入してきた。アメリカでは輸出用の農産物に対して、政府が農家に補助金を出す。メキシコ政府は出さない。消費者は安い方に飛び付くから、メキシコ農民が作ったトウモロコシは売れなくなった。そのため、メキシコでは、畑を売り払い、農業を止める農民が続出した。トウモロコシが主食のメキシコで、それが外国に支配さ

れるようになったのだ。たとえ、遺伝子組み換えの怪しげなものであっても、買うしかなくなった。

 現在は、FTAAは、2005年までに域内の貿易や投資の障壁を取り除くとしていたが、お互いの意見対立が大きく、事実上中断されている。1995年、米州サミットが開かれた翌年に、ブラジルとアルゼンチンを中心に、ウルグアイとパラグアイも加わり、南米南部共同市場(メルコスール)が発足した。独自の経済圏だ。国境を接し、ことあるごとに対立してきたブラジルとアルゼンチンが協力関係に踏み出したのだった。やがて、ベネズエラが正式加盟を表明、チリやペルー、ボリビア、エクアドル、コロンビアなどが準加盟、トウモロコシで苦杯を舐めたメキシコや、パナマも加入手続きに入った。

 現在、話題となっているTPPは、2005年からシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージランドの4ヶ国からスタートして、アメリカ、オーストラリア、マレーシア、ベトナム、ペルーなどが参加表明をしているが、日本の態度は明確ではない。当然、これまで述べてきた反米大陸の国々は、参加していない。アメリカは、南米南部共同市場(メルコスール)の切り崩しを狙って、ペルーやチリを取り込んでTPPを画策していると見ることもできる。

 日本がTPPに参加すると、メキシコのトウモロコシと同じような状況がコメにおいても起きることは明白である。アメリカは、他の国の政府には、農民に補助金を出すなといいながら、自分の国では補助金を出しているという。著者も書いているが、アメリカの言う自由とは、「アメリカのアメリカによる、アメリカのための」自由に過ぎない。他の国を不自由にするものといえるのだ。

 軍事力、経済力で飛び抜けた力を持つアメリカであることは間違いはない。しかし、ベトナム、アフガニスタン、イラク、南米、中南米などでの多くの失敗から、その影響力が落ちていることも間違いはない。アメリカとの蜜月だけをよりどころを基本としてきた日本だが、その手法では既に限界がきているのだ。アメリカに追従することがグローバルではないのだ。世界は既に多極化している事実を見つめ直し、真の意味でのグローバル化をするために、日本の立ち位置を見極めなければならないのだろう。

 著者の説明には、少し一方的に感じたところもあった。しかし、日本がマスコミも含めて、南米や中南米に対して、余りにも知識がないことも事実だろう。ほとんど、ニュースが流れないのだ。それは、マスコミだけの責任にもできないのだろう。今回、記述した内容は、本に書かれていないことも書いてある。従って、内容についての責任は当方にある。だが、この本を読んだことによって知ったことが多いことも事実である。この本では、著者が学生時代を含めて、中南米を初め、多くの国を訪れた経験が礎となっている。アメリカが行ってきた現実を見せつけられた思いがした。TPPなども含めて、何が本当に国のためになるのかを改めて考えてみたいと思う。
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043「道元禅師」/立松和平(2012年9月23日)

道元禅師/立松和平/東京書籍
(上)大宋国の空/20070915初版/\2,100+税/516頁
(下)大宋国の空/20070915初版/\2,100+税/604頁


 9年もかけて描いた大作だ。背景に膨大な資料を消化した跡が見える。計4回も、中国に取材に行っていると聞く。道元の一生を考えるには、最適な本なのだろう。ただ、掲載したのが、永平寺の機関誌『笠松』だったためか、道元を余りにも美化し過ぎた嫌いがある。正直、時々読むのが辛くなる。

 丹羽文雄の「親鸞」や「蓮如」との格差が大きい。文学としての格差をいっているのではない。丹羽文雄は、「人間・親鸞」「人間・蓮如」を描いたが、この「道元禅師」は、「スーパーマン・道元」を描いている。まるで絵巻物のような、現実感のない絵空事が続く。時々出てくる家人である右門の「ですます」調のくどい文章も気に触る。設定の意味が理解できない。異なる視点を演出したのだろうが、効果のほどは疑問だ。道元は、現実を見放し、真実の追究を、隔離された世界でのみ突き詰めたのだろうか。これが曹洞宗の教義を伝えるものなのだろうかとの疑念を抱きながら読み続けた。

 日本には、653年の白鳳時代に「禅宗」が伝えられた。その後、鎌倉時代に入り栄西(えいさい/ようさい)が開いたのが「臨済宗(りんざいしゅう)」、続いて道元の「曹洞宗(そうとうしゅう)」が起こり、江戸時代に入り、明僧隠元(いんげん)により「黄檗宗(おうばくしゅう)」が開かれた。これが日本の禅三宗である。栄西は、日本で初めてのお茶の本である「喫茶養生記」を書いたことでも有名であり、隠元はその名の通り「インゲン豆」を伝えたといわれている。

 道元は、1200年に生まれている。前年には、源頼朝が51歳で亡くなっている。父は、諸説あるが、小説では大納言・堀川通具(みちとも)を父としている。父説もある内大臣久我道親(みちちか)は、小説では祖父となっている。道親は、時の天皇土御門の外祖父でもある。母は、摂政関白藤原基房(ふじわらのもとふさ)の娘伊子(いし)であり、道元は、時代の権門の中枢に生まれている。しかし1214年、14歳で比叡山にて剃髪受戒(ていはつじゅかい)し、仏門に入る。そのころ親鸞は、越後から関東に向かっている。ちなみに、北海道では「アイヌ文化」が始まるころにあたる。

 比叡山の修行に疑問を感じた道元は、やがて建仁寺の栄西を訪ね、その弟子である明全(みょうぜん)に師事し、明全とともに宋に渡る。宋に渡った道元は、天竜山での修行に励むが、惟一西堂、宗月長老、伝蔵主、浙翁如<王+炎>、盤山思卓、元+<才かんむりに鼎>、それに無際了派に相見して道を問い、法を求め、嗣書(ししょ)を拝見させてもらうが、この七人の長老たちの眼精(がんせい)、すなわち法を見る眼(まなこ)は、自分よりも劣っているのではないかという疑念を抱く。日本と大宋国の間には、自分よりもまさっている大善知識はないのではないだろうかとも思い悩むのであった。

 しかし、勅請により天竜寺の住持に如浄(にょじょう)が就く。如浄和尚は越の国の人であったが、天台の華厳寺で教学を学んでいた。19歳の時に教学を捨てて仏道修行に入り、修行を続けて来た人であった。その宗風に対し、南宋の寧宗(ねいそう)皇帝は紫衣(しい)と禅師号(ぜんじごう)を賜ったが、如浄はついに受けず、志書を奉って辞退したという。十万の修行僧たちはその徳を称え、各地の知識人たちはこれを称讃した。


「道元禅師(上)」
立松和平
東京書籍

 如浄により、五欲を忘れ、「身心脱落」して坐禅に向かうことを教えられた道元は、やがて厳しい修行の後、大悟に至る。そして、日本に帰り、人びとを迷いから救うことを誓う。道元と一緒に宋に渡った師である明全は、既に宋において亡くなっていた。

 1228年、5年間の宋における修行を終えた道元は、如浄により嗣書を授けられ、日本に帰国する。如浄は、道元に対して、帰国した後は、権門に近づくことを厳しく戒める。道元は、京都東山の建仁寺に戻るが、そこは落ち着くところではなかった。僧衆の生活は堕落し、栄西禅師がめざした厳格な禅風はとうに廃れ、比叡山の別院となっていた。1233年、道元は、京都の深草に興聖寺を開くが、比叡山からの迫害は激しくなっていくばかりであった。

 このころは、飢饉が続き、人びとは多くの苦しみの中にあった。京も鎌倉も難民が溢れた。この世の不幸は、隠岐に流された後鳥羽上皇の怨念によるとの噂が流れていた。鎌倉幕府は、1232年、執権北条泰時を中心として御成敗式目を定める。武家による政治を明文化したのだ。ところが、三浦義村や北条時房などの重臣が相次いで急死する。武士も貴族も盛んに加持祈祷を行っている世相にある。

 1243年、道元に帰依していた越前の地頭波多野義重の招きを受け、越前に向かう。師如浄の教えを守るため、権力に近づかないためでもあった。翌年、傘松に大佛寺を開く。道元が生涯をかけて著した「正法眼藏87巻」も説いている。後に、寺名を、仏法が初めて中国に伝来した後漢の明帝(めいてい)永平10(67)年の年号から「永平寺」と改める。真実の仏法が、日本に第一歩を記(しる)したとの意味だった。

 永平寺は、山中にある小さな叢林(そうりん)であった。道元は、仏祖道を成就するためには、出家受戒する他には道はな

いと説いた。親鸞とは、余りにも異なる仏への道であった。しかし、北条政子と鎌倉三代将軍実朝の回向(えこう)が行われていなかったのだが、京の六波羅探題であった北條重時の命令を受けて、その菩提を弔っている。それは、波多野義重の依頼もあったが、この世には思わぬ敵もいて、どんな災厄(さいやく)がかかっているかも知れないとの恐れもあったことは否定できないだろう。

 後には、鎌倉幕府五代執権北条時頼の求めに応じて、鎌倉にも行って「只管打坐(しかんたざ)」を説いている。時頼には、すべてを捨てることを勧めるが、時頼にそれができるはずもない。現実には、道元はなかなか権門から逃れることはできなかったようだ。生来の縁は、韜晦(とうかい)することを許してはくれなかったともいえる。1253年、病により永平寺の貫首を、「正法眼藏隨聞記」を編した弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲り、享年54歳で入滅する。

 修行は坐禅に限らない。日常のすべての行いの中に真理は現れている。悟りを目的、修行を手段と考えてはいけない。こだわりを捨て、身も心も一切の束縛から脱して<身心脱落>、全身全霊で坐禅に打ち込む<只管打坐>は、修行と悟りが一体となった人間本来の正常な姿、それが仏の姿にたとえられることを実践した生涯であった。

 立松和平は、あとがきでこう書いている。

 渓流の音はすなわち永遠の釈迦牟尼仏の説法の声である。見渡すかぎりに見える山はすべて釈迦牟尼仏の清浄心である。

 自然に生きて、自然を語って、亡くなった著者の言葉が偲ばれる。


「道元禅師(下)」
立松和平
東京書籍
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042「蓮如」/丹羽文雄(2012年9月9日)

蓮如/丹羽文雄/中央公論社/中公文庫
〈1〉覚信尼の巻/19971218改版/345頁/\743+税
〈2〉覚如と存覚の巻/19980118改版/374頁/\743+税
〈3〉本願寺衰退の巻/19980218改版/410頁/\743+税
〈4〉蓮如誕生の巻/19980318改版/355頁/\743+税
〈5〉蓮如妻帯の巻/19980418改版/375頁/\743+税
〈6〉最初の一向一揆の巻/19980518改版/379頁/\743+税
〈7〉山科御坊の巻/19980418改版/375頁/\743+税
〈8〉蓮如遷化の巻/19980418改版/419頁/\743+税

 丹羽文雄の「親鸞」の続編である。私は、中央公論社の文庫本で読んだが、全8巻のうち、タイトルである蓮如が誕生するのが第4巻からである。あくまでも厖大な資料に基づいた丹羽文雄のフィクションではあるが、その歴史を追うことによって、著者に込められた深い教義を感じ取ることができる。前半は、親鸞の曾孫にあたる覚如の物語である。蒙古が二度(1274年と1281年)に渡り、日本を襲う。時の執権・北条時宗は、鎌倉に円覚寺を建てて無学祖元を住まわせ、禅に憤倒する。そんな時代から物語は始まる。

 著者は、日蓮には冷淡なようだ。日蓮は、蒙古の襲来により、日本はいったん亡びると主張した。滅んだ日本を、日蓮が正法によって救うのである。正法救国の日蓮が存在するかぎり、日本は大日本であると唱えた。そんな宗教家がこれまでにもいたような気がする。しかし、日蓮の予想もむなしく(?)、元の日本攻略は、奈良西大寺の思円上人叡尊(しえんしょうにんえんそん)らを初めとする旧来の宗教家の祈りが通じたのか、「神風」が吹き失敗する。神風には、異説もあるようだが、ここでは神風としておく。日蓮の出番はなかったのである。厳しい身延山の気候に責めつけられた61歳の老躯の余命は幾ばくもなかった。日蓮は、1282年に、亡くなる。

 1262年に亡くなった親鸞の京における晩年は、関東の信者を除いて、人知れず静かな余生であった。世情の噂に上ることもほとんどなかった。親鸞が亡くなる少し前、「時宗」を始めた一遍が1239年に生まれている。一遍の念仏を「専修念仏」と規定することには無理があった。法然や親鸞の専修念仏とは異質な日本固有の民族宗教をその根底に持つ念仏であったからだ。一遍が、「踊り念仏」を初めたのは、1279年ころといわれている。同じころ、一向俊聖も「踊り念仏」を始めている。一遍の時宗とは、無関係な宗派(一向宗)だったが、後日の誤解を生む原因となる。





 親鸞の末娘の覚信尼は、1272年、親鸞の遺骨を吉水の北へ改葬して、大谷廟堂を建てる。後の本願寺の始まりとなる。覚信尼は、関東の教団と協定を結び、廟堂の管理者たる「留守識(るすしき)」となり、世襲とすることを認めて貰う。留守識とは、諸国に散在する門弟の総代でもあった。留守識と門弟の関係は、後世のような主従的なものではなく、門弟の代表者で、留守識自身もやはり門弟の一員にすぎなかった。廟堂維持経営の主導権は、あくまでも関東の門弟教団の手中にあった。

 覚信尼亡き後、留守識は長男の覚恵が継ぐ。その子である本願寺三世となる覚如は、三井園城寺南滝院(みいおんじょうじなんりゅういん)の僧正浄珍、奈良興福寺一乗院の門主信昭(しんしょう)とその後を継いだ覚昭(かくしょう)のもとで稚児として育ち、出家する。20歳になった覚如は、父覚恵とともに、親鸞が義絶した善鸞の子である如信に会い、歎異抄を著した唯円とも会うが、他の宗派で育った心の中で、抵抗感を抱いていた。

 覚如は、妻帯する。そして、覚恵と覚如は、関東に赴く。3年間に渡る関東の各教団への訪問であった。親鸞の血縁を示す旅ではなく、京の生活を支えてくれていることへのお礼の旅であった。関東では、各教団とも温かく迎えてくれたが、単に親鸞の遺族としか見なされなかった。関東の教団は、それぞれが独立しており、横の連絡は殆ど無かった。覚如は、親鸞の名代として派遣された善鸞が、関東の教団から冷たくあしらわれ、謀反の気持ちを起こした理由を理解することになる。決して善鸞の二の舞をしてはならないと思った。

 3年の後、京へ戻った覚如を待っていたのは、不在の間に生まれた存覚だった。覚如は、これを機会に南都(興福寺や東大寺など)に行くことを止める。そして樋口安養寺の阿旦房彰空について、浄土宗西山派の法門を学ぶ。善導の著作五部九巻をはじめ、『大無量寿経』や曇鸞(どんらん)の『往生論註』、道鏡、善道(ぜんどう)共集の『念仏鏡』(ねんぶつきょう)等について、教えをうけた。父の覚恵は、一念義礼讃念仏へ傾倒していたが、覚如の思想にも一念義はかなりの影響を与えた。


「蓮如(一)」
覚信尼の巻
丹羽文雄
中公文庫

 関東の教団は、親鸞を崇(あが)め、念仏を唱えてはいるが、それ以上の発展性はなかった。親鸞は、次第に遠くなりつつあったのだ。覚如は、各教団に共通できる親鸞嘆徳の書を作る必要を感じた。それが、親鸞を阿弥陀如来の応現であるとして、称揚した『報恩講式(ほうおんこうしき)』と親鸞を弥陀如来の化身であると描いた『伝絵』であった。それは、関東の教団に強い影響を与えた。各教団の門弟たちは、争ってこれを書写した。しかし同時に、覚如に対する恐れが生まれ、不信の萌芽となることに覚如は気が付かない。

 そのころ覚恵は、関東にいた義弟の唯善を大谷に家族と共に呼び戻すが、唯善は放埒な性格だった。そして、覚恵との継承を巡った争いが起きる。覚恵と覚如は、一旦敗れ、大谷廟堂を去ることになる。失意の中で、覚恵は亡くなる。しかし結局、覚信尼の最後状がものをいって、唯善は逐電する。しかも唯善は、親鸞の木像と遺骨を鎌倉に持ち去り、大谷の堂舎を破壊してしまう。さらに、覚如は簡単には留守識になることができなかった。覚如は、関東の教団から要求されるままに、誓約書を出さざるを得ないことになる。大谷廟堂を復興するのは、関東の教団であった。大谷廟堂は、関東の門徒たちの寄進で成り立っていたからである。関東の門徒は、覚如を疑いの目で見ていたのだ。

 関東の言うことをすべて呑み込まざるを得なかった覚如であったが、留守識を継ぐことを許される。それは、留守識といえども門弟の一人ということであった。ところが、留守識となった覚如は、大谷廟堂を全国の浄土真宗門徒の本山にすべく、長子の存覚と布教活動を始める。覚如は、大谷廟堂を寺院化しようとしたのだ。

 覚如が留守識に就任して4年後、留守識を長子の存覚に譲る。関東の了解を得ない留守識の移譲であり、覚如が関東の教団に書かされた誓約書にも反する行いだったが、覚如とは異なる存覚の柔和な人柄に、関東の教団は、次第に存覚を認めるようになる。しかし、留守識を譲ったとはいえ、実際に大谷廟堂を運営していたのは覚如だった。そのころ、大谷廟堂は初めて「本願寺」を名のり始める。そして、8年後覚如は、存覚の留守識を取り上げ、自分が留守識に復帰して、存覚を義絶する。親鸞が長男の善鸞を義絶したように。

 結局、存覚は8年間の留守識在任中、覚如が期待することを何もしなかったのである。しかもその修学の知識は、聖道門諸宗や浄土宗西山派にあり、最後まで親鸞教の独自性に


関心を持っていなかった。次第に、親鸞教の特殊性に目ざめ初めていた覚如とは立ち位置が異なっていた。その意味でも、存覚は善鸞と同じであったといえる。

 聖道門とは、自力によってこの世で聖者となり、悟りを開く道であり、浄土門とは、阿弥陀仏の力によってその浄土に生れ、悟りを開く道である。聖道門とは自力であり、浄土門とは他力であるともいえる。親鸞が叡山を下りたのは、とてもおのれの力だけではこの世で聖者となり、悟りをひらくことは出来ないと見極めたからであった。行き詰まった親鸞は、山を下り、六角堂に百日参籠し、その後、吉水の法然を訪ねる。その結果、あるがままの自力を、自力のままにそっくり弥陀の本願に任せてしまうことこそ、ほんとうの他力念仏の道であると親鸞は考えた。覚如は、澄海から聖道門と浄土門の両門を教えられていたが、唯円や如信と面授し、当初は違和感を感じていたが、親鸞の著述を読むうちに、次第に親鸞を理解するようになっていた。

 覚如は、いずれは教団を統合して、誰かがその中心になるという遠大な計画を描いていた。その中心には、親鸞の血をひいた人間がなるべきだとも考えていた。そのような血縁承伝という考え方は、他の宗教にはないものであった。天台、真言、華厳、日蓮、禅、浄土、時聚いずれにもなかった。なぜなら、他の宗教は女人禁制だからであった。現実には「隠し子」がいたとしても、公にすることはできなかったからである。覚信尼が留守識を自分の子孫が継ぐように置文をしたためたのは、大谷廟堂の主導者となることを希望したものではなかった。子孫の生活を心配した故の処置であった。父親鸞に一番欠けていたところでもあった。

 9年後の1331年、義絶された42歳の存覚は家族と共に関東に向かう。それは生活のためであった。ところが、存覚の唱道は関東の門徒に受け入れられていく。その布教の方法が、自然と門徒を統括する方向に向いていくのであった。存覚は、親鸞の革新性を理解していた。後の蓮如も『歎異抄』の革新性を知っていたが、方便のために禁書にした。存覚は性格的に合わなかったので、歎異抄を避けていた。結果、存覚の説く修正親鸞教と浄土宗の宗義とは、それほどの相違がないことになった。しかし、そのため聴聞者を多く集めることができるという皮肉も生んだ。存覚は、顕密の諸宗義にも通じ、浄土宗はいうに及ばず、禅にも理解があった。宗教家としては、優れていたのである。存覚はどこでも歓迎された。頼まれれば、安直に名号本尊を書いて与えた。


「蓮如(二)」
覚如と存覚の巻
丹羽文雄
中公文庫

 1324年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと正中の変を起こすが失敗する。覚如とは縁続きになる日野資朝は佐渡へ流罪となる。何の処分もなかった後醍醐天皇は、1331年に再び幕府打倒を狙って挙兵する。「元弘の乱」である。再び失敗した後醍醐天皇は隠岐に流される。ところが、1333年、隠岐を脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞らの支援を受けて、鎌倉を陥落させ北条氏を滅亡することに成功する。そして「建武の新政」が始まるが、足利尊氏が反旗を翻す。一旦、敗れて九州に逃れた足利尊氏だったが、体勢を立て直し、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成連合軍を打ち破る。尊氏は「足利幕府」を開設し、光明天皇(北朝)を立てるとともに、1392年まで続く南北朝時代が始まる。1339年、後醍醐天皇は志(こころざし)半ばにして、病に倒れ亡くなる。戦乱が続き、国が乱れ、武家の支配力が増していく、そんな混乱の時代であった。

 西に目を転ずると、ユーラシア大陸全域を覆う、平和なバクス・モンゴリカといわれた広大な帝国の時代は終わり、モンゴル帝国は分裂へと向かっていた。1368年には、長江流域を統一した朱元璋(太祖・洪武帝)による明が成立する。永楽帝の命により、鄭和が第一次航海に出るのは1405年である。1299年に建国されたオスマン帝国は、弱体化した東ローマ帝国を浸食し始めていた。さらに西に目を向けると、1337年(諸説ある)、イギリスとフランスによる百年戦争が始まっている。西洋が大航海時代を迎えるには、まだ150年近くを要する。新たな勢力が世界各地で活動を始める時代であった。

 京都は戦禍にまみれることとなり、大谷廟堂も類焼してしまう。覚如は近江爪生津(うりゅうづ)にある弟子の愚咄(ぐせつ)の家に難を逃れる。愚拙は、存覚の妻の実家でもあった。存覚も京に戻っていたが、そこには行けず塩小路烏丸(からすま)の興国寺近くに仮住まいをする。元は高田派の一門だったが、覚如の弟子となり、存覚に指導役を任された了源という僧がいた。了源は、優れた組織者であった。彼が京都渋谷(しるたに)にて寺各化した仏光寺は、広く念仏門徒の心を捉えて、大谷廟堂を凌ぐ隆盛を極め始める。その了源が、聖道門徒の恨みをかい、布教の旅の途中、命を落とす。了源の妻の了明尼(りょうみょうに)は、了源の不慮の死にも関わらず、寺勢を守り続け、現在の仏光寺派に繋がることになる。その仏光寺からも存覚は頼りにされている。




 大谷廟所は再興していないが、覚如は京に戻り、娘が嫁いでいる先に仮住まいをする。そして、「本願鈔」を著し、「改邪鈔」を撰述する。覚如は六十八歳になっていた。親鸞が死んでから、すでに七十余年が経っていた。関東をはじめ諸国の教団はそれぞれ統制がなく、分立していた。さまざまな教説や風儀が横行していた。「改邪鈔」は、それらを峻烈に否定した。ひたすら憎悪をたぎらし、改めて自分が親鸞教の正統な伝持者であることを示した。覚如には、現実が見えていなかった。自ら、教線拡張に東奔西走する行動力もなかった。次男の従覚は、覚如のもとで、消失した『末燈紗』(まつとうしょう)の集録をまたはじめていた。

 仏光寺の世話をうけている長子の存覚は、次々と著作を続けていた。『顕名鈔(けんみょうしょう)』『歩船鈔(ぶせんしょう)』『決智鈔(けつちしょう)』『報恩記』『選択註解鈔(せんじゃくちゅうげしょう)』を著した。存覚の思想には、柔軟性があった。存覚は親鷲教があまりにも革新的なので、誤解を招き易いと理解していた。『教行信証』の講釈を依頼されると、これをもって布教の材料にする気はないと告白しながらも講釈をした。親鸞教からまったく顔をそむけているのではない、微妙な立ち位置にあった。法華宗徒から問答を仕掛けられた了源の師にあたる明光(みょうこう)から頼まれて、問答に望んだ存覚は、相手の問答に対して、その一字一句に対しても、正確にあますところなく切り返し、論破する。西山派の浄土教に始まり、あらゆる宗派の教義に関心をもち、天台、真言、律、法華、華厳、そして禅にまで存覚の知識はひろがっていた。『沙石集(しゃせきしゅう)』の著者として著名な無住(むじゅう)とも禅を仲立ちとして交際があった。しかも、不思議なことに、親鸞教が本人の自覚以上に存覚の中に吸いとられていたのである。

 そのころ、時聚による踊り念仏は全国に広まっていた。世間では時聚とは呼ばずに一向宗と呼んだ。一向俊聖(しゅんしょう)のはじめた一向宗と混同していたのである。開祖は、いずれも50年以上前に亡くなっている。。一遍の教義は、他力の念仏であったが、自力をすてて他力に帰することを重大視するような他力ではなかった。親鸞の自然法爾(じねんほうに)に通じるものがあるが、自力他力を超越し、身心を放下して、無意識的に一切の我執をとり去り、ひたすら念仏するときは必ず往生をとぐと説くものであった。ひたすら念仏することで、踊りの境地に入るのだ。その踊躍(ゆうやく)念仏が、高田教団に入って行く。


「蓮如(三)」
本願寺衰退の巻
丹羽文雄
中公文庫

 覚如は、弟子であり、存覚の義父でもある愚拙の勧めを受け、存覚の義絶を解く。存覚は49歳になっていた。覚如としては、大谷廟所の再建とともに、本願寺の寺院化を関東の教団に認めさせるには、存覚との和解が必要だと感じていた。ところが、関東の教団は、大谷廟所の再建の必要性は認めたが、本願寺の寺院化には反対した。関東の教団が不信を抱く主因は覚如自身にあるのだが、何の為に存覚の義絶を解いたのかとしか覚如は思わない。これでは意味がなかったとさえ思っていた。親鸞は、「聞(法)」の意味を衆生と仏の関係において捉えていた。ところが覚如は、仏と衆生の仲介者としての「善知識」を間に置いていた。親鸞の革新的な思想より、その解釈が一般に取り入れやすいからでもあった。覚如は、善知識を自分のことに置き換えていたのだ。心の底では、人望がある存覚のことを恐れていたのだろう。4年の後、覚如は再び存覚を義絶する。覚如は71歳になっていた。

 その後、再び存覚の義絶が解かれるが、覚如は心の底から存覚を許してはいなかった。自分の死後に、大谷廟堂を存覚が継ぐことがないように、置き文をしたためている。誰にも何も言わず、置き文という陰湿な手段を残しているのだ。事実、留守識は、次男の従覚が辞退したため、その次男である善如が継ぎ、大谷四世となる。従覚の長男は、早世している。覚如は、82歳で亡くなる。波乱と執念の人生であった。偏執ともいえる性格は、丹羽文雄の描く、性的に倒錯した稚児時代の所以を偲ばせられる。世は、南北朝時代であり、後醍醐天皇は既に亡いが、足利尊氏、直義兄弟と高師直(こうのもろなお)兄弟が複雑な権力争いを繰り広げている世相である。20余年に渡る内乱は、常に京都が最後の決戦の舞台となった。南北朝も幕府も、そこに罪のない人々が生きていることを忘れて、戦った。京都は、焼け野原となり、累々たる屍が横たわっていた。「太平記」の世界である。

 1275年に生まれた夢窓疎石は、1325年には後醍醐天皇の再三の要望により、南禅寺の住持となり、北条氏の帰依も受ける。北条氏滅亡後も、足利尊氏を初めとする足利幕府の帰依も受け、生涯にわたり、歴代天皇からも国師号を賜与され、1351年に亡くなる。夢窓疎石が広めた臨済宗(禅宗)は、南北朝の公家朝臣ばかりか武家のあいだにも、崇信を得


て隆盛を誇っていた。叡山は、親王を門主に仰いではいたが、とうに盛時は過ぎ去っていた。叡山は、いたずらに既得権益を主張した。当時、人気を誇っていた仏光寺ごとき小さい一寺にも注文をつけた。その時代、大谷廟堂は、寺院としての格式もなく、後に蓮如が得度を受けることになる、天台宗の寺院である青蓮院(しょうれんいん)の末寺として、ひっそりと佇んでいた。

 大谷四世となった善如を指導したのは、叔父である存覚だった。存覚を超える学識をもつものは、大谷にはいなかったからである。父の従覚にしても、善如にしても、覚如がこれといった学問の師につけていなかった。事実、真宗全体を見渡しても、存覚を超える人材はいなかったであろう。後世、親鸞の再来といわれる蓮如に、存覚の著作に不審な点があると問われた時に、蓮如は、名人の書いたものとして、かれこれあげつらうべきではないと答えている。善如が大谷廟所の四代目別当職を継いだのが1351年だったが、1375年に43歳の壮年で隠棲し、26歳の綽如(しゃくにょ)に別当職を譲っている。綽如は、富山県にある井波瑞泉寺の創建者としての記録があるが、これといった活躍はしていない。

 この時代は、細川頼之が幕府の管領となり、足利幕府も比較的安定していた。本願寺の人々が猶子の関係を結んでいた日野一族は、幕府、さらには天皇家との血の繋がりが進み、繁栄を極めていた。しかし、本願寺にはまったく日があたっていなかった。とはいえ、覚如が定めた、本願寺の寺院化は、綽如の時代には曲がりなりにも達成されようとしていた。逆にいえば、関東の教団とも関係が薄れていたのである。

 1392年、足利義満のとき、「南北合体」が成る。南朝が消えた。1392年は、倭寇を討って武名をあげた李成桂(りせいけい)が、高麗王朝を倒して、朝鮮王朝を建てる。中国では、前述したように1368年に、朱元璋(しゅげんしょう/太祖)が元を北方に駆逐して明を建国している。その西方では、モンゴル帝国の凋落とともに、モンゴルの後継政権であるティムール朝が興っている。ティムール朝は、インドやシリア、イラクにも進出して、1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国をも打ち破る。西洋が大航海時代を迎える直前の時代である。


「蓮如(四)」
蓮如誕生の巻
丹羽文雄
中公文庫

 このころの本願寺は、祇園社の北側に道をへだてる真言宗白毫寺(ぴゃくごうじ)の一郭に、小さく親鸞廟堂本願寺として寓居していたにすぎない。本願寺留守職は六世巧如(ぎょうにょ/ごうにょ)になってた。綽如が越中の井波に瑞泉寺を建立したが、既に亡く、瑞泉寺は無住のまま捨てておかれていた。

 1415年、後の本願寺七世存如の長子として、蓮如が生まれる。本願寺五世の綽如は既に亡く、本願寺の留守識は六世の功如の時である。足利幕府は、金閣寺を建てた義満から義持に代わっている。足利義満は、臣下として明へ朝献し、通商の益を得ていたが、義持は明との勘合貿易を取りやめた。次男を偏愛した父義満に対する長男の趣旨返しともいえる。

 蓮如が6歳の時、父存如が本妻を迎えるが、蓮如の実母は家を出て行方知れずとなった。後の、義母との確執がここに始まる。丹羽文雄は、蓮如を生んだ女は、永久の謎と書いているが、自己の生い立ちとオーバーラップしているのかも知れない。

 覚如以後、善如、綽如、巧如、存如の四代は、本願寺の不振の時代といわれている。しかし、覚如は本願寺を寺院化することによって、本願寺を頂点とする教団の統合を計画した。その手段としては、本尊、聖教の下附権を、一手に握ることであった。親鸞のようにひとりひとりを教化するのでなく、本尊、聖教の下附によって、一挙に数多くの門徒を掌握するのである。覚如の長男の存覚は、さかんに門徒に本尊の裏書や、聖教書写をあたえていたが、そうすることによって、本願寺との本末の関係が生れていた。綽如は、越中の井波に瑞泉寺を創立したが、北陸を中心として、綽如、功如、存如の子息や弟子が少しずつ本願寺の寺院系列化を確立していきつつある時代でもあった。

 しかし、覚如の本願寺による統一は、関東を中心とする地方の教団を大谷廟所から遠ざける結果にもなっていた。関東の教団は、本願寺に対して冷淡になったが、門徒が長い道中を厭わず、京都東山の大谷廟所に参詣するものは、少なくはあったけれども、絶えることはなかった。親鸞が没してから、蓮如が生まれるまで、約150年の歳月が横たわっていた。



本願寺五世の
綽如が創建したと
伝えられる

井波の瑞泉寺
2009年11月9日撮影

 蓮如は、父存如に付いて学ぶことになった。覚如は、幼くして慈信房澄海などから、聖道、浄土両問を学んだが、それが後年における思想の円熟に大きな影響を与えていた。しかし、蓮如は最初から真宗の教義に習熟するような環境におかれていた。大谷廟所には、親鸞の著作をはじめとして、唯円の『欺異抄』や、覚如、存覚らの著作が多く残されていた。

 蓮如は15歳のとき、一宗興隆を決意する。親鸞の正統性を主張する本願寺からみれば、名帳や絵系図によって繁昌する仏光寺や、高田派専修寺の、唯授一人口訣や『愚禿親鸞夢想記』に拠るのも、異端に違いなかった。蓮如は浄土真宗の現実をみるにつけても、本願寺をもって真宗諸派の中心的地位として位置づけねばならないと考えた。そのためには親鸞教学の正統を学び、異端の研究にとり組まねばならないと思った。

 平安末期から始まる末法の世は、既に400年近くを経ていた。権力に虐げられ、それに甘んじる民衆の姿は失われつつあった。武士は恩顧所領により、どうにでも動く時代であり、僧侶、寺院にとってもそれは同じであった。人々が、我利我欲を競い合い、自己を主張し始めた時代でもあった。宗門の間でも、それは激しく争われた。日蓮宗においては、分派ができると共に、その分派同士の争いが激しくなっていく。

 20歳を超えた蓮如は、父存如とともに各地で法話をするようになっていた。その平易な語り口は、際立っていた。当時の法話には1つの型があった。開口一番、難解な、専門的な教典の文句を投げつけるのがそうだった。おのれの知識をひけらかすことによって、聴聞者は気押された。しかし、蓮如はやさしい言葉遣いで語りかけるのだった。蓮如ほど、親鸞の浄土真宗の面目を深く鮮やかに継承した人はいなかった。その軽妙さは、父存如にも、祖父功如にも、覚如にも存覚にもなかった。

 少し前に、浄土真宗の本福寺が堅田(大津市の北)に創建された。その後、一時期臨済宗に改まっていたが、3代目にあたる法住と4代目の明顕父子が浄土真宗に復帰していた。後の「堅田門徒」と称せられる勢力を築くことになるのだが、蓮如が厚い支持を受けることになる土壌がそこで育まれるようになっていく。やがて、蓮如が「寛正の法難」によって大谷本願寺を延暦寺によって破壊されたとき、堅田に避難している。



 蓮如は、27歳で妻帯する。伊勢下総守平貞房(さだふさ)の娘であった。如了(にょりょう)である。貞房は、幕府内でかなりの地位についていた。蓮如は、本願寺の居候には変わりなかった。長子ではあるが、庶子であることから、本願寺の家計を仕切っていた義母からは疎まれていた。

 とはいえ、蓮如の新しい生活が始まった。浄土真宗では、妻帯を公然と認めていたが、他宗には認められないことであった。蓮如は、親鸞の苦しみを思った。叡山を下りた親鸞は、妻帯するまでに、そのことでどれほど苦しみ悩んだことか。親鸞が亡くなってから、すでに180年近くが過ぎていた。大谷廟所の留守職は、七代目となっている。誰も親鸞が苦悩したところに立って、おのれの所業をかえりみるものはいなかった。まるで代々の住持は、愛欲に関する罪の意識を、親鸞ひとりに任せてすませてきたかのようであった。経典の中には、変成男子(へんじょうなんし)という言葉があるが、女子が変じて男子となるという意味である。女人には五つの障りがあるので、仏にはなれないゆえ、この世にあって、あるいは浄土に生れて、男身を得て成仏するというのである。『法華経』の梵語の書には、女根がなくなって男根が現われるとある。

 蓮如は、覚如や存覚の辿った道を確かめるように、関東へも行く。そのころの関東は、かつての勢いも失せ、九代目の定顕がいる高田派専修寺(当時は、栃木県真岡市高田)がかろうじて寺勢を残しているだけであった。それだけ、関東と本願寺の縁も薄くなっていた。高田派専修寺は、十代目の真慧(しんね)に至ると1469年頃に三重県の津市に移り、現在も続く広大な伽藍を築くことになる。

 本願寺に参詣する門徒の数は、ようやく目に付くようになっていた。琵琶湖周辺の門徒をはじめ、北国や東国からの参詣もあった。再建された阿弥陀堂と御影堂が、かれらを迎えた。北国や東国の参詣者のほとんどが、蓮如の法話に期待するようになっていた。当時の本願寺には、上段の間があったが、蓮如は決して上段の間に坐らなかった。蓮如のふるまいは、単に存如の代理というだけでなく、それ以上の感銘を門徒にあたえた。国家鎮護を標榜する聖道門による加持祈祷などでは、個人の心は救われなかった。蓮如の説く真宗の教えは、ひとりひとりの心を問題にした。人々は、はじめて自分の宗教をもつことができたのだった。覚如も存覚もそして祖父の功如も父の存如もなし得なかったことを蓮如はやろうとしていた。親鸞の教えが、新しく、力強く甦ったのだった。


「蓮如(五)」
蓮如妻帯の巻
丹羽文雄
中公文庫

 蓮如が37歳のとき、5人目の子の蓮綱を加賀の松岡(まつおか)に下すとの記録がある。蓮如の子供たちは、長男の順如を除いて、みな喝食(かつじき)や比丘尼(びくに)として外に出された。蓮如は、後妻を含めて27人もの子供を残している。驚くほどの数である。家計のために、子供を外に出さざるを得なかったのだが、それらの子供達が、その後の地方の本願寺化を伸ばす原動力ともなっている。今日の発展の礎となったともいえるのだ。

 丹羽文雄は、蓮如の言葉を借りて、同じ時代に生きた一休禅師を批判している。彼の行動と思想は、風狂という枠を超えるものではなかった。師の華叟(かそう)が渡そうとした印可状なども断っている。そして、人を介して渡されたとき、それを人前で破り捨てている。一休のふるまいには、いつも見物人が必要だった。兄弟子の養叟(ようそう)への罵詈雑言も執拗だと批判する。蓮如の一休批判は、裏返せば、蓮如の生き方であった。親鸞の死後、既に200年近い年月が過ぎていた。そのころの朝廷は、幕府の権威の前に、凋落の一途だった。常に、幕府の顔色を伺っていなければいなければならない存在であった。その朝廷に、いつしか浄土宗が入り込むようになっていた。天皇は、法然を中心とした浄土宗に関係した法文を書写することで日を送った。

 1457年、父存如が62歳で亡くなる。蓮如は43歳になっていた。存如は、代々続けられていきた本願寺住持の譲状を書いていなかった。25歳になっていた実子である応玄を留守識にしたい義母の如円は、存如の居間や文箱をくまなく探した。しまいには歴代住持の譲状のしまってある古文書の箱まで探したが、見つからなかった。如円は、存如の弟である空覚とともに、正嫡である応玄を喪主として存如の葬儀を執り行う。留守識就任を既定の如くなそうとしたのだ。庶子である蓮如は、黙していた。存如の弟である如乗の到着を待っていた。

 だが、本願寺を支えている琵琶湖周辺の門徒を始め、北国や東国からの参詣者たちは、すでに蓮如を慕っていた。青蓮院で聖道門を学んでいる応玄には、親鸞の教えを伝える技量など持ち合わせていなかった。加賀二俣本泉寺如乗の上洛により、一気に形勢は逆転する。そして間もなく、義母如円は応玄やその妹たちとともに、親鸞ゆかりの品々を持ち、大谷を出ていく。それは、夜逃げにも近いものだった。蓮如が本願寺を去らざるを得ない事態が除かれたのだった。


 本願寺の母屋に移って、正式の留守識となった蓮如は、本願寺の改革に手をつける。それまで、留守識が人と会うときは、御亨の間と呼ばれていた部屋が使われたが、そこには上段の間があった。一段高い位置に、留守識が座るのだった。三代目の覚如の時代に作られたが、五代目の綽如が、調度品などで飾り飾りたてていた。その上段の間を撤去したのだ。住持が座る椅子なども撤去された。その威儀は、禅宗の模倣であったからだった。蓮如は、教線を拡張するために、六字の「南無阿弥陀仏」ではなく、「帰命尽十方無碍光如来」のいわゆる十字の名号を用いた。蓮如が自ら金泥の筆で書き、同じ金泥の後光をその背後に放射するように描かせたものは「うつぼ字の名号」と称された。親鸞の教えに従う限り、簡素にすべきと考えたからであった。僧衣も禅僧が着ている黄袈裟や黄衣を改め、黒一色とした。

 7人の子を産んだ妻如了が亡くなるが、その実妹の蓮祐を後添えに迎える。蓮祐とは、その後10人の子をなしている。時代は、将軍義政が成人し、正妻の日野富子が専横の限りを尽くし始める時代となっていた。飢饉による餓死者が数万人も発生しても、幕府は何らの対策も講じなかった。自分たちがなすべきことと感じていないようであった。朝廷には、何の力も備わっていなかった。将軍義政は、室町御所の復旧や庭園づくりに熱中していた。親鸞が亡くなって、200年近い歳月が流れていた。西に目を転ずると、モンゴル帝国は既に緩やかな連合体となり、中国は明の時代である。第1次の鄭和の大航海から既に半世紀が経っていた。西洋では、大航海時代が始まっている。

 間もなく、義母の如円が亡くなると共に、持ち去られていた古文書が戻ってきた。その中に「歎異抄」の書写があった。今日流布されている「歎異抄」には、本文と末尾の履歴があり、最後のところに蓮如の奥書がある。原文は漢文だが、「右この聖教は、当流の大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては、左右なく之を許すべからざる者なり。釈蓮如(花押)」つまり無知蒙昧のものには読ませてはならないと書かれている。親鸞の時代とは異なり、蓮如が相手にしていた聴聞者は100人以上の規模であった。一対一に近い法話であれば、「歎異抄」を誤解なく伝えることも可能であったろうが、その規模では誤解を生み、しいては「本願ぼこり」を生じさせる危険性があったのだ。蓮如は蓮如のやり方で本願寺を発展させようとしていた。




「蓮如(六)」
最初の一向一揆の巻
丹羽文雄
中公文庫

 本願寺は、未だに青蓮院の境内にあった。蓮如は小さな山門を建てた。山門を建てたことにより、外見上、少しは独立した感じを与えるようになった。本願寺は、「親鸞二百回忌」を盛大に執り行う。境内は、おびただしい門徒で溢れた。叡山に、これが聞こえていないはずはなかった。

 1465年、本願寺は、山門(延暦寺)により、2度に渡って襲われ(寛正の法難)、青蓮院の一隅、わずか300坪余りの敷地にあった本願寺は、跡形もなく破却される。真宗を邪宗と決めつけ、邪を正さんがための暴挙とされたが、山門の末寺としての礼を尽くすことを、即ち「礼銭」を求めていたのだった。事前に察知していた蓮如らは、親鸞祖像などを含めて、避難をしていたが、堅田聚たちの助けを借りて、山門との和議を余儀なくされる。

 山門と和議した本願寺に平和が戻ったが、京都は不穏な動きに包まれていた。「応仁の乱」が起きようとしていたのだ。足利将軍家を巡る守護大名たちによる争いは、京都から地方へと戦線が拡大していく。蓮如は、堅田に移転する。しかし、堅田も安住の地とはならなかった。蓮如たちは、大津三井寺南別所の近松寺の隣りに顕証寺を建てた。三井寺の園城寺の庇護の元に、山門の迫害を避けたのだ。京都もその後、堅田も焼け野原となっていく。

 蓮如は、興福寺大乗院の所領であった吉崎(現在の福井県あらわ市吉崎)に、1471年、越前守護朝倉孝景の了承を得て、別院を建てる。北陸方面の布教の拠点とするためだった。大乗院の門跡は、経覚(母が本願寺の出身)だった。吉崎別院は、蓮如の評判を聞いて、北陸に限らず遠方からの参詣人で溢れた。吉崎の寺内町は坊舎や宿坊で繁盛する。蓮如が、叡山の報復を恐れて、吉崎参詣の禁止令を出すほどであった。しかし、禁止令の効果はなかった。有力な地方の寺々の住持たちは、吉崎参詣を勧めた。蓮如は、おびただしい数の御文(おふみ)を書いている。その文章は、簡単明瞭で、判りやすかった。仮名書きの平易な文章は、親鸞の文章よりも明確であった。蓮如は、御文によって、信心ということを強調した。




 荘園制が崩れた時代であった。二毛作も始まり、肥料を使ったり、鍬による深掘りをしたり、農業技術の進歩は、百姓を身分的にも経済的にも上昇させた。浄土宗の諸派は、依然として臨終の正念や来迎を説いていたが、蓮如は来迎を説かなかった。百姓が苦悩に満ちた現世に絶望して、極楽往生をひたすらに求めたのは過去のこととなっていた。門徒は、平生業成(へいせいごうじょう)を信じた。一念発起(いちねんほっき)すれば、ただちに往生は定まるという蓮如のことばを信じた。蓮如は、本願寺の留守識継承を長子の順如に定めるが、順如は病弱を理由に辞退する。留守識継承権は、五男の実如に変わる。実如は、未だ少年であった。蓮如は、50台後半になっていた。

 蓮如は、生涯に5人の妻を娶り、27人の子供を残している。しかし、一度として同時に二人の妻を持ったわけではなかった。自分の生まれが、父存如の不倫によるものであり、長子でありながら、留守識継承が簡単ではなかった。親鸞は、二人まで妻があり(異説もある)、六人の子女をもうけ、「愛欲の公海に沈没し」と妻を娶ることを罪の意識として、生涯に渡り悩んだ。そのことを蓮如は忘れたことはなかった。だが、本願寺王国を築くに当たって、多くの子供達が大きな役割を果たすことになる。蓮如の二人目の妻蓮祐は、最初の妻如了の妹だったが、その蓮祐亡き後、蓮如の身の回りの世話をしていたのは、次女の見玉(けんぎょく)だったが、その見玉も若くして亡くなる。

 本願寺三世の覚如は、本願寺の本山化を目指したが、抵抗を受け挫折した。時代が求めていなかったのである。しかし、八世の蓮如に至り、その一族が要所に配置されることにより、中央集権化が成就する。それは、本願寺に限らず、浄土宗鎮西派にも、曹洞宗にも、臨済宗妙心寺派にも、その動きが生じていた。荘園制が解体して、地域ごとにク村が生まれ、村落共同体が機能し始める時代だった。百姓の主体的立場が社会的にも自覚され始めていた。百姓が圧倒的に多い真宗では、門徒の集団が教団としてまとまりを見せ始めていたのだ。その時代に蓮如が登場した。親鸞は、悪人成仏なる革新的な教えを称えた浄土真宗の開祖であったが、優れた伝道者ではなかった。蓮如は、乱世にふさわしい組織者であり、伝道者であった。


「蓮如(七)」
山科御坊の巻
丹羽文雄
中公文庫

 本願寺は、度々、一向宗と誤称された。やがて蓮如がその渦中に巻き込まれる一揆も、一向一揆と呼ばれた。本願寺も、一遍の時衆も一向俊聖の一向衆もともに、「南無阿弥陀如来」を称えたからである。蓮如は、浄土真宗と名のることを目指したが、それも叶わなかった。後の徳川時代に、幕府に対して、東西本願寺が合議の上、浄土真宗という称号を要求したが、浄土宗からの抗議により、挫折している。また、真宗では、諸神、諸仏菩薩を弥陀の眷属(けんぞく)として、弥陀一仏に帰趨させようとしてきた。仏や菩薩が人々を救うために、いろいろな神の姿を借りて現れたという本地垂迩(ほんじすいじゃく)思想によりながら、存覚は一向専修の理論体系を築きあげようとした。この考え方は、覚如の『御伝鈔』にもあるが、それが長らく真宗の神祇観の根本となっていた。蓮如もその論法を受け継いだ。

 法然は神明の礼拝を拒否したが、親鸞も拒否した。本願寺の代々の住持も、それにならった。が、本願寺の門徒は、これまで長い間なじんできた神の観念を器用にすて去ることは出来なかったからである。村々には、昔からの鎮守神があり、それが村落共同体の精神的中心となっていた。ところが、社領によって結ばれている大社などの神々とは、村の鎮守とは異なることに人々は気付いた。真宗に転向した人々は、熊野大神を恐れなくなったのである。領主の威圧にもかかわらず、門徒農民は行動的になっていた。

 蓮如は、唯円の著した『歎異抄』を繰り返し読んでいた。歎異抄の初めの方は、親鸞のことばがそのまま筆記されていた。それには、唯円の注釈がなかったからである。しかし、後半は親鸞のことばを引用しながら、唯円が自分の思想を述べていた。唯円が宿業ということをむやみに言い立てることが気になっていた。蓮如は親鸞の著述を隅から隅まで読んでいたが、宿業ということばをほとんど見つけることはできなかったからである。また、親鸞の書翰や歎異抄自体の表現が読みにくく、聞きにくく、解しがたく、誤解を招く恐れがあった。さらに、蓮如には、唯円が、親鸞のことばを正しく受けとめることができていなかったと思われた。本願ぼこりを起こす心配があったのである。蓮如は、複雑な気持ちがあったが、勇気を持って歎異抄を禁止する。

 1474年、加賀において最初の一向一揆が起こる。蓮如は、一向宗と呼ばれることを嫌っていたが、その気持ちは世間には通じなかった。それまで味方であった加賀の守護富樫


政親に対する抵抗であったが、本願寺としては、高田派に対する宗教戦争であった。そして、高田派の坊主や門徒を加賀から追放することに成功する。蓮如は、御文を度々出して、一揆のブレーキを図ったが、門徒の行動には蓮如の力の及ばないところとなっていた。丹羽文雄の「蓮如」では、蓮如は、長子の順如に諭され、吉崎退出を決意する。主のいなくなった吉崎御坊は、争いの意味を持たなくなるとみたからだった。蓮如は、船で小浜まで行く。加賀における一向一揆を蓮如がどう関わったかという考え方には、色々な見方があるが、丹羽文雄は否定的な立場を取っている。

 蓮如は、小浜に100日間滞在する。吉崎からは、蓮如を追いかけてくる人びとがいた。そのころ、京都は戦禍もあったが、地震、台風、大洪水、付け火に襲われた。琵琶湖畔の大津には、順如が親鸞の彫像と共に守る顕証寺があったが、そこには向かわなかった。顕証寺に人びとが群集することを恐れたからであった。蓮如は、淀川の南岸にある河内の出口(京都と大阪の間)を拠点として、近畿地方の道場を経由して、教法を拡げようとした。後に、出口御坊と呼ばれる光善寺があるところである。1476年、蓮如は、62歳になっていた。また、かつては本願寺をはるかに凌ぐ勢いを示していた仏光寺が分裂し、仏光寺住持であった経豪が本願寺門下に入る。また、真宗の一派であった木辺錦織寺(きぺきんしょくじ)も本願寺門下に入ることになる。

 かつては、本願寺よりもはるかに参詣人が多く、ある意味、浄土真宗の本流とも見なされていた高田派専修寺においても衰退が始まっていた。蓮如と競った十世真慧は、関東下野から伊勢一身田に専修寺を移したが、代々続く秘事法門を継承していた。一向一揆によって滅ぼされた富樫政親の未亡人が、2歳の一子を連れて真慧を頼った。のちに真慧の室に納まることになるが、その一子が後に専修寺十一世となる応真だった。ところが、応真は、生来の武門の血からか、加賀に帰り武力を持って家門再興を目指し出奔する。困った真慧は、後柏原天皇の皇子常磐井宮の第3子を後継として迎え、真智とする。結局、武門再興を失敗した応真が戻ってくるのだが、その二人の後継者争いが起きるのだ。それぞれが綸旨を巡って、正統者争いを繰り広げる。朝廷から綸旨を受けていたため、身分の上では、本願寺のはるか上の存在であったが、末寺や門徒の数の上では、遠く本願寺に及ばなかった。こうして、浄土真宗は、本願寺を頂点として、組織化された存在となっていく。



越前吉崎御坊にて
(現在の福井県あわら市)
2009年11月11日撮影

 応仁の乱は、応仁元(1467)年に起きている。それから文明9(1477)年に至る、応仁・文明の乱ともいわれる約10年間の内乱である。8代将軍足利義政の継嗣争いを発端として、東軍細川勝元と西軍山名宗全らの守護大名が複雑な争いを演じた。乱は、全国に波及した。しかし、細川勝元は、1473年に死去、山名宗全も同じ年に後を追うように死去している。争いの首謀者がいなくなっても、泥沼の状態から抜け出せないでいた。将軍義政は、酒宴、連歌会などにうつつを抜かし、天下の政治は将軍の妻である日野富子が引き回していた。天皇家や貴族には、政治を見る力も気力もなかった。没落貴族が輩出し、地方へと下っていた。時代が変わろうとしていたのだ。そのような時代に、蓮如が本願寺を率いた。しかし、加賀の一向一揆は、蓮如といえども、制御することはできなかった。蓮如は、吉崎から逃げ出すしかなかった。勝敗の付かない戦いも、ようやく終息を迎えようとしていた。

 応仁の乱では、京都の町も各宗派も打撃を受けた。寺は焼かれ、寺宝や財物を略奪された。寺々は、焼かれたままになったり、寺を捨てて逃げ出したりしていた。その中で、富裕な町衆の強力を得た日蓮宗のみが、復興を果たそうとしていた。京の町には、町衆の大部分を支配するかのように「南無妙法蓮華経」の唱和が流れた。天皇家を初めとする貴族の中には、法然の浄土宗の影響を受けるものが多くなっていた。しかし、貴族には、経済力も政治力もなかった。そのころ、将軍義政の近侍者には、芸能や文化の面に優れた同朋衆と呼ばれる者達が仕えるようになっていた。同朋衆の中には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥のいわゆる三阿弥などが含まれていた。

 網野善彦の「日本の歴史をよみなおす」では、鎌倉新仏教といわれる禅宗や日蓮宗、浄土宗、時宗、浄土真宗では、「無縁所」と呼ばれる寺院が多く現れるようになるという。それらは、特定の檀家や有力な外護者から土地の寄進などをうけて寺院を運営するのではなく、祠堂銭(しどうせん)の貸し付けという商業的な行為を行い、金融と勧進で寺を運営していたという。特に、浄土真宗では、道場の周辺を区画して、寺内町(じないまち)を形成、これを「聖地」として、そこに商工業者を集めて町をつくって、「志」という寄付金によって支えられていたという。

 蓮如は、京都の東の地、山科に広大な土地を得て、本願寺を再建する。そのとき、親鸞の御彫像は、三井寺にある顕証寺に一時預かりの状態であったが、三井寺が御彫像の移動に反対するということもあった。大津の三井寺は、親鸞の御影


像のために、自分のところの寺中も、町屋も大いに繁昌していた。近松附近には、立派な門前町も出来た。附近の寺院は、宿院として思いもよらない金子が入っていたのだった。実際の移動の時も、事件は起きたらしい。まことに皮肉なことである。

 蓮如は67歳で、4人目の妻宗如(しゅうにょ)を迎えている。そのころ一休禅師が88歳で亡くなっている。自由奔放に生きた人であった。丹羽文雄は、作中で蓮如のことばを借りて、一休が晩年に仕えた盲目の森女(しんにょ)に対する無責任さを非難している。山科本願寺は、阿弥陀堂と御影堂に続いて、寝殿、庭園、寝殿大門、小堂、御影堂大門、掘、堂屋などが建てられていく。東山大谷の本願寺が大谷殿と称するように、大津の顕証寺は近松殿と呼ばれ、山科本願寺のことは野村殿と呼ばれるようになった。環境は変わっても、蓮如の布教方法は変わらなかった。常に平座にて、誰とでも雑談をしていた。その態度は、親鸞そのものだったといえる。

 蓮如が吉崎を退出してから、加賀の国人、農民門徒は、守護の武力に対して真っ向からぶつかっていくようになっていた。本願寺門徒は、人海戦術で敵を圧倒していた。彼らは単なる農民だけではなかった。農民を指揮していたのが、国人といわれる地侍であった。旧来の荘園制度が崩れ去っていた。瑞泉寺は、礪波(となみ)郡で坊主大名といわれるようになっていく。瑞泉寺の住職は、蓮如の次男蓮乗であった。加賀波佐谷松岡寺の蓮綱(れんこう)は3男、加賀山田光教寺の蓮誓は4男、加賀若松本泉寺の蓮悟(れんご)は7男だったが、蓮如の心配を他所に、彼らは蓮如を煙たい存在とみなしていた。蓮如には、4人目の妻宗女に19子(12女)となる蓮周(れんしゅう)が生まれていた。

 室町幕府九代将軍足利義尚(後に義煕と改名)は、父である前将軍と不仲になっていたが、自分を将軍にしてくれた母日野富子とも不仲になっていく。幕臣たちの内紛がその背景にあるが、気性の激しい性格が原因でもあった。近江の六角追討に自ら出陣するが、その陣中において病死する。過度の酒色が原因といわれる。享年25歳であった。そのころ、山科本願寺では、蓮如が南殿に隠居する。長男である順如が本願寺住持を辞退していたため、二人目の妻蓮祐の最初の男子(全体では5男)である実如が後を継ぐ。実如は、石橋を叩いて渡るような性格であった。蓮如は、実如の性格を見抜いていたのだ。蓮如は、75歳になっていた。1489(延徳元)年のことであった。



大阪城
石山本願寺があった
2010年3月13日撮影

 蓮如は、山科本願寺の南殿に隠居して、北殿の実如の妨げにならないように気を使って、10年余りの余生を送った。しかし、南殿に隠居したとはいえ、蓮如の身辺は以前と少しも変わらなかった。1496年には、大阪石山(現在の大阪城付近)に石山御坊(後の石山本願寺)を建立し、蓮如はたびたびそこで暮らすようになった。そこにも門徒は集まった。蓮如の85歳に渡る人生は、真宗の伝道者としての布教に明け暮れたといえよう。

 親鸞の周囲には、高田門徒などの多くの教団が輩出した。親鸞の教えがますます栄えるかと思われたが、善鸞の義絶という事件も起こり、各教団はばらばらとなり、異安心がのさばるようになった。それを憂いて、唯円が「歎異抄」を書くのだが、唯円の労作は、ごく一部の人にしか読まれることはなかった。誰かが歎異抄を写して、本願寺に納めたが、覚恵、覚如、存覚から連如以前の留守識の目に留まることはなかった。仮に目に留まったとしても、蓮如以外はそれを十分に読みこなすことはできなかった。蓮如は、その内容に驚嘆し、恐怖を覚え、歎異抄を禁止とした。

 親鸞の教えは、庶民を相手にした宗教であった。弥陀の救済は、無条件であると教えた。「浄土三部経」を説いたのは、善導大師であったが、それを一宗まで高めたのは、法然であった。浄土宗は、庶民の救済を目指した。親鸞は、最後まで法然の弟子として過ごしたが、自己を見つめる徹底さには凄まじいものがあった。法然の浄土宗をさらに深めたのである。本願寺三世の覚如は、本願寺の一宗としての基礎を作ろうとしたが、果たせなかった。その願いは、蓮如によって成就されたのだ。蓮如による説法は、わかりやすくて、門徒には適切であった。親鸞の教えが難解であったことは、歎異抄をみればわかる。蓮如は、御文においても、親鸞の教えを簡潔に要約した。弥陀の救済は、無条件であると教えた。誤解を招く表現は使わなかった。蓮如の御文は、辞句の使い方やテニヲハなどの細かいことに拘っていなかった。

 親鸞は、無常ということばをほとんど使わなかったが、蓮如はためらわず使った。蓮如は伝道者であった。北陸地方では、今でも蓮如のことを「蓮如さん」とさんづけで呼んでいる。いかにも蓮如に相応しい呼び名である。誰も親鸞のことを「親鸞さん」と呼ばないように。その違いがあった。北陸地方で


は、秋の「親鸞報恩講」が過ぎると厳しい冬を迎え、豪雪の季節となる。やがて春となり、雪が消え、梅や桜の花が咲き始めたとき、「蓮如忌」が始まるのだ。蓮如忌は、吉崎の東西両本願寺別院で、10日間にかわって営まれる。全国から参詣者が集まるという。

 蓮如は紋のないものを着ることを嫌い、ことさら立派に見える墨黒い衣をきることを嫌った。蓮如は生涯、薄墨色の紋のある衣で押し通した。香衣であろうと、紫衣であろうと、本人が言い出せば、誰も文句はいわなかったであろう。山科本願寺は次第に道場的な雰囲気が失われ、堂々たる寺院に生れ変っていた。それにふさわしい香衣や紫衣を着ようと、むしろその方がふさわしかった。9代目実如は、香衣をきた。10代目証如は、紫衣を用いた。色衣は蓮如が死ぬと、その時を待っていたかのように用いられるようになっていた。本願寺の留守識は、かつては親鸞廟の給仕、管理がその主務であったが、いつのころからか真宗王国の法主(ほっす)に変わっていた。

 蓮如は、明応8(1499)年3月25日、本人の希望で、大阪御坊から山科本願寺に移っていたが、そこで亡くなる。織田信長が生まれる35年前であった。既に足利幕府の軍事的基盤はなく、世は戦国時代である。

 大陸の方では、明(1368〜1644年)がモンゴル帝国を北に追いやり、中国を統一していたが、そのころモンゴル王朝の再統一を目指していたダヤン・ハーンは、たびたび明の北辺を脅かした。また、倭寇が東南の沿岸部を脅かしていたため、北虜南倭と呼ばれる時代に当たる。そのころの韓国は、李氏朝鮮(1392〜1910年)の時代に当たり、明から朝鮮国王として冊封を受けていた。

 ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガル王マヌエル一世のインド航路開拓の命を受け、アフリカ南端の喜望峰を通過して、インド南西のカリカットに到達して、壊血病に苦しみながら、1499年にポルトガルに帰還している(第一次航海)。西洋は大航海時代にある。マゼランがスペイン王カルロス一世の援助を得て、世界周航の旅に出発したのは、1519年。地球が丸いことが証明されたのは、その3年後のことであった。しかしマゼランは、その途中、フイリッピンにおいて戦死している。世界は、激動の中にある。


「蓮如(八)」
蓮如遷化の巻
丹羽文雄
中公文庫
蓮如-われ深き淵より-/五木寛之/中央公論社/中公文庫
/19980403初版/\476+税/290頁

 蓮如が39歳の部屋住みで苦労していたときから、本願寺の破却を経て、堅田から吉崎へ向かおうとしたころまでを描いた戯曲である。三浦雅士が五木寛之にインタビューをする形式で、「なぜいま戯曲を書くのか」という対談が添付されている。

 三浦雅士の言が気になった。小説が最後に輝いた時代というのは、60年代から70年代だった。純文学では高橋和巳が、中間小説では五木寛之が若い人たちの支持を得ていた。そこには、「青春」と「階級」があったという。ところが、1975年頃に登場した村上龍になると。表向きは石原慎太郎に似ているのだが、そこには階級がないという。描かれている青春はほとんどのっぺらぼうで、ずっと青春のままでいるというのだ。まさに、私が感じていたことだ。そして、最近は、言葉遊びが氾濫する「小説もどき」の時代を迎えているのではないだろうか。

 1461年の寛正の大飢饉では、8万2千人の人が京都で餓死し、加茂の河原に投げ捨てられた遺体で一杯になったという。その時、一遍上人や遊行の僧達が、施餓鬼とかボランティアをやっているが、蓮如はひたすら寺に籠もって御文(文章)の想を練っていたという。人びとは蓮如を非難したという。また、杉浦明平は「親鸞の詩的な飛躍とか感動に満ちた文体に比べて、蓮如の文章というのはなんと月並みで手垢にまみれている」とも非難しているという。

 五木は、そこに実弟の死にまつわり、体感した「白骨の御文章」の例をあげ、蓮如の文章は、確かに繰り返しが多く、月並




みな表現や諺が多いが、人びとがカラオケのように歌われることを意識して作られたものだという。字が読めない人も、声を出して歌うことで、丁度、江戸期から明治初期にかけて、原文不一致の文章を繰り返し音読して記憶したように、人びとの心の中に食い込んでいった、ギラッと光る文章だというのだ。

<白骨の御文章>
 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。 (御文章五帖目十六通)



蓮如
われ深き淵より
五木寛之
中央文庫
中央公論社

蓮如/五木寛之/岩波書店/岩波新書343
/19940720第1刷/195頁/\602+税

 幼くして父母と別れざるを得なかった親鸞、蓮如だったが、著者は親鸞に父親のきびしさ、蓮如に母の慈悲を感じるという。残された肖像画からのイメージもあるのだろうが、親鸞は心ある人びとの思索と信仰のなかに生き続けているが、蓮如は俗なる庶民の伝承と生活のなかに生きているともいえる。

 親鸞は90歳、蓮如は85歳まで生きた。当時としては、ずばぬけた生命力を持っていたといえる。蓮如は、寺の子として生まれたが、43歳までの長い下積み生活を経ている。しかし、時代が応仁の乱という戦火と騒乱にまみれたとき、みずから歴史とつくる人間として表舞台に乗り出し、捨て身の行動を開始する。蓮如は、それまでの天台宗風の格式を改め、人びとと膝を交えて接し、同朋同行(どうぼうどうぎょう)の友として人間的な連帯をつくりあげていく。それは、親鸞思想の真摯な実践だけからきたものとは著者はみなしていない。蓮如は、政治的手腕までも含めた、天性の総合力というべき力を備えていたのだ。だが著者は、蓮如を優れたアジテーターではあったが、必ずしも組織者として有能であったとは見なしていない。



 蓮如は、それまであった<惣>というものを、<講>というものへ、大きく膨らませていった。そして、<講の連合>という集団の共同体は、加賀あるいは石山に続く<共和国>の出現に至る。彼のシンパとなった民衆は、良民、常民といった人びとだけではなかった。地主、農民、地侍などの階層はいうに及ばず、当時としては偏見の目で見られていた職人、商人、工人、浪人、運輸交通労働者、海賊衆などが含まれていた。

 毎年、春になると吉崎では「蓮如忌」がおこなわれる。それが平成の今も続いていることに、著者は深い感動を覚えている。親鸞は、つよい人だった。自らを批判し、その悪の自覚を告白すればするほど、彼の聖性とつよさが輝くという。しかし、蓮如は、粘り強く、決断力もあり、たくましい人ではあったが、よわい人でもあった。蓮如は、さびれはてた寺に、「いやしき女」の子として生まれ、「卑種栄達」の俗人であった。蓮如には、「いやしきおのれ」への熱い自覚があった。そんな蓮如に、著者は深く引かれているという。




蓮如
五木寛之
岩波新書
岩波書店
蓮如/大谷晃一/学陽書房/人物文庫
/19980620初版/377頁/\660+税

 大谷晃一の「蓮如」は、蓮如の生涯の簡略版を読む思いだった。文章も内容も実に淡々としている。ただ、蓮如が生まれてまもない頃、祖父の功如が、始めて訪ねてきた堅田の法住たちに向かって、

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」

と語るくだりには違和感があった。丹羽文雄の「蓮如」では、功如は「歎異抄(善人なおもて・・・が出てくる)」の存在自体を知らなかったとしている。事実は不明だが、始めて訪ねてきた人に「善人なおもて・・・」を語るとは、少し創作が過ぎているのではないか。

 丹羽文雄の蓮如では、一向一揆の戦いの世界から蓮如は、一段、離れた立場であるが、大谷晃一の蓮如では、下間蓮崇(しもつまれんそう)に騙されているとはいえ、指揮官ともいえる存在だ。どちらかというとこちらに現実性が感じられる。

 ところどころ出てくる御文や和歌などのタイミングが良く、読み易い。蓮如は、次々と寺を造ったり、各地の寺を訪ね本願寺の傘下に入れていく。その現在の地名や寺院名を必ずといっても良いほど、列記していく。著者の丹念な性格が垣間見える。


「後文」で大谷はこう述べている。

  彼がこの世に出たのは、まさに乱世の幕開けにあたる。応仁の乱に出くわした。同じころ、出自さえ分明でない北条早雲が最初の戦国大名にのし上がってくる。蓮如も寂れた本願寺の興隆を志し、辛苦の八十余年の生涯に成し遂げた英雄である。もしも、もう百年遅く出現していたら、彼は天下人になったかも知れない。

 蓮如を、信長や秀吉、家康と比しているのである。北条早雲自体も、もう数十年遅く生まれていたならば、天下を取ったかも知れないといわれているが、まさに戦国時代の英雄として蓮如を描いている。











蓮如
大谷晃一
人物文庫
学陽書房
蓮如_菊村紀彦/菊村紀彦/社会思想社/現代教養文庫
/19970830初版/221頁/\520+税

 蓮如は、本願寺七世、存如の第1子として生まれるが、正妻の子ではなかったため、叔父・如乗の強い推挙が無ければ、本願寺の法主(八世)となることはなかった。蓮如が法主となったのは、43歳の時であった。それまでは、義母からは疎まれ、不遇を託っていたのである。蓮如の実の母は、義母が正妻として来る前、蓮如が6歳の時に家を出ている。

 その姿を、徳川将軍八代の吉宗や幕末の大老・井伊直弼に投影している。吉宗は、少年時代に過ごした下積み時代が、将軍としての治世に有効性を発揮した。井伊直弼は、家臣の屋敷である「埋木舎(うもれぎのや)」で下積みの時代があったが、この国の鎖国を開き、欧米文化輸入のきっかけをつくった先駆者であった。

 そして蓮如も、不遇な時代を過ごすが、法主となってからは、85歳で亡くなるまでに、浄土真宗のオルガナイザーとして、広大な布教活動をしていく。後代の織田信長でさえ、手をこまねいたのである。親鸞がせいぜい教化したといえるのは、1万人程度であろうが、蓮如は、少なくとも10万人から100万人ほどの人をやすらぎに導いたといえる。蓮如は、「歎異抄」を禁止にし、「教行信証」を庫に入れ、人びとが受け入れやすい「御伝鈔」や「御文(章)」を利用した。「御文(章)」は、音楽的な韻律を持っているため、文字を読めない人びとへも、最高の効果を及ぼしたのだ。
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 東本願寺では「御文(おふみ)」といい、西本願寺では「御文章(ごぶんしょう)」という
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 親鸞は、一切の奇跡的なものを排除し、他力念仏に徹しようとした。親鸞は、「来世」を説かなかったが、蓮如は「後生」を説いた。親鸞経から蓮如経へと変質していたともいえる。それが、蓮如がオルガナイザーといわれる所以であろう。蓮如が生まれる153年前に親鸞は亡くなっているが、親鸞の門弟が築き上げた念仏教団は、本願寺以外の宗派の活動の方がより流行(はや)っていた。極楽行きの登録を発行した仏光寺、一対一でひそかにあの世の契約を結んだ越前三門徒などだった。それらが、蓮如の布教活動が盛んとなるとともに、本願寺の傘下に組み込まれていった。

 しかし、筆者は最後にこう語る。現代では、もはや真宗教団が長年つくりあげてきたマンネリズムの答案では通用しなくなってきている。「御文(章)」の、あの見事なリズムとメロディーに美意識を感じるのは、感傷だというのだ。いまこそ、「非僧非俗」の親鸞に帰る必要があり、本願寺教団が、「蓮如宗」から「親驚宗」へ回帰したところに、ほんとうの念仏がわきおこるのではないだろうか、と結んでいる。

 だが、現在の真宗教団の礎をつくったのは、まぎれもなく蓮如だろう。親鸞なくして浄土真宗は生まれなかったのは確かだが、蓮如がいなければ、親鸞教が浄土真宗として現在の姿を為していたとは思えない。恐らくは、消えていたか、真宗の一派として微かに残っていたに過ぎないだろう。むしろ問題とみなければならないのは、親鸞に回帰するのではなく、蓮如亡き後に生まれて来た数々の虚式を見直すことなのではないだろうか。「来世」を説かなかった親鸞に還りたい心情は判らぬでもないが、むしろ、蓮如に還ることが、これからの浄土真宗のあり方ではないだろうか。



蓮如
菊村紀彦
現代教養文庫
社会思想社
蓮如/笠原一男/講談社/講談社学術文庫
/19960410第1刷/19980622第4刷/351頁/\1,050

 次の五章の構成で語られる。

  第一章 生と死の知恵
  第二章 史料で読む一揆と蓮如
  第三章 蓮如の生涯
  第四章 御文にみる蓮如の思想
  第五章 真宗にみる罪と罰

 蓮如の御文や実悟(蓮如の十男/21子)の記録などを丹念に紐解いている。実に読みやすかった。蓮如の真実の姿が浮かび上がってくるようであった。しかも、蓮如以後、門徒に引きずられて、戦国大名との争いにまで発展していく真宗であったが、信長との戦いに敗れ、純粋な宗教の世界に還っていく姿を、「真宗に見る罪と罰」を掘り下げながら、十代証如、十一代顕如までを描いている。巻末には、蓮如の年表が詳しく掲載されている。

 蓮如は、御文を何度も出して、一揆に対し、繰り返し抑制している。例えば、この六ヶ条があるが、蓮如の考え方がよく判る。

  一、神社を軽んじてはいけない。
  一、諸仏菩薩および諸堂を軽んずるな。
  一、諸宗・諸法を誹諾(ひぽう)するな。
  一、守護・地頭を疎略にするな。
  一、村むらにおける念仏信心のあり方が間違っている
     から、正しい教えに基づくようにせよ。
  一、真宗で定めた他力の信心を、内心に深く固めよ。

 だが、門徒達はその掟を守らない。抑制が効かなくなっていたのである。本願寺教団を破滅に追いやりかねない一揆に対して、蓮如のとった罰は、本願寺教団からの追放の罰であった。しかし、蓮如はそれ以上の罰、すなわち「往生の取消し」といった宗教的な罰は考えてはいなかった。それは、親鸞の教えにもあるように、往生の可否は、ただひとり弥陀の手にあったからである。坊主は、あくまでも単なる弥陀の代官であるというのが、念仏者の立場であった。








 ところが、蓮如・実如をへて、本願寺第十代法主証如(しょうにょ)の時代になると、かつて教団組織を乱す者に科せられた教団追放の罰に、宗教的救い、往生の取消しを意味する罰が加わっていった。次元が変わっていたともいえる。それは本願寺法主による「破門権」の掌握でもあった。破門権が本願時教団の組織からの追放の罰に加えて、往生の取消しの罰をも意味するようになったのは、本願寺教団の門徒(坊主・武士・農民)の政治・社会面における下剋上的言動の激化により、それを理由とする政治・社会・宗教などの諸勢力による本願寺教団への攻撃の危機を回避するためであった。

 堅田(かただ)の本福寺は蓮如にとって、本願寺にとって、恩義ある門徒集団であった。延暦寺悪僧の本願寺焼討ちをはじめ、たびかさなる延暦寺の武力攻撃から、蓮如を守りぬいたのが本福寺門徒であった。本福寺も第五代住職明宗の代にいたって、破門をうけること三度におよんだ。三度目の破門で明宗は飢え死にして果てたという。

 さらに、坊主・門徒の破門の罪の摘発に大きな役割を果たしたのが、本願寺の一家衆(いっけしゅう)だった。一家衆とは本願寺法主の縁者であり、蓮如の代に設けられ、蓮如の子孫が各地に配されることにより、本願寺門徒の系列化が計られ、増殖していったのだが、同時に、坊主・門徒の言動にも目を光らせるようになっていた。しかも、一家衆の増加によって、各地に破門者の数が増加していくという皮肉も生む。まさに、本願寺一族による恐怖政治が行われていくようになっていたのだ。

 宗教の本来のあり方が何処かに忘れ去られ、本願寺を守ることが至上命題であるがごとき流れになっていた。著者は、そこまでは書いていないが、親鸞がそれを知ったならば、さぞや嘆いたことだろうと私は考える。宗教が、変質していく過程は、世界の至るところにでも見られる性(さが)なのかもしれない。



蓮如
笠原一男
講談社学術文庫
講談社
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041「新・北海道の古代 1・2・3」/野村崇・宇田川洋編(2012年8月12日)

「新・北海道の古代」

○旧石器・縄文文化/新・北海道の古代1/野村崇・宇田川洋編/北海道新聞社/20011110第1刷/241頁/\2,000+税
○続縄文・オホーツク文化/新・北海道の古代2/野村崇・宇田川洋編/北海道新聞社/20030710第1刷/233頁/\2,000+税
○擦文・アイヌ文化/新・北海道の古代3/野村崇・宇田川洋編/北海道新聞社/20040710第1刷/237頁/\2,000+税

 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに、「北のまほろば」がある。北海道ではなく、東北北部の道行きを語った巻だ。それには、縄文文化が原始文化などではなく、一万年から数千年の時を経て成熟を遂げた文明ではないかというくだりが出ている。あくまでも司馬自身の考えではなく、そういう考え方が出てきたという紹介だ。その活況のさきがけをつくったのは、戦後の北海道考古学だったとしている。稚内や紋別、網走に広がっていたオホーツク文化の背景には、広大なユーラシア大陸が広がっていた。ちなみに司馬遼太郎の街道シリーズには、オホーツク文化にちなんだ「オホーツク街道」や、他にも「北海道の諸道」もある。いずれも名著であり、このシリーズにもいつかは触れてみたい。

 1931年、兵庫県明石の海岸で、明石原人(あかしげんじん)といわれる旧石器時代人らしい人骨(腰骨)が発見された。発見された地層は、洪積層(200〜1万年前)からだった。ところが、鳥居龍蔵を初めとする当時の考古学界は、それを冷たく見放した。ろくに見もせずに、自然石に違いないと論じた。そして太平洋戦争時、発見者の直良信夫(なおらのぶお)の自宅もろとも、東京空襲で化石は灰になってしまった。「北のまほろば」にもこの逸話が出ているが、「明石原人とは何であったか/春成秀爾/日本放送出版会」や「考古学者はどう生きたか/考古学と社会/春成秀爾/学生社」や「日本の歴史を掘る/玉利勲/朝日新聞社」などが詳しい。明石原人の真贋は、永遠の謎とされたのである。日本における旧石器時代の存在を疑う思想、若しくは存在を認めたくないとする考えが主流であったともいえる。

 ところが1946年ころから、群馬県の岩宿において、在野の考古学者であった相沢忠洋(あいざわただひろ)が発見していた黒曜石の石片が石器として認められたのである。約2万5千年前から噴火を始めた、浅間山による火山灰でできた関東ローム層から発見された石器は、日本における旧石器時代を証明することになった。

 2000年11月5日の毎日新聞を初めとする衝撃の新聞報道は、記憶に新しい。宮城県の上高森(かみたかもり)遺跡や北海道新十津川町の総進不動坂(そうしんふどうさか)遺跡でこの年に発掘された前期旧石器は、調査に参加していた藤村新一が事前に埋め込んでいたものであり、石器の発掘はねつ造であったことを本人が認めたというものだった。本人が事前に石器?を埋め込む写真までもが紙面に掲載された。日本の考古学界の信頼性が地に落ちた瞬間だった。旧石器時代を初めとする、日本の考古学界の再構築がここから始まる。

 恐竜やアンモナイトが生きていた約1億年前(白亜紀)、日本
列島はまだ大陸の一部であった。約1600万年前(新第三紀中新世中期)、日本列島が大陸から離れ「古日本海」ができると、太平洋プレートの沈み込みにより、日本海溝と千島海溝が形成された。そのため、2つの島弧(とうこ)の接合部に位置することとなった「北海道島」は、火山の噴火や地震が頻繁に起こる地域となり、約1000万年前(新第三紀中新世後期)に日高山脈の隆起が始まる。人類がアフリカで誕生するのは、その約500万年も後のことであった。

 現在まで北海道で発見されているゾウ化石は、4種類ある。マンモス系列のゾウが3種類とパレオロクソドン系列のゾウが1種類(ナウマンゾウ)である。マンモス系列のゾウは、約300万年前(新第三紀鮮新世(せんしんせい)後期)に、アフリカからヨーロッパの北西部へ移動をはじめ、第四紀にはアジアの北東部、さらにはベーリング陸橋を通って、北アメリカへと拡(ひろ)がった。約120万年前の北海道は、現在の低地帯周辺が海に覆われ、特に石狩低地帯は海峡のような環境であった可能性があり、それらの地域から産出した貝や海生哺乳類の化石から、寒冷な環境であったことが推定されている。このころは、地殻変動が盛んであり、北海道各地に起きた隆起運動は、現在の北海道等の形成に多大な影響を与えた。

 約40万年前の中期更新世ころには、世界的な温暖化により海進(温暖化)が始まり、石狩低地帯周辺域は、再び海に覆われた。その後、徐々に寒冷化が進み、約15万年前(中期更新世末期)に訪れた氷期(リス氷期とも呼ばれる)では、海水面が−130m前後低下した。その結果、宗谷、津軽、朝鮮および対馬海峡が陸橋となり、日本海は「湖」となった。この時期、朝鮮、対馬陸橋を通ってナウマンゾウ、オオツノシカ、トラやヒョウといった大型脊椎動物が大陸から日本列島に移動し、その一部は北海道にまで渡ってきた。

 後期更新世は、最終間氷期(約13万年前から11万年前)と最終氷期(約11万年前から1万年前)に区分される。最終間氷期は、現在とほぼ同じかやや温暖な気候であったため、湖となった日本海を囲んでいた各陸橋は、海水面の上昇によって再び海峡となった。その結果、それ以前に大陸から渡ってきたナウマンゾウやオオツノシカなどは、島となった北海道で孤立することとなる。

 約11万年前頃から、再び寒冷な環境(最終氷期)となり、海水面の低下が進んだ。特に、約7万5000年前〜2万年前の間は、全体的に寒冷であり、海水面がー50m以下まで低下していた。その結果、ベーリング海峡周辺では「ベーリンジア」と呼ばれる陸地が出現、シベリアとアラスカを結ぶこととなり、マンモス動物群が北米まで移動し、それを迫って人類も移住・拡散していった。

 支笏火山の活動は約5万年前頃から始まったが、約4万年前の大噴火で噴出された軽石は、恵庭市から苫小牧市までの低地帯を埋め尽くすとともに、洞爺湖付近や札幌周辺はもとより、十勝平野そして天北地域まで達した。結果、それまで太平洋に河口をもっていた石狩川は、厚く堆積した軽石流堆積物でせき止められ、野幌丘陵の北端付近で流路を約90度変え、現在のように日本海へ流入することとなる。石狩川は、かつては太平洋に流れ込んでいた訳だ。


新・北海道の古代1
旧石器・縄文文化
北海道新聞社
野村崇・宇田川洋編

 約2万〜1万8000年前は最終氷期の中で最も寒冷な時期(最終氷期極相期)となり、年平均気温が現在よりも約7〜8℃低下したとされている。海水面は現在より約100m前後下がり、津軽海峡の水深も浅くなり、北海道との間が約10kmまで狭まった(現在は約20km)。中国で最近発見された世界最古といわれる土器は、この時代のものにあたる。この最終氷期極相期は、シベリアからマンモスゾウが逃げ出すと表現されるほど寒冷であったとされているが、北海道には当時の遺跡が千歳市(丸子山遺跡、祝梅三角山遺跡)などに分布している。その後、約1万5000年前から急激に温暖化が進み、大陸氷床の融解・縮小によって海水面の上昇が始まった。約1万3000年〜1万年前には宗谷海峡が成立し、ようやく寒い時期が終了した。

 約9000年前になると、最終氷期の間に衰退していた対馬暖流が日本海へ流入し始め、約8000年前には、噴火湾沿岸から石狩低地帯北部付近にまで到達した。約7000年前には、宗谷暖流としてオホーツク海から道東にまで及び。結果、冬季に大陸から吹く乾燥した冷たい季節風(モンスーン)が、日本海を渡る間に対馬暖流の水蒸気を含み山脈にぶつかって積雪をもたらすと同時に、それまで乾燥していた日本列島に「雪」という水資源が供給されることとなる。

 約5500年前になると海進が最大となり(縄文海進高潮期)、海水面が約3m前後上昇し、函館、室蘭、苫小牧、石狩、稚内、網走、釧路などの低地部に海水が進入し、内湾のような環境になった。現在、北海道沿岸域にみられる湖沼は、縄文海進とそれ以降におきた温暖期に海水が進入した時の名残である。

 北海道やサハリンのオホーツク海沿岸域に分布する自然貝殻層や貝塚の古環境解析などにより、B.C.500〜紀元前後の弥生海進期、8世紀と10世紀の平安海進期、15世紀〜16世紀頃の室町海進期の存在が明らかにされている。また、サロマ湖岸で採集した堆積物中の珪藻類の分析によって、海進期はもちろん、11世紀末〜14世紀と16世紀末〜17世紀の海退期が明らかにされている。16世紀末〜17世紀の海退期は、小氷期(しょうひょうき)に当たるとも考えられている。小氷期は、ヨーロッパを中心として世界的に寒冷であった時代で、16世紀頃から19世紀までの約300年間は年平均気温も現在より約1℃低く、17世紀末〜18世紀初頭が特に寒冷であったと推定されている。また、17世紀以降の北海道では、道南の諸火山(駒ヶ岳、有珠山、樽前山)が頻繁に噴火し、生態系に大打撃を与えた。

 以上は、「新・北海道の古代1」にある「北海道島の成立」/添田雄二、赤松守雄を概観したものを基にしている。北海道は、長期的には、寒冷期と温暖期を繰り返しており、約2万〜1万8000年前の最終氷期とその後の数度の寒冷期の存在は、それらを克服する営みが古代の人たちによって行われていたことを想像させてくれる。石器ねつ造事件にも関わらず、その後の研究で約2万年前まで遡る後期旧石器時代の存在は、北海道においても確かめられているが、それを遡る中期以前の旧石器時代の遺跡調査については、今後の研究次第とされている。北海道ではマンモス象やナウマン象など、旧石器時代に生息していた大型動物の化石が出土しており、これらの動物と共に3万年を遡る時期に人類が北海道へ到達した可能性は高いと考えられている。

 「縄文時代」は、約1万6500年前から約3000年前頃とされているが、地域差もあり、縄文終了時期についての見解も多くの議論がある。北海道における縄文時代は、草創期(約

12000〜9000年前)、早期(約9000〜6000年前)、前期(約6000〜5000年前)、中期(約5000〜4000年前)、後期(4000〜3000年前)、晩期(約3000〜2400年前)に編年されることが多いが、これも地域差がある。特に、道南西部に発見される縄文遺跡は、東北北部との関係が深いとされている。縄文時代においても、津軽海峡は障害とはならなかったようだ。一方、宗谷海峡も障害とはならず、北海道北部や利尻・礼文を含む、サハリンに跨がる縄文文化圏が想定されている。また、北海道で発見される縄文後期前半の環状列石(ストーンサークル)があるが、多くは記念碑的なものよりも、墓性を伴ったものが多い。

 大空町女満別などで小型の石刄が多数発見されている。「石刄鏃(せきじんぞく)文化」といわれている、特異な形態の石器(矢の先端に装着されたと考えられる鏃(やじり)とそれに伴う土器・石器群を特徴としている。時代的には、約7〜8000年前の縄文早期にあたるが、北海道の東部を中心として発見されていること、きわめて石刄剥離技術が高いことなどから、縄文文化とは乖離性があると見られている。約1万年にも及ぶ縄文時代のタイム・スケジュールから見れば、極めて短い間に出現し、消滅した文化だった。未だ詳細が不明であるが、ユーラシア大陸北東部やサハリン等との関連性が高いと見られており、一時的に進出してきた民族の可能性が考えられている。

 本州において、弥生時代から古墳時代が形成されていた頃、北海道においては、縄文時代から大きな文化的変化を示さなかった。それは、弥生時代を象徴とする稲作が持ち込まれなかったからである。北海道におけるこの時代を「続縄文時代」という。約2300〜1400年前、紀元でいえば、紀元前3世紀から7世紀にかけてのことになる。この時期の続縄文文化は、多少の年代差もあるが、渡島半島から石狩低地帯に広がっていた「恵山文化」と、道央部の「江別太(えべつぷと)文化」、道東北部オホーツク海側の「宇津内(うつない)文化」、道東部太平洋側の「興津(おこつ)・下田ノ沢(しもだのさわ)文化」という4つの地域文化に分けることができる。恵山文化の南側には、稲作農耕を主な生業とする弥生文化が大きく広がっていたのである。続縄文文化では、水稲農耕は行わず、狩猟・漁労を主な生業としていたことが多くの貝塚や骨角製漁労具、石製ナイフの存在からわかっているが、恵山文化においては、土器や祭祀(さいし)などが弥生文化と共通するなど、共通する文化圏の存在を伺うことができる。

 そのころ、3世紀から13世紀にかけて、オホーツク海南岸一帯、すなわちサハリン南部から北海道北部一東部そして千島列島に展開した、それまで北海道に住んでいた人々とはまったく異なる海洋民がつくりあげた「オホーツク文化」が現れている。前述した、石刄鏃文化とは、大きく時代が異なる。北海道においては、5世紀から13世紀にかけての遺跡が残っている。網走のモヨロ貝塚などがそれである。本州の歴史では、古墳時代から鎌倉時代にあたる。下北半島でもオホーツク文化の遺物が見つかっている。海獣狩猟や漁労を中心とする生活を営んでいたが、大陸からの渡来が推測されたものの、その由来は色々な説が展開された。清を建国することになる女真に連なる靺鞨(まっかつ)民族との関係を説いた説もあったが、現在は、サハリン北部の住民であるギリャーク、すなわちニヴフ民族だとする解釈が有力となっている。事実、その旨を記した看板が、現在のモヨロ貝塚の前に立っている。オホーツク文化は、鎌倉時代頃、忽然と北海道から消える。熊に代表される動物儀礼などは、後のアイヌ文化に影響を与えたと考えられている。



新・北海道の古代2
続縄文。オホーツク文化
北海道新聞社
野村崇・宇田川洋編
















網走モロヨ貝塚
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2008年10月1日撮影

 また、9世紀から13世紀にかけて、北海道の道東地域から国後島にかけて「トビニタイ文化」が出現している。トビニタイ文化をオホーツク文化に含める考えもあるようだが、オホーツク土器と後代の擦文(さつもん)土器の両方の特徴を併せ持つ土器を使用した文化でもあった。見方を変えると、オホーツク文化から擦文文化へと変容を遂げつつある段階の文化でもあった。知床半島の羅臼町飛仁帯(トビニタイ)遺跡で出土した土器を、トビニタイ式土器と呼んだことが名前の由来となっている。

 7世紀から13世紀というと、本州では飛鳥時代から鎌倉時代にあたるが、北海道を中心として「擦文文化」が現れている。縄文時代以来、土器を用いて煮炊きをしていた人びとが、東北地方北部の土師器(はじき)を模倣して、土器表面をヘラ状の木片で擦(こす)って、刷毛でなでたような跡を残したので、擦文土器といわれる。前期(6世紀後葉から8世紀)、中期(9世紀から11世紀前半)、後期(11世紀後半から13世紀)に編年される。本州方面の文化の影響も受けながら、オホーツク文化の影響も受けたと見られている。出土例は少ないが、鉄器を初めとする金属器も本格的に現れている。人びとは河口近くに集落をつくり、狩猟・漁猟のほか畑作農耕も営んでいた。円環状に掘った周溝とその中央の墳丘からなる「北海道式古墳」なども現れている。

 「アイヌ文化」は、古来から北海道に存在した文化ではない。アイヌ文化は、擦文文化を担った人びとが、13世紀頃から、擦文文化を脱すると共に、生み出してきた文化を総称してアイヌ文化というのであり、新しい人びとが、入ってきたということではない。本州では、鎌倉時代に当たる。アイヌ文化は、北海道はいうに及ばず、樺太、千島列島、カムチャッカから東北北部までに及んでいる。

 アイヌ文化には、文字がないために、言い伝え以外の記録が残っていないといわれる。しかし、上ノ国町に残る、初期蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)を支えた山城である「勝山館跡(15世紀後半〜16世紀)」がある。1456年には、コマシャインとの闘いも起きているが、その勝山館跡から鹿の角や骨、鯨の骨などで作った500点を超える骨角器が発掘された。それらは江戸時代のアイヌが使った弓矢の一部や擦文時代の骨角器と繋(つな)がるものであり、勝山館跡から出土する非和人社会的な遺物とされた。網野善彦は勝山館跡にアイヌが混住していると説いた。高倉新一郎は「墳墓群は蝦夷と和人の接触点」にあり、「アイヌ文化と日本文化との混合が見られるのではないか」と述べた。石井進は勝山館跡の上にある夷王山墳墓群の被葬者は果たして和人だけなのかと、後の混在の発見を予見していた。このように、文字を持っていたはずの和人がいたとしても、わずか数百年前のことが判らないのが現実なのである。

 蝦夷(えぞ)といえば、北海道の旧名でもあるが、人びとを表すこともある。北海道開拓記念館に行くと、14世紀初期の蝦夷は、アイヌ民族(日の本(ひのもと)・唐子(からこ))と土着した和人集団である渡党(わたりとう)で構成されていたとの表

記が目についた。これには異論も出てくるだろうが、そのころ蝦夷地を支配していたのは、蝦夷管領の津軽の十三湊(とさみなと)を本拠とする安藤氏(後に安東氏)であった。安藤氏は、「日本大将軍(ひのもとだいしょうぐん)」を自称していたといわれている。日本の国名の由来にまつわる話題だが、このテーマはまた別な機会に譲りたい。安藤氏の後には、秀吉から北海道における交易の独占を許可されるのは蠣崎=松前氏となるが、両者は養子縁組や異説などもあり、明解に関係を記すことが難しい。少なくとも、両者とも、かなり阿漕(あこぎ)な支配権を確立していたことは、間違いがないであろう。アイヌ文化は、彼らの強欲な支配の中で、急速に和人との同化が進んでいく。逆の見方をすれば、アイヌが和人に同化したというよりは、勝山館跡の例からも、それより以前から、混合が進んでいた可能性が高いと私には思える。

 以前、会社勤めをしていたときに、礼文島を2度ほど訪ねたことがある。一度目は、ある施設の建設予定があり、現場の担当者とともに事前調査に行ったのである。ところが、工事着工直前、遺跡が出るということで、工事が一旦、中止となった。その数ヶ月後、今後の予定を現地調査を含めて、現地で話し合うために再び礼文島を訪れたのである。工事予定地は、広大な遺跡発掘跡と化していた。23体もの遺骨も出たという。発掘品を並べた部屋で、色々な説明を聞いていたのだが、10数人はいたにも関わらず、気が付くと、年配の教授と私の二人だけになっていた。そこで、私は三内丸山遺跡調査を指導されたという教授と二人だけで、濃密な時間を過ごす事ができた。

 そこは、縄文時代後期の3800〜3500年前の、道北最大級の集落跡であり、豊かな北の海から日本海に渡って栄えた文化があった。しかも、サハリン、シベリア方面とも交易をしていた。彼らは、本州縄文人と同様な骨格を持っていたらしい。また、北海道日高方面から来たと思われる黒曜石の加工品がたくさん出てきた。さらに、新潟方面産と思われるヒスイ製大珠等が埋葬者と一緒に発見された。接着剤として、新潟方面からもたらされたアスファルトを使った加工品も出ていた。想像を超える古代のネットワークがあったことに驚いた記憶がある。後には、NHKでも大きく放送されたが、遺跡調査が終わった後、工事は再開され施設は完成した。

 北海道の古代を語る場合は、サハリンや千島列島を抜きにしては語れないであろう。オホーツク文化とサハリンの関係は前述したが、トビニタイ文化と千島列島の関係も無視はできない。「新・北海道の古代3」でもミハイル・ミハイロピッチ・プロコフィエフ(サハリン州郷土誌博物館上級研究員)が記しているが、擦文文化の担い手たちも千島列島に渡っている。サハリン南部では、1999年のドリンスク地域センナヤでの古代人居住地の発掘調査において、前期旧石器時代に属すると考えられる原人(ホモ・エレクトス)の遺構が確認されたという。その年代は10万年前か、それ以上前のものと推定されているのだ。歴史は、さらに遡っていく。そして、国境がどこにあろうとも、文化の境界に線を引くことはできない。











上ノ国町勝山遺跡
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2011年6月15日撮影












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