旅の思い出・その5 <次の記事へ>

050「富士山」「三嶋大社」そして関東へ(2009年12月12日の記録)
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雲の向こうに「富士山」が見えた

「本栖湖畔」

「富士山」の右肩に太陽が

「富士山」に顔を出した太陽
■本栖湖の駐車場の朝は、雨が上がりましたが、曇っています。ひっきりなしに車が来るのですが、他に停泊はいませんでした。ダイヤモンド富士を見たいと思いましたが、起きたのは5時すぎです。夜が明けてくると、霧が出てきました。もうこれでダメでしょう。7時前、出かけようと思っていると、霧が晴れてきて木々の間に富士山が見えてきました。かなり近いですね。トイレに行って戻ってみると、また霧で隠れています。一瞬の変化です。すると霧の<はざま>で太陽の光が輝いています。美しいなと思い、カメラを向けると消えてしまいます。走り始めると、すぐ先に大きな駐車場がありました。こちらにはたくさん車が駐まっていました。「本栖湖」が木々の間から見えます。カメラを向けると霧が漂い、深々とした景色、絵もいわれぬ美しさとはこんな風景なのでしょうね。写真にもかなり綺麗に写っていると思います。「本栖湖」に別れを告げて、「田貫湖」に向かいました。「田貫湖」は、湖面に映る逆さ富士でも有名です。

■ところが、峠を越えると、霧が晴れてきました。富士山も見え始めました。車を走らせていると、絶好のポジションがあります。車が2台駐まっています。三脚も見えます。一度、通り過ぎたのですが、車を戻し、カメラを向けてみました。三脚と望遠レンズも用意しました。何度もシャッターを押し続けていると、どうも富士山の後ろに太陽がある気配です。空は既に明るくなっていましたが、太陽が丁度、この位置では隠れているのです。富士山の右肩が光り始めました。なんと疑似ダイヤモンド富士です! 感動の瞬間でした。

■カメラを片付けて、先に進みましたが、どんどん富士山が近づいてきて、神々しく見えます。本当に美しいですね。昨夜、向いかけた道の駅「朝霧高原」から見る富士も美しい。すると横に建設業関連の研修センターがありました。思い出しました。37年前に、建設会社に入社したときの新入社員研修がこの場所でした。すっかり、忘れていました。確かにあの時、富士山を見上げていた記憶があります。そんなこともあり、「田貫湖」まで行くのは中止としました。

■富士山を横目に味わいながら、伊豆の国市に向かいました。空も明るく晴れ上がってきました。高速を降りると、三島市が近いですね。急遽変更して、後から行こうと思っていた「三嶋大社」を先に行くことにしました。門前は、東海道です。大社ということですが、世俗化された雰囲気です。位置的に富士山を仰いでいるのかと思いましたが、余り富士山との関連はないようです。頼朝が不遇時代に、信奉した神社らしいですね。若宮では、猫がひなたぼっこをしていました。神池があるましたが、すこしドブ臭いです。大山祇神・事代主神の二神を主祭神とした神社です。三嶋大明神の本体は大山祇神であるとする説と事代主神とする説があり、どちらも決定的となっていないそうです。

■伊豆の国市の「江川邸」に向かいました。「江川邸」にはすぐに着きました。江川太郎左右衞門の旧宅です。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称であり、中でも36代の江川英龍(ひでたつ)が著名だそうです。明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たったようです。江川英龍はパンの日本開祖でもあるとのことです。ここから見る富士山も青空の中に美しく浮かんでいました。36代の遺志を継いで、37代が完成した韮山(にらやま)の「反射炉」というレンガ造の製鋼炉があるとのことで、車で行ってみました。予想より、遙かに大きなものがありました。現在でも銅製錬、再生アルミニウムの融解炉として使われているそうです。

■「三養荘」に向かいました。門を車で通り抜け、駐車場まで行くと、丁重なお出迎えです。しかし、食事も予約が無いとダメと言われました。見学も出来ないとのことです。不審な者に見られたかも知れません。「三養荘」は、村野藤吾設計の数寄屋造りの旅館です。また機会があればと思い、退出しました。

■高速で一気に埼玉県に向かいました。約170キロ近くを高速を利用して、駆け抜ける予定です。大井松田付近で、大型車両を含む多重事故がありました。2キロくらいを通るのに30分くらい掛かりました。東京の高速道路網はよく判らないのですが、東京ICで下に出てしまいました。環8が混んでいます。結局、練馬までドロドロ進みました。練馬からは、一気に東松山市まで出て、「箭弓(やきゅう)稲荷神社」に着きました。大衆化された神社ですが、稲荷神社というのが面白いですね。箭弓に掛けて、バットを絵札にしています。ここは、牡丹園が有名らしいですね。しかし、驚きは、拝殿、さらに本殿の彫刻です。そして、目指す目的は、本殿の後ろに稲荷社があり、そこの小さい極彩色の祭殿です。古いものですが、微細な仕上がりになっています。712年の創建と言うことですが、歴史を感じる神社です。

■「吉見百穴」が近いので、向かいました。着いたのは16時27分でしたが、16時半で入場を止めるとの表示がでています。しかし、外からほとんどが見えますので、入るのを止めました。吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)は、埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代後期の横穴墓群の遺跡です。かなり以前から、一度、見たいと思っていました。また、下方にある穴の中には、ヒカリゴケが自生している穴があるそうです。戦時中、防空壕のために掘った大きな穴もあるらしいですね。そばに「百穴温泉」がありました。行って聞くと21時までやっているとのことで、食事をしてから再び訪ねることにしました。しかし、古そうですが、1,300円もの料金は高いですね。

■食事後、再び「百穴温泉」を訪ねました。しかし、驚きました。とてつもなく汚いのです。掃除をしたことはないのではないでしょうか。休憩所がありましたが、10人近くいて、みんな暗い顔をしています。とても休憩する気にはなりません。浴場も露天と変わらない、トタン屋根です。多分、雨が漏るでしょうね。中で数人の先客がいましたが、後から来た人も含めて、石鹸を使って体を洗う人がいません。ただ、じっと入っています。少しドブ臭い温泉ですが、源泉はかなり熱いですね。ゆっくり入ると、暖まってきました。こういうのが好きな人には良いのかも知れませんが、値段が高すぎると思います。多分、250円くらいの料金で良いのではないかと思いました。なんか変だなと思った温泉でした。

■しかしです。後で、調べると、何と混浴で知られた温泉だったのです。入り口は別ですが、混浴を期待してじっと入っている人がいるとのことです。そういえば、一番奥の風呂に入っていた人は女性(若くはなかったが)の様な気がしました。まあ、もう二度と行くことはないでしょう。停泊は、道の駅「いちごの里よしみ」にしました。現在21時、・とてつもなく風が強く、車が揺れています。

「三嶋大社」

「江川邸」

「江川邸」から見た「富士山」

韮山の「反射炉」

「三養荘」

「箭弓神社」の鳥居

「箭弓神社・本殿」

「箭弓神社・本殿」の彫刻壁面

「箭弓神社」奥の「稲荷社」

「吉見百穴」
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049「登呂遺跡」「久能山」「身延山」など(2009年12月11日の記録)


「登呂遺跡」

「芹沢_介美術館/石水館」

「芹沢_介美術館/石水館」

「マッケンジー邸」

「久能山」の麓
■道の駅「鳳来三河三石」は、工事中のためか落ちつきません。朝の食事は、おにぎりパータンで軽くすませ、7時前には静岡に向けて出発しました。夜中以降、強い雨が降っています。予想以上に車の流れが良く、登呂遺跡に着きました。登呂遺跡は、住宅街の中にある、余りにも有名な弥生後期の集落・水田遺跡です。しかし、ここも工事中でした。美術館か何かを建てているようです。登呂遺跡自体も整備中の様で、路盤状態が悪く、歩きづらいですね。

■もう一つの目的がありました。「芹沢_介美術館/石水館」です。登呂遺跡のすぐ横にありました。というよりも、一連の施設ですね。1981年の白井晟一の作品です。ところが、ここも12月7日から休みでした。しかたがありませんので、建物の周りを傘をさして歩いて見ました。写真の様に、切り出したままの重量感のある石が積まれています。迫力がありますね。内部が見られないのが残念でした。ただ、白井晟一の「縄文なるもの」が弥生遺跡の横にある理由が私にはどうも理解できませんでした。

■続いて、「マッケンジー邸」に向いましたが、すぐ近くでした。1940年、貿易会社の日本支社に勤務したマケンジー夫妻の住居として、ヴォーリズが設計した建物です。海岸に面して建っていますが、道路付けが判らず苦労しました。何とか道を見つけて、玄関を入ると、牧師さんらしい日本人の方が出てこられました。札幌から来たというと感心されてしまいました。「何処で聞いたか」と言われましたが、覚えていません。丁度、昨日、NHKで15分ほど放映されたらしいですね。瓦屋根のなかなか落ち着いた建物です。和室もあります。備品が良く残っています。特に台所の用品は、今でも使えそうです。階段の踊り場のベンチが機能的だと思いました。

久能山に向かいました。すぐに着いたのですが、鳥居の前には駐車場がありません。駐車500円と書いた店があるので、駐めてみると、おばさんが出てきて、親切に教えてくれました。鳥居から石段を1159段!登ると本殿に着くそうですが、今日は雨なので難しいと言われました。車で20分くらい掛けて、「日本平」まで行って、そこからロープウェイで行くのが普通とのことです。調査不足でした。「日本平」まで向かいました。途中、苺のビニルハウスがずっと並んでいます。霧の中、「日本平」に着くと、ロープウェイは10分間隔で出ています。しかも、ロープウェイは、「下り」に乗ることになります。下の方向に「久能山東照宮」があるのですね。今日みたいな雨の中、来る人は少ないようです。晴れていると富士山が見えるるそうです。40人位の定員に、4名が乗りました。5分で、久能山に着きました。本殿は、すぐそばにあります。

■「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」は、晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年に死去した後、遺命によりこの地に埋葬。19年後に改葬され日光の日光東照宮に移されたそうです。50年に一度、諸建造物の漆塗り替えが行われており、2006年に社殿の塗り替えが完了したとあります。日光東照宮に負けず劣らず、派手ですね。黒を基調にしているせいか、少しは落ちついて見えます。奥の方に登ると、徳川家康の霊廟もありました。家康が神様となり、神廟となっています。ここに勤めている人は、毎日、1159段の階段を登り降りするらしいですね。

■続いて、富士市の「古谿荘(こけいそう)」に向かいました。ナビに従い、駐車場らしきところに着くと家があり、窓越しにおじさんが見えますが下を向いています。車で先に進み、降りてみると、背後でおじさんが叫んでいます。「ここは、私有地だから出ろ」と怒っています。「古谿荘は、どこですか」と聞くと、「この辺は全部そうだ」と言われました。「外観だけでも見ていいですか」と聞いたのですがこれも「ダメだ」と言われました。「以前は、自由に見せていたが、重要文化財になったので、勝手はできなくなった」そうです。文化庁が、耐震等を検討しているとのことです。当初よりは、穏やかな雰囲気になりましたが、「一度見せると、口伝いに伝わるからダメだ」とかたくなに言われてしまいました。止むを得ず、退散です。「古谿荘」は、1909(明治42)年に明治の元勲・田中光顕(たなかみつあき)伯爵が建てた別荘です。

■雨の中を、山梨県の身延山に向かいました。山に入るに従って、霧が濃くなってきます。門前町が繋がっています。身延山温泉もありました。大きな山門に着きましたが、先に駐車場があるそうです。とてつもない急な坂になりました。一番上まで来てしまいましたが、先に進めません。行き止まりです。下の方にロープウェイがあるのでその駐車場に行きましたが、空いていません。7分間で奥の院まで行けるロープウェイです。止むなく、バックで途中にあった駐車場まで戻りました。奥の院は諦めて、久遠寺本殿に行く斜行エレベーターに乗ることにしました。数十人乗りの大きなエレベーターですが、他には誰もいません。「身延山久遠寺」は、日蓮宗総本山です。何もかも大きな寺院が建ち並んでいます。霧がかかっていて、山並みが神秘的に見えます。手前に完成したばかりの「五重塔」がありました。傘をさしながら、奥の方まで行ってみました。その巨大さは驚きです。振り返ると、「五重塔」のライトアップが始まりました。幽玄の山に「五重塔」が浮かんでいる様に見えました。

■ひと山越えて、下部(しもべ)温泉に向かいました。入浴可能な温泉は色々ありましたが、一番ローカルそうな下部温泉会館の風呂に入りました。18時の終了間近だったせいか、一人風呂です。その後、食事をして、今日の停泊場所を、29キロ先の道の駅「朝霧高原」に決めました。かなり曲がりくねった道を行くと、本栖湖が見えてきました。トイレ付きの駐車場が、朝霧高原の7キロ手前にあります。斜め向かいに交番も見えましたので、そこに停泊することにしました。21時20分のことです。

「日本平」から「久能山」へ

「久能山東照宮」

「久能山・家康の霊廟」

「古谿荘」

「久遠寺」の斜行エレベーター

「久遠寺・棲神閣祖師堂」

「久遠寺・報恩閣」

「久遠寺・大鐘棲と五重塔」
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048「ライト館」「如庵」から名古屋へ(2009年12月10日の記録)
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道の駅「日本昭和村」

明治村の「旧帝国ホテルライト館」

「旧帝国ホテルライト館・内部」

「旧帝国ホテルライト館・内部」
■道の駅「日本昭和村」は、高速のハイウェイオアシスと道の駅が共存した施設です。お互いが行き来できないようになっています。とても広い駐車場が複数あり、隣接の「里山の湯」は22時までやっていました。露天風呂やコーヒー湯など各種ありました。名誉村長が中村玉緒ということは、後で知りました。ここから、「明治村」へ向かいます。「昭和村」から「明治村」とは、どういう所以でしょうか?

■「明治村」は、愛知県犬山市にある明治時代の建物等を移築・復元した巨大施設です。北門から入ると、SLがいきなり汽笛を鳴らしました。すぐに、帝国ホテル・ライト館が目に入ってきました。正確には、中央玄関廻りのみの復元です。正面に噴水が上がったとき、正直、感動してしまいました。マヤ文明のイメージだと聞いたことがありますが、大谷石とスクラッチタイルとテラコッタの複雑な積み重ねが、微妙な影を落としています。何かの衝撃があれば、もろくも崩れ去ってしまいそうな印象さえあります。実際には、大正大震災を持ちこたえた訳ですよね。それもホテルのオープンの日と重なっていたとは驚きです。

■内部は、ライトのデザインがそのまま生かされていたと思います。位置を変える度に、光と影が微妙に変わっていきます。デティールも何故か、落ち着きを与えてくれます。寝る前にライトの写真集をたまに見るのですが、心が平穏になるのが不思議でした。ホール横の食堂でしょうか? 天井のラインがライトらしかったですね。結局、1時間もシャッターを押し続けていました。

■「明治村」には、結局3時間近くいることになりました。札幌軟石で造った札幌電話交換局や、網走監獄の一部まであったのは驚きでした。西園寺公望の屋敷の隣に茶室があり、茶室が見たくて西園寺屋敷に入ると、説明をする方がいて、じっくり聞かされてしまいました。長い杖の中に、鉄棒を仕込んであったり、非常ベルが建物に配置されるなど、常に警戒を怠らなかったようです。兎に角、「明治村」は見切れません。途中で、戻ることにしました。札幌にも「北海道開拓の村」という明治村風の施設があるのですが、見切れないと思い、「年間パスポート」を購入して、数回に分けて見切った記憶があります。

■「明治村」から、8kmほど離れた「犬山ホテル」に向かいました。ここには「如庵」があります。「犬山神社」を横目に見て、「からくり展示館」にも少し寄り、先に「犬山城」に行きました。天守が現存する国宝の城ですね。黒光りした部材が歴史を感じさせます。天守閣に登ると、木曽川と犬山市内が展望できました。

■犬山ホテルの方へ行くと、「如庵」への入口がありました。「如庵」は、予約不要の様です。門を潜ると、大きな庭園があります。「大書院」が目に入ったのですが、その横に「如庵」がありました。余りにも簡単にありましたので、少し驚いた次第です。さすがに中に入ることはできませんが、撮影などは自由です。他には誰もいません。織田有楽斎が建てて、その後移築されてここまでやって来た「二畳半台目の向切り」の茶室です。障子が開けられていて、桟の間から、薄暗い中に光が刺して、写真でよく見た光景が浮かんでいました。床脇の鱗板(うろこいた)もはっきり見えます。来た甲斐がありました。道路を挟んで、「弘庵」というお茶をたててくれるところがあります。急に、お茶が飲みたくなったので、行ってみました。新しい広い部屋で、一人抹茶を頂きました。500円です。茶菓子も美味しく感じました。抹茶は、量が少めかな? ここに来て、初めて庭の美しさに気がつきました。「この辺は、紅葉がかなり残っていますね」と聞くと、いつも遅いとのことでした。以前は、「弘庵」ではなく、「如庵」の隣の「大書院」で頂けたそうです。

■犬山ホテルをでて、気になっていた山の上の建物を見ると、「成田山別院」でした。続いて、名古屋市内を通り、「大龍寺」に向かいました。渋滞が続くので、高速に入りました。入り口で350円の現金を徴収されましたが、走り始めると、すぐに別料金の表示がでます。結局、短い間に、1,100円の高速料金が掛かりました。少し納得できないですね。「大龍寺」に着いたのですが、駐車場がありません。しかも、16時を15分ほど過ぎているため、閉まっていました。「大龍寺」の目的は、「さざえ堂」の前身を模倣した「五百羅漢の建物」だったのですが、諦めることにしました。また、機会もあるだろうと思います。

■今日の停泊場所は、長篠の戦いがあった付近の道の駅「鳳来三河三石」にすることにしました。着いてみると、工事中で、トイレは仮設、舗装は剥がれて砂利状態です。近いと表示されていた、温泉の「鳳来ゆーゆー」は、13kmも離れていました。止む無く向かいましたが、6kmも来た道を戻りました。プールも付いた市営温泉ですが、混んでいます。今日は、「ライト館」と「如庵」で「運」を使いすぎたかなと諦めることにしました。

明治村「大明寺聖パウロ教会堂」

明治村「聖ザビエル天主堂」

明治村「聖ザビエル天主堂」

明治村「宇治山田郵便局」

犬山の「からくり展示館」

「犬山城」

「如庵」

「如庵・内部」

名古屋の「大龍寺」
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047 琵琶湖を廻り、彦根、桑名、そして名古屋へ(2009年12月9日の記録)


「びわ湖北寮」

「長浜市内」

「彦根城」

「彦根城」の木組

「埋木舎」
■道の駅「マキノ追坂峠」は、琵琶湖を遠望できる道の駅とのことでしたが、少しだけ遠望できるというのが正解でしょう。昨夜の道を少し戻りつつ、湖畔道路を走りました。琵琶湖畔の朝も美しいですね。船で釣りをしている人などもいます。「びわ湖北寮」がありました。フェンスが巡らされていて、中に入る事はできません。北海道の留寿都と同じヒノキ新薬の建物ですが、留寿都とはかなり異なるデザイン、1984年、白井晟一晩年の作品です。

■「彦根城」に向かいました。途中、賤ヶ岳(しずがたけ)などを通りましたがさすがに古戦場が多いですね。長浜市内に入ると、長浜大仏や長浜ドームなどもありました。新長浜川沿いの雲が掛かった景色が美しので、思わず車を駐めて撮影をしました。「彦根城」に着くと、専用の駐車場がありました。石段を登りましたが、かなりきつい坂です。櫓(やぐら)があちらこちらで開放されています。櫓の中に入ると、壁を二重に塗った土壁などもあります。梁上を見ると、チョウナの跡も生々しい材料がありますが、どうもわざとつけた風に見えます。本丸に入ると、自然の木そのままの木組みが恐ろしいくらいに入り組んでいます。琵琶湖も含め、遠望もできます。階段は、とてつもなく急になっています。外靴を入れる袋を自分で持ち運ぶのが面倒になってきました。

■「彦根城」は、徳川家康が「西」への睨みのために、12大名に命じた「天下普請」の城です。長浜城の材料も転用したとのことです。譜代筆頭の井伊家が治めました。安政の大獄の井伊直弼が不遇の青年時代に過ごしたという「埋木舎(うもれぎのや)が近くにあるとのことで、歩いて行ったのですが、道を間違えたらしく、お堀を大廻りしてしまいました。途中、「玄宮園」がありましたが、寄ってみる余裕もありませんでした。多分、200mの行程のはずを、2kmくらい歩いたでしょう。やっと辿り着くと、私が見た「日経新聞」が貼ってありました。意外と大きい屋敷です。一四男であった、若き直弼が預けられた大久保家との関連も出ています。現在の当主も大久保家だそうです。受付のおじさんも似ているが、もしかして当主? 新聞を見たと言うとにっこり笑ってくれました。帰り道を聞いて帰ったのですが、ここでも勘違いをしてしまいました。一度、外堀の中に入るべきところを、外を廻ってしまいました。またまた大変な遠回りをしてしまったようです。

■時間をロスしてしまったので、高速を利用して、桑名の「六華園」に向かいました。近くには、「多度大社」もありましたが、今回はパスです。「六華園」は、初期のコンドル作品ですが、後年手が入れられたという庭が見事ですね。和館と洋館がありますが、2階でも繋がっています。ステンドグラスが美しいですね。

■続いて、一宮に向かいました。そこから面々と続く鉄橋が見えるのが伊勢大橋です。長良川、揖斐(いび)川に渡って掛かっています。アーチがこれでもかこれでもかという風に続きます。単純なデザインでも、これだけ連続すると見事です。手前にあるUFOの連続みたいに見えるものは何でしょう? 伊勢大橋を渡ると、さらに同じデザインの尾張大橋が続きます。

■一宮に入り、「真清田神社(ますみだじんじゃ)」に着きました。地名の一宮は、神社の名前に由来するそうです。創建は、神武天応の代まで遡るそうです。本殿は、熱田神宮に似ていますね。犬山市を横切り、「日本昭和村」という大きな道の駅に向かいました。

「六華園・和館」

「六華園・洋館」

「伊勢大橋」

伊勢大橋の近く

「真清田神社・楼門」

「真清田神社・拝殿」
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046 琵琶湖を廻り、「石山寺」「日吉大社」「白髭神社」など(2009年12月8日の記録)
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「ブルーメの丘」

「織田廣喜ミュージアム」

「苗村神社・西本宮・楼門」

「苗村神社・西本宮」
■道の駅「あいとうマーガレット」は、大きな道の駅でした。夜中に床下がカサコソ、トントンという音で目が覚めましたが、朝起きてみると、ゴムバンドが車の下にありました。風で舞っていたようです。天気は快晴ですが、気温は3度位と寒いですね。20km程離れた、安藤忠雄設計の「織田廣喜ミュージアム」に行きました。しかし、見つけられません。インターネットで検索すると、お城風の建物郡が見えた「ブルーメの丘」という、中世ドイツの都市や農村風景をイメージして造られたテーマパーク内にあるようです。開園が9時半とのことで、広大な駐車場でしばし待つことになりました。

■9時半になったので、200m程離れた門まで歩いて行ったのですが、10時開園の貼り紙がありました。冬期時間と言うことらしいですね。仕方がないので、近くの日野町を車でウロウロしてみました。日野城や蒲生氏の看板が目に付きました。10時になったので、戻ると料金が冬期間のため半額の400円とのことです。得をしたのか、時間を損したのか、まあ前向きに考えましょう。お姉さんも明るく返事をしています。しかし、他に客はいないなあ。

■インターネットにも書いてありましたが、「織田廣喜ミュージアム」は閉園中とのことです。謳い文句は、人工照明がなく、「日没が閉館」ということでしたが、「通年閉館」に変わっていたと言うことです。まあ建物だけは見られると思い、一番奥にある美術館まで歩きました。天気は晴天、美しい田園風景ですが、肥料の臭いは少し苦手です。水が少ない池の奥で、釣りをしている人がいます。その奥に、美術館がありました。前面の池と廻りの田園風景に沈み込むように小さな美術館が置いてありました。円弧曲面の平面にすべて打ち放し、池に向かってシルク調ガラススクリーン。誰にも邪魔されずに、ゆっくり堪能できました。中に入ることはできませんが、殆ど見えます。1998年の安藤忠雄設計です。

■しばらく、田園風景を歩き、車に乗って「苗村神社」に向かいました。「苗村神社」は、国道を挟んで、西本宮と東本宮があります。西本宮に向かうと、鳥居には苗村神社と出ています。茅葺きの楼門が渋いですね。由緒が忍ばれます。拝殿?は新しく建てたばかりで、屋根の銅板が光り輝いています。その奥(もしかするとこちらが拝殿)は建て替え中ですが、奥にある本殿は、かなり古くなっています。1300年ころの造営で国宝になっています。国道の反対側にある東本宮に行くと、鳥居には長寸神社と書いてあります。本殿の蟇股(かえるまた)が特徴的ですね。

■続いて、「大笹原神社」へ向かいました。かなり鄙(ひな)びた雰囲気の神社です。本殿は、1400年代の国宝です。隣にある「寄倍(よるべ)の池」は底なし沼だそうですが、鬱蒼(うっそう)としていました。隣に村田製作所野津工場があるのが気になりました。

■「御上(みかみ)神社」へ向かいました。楼門も素晴らしいが、狛犬が面白いですね。重要文化財で平安時代の木造と書いてありますが、とても木造には見えません。本殿は、割と新しく見えます。造営は鎌倉時代の仏堂的要素が融合した神社建築です。この辺には、岩山古墳群・銅鐸の丘・野津歴史民族博物館などがあります。

■そして、琵琶湖南の「石山寺」へ行きました。見所はさすがに多いですね。山門の仁王像が印象的です。懸崖造りの本殿も有名ですね。そして極み付けは多宝塔。本当に美しい多宝塔です。その奥から琵琶湖畔が垣間見えます。寺全体が石の山の上に建っているのが判ります。石灯籠の「火袋(ひぶくろ)」部分の「障子」の押さえの工夫が面白いですね。

「苗村神社・東本宮」

「大笹原神社」

「大笹原神社」

「大笹原神社」横「寄倍の池」

「御上神社」の狛犬

「御上神社」

「石山寺」の石灯籠

「石山寺・多宝塔」
■「石山寺」を過ぎると琵琶湖畔道路に出ました。一気に雰囲気が変わります。皇山公園から、琵琶湖を展望してみました。「日吉(ひえ)大社」に向かいました。ここにも西本宮と東本宮があります。ここの目的は、傘の掛かった「山王(さんのう)鳥居」だったのですが、本殿の拝観をしてきました。西本宮は、工事中でしたが、二人連れのおじさんがテントをを潜(くぐ)って見ていました。東本宮でも、二人であれこれやっていました。「日吉大社」は比叡山の鎮守社とのことです。狛犬が本殿の上に鎮座しているのが不思議な光景でした。

■琵琶湖西岸の湖畔を眺めながら疾走すると、湖中に鳥居が見えてきました。「白髭神社」の鳥居です。湖中の鳥居は、夕暮れ時に映えて実に美しく浮かんでいます。「白髭神社」は、垂仁天皇まで遡る近江最古の社と知られています。主祭神は猿田彦命ですが、朝鮮半島との縁をうたう説もあるようです。本殿に参拝して、山の上の方にある神社にも参拝してきました。

■宿泊を検討しました。調べると40km程度先に、道の駅「マキノ追坂峠」があり、レストランは21時までやっているとの情報を得て、電話をしましたが、誰も出ません。20kmほど先の道の駅「藤樹の里あどがわ」に着くと、ここではパンフレットを出して親切に教えてくれました。この近くの温泉は、宿泊優先らしいが、「ささらの湯」を推薦してくれました。さらに少し行くと、「マキノ白谷温泉」があることも教えて貰いました。これが救いでした。

■車に戻り、「ささらの湯」に、念のため電話を入れると、昨日から休業に入っているとのことです。「マキノ白谷温泉」に電話をするとやっていました。食事だけを、道の駅「マキノ追坂峠」で取ろうと思い先に進みました。すると閉まっているではありませんか。トイレだけは立派でした。お湯も出ました。仕方が無いので、さらに先に進むと、なかなかレストランがありません。途中、曲がると奥琵琶トンネルという長いトンネルがあり、其所を出た小料理屋風のところで食事をすることができました。後で調べると、西浅井町まで来ていたようです。その後、「マキノ白谷温泉」に戻り、結局、道の駅「マキノ追坂峠」に停泊をした次第です。温泉は、なかなか良かったのですが、疲れました。こんなこともあります。

「石山寺・懸崖造り」

「日吉大社・山王鳥居」

「日吉大社・西本宮」

「日吉大社・東本宮」

「白髭神社」湖上の鳥居
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045「伊勢参り」と「湖東三山巡り」(2009年12月7日の記録)


「猿田彦神社」

「伊勢神宮内宮」

「伊勢神宮内宮」

「伊勢神宮内宮・御稲御倉」

「伊勢神宮外宮」
■道の駅「伊勢志摩」の夜は、車が揺れるくらい強い風が吹いていました。他に車中泊は3台でしょうか。駐車場はかなり大きいのですが、一部使用禁止としています。割と新しい道の駅ですね。寝る前に、夫婦と思われる人がトイレなどの掃除に来ていました。「寒い寒い」と言いながら、夜の清掃とはありがたいですね。昨夜は案内係の女性の悪口を書きましたが、感謝する次第です。スペイン村を遠望してから、伊勢神宮に向かいました。

■「伊勢神宮」まで、20km程度の道のりですが、すぐに着いた感じがします。手前に「猿田彦神社」があるので先に寄りました。鳥居の横に、「佐瑠女(さるめ)神社」があります。芸能の神様として信仰されているらしいですね。「猿田彦神社」の拝殿がすぐにあるので、参拝をしましたが、本殿を見ると、千木が内削ぎ(水平に切っている)になっています。猿田彦神はニニギノミコトの天降りの先導をした神様です。庭にある置き石が猿に見えるものがいくつかあります。本殿の横に出て、「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造を眺めていると、拝殿では9時からの祭礼が始まりました。

■「伊勢神宮内宮」に向かいました。後日、「猿田彦神社」「外宮」「内宮」の順に廻るのが正解だと指摘されましたが、距離優先で廻りました。「内宮」は駐車場がかなり空いていました。月曜日に来たのが正解だったようです。皇宮警察の姿が目に付きますね。鳥居を潜(くぐ)ると新しい橋が目に入ります。橋を渡りきったところにある鳥居に触れてみました。かつての内宮に使用した材料の転用のはずですね。結構、節がたくさんありました。テレビなどでよく見る長い砂利道が続きます。「明治神宮」よりも長いですね。途中、「みそぎ」をする河床がありました。清らかですが、結構な深さがあります。神楽殿などが途中でありましたが、お正月の準備が始まっています。神明造り風の建物が複数あります。「正宮」に来ますと、次の式年遷宮の敷地を塀を囲って重機で均しています。工事中でした。「正宮」は撮影禁止です。手前にある建物の屋根はかなり傷んでいますね。「正宮」を遠望して、撮影したかったのですが、警官がしっかり立っています。左横に建物があり、白装束の神職が詰めています。「別宮(べつのみや)」をいくつか廻ってみました。「御稲御倉(みしねのみくら)」は、「正宮」の五分の一のレプリカ?らしいですね。

■続いて、「外宮」に向かいました。ここも駐車場が確保されています。砂利道は遙かに短いですね。途中、木々の間から「本宮」らしき建物の屋根が見えます。ここからだと写真が撮れます。歩いて行くと、ここも正月の準備をしていました。砂利を一部鋤取ると、仮設建物の基礎土台が出てくる様になっています。毎年のことですからね。働く人は、白い服を作業服の上に着ています。「本宮」も、やはり撮影禁止でした。ここにも警官と神職の詰め所があります。やはり「別宮」があり、石段を登ると、触れられるくらいに近づけます。すべての「別宮」にも、横に砂利で整地された区域があります。やはり「別宮」もすべて「遷宮」をするのですね。次回の遷宮は、2013年のはずです。戻る途中確かめると、木々の間に見えた屋根は「本宮」でした。「外宮」の千木は外削ぎ(縦に切れている)でした。

■一路、北へ向かい琵琶湖東へ向かいました。東近江市の「百済寺(ひゃくさいじ)」に着きました。駐車場がしっかり整備されています。入ってから本堂までの石段が長いですね。石垣は、山城の跡もあるとのことです。本堂は、内陣にも入ることができます。なかなか由緒ある寺です。聖徳太子が開基とされています。本堂の柱などは相当な虫食い状態です。鐘を自由に突くことができるので、賽銭を払って、ゴ〜〜ン。受付に戻ると、庭園がありました。噂に違わない庭園です。上に登ると、近江を遠望できます。紅葉は終わっていますが、時期であれば美しいと思われます。琵琶湖畔まで見えます。丁度、雲の間から斜めに幾本も光の筋が差しています。と思ったら、太陽が見えてきました。瞬間ですが、「あの世」を見たなと思いました。

■次は、「金剛輪寺」が近いことが判りました。ここの石段は超々〜長い、大変です。道の両脇に、お地蔵さんが並んでいます。300体あるとのこと。本堂も素晴らしい建物です。ここも内陣に入る事ができます。「三重塔」は、鄙(ひな)びた美しさです。庭園も見事です。水雲閣という茶室もありました。開基は行基と伝えられています。

■そして、「西明寺」がまた近くでした。「百済寺」「金剛輪寺」「西明寺」と併せて「湖東三山」と言われているのが、この時判りました。「西明寺」での記録は、以前に書きましたので、そちらを参照して下さい。
この日の停泊は、道の駅「あいとうマーガレット」です。温泉は、「クレフール至福の湯」でした。

「伊勢神宮外宮」

「伊勢神宮外宮・本殿」

「百済寺・庭園」

「百済寺」から琵琶湖畔を遠望

「金剛輪寺」

「金剛輪寺・三重塔」

「西明寺・庭園」
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044 熊野三山を巡り、伊勢志摩へ(2009年12月6日の記録)
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「熊野本宮大社」

「熊野本宮大社」

「熊野本宮大社」

「熊野本宮大社近くの大鳥居」
■湯の峰温泉の朝は、朝靄(もや)がかかり、日本の原風景を改めて味わうひとときでした。ゆったりとした食事もすることができました。昨日、長保寺で購入した蜜柑も甘い味でした。すこぶるお得だったと思います。8時ころ出発したのですが、近隣の人たちが駐車場を掃除しています。道々の側溝までも掃除をしている人がいます。何か申し訳ないような気になりました。本当に、地域意識が強いのだろうと思います。

■20分程度で、「熊野本宮大社」に着きました。厳かな雰囲気があります。両側に幟(のぼり)が続く石段があります。門がありました。特徴的な門ですね。「熊野造り」という拝殿が左横にあり、正面にはまた大きな注連縄がかかった門があります。その中は、撮影禁止でした。中に入ると、出雲に匹敵する雰囲気がありますね。拝殿が自分の後ろにあります。拝殿との仕切りになる幕の裏側で祝詞をあげています。こちらが祝詞をあげてもらっている形になります。思わず幕に拝礼をしてしまいましたが、不味(まず)かったかなと思わず後悔の至りです。

■「熊野本宮大社」は、熊野三山の一つで、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、別名:熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)、熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと))を主祭神としています。現在の社地は山の上にありますが、1889年の大洪水で流されるまで、社地は熊野川の中州にあったそうです。門を出て、拝殿の方に行くと、八咫烏(やたがらす)のポストがありました。宝物殿もありましたが、9時前なので、開いていません。帰りかけると、日本一の鳥居が近くにあるそうです。400m程度らしいので歩いて行くと、離れた場所に、高さ約34m、巾約42mの大鳥居がありました。

■続いて、新宮「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)」に向かいました。途中、白見の滝という場所があるので、車から降りてみると、荒れ果てていますね。縄が垂れ下がっていたので、中に入るとなんと地面が陥没しています。かつては、流しそうめんの店だったようです。横を流れる熊野川が美しいですね。「熊野速玉大社」に着きました。鳥居には「熊野権現」と書いてあります。新宮とは、新しいという意味でなく、初めて建てたという意味との説明書きがあります。熊野本宮には、「首座」と書いてありましたが、こちらは、なにもかも新しい建物です。撮影もすべて良いとのことです。折角ですので、祭壇も撮影させて貰いました。「千木」が「外削ぎ」と「内削ぎ」の両方があります。「熊野速玉大社」は、熊野三山の一つですが、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とするそうです。

■「那智大社(なちたいしゃ)」に向かいました。こちらはすっかり観光地ですね。駐車場も殆ど無く、有料です。例により、何か買ったり、食事をすると無料という駐車場に駐めました。ここは、先払いで400円です。鳥居を潜ると、本殿の前に那智の滝が目に入ってきました。虹が掛かっています。本殿までは費用が掛からないが、那智の滝のそばまでの拝観料は300円だそうです。石段を上がると、「延命の水」がありました。水を飲むためには、盃を100円で買う必要があるようです。先に、300円を納め、虹が出ている滝を見に行きました。滝の落とし口に縄が張っています。帰りに、100円の初穂料を払い、盃を頂いて、「延命の水」を飲みました。100円で、盃も頂いて、延命になるとは安いものですね。先ほどの駐車場に戻り、熊野蕎麦を頂きましたが、後からメニューの「まぐろ丼」を見て失敗したと思いました。勝浦漁協が近くにあるのですね。「熊野那智大社」は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社でした。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神としています。

■一路、志摩半島に向かいました。新宮くらいまでは戻る事になります。途中の海岸線は美しいですね。もちろん晴れているせいもあります。途中、海上保安庁が放水している船の光景に出くわしました。よく見ると、座礁して船が横倒しになっているようです。志摩半島は、複雑な海岸線です。白浜を過ぎると、マリンブルーの美しい入江が続きます。真珠貝の養殖などの景観がぴったりです。村野藤吾の「志摩観光ホテル」に着きましたが、中には入らないで、外観だけを見て帰りました。

■今日は、道の駅「伊勢志摩」に停泊することにしました。道の駅で温泉を聞こうと思ったのですが、照明はついているものの、17時10分前なのに、案内の人がいません。インターネット検索の端末もありますが、とてつもなく遅く、使い物になりません。17時ちょっと前に、案内のおばさんが戻って来ましたので、温泉か銭湯を聞くと、「ひまわりの湯」だねと一言。どこにあるのかと聞きますと、「スペイン村」だとまた、ワンフレーズです。その後が続くかと思ったら、鍵を掛けて帰ってしまいました。信じられない人です。パンフレットが並んでいましたので、「スペイン村」のパンフレットを捜して、電話を掛けて聞くと「ひまわりの湯」は23時までやっているとのことです。訪ねていったのですが、ナビがなければ行けたかどうか自信がありません。途中は、レストランも何も無く、所在は、原野の中でした。大きな施設ですが、食事だけは難しいようです。止むなく、一旦戻り、ラーメン店で簡単に食事を済ませ、「ひまわりの湯」に行きました。お風呂自体は、なかなか良い施設でした。ただ、道の駅「伊勢志摩」は、高台にあり、風が強く吹いていました。環境が人を育てるのでしょうか?

「熊野川」

「熊野速玉大社」

「熊野速玉大社」

「那智の滝」

伊勢志摩へ向かう御浜(みはま)海岸

伊勢志摩へ向かう/座礁した船

伊勢志摩へ「錦湾」

「志摩観光ホテル」
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043 紀伊半島を廻り、熊野本宮近くの湯の峰温泉まで(2009年12月5日の記録)


「根来寺・大塔」

「根来寺・大塔内部」

「紀三井寺・山門」

「紀三井寺・観世音菩薩像」

「紀三井寺・多宝塔」
■道の駅「いずみ山愛の里」で5時50分頃起きました。常に、10台近くが駐まる綺麗な道の駅です。8時過ぎに出発したのですが、天気は、荒れ模様です。雨が降ってきました。和歌山県岩出市の「根来寺」に向かいました。車は、山の中に入っていきます。山の中にあると思いましたが、「根来寺」は山を越えたところにありました。9時少し前に着くと、雨が上がってきました。ここは、多くの落ち葉があります。紅葉も終わりかけのようです。

■「根来寺」の大塔が見えてきました。多宝塔の大きなものを大塔と呼ぶらしいですね。確かに大きい多宝塔です。受付のお坊さんは、不機嫌なのかな。。。撮影しようと思いましたが、大塔が大きすぎて、離れないと入りきりません。大塔も、中に入ることができます。本堂も含めて、由緒が感じられます。平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)が1130年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まるそうです。鳥羽上皇の信を得ていた覚鑁ですが、金剛峯寺座主に就任し、当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたのですが、高野山内の衆徒はこれに反発したため、覚鑁一門は高野山を下りて、根来寺をこの一帯に形成したそうです。奥の院があり、そこに覚鑁の霊廟がありました。

■続いて、和歌山市の「紀三井寺」に向かいました。和歌山市内は国体の施設が立派ですね。「紀三井寺」は、門から本堂まで、長くて高い石段が続きます。石段を野球のユニフォームを来た高校生が上がり下がりしています。著名な高校名を初めとして、複数の高校名が目に付きます。山門を入ってすぐの真ん中で、監督らしき人が腰に手を当てて得張っています。石段の真ん中に手すりがあるのですが、沢山の選手が真ん中を往復しています。年配の方たちは、遠慮して端を歩いています。私も右端を歩いたのですが、年寄りは手すりを欲しがるのではないでしょうか? しかも、疲れた選手は後ろに関係なく立ち止まっています。少しマナーから教育して欲しいと思いました。監督自体に問題があるのでしょう。

■「紀三井寺」は、昨年の5月に完成した仏殿があります。その仏殿に入ってみました。建物は3階建てで、ガラス越しに高さ12mの千手十一面観世音菩薩像が見えます。本堂からは和歌山市内も一望できます。多宝塔は、さらに一段上にあったところにありました。新しく綺麗に修復が終わったばかりのようです。品よく見えますね。1230年前、奈良朝時代770年、唐僧・為光上人によって開基されたお寺です。

■次は、海南市の「長保寺(ちょうほうじ)」へ向かいました。ここには無料駐車場があります。かなり古風なお寺です。天台宗の仏教寺院ですが、紀州藩主歴代の墓所があります。創建は、1000(長保2)年で、年号をとって「長保寺」と名付けられたそうです。受付に行くと、おばあさんの話が長い〜長い〜。説明がなかなか終わりません。でも、お話が結構面白いのです。「紀州徳川の霊廟がある」「秀吉?の焼き討ちを免れて残った」「根來さんは、大塔しか残らなかった」と誇らしげに説明をして頂きました。実際には、根来寺は太子堂も残ったようですが。。。紀州徳川家の霊廟の石の話まで出ました。長持ちするアジロ石だそうです。

■途中で、切り上げさせて頂いて、寺内に入ってみました。確かに、品良く侘びた「本堂」と「多宝塔」があります。多宝塔は、細身ですね。折角なので、紀州徳川の霊廟を少し廻ってみました。山門の前で、ミカンが14〜15個入って、100円で売っていましたので、思わず買ってしまいました。

■南紀白浜へ向かいました。晴れて来ましたので、早めに着こうと、土曜割引を利用して高速で向かいました。白浜海岸は確かに美しいと思います。「三段壁」や「千畳」にも寄りました。しかし迫力では、足摺岬の「天狗の鼻」に負けますね。山側を通り、南紀白浜を遠望してから、「熊野」へ向かいました。山奥に入る感じがします。途中、山の中腹に吊り下げられた何かが気になりました。1時間ほどで、「熊野本宮」近くの「湯の峰温泉」に着きました。

■この後、この先の道の駅に行こうと思っていましたが、この駐車場はなかなか良いと思います。立派なトイレもあります。温泉は22時までやっています。日本最古の温泉だとのことです。一度、その前の食堂に入ったのですが、20時半までやっているとのことで、後から来るとキャンセルをして温泉に向かいました。すぐ横の神社に参拝もしました。共同浴場に行くと、小栗判官の逸話が残る「つぼ湯」もあるそうですが、250円の一般の風呂をに入ることにしました。入るとおじいさんが二人出てきて、北海道や善光寺、大間に行った話をしています。仏ヶ浦も出てきました。浴場には、誰もいませんでした。お湯は熱く、シャワーもありませんが、武雄温泉に並ぶ心地よさです。温泉から上がり、向かいの食堂へ戻りました。ビールが飲みたくなり、タコワサビと中ジョッキを頼みました。その後、キャンセルした蕎麦セットと燗酒を一本頼みました。蕎麦セットには、「めはり」が2個付いています。「めはり」は、高菜に似た葉っぱで酢飯をくるんだものです。結構いけましたね。しかも、久しぶりの日本酒を嗜んでしまいました。静かに、、、静かに更けていく熊野本宮の夜でした。

「長保寺・多宝塔」

「紀州徳川家霊廟」

「南紀白浜」を遠望

「南紀白浜・三段壁」

「南紀白浜・千畳」

「熊野本宮」へ向かう

「湯の峰温泉」

そばセットの「めはり」
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042「室生寺」から「明日香」「斑鳩」「河内」(2009年12月4日の記録)
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「室生寺・山門」

「室生寺」

「室生寺・五重塔」

「室生寺・奥の院」に向かう
■道の駅「針・テラス」で朝起きたのが6時50分でした。まるで寝坊ですね。何度も目覚めたのですが、そのたびに微睡(まどろ)んでいました。9時間近く、寝たことになります。手早く朝の支度をして、8時過ぎには出ることができました。天気は曇っています。時々、パラパラと雨が降ってきます。

■8時半過ぎには、「室生寺」に着くことができました。川をはさんだ手前の道は、お土産街ですね。おじさんが手招きをしています。駐車をしなさい言っています。料金は600円との表示がでています。何となく、奥に進むと、無料のところがありました。何か買い物をすると無料になるとのことでしょうね。おばさんがいて、帰りで良いと言われました。まだ辺りが、動き出していない感じです。一番乗りに近いかも知れません。橋を渡ると、凄い落ち葉の量です。総出で掃いています。流石に雰囲気が良いお寺です。紅葉がかなり落ちたせいか、建物がよく見えます。でも、まだまだ紅葉も美しいですね。

■雨上がりと落ち葉のせいか、しっとりとした雰囲気があります。石段の上に「五重塔」が見えてきました。写真でも判るように、「五重塔」が光り輝いて見えます。軒裏の白いラインが特徴的ですね。800年頃の建立で、高さが18mと小さめの塔です。1998年の台風7号の被害から、完全に立ち直っていました。

■「奥の院」があるので、行ってみると、おじさんが帰ってくるところでした。かなり早い先客があったようです。「奥の院」までは、かなり辛い、石段が続きます。登る、登る。辺り一面が苔むしています。懸崖造りが見えてきました。おじいさんが落ち葉を掃いています。ここから入口方向に向かうようです。「大変ですね」と声を掛けるとにっこり笑っています。「これなら半日掛かりますね」と言うと、「そうなんだと」明るく返事をしてもらいました。「奥の院」を見学して戻る途中、石段の横に切り株がありました。これが「五重塔」を倒した木だろうかなどと思ってしまいました。お土産屋さんに戻り、「回転焼」きを買いました。1個90円で、2個買いました。1個食べてみると、お茶も出てきました。お焼きにヨモギを入れたものです。なかなか美味でした。結局、時間の関係もあり、残りの1個が昼の食事と相成りました。

■「明日香」へ向かいました。以前、観光バスに乗り、「高松塚古墳」、「飛鳥寺」、「石舞台古墳」などを巡った記憶があります。見所が多い観光地は、観光バスが一番良いですね。明日香村の信号が面白いと思いました。青が20秒ですが、赤が4分もかかります。自家用車で観光する場所ではないということでしょうか? 車の姿が見えないのに、赤信号のために延々と待つのは少し辛いですね。しかし、後ろにパトカーがいました。

■途中、「山田寺(やまだでら)遺址」があるので立ち寄りました。7世紀半ばの蘇我氏である蘇我倉山田石川麻呂が開基の寺です。蘇我氏でありながら、乙巳の変(大化の改新)では、中大兄皇子側に立ち、蘇我入鹿暗殺に加担したが、その後、謀反を疑われて自害した人ですね。多分、えん罪だったのでしょう。かつての栄華はまるでありません。

■「伝板蓋宮跡」がありました。蘇我入鹿暗殺の場所です。横に空き地のような駐車場があり、そこに駐めることにしました。今は、畑の中です。隣家の塀の上の飾りが気になります。すると、「酒船石」の標識がありました。看板に沿って坂を登ると、竹林があり、右を指しているので進むのですが、柿の畑に出てしまいました。戻って、竹林の中を散策すると、下の方に竹林の隙間から、石を敷き詰めた池が見えてました。水が其所へ流れる位置を考えると、私が竹林に入った方向が元になります。結局、「酒船石」の矢印があった所に戻ってみると、なんと其所に、「酒船石」がありました。さっき矢印を見た時に、背中側にあったわけです。気がつきませんでした。松本清張の小説「火の路」では、遙か中東のイランとの関係を指摘して、「薬酒」を作るものではないかと提起した「酒船石」ですが、多分、ハズレだったでしょう。

「室生寺・奥の院」/懸崖造り

「山田寺遺址」

「伝板葺宮跡」

「伝板葺宮跡」付近の塀の上

「酒船石」

「酒船石遺跡・水の遺構」

「藤原京朱雀大路跡」

「本薬師寺跡」

「樫原神宮駅」
■続いて、「酒船石」ではなく、「酒船石遺跡」と看板がある方に行ってみました。ここに受付がありました。どうも、本来入る方向と逆に入ってしまった模様です。石が敷き詰められた池があり、水が少し溜まっていました。「亀形石造物」などが池の中にあります。「酒船石」も含めて、大規模な水を流す施設があったロマンを感じるひとときでした。「万葉文化館」は、パスして車に戻りました。「酒船石」の竹林の下に、古い生コンプラントがありましたが、ちょっと悲しいですね。明日香の町を通りながら、「甘樫丘」の方も車で流してみました。

■「藤原京朱雀大路跡」も近いので行って見ました。反対側の田園風景の真ん中にポッカリと山がありました。「耳成山(みみなしやま)」ですね。続いて、通り道に「本薬師寺」がありました。その後、樫原市に向かい、村野藤吾の「樫原神宮駅」を撮影して、横目に「樫原神宮」を見ながら、斑鳩に向かいました。

■「法起寺」に着きました。「法起寺」は、寺の前に車が2〜3台駐まる程度のスペースがあるだけです。中は、すべて写真撮影禁止となっています。706年頃の建立といわれている「三重塔」があります。高さは24mで、日本最古の三重塔と見られています。スタイルが良いですね。寺域が混然としていますが、かつての寺勢が忍ばれます。先客がいて、池の前にあるかつての基礎石を見ています。その石に水が溜まっていて、三重塔の宝輪が写るのです。確かに写るが、撮影はできないそうです。何故だろう。

■すぐ近くの「法輪寺」に来ました。ここには、西岡常一棟梁が建てた三重塔があります。ここの駐車場は、広くとってあります。「法隆寺」から、人が大勢歩いて来ます。三重塔は、築35年、塗装の朱色が雨で落ちて、基壇を染めています。間違いなく美しい塔です。「室生寺」と同じく、ここも幸田文氏が再建に関わっていました。わざと裏道を通り、法隆寺方面に行ってみました。かつて歩いた、中宮寺との間の道を通って、法隆寺の前に出ました。正面にでると、五重塔の頂部を仰ぎ見ることができました。今回は、法隆寺はパスです。法隆寺は、早朝に限ります。

■大阪府河内に向かいました。途中、「応神天皇陵」を見たり、富田林のPL教団の「太平祈念塔」を眺めたりしました。「太平祈念塔」は、ガウディばりですね。「観心寺」に着きました。役小角(えんのおづぬ)が開創とのことです。大きな駐車場です。美しい金堂がありました。ここはすべて撮影自由です。金堂の内部も撮影自由、ビンツルさんの表情が生々しいですね。現在は、高野山真言宗の寺院ですから、空海を祀っています。ここは、「未完成の三重塔」が目的です。発願した楠木正成が討ち死にしたため、初重(1層目)だけが残っているとのことです。

■「河内金剛寺」が思いの外近いので寄りました。こちらも大きな寺院ですね。いきなり車で門から入るようになっています。高野山が女人禁制だったのに対して、女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれています。戦火にも遭わなかったので、貴重な文化財が数多く残されていますね。ここの目的は、平安時代末期の「多宝塔」です。どっしりとした迫力がありました。

■今日の停泊は、道の駅「いずみ山愛の里」にすることにしました。コインランドリーに行って、食事をした後、入浴できる場所を探したのですが、全然、見つかりませんでした。夜も更けてきたため、諦めて寝ることにしました。入浴できなかったのは、初めてです。そして、結果的には、この1晩限りとなりました。こんな日もあるなと思いました。

「法起寺・五重塔」

「法輪寺・五重塔」

「応神天皇陵」

「観心寺・金堂」

「観心寺・三重塔の初重」

「河内金剛寺・多宝塔」
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041 奈良の寺院と古墳巡り(2009年12月3日の記録)
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奈良市内の「三輪神社」

平城宮跡「朱雀門」

平城宮跡「大極殿」

「孝謙天皇陵」

「西大寺」

「西大寺・八角七重塔基石」

「垂仁天皇陵」

「唐招提寺・金堂」
■道の駅「針テラス」の朝、本当に車が多いですね。奈良へ向かいました。小雨が降り続いています。距離優先でナビを設定しましたが、それほどの山道にはなりませんでした。奈良市内に入り、「興福寺」、「東大寺」の横を通ると奈良の「三輪神社」がありましたので、寄ってみました。すっかり住宅街の中です。車を駐めるところもないので、道路に駐めて参拝をしました。創建年代が不詳の神社です。大物主大神を祭神としているのが気になりました。

■「平城宮跡」に着きました。ガードマンの案内に従って、資料館の駐車場に車を駐めたのですが、とてつもなく広いですね。延々と歩きました。「朱雀門」にやっと着いたのですが、大きいですね。「大極殿」が遠くに見えます。またまた「大極殿」まで歩きましたが、工事中で中に入ることはできません。資料館も工事中でしたが、体で「平城宮跡」を感じる事ができました。

■「西大寺」に向かいました。途中、「孝謙天皇陵」があるので参拝をしました。聖武天皇と光明皇后の娘で、重祚(ちょうそ)し、第48代称徳天皇にもなった阿倍内親王(あべのひめみこ)ですね。私は、道鏡に強い興味をもっています。「西大寺」は、道鏡との縁もいわれています。「孝謙天皇陵」には、駐車場が無く、道路に駐めて参拝をしました。近くには、成務天皇陵と神功皇后陵もあります。「孝謙天皇陵」は、全長127mの前方後円墳ですが、その比定は疑問視されています。

■「西大寺」に近づいたのですが、ナビは何度も廻り道を指示します。困ったものです。100円パーキングを見つけることができました。「西大寺」は、かつて膨大な寺域を誇っていましたが、現在は小さくなったと聞いています。しかし、現在も結構な広さがあります。建物の雰囲気は良いですね。昨日の「浄瑠璃寺」と同じ趣があります。小雨の中に、天平の気配が漂っています。しかし、「道鏡」の「ど」の字もありません。かつて計画された八角七重塔の基石が残っていました。孝謙天皇の名が書かれた石碑がありましたが、私には意味不明でした。

■その後、「唐招提寺」に向かいました。途中、「垂仁天皇陵」もありました。かつて、暑い盛りに汗を拭きながらここを歩いた記憶があります。「唐招提寺」の前の古いお土産屋さんもそのままあります。そこで飲んだジュースで生き返った覚えがあります。門を潜ると、「金堂」が何事もなかった様に整然と正面に座っています。以前、来たときは素屋根がかかっていて何も見えませんでした。今は、立派な社務所も建てていますね。お金持ちのお寺のようです。本尊も他も、自然とそのままといった風です。「金堂」の「平成の鴟尾(しび)」の上に鳩が2羽とまっていました。

■「唐招提寺」の向かいの<古い>お土産屋さんで、そばを食べました。おばさんの話では、素屋根を外して間もないそうです。胡錦涛主席が来るのに間に合ったとのことです。先日まで、落慶法要をやっていたそうです。その後、「薬師寺」の前を通り、「海龍王寺」へ向かいました。そういえば、「薬師寺」には、昨日亡くなった平山郁夫の壁画がありましたね。

■「海龍王寺」には無料駐車場がありました。他に人の気配がありません。小さいがしっとりとしたお寺です。高さ4mの「五重塔」が西金堂の中に入っています。遠目には美しいのですが、よく見るとかなり痛んでいます。雨樋に伝わって跳ねる水滴が美しく映えていました。

■街中の「開化天皇陵」を横目に、元興寺(がんごうじ)に向かいました。古い町並みを通ります。まるで車を駐めることができません。諦めて、門前だけ撮影しました。後で調べると、「元興寺」は複数有ることが判りました。今回行ったのは、奈良市芝新屋町の方でした。実際の目的は、奈良市中院町の元興寺極楽坊の方と思われます。またの機会としました。

■雨が降り続く中、「石上神宮(いそのかみじんぐう)」へ向かいました。向かいには天理教の本部があります。天理教本部はとてつもない大きさですね。「石上神宮」は門が面白いです。祝詞(のりと)が聞こえたと思ったなら、鶏の声でした。本殿は、遠くにしか見えません。千木は外削ぎです。古い歴史を感じます。横にある拝殿は国宝でした。オナガドリがたくさん闊歩しています。そして、時々祝詞?をあげています。

■「崇神天皇陵」へ向かいました。駐車場があります。小さい事務所があり、2人がこちらを見ようともせずに何かやっています。一心不乱の様子です。ありふれた天皇陵の雰囲気でした。別名、行燈山(あんどんやま)古墳といわれる全長242mの前方後円墳です。この陵墓も比定が疑われています。遠目の山々に霞みが漂って、実に美しい気配です。周豪には鳥たちがたくさん浮いていました。隣の「景行天皇陵」にも参拝をしてきました。全長300mの大型前方後円墳です。全長では、国内7位の規模です。

■続いて、「箸墓古墳」を目指しました。廻りは住宅街ですね。全長278mの前方後円墳です。周壕から見ると、うっすらと前方後円墳の形が忍ばれます。この古墳は、最古期の前方後円墳として有名ですね。第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓とされていますが、卑弥呼の墓との説もある古墳です。3世紀後半の古墳と見られていましたが、最近の研究から3世紀半ばとの説が有力となってきました。さらに3世紀前半と見られる大型建物群も近くで見つかり、この一帯の纏向(まきむく)遺跡が魏志倭人伝の邪馬台国に比定する説もでています。それはともかく、3世紀の前半から半ばにかけて、この一帯が倭国の中心だった可能性が強くなっています。もっとも「邪馬台国九州説」論者は、躍起になって否定しています。遠くに三輪山が見えていました。

■その麓付近と思われる「大神神社(おおみわじんじゃ)へ向かいました。さすがに大神宮ですね。鬱蒼(うっそう)とした三輪山そのものを神体として祀った神社です。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が祭神です。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などからも「日本最古の神社」と称されている神社です。

■今日の最後に、「長谷寺」に向かいました。紅葉が一番、見頃の「長谷寺」でした。雨が降っていましたが、寺域内をゆっくりと散策し、むしろしっとりとして素晴らしい景観を味わうことができました。「五重塔」も紅葉に映えていました。昨夜、停泊した道の駅「針・テラス」がすぐそばにあります。今回の旅で初めての<連>車中泊をすることになりました。

「唐招提寺・金堂の柱の修復跡」

「海龍王寺・五重小塔」

「海竜王寺」

「石上神宮」

「崇~天皇陵」

「景行天皇陵」

「箸墓古墳」

「大神神社」」

「長谷寺・五重塔」
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