旅の思い出・その11 <次の記事へ>

109 岡山県の棚田を巡り、奈義町を経て原不動滝と天滝へ(2015年11月13日の記録)


岡山県美咲町の小山の棚田

岡山県三咲町の大垪和棚田

岡山県久米南町の上籾棚田

岡山県久米南町の北庄棚田
■アメリカの大統領に就任するトランプが本性を現してきましたね。当選直後の慎重そうな物言いに期待する向きもありましたが、そんな期待をする方がおかしいでしょうね。人の話を聞かない、自分の意見だけを一方的に言い続ける。そんな資質の人がアメリカの大統領になることの恐ろしさに打ち震える思いがします。そう考えると、スタイルは異なりますが、どこかの首相も同じでしたね。(2017年1月15日記)

■2015年11月13日に戻ります。道の駅/醍醐の朝は、目覚ましをかけ忘れていたため、少し寝坊をしてしまいました。起きたのは6:41でした。かなり明るくなっていました。結局、8時間以上寝たことになります。たまには良いでしょう。急いで食事と支度をして7:50に出発をしました。

■岡山県美咲町の「小山(おやま)の棚田」に向かいました。道路状況は良い方です。看板がありました。棚田の案内本と同じアングルの展望に着きました。棚田の枚数は30枚ほどですが、美しい棚田です。続いて、近くの美咲町の「大垪和(おおはが)の棚田」に向かいました。ナビは25km程度の遠回りを示しますが、案内がありました。細い道を通りますが、7〜8kmほどで大垪和棚田に着くことができました。事前準備どおりの道を経由することができました。ナビを信じてはいけません。

 途中、おばちゃん四人が道ばたで花植をしています。棚田の整備も良いですね。標高400mの山間地の谷間にすり鉢状に850枚の棚田が広がります。続いて、岡山県久米南町の「上籾(かみもみ)棚田」に向かいました。再び、ナビは25km程の遠回りを示しますが、事前準備のとおり、7〜8kmで着くことができました。途中、「北庄棚田」の案内もありました。多くの棚田が密集しています。上籾棚田では、たき火の煙が漂っていました。上籾棚田には、約1000枚の田があるそうです。

 少し戻り加減で、やはり7〜8km程度で、久米南町の「北庄棚田」に着きました。ため池が美しいですね。ここも大きな棚田です。2700枚もの田があり、面積は、88haと日本一を誇るそうです。2時間半程度で、大きな棚田を四つ見たことになります。どの棚田にも、目立つところにお墓が建っていました。

■岡山県の「奈義町現代美術館」に向かいました。良く整備された町です。凝った建物が多いですね。しかし、全体にゆったりとした雰囲気があります。奈義町現代美術館は、磯崎新の1994(平成6)年の作品です。荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子という4人の芸術家に、あらかじめ作品の依頼をして建築とコラボレーションをしたというものです。太陽・月・大地と名付けられた3つの展示室で構成されています。円筒形はいかにも磯崎新らしいですね。少し雨が降ってきました。近くに保育園があるのでしょう、小さな子供たちが走ってきました。挨拶をする子もいます、とても可愛いですね。

■続いて、「乙大木谷棚田」に向かいました。案内板が途中にあります。甲大木谷という地名もあり、こちらの棚田群も美しいですね。乙大木谷棚田は巨大な棚田群でした。良く整備されています。約1000枚の田があります。ここでもお墓が景観の良い一等地に置かれていました。


奈義町現代美術館

兵庫県佐用町の甲大木谷棚田

兵庫県佐用町の乙大木谷棚田

兵庫県佐用町の乙大木谷棚田にて

兵庫県宍栗市の原不動滝

原不動滝

原不動滝

兵庫県宍栗市の原不動滝に向かう

原不動滝

■50kmほど先の兵庫県宍栗市の「原不動滝」に向かいました。公園がありました。終わりかけの紅葉が見事です。山間には、雲海のような雲が浮かんでいます。入園料が200円かかりましたが、充分価値はあります。小雨がばらついていましたので、傘をさしての撮影となりました。小さな山門があり、その先に地蔵菩薩(おそらく)がありました。さらに進むと不動明王の扁額が掛かった不動堂があり、その先のかえで橋という吊り橋を渡り、少し山路を登ると、奥かえで橋が掛かっていて、そこから原不動滝が見えて来ました。気持ちの良い散策路です。落葉が敷き詰められています。原不動滝は、落差88mを3段に分かれて落下する男滝と、男滝の最下段部の滝壺で合流する女滝が左脇にあります。

■駐車場に戻った時には、15:00を過ぎていました。次の予定地は「天滝(てんだき)」ですが、30km近く先にあります。さて、どうしようかと迷いましたが、行けるだけ行って見ようと決心しました。道路状況も良く、天滝の駐車場に着いたときは、15:40でした。ここから天滝までは片道40分の登山になります。道路には、2台の車が駐まっていました。ここも終わりかけの紅葉が見事です。

 雨が降っていますので、傘をさしての登山となりました。懐中電灯は必携です。石や木材を使った階段や斜路があります。川の流れや途中にある小さな滝も美しいですね。しのび滝、岩間の滝、糸滝、連理の滝、久遠の滝、夫婦滝、鼓ヶ滝などの名称が付いているようです。撮影をしながらの登山です。紅葉が敷き詰められた橋がいくつも川に掛かっていて、交互に渡りながら山を登っていきます。距離の案内がほとんどありません。600mほど進んだときに休憩小屋が見えて来ました。休んでいる暇はありません。

 少し行くと、年配の二人のおじさんと一人の女性が降りてきました。おじさんが、この先は貸し切りですよと教えてくれました。熊が出ますので、お気を付けてともいわれましたが、それは覚悟の上です。少し行くと、年配の女性が辛そうに降りてきました。一人遅れているようです。可哀想ですね。結局、二組の夫婦なのでしょう。ちょっと冷たいなと思いました。

 途中から、カメラの電池が厳しくなり、予備も厳しい状態になってしまいました。こんな場合は、予備の予備が必要ですね。山路を登り切ると、鉄骨の階段がありました。その先は、丸太を段鼻に使った階段があります。落差98mの天滝が見えて来ました。雨のせいか水量が増えていると思います。頭上から降り注ぐように見えます。素晴らしい景観です。山路は大変でしたが、良く整備されていると思います。息が切れかかっていますが、登って良かったと思った瞬間でした。

 帰り道は、丸太を止めている鉄筋の上で、靴が滑り、尻餅を付きそうになりましたが、何とか耐えることができました。ここで怪我をするわけにはいきません。慎重に降りるに限ります。持ってきた懐中電灯が役に立ちました。少し霧も出てきましたが、何とか薄明かりがある内に車まで辿り着くことができました。携帯電話を見ると家からメールが来ていました。抽選で当たったノンフライヤーが着いたそうです。そういえば、話をするのを忘れていました。電話を掛けようとしましたが、圏外でした。

■20kmほど先にある道の駅/但馬楽座に向かいました。途中、自宅と道の駅に電話をしました。温泉とレストランの確認は必須です。明朝は雲海を見に行くため、朝が早いので、途中のスーパーでオニギリを購入したのですが、何と着いた道の駅にコンビニがありました。こんなこともあります。但馬楽座の温泉は、広いですが、何も無い温泉でした。浴槽でうなり続けているおじいさんがいて、ちょっと煩わしかったですね。それでもコインマッサージをして、天滝登山の疲れを癒やすことができました。レストランでは、寄せ鍋定食を頂きましたが、ご飯がいわゆるメッコ飯のようでした。寄せ鍋はおいしかったのですが、まずいご飯でした。モバイルルーターは繋がりませんでした。


原不動滝にて

天滝登山

天滝登山

天滝登山

兵庫県養父市の天滝

天滝にて

天滝にて
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108 広島から岡山の滝と棚田そして方谷庵・醍醐桜(2015年11月12日の記録)

■2017年になりました。昨年は仕事が切れ目なく続き、ホームページの更新も、旅の記録以外はほとんどままならない状態が続いていました。旅の記録は、すでにあるものを整理して載せるだけですので、それほどの手間はかかりません。それと、旅の記録を見返すという私に取っての至福のひとときを過ごすことができます。ただ、このホームページは市販のホームページビルダーというソフトを使っているのですが、アップ作業の途中、何度もハングアップしてしまうという事態に見舞われるようになってしまいました。昨年の秋にバージョンアップをしたのですが、状態は変わりません。リンクエラーはありませんので、ソフトの不具合としか思えません。巨大化してしまったせいなのでしょうか? 未完成のソフトをバージョンアップと称しながら、修正しつつ売り続けるのは、OSを含めソフトウェアを扱う会社の常套手段です。使用するソフトをパーソナルベースから変える必要に迫られてきました。(2017年1月4日の記録)

■さて、2015年に戻ります。道の駅/豊平どんぐり村で朝5:40に起きました。久しぶりの寒い朝です。外気温5.7度、車内温度9.4度、でも、気持ちが良いですね。停泊は他にもう一台でしょうか。後で分かったのですが、昨日、風呂で一緒だった人でした。神戸ナンバーの車ですが、北海道の大学を出たとのことです。話しかけられて分かりました。夫婦で旅行に来られていました。

 豊平はのどかな田園風景の中にあります。昨夜気になった絵本のような体育館を見に行ってみました。きのこ?の傘を被った大胆な建物です。他の建物も凝っていますね。妙に、田園風景とマッチしています。

■広島県三次市の「常清滝(じょうせいだき)」に向かいました。着いたのは8:49でしたが、もう三脚を持った人が帰ってくるところでした。私の遠く先の方を年配の女性二人連れが歩いています。ほぼ登りの山路が500m続きます。葉は散ってしまいましたが、落葉樹林帯に囲まれています。落差126mの常清滝は、三段に分かれています。水量が少ないですが、なかなか味わいがある滝です。先に着いていた女性の話では、雨上がりには、幅いっぱいに滝が流れて壮観だそうです。

■少し北東に向かい、島根県の「神谷(かんだに)棚田」に向かいました。ナビの設定したところに着きました。石垣の見事な棚田がありますが、どうも違うようです。ナビの示す地名は菖蒲という地域になっています。数キロ北に神谷地域があるので行ってみることにしました。すると、神谷棚田の案内がありました。先ほどよりは規模が少し大きい、良く整備された棚田がありました。こちらも石垣が綺麗です。棚田本にあった画像と似たポイントからも撮影をしました。神谷棚田は、鉄穴流しによる砂鉄採集作業の過程から出る大量の土砂を利用して形成されたと考えられているそうです。

■東に向かい、約120km離れた「山田方谷記念館」に向かいました。2009年の折に訪れる予定でしたが、日程によりパスしてしまったところです。内陸部のため、道路状況を心配していましたが、狭い道があっても見通しが良く、順調に走ることができました。途中、「帝釈峡」に差し掛かりました。看板がありましたので、寄ってみると、有料駐車場でした。400円らしいのですが、それほどの気持ちがないのでパスすることにしました。先に進むと、道路からすぐに広い空き地があり、車が一台停車しています。そこに駐めて見ると、先ほどの駐車場の反対側でした。もちろん無料です。反対側から来た人は、ここに駐めると思いますが不思議ですね。少し先を歩いて見て、帝釈天永明寺を撮影して戻りました。

 山田方谷記念館がある新見市大佐小南に着いたのですが、地番が分かりません。少し車で流してみたのですが、目指す所はどうも国道の反対側のような気がします。国道に出ようとすると、丁度、郵便配達の若い人が来ました。聞いてみると、少し戻った先の山側らしいです。行ってみると案内板があり、すぐに山田方谷記念館が見えて来ました。想像を超えて小さな建物です。静かな雰囲気ですが、入って見ると暗いです。すぐに年配の女性が出て来て、電灯を点けてくれました。さらに年配の男性も来ました。余り来客はないようです。


広島県北広島町豊平にて

広島県北広島町豊平にて

常清滝の入り口

常清滝に向かう

山田方谷記念館

帝釈天永明寺

神谷棚田

広島県三次市の常清滝

山田方谷記念館にて

 個人所有の扁額の一つ以外は撮影可とのことです。ビデオを流してくれました。10分と20分があると言われましたが、10分でお願いしました。年間1.000人のお客さんが来るとのことです。先日もNHKが来たようです。NHKの大河ドラマで山田方谷をお願いするという記帳もありましたが、別に訪館の記帳があるとのことで、そちらに記帳しました。丁度、記帳帳が一杯で最後の一人となりました。新しいのに記帳するかと言われましたが、最後も何かの縁です。

 山田方谷は、幕末の藩政改革者として著名ですが、「武士の娘」を参照して頂ければと思います。すぐ上に「方谷庵」があると教えて貰いましたので、行って見ました。方谷庵は、山田方谷が隠居した際に建てた庵ですが、外祖父母を祀る持仏堂と3畳の仏間,3畳の床の間を中心とした平屋の簡素な建物です。すぐ上は臨済宗のお寺でしたが、昨年住職が亡くなり、家族も引っ越したため、自由に見学できるとのことでした。少し痛んでいましたが、山田方谷の質実な人柄を偲ばせる庵でした。

■当初の予定は、ここまででしたが、一日遅れなのと、昨日かなり進んだため、岡山県真庭市の「神庭の滝」に向かうことにしました。30kmほど先の神庭の滝は自然公園になっていました。駐車場は無料でしたが、入園料300円がかかります。良く整備された紅葉の道を登ると、ニホンザルの生息地で、大学の研究室もありました。今日はサルは出ていないようです。途中、鬼の穴という鍾乳洞がありましたが、パスしました。雨だれのような滝もあります。神庭の滝が見えて来ました。

 神庭の滝は、高さ110m、幅20mの雄大な滝です。今回の旅でも、今のところ3本に入る迫力があります。案内の本では、林道を行くと、滝のそばまで行くことができるようです。滝の中央に見える黒い岩が、落下する水流に逆らって登る鯉に見えることから、「鯉岩」と呼ばれているそうです。確かに、そのようにも見えますね。

■神庭の滝を堪能後、「醍醐桜」に向かいました。大河ドラマ「武蔵」で有名になった老桜の木です。10kmほど、戻ることになります。ナビは迷路のような路順を示します。ナビに従って進んだのですが、行き止まりになってしまいました。国道に戻ると、「桜」の看板がありました。さらに進むと、醍醐桜の案内板が各所にあります。山をどんどん上がると、駐車場が見えて来ました。ここは第1駐車場ですが、第2駐車場がその先にあるようです。先に進んだのですが、駐車場が見あたりません。諦めて、第1駐車場に戻ることにしました。

 上の方に醍醐桜がみえます。桜の開花時期は大変な混みようになるでしょうね。トイレがありましたが、トイレからの撮影禁止と書いてあります。意味がよく分かりません。歩いて行くと、若い女性の二人連れが降りてきました。駐車場にもう一台駐まっていた車の持ち主のようです。

 坂を登ると、醍醐桜がありました。途中にお墓もあります。立派なお墓もありますが、他は無縁墓のような雰囲気があります。いずれにしても、個人の土地のようです。第2代の醍醐桜もありましたが、やはり初代の醍醐桜は見事な形です。可能であれば、桜の咲く時期に来てみたいものです。根本周囲9.2m、枝張り東西南北20m、樹高18m、種類はアズマヒガン(ヒガンザクラの一種)とのことです。

■16時を過ぎましたので、先に進むか、道の駅/醍醐にするか少し迷いましたが、先に進むメリットがあまり感じられませんでしたので、今夜は道の駅/醍醐に停泊することにしました。近くの白桃の湯に電話をすると、最終は21時受付でした。レストランもあり、食事もできるようです。ナビを白桃の湯に設定して進むと、途中、道の駅/醍醐を通りました。道の駅で、寝支度をして白桃の湯に向かいましたが、白桃の湯はホテルでした。ホテルのレストランで、データ整理などと食事をして、19時過ぎに温泉に向かいました。ホテルでは、モバイルルーターも繋がりました。白桃の湯は、大きなお風呂でした。道の駅に戻ると、外気温は9度台でしたので、毛布を掛けて寝た方が良いかも知れません。

方谷庵

玉垂れの滝

神庭の滝

神庭の滝

醍醐桜
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107 再びの由宇から中国地方内陸部へ(2015年11月11日の記録) 


前輪ディスクの状態
■5月のオバマ大統領の広島訪問に続いて、安倍総理が真珠湾を訪問しました。安部総理の言動にあきれることは多々ありますが、ここは率直に評価をしたいと思います。歴史認識や過去への反省がない未来志向のみへ考え方を非難する意見はありますが、今回の真珠湾での演説には一定の評価もしたいと思います。ところが真珠湾に同行した稲田防衛相が翌日、靖国神社に参拝したとの報道に唖然とする思いを抱きました。何を考えているのでしょうね。彼女の拘りが垣間見えます。夏の国会では、答弁に行き詰まり涙ぐむ場面もありましたが、このような人が防衛相に就いている危険を即刻回避すべきでしょう。政府寄りのマスコミは、支持者への配慮が働いたとの記事で報道しましたが、コップの中の世界に生きているとしか思えません。(2015年12月30日記)

■2015年に戻ります。岩国市のシティホテルで7:30に起きました。昨夜は、トムハンクス主演の「キャスト・ウェイ」を観て寝ました。猛烈ビジネスマンが無人島に取り残される映画です。妙な感覚で観ていました。心配したホテルの乾燥はそれほどでもありませんでした。朝食は頼んでおいた和定食。納豆、豆腐、ひじき、サケ、卵焼きなど豪華です。紅茶も頂きました。10:43岩国発のJRに乗る予定ですので、時間はたっぷりあります。ロビーにあったマッサージチェアをしながら日経新聞を読んだり、久しぶりの人並みの雰囲気です。

 結局、時間を持てあまし、9:42の南岩国駅行きに乗りました。190円でしたが、バスという手もあったようです。その方が歩く距離が短かったみたいです。10:05に修理工場に着きましたが、まだ部品が届いていないようです。仕方が無いので、昨日、郷土資料館で購入した「ゆうの史跡・文化財めぐり」を読むことにしました。大歳神社という記述があります。私の原籍となる大年原と関係があるのでしょうか。もう一度、由宇に戻れと言われているようです。

 11時頃、部品が届いて、修理が始まりました。壊れた部品の記念撮影をさせて貰いました。ついでに、飲料水の供給をさせて貰ってから、カウンターの女性と話をしていると彼女は由宇出身でした。大歳神社のことは知らないようでしたが、子供のころ霧峰神社への石段を登ったそうです。由宇の稲荷神社にはウタの得意な「何とかの吉太郎」という有名な人がいたことなどを教えて貰いました。由宇稲荷神社の奥にカラオケがあった所以かもしれません。もっともカウンターの女性は、稲荷神社の奥にカラオケがあったことは知りませんでした。

■12:15に車の修理が完了しました。34,000円とのことでしたが、交渉して1,000円ほど安くして貰えました。再び、由宇です。由宇温泉を通り、大歳神社があるという中倉地区に向かいました。急斜面に小さな棚田があります。岩国CCがすぐ近くです。石風呂の趾という看板を見つけましたが、大歳神社は判りません。おそらくここを登った上だろうという場所がありましたが、止めました。いずれにしても、豊かな地勢に恵まれていたようには思えないところでした。厳しい生活の中にいただろうと推察されます。私の父方のいにしえを訪ねる旅はこれで終わりました。


ディスクブレーキの破損

蛙石など奇岩がある由宇の河川

由宇の大歳神社付近

岩国を過ぎてあった棚田

寂地峡にて

通行止め

■山口県岩国市の「寂地峡五竜の滝」に向かいました。途中、規模は小さいのですが綺麗な石段の棚田がありました。この先に行く予定の「井仁の棚田」のイメージです。南岩国、岩国を通過して内陸に入り、2009年に通った記憶がある道を通りました。「道の駅/スパ羅漢」に着きました。15:40です。渓谷が見事な地です。停泊予定地でしたが、まだ早いので先に進むことにしました。寂地峡はこの先12km程度です。ナビでは曲がった歪路を予想していましたが、それほどでもありません。寂地峡の駐車場に着きました。

 寂地峡(じゃくちきょう)は山口県岩国市錦町にある渓谷です。犬戻峡と竜ヶ岳峡の二つに分かれていて、犬戻峡には、幾つもの滝が連続、特に五竜の滝は滝百選にも選ばれている名瀑です。それにしても、犬戻りとは凄いですね。五竜の滝は、順に
  龍頭の滝:落差14m
  龍門の滝:落差18m
  白龍の滝:落差10m
  登龍の滝:落差8m
  龍尾の滝:上段15m+下段5mの段瀑となっています。

 駐車場から先に歩いて行くと。通行止めになっていました。水害により、堤防等が決壊したようです。少し先にまで進んだと思われる家族が諦めて戻って来ました。何の案内もないので、諦めようと思い、車に戻り、次の「井仁の棚田」にナビを設定しました。なんとか間に合うと思います。その先の「都川の棚田」はパスすることにしました。今夜は、道の駅/豊平どんぐり村の予定です。

 車を出すと、気がついていなかった看板があり、寂地峡の案内がありました。先に進む別な道があり、奥の方に駐車場がありました。トイレもあります。その先は林道のようです。林道を進んで見ようかと思ったのですが、先ほどの駐車場にいた犬を連れた若い女性の二人連れが歩いてきました。何と五竜の滝は左手に見える橋を渡った川の向こう側から行けるようです。彼女たちも行くとのことで、付いて行くことにしました。林道を進んではだめだったようです。全体像が判りづらいですね。それにしても、犬戻峡に犬ですか!

 先に進むと、丸い鉄製の手摺が付いた石段が見えて来ました。最初の滝、「龍尾の滝」です。石段が続きます。途中、滝が複数あります。巨石が川に引っかかっているところがあります。その巨石を利用した橋もあります。途中から急傾斜になってきました。ずっと先を登っていた女性二人がタバコ休憩をしています。その先は、石段がやっと一人通られる位の巾で超急斜面です。手摺につかまりながら登りました。登り切ると、二方向に行くトンネルがありました。


寂地峡 龍尾の滝

寂地峡にて

寂地峡にて

寂地峡 龍頭の滝

寂地峡 龍門の滝

寂地峡 龍門の滝付近

寂地峡 白龍の滝付近

寂地峡 最深部

 一つは宇佐八幡に続く道です。反対方向は現在通行止めのようです。これ以上は行っても仕方がないので急階段を降りると、先ほどの女性達が登ってきました。宇佐八幡の方向は、かなり下る道のようです。それにしても良くこんな整備をしたものですね。石段を戻り、車に戻ったのですが、17時になったので、今日は棚田を諦めることにしました。

■真っ直ぐ道の駅/豊平どんぐり村に向かうことにしました。電話をすると、温泉は21時までですが、レストランのラストオーダーは18:30です。さて、行ってみることにしました。途中で、井仁の棚田の雰囲気がある景色を通りましたが、暗くてよく分かりません。平行して、高速道路が走っています。途中からは、歪路になってきました。後ろから2台の車が付いてきます。対向車もあり、無理はできません。ナビを見ると、途中から、さらに厳しそうな道に差し掛かりました。交差点に来ると、ナビが示す道は大型車の通行が難しいとの表示があります。一旦、立ち止まると、後ろの2台は別な左手の道を進みます。どうもそちらの方が良いと判断して、付いていくことにしました。それが正解でした。豊平どんぐり村に着いたのは18:25でした。

 道の駅に着いたのですが、温泉やレストランの場所がどうも分かりません。大型施設と思ったのは体育館でした。道の駅の200m位先に何やら見えます。バスも駐まっています。そこが目指すところでした。レストランに入ったのは、18:28。ぎりぎり間に合いました。すぐに豆腐ステーキを注文。なかなか美味でした。温泉は小さいですが、良い湯でした。しかし掃除が行き届いてるようには思えませんが。。。温泉の後、PCを持ってきましたので、データ整理をしながら、缶ビールでゆったりと。

 21時近くになったので、温泉から出ると、祭り囃子の音が聞こえます。秋祭りの準備でしょうか。車までの歩いての戻りは、寒かったですね。さすがに内陸にあたります。2005年に広島県山県郡の4町(大朝・芸北・豊平・千代田町)が合併して、広島県北広島町ができたそうです。私の本籍は札幌市豊平区豊平ですが、アイヌ語の「トイェ・ピラ」(崩れた崖)から豊平の名が付いたといわれています。従って、何らの関係もないようですが、札幌市の隣には北広島市があるのも不思議ですね。車に戻ると車内温度17.8度、外気温11.4度でした。毛布もなく、気持ち良く寝られると思います。

宇佐神宮に繋がる洞窟

寂地峡にて
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106 由宇の銭壺山・大将軍山・霧峰神社から錦帯橋(2015年11月10日の記録) 


由宇温泉
■約180年前の江戸末期、第12代将軍/徳川家慶が征夷大将軍となった1837(天保8)年、私の父方の6代前の人となる正藏坊がおそらく由宇で亡くなっています。15代将軍となる徳川慶喜はこの年に生まれています。正藏坊という名が示すように、私の父方の先祖はお坊さんだったと伝わっています。寺持ちだったか、いずれかのお寺に勤めていたのかは一切不明です。我が家の宗派は現在、曹洞宗ですが、6代前がいかなる宗派に属していかも不明です。私の想像では、僧というよりも、神仏習合の時代ですから、山伏に近かったのではないかと考えています。2009年の折にも登った由宇の霧峰神社や銭壺山・大将軍山付近に逼塞(ひっそく)していた可能性が高いのではないでしょうか。

 我が家の過去帳を見ると、正藏坊が亡くなる14年前、正藏坊の長男/宗山が1823(文政6)年に生まれています。名前が示すとおり、宗教に携わっていたものと思われます。宗山は、1896(明治29)年に満73歳で亡くなっていますので、当時としては長生きだったようです。その前後に「槌」が付く男子が2名と他に女子が2名、過去帳に記載されていますが、死亡年しか判りません。親子・兄弟関係は推測の域をでません。

 町村合併で、山口県岩国市由宇町となった現在の由宇は、広島カープの練習場があることで知られていますが、父方の原戸籍と伝わる周防国玖珂郡由宇町第4522番字大年原は、現在も「大歳」の地名が残っていますので、岩国カントリー倶楽部がある付近だったようです。近くには、大将軍山や銭壺山もあります。江戸時代は、長州藩の毛利一門だった吉川家が治めていました。

 5代前の宗山には男子がなく、長女・萬佐に婿養子が迎えられています。玖珂郡伊陸村の藤本家から迎えた禮山が4代前を継ぎましたが、藤本家の長男であった禮山が何故迎えられたのかは不明です。そして私の高祖父にあたる禮山にも男子がなく、長女・ハマに婿養子として、玖珂郡日積村の岩村家の次男・喜太郎が迎えられています。2代続いての婿養子だった訳ですが、この3代前の曾祖父・喜太郎の代の1897(明治30)年、北海道に渡ってきたことが判っています。約120年前のことになります。

 明治維新後の北海道への移住というと、旧士族や屯田兵のイメージが強いのですが、実際には、東北や北陸地方からの移住が大多数を占めています。ところが意外にも、勤王派であった山口県からの移住もかなりの数があったことが判っています。「山口県史・資料編/近代2」を見ると、開拓使を退職した山口県の熊毛郡出身の山本章が、玖珂郡出身の玉井利之助とともに積極的な移民募集活動を続けた結果、1882(明治15)年ころから集団移住が繰り返されるようになったとの記載があります。特に、札幌県への移住が多くを占めています。実際、私の3代前の家族が、1897(明治30)年5月10日に札幌郡白石村大字白石村字大谷地番外地に転地した記録が戸籍簿に残っています。不思議な因縁でしょうか、現在の私の<もより>の地下鉄の駅がある場所なのです。

 最初の移住地が大谷地だったことは、比較的最近知ったのですが、実は、30年以上も前、大谷地で共同住宅の建設に携わったことがありました。その際、近隣の方々との交流があったのですが、古くからおられる数軒の地主とその家族たちのお宅にお邪魔する機会が何度かありました。その時、何故かそれらの方々と古くからの知り合いのような不思議な感覚を覚えた記憶があります。自分のDNAに記憶が残っていたのでしょうか?

 前述しましたが、私の曾祖父・喜太郎は、1873(明治6)年5月2日、山口件玖珂郡日積村で、岩村利左衛門の弟・岩村虎次郎とユキの次男として生まれ、1891(明治24)年に、同い年であった禮山の長女・ハマと縁組(養子)しています。喜太郎もハマも18歳でした。4代前の高祖父・禮山の妻・萬佐(マサ)は、その7年前の1884(明治17)年に亡くなっています。そして長女・リカが1892(明治25)年、私の祖父となる長男・宗治が1895(明治28)年に山口で生まれています。

 1896(明治29)年、喜太郎が22歳で戸主となると、禮山は55歳で隠居をします。同じ年、禮山の義父・5代前の宗山が73歳で亡くなると、翌年、山口県玖珂郡由宇村から、喜太郎夫婦、その父・禮山、子供2人の5人で北海道への移住を果たします。その理由は判りませんが、その後の経歴を見ると苦しかった由宇村から、希望を抱いて北海道へ渡ってきたことが想像できます。私の祖父・宗治が2歳のときでした。

 その後、喜太郎とハマの間には3人の女子(一人は3歳で死去)が生まれますが、義父・禮山は札幌郡豊平村大字月寒村で63歳で亡くなっています。喜太郎は1905(明治38)年、旭川予備病院において「庸看病人」として日給36銭に命じられたという記録が残っています。その翌年に明治37・38年の戦役勤労により陸軍省より金5円の賞与が与えられているということは、丁度、日露戦争があった時ですが、従軍したというよりも、陸軍の予備病院で働いていたのではないかと思われます。いずれにしても、北海道に渡って間もない頃に徴兵されたその労苦はいかばかりであったでしょう。


由宇稲荷神社

由宇稲荷神社の社殿

稲荷神社の奥にはカラオケが

由宇の黄幡神社にて

大将軍山にて

銭壺山から大将軍山を望む

霧峰神社参道

 37歳になった喜太郎は、陸軍関連の仕事を経て、1911(明治44)年、北海道鐵道管理局に「木工」として採用され、札幌工場に勤務しています。翌年には、16歳になった私の祖父である長男・宗治が札幌工作(株)に鍛冶工見習いとして採用された記録がありますが、家族にとって明るい兆しが見え始めたころだったのではないかと思われます。

 私が幼い頃、我が家の離れに大工道具がたくさんありました。不思議な形をしたカンナなどもあり、どうやって使うのかと幼いながらも考えた記憶があります。祖父の父のものだと聞いていましたが、木工だった曾祖父が残した道具だったわけです。木工職として働く曾祖父には、多くの感謝状や表彰状が残っていますので、それなりに優秀な木工だったことが窺えます。また、1917(大正6)年、44歳のときの「国語・製図・英語の修了証書」が残っていますので、年齢を経てからも勉強熱心な人だったことも考えられます。確かに、父などからも優秀な人だったと聞いた記憶があります。私の本籍は札幌市の豊平に置いてありますが、かなりの広い土地を親類と共同で購入したと聞いたことがあります。

 曾祖父・喜太郎には、三男四女の子供がありましたが、次女は3歳で、四女は13歳で、三男は0歳で、次男が20歳で亡くなっていますので、私の子供の頃は、曾祖父の子供は長女と私の祖父である長男と三女が存命していたことになります。しかし、長女は札幌で17歳のときに藤岡家に嫁ぎ、その後、その家族がブラジルに渡っています。現在は、まったく音信不通ですので、その家族がどうなったのかは判りません。古い手紙と写真を見たことがありますが、ブラジル移民として活躍したのではないでしょうか。その家族と相まみえることは難しいと思います。

 曾祖父は、1945(昭和20)年に私が生まれた札幌市豊平で72歳で亡くなりました。私が生まれる少し前のことです。祖父は1988(昭和63)年に93歳、父は一昨年前に90歳で亡くなっています。父方の先祖は、養子も多いですが、総じて長生きなので、特別なことがない限り、私もしばらくは人生を全うしようと考えています。これが、2009年と2015年に渡り、由宇を訪ねた所以です。

■さて、2015年の旅の記録に戻ります。山間の由宇温泉近くの駐車場で起きました。2009年は、とても寒かった記憶がありますが、今回は暖かでした。外気温は12.2度、車内温度は17.1度でした。2009年は0度近くだったはずです。由宇は、由宇川沿いにあり、地名の起こりは由宇温泉の”ゆ”が転化したとの説もあります。現在の由宇川の水流は浅いのですが、かつては小舟が行き来して、農産物を運んでいたとの記録があります。

 由宇温泉は、平安時代から栄えていたという説もありますが、1957(昭和32)年に由宇温泉として発足すると、最盛期には温泉旅館が七軒も営業をしていたようです。。「岩国・広島からの定期バスの乗り入れもあった(ゆうの史跡・文化財めくり/由宇町郷土史研究会編)」との記録がありますが、現在は一軒のホテルがあるのみです。関ヶ原の合戦のあと、岩国藩主吉川広家が、岩国が整備されていないため、最初は由宇に居住したとの記録もあります。江戸時代には、岩国藩の出先機関として由宇代官所がおかれ、海土路、藤生、黒崎、青木、保津、通津、長野、由宇、日積、神代、大畠、柱島の十一カ所村一島を藩より派遣された代官が支配していました。

 由宇の朝の空気感が素晴らしいですね。朝、起きたときの薄明かりの中の星空も素晴らしい空を演出していました。昨夜、購入したオニギリとカップ麺での朝食です。すぐ向かいに稲荷神社がありましたので、参拝をしました。その側には公衆トイレもあります。稲荷神社の奥には、神殿風に作って廃墟となったカラオケルームがあります。前回から変わった気配がありません。稲荷神社には、交通安全のお札がありましたので、500円で購入しました。

■「霧峰神社」に向かいました。数日前からの車の異音が気になります。ナビは、海岸に出てからの道順を示しています。当初はナビに逆らう予定でしたが、車が気になりますので、ナビが示すとおりに進むことにしました。一度、海岸に出て、銭壺山に入りました。ここにはキャンプ場があります。2009年にキャンプ場で、水を汲んだのですが、今回は水汲み場が見当たりませんでした。

 山頂近く、杖を使ってしっかり歩いているおじさんがいました。銭壺山からさらに大将軍山に向かうと、急な坂道に入り、大将軍山の案内板がありました。前回は、この道を車でそのまま登ったのですが、今回は歩いて向かうことにしました。結構な登山になりました。登り切るとNHKのアンテナがありました。この付近には、かつては山で修行をする僧侶が住んでいたとの看板が前回来たときには出ていたのですが、今回は見つけることができませんでした。

 さらに石段を登ると、目指す霧峰神社があります。銭壺山は標高540m、大将軍山は430mの山です。眼下には瀬戸内海を見下ろし、晴れていると四国の石鎚山や九州の国東半島も見渡すことができるそうです。それにしても銭壺山とは凄い名前ですね。海賊が壺に入れて埋めたからなどいろいろな説があるようです。霧峰神社は、「瀬戸内海を航行する船の目印となる大将軍山の形から、中・近世・近代を通じて船関係者の崇拝するところとなり、『大将軍マジ』という風は船乗りに恐れられた」との記録があります(ゆうの史跡・文化財めくり/由宇町郷土史研究会編)。

 霧峰神社には、江戸時代末期には讃岐の金比羅、安芸の宮島とならび称せられるほど参詣者が多かったようです。私の父方の6代前の正藏坊が生きていた時代はそのころのことになります。戦国時代、伊予の豪族河野氏が大島一帯を攻めてきたときに、この地を本拠としてきた海賊の由井氏と守護大名の大内氏の水軍はこの山に登ってくる敵の軍勢を見定めようとしていたが、あいにくの霧でした。その時、一心に八将軍の一である大将軍を祈念したところ、たちまち霧が晴れ、敵の状態が見えたため、戦いに勝利した大内氏がこれに感謝して、後に建てたのがこの霧峰神社だとの説もあります。霧峰神社にて、参拝をして、2009年に続いて記帳をし、お神籤を頂いてきました。


霧峰神社から瀬戸内海を望む

霧峰神社

由宇歴史民俗資料館

由宇歴史民俗資料館内部

人工的な由宇ビーチ

錦帯橋

南岩国駅

由宇図書館の郷土資料

由宇文化会館

錦帯橋

■歩いて、急な坂を下り、車に戻りました。ここからは、由宇駅までは4km、キャンプ場まで4kmとの看板があります。「由宇歴史民俗資料館」に向かいました。また、杖をついて山をジョギング中のおじさんとすれ違いました。車の異音を気にしながら、海岸に向かいました。道を間違え、少し遠回りをしてしまいましたが、資料館に着きました。船の形をした資料館です。2009年には、丁度、日曜日でしたので入館できませんでした。

 入館料は、100円です。安いですね。入るとすぐに北前船の展示があります。由宇には船大工の歴史があったようです。曾祖父が木工となった所以もあるかも知れません。由宇の歴資本「ゆうの史跡・文化財めぐり」がありましたので、1,000円で購入しました。2階の展示をみて、案内の方に教えてもらった屋上から瀬戸内海方面を眺めて、帰りました。続いて、「由宇図書館」に向かいました。途中、ビーチを改造した海岸があります。あまりにも人工的に造られた海岸ですね。

 由宇町は、2006年に岩国市などと合併し、現在は岩国市となっています。前の町役場は支所となり、その隣に由宇文化会館があり、その中に図書館があります。2階の図書館に行ってみました。郷土資料関連を見ましたが、注目すべきものはありませんでした。車に戻り、修理をするために「ネット」を検索しました。岩国と南岩国にあります。南岩国には10km程度で行くことができるようでしたので、南岩国のネッツに向かうことにしました。

■着いたところは、販売店でしたが、近くに修理工場があるとのことです。2kmほど戻り、修理工場に着きました。早速、車を見て貰ったのですが、右前輪のブレーキパッドが破損しているとのことでした。しかもディスクも壊れている可能性が高いとのことです。連日の山路の走行がブレーキの負担を掛けていたようです。そして、修理に入ったのですが、部品の在庫がないということです。どうも岩国に向かえば良かった様です。

 いろいろ手配もして貰いましたが、中古部品もなく、その日の修理はできないということになりました。修理工場に車を駐めたまま、そこで停泊することをお願いしてみましたが、断られてしまいました。止むを得ません、宿泊場所を確保する必要があります。しかし、南岩国には、適当な宿泊場所がないとのことです。結局、岩国に向かわざるを得ないことになりました。岩国のホテル関連を調べた上で、岩国に行ってビジネスホテルを確保することにしました。

 移動には、レンタカーも考えたのですが、JRを利用することにしました。もう昼に近いですし、明日の午前中に修理が完了することを考えると、動き回る必要性が低いからです。レンタカーですと7,000円前後かかります。近くのGSのレンタシェアでは2,980円の幟が出ていました。支度をして、リュックに荷物を背負い南岩国駅まで歩きました。確かに南岩国駅前にもビジネスホテルも無いようです。

 岩国駅に着きました。事前チェックの1番目に電話をすると、シングルは満室だがダブルは空いているということで、すぐに予約をしました。近くなので、すぐに行ってチェックインしました。そして、カメラだけ持って散策です。バスに乗って錦帯橋まで行って見ることにしました。17〜18分で錦帯橋に着きました。錦帯橋・ロープウェイ・城がセットで940円とのことでしたので、購入しようとしたのですが、今日のセット販売は終了したとのことです。15:50でしたが、早いですね。

 錦帯橋は、2009年に歩いて渡りましたが、仕方がありませんので、錦帯橋の河原まで降りてみました。電話などをして、バス停まで戻ったところで、丁度、帰りのバスが出たところでした。どうもタイミングが悪いようです。止むを得ず、錦帯橋の東側の橋を歩いて渡り、錦帯橋やお城などを撮影しました。錦帯橋は、5連のアーチで構成された組木のアーチ橋です。三代藩主吉川広嘉が、明の帰化僧・独立性易(どくりゅうしょうえき)から、杭州の西湖に6連のアーチ橋があることを知り、児玉九郎右衛門の設計により、1673(延宝元)年に完成したものです。しかし、完成の翌年の洪水によって流失してしまったため、敷石を強化して再建したのですが、定期的な掛け替え工事を続けながら、昭和期まで250年以上流失することなかったというのは素晴らしいですね。

 その日は、岩国に戻り、旅に出て以来となる散髪をしました。顔も剃って貰ったため、すっきりとしました。ホテルでは、風呂のお湯の出が悪く、修理などがありましたが、まあなんとか無事に過ごすことができました。ホテルのパブリックネットワークを利用してメールチェックなど、そして久しぶりのベットでの睡眠となりました。山の中で車が故障して取り残される事態にならずに良かったと思います。

錦帯橋

錦帯橋

岩国城
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105 宇佐神宮から関門トンネルを経て山口へ(2015年11月9日の記録) 

■TPPに暗雲が立ちこめたせいかどうかは判りませんが、年金法案を強行採決してしまいました。国会審議を聞いていても、まともな論戦がされているとは思えません。そして、お友達だけで構成された政府の「高速炉開発会議」(議長・世耕弘成経産相)が、もんじゅ後継炉となる実証炉の開発方針を決定してしまいました。続いて「カジノ法案」までも強行採決しようとしています。安倍政権の暴挙を止めることはできないのでしょうか。(2016年12月11日記)

■一年前に戻ります。今日は天候が優れません。昨夜はアルコール抜きでしたが、喉が渇いたので、自販機でジュースを買って飲みました。雨が降っていて湿度も高く暑いのでタオルケットだけで寝ていたのですが、朝方、うっすらと寒くなり布団を掛けて寝ました。起きたのは5:37。外気温19.1度、車内温度は21.7度ありました。雨が降っています。道の駅/いんないは静かな道の駅です。停泊は他に一台のみでしょうか。

 「両合(りょうあい)棚田」に向かいました。道の駅からさらに奥に入る感じです。余裕があれば、昨日廻っておけば良かったのかもしれません。もう一つの温泉候補だった余温泉のさらに奥です。余温泉もかなりの山奥にあります。レストランなどはありません。山間に入ると、棚田群が見えて来ました。撮影スポットかなと思われるところで撮影をしました。雨は上がっています。

 すると下の方に両合棚田の看板とトイレがありました。行って見ましたが、先ほどの方が良いポイントのようです。看板に棚田の絵が描いてありますが、石橋をメインにしています。確かに、先ほど見たポイントに石橋が見えていました。石橋に行くには、少し山を登る必要がありますが、気力が沸いてきません。両合棚田は、宇佐市院内町の余川の支流に広がる谷間の棚田です。約4haの耕地に120枚ほどの棚田が広がっています。石積みで築かれた棚田ですが、余り管理が良くは見えませんが、むしろそれが自然な感じを醸し出しています。記帳BOXがありました。記帳しようと思ったのですが、備え付けられているボールペンが使えませんでしたので、諦めました。

■20kmほど離れた「宇佐神宮」に向かいました。「安心院」と書いて「アジム」と読ませる看板がありました。「あんしんいん」ではないのですね。宇佐神宮は、全国4万社の八幡宮の総本社です。有料駐車場がありましたので駐めたのですが、呉橋がある西参道の駐車場でした。雨が上がっていましたので、傘を持たずに参拝することにしました。下宮から入ったのですが、順序としては上宮が先のようです。一旦戻り、上宮に参拝することにしました。


両合棚田

宇佐神宮(呉橋前)

宇佐神宮 下宮

宇佐神宮 下宮

宇佐神宮の呉橋

宇佐神宮にて

宇佐神宮 下宮にて

 三つの参拝所がありましたが、中央のみに参拝。宇佐神宮の参拝方法も二拝四礼一拍手とのことです。社殿に食い込んでいるとの記憶があったのは、太宰府ではなくここ宇佐神宮でした。記憶はあてにならないものです。絵画館も見学しました。ここに入るのは2度目です。撮影禁止でした。

 私は若い頃、道鏡に惹かれていました。日本の歴史上、皇統を逸脱して天皇になろうとしたのは道鏡だけだからです。道鏡が出てくる小説や歴史書を読みあさった記憶があります。道鏡は、772(宝亀3)年、孝謙(称徳として重祚)天皇の寵愛を受けながら法皇にまで登り詰めますが、称徳天皇が亡くなると、下野国薬師寺別当として下向され、その地で亡くなったとされています。巨根説もある道鏡ですが、それはともかく、何故か私は道鏡に惹かれていました。

 絵画館では、道鏡が皇位に就くことを否定した「宇佐八幡宮神託事件」の主人公である和気清麻呂を称える絵画が並んでいます。もちろん道鏡は超悪役です。和気清麻呂は皇統を救った人物として扱われ、戦前には紙幣の肖像画にも描かれていました。皇居付近でその銅像を見た記憶もあります。絵画館を出ると、美しい鳥がいたので撮影をしましたが、しっかりとした映像を撮ることはできませんでした。帰りは表参道の方から出て、川沿いをしばらく歩いて駐車場に戻りました。

■ここから一気に本州に戻ります。宇佐で119円のガソリンスタンドがありましたので、給油をして、意外と空いていた関門トンネルを通って本州に入りました。本州に入ると、雨が強くなってきました。ブレーキを踏むと異音が目立ち始めました。車の点検をしようと思ったのですが、月曜日のためか、ディーラーは休みです。前の車輪付近の異音ですが、時々、異音がしないときもありましたので、なんとなくそのまま走り続けました。

■山口県山口市小郡の「ぱあと保育園」に向かいました。2015年度の日本建築士事務所協会連合会建築賞優秀賞の作品です。保育園以外の施設も併設をしていました。隣の公園から遠景しました。ガラスのファサードや屋上に特徴があります。保育園ハートアイランド新山口が現在の正式名称のようです。


宇佐神宮 上宮

宇佐神宮 上宮

宇佐神宮 上宮

宇佐神宮 上宮

宇佐神宮 上宮

■同じ山口市内の「県立山口図書館」に向かいました。ナビに従っていくと、「瑠璃光寺」の駐車場に入ってしまいました。そこに車を駐めて、戻り気味に歩いて行くことにしました。しばらく歩くと県庁がありましたが、図書館はありません。後で調べると、県庁が旧図書館でしたが、その時は判りませんでした。山口県庁議会棟もありました。近代建築が並んでいます。近くに案内板がありましたが、目的とする場所は少し離れた場所のようでした。

 仕方がありませんので、元の駐車場に戻り、瑠璃光寺に寄って見ました。五重塔が見えます。美しい五重塔です。雨は降っていませんが、2009年の晴天とは異なる景色です。紅葉も美しいですね。うぐいす張りの階段にて拍手をやってみました。車に戻り、図書館と思われる場所に行ってみました。博物館などがある付近のようです。博物館に車を駐めて歩いて行くと、山口県図書館がありました。かなり古い建物です。鬼頭梓建築設計事務所の作品です。

■本日の停泊予定の由宇温泉に電話をしました。2009年には由宇温泉で食事をしたのですが、現在は宿泊客のみの食事提供になったそうです。入浴は21時までとのことです。防府市右田にある「月の桂の庭」に寄りたかったのですが、時間もなく、公開されていませんので、諦めることにしました。周南市のコンビニで明朝用のオニギリを購入して、事前に調べていた柳井市のコインランドリーに向かいました。すっかり暗くなってきましたが、ナビの示すところにコインランドリーはありません。仕方がありませんので、ナビで周辺のクリーニングを検索して行って見ました。するとコインランドリーを見つけることができました。

 コインランドリーでは、おじさんが掃除をしていました。凄い音です。コインランドリーに洗濯物を入れて、近くのファミリーレストランで食事をすることにしました。レストランで久しぶりの回鍋肉定食を食べてコインランドリーに戻ると、すでに洗濯は終了していましたので、乾燥機に入れて、寝支度やデータ整理などをしました。

 19時半頃に、由宇温泉に向かいましたが、道が狭いですね。ナビが遠回りを示しますので、逆らって近回りをしたのですが、とても細い道です。しかも、両脇が側溝になっていますので、戻ることもできません。車を降りて確認したのですが、車がやっと一台通ることができるほどの狭い道です。辺りは真っ暗です。かなりの緊張を強いられましたが、なんとか脱出をすることができました。由宇温泉に着いたのは、19:52でした。2009年に続いて、坂の上にある駐車場に車を駐めて、温泉ホテルに向かいました。結構、多くの客がきています。宿泊客とカウンターの女性が大きな声で話をしています。

 日帰り入浴料は800円と少し高かったのですが、大きな浴場です。小さな露天風呂もあります。ジャグジー風呂も堪能しました。21時近くまでゆったりとして駐車場に戻りました。駐めていたのは、ホテルの駐車場の横にある空き地です。由宇稲荷神社もあり公衆トイレがあります。2009年には、ホテルの宿泊がかなわず、ここに停泊しました。今回は、最初からここに停泊をする予定でした。その時は、かなり寒かったのですが、今日は結構暑い気温です。外気温18.1度、車内温度22.9度でした。車内にあった焼酎を少し飲んで、寝ることにしました。モバイルルーターは繋がりません。

宇佐神宮 絵画館

宇佐神宮 上宮

山口県山口市のぱあと保育園

山口県図書館

山口県庁

瑠璃光寺

山口県のぱあと保育園
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104 大分県の湧水・棚田・滝・建物を廻る(2015年11月8日の記録)


大分県の原尻の滝にて

原尻の滝

原尻の滝にて

原尻の滝にて
■アメリカのトランプ次期大統領が早々のTPP離脱を表明しました。安部総理が表敬訪問をして間もないうちの離脱表明です。結局、言葉は悪いですが「コケ」にされたことになります。投票数では負けたとはいえ、選挙に勝利してからのトランプの言動に期待をしている向きもありますが、私はそんな期待はしないほうが良いと思います。彼の行動の最悪のパターンを考慮した対応を取るのが最善の道でしょう。トランプ次期大統領は、TPPを離脱する代わりに、二国間貿易協定を言ってくると思われますが、そこではTPPをアメリカ側のスタートラインとした交渉が予想されます。何のためのTPPだったのでしょうか。(2016年11月27日記)

■道の駅/日向も暑い夜でした。夜中、何もかけずに寝ていたと思います。昨夜の焼酎と缶ビールも効いたかもしれません。朝は、5:30に起きました。外気温21.8度、車内温度は24.0度あります。空は雨模様。停泊は3〜4台程度、大型も1台駐まっています。隣のキャンピングカーの人から話しかけられました。和歌山から来られた方です。キャンピングカーで、長期はないけれど時々出かけるそうです。昨夜は、車内でガスを使って料理をされていたのが気になりました。

 曇り空の中、7:10に出発しました。途中のGSで給油をしたのですが、そこでもこの2、3日の陽気はおかしいと言っていました。確かに暑いですね。ガソリンは126円と走ってくる途中のGSが130円台でしたので、安く済みました。ゴミ処理もしてもらって助かりました。北に向かうに連れて、晴れ間が目立ってきました。

■100kmほど走って、大分県の道の駅/原尻の滝に着きました。この道の駅の横に目指す「原尻の滝」があります。熱気球が待機中でした。日曜日なので人の出が期待できるのでしょう。滝の方向に、たくさんの人がいます。。。。と思ったのですが、すべて案山子でした。時刻は9時を少し廻ったところです。まだ、あまり人は来ていないようです。原尻の滝は、ナイアガラの滝を小さくしたような雰囲気があります。幅120m、高さ20mですから、カナダ滝(幅675m、落差56m)、アメリカ滝(幅330m、落差58m)、ブライダルベール滝(幅15m、落差55m)の三つの滝からなるナイアガラの滝と比較するのは少し無理があるかも知れません。吊り橋があり、そこからの眺めることができます。ただ、周りの景観を考えると、このような滝が忽然とあることが面白いですね。

原尻の滝にて

原尻の滝にて

大分県庁本館

大分県庁本館

竹田町にて

竹田町内にて

大分県立美術館

■10kmほど離れた「竹田湧水群」に向かいました。竹田町内に入ったのですが、それらしき場所が分かりません。確かに川があり、その流れは綺麗ですね。国道に戻ると、側溝がそれらしい綺麗な小川の流れを作っています。竹田湧水群は、大分県西部にある湧水群で、名水百選に選定されています。阿蘇山系からの伏流水を水源として、付近一帯に湧水群の景観を呈しているものと思われます。

■続いて、大分市内に入りました。汗を大量にかいてしまいましたので、通りがかりのスーパーマーケットの駐車場を借りて着替えをしました。そして、「大分県庁本館」に向かったのですが、ナビは狭い道に誘導します。なんとか辿り着くと、県庁は日曜日のため、メインエントランスに車ごと乗り付けることができました。人の気配がありません。流政之の壁面レリーフが目立っています。設計は、安田臣を中心とした旧建設省九州地方建築局営繕部です。1962年に竣工しました。近くには、府内城(ふないじょう)の門が見えます。

■続いて、「大分県立美術館」に向かいました。2015年に竣工した坂茂の設計です。坂茂は、ブリツカー賞を受賞しましたが、この大分県美術館は、実務を事務所の平賀信孝が担ったことが知られています。向かいにあった建物が気になりましたが、後で調べると、日建設計が設計したオアシスひろば21でした。1998年に竣工しましたが、大分県一の高さを誇るそうです。

■昼食の後、「内成棚田」に向かいました。どんどん山道を登っていくと、それらしい棚田群が見えて来ました。内成棚田の石碑もありました。美しい棚田ですね。約1000枚の田圃があるそうです。太郎丸直売所と銘した直売所もありました。果物があれば買いたいところですが、野菜が並んでいました。さらに、近くの「由布川奥詰棚田」に向かいました。一旦、戻り、さらに山に入る感じです。斜面に棚田群が見えて来ました。87枚の棚田です。面白みはないかも知れませんが、よく整備されています。

■続いて向かったのは、「震動の滝」です。しかし、その後に行く予定だった「九重”夢”大吊橋」の案内ばかりが目立ちます。先に寄ってみることにしました。ナビに出ていない、新しい道に誘導されます。吊り橋の展望駐車場があったので、駐めました。神社もあります。日本武尊を祀った白鳥神社です。すると、そこは有料300円の看板がありました。でも、他の車は先に進んでいます。少し歩いて先を見に行きました。すると、吊り橋の近くに無料駐車場があります。今回も、桜島の黒神埋設鳥居と同じパターンのようです。車に戻り、先の駐車場に車を進めました。300円は、払わずに済んだようです。無料よりも不便なところに有料の駐車場がある不思議です。それほど混むのでしょうか? 私が駐めたのは、無料の第2駐車場でしたが、少し下には第1駐車場がありました。


オアシスひろば21

内成棚田にて

内成棚田

由布川奥詰棚田

九重夢大橋

 九重“夢”大吊橋(ここのえ“ゆめ”おおつりはし)は、大分県玖珠郡九重町にある、日本一高い歩行者専用の吊り橋です。長さは、2015年に箱根西麓・三島大吊橋(400m)が開通するまでは日本一でした。長さ390m、水面からの高さ173m、幅員は1.5mです。日曜日のため、人出が多いですね。渡橋料は500円でした。渋い表情のおじさんが切符を確認しています。橋を渡り始めたのですが、かなり揺れます。多くの人が渡るせいでしょう。すると、滝が二つ見えて来ました。どうも、奥の方が震動の滝のようです。轟音が聞こえます。撮影を始めたのですが、カメラの電池が切れてしまいました。予備を持っていたのですが、これもすぐにダメになりました。ネットで購入した予備電池は、不良品だったようです。やはりかの国の製品はダメなものが多いですね。まあ、かつての日本も同じだったと思います。

 仕方がありませんので、車に戻り、別な電池を持ってくることにしました。橋を戻り、改札のおじさんにお願いすると、しかめ面だったおじさんから、にこやかに車を何処に駐めたかと聞かれました。第2駐車場というと、第1に持って来た方が良いとまで言ってくれました。とはいえ、車は第2のまま、電池を取りに戻り、改札に戻るとおじさんは機嫌良く入れてくれました。まったく人は見かけによらないものです。

 橋をゆっくりと渡りきると、向かい側にはさらに大きな駐車場がありました。双方から行けるようになっています。渡橋料は、500円で往復が可能です。震動の滝への案内がありました。結局、当初の予定通り進んだ場合は、こちら側に着いたようです。目指す二つのポイントが一緒になっていたのでした。滝壺へは行けないとの事前情報は得ていましたが、やはり立ち入り禁止の看板がありました。まむしに注意の看板もあります。震動の滝は、玖珠川上流の九酔渓にあり、雄滝(落差83m)、雌滝(落差93m)の二つの滝があります。雄滝は水量も多く、その流れ落ちる轟音から震動の滝という名付けられたそうです。橋から見える、九酔渓の紅葉も見事でした。

■橋を戻り、震動の滝も一緒に廻ってしまいましたので、本日の予定停泊場所の道の駅/いんないの近くにある安心院温泉に電話をしてみました。温泉は、22:30まで受付でした。そして、レストランはありませんが、向かいにファミレスがあるとのことです。一度、道の駅/いんないに行ってチェック。安心院温泉との距離は、事前情報では1km程度でしたが、実際には4.7kmほど離れていました。安心院温泉に来てみると、温泉の手前にホテルがあり、その1階にジョイフルが入っていました。食事をしながら、データ整理などをゆっくりと。モバイルルータも繋がり、メールチェックをしたのですが、何故か返信が旨くいかなかったため、電話などをしました。

震動の滝

震動の滝

由布岳

九重夢大橋付近

九重夢大橋から

九重夢大橋を見上げる
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103 佐田岬から南西諸島を望み、日向に返す(2015年11月7日の記録)


道の駅/あすぱる
■アメリカの大統領選でトランプ氏が選ばれました。意外な結果ともいえますが、人々の現状に対する不満がいかに大きいかということの現れだと思います。クリントン女史が美人であることは認めますが、私はあのどや顔がどうも好きにはなれませんでした。イギリスのEU離脱に続く、グローバルへの反旗と見る向きもあります。フィリッピンのドゥテルテ大統領などとも比較され、下品な乱暴者が世界の指導者に選ればれるようになったといぶかる向きもあります。多くの国で、ポピュリズム(大衆迎合主義)が広がっているとの危惧もありますが、それは過去の大戦の悲劇に繋がるからでしょう。

 トランプ氏は、選挙勝利後の今のところは少し大人しくしているようですが、いずれその馬脚を現すのは間違いないと思います。彼は世界平和に貢献する大統領になりたい訳ではなく、アメリカの利益をいかに追求するかしか考えていないのではないでしょうか? 彼にとって、日米安保などはどうでも良いことにしか思えません。そこでブレーンたる人々が重要になってくるはずですが、期待感は沸いてきません。むしろ、核兵器禁止条約に反対したことにみられるように、外務省を中心とした、アメリカ追従政策しか取ってこなかった現在の日本の政権主流派の人々がどのような対策を取るかに注目しなければなりません。過去の政治の歴史をみると判るように、何か政策に行き詰まると、一気に反動に走ってしまう人の意見が強くなるからです。

 そもそもグローバル化自体を問題にすることは、すでに無理な時代に入っていると私は考えています。誰がどう考えようとも、走り出したグローバル化は止めることができないからです。問題があるのは、グローバル化に伴って、人々をむさぼり始めた金融資本主義にあると私はみています。1971年のニクソン大統領による、金兌換停止というニクソンショックにより、ブレトン・ウッズ体制が終結し、世界の実質資本の数倍を超える金融資本が、市場主義という悪魔のごとき手段を利用して、肥大化し、それを一部の人の強欲が取り込み始めたことなのです。年間数億円から数十億円を搾取する経営者の金銭感覚と、一般のサラリーマンの金銭感覚の差が、金融資本主義に内在する問題そのものなのです。働いたことの成果・報酬にそれほどの差があるはずがないのです。

 そして、トランプ氏の問題もそこにあります。グローバルに反対を標榜していますが、実際には、減税を推し進めたり、オバマケアを廃案にするなど、グローバルに内在した問題をさらに推し進めようとしているからです。不動産というバブルの象徴のような、泡のごときもので浮沈を繰り返してきた人物でもあります。いずれアメリカ国民は後悔することになるでしょう。それがいつまでも続くとは思えません。とはいえ、既成の政治家に対するアンチテーゼとしては大きな反旗となるでしょうから、そこから新しい考え方や政治家が新たに派生してくる期待感はあります。

 失敗したアベノミクスですが、いつまでも金融資本主義から抜けきれない日銀総裁を支えることで、景気が良くなり、日本は成長し、一億総活躍の時代が来るなどと信じていること自体に問題があるといえます。問題を内在した金融資本に頼るのではなく、金融資本主義から決別する必要があると私は考えています。(2016年11月13日記)


佐多岬に向かう途中に見た
桜島

佐多岬に向かう

佐多岬にて

佐多岬にて

佐多岬にて

佐多岬にて

■一年前に戻ります。施設名は「あすぱる大崎」となっている道の駅/くにの松原おおさきは、暑い夜でした。朝は、6:10に起きましたが、外気温19.1度、車内温度21.3度ありました。当然、毛布も不要です。昨夜のレストランは、21時までとのことでしたが、21時直前に来た客にも気持ち良く対応していました。南九州では、どうも疑問を感じることが多かったのですが、これは気持ちが良かったですね。小雨が降ってきました。今朝は、少しゆっくりと支度です。少し気分を変えたいですね。停泊は7〜8台と思われますが、現在はたくさんの車が駐まっています。野良猫が多数、うろうろしています。餌をやる人がいるのでしょうね。闘う大きなカブトムシのオブジェが目立っていました。

 昨夜は、40〜50km稼いだと思ったのですが、ナビは来た道を戻る方向を示しています。向かう先は「佐多岬」ですが、海岸線を走るルートもあります。しかし、道が険しそうなのでパスをしました。結局、来た道を約24km戻ることになりました。天気はすっかり晴れて来ました。鹿児島湾沿いに佐多岬に向かう道を走っています。途中には、展望ポイントが多数あります。開聞岳と桜島を左右に見ることができます。少し霞んでいますが、素晴らしい景色ですね。植生は南の国の景観を示しています。佐多岬へは、多少ローカルな道もありますが、問題なく向かうことができました。

■佐多岬に着きました。佐多岬は、鹿児島県肝属郡南大隈町、大隈半島南端の北緯30度59分10秒、東経130度39分42秒に位置する九州最南端の岬です。四国の西に張り出した佐田岬と名前に似ていますね。かつては、先端部に行くには入園料がかかりましたが、現在は公営となり無料で歩いていくことができるようになっています。バスが一台と車が複数駐まっています。展望台までは、500m程度を歩く必要があります。すぐにトンネルがありました。トンネルを過ぎると第1展望台があるのですが、工事中のため行けません。第2展望台に向かいました。

 コンクリートの道や石段を上がったり下がったり、ソテツが群生しています。美しい蝶が舞っていますが、撮影は難しいですね。かなりの年配の人たちが戻ってきます。途中、神社がありましたので参拝。海の向こうに噴煙を上げている島が見えます。最近ニュースで話題となった口之永良部島かなと思ったのですが、後から硫黄島と分かりました。太平洋戦争で日本軍が玉砕したという現在は小笠原諸島に属する硫黄島とは別の島です。途中、何度か海の景色を撮影しながら、第2展望台に着きました。しかし暑いですね。28度もあります。夏の服は用意していませんでしたので、かなり辛い状況です。


佐多岬にて

佐多岬にて

佐多岬にて

佐多岬にて

佐多岬灯台

 パノラマ撮影などをしていると、ガイドの年配の男性と若い女性がやってきました。女性から、和歌の会の方ですかと聞かれましたが、意味が分かりません。札幌から来ましたと言うと、あの200万都市かといわれました。実際は、190万ですが、200万都市といわれているのですね。年配のガイドの方が色々説明してくれました。第1展望台が完成するのは3年後だそうです。ここで、口之永良部島と思ったのは、硫黄島だったのが分かりました。硫黄島の横にほのかに見えるのが口之永良部島だそうです。屋久島もふんわり見えます。種子島も見えます。ガイドの方の説明では、屋久島が見えることは珍しいとのことでした。屋久島が見えたときは、翌日は雨になるそうです。天気予報と一緒ですね。結局、佐多岬には、1時間以上いました。

 後で調べたのですが、大隅諸島(おおすみしょとう)は、南西諸島のうち鹿児島県に属する薩南諸島北部の島嶼群ですが、鹿児島県に属し、種子島、屋久島、口永良部島、馬毛島などがあり、黒島、硫黄島、竹島の三島については、大隅諸島に含まれるとする説と含まれないとする説があるそうです。人口は、推移があると思いますが、西から、黒島(くろしま)の人口は199人。硫黄島(いおうじま)は、114人。竹島(たけしま)は、78人。口永良部島(くちのえらぶじま)は、137人。屋久島(やくしま)は、約1万3千人。種子島(たねがしま)は、約3万3千人が住んでいるそうです。

■大汗をかいてしまいましたので、シャツを取り替えて、ここから一気に道の駅/日向に向かいました。ナビは215km先を示しています。景色を堪能しながら走りましたので、道の駅に着いたのは18:10でした。コインランドリーも考えていましたが、無理でした。温泉のサンマーク日向が近接しているとのことでしたが、分かりません。車で探しにいきました。案内では300mとのことでしたが、往復0.9kmです。まあ歩く距離ですね。道の駅に戻り、寝支度をして歩いて温泉に向かいました。大きな浴場です。電気風呂や露天風呂もあり、ゆっくりと浸かることができました。

 レストランでは、刺身定食を注文しました。お酒は白霧島を一合。麹の違いにより、黒・赤・白があります。店員に聞くと、最近は金が出たとのことです。お酒と刺身定食をゆったりと頂くことができました。夕方、雨がパラ付いたのですが、今は降っていません。モバイルルーターは繋がりませんでした。今回の旅の最南端をクリアしたことになります。

南西諸島を望む

硫黄島を望む
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102 鹿児島から桜島・開聞岳を望んで錦江湾を東に廻る(2015年11月6日の記録) 


高千穂峰を背景にした御池

鹿児島県姶良市の龍門滝

尚古集成館

尚古集成館から観た桜島
■核兵器禁止条約の制定に向けた交渉を来年はじめからの開始するという決議が2016年10月27日の国連総会第1委員会で採択されました。123カ国が賛成、38カ国が反対しました。日本は、驚くべきことにアメリカとともに反対に回りました。従前は、同様な採択の際、棄権をしてきました。棄権をすることさえ、問題といえましたが、それが反対に回るという恐ろしい判断を誰がどこで決めたのでしょうか? 国会等でその論戦があったとも思えません。

 ニュースで見ると、岸田外務大臣は、核の抑止力に基礎を置く国際安全保障のバランスが崩れるためと語っていましたが、核兵器禁止に賛成することが、国際安全保障のバランスが崩れるとはいったいどういうことでしょう? バランスを維持するためには、核兵器は現状で良いとの論理になってしまいます。結局は、アメリカの核の傘の下に入っている日本が、アメリカに反対をする訳にはいかないという理由だけなのでしょう。アメリカのお仕着せ憲法を嫌う人たちが、なぜアメリカに追従しようとするのでしょうか。唯一の被爆国である日本が、世界に向かって、核兵器に反対しないという意思表示を示したとだけにしか思えません。「もんじゅ」の対応を含めても、日本独自の核兵器所有の可能性を残したい、為政者側の論理が垣間見える愚かな施策といえます。(2016年11月6日)

■丁度、一年前に戻ります。道の駅/ゆーぱるのじりは、かなり暑い夜でした。起きたときは、外気温11.5度、車内温度15.8度。ここは、外部のトイレだけでなく、ウォシュレットの付いた道の駅本体のトイレも使えます。天気予報では、鹿児島地方の今日の気温は26度まで上がる予想です。停泊は10台程度、他に大型2台が駐まっていました。向かいにはコインランドリーもありました。今日も、多少雲がありますが晴れています。「龍門滝」に向かいました。昨日はえびの高原を横断しましたが、今回は迂回して東回りとなります。再び、霧島神宮近くを通り、南に向かいました。

■途中、御池(みいけ)があったので、撮影してみました。御池は宮崎県都城市と高原町の境界にある直径約1kmの円形の火口湖です。標高は305mにあり、火口湖としては日本で最も深い93.5mがあります。約4200年前の霧島山のマグマ水蒸気爆発でできた火口に水が溜まって形成されたものです。霧島山が湖面に映り、湖の存在を忘れさせてくれます。鹿児島県姶良市にある龍門滝は、網掛川中流にある高さ46mの滝ですが、街中にあるにも関わらず見事な滝でした。行きが少し登りになっているのも、良いですね。帰りがきつい登りになる下り坂ほど、ためらいを感じることはありません。実際の高さ以上に、広がりと壮大さを感じさせてくれる滝でした。


尚古集成館

尚古集成館の孟宗竹

なの花館

なの花館の全景

なの花館

■次は、鹿児島市の「尚古集成館」に向かいました。少し手前で、119.8円のガソリンスタンドの看板を見て給油です。しかも、ノズル式の洗車は無料です。尚古集成館は、海岸に面しています。駐車場は狭いですが、案内もいて駐車料金300円は安い方だと思います。受付に行くと、多数の女性担当がいて、案内をしてくれます。仙厳園(せんがんえん)と尚古集成館セットで1,000円でした。ここには、10年以上前に来たことがあります。仙厳園に入ると、ロシア人風の団体がいました。大きな庭園ですが、反射炉の模型もあります。30年前に復活したという薩摩切子も展示されていました。尚古集成館に行ったのですが、入場券をどこかで落としてしまったようです。お願いするとパンフを持っているので、入館させて貰えました。島津家ゆかりの品々がありますが、撮影禁止です。桜島を見ながら、およそ1時間ほど散策をしていました。10年前には、桜島の途中まで登った記憶があります。

■鹿児島市内を通り、「なの花館」に向かいました。それほど道路が混雑しているとは思えませんが、結構時間がかかりますね。以前、一人でそうめん流しをしたことがある巨大うなぎで有名な池田湖の看板を横に見て、指宿市に入りました。なの花館は、想像を超える巨大施設でした。ナビにはハローワークと掲載されています。運動施設などもあるようです。年間維持費が2億円もかかるため、多くが使われていないとネット上にも出ています。建物周りを回るだけで30分以上も掛かってしまいました。このような施設を考えた人もおかしいですが、造ろうとした人もおかしいですね。現在の正式名は、「なのはな館鹿児島県高齢者交流センター」です。指宿市出身の高崎正治設計の1998年の作品です。北海道にある「上湧別ふるさと館」も同氏の設計です。

■日本最南端の駅といわれる「JR西大山駅」が近いので、寄って見ることにしました。開聞岳(薩摩富士)が正面に見えます。駅に着くと、黄色いジャンパーの人がいて、案内をしています。西大山駅は、鹿児島県指宿市山川大山の北緯31度11分にあるJR九州の駅です。正確には、2003年に開通した沖縄県のモノレール線の赤嶺駅(北緯26度11分36秒)が現在の最南端の駅なのだそうですが、まあ、どちらでも良いでしょう。

■「佃の棚田」に向かいました。場所の特定は難しかったのですが、なだらかな斜面の台地に無数の棚田がありました。石垣はほとんど使われていません。野菜類も栽培されています。この辺りでは、二毛作が可能でしょうね。佃の棚田は、作付面積16.3ha、127枚の棚田があるそうです。14時を過ぎましたので、知覧武家屋敷はパスすることにしました。同じ道を通りたくないため、高速道路を利用して、鹿児島湾の東側に抜けることにしました。

■指宿有料道路は630円、その先の名前が分からない有料道路(スカイライン?)はちょっとだけ走って320円でした。カーブも多く、余りスピードも出せません。九州自動車道に入って、やっとETCが使えました。合計2,200円でしょうか?高速を抜けて「輝北天球館」に向かいました。途中から、大型車通行不可との表示もある片側一車線を通りましたが、対向車もほとんどありません。しかし、かなりの急勾配もあります。その前から、車の状態で気になることが起きていました。ブレーキをかけると、何かにこすれる音が聞こえる様になっていたのですが、後に辛い状態になることになります。


なの花館

JR西大山駅

佃の棚田付近

輝北天球館

輝北天球館

輝北天球館から観た桜島

改修工事中の輝北天球館

 輝北天球館は、鹿児島県鹿屋市輝北町の輝北うわば公園内にありました。桜島が見えるほとんど山の上にあります。星空継続観察で四季連続日本一となったことを記念して、1995年に竣工しました。設計は、なの花館と同じ高崎正治です。実に奇怪な建物ですが、足場を架けている最中でした。築20年ですが、改修が必要になったものと思われます。実は、この建物は、私が以前勤めていた建設会社が施工を担当しました。RC造の建物ですが、躯体を形成する型枠大工は北海道から行ったと記憶しています。私は何も関係はしていませんでしたが、何となく一度来てみたいと思っていた建物でした。それにしても複雑怪奇な建物です。

■「桜島」に向かいました。かつては島だった桜島ですが、1914年の大噴火で、東側の大隈半島と陸続きとなりました。西側の鹿児島市からは船で渡るようになっています。丁度、桜島の西側に日が沈むところでした。今日の停泊場所の予定の道の駅/たるみずを通り過ぎました。橋を渡り、「黒神埋没鳥居」に向かいました。暗くなってきましたが、鳥居の表示があり、駐車場との表示もあります。車を駐めて、降りて行くと、有料100円と出ていました。100円を入れようと思いましたが、ここからは少し歩くようです。先の方に駐車場が見えましたので、車に戻り車を移動しました。何とこちらはより整備された無料駐車場でした。トイレもあります。詐欺みたいな話です。付近には、お墓がありますが、小屋に囲まれたお墓が多くあります。火山灰対策と聞いています。

 黒神埋没鳥居は、1914(大正3)年の大噴火で、桜島が陸続きになったときに、約1mを残してほとんど埋没してしまった鳥居を、当時の東桜島村長・野添八百蔵の「後世に噴火の脅威を伝えよう」と意向を汲み、保存されたものです。かなり暗くなっていましたが、なんとか撮影をすることができました。

■道の駅/たるみずに電話をしました。案内本では水曜日が休みとなっていましたが、今日(金曜日)は温泉が休みとのことでした。明日はやっていますといわれましたが、それは私にとってどうでも良いことです。こんなことも時々あります。事前確認は本当に重要です。調べると、50km先に温泉付きの道の駅がありました。道の駅/くにの松原おおさきです。温泉は22時、レストランは21時までです。すっかり暗くなった道を大崎に向かいました。車が混んでいましたが、19:10に着くことができました。

 すぐに寝支度をして風呂に向かいました。お湯が熱く、電気風呂もあり、露天風呂の雰囲気が良いですね。その後、ゆっくりと食事をしました。なかなか魚にありつけることがありませんので、サンマ焼き定食とゲソの唐揚げと生ビールです。疲れのせいか、アルコールが良く効きました。車内にもどり、整理などをしたのですが、とにかく暑いですね。外気温18.9度、車内温度24.3度もあります。モバイルルーターが繋がりましたので、メールをチェックすると、旅行前に応募していたネット上の抽選で、ノンフライヤーが当選していました。11月9日までに返信をしないと無効になるそうです。危ない危ない。妻が驚くでしょう。

桜島と夕日

黒神埋没鳥居

黒神埋没鳥居付近のお墓

桜島と輝北天球館
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101 五木から八代市・球磨村を経由して霧島へ(2015年11月5日の記録)


球泉洞の森林館

ウィンズ八代

ウィンズ八代付近の海岸

八代市博物館

鬼の口棚田

■ニュースによると、フランスは高速実証炉「ASTRID(アストリッド)」の開発費約50億ユーロ(約5700億円)の半分を、日本に対して要請するとの報道がありました。1兆円もかけたという日本の高速増殖原型炉「もんじゅ」の<廃炉>を想定した場合の、<代替え>がASTRIDに期待されているからです。現在の日本政府は、高速炉研究と核燃料サイクルの継続を明言していますが、それがいかに愚かなことなのかは、改めて書く気も起きてきません。

 有識者といわれる方々の論調を聞いていると、外国とも共同開発をすべきではなく、「もんじゅ」を継続すべきという意見まであります。もうなにをか言わんやでしょうね。今日のネット上の産経ニュースでは、第一面に「『もんじゅ』廃炉…原発はムダだったのか? 原発停止による燃料費増加こそ問題 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦」が掲載されていました。氏は、「失敗は成功のもと」のことわざまで出しています。

 呆れてものが言えないような内容ですが、詳細は、本文をご覧下さい。リンクは張りません。原子力は、すでに夢のエネルギーではなくなったことに何故、気がつかないのでしょう。それは、原子力をエネルギーとは捉えていないからだとすると説明が付くことです。(2016年10月22日記)

■話題は、1年前に戻ります。道の駅/五木子守歌の里は、静かな道の駅でした。停泊は、2〜3台でした。国道に面しているため、時々、車が通ったり、道の駅のトイレを利用する人がいますが、ほとんど気にならない静かな道の駅でした。朝は、5:40に起きました。外気温11.1度、車内温度13.4度と少し暑いくらいです。とはいえ、毛布は必要ありませんでした。少しゆっくりとして、7:30に出発しました。昨夜、ルートを検討したときは、南に下り、高速を通る計画でしたが、すぐ近くの橋を渡る車が多いのに気づき、八代市方面にはこちらが良いのではないかと思い、挑戦してみることにしました。

 高速道路は、確かに早いのですが、日本全国どこを走っても同じ景色で、面白みに欠けます。高速を走るよりも、スリルに満ちた山道を走る方が、さまざまな景色を堪能することができます。結果は大正解でした。片面一車線の道が続きましたが、八代市に入り、「八代市博物館」に8:36に着くことができました。約48kmの行程を1時間強で走ったことになりますので、ほぼ満足です。


鬼の口棚田の石積

球磨川にて

松谷棚田

 八代市博物館は、1991(平成3)年ころの伊東豊雄の作品です。得意の楕円形を使った形状や、屋根が交差する姿が伊東豊雄らしいですね。全体のデザインも素晴らしいです。大傑作といえます。この辺りは、2016年4月の熊本大地震で被害を受けたところが多いと思いますが、この博物館も、大地震後作品保護のため、一時期閉館していたとネットでも報じられていました。

■続いて、「八代市保寿寮」に向かいました。ナビに案内されるまま、海岸線まで来ましたが、それらしい建物がありません。目立つ建物は、JRAのウィンズ八代(東畑建築事務所設計)があります。海岸線の景色も素晴らしいのですが、保寿寮が見当たりませんでした。後で調べると、住所が1kmほど間違っていたようです。しばらくウロウロとしたのですが、諦めることにしました。八代市保寿寮は、1994(平成4)年の伊東豊雄の作品です。

■熊本県の球磨村方面に向かいました。球磨村に入ると、写真で見た円形ドームが連なる「球泉洞」の「森林館」が見えて来ました。球泉洞に行ってみることにしました。案内に従って進むと、一旦、建物に入り、お土産屋さんの内部を通る設定になっています。外に出ると、受付があり、長靴が用意されていました。見学料は1,050円でしたが、どうも入る気持ちが湧いてきません。球泉洞は、標高694mの権現山に3億年かけて自然が刳り抜いた九州最大の鍾乳洞です。総延長は4.8kmもあるとのことですが、全体の雰囲気を味わった感がありましたので、そこで帰ることにしました。

 球磨村の「鬼の口棚田」に向かいました。国道から球磨川に掛かる橋を渡ると右が鬼の口、左が「松谷棚田」です。2〜3kmで鬼の口棚田に着きました。棚田選定の看板があります。石垣の見事な棚田です。来た道を少し戻り、松谷棚田に向かいました。球磨川では、ボートがたくさん浮かんでいます。川下りをしているようです。7〜8kmで松谷棚田に着きました。山間に広がる結構、大きな棚田です。那良川沿いの10haに広がる約150枚の棚田です。景観も良いですね。山羊が放牧されているそうです。棚田方面に道が繋がっているので、進んでみました。近くによると、放棄田が目立ちます。稻わらを干す作業をしています。さらに狭い道を進むと、国道に出ることができました。

■「霧島山麓丸池湧水」に向かいました。近くに来たのですが、場所が分かりません。近隣をしばらく走り、どうしても分からないので駅に行ってみました。すると、看板があり、駅の反対側が丸池湧水でした。駅に車を駐め、自由歩道を渡る方法もありますが、車で行ってみることにしました。丸池湧水は、確かに透き通る様に美しい湧水でした。私には見慣れない種類のトンボもいました。水を汲むところもありましたが、車から少し離れているので、パスをしました。湧水町にある丸池湧水は、湧水を堰き止めてできた池です。近くには、近代化産業遺産に登録されている丸池湧水煉瓦暗渠があります。霧島連山付近に降った雨が浸透して、35年かけて湧水しているそうです。

■鹿児島県霧島市の「千里ヶ滝」に向かいました。ナビでは位置を設定することができません。近くには、「霧島神宮」がありますので、そこから辿って見ることにしました。霧島神宮に着きましたが、一度、通り過ぎて、事前に用意していたタブレットの地図データとナビデータを比較しながら進んでみました。木々に覆われた暗い道路を進むと、千里ヶ滝の案内がありました。さらに狭い道を進むと、千里ヶ滝の駐車場に出ることができました。数台の車と人がいます。九州電力の看板もあります。


松谷棚田

松谷棚田

松谷棚田の稻わら干し

丸池湧水

千里ヶ滝付近

千里ヶ滝

千里ヶ滝に向かう

霧島連山を望む

千里ヶ滝の滝壺

 案内に従って、200mほど下ると川が見えて来ました。電力の施設もあります。かなり急斜面の石段を降り、RC造のトンネルをいくつか通ると、三脚を持ったおじさんが登って来ました。「紅葉には早かった」とのことです。さらにしばらく進むと、千里ヶ滝が見えて来ました。なかなか良い滝です。石段は、さらに続くので行ってみました。しかし、小さな滝がいくつかありますが、千里ヶ滝は見えなくなり、電力施設だけになりました。降りた甲斐はなかったようです。戻ることにしました。

 千里ヶ滝は、霧島川上流の渓谷にある三段の滝で、落差は75m(上段50m、中段20m、下段5m)あります。全体像を見ることは難しいのですが、水量もあり、コバルトブルーの水が赤みを帯びた岩に厚いしぶきを上げる滝壺付近の景観は、良いですね。さて、帰りが大変です。急な石段を、汗をかきかき、休憩を挟みながら車に戻りました。上に着ていたシャツを交換しなければならないほどの汗をたっぷりとかいてしまいました。

■来た道を戻り、「霧島神宮」に寄って見ました。思いの外、大きな神宮ですね。何かイベントがあるようで、参道が塞がれています。西の日光ともいわれるそうですが、広島県生口島の耕三寺の方が派手でしたね。耕三寺も西の日光といわれています。耕三寺は飛び抜けた感じがありますが、ここは少し俗化され過ぎた感があります。火山の麓にある立地条件のため、何度も炎上したと伝わります。

■本日、停泊する予定の道の駅/ゆーぱるのじりに電話をしてみました。レストランも温泉も21時までとのことです。ナビをえびの高原を通る設定にて、「出の山湧水」に向かいました。高原の景色は、味わいがあります。途中、飛行機が描いた雲と標高1,700mの韓国(からくに)岳を最高峰とする霧島連山のシルエットが見事でした。それにしても、霧島に韓国があるというのも、日本と韓国の生業の深さを感じますね。「不動池」があり、深いコバルトブルーが夕暮れのなかに沈んでいました。

■えびの高原を下り、薄暗くなりましたが、17:30ころに「出の山湧水」に着きました。湧水群というよりも、公園といった感があります。湧水量は確かに豊富ですね。ホタルや、チョウザメの人工ふ化で有名になりました。すっかり辺りは静かになっていました。道の駅/のじりには、18:05に着きました。大きな道の駅です。温泉には、露天風呂はありませんでしたが、電気風呂があり、マッサージをしてきました。温泉のあと、鯖焼き定食と冷や奴で生ビールを頂きました。21時ころまで、ゆったりとさせてもらいましたが、モバイルルーターは繋がりませんでした。

霧島神宮

霧島神宮

霧島神宮

えびの高原

えびの高原の不動池

出の山湧水公園
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100 阿蘇から高千穂峡、通潤橋、梅の木轟公園吊橋を経て五木へ(2015年11月4日の記録)

■このところ地方議会の政務活動費の管理のルーズさが各地で報道されています。あの2年前の涙ながらの恥ずかしい会見を思い出すたびに、かような人物がなぜ選挙で選ばれたのかが疑問でしたが、どうも感覚のずれた政治家は彼ばかりではないようです。それらは、ほとんど詐欺に近い行為ではないでしょうか? 2016年の国会(参議院予算委員会)では、稲田防衛大臣と菅官房長官の白紙の領収書への自己記入が指摘されました。メディアはほとんど東京都の豊洲問題ばかりを報道していますが、これはもっと報道されても良いニュースだと私は思います。

 諸般の事情を勘案しても、国会の場で、「何ら問題はない」と開きなるのは如何なものかと思います。せめて「今後は気をつけます」くらいのことが言えないのでしょうか? 所管の高市総務大臣の答弁も、「問題なし」としたようですが、このような人物が総務大臣ということに恐ろしさを感じてしまいました。

 私も貰った領収書の宛名を自分で記入したことがあります。会社名を説明することが面倒だったからですが、金額を自分で入れたことはありません。さらに、良識あるお店では、空白がある状態では領収書を発行してくれません。それが、本来の常識の範囲内ではないでしょうか。

 話題が変わりますが、前回、眼の硝子体手術をすることに決まったと記述しました。手術の日取りも決まり、その入院・手術準備と、同時に白内障手術のレンズ選定のために、先日、病院に行きました。実は、その2日前から、以前のように新聞がかなりの程度で読めるようになっていました。眼科に行き、各種の検査をした際に、少し目が復活したと説明したのですが、看護師さんにはなかなか取り上げて貰えませんでした。1時間半近く、説明やら準備やら検査の後に、やっと眼科医と話をしたのですが、網膜剥離の原因となっていた網膜を引っ張っていた部分が取れた可能性があるといわれました。そして、眼球の断層撮影の結果、それが証明されました。

 断層撮影写真を見ると、前回では一ヶ所、引っ張られて凸状に出ていた部分が、見事に、今回は凹状態に戻っていました。眼科医の説明では、「希にある」とのことでした。「想定内」ともいわれましたが、良く分かりません。事前に、ネットで調べた限りでは、自然治癒はないとの情報に満ちあふれていたのですが、何と私の目は復活を遂げてしまいました。手術も中止となったのです。入院・手術のため、一週間程度、予定を空白にしていたのですが、少し余裕が出てきたのはありがたいことです。前回書いた以上に、人の体は本当に不思議ですね。これで、置き去りにしていた自作パソコンの製作に取りかかることができます。(2016年10月10日記)

■2015年に戻ります。道の駅/阿蘇の朝はよく冷えていました。外気温4.4度、車内温度は8.4度でした。毛布を掛けて寝て正解でした。とても多くの車が停泊しています。茨城の人から、北海道からですかと声を掛けられました。北海道にも行かれたことがあるようです。茨城からですと、北海道よりも九州の方が遠いと仰っていました。食事は、コンビニ弁当専門とのことです。向かいの方では、車内に子犬が3匹もいます。昨夜も啼いていましたが、私には考えられない同伴者です。

 起きたのは5:45でした。阿蘇山方面が霞んでいます。左手の山には、雲がやんわりと掛かっています。7:20に出発しました。高千穂方面に向かいました。ナビは阿蘇の外回りを示しています。ナビに逆らって、阿蘇山中央突破を予定しています。道の駅からは、すぐに山中に向かう道があります。看板があり、「草千里」で通行止めとの表示が出ていましたが、行けるところまで行くつもりです。多くの車も向かっています。

 阿蘇坊中から、阿蘇山中に入りました。道はどんどん山の上に向かっていきます。巨大なカルデラの風景が見えてきました。南北25km、東西18kmに渡る数回ののカルデラ噴火の名残です。9万年前の噴火では、海を隔てた160km先の山口県の秋吉台にまで火砕流が及んだと言われています。多くの人がそのカルデラの中に住んでいる不思議感があります。翌2016年の4月には、最大震度7を越える「熊本地震」が発生し、多くの被害をもたらしました。地震の巣の上に住んでいるのが私たち日本人の宿命ともいえます。如何に備えるかが肝要なのでしょうが、なかなか難しいですね。


阿蘇横断

阿蘇横断

阿蘇横断

高千穂町武道館

高千穂神社

高千穂峡にいた鬼

高千穂峡

高千穂峡

高千穂神社の鎮め石

栃又と尾戸の口棚田付近

 阿蘇の風景には、余り木がありません。行き止まりと思った草千里に着きましたが、他の車が先に進むので、行けるところまで行ってみました。大きな展望台と駐車場が眼下に見えます。噴煙を上げる阿蘇山が先に見えました。周りには馬が放牧され、自然な景観を写しています。

■山を下り、高千穂に向かいました。高千穂に入ると、「高千穂町武道館」がありました。楠山設計の1991年の竣工です。続いて、2009年にも寄った高千穂神社に行ってみました。梁間2間の五間社流造銅板葺の本殿を持つ神社ですが、三毛入野命の神像などの彫像が壁面にあります。本殿横には、「鎮め石」があります。この石に触れると悩みや世の乱れが鎮められるというありがたい石だそうです。人によっては、電気に触れたような感覚があるそうです。私は、パスしました。

 折角なので、高千穂峡に寄って見ました。途中、駐車場方面に促されたのですが、逆らって先に進んでみました。そちらには、無料の駐車場があったのですが、どうも遠いですね。車で戻り、促されるままに駐車場に駐めました。有料で500円でした。道路脇では、駐車禁止の番をしている<鬼>がいます。高千穂峡と真名井の滝を撮影して、今回はすぐに駐車場を出ました。2009年の折には、一人でボートを漕いだ記憶があります。高千穂峡は、阿蘇カルデラをつくった火山活動により流れ下った火砕流が溶岩疑灰岩となり、その後、五ヶ瀬川の浸食により深い渓谷が形成されたものです。

■「栃又棚田」に向かいました。しかし、近いはずですがどうも分かりません。案内もないため、らしきところで撮影をしました。さらに進むと、「尾戸の口棚田」らしきところに着きました。二つの棚田は、川を挟んで対面しているようです。尾戸の口棚田らしきところから、栃又棚田らしきところが遠望できます。もう一度、栃又棚田に行ってみましたが、良い撮影ポイントはありませんでした。栃又棚田は、面積24.46ha、棚田の枚数は748枚、尾戸の口棚田は、面積16.43ha、棚田の枚数は780枚とのことです。さらに、「徳別当棚田」にも向かったのですが、ここもらしきところしか分かりませんでした。徳別当棚田は、面積25.41ha、棚田の枚数は720枚です。いずれも山間部にある、古い農村風景のなかにありました。

■予定をしていた、五ヶ瀬町の鳥の巣・下の原・日蔭棚田は、時間的にパスをすることにしました。熊本県山都町の「五老ヶ滝」に向かいました。その途中、「通潤橋」にさしかかると、丁度、放水中でした。道の駅があり、その駐車場に入りました。放水下流付近は、小学生の団体で凄い混みようです。周りは棚田にもなっていて、迫力ある通潤橋の放水状況を見ながら、斜面を登ってみますと、橋の上には子供たちが並んでいます。手摺も何もありません。ここから見る棚田の風景も良いですね。しかも、例によって一等地にお墓があります。一帯は、予定リストにはあげていませんでしたが、「白糸台地の棚田」と呼ばれている場所でした。

 橋の上を歩いて見ました。丁度、放水を止める作業中でした。橋の上の地面にマンホールのような箇所があり、その配管部に止水栓を入れていました。通潤橋は、熊本県山都町にある、石造のアーチ橋です。江戸時代の1854(寛永7)年に、阿蘇の外輪山となる五老ヶ滝川の谷に架けられた橋です。石造単アーチ橋の通潤橋は、長さ78m、6.3mの幅、高さは約20mとのことです。橋の上部には、3本の石管が埋設されており、白糸台地一帯の棚田に水を供給しています。橋の横では、かなりの水流が轟音を立てて谷を下っています。通潤橋に供給されない場合は、こちらを水が流れるのですね。

 2016年4月に発生した熊本地震では、この通潤橋も被害を受けたとのニュースも見ました。石管や石管の接続部分に使われている漆喰に被害が発生したようです。しかし、橋自体には目立った被害は見られなかったことからも、当時の石造技術の確かさが確認されました。しかし、手摺も何もない橋ですが、これまでも一切の事故がないということも素晴らしいですね。

 予定していた、五老ヶ滝に向かいました。車に戻り、案内に従って進んだのですが、間もなく駐車場がありました。神社もあり、通潤橋の築造に貢献した人が祀られていました。斜めにカットされた神社の千木に特徴があります。通潤橋の概要を説明した案内もあります。五老ヶ滝の案内に従って、先に進むと、先ほどの通潤橋の上の反対側に出てしまいました。どこかで間違ったようです。すると、先の方から三脚を持った人が歩いてきました。聞いてみると、その方も初めてのようでした。


栃又と尾戸の口棚田付近

栃又と尾戸の口棚田付近

徳別当棚田付近

通潤橋

通潤橋の放水

通潤橋の上

通潤橋の上から見た棚田

白糸台地の棚田

 少し戻ると、滝の方に下りる道がありましたが、閉鎖されています。三脚を持った人は、小学生の団体が先を歩いて行くのをみたそうです。一緒に行ってみると、滝への別な降り口がありました。往路5分と出ています。滝壺方面に行く道と、さらに別な方に行く道に分かれています。三脚の方とはここで分かれました。私は滝壺の方へ行ってみることにしました。かかり急な石段が続きます。石段は、油断すると滑りそうです。

 滝壺が見えるところに来ました。虹が掛かっています。五老ヶ滝は、熊本県山都町にある矢部四十八滝の一つ、かつては轟川(とどろきがわ)と呼ばれていた五老ヶ滝川の水が流れ込む落差50mの滝です。行きませんでしたが、別な道を行くと、吊り橋があり、そちらから滝壺を見ることができるようになっているようです。往路5分はしっかり掛かりましたが、急な石段です。復路は倍以上掛かりますね。石段を登っていくと、小さな子供を抱えた若い夫婦が下りてきました。滑るので危険ですよと声を掛けましたが、少し危ないですね。

■続いて、「菅迫田(すげさこだ)」に向かいました。84戸からなる山間集落があり、日本の農村風景を醸し出しているとの認識でしたが、ナビの示すところにはらしき場所がありません。熊本県の棚田は、案内看板がなくもありませんが、観光資源とは捉えていないようです。それはそれで仕方がないともいえます。地域により、観光資源と捉える自治体と、観光客には余り来て欲しくないと考える自治体があることはやむを得ないでしょう。農家にとって観光客を迷惑と考えるのも、一つの考え方だといえます。

■熊本県八代町の「せんだん轟の滝」に向かいました。これが大変な行程となりました。県道445号線は、とても狭い山道でした。しかも対向車がひっきりなしに来ます。バスも向かってきます。その度に、交差のためバック、又バックとなりました。今までで、一番苦労した行程でした。しばらく進むと、吊り橋が見えて来ました。思わず、先に進んだのですが、戻って見ることにしました。タイミング良くUターンができたため、吊り橋にあった駐車場に車を駐めました。恐ろしいほどの吊り橋です。「梅の木轟公園吊橋」でした。

 後で調べると、長い間幻の滝とされていた「梅の木轟の滝」へ渡るために、1989(平成元)年に建設された、長さ116m、高さ55mというPC吊床板橋だそうです。歩いて渡ってみましたが、なかなか恐ろしいですね。途中まで行って、戻ってしまったのですが、後で調べると失敗でしたね。仕方がありません。車に戻り、せんだん滝目ざして山道をさらに進んだのですが、どうも分かりません。実は、今も分かりません。もう一つ先の道路(五家荘)を山に入ったところのようですが、このときは山道の行程で疲れ切ってしまっていました。後で調べると、橋の途中まで渡ったせんだん轟吊り橋からも行くことができるようになっているようです。

■時刻も16時を過ぎてしまいましたので、今日の停泊予定だった道の駅/不知火にナビを設定すると、来た道を戻ることになります。そんな気力はもう既にありませんでした。もう一つの候補としていた道の駅を探すと、やはり十数キロ山道を進むことになります。さらに良く調べると、道の駅/五木というのがありました。五木の子守歌の道の駅ですね。30数キロ先になります。翌日の行程となる八代市までは30数キロで着くことができます。

 電話をすると、温泉も食堂もあり、21時まで営業しているそうです。ラッキーでした。途中、郵便局に寄ってお金を降ろしたりをして、17:41に道の駅に着きました。寝支度をして温泉「夢唄」に向かいました。大自然の中にある温泉です。空いていたため、ゆったりと温泉で落ち着くことができました。行程を変えて大正解でした。レストランでは、とんかつ定食と寄せ豆腐と生ビール。突き出しのゴボウの炒め物が美味しかったです。とんかつも厚めで、揚げたてに感動しました。付いていた蕎麦は太い田舎そばでした。道の駅ではモバイルルーターは繋がりませんでしたが、ゆったりとしたひとときを過ごすことができました。

五老ヶ滝

菅迫田棚田付近

梅の木轟公園吊橋の上

梅の木轟公園吊橋
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