旅の思い出・その10 <次の記事へ>

099 島原から諫早湾を渡り、福岡から熊本、阿蘇へ(2015年11月3日の記録)


谷水棚田の稲わら

谷水棚田

雲仙普賢岳

道の駅/みずなし本陣の夜明け

小浜町の天満神社
■10日ほど前から、新聞が読みづらくなり、PC画面の字が霞むようになりました。疲れ目かなとも思ったのですが、右目だけで見ると、中央部が霞み、視野が暗くなっています。私は元々、右目使いなのですが、左目に比べて右目が極端に悪いといわれて、40年以上もメガネを外せない生活を送ってきました。ところが、年齢と共に老眼が進み、メガネをかけると新聞や書籍の字が見えづらくなり、逆にメガネを外すと比較的よく見えることから、メガネを外すことが多くなってきました。遠近両用メガネも試したのですが、どうも私には合わなかったようで、遠距離専用のメガネを使うようになっていました。

 車を運転するときはメガネを使い、本を読むときはメガネを外す生活をしばらく続けていたのですが、家にいることが多くなるにつれ、メガネを外していることが増えてきました。かつては風呂に入るときもメガネをしていたことがウソのような生活になっていました。しかも訓練(?)のせいか、遠くもメガネなしで結構見えるなとも思っていたのですが、一昨年の運転免許更新の際、思い切ってメガネなしの視力検査に挑み、見事にカンが当たり、運転免許証から「常時眼鏡携帯」の条件を外すことに成功したのです。

 年齢を経たにも関わらず視力が回復したのではないかという成功体験は、私の人生に取って大きな収穫だったのです。ところが、前述のようにPCの画面も天眼鏡を必要とする状態になった今、私の人生には、一瞬にして暗い影が漂うになってしまいました。そこで、思い切って、眼科専門の病院に行ってみたのですが、「黄班円孔・黄班上膜剥離」と診断されてしまいました。眼球の中心部の網膜が剥離しているのです。これは、硝子体手術しかないといわれてしまいました。同時に白内障も進んでいるので、一緒に手術をしようということになりました。

 結果が良かったとはいえないのですが、どちらかというと、私はその結果に安堵を覚えてしてしまいました。目の病気になったのは辛いことですが、手術をすれば直るからです。このまま一生付き合わなければならないのかと思っていた辛さから、開放される望みが生まれたことになります。そして今気付いたことがあります。それは、メガネなしが多い生活を続けていた結果、遠くを見るときは、比較的視力がある左目使いになっていたのです。近くは右目、遠くは左目と使い分けていたのです。本当に人の体は不思議です。(2016年9月25日記)

■旅に戻ります。今日は、祭日です。道の駅/みずなし本陣ふかえは、大きなトイレがある大きな道の駅でした。キャンピングカーも6台、他に5台程度が停泊でしょうか。朝は、5:40に起きました。脚の腫れは引いたようです。昨日も禁酒日となりました。星空が綺麗でした。毛布は必要がないほどの気温でしたが、起きたときの気温は9.9℃、車内温度は14.7℃でした。朝日が薄紫色に輝いています。その朝靄を背景に雲仙普賢岳が不気味な煙を漂わせていました。大規模な火砕流が発生してから、24年を経ています。

■長崎県南島原市の「谷水棚田」に向かいました。九州方面の棚田は、これまでのところ、比較的山道を走る頻度が低いですね。谷水棚田は、耕作面積約4.5ha、約230枚の棚田です。丁度、干していた稲わらが美しい景観を形成していました。石垣も立派です。二毛作の棚田です。

 続いて、「清水棚田」に向かいました。途中、小浜町大亀にある諏訪の池付近で、湾を背景に町並みと棚田のコンストラクトが良かったので撮影をしました。そばには、天満神社がありました。石積みも美しいですね。清水棚田に着きました。石積みが豪華です。一等地にはやはりお墓があります。整然とした棚田ですが、約6,500枚もあるそうです。千々石町というところでは、棚田米があちらこちらで売られていました。道路端でも売っています。すぐに食べるのであれば、買いたいところですね。


小浜町付近の景観

清水棚田

諫早湾を渡る

広内・上原地区棚田

■次は、「広内・上原地区棚田」ですが、ナビは、島原半島を戻る方向を示しています。設定を敢えて変えて、有明海を渡ることにしました。諫早湾(いさはやわん)の干拓事業で環境保全が問題となっている場所です。ここも海の中道となっています。ナビでは、湾の中に道路だけが標示されていますが、西側は石を積み上げた岸壁になっています。中間には、展望台もあり、トイレも設置されていました。有名になったギロチンは、湾の反対側にある少しの区間だけでした。ニュースだけ見ていると、もっと長いものと思っていましたが、実物を見なければ分かりませんね。

 諫早湾の干拓事業は、かつて進められた国土を拡幅しようとした国などの事業と、漁業権、環境保護が複雑な争いとなり、無駄な公共事業との批判も受け、司法判断も分かれるなど方向性が定まらない状態となっています。まったくもって無駄の象徴となっていますが、いずれかの方針を決めるべき時に来ているのではないでしょうか?日本の公共事業のジレンマの象徴ともいえます。

■予定していた吉野ヶ里遺跡は、往路で寄ってきましたので、一気に福岡県の八女市方面に向かいました。さらに、福岡県星野村にある「広内・上原地区棚田」に近づくと、石垣の棚田が続いています。これは大変な量の棚田が続いています。八女茶の茶畑の景観も美しいですね。星野村の名前を付けた星之茶の名称もあります。展望台がありました。撮影ポイントは、際限なくあります。

■続いて「つづら棚田」に向かいました。直線距離では、近いのですが、一旦、大きな道路に出て、再び山に入りました。約28kmの行程となりました。少し不安を覚える山道でしたが、つづら棚田の案内があります。途中、何カ所も看板がありましたが、どんどん山に入っていきます。とはいえ、引き返すような場所もない細い山道です。道を外せば谷に真っ逆さまとなります。しばらく走ると、明るい道に出てきました。一気に石垣の棚田の展望台がありました。

 谷の反対側を見ると、走ってきた道とは別な道があるようです。棚田を巡る散策路があり、夫婦が歩いて来ました。ここで、ちょっと道を間違えてしまいましたが、再び戻り、約300枚の石で積まれた階段状のつづら棚田を撮影することができました。秋の米の収穫時期には、黄金の稲穂に彼岸花の真っ赤な花が彩りを添えるそうです。そんな時に、もう一度来てみたいものです。

2009年にも停泊した、道の駅/阿蘇の温泉に電話をしてみました。22時まで営業しているようです。レストランはなく、近くの阿蘇駅のレストランが17時までです。2009年には、そこでカレーライスを食べた記憶があります。ここには、コインランドリーがありますので、途中のスーパーで、巻き寿司や牛蒡サラダ、野菜系と鳥の唐揚げなどを買って、道の駅に向かいました。ここでまた、少し道を間違えてしまい、山道を5km程遠回りして、道の駅に着くことができました。この付近には、木が余り生えてないですね。

 コインランドリーで洗濯をしながら食事です。少し食べ過ぎの感がありましたが、データ整理などもして、19:30に温泉に歩いて向かいました。ここの温泉は、お湯が熱く気持ちが良いですね。小さな露天風呂もあり、趣があります。コインマッサージをしてゆっくり、近くのコンピニで缶ビールも買って、数日ぶりにアルコールも頂くことができました。モバイルルーターが繋がり、メール受信ができたのですが、何らかの不具合(DNサーバが不明とのメッセージ)があるようです。

広内・上原地区/手前は茶畠

広内・上原地区棚田

広内・上原地区棚田

つづら棚田

つづら棚田
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098 佐賀から長崎(2015年11月2日の記録)


道の駅 厳木にて

道の駅 厳木にて

蕨野棚田

蕨野棚田

■小池新都知事が、次々と軌道修正に手を打っています。期待感があります。今後の動向に注視したいと思います。それにつけても、何か問題が起きる度に、国にお願いをするとしか言わない知事とは一体何なのでしょうね。

 今上天皇が退位を希望されてから、政府関係者や保守系の有識者のあたふたぶりが目立っています。天皇の意向を無視しようとした企みも少しずつ見え始めています。あそこまでしっかりと公開されては、何もしないとは言えなくなりましたね。彼らの予想を超える天皇のお言葉だったといえます。

 昭和天皇が靖国参拝を中止したという事実と理由を無視して、靖国参拝を続けようとする保守系あるいは右系の政治家やそれを取り巻く人たちが奉ろうとする天皇家とは一体何なのでしょう。彼らは、天皇個人よりも、万世一系を標榜する天皇の歴史を守りたいのでしょうが、自分たちに都合の良く、物言わず、奥に隠れている存在を求めているかのようです。天皇の名を借りて、専制政治を行ってきた歴史に問題があったことは明白といえますが、その轍を何度も繰り返そうとする人たちの存在とは一体何なのでしょうか。

 民進党の代表選に立候補をしている蓮舫参議院議員の二重国籍を問題化しているメディアがあります。私には、まったく理解できません。日本の国籍を持ち、長年住み続けて活動している人が、他国にも国籍があることの何が問題なのでしょう。日本を単一民族と言った馬鹿な政治家がいましたが、そちらの方が遙かに問題だと私は考えています。縄文と弥生の文化を考えても、明らかに日本は混血を含む多重民族なのです。一体に何にしがみつきたいのでしょう。(2016年9月11日記)

■道の駅/きゅうらぎ「風のふるさと館」は、佐賀県の佐賀市と唐津市のほぼ中間にあります。夜のうちに雨が上がっていました。朝靄に霞む景色が絵のようです。5:45に起床しましたが、薄明かりのなかの朝食となりました。停泊は、5〜6台程度でしょうか。大型もいます。交通の要所らしく、夜中の交通量も多いです。観音像のような白い巨像がありました。現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘、佐用姫(さよひめ)でしょう。弁財天のモデルともなったといわれています。昨夜入ったきゅうらぎ温泉も佐用姫の湯となっていました。トイレは仮設ですが、新しいせいか木の香りが漂っていて、とても綺麗でした。

■7:26に出発しました。「蕨野の棚田」はすぐ近くです。石垣が見事な棚田です。やはりお墓が一等地に鎮座しています。石垣の石には、苔状のものが生えています。蕨野の棚田は、佐賀県のほぼ中央、八幡岳北側斜面に扇状に拓かれた「野面積み」といわれる石積みの棚田です。石は、玄武岩。棚田の規模は、約36ha、約700枚です。

■北に向かい、「浜野浦棚田」を目ざしました。玄界灘の海岸線が美しいですね。玄界灘を背景とした浜野浦棚田も美しい棚田でした。私が持っていた「日本の名景・棚田/森田敏隆/光村推古書院」に出ていた写真は夜景でしたが、その写真が案内板に使われていました。恋人の聖地との看板もあります。九州の棚田は、良く維持されています。大小283枚の棚田が階段状に石積みによって整備されています。

■予定外でしたが、「名護屋城址」が数キロ先なので寄って見ました。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた城です。もともとは松浦党の支族名護屋氏の居城・垣添城があった場所です。秀吉の死後、朝鮮及び大陸への侵攻が中止となり、廃城、建物の一部は唐津城に移築されたとされています。名護屋城の石垣を築いた技法が、近隣の棚田の石積みに繋がったのでしょうね。途中には、日本初のプルサーマル発電をした3号機がある玄海原発がありましたが、これまでも度々問題が起きている原子力発電所です。特に1号機の老朽化は深刻な問題です。


蕨野棚田

浜野浦棚田

名護屋城址

大浦棚田

鬼木棚田

国見峠

■続いて、備前町の「大浦棚田」に向かいました。こちらも湾が背景の美しい棚田です。広い道路に面しているため、観光客が多数います。やはり、一等地にお墓が建っていました。湾自体も実に美しい景色です。予定に入れていた「土谷棚田」はパスすることにしました。佐世保市に向かったのですが、途中の「国見峠」の景観が素晴らしかったので撮影をしたのですが、写真の出来はイマイチでした。明る過ぎたようです。このところは、雨はほとんど夜だけで、日中は晴れてくれています。

■佐世保市内に入りました。「親和銀行」が見えて来ました。どこかの駐車場に入れようと思っていたのですが、何となく親和銀行自体の駐車場に入ってしまいました。警備員が数人いて、鍵を預けなくてはなりません。一度、銀行の中に入り、近隣を散策してみました。親和銀行本店・懐霄館(かいしょうかん)は、1983年に亡くなった白井晟一の作品です。第一期は1967年竣工、第二期は1975年に竣工しました。

 白井晟一は、戦前のベルリンで哲学者ヤスパースに師事したという異色の経歴の持ち主です。その作風も独特のポストモダンといわれていますが、懐霄館は、2009年に訪れた登呂遺跡側にあった「石水館」にも繋がります。石水館では、ダイナミックな石壁に圧倒される雰囲気を覚えた記憶があります。側面の梁や柱が剥き出しのような部分は、建物を建てた時には地山があった部分だそうです。改めて、白井晟一の異能感を堪能させて貰いました。

■「鬼木棚田」に向かいました。詳細地図が入手できなかったため、住所だけで向かったのですが、すぐに案内板を見つけることができました。良く手入れされた美しい棚田です。近くの杉林も美しい景観を呈しています。ここも名護屋城築造のために連れてこられた石組職人による石積みが残っています。案山子がいました。側に小屋があり、案山子が近隣の人たちのように談笑しています。スマートフォンを手に持っていますね。

■日向棚田はパスして、長崎に向かいました。「長崎歴史文化博物館」に来ました。予想を超える大きな建物です。金革唐紙のコレクションがあるとのことでしたが、簡単に建物を撮影して済ませました。近くの白井晟一の「親和銀行大波止支店」を探したのですが、見つけることはできませんでした。後で調べると、住所が1km程度違っていたようです。そんなこともあります。「旧長崎英国総領事館」に向かいました。

■旧長崎英国総領事館は、ウィリアム・コーワンの設計により、長崎英国領事館本館として1907(明治40)年に竣工した西洋館です。途中、以前に訪れたことがある出島がありましたが、通り過ぎました。すると次の予定地であった「旧香港上海銀行」に着いてしまいました。地下駐車場がありましたので、そのまま駐車場に入りました。人が多いですね。交通量も多く、観光地となっています。

 旧香港上海銀行は、1904年に竣工、設計は下田菊太郎です。その後、大浦警察庁舎などに利用されましたが、長崎市が買収して長崎市歴史民俗資料館となり、そして建物の解体論争に生き残り、長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館として現在に至っています。すぐ近くには、グラバー邸や大浦天主堂への案内がありましたが、以前に来たことがありましたので、パスしました。近くの諏訪神社への思い出もあります。

■来た道を少し戻ると、旧長崎英国総領事館が道路沿いにありましたので、街中が混んでいるため、外観のみ道路から撮影しました。今日の入浴予定だった東洋九十九ベイホテルに電話をしたのですが、今日は日帰り入浴を断っているとのことです。仕方がありませんので、島原温泉ゆとろぎの湯に電話をしたのですが、レストランはありませんが、21時まで入浴できるようです。

 温泉街に入り、ファミリーレストランで食事をして、近くの島原温泉ゆとろぎの湯に入りました。今日の停泊場所は、5〜6km程離れた道の駅/みずなし本陣ふかやです。22時ころに寝たのですが、外気温は14.7度もあります。毛布は必要ありませんね。モバイルルーターは繋がりませんでした。

親和銀行

鬼木棚田

鬼木棚田

鬼木棚田

鬼木棚田

長崎歴史博物館

旧香港上海銀行

旧英国総領事館
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097 志賀島から 香椎宮、筥崎宮、太宰府を経て佐賀へ(2015年11月1日の記録)

■公的年金運用で、安倍政権になってから、株式の運用比率を50%増加させた結果、通期で赤字になったようです。危惧されていたことですが、ネット上のマスコミの扱いが小さいことが気になりました。もっともっと大きく取り上げて欲しい話題でしょう。アベノミクスが描く成長戦略には、重大な齟齬があるというべきでしょう。安倍首相は、「謝罪続ける宿命を背負わせてはならない」が持論のようですが、未来世代にツケを残そうとしているのではないでしょうか。

 女優/高畑淳子の記者会見を見ました。涙を浮かべながらも、毅然とうろたえることなく慎重に言葉を選びながら記者の質問に答える姿に、非難をする気持ちはまったく起きませんでした。ほとんどの方が同様な気持ちになったものと思われます。事件を起こしたのは息子ですが、真摯に答える親に責任はないでしょう。むしろ、詰まらない、あるいは人の気持ちを理解しない質問には、唖然とする思いでしたが、質問をした側への批判が出てきたのは当然でしょう。以前から気になっていたことですが、情報を得て、情報を発信する側のレベルの低下には目を覆うものがあります。それは、ネットの社会においても同様なことがいえます。大手のサイトが運営する質問に答えるコーナーのレベルの低さや、コピペが横行する状態は、答える側の問題というよりも、サイトを運営する側の責任だと私は考えています。(2016年8月28日記)

■旅の方は、11月に入りました。道の駅/むなかたの朝は5:20に始まりました。毛布を掛けて寝たため、寒さも感じませんでした。脚の腫れは、悪化しているようには見えませんが、少し腫れを感じます。念のため、痛み止めと胃腸薬を飲みました。道の駅/むなかたは大きな道の駅でした。停泊は10数台でしょうか。トイレもウォシュレット付きですし、ごみ箱もあり助かります。今日の予定だった宮地嶽神社を昨日行ってしまったため、まっすぐに海岸線を走り、糸島方面に向かいました。

 海の中道(なかみち)に入りました。サイクリングレースをやっているようで、気をつけて走らなければなりません。海の中道は、福岡県にある志賀島と九州本土を結ぶ、最大幅2.5kmもある陸繋(りくけい)砂州です。全長は8kmですが、かつては島だったところが、砂が溜まることによって陸続きになったものです。西戸崎(さいとざき)付近に来ると、車の両側に海が見えるほど砂州が狭くなります。以前、路線バスに乗ってここを渡ったことがあります。

■「金印公園」に着きました。あの「漢委奴国王」と記された金印が見つかったところです。金印が見つかった記録とこの地のイメージがどうも合わないのですが、まあ記念碑があるところといった感じでしょうか。金印の実物は、福岡市博物館で見たことがあります。金印公園の階段を上がろうとすると、封鎖されていました。張り紙があり、11月から改修工事を始めるため使用禁止となっていました。封鎖区域がよく分からなかったのですが、横の階段は封鎖されていなかったため、そちらを登りました。

 しかし、後から調べると金印公園全体が封鎖中とのことでした。もう時遅しですね。確かに公園自体の傷みが目立っています。金印は、1784(天明4)年、志賀島の農民甚兵衛が田圃を耕しているときに大石の下から発見したものと伝わっていますが、直接の伝承ではないため、疑問点も出されています。

 すぐ先の「蒙古塚」にも寄って見ました。1274年の文永の役で攻めてきた蒙古軍の船が座礁、百余名が捕虜となり、半数は太宰府で処刑、残りの半数は京に送られたとのことです。日中友好を記念して、1928(昭和3)年に蒙古軍供養塔が建立されました。その後、2005年の福岡西方沖地震で倒壊しましたが、翌々年に再建されたそうです。私が以前来たときは、2002年でしたから、以前の供養塔を見たことになります。その際は、この近くのバス停から福岡方面に戻った記憶があります。

■玄界灘には、能古島や玄界島が見えます。志賀島の先端まで行ってみました。海水浴場となっていますが、魚釣り禁止の張り紙にも関わらず、多くの人が釣りをしています。志賀島の反対側に周り、「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」に寄ってみました。階段の前に御潮井(おしおい、清め砂)がありました。この砂を体の左右に振って清めるようです。思いの外、立派な神社でした。丁度、雅曲とともに何か祭事をしている気配があります。複数の人と、神式の服をまとった人が多数拝殿の中にいます。拝殿での参拝は止めて、本殿の方へ、廻りました。志賀海神社は、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として伝わっています。綿津見三神(わたつみさんしん)と神功皇后、玉依姫、応神天皇が祀られています。

■海の中道を戻り、「香椎宮(かしいぐう)」に向かいました。着いたのですが、駐車場が分かりません。向かって左側の道を行くと、「不老水」の方に来てしまいました。狭い道を戻り、駐車場を発見しました。道が狭いため大変です。しかも日曜日のため、人が多いですね。狛犬の顔が小さく可愛らしいですね。香椎宮の参拝の後、奥の仲哀天皇と神宮皇后の神域に行ってみました。神殿はありませんが、仲哀天皇が亡くなったという神域です。


海の中道

金印公園が閉鎖

金印公園

蒙古塚

志賀海神社の御潮井

香椎宮

香椎宮の狛犬

志賀海神社拝殿

志賀海神社の狛犬

香椎宮の神域入口

 香椎宮は、福岡市内にある神社ですが、古事記や日本書紀にも記されている日本武尊命を父に持つ14代仲哀天皇の御代に、熊襲征伐のために西征した際、この地で仲哀天皇が亡くなったというものです。実在性が疑われている日本武尊命の子であることから、仲哀天皇自体も実在性が疑われていますが、その後を継いだ仲哀天皇の妃でもあった神功皇后が三韓征伐を指揮したという逸話も残っています。ちなみに、その子は第15代応神天皇です。

 一度、外に出て歩いて「不老水」の方に行ってみました。一般道路を約270m程行った先に不老水がありました。不老水は、仲哀天皇や神功皇后のみならず、その先々代にあたる景行天皇にも仕えた武内宿禰が、その水を飲んで、300余歳の長寿を全うしたというパワースポットです。数人が並んで待っていました。小さなため池から水を汲むスタイルです。水量が減ってきているので、4リットルまでとの張り紙もあります。撮影のみで戻ることにしました。

■次は、「筥崎宮」です。応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神とした別名筥崎八幡宮とも呼ばれる神社です。元寇の歳に、亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられています。ここに来るのも2度目でしょうか。亀山上皇尊像泰安殿があり、高さが6mもある上皇の銅像(立像)がありました。本殿の屋根には鳩が群がっていました。

■続いて、福岡県桂川町にある「王塚古墳」に向かいました。6世紀中頃の前方後円墳ですが、装飾古墳として国の特別史跡第1号に指定されています。全長86m、墳丘は二段構成で二重の周濠が確認されています。石室自体は、横穴式ですが、現在は完全密閉状態で保存されています。古墳の横には、前方後円墳をイメージしたであろう王塚装飾古墳館があり、写真撮影は禁止でしたが、横穴式石室内部を体感できるようになっています。王塚古墳と古墳館はそれぞれ対になっていて、それぞれからお互いを見合う形になっていました。石室内部のビデオ放送もされていました。

 装飾古墳は、高松塚古墳やキトラ古墳などの壁画古墳とは区別されていますが、過半が九州地方で発見されています。元々は、石棺内部を装飾していた技法が、石室内部全体を装飾するようになったものと考えられています。ベンガラなどの赤色顔料を主体とした幾何学模様が特徴的ですが、王塚古墳では馬、靫(ゆぎ)、盾、刀、弓なども描かれています。王塚古墳では、4人の被葬者があったものと推定されていますが、装飾古墳は、中国からの影響を見る考え方が多いようです。

■「太宰府天満宮」に向かいました。もの凄い人と車です。駐車場が空いていません。手前の九州国立博物館の駐車場は大混雑でした。参道を車で走ると、個人が営業している有料駐車場が多数ありました。300円から500円の看板があります。少し遠かったのですが、300円の看板を見て小さな駐車場に入ったのですが、おばさんに500円といわれました。300円ではないのですかと聞くと、それは隣との答えでした。九州国立博物館に行くかどうか聞かれたのですが、前回に内部も見ているので、行かないと答えると、それなら30〜40分程度なので400円で良いといって貰えました。とはいえ、2〜3台しか駐められないまことに狭い駐車場です。

 太宰府天満宮に向かったのですが、結構距離がありますね。ところが横に参道がありました。そこから入ると、なんと本殿の横でした。先に本殿を眺めて、拝殿の方に行くと、もの凄い人が並んでいます。修学旅行生もいます。これは拝殿での参拝は諦めるしかありません。まあ、以前にも参拝したことがありますので、良いとしましょう。太宰府天満宮は、いわずと知れた学業の祈願、菅原道真を祭神とする神社です。京都の北野天満宮と共に、全国天満宮と総本社とされています。


香椎宮の神域

不老水入口

不老水

筥崎宮神門

筥崎宮神門の屋根に鳩が

王塚古墳

王塚装飾古墳館

 行かないといった九州国立博物館ですが、ちょっとだけ行ってみることにしました。所要時間には嘘がないと思います。斜行エレベーターと動く歩道があり、菊竹清訓の晩年2004年の作品、九州国立博物館がありました。以前は中に入りましたので、外観のみ撮影して、駐車場に戻りました。太宰府天満宮には、かつて訪れたときに、社殿に食い込む木があったと記憶していましたが、その気配はありませんでした。駐車場に戻り、おばさんに聞くと、記憶がないとのことです。新しく改修をしたのかなとも思ったのですが、後に訪れる宇佐神宮にそれがありました。記憶は宛てにならないものです。

■太宰府市の「観世音寺」に向かいました。車が混んでいるので、裏路に入ったのですが、こちらも混んでいますね。しかし裏路を通ったのが正解でした。まもなく観世音寺に着くことができましたが、駐車場が見当たりません。ちょっとだけ裏の出入口横に駐めさせて貰いました。この辺りには人がほとんどいません。ここには、奈良の東大寺と栃木の下野薬師寺と並ぶ「天下の三戒壇」である「戒壇殿」があります。

 確かに格式を感じる戒壇殿がありました。伝玄ムの墓が横にあります。道路横に車を駐めたため、少しの記念撮影となってしまいました。700m程度で「太宰府行政庁跡」がありましたので、車で行ってみました。こちらも車を駐めるところがないので、記念撮影となりました。後で調べると、近くに無料駐車場があったようです。

■車が混んでいたため、太宰府巡りで時間を使ってしまいましたので、「平原遺跡」と「西の谷棚田」はパスすることにしました。平原遺跡は、方形周溝墓などの弥生後期から晩期にかけての古墳群です。学術調査の中心となった原田大六が、1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから、伊勢神宮の八咫鏡を同型の鏡とみて、「八咫鏡」と解したことが注目されました。

 まっすぐに佐賀県小城市の「江里山棚田」に向かったのですが、少し雨が降ってきました。40kmほど進むと、「吉野ヶ里遺跡」が見えて来ました。行程では、戻るときに寄る予定でしたが、トイレを借りたいと思い寄って見ました。入ると駐車場が有料でした。吉野ヶ里遺跡には、かつて発見間もないころに来たことがあります。近くには何もなく、最寄りの鉄道駅から貸し自転車に乗り、数キロ先にあった遺跡を見学した記憶があります。すっかり巨大施設になっていました。ちょっと興ざめな気持ちが起き、トイレを借りてすぐに立ち去ることにしました。このような施設を造る意味があるのでしょうか?

■江里山棚田は、国道から2km程山に入ったところにありました。未だに刈り入れをしていない田圃が多数あります。折り返しの道路の上に民家があったのですが、道路の外柵にワラを干しているのが印象的です。道端に甘露水の看板があり、寄付100円でポリタンクを満杯にすることができました。江里山棚田の駐車場もあり、トイレも設置されています。9月中旬には、真っ赤な彼岸花が畦道を彩り、里山の風景を醸し出すそうです。ここでも、一等地に墓所が設置されていました。日本の原風景を感じる一瞬です。

■佐賀県唐津市のきゅうらぎ温泉/作用姫の湯に電話をしてみました。浴場は21時まで、レストランの最終オーダーは20時です。一旦、1kmほど離れた道の駅/きゅうらぎに寄り、寝支度などをしてきゅうらぎ温泉に向かいました。道の駅は、工事中のため、トイレは仮設となっていました。細長い道の駅です。きゅうらぎ温泉のレストランの横では、大宴会が開催されていました。ちょっとゆっくりの気分にはなりません。今日は雨が降っていましたが、外気温が13.1度あり、少し蒸す感があります。二日続けての休肝日となりました。モバイルルーターは繋がりませんでした。


古墳館から見た王塚古墳

太宰府天満宮

太宰府天満宮

九州国立博物館

江里山棚田

吉野ヶ里遺跡

太宰府行政庁跡

観世音寺戒壇殿
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096 角島大橋、そして九州へ、宗像大社、宮地嶽神社など(2015年10月31日の記録)


鷲原八幡宮
■今回の内閣改造に先立って、日銀が追加緩和を打ち出しましたが、市場は概して低い評価でした。また、アベノミクスのエンジンを吹かすと銘打って、28兆円規模の経済対策パッケージも発表されましたが、市場は期待外れとみて、株式相場は下落しました。特に、日銀が今回打ち出した年間80兆円の国債購入ベースを維持、ETF購入のベースを年間3.3兆円から6兆円に増額するという施策は、的外れもいい加減にして貰いたいといった内容です。

 日本経済の停滞を海外要因に求めたり、金融市場の活性化で株価を上げることで経済が活性化するといった手法が底をついているのに何故気がつかないのでしょう。金融市場を活性化することによって、大企業の資本力は確かに上昇しましたが、それが一般の国民には無関係だったことは、現在の状況を見れば火をみるよりも明らかなことです。新たな政策の転換が必要になってきているのではないでしょうか。

 東京都知事選で小池百合子氏が圧勝しました。対比的に、自民党東京都連の悪者ぶりが暴かれつつあります。結局、週に3〜4日しか出勤しなくても、週末に別荘通いをしていても、ほとんど問題にならないほど知事の役割が低かったということなのでしょうね。時々、パフォーマンスをしていれば、豪華な海外旅行が付いていたということになります。(2016年8月13日記)

■話題は、旅行記に戻ります。10月最後の日となりました。道の駅/津和野の朝は5:05に始まりました。まだ、夜が明けていませんが、明けてくるに連れて霧がかかってきました。道の駅では、夜中にいずれかの車のサイフォンがけたたましく鳴っていました。セキュリティが異常感知したのでしょうか? 起きたときの外気温は5.7℃です。良く冷えています。車内温度も9.4℃。明日からは、毛布を使うことにしました。とはいえ、基本的には静かな道の駅/津和野でしたが、停泊は7〜8台程度でしょうか?

■朝食が終わり、6時ころにコーヒーを入れましたが、まだまだ薄暗い感じです。7時前には出発です。予定はしていませんでしたが、道の駅内に模型があった「鷺原八幡宮(わしはらはちまんぐう)」に行ってみることにしました。道の駅の案内では徒歩8分とのことでしたが、車で向かいました。鳥居に対して、直角に流鏑馬(やぶさめ)場があります。駐車場がありませんでしたが、早朝なので、流鏑馬の端部の空き地に駐車させてもらいました。前にお寺もあります。流鏑馬場を歩いて、鷲原八幡宮に向かいました。形の良い本殿は、流鏑馬場の中間にあります。鎌倉時代のものですが、少し傷みが目立っていました。

 鷲原八幡宮は、島根県津和野町鷲原にある八幡宮です。誉田別尊、玉依姫命、息長足姫尊の八幡三神を主祭神にしています。八幡宮の多くは、誉田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后(息長足姫尊おきながたらしひめのみこと)の八幡三神を祀っているところが多いのですが、玉依姫命(たまよりひめ)が入っています。ちなみに比売神は、卑弥呼だという説もあります。入母屋造り茅葺きの四脚門である楼門は、本殿とともに1568年に改築されたものだそうです。

■晴れて来ました。山口県長門市の「東後畑棚田」に向かいました。この付近の海岸線はいつ来ても美しいですね。途中、深川湾がありましたが、車を駐めて撮影。この辺の棚田に向かう道路は整備された道路が多いようです。少し、山道に入ると、すぐに棚田の駐車場がありました。先客がいると思ったのですが、近隣の人が駐めていたようです。歩いて、ビューポイントに行くと、道路脇に車を駐めて棚田を眺めている若い二人連れの女性がいました。珍しいですね。

 東後畑棚田は、日本海を背景にして、眼下に美しい棚田が広がります。ため池もあり、素晴らしい景観を見せてくれます。雑草を刈っているおじさんが遠目に見えるのも良いですね。半島の先には、西安を向いて立つ楊貴妃像がある、楊貴妃の里があるとのことです。2009年の日本一周の折には、近くまで行ったのですが、道を間違え通り過ぎてしまいました。縁がなかったようです。

■続いて、「角島(つのじま)大橋」に向かいました。角島大橋は、長さ1.78kmで、2005年に完成した沖縄県の古宇利大橋(1.96km)ができるまでは、無料の離島架橋としては日本一の長さを誇っていました。途中の海岸線が余りにも美しいため、何度も車を駐めて撮影をしたくなります。橋が見えて来ました。碧緑の海と白い砂浜が広がっています。橋の絶景を見たいと思い、ナビに逆らって、瓦屋根のホテルの方に向かいました。ホテル利用者以外厳禁の駐車場に入ってしまいました。少しだけ撮影をさせて貰って、すぐに出たのですが、途中の道路からの景観も素晴らしいですね。結局、そこが一番のビューポイントだったような気がします。

 橋の入口に展望台があり、駐車場がありました。ここも美しいですが、先ほどの景色ほどではありません。展望台からは、サーフィンをしている人が見えます。橋自体のうねり感は、境港大橋を思い出します。さて、車で角島大橋を渡ってみました。橋の中間には停車帯があり、撮影も可能でした。角島の先には灯台がありましたが、興味が沸きませんでしたので、車を戻して、再び、橋を渡ってきました。添付動画は、角島大橋を渡る際のドライブレコーダー記録です。


東後畑棚田

角島大橋

角島大橋を渡る
クリックでドライブレコーダーの記録

下関住吉神社

下関住吉神社本殿

北九州TOTOミュージアム

宗像大社

宗像大社・第二宮

■下関の「住吉神社」に向かいました。途中、昼食をとり、長門一の宮である住吉大社に着きました。大阪の住吉大社と博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられる神社です。本殿は国宝に指定されています。銅製の狛犬が変わっています。楼門の天井の方位を示す円盤が気になりました。本殿は、五連となっていて、第一殿から第五殿まであります。第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)、第二殿:応神天皇、第三殿:武内宿禰命、第四殿:神功皇后、第五殿:建御名方命となっています。拝殿には、鈴を鳴らす縄が5本下がっています。新羅に向かう神功皇后が、渡海を守護するために神託したと伝わります。建御雷神に追われて、諏訪に隠れた建御名方命が祀られているのも面白いですね。

■いよいよ九州です。2009年の折には工事中で通ることができなかった、関門トンネルを通ることができました。通行料金は150円です。安いですね。トンネル内は混んでいました。北九州市の小倉に入ると、印象的な建物が目に入ってきました。TOTOミュージアムでした。事前情報ではチェックしていませんでしたが、旅行から帰った際の、建築雑誌の最新号に掲載されていました。この7月に竣工したばかりの梓設計の建物でした。白い流線型が目立ちますね。

■一気に門司に入りました。門司レトロも見えます。今回は、通り過ぎました。北九州市内は、どこも混んでいますね。気のせいか、運転が乱暴な人が多いようです。時間は掛かりましたが、「宗像大社」に着きました。沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称が宗像大社ともいわれています。沖ノ島は、九州本土から60kmの玄界灘に浮かぶ島です。神の島ともいわれ、現在でも女人禁制を守っています。辺津宮(へつぐう)ともいわれるのが、福岡県宗像市にあるこの神社です。

 宗像大社では、宗像三女神(宗像三神)が祀られ、沖津宮(おきつぐう)は田心姫神、中津宮(なかつぐう)は湍津姫神、辺津宮は市杵島姫神が祭神となっています。古代から、大陸との海上路を守る神として祀られていましたが、現在では、陸上の交通安全の神としても信仰を集めています。本殿に参拝後、二宮と三宮がありましたので、行ってみると伊勢神宮風の神殿がありました。これで、中津宮と沖津宮をお参りしたことになるようです。高宮があり、歩いて5分ということで行ってみましたが、石段を登る感じでした。高宮は神社ではなく、宗像大神が降り立った神域ですが、他の観光地化が進んでいる中で、神聖な雰囲気を現在でも伝えてくれていました。

■今夜の停泊予定の道の駅/むなかたは近くでした。行ってみると大きな道の駅でした。今日の予定の温泉も車で数分でしたが、時間に余裕がありましたので、「宮地嶽神社」に向かいました。2002年に来たときは、福岡から電車にのり、駅からかなり歩いた記憶があります。その路線は既に廃線となったと聞いています。車ですと早いですね。参道を通り、一気に山の上の社務所まで来ました。ここの拝殿の注連縄は超特大です。

 2002年に訪れた折には、たまたまその日本一の注連縄の掛け替えの最中でした。貴重な体験をさせて貰えました。お祭りなのでしょうか、今年は飾り付けの準備の最中でした。竹で作った飾り付けが目立ちます。宮地嶽神社は、福岡県福津市にある神功皇后を主催神とする神社です。「奥の宮八社」と呼ばれる八つの社があります。本殿の裏手には、宮地嶽古墳と呼ばれる古墳があります。

 本殿の右横から八社をお参りして、奥宮とされる宮地嶽古墳にもお参りをしました。横穴式石室が見えます。出土したものは、国宝に指定されて九州国立博物館に寄託されているそうです。宮地嶽神社には、日本一の注連縄の他、日本一の大太鼓、日本一の大鈴があります。お金がある神社なのですね。2002年に訪れた折にそれまでの注連縄が焼かれていた場所で、巨大シャボン玉をやっている人がいました。

■近くのレストランでゆっくりと食事をして、19時ころ、津屋崎の温泉に向かいました。ところが、時間を勘違いしていたようです。温泉は20時までとのことでした。余りゆっくりとお風呂には浸かることができませんでした。入浴の後、道の駅に戻ったのですが、ここで、問題に気づきました。右足のふくらはぎにちょっとした傷ができていたのですが、そこが化膿し始めていました。化膿止めがなかったので、すぐに用意していた傷薬を塗り、痛み止めと胃腸薬を飲みました。結果的にはこれが良かったようです。モバイルルーターは当初は繋がらなかったのですが、なんとか繋がりましたので、メールチェック。今日は、毛布を掛けて寝ることにしました。それと、今日は休肝日となりました。

宗像大社・高宮斎場

宮地嶽神社

宮地嶽古墳

日本一の大太鼓
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095 島根県石見の物部神社から津和野まで(2015年10月30日の記録)


物部神社
■少し古い本ですが、先日、秦郁彦の「昭和天皇五つの決断」を読んでいたところ、こんなくだりがありました。「第二次世界大戦の直後には、『最後に残るのはイギリスのキングとトランプのキングだ』というジョークが実証されるかに見えた。しかし、日本の天皇制は残った」というものです。思わず笑ってしまいました。意味は異なりますが、まさにトランプが世界の指導者の仲間入りの候補となってしまいました。

 彼が世界の指導者にふさわしくないことは、ここで書き立てる必要もないほどですが、イギリスのEU離脱、国際的な司法判断を無視する中国、ドーピングを政治的問題として反省しないロシア、オリンピック開催にも関わらず大統領が不在となったブラジル、まったく御し得ない原発をコントール下にあるという日本、北朝鮮、ギリシア、トルコ等々、国際社会はどうなってしまったのでしょうか? まともな政治指導者がどんどん少なくなってしまいました。さらに恐ろしいことに、各国には偏見に満ちた極右勢力が少しずつ勢力を伸ばしつつあります。それらの多くは、ポピュリズムを利用して民心を煽っています。第二次世界大戦前夜は、このような状況だったのでしょうか?(2016年7月31日記)

■道の駅/きらら多伎には多くの車が停泊していましたが、快適な道の駅でした。夜中には、強い雨の音で目が覚めたりしましたが、朝は5時に目が覚めました。雨は上がりましたが、少し曇っています。海が近いため、朝の風が強いですね。南に向かうにつれて、夜明けが遅くなってきたのが感じられます。その代わり、日没が遅くなっているはずです。

■道の駅を6:55に出発したのですが、予定をしていた「物部神社」には、7:33に着きました。石見一宮、島根県内では出雲大社に次ぐ大きさです。石見国に物部神社がある所以が不思議ですね。祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えられています。宇摩志麻遅命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の御子ですが、物部氏の祖とされています。奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)は、蘇我氏と争って敗れた物部氏が祭祀していた神社として有名ですが、日本の歴史の一面を想像させてくれます。

 手水舎の吐出口の龍の彫像が迫力ありますね。後ろ姿も面白いです。本殿は、春日造りの系統といわれますが、屋根に重厚感があります。摂社では、菅原道真と柿本人麻呂を祀っていました。いずれも不遇の死を遂げたとの逸話が残っています。摂社の手前には、祭神が腰を掛けたという大きな石がありました。本殿横に山へ登る石段がありました。数十メートルの登山で、奥の院がありましたが、石積みの奥の院でした。

■島根県浜田市の「室谷棚田」に向いました。昭和51年には、日本最大の4,520枚の棚田を数えたそうです。現在でも、約1,000枚が残っています。国道9号線から数キロ山道に入りますが、道路状況は悪くありません。案内板がありましたが、ビューポイントに行くのは大変でした。

 確かに棚田の数が多いですね。その中でも、景観の良いところに悠然と一つのお墓が聳え立っていました。稲穂が緑色に茂る季節に来てみたいものです。棚田も良く手入れがされています。石垣も美しいです。この付近は、韓国のラジオ放送が入ります。

■「島根県芸術文化センター/グラントワ」に向いました。一部にタイルと打放しもありますが、赤い石州瓦を切妻屋根と外壁に使用しています。2005年の内藤廣の作品です。予想していたよりも遙かに大きな施設でした。グラントワとは、フランス語で広い屋根という意味だそうです。使用した石州瓦は約28万とのことです。

 内部も洗練された美しさです。大ホールの外郭や柱形の打放しに存在感があります。中央のライトコートでは、床のタイル面に薄く水を張っています。景観が良いですね。施工は大変だったでしょう。ライトコートに面したガラスの模様が気になりました。大ホールに入ることはできませんでしたが、先日見たテレビの放送では、音響効果が特殊だとの演奏家の言葉が気になりました。要するに、音響効果が悪いのでしょうね。建物は素晴らしいのですが、最も大事なところに欠陥があったともいえます。

物部神社の手水舎の吐出口

物部神社拝殿と本殿

物部神社奥の院

室谷棚田

島根県芸術文化センター
「グラントワ」

グラントワのライトコート

グラントワ内部

グラントワのライトコート
に面したガラス
 ■続いて、島根県益田市の「中垣内の棚田」に向かったのですが、途中で、「柿本神社」があったので寄って見ました。山部赤人と並んで、歌聖と呼ばれた柿本人麻呂ですが、神社がある島根県益田市戸田町で生まれた、あるいは死んだとする人麻呂伝説があります。7世紀後半から8世紀初頭に掛けて活躍した柿本人麻呂ですが、梅原猛の著書『水底の歌』では、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの説が注目されました。柿本神社自体は、兵庫県明石市など全国各地にありますが、それらは柿本人麻呂を鎮魂する意があるとの根拠になっています。そのため、島根県の柿本神社は戸田柿本神社とも呼ばれます。

 石段を数十メートル登ると見事な二層の楼門がありました。本殿の案内には、柿本神社の起源は、人麻呂の終焉地鴨島に勅命により建立されたとあります。鴨島自体は、1026年の大地震により海中に没しましたが、そのときに人麻呂尊像が松崎に漂着、当初は現在地の北にある松崎に津和野藩により、社殿が再建されました。その後、1681年に風波を避けるため、現在地の高津城跡に移転したとの記述がありました。

■柿本人麻呂の歌にも詠まれた、打歌山(うたつやま)の中腹にある中垣内棚田に着きました。ここも棚田の数が多いですね。今回、巡った棚田の中でも秀逸な景観の一つです。一部には、放棄された棚田もありますが、仕方がないのでしょうね。下平(しもびら)集落の谷間に沿って、美しい石積みの棚田が広がっていました。

■今回の旅行では、余裕があった時に寄ろうと思っていた、山口県の北長門国定公園にある「須佐ホルンフェルス」に向かいました。この付近の海岸線の景色も素晴らしいですね。湾の海の色は碧緑を呈しています。時間が余りないため、昼食はコンビニ「ポプラ」でのサンドイッチとしました。この付近のポプラの看板の色は、赤ではなく濃い紫になっています。軽井沢近辺のコンビニの色に似ています。

 ホルンフェルスとは、比較的固い堆積岩がマグマなどの熱の変成作用により再結晶化した接触変成岩ですが、須佐のホルンフェルスは、灰褐色と黒のストライプ模様が美しいリアス式海岸に平坦に広がることから、千畳敷とも呼ばれています。駐車場に車を駐めて、数百メートルを歩くと、波しぶきも掛かる断崖絶壁の中で紺碧の海を体感することができました。辺りに人はいません。遠くにサーブボードを持って歩いている人がいました。

■内陸に戻り、島根県の「大井谷棚田」に向かいました。広い通りから、2kmほど山に入ると大井谷棚田がありました。ここも棚田の数が多い、石積みの棚田です。案内板があり、さらに2kmほど先の展望台の案内がありました。途中、高さが異なる橋が三つあり、回り込むことによって徐々に上に上がって行きます。展望台の駐車場は、赤白の停止標識でした。歩いて行くと、さらに、上に上がる鉄骨階段がありました。階段の手前に何かの紙が下がっていますが、裏返しになっています。斜面崩落の危険性があるための「通行禁止」の標識でした。

 ロープを張ってありましたが、誰かが取って登ったようです。少し上がってみましたが、確かに崩落の予兆があります。これは危険です。仕方がないので、横の道路に戻り、歩いて登ってみますと、上の方で話し声がします。良く声が通っています。すると、老人が二人、腰を曲げたまま農作業を始めました。絵になりますね。美しい石垣の棚田です。大井谷棚田には、約600枚の棚田が残っているそうです。

■道の駅/津和野に電話をしてみました。温泉もレストランもラストオーダーが20:30です。かなりの山道を通って津和野に向かいました。津和野手前に赤い大鳥居がありました。後で調べると、太皷谷稲成神社に寄進された大鳥居でしたが、ナビの案内が良く分かりません。どうも大鳥居の下を通るべきだったようです。結局、遠回りをして津和野市内に入りました。太鼓谷稲荷神社がありましたが、余り興味が沸いてきません。津和野城趾には、リフトに乗って登る必要がありますが、パスしました。

 ガソリンの残りが厳しくなってきましたので、GSを探しましたが、値段が高いですね。139円/リットルでしたので、3千円だけ入れることにしました。この先、九州に入ると、恐らく安くなるだろうと考えたからです。2kmほどで、道の駅/津和野に着きました。寝支度をしてから、和みの湯に入りました。結構大きな風呂でしたが、お湯がぬるく、窓が開いているため寒いですね。露天風呂も小さく、ぬるいため早々に退散しました。

 レストランでは、黒酢あんかけ定食と中ジョッキを頼みましたが、なかなか出てきません。味は良かったのですが、雰囲気が悪いですね。今時、珍しい感があります。とはいえ、ロビーで新聞を読んだり少しゆっくりとさせて貰いました。モバイルルーターは繋がりませんでした。

柿本神社

中垣内棚田

須佐ホルンフェルス

大井谷棚田
   
斜面崩落の予兆
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094 出雲から十六島湾を経て竜頭が滝と龍頭八重滝(2015年10月29日の記録)


出雲大社 祖霊社
■参議院選挙で自民党が圧勝しました。その理由は色々あると思います。アベノミクスを評価する考え方もあるでしょうし、今回の選挙から18歳以上が有権者となったことや、若者の右傾化、さらには小選挙区制の弊害といったことなどが語られています。しかし、一番の問題は民進党のふがいなさではないでしょうか? ぶれやすく、立ち位置がよく見えない政党に、投票をする気持ちが起きないのは、私だけではないでしょう。

 選挙では争点とされなかった改憲論議が首をもたげてきました。いつもの現在の政権の姑息な手法ともいえます。とはいえ、私は改憲論議自体を否定するべきではないとも思っています。常に、憲法を見つめ直すことは重要だとも思っていますし、自衛隊が憲法違反であることは、火を見るよりも明らかだからです。改憲の議論はすべきでしょう。しかし、今の政権の下で改憲議論をすることには危険な臭いを感じざるを得ません。

 賞味期限が切れてしまったアベノミスクですが、安倍首相の国会での論議を聞いていても、質問にはまったく答えず、持論だけを繰り返しくどくどと並べ立てる人を私は信頼できないからです。人の話を聞かない人と改憲の議論をやるべきではないでしょう。自説をごり押しするだけの姿が目に見えています。議論はやるべきでしょうが、今の体制で改憲自体をやるべきではないと私は思っています。

 かつて、福島原発がコントロール下にあると国際の場で言い放ったときは、驚きましたが、彼の言動を聞いていると、どうも間違っていたとの認識がないようです。むしろ、彼はそう信じているかのようです。メディアの対応でも分かるように、自分に心地良い話しか聞いていないのではないでしょうか? 周りが持ち上げる人ばかりに囲まれた「裸の王様」状態に陥っていると私は見ています。(2016年7月17日記)

■道の駅/湯の川は多くの車で溢れていました。最近の出雲人気を感じさせます。車の位置取りを変えておいて正解でした。道の駅には、足湯の設備がありました。足湯にはお湯が張っていませんでしたが、その側に温泉が流れ出ている設備がありましたので、朝の顔洗いには最適でした。食器等もそこで洗いました。トイレもウォシュレット付きですし、ごみ箱もあります。外気温は8.8℃、清々しい天気です。

■出雲大社に向かいました。いつもの西側の駐車場に車を止めました。神楽殿が見えます。祖霊社に寄って見ました。注連縄の下に金網が張ってあります。投げ銭防止のためでしょうね。それでも、金網の横に賽銭が刺さっていますので、根性の人がいるようです。先日、婚礼で賑わった千家家の千家国造館がありました。立派な門構えです。神楽殿に行ってみましたが、こちらにも注連縄の下に金網が張ってあります。たしか、2009年の折には張っていなかったと記憶しています。

 神楽殿の横から、出雲大社に入りました。仮本殿だった施設に入ることができるようになっています。撮影禁止でしたが、現在では、参拝の受付に使われていますね。隣の庁の舎は、トイレと事務所としての機能になっています。屋根にはビニルシートがかかっています。菊竹請訓35歳のモダニズム建築の名作ですが、解体論も出ています。傑作と思いますが、今となっては老朽化とともに、レイアウトが悪くなってしまいました。


 2009年に来たときは、出雲大社本殿には素屋根が掛かっていましたが、改修を終え、すっかり綺麗になっていました。右手の宝物殿は改修中でした。拝殿に行き、参拝をしました。待っている間、前にいたおじさんが、しっかり二拝二拍手一拝をしていたのが、ちょっと気になりました。まあ、気持ちがあれば良いとしましょう。次のおばさんは、二拝四拍手一拝でしたが、最後の一礼が長い長い〜〜。その間、自分の後の人が拝礼を始めましたので、仕方なく、二拝四拍手一拝をあっさりとさせて頂きました。

 左手の西十九社は、2009年の際は通行止めでしたが、こちらも通ることができます。本殿の屋根は確かに美しくなりましたね。2007年に来たときは、傷みが目立っていました。おみくじが木に結ばれていますが、もの凄い量です。まるで、雪に覆われたように見えます。先に進むと、拝礼場所の案内板がありました。本殿は南向きですが、本殿内の御神座は西向きとなっています。その御神座正面に正対する拝礼場所の立て札です。ここで再び、二拝四拍手一拝。余り知られていないのか、他に人はいませんでした。

出雲大社 神楽殿

出雲大社 神楽殿の注連縄

出雲大社 庁の舎

出雲大社 お神籤

出雲大社 拝殿

出雲大社

出雲大社 御神座正面拝礼

出雲大社 彰古館

 さらに北に進みますと、本殿の裏側になりますが、彰古館がありました。ここに入るのは8年ぶりとなります。受付には誰もいませんでしたが、おじさんが走ってきました。拝観料は200円です。一階には大国主の彫像がたくさん、二階には大社の模型が陳列されていました。かつての出雲大社の写真などもあります。祭事の際に点火する燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)もありました。ほとんど人がいませんでしが、拝殿の賑わいからみると嘘のようです。

 彰古館を出て、本殿の裏側を通り、東に行くと、素鵞社(そがのやしろ)がありましたので、ここでも拝礼。祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)ですが、素鵞社は建て直したように新しくみえました。

 東十九社を周り、工事中の宝物殿の脇を通って、東側の出雲大社教に入って見ました。北島国造家の神道教団です。北島国造家四脚門は工事中でした。途中の広い側溝のような川を熊野川あるいは吉野川というそうです。ちなみに、出雲大社の西側にあるのは素鵞川です。北島国造家を廻って駐車場に戻ったのは、約1.5時間後でした。

 出雲大社の御神酒を作っている近くの古川酒造に行ってみましたが、酒林(さかばやし/杉玉とも)が下がったところは見つけられませんでしたが、古川家という古い造りの家がありましたが、どうもこちらが古川酒造のようでした。お酒を購入するには、近くの酒屋さんで購入をする必要があるとのことでした。

■出雲大社から、北側に向かい、韓竈神社方面に行ってみました。出雲大社の左手から山に入りました。2009年には、鰐淵寺からこの逆方向に入ってきました。途中、猪目洞窟(いのめどうくつ)がありましたので寄って見ました。猪目洞窟は日本海側の十六島(うっぷるい)湾の西側にありますが、出雲国風土記では黄泉国の入り口とされています。

 猪目洞窟には、縄文時代から弥生時代、古墳時代までの生活の跡が残されています。そして、人骨が見つかるなど、埋葬の遺跡でもありますが、現在は、工事用の資材などが置かれた状態になっていました。残念なことです。日本海側の海岸線は美しいですね。

 鰐淵寺方面に向かう道を進み、途中から分かれた道が韓竈神社へ至るみちです。鰐淵寺は2009年に訪れましたが、神仏習合時代には、一時期、出雲大社の別当寺を務めるなどその関係が深まったことがありました。弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説も知られています。

 韓竈神社の駐車場に来ました。付近には民家もあります。もう一つ先に駐車場があり、島根県ナンバーの車が駐まっていました。恐らく、韓竈神社に行っているのでしょうか? 韓竈神社までは、山道と石段を800mほど歩かなくてはなりませんが、どうもパワーが沸いてきません。韓竈神社は、岩船伝説もある素盞嗚命が乗ったとされる大岩があり、本殿手前の45cmしかない岩の割れ目を通る必要があるなど、幾度もテレビで見た記憶があります。ほぼ、昼になっていましたので、お腹も空いてきましたので、韓竈神社参拝は諦めることにしました。

■内陸側の島根県雲南市の「竜頭(りゅうず)が滝」に向かいました。来たときとは異なる平坦な道を通り、出雲市から雲南市方面に出ましたが、先にはコンビニも何もありません。一旦、2kmほど戻ってコンビニ昼食としました。何故かここでは、「赤霧島」が販売されていましたので、思わず購入してしまいました。


彰古館 燧杵

出雲大社 素鵞社

出雲大社 本殿

北島国造家

須佐神社

韓竈神社方面

猪目洞窟

十六島湾

須佐神社

 再び竜頭が滝に向かうと、途中にもコンビニがありました。まあ、そういうこともあるでしょう。赤霧島を買ったためと思えば腹も立ちません。竜頭が滝は、ナビの設定ができませんでしたが、途中の案内がしっかりと出ています。その途中に、「須佐神社」がありましたので、先に寄って見ました。

 須佐神社は、主祭神:須佐之男命(素盞嗚命)の出雲市の神社です。さすがに古い神社です。通常、拝殿から本殿の間には弊殿があるのですが、その弊殿がかなり大きな造りです。正確には異なる呼び方があるのかも知れません。ちょっと調べきれませんでした。本殿に登る階段の下の置物が気になります。さらに小さな奥宮があり、その裏にもまるで模型のような二重の本殿がありました。須佐神社の七不思議として、今は枯れてしまった「相生の松」の看板もありました。「塩ノ井」という須佐之男命が潮を汲みこの地を清めたという、満潮の時には付近の地面に潮の花をふくという古井戸(小池)もあり、不思議満載の神社です。出雲は何度も訪れていましたが、この神社は初めてでした。

■奥出雲の山の中に入りました。美しい田園風景が続きます。竜頭が滝の駐車場に着きました。歩いて5分との案内ですが、もう少し掛かったようです。良く整備された通路が続きます。ツキノワグマ生息地の案内もあります。竜頭が滝は、川を石伝いに渡らなければなりませんでしたが、裏見もできる滝でした。来たときには誰にも会いませんでしたが、帰りは数組とすれ違いました。

■続いて、同じく雲南市の「龍頭八重滝」に向かいました。ナビを見ると、オオサンショウウオ生息地の表示もあります。車で出ようとしたときに、地元のおじさんが来ましたので聞いてみました。予定していた道は通行止めのようです。ナビが示す道は、川の向かい側の道を示していますが、その道を行ってみますと、こちらも通行止めの標識がありました。日本のインフラがどんどん細くなっています。

 一旦戻り、別な道を選ぶことにしました。結果的に、こちらの方が道路状況も良かった様です。15kmほど進むと、龍頭八重滝に入る道がありました。県道を左に曲がると、すぐに渓流があり、「猿飛の滝」との案内もあります。まもなく龍頭八重滝の駐車場に着きました。

 八重の滝に行くためには、渓流沿いを1km以上歩く必要があります。先に行った老夫婦が戻ってきました。諦めたようです。何かの小さな赤い実を付けた木があります。渓流が碧く美しいですね。途中、いくつも小さな滝があり、飽きがきません。一部、通行止めとなり廻り道もありましたが、ほとんど苦にはなりませんでした。岩や木がせり出してきて歩きづらいところもありましたが、何組の人ともすれ違いながら、ゆっくりと堪能できました。

 龍頭八重滝は、島根県雲南市にある日本の滝百選に選定されている渓流沿いの瀑布群です。最上流部に落差40mの八塩滝があります。姫滝、姥滝(うばだき)、河鹿滝(かじかだき)、紅葉滝、滝尻滝(たきじりだき)、猿飛滝と合わせて八重滝と呼ばれています。都合、1時間ほどで渓流を堪能させていただきました。

■多伎いちじく温泉に電話をしたところ、温泉は、21:00までとのことでした。来た道を20kmほど戻り、道の駅/キララ多伎に着きましたが、思いの外大きな道の駅です。海岸線に面していて、美しい夕日が沈むところでした。温泉と道の駅は2〜3km離れていますが、道の駅にはレストランもあり、ラストオーダーが20時とのことでしたので、先に温泉に入ることにしました。一度、多伎いちじく温泉に向かい、広い温泉を満喫した後、道の駅に戻り豪華な海鮮丼を熱燗とともにいただくことができました。道の駅では、モバイルルーターが繋がりませんでしたが、フリーのWi−Fiもあり、ちょっと重い感じでしたが、メールチェックなどをさせて貰いました。

須佐神社 塩ノ井

竜頭ヶ滝に登る

竜頭ヶ滝

竜頭ヶ滝 裏面

竜頭ヶ滝

龍頭八重滝

龍頭八重滝
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093 大山から上淀廃寺、神魂神社、熊野大社を経て奥出雲(2015年10月28日の記録)

■バングラデシュの首都ダッカで日本人7人が犠牲となる蛮行が起きました。亡くなられた方々は、JICA/国際協力機構関連で現地に滞在していたようです。哀悼の意を表したいと思います。事件とISとの関係は、今後のニュースを見守る必要がありますが、そろそろ武力で押さえ付けようとする考え方を改めるときが来ているのではないでしょうか? 最大の蛮行を行ったのは、アメリカのブッシュ子政権でしたが、どちらが正しいかといった考え方にそもそもの問題があったと私は考えています。

 正しいか正しくないかの前提では、お互いに相手を認めたくない意志が常に働いているからです。そして、相手を殲滅することでしか解決方法がないという、単純な原理だけを信奉することになっていました。認めたくない相手を抹殺することによって、すべてが解決すると信じていたにも関わらず、また新たな脅威が次々と現れてくるという現実があることは、この数十年間の世界情勢を見ても明白なことです。それは宗教や文化とも複雑な絡み合いを見せていました。

 どのような宗教や文化や政治形態であろうとも、一度、彼らの存在を認めて、話し合いを継続する機関や人が求められていると私は考えています。いくら国連やG7などで、北朝鮮を非難しようとも、彼らの行動パターンが先鋭化することはあれども、軟化することはありません。勢い、指導者の抹殺などで政治体制が変わることを期待してしまいますが、結果、今起きていることと同じ事が起きない保証もないのです。ISの問題に限らず、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ現象、日本の右傾化など、数々のゆがみが世界で起きている今こそ、新たな発想の機関が必要だと思う今日この頃です。(2016年7月3日記)

■道の駅/犬挟は静かな道の駅でした。夜にはもう一台の停泊がいたと思いましたが、朝5時に起きたときには、周りには一台も駐まっていませんでした。トイレも綺麗ですし、ごみ箱もあり助かりました。鳥取県境にある岡山県の「塩釜冷泉」に向かいました。中蒜山の裾に湧き出る遊水池です。ナビが案内したところは別荘地でした。近くにはオオサンショウウオ生息地の案内がありますが、どうも違うようです。地図を検索して、何とか数キロ離れた塩釜冷泉を見つけることができました。塩釜冷泉はかなり大きなキャンプ場となっていました。いたるところに湧水池や川がありますが、水を汲むことは禁止されています。キャンプ場用の水道もありましたが、誰もいませんでしたので、利用は諦めました。

 すぐ近くに、停泊を予定していて諦めた道の駅/蒜山がありましたので、行ってみました。ホテルもあり、人の気配があります。営業はしているようです。昨日電話をしたときに、誰も出なかったのは単に忙しかったからでしょうか? そういったこともあるでしょう。事前情報だけで失敗した例はいくらもありますので、必ず電話をして確認をしてから向かうことにしています。行ってみて駄目だった場合の時間と距離の損失は計り知れません。

■「大山寺」に向かいました。大山寺(だいせんじ)は、鳥取県伯耆大山中腹にある天台宗の寺院です。大山寺は奈良時代に成立したとされる山岳信仰の霊場としても知られています。718(養老2)年に俊方(金蓮上人)が開いたと伝わります。大山は鳥取県にある標高1,729mの火山です。伯耆大山とも呼ばれ、中国地方の最高峰ですが、中国山地から離れた独立峰のため、裾野の広さからも古来からの山岳信仰の中心の一つとなっていました。

 高原を走る紅葉の美しい道<ドライブレコーダーの記録添付>が続きます。山頂に向かうにつれて、雲が降りてきました。雨が少しぱらつきます。大山寺はすっかり観光地化していました。下から眺める大山のイメージとは合いません。石畳の坂道を登ると、大山寺の駐車場がありました。そこから歩いて石段を上がると大山寺です。梵鐘の音が響いてきます。参拝客が梵鐘を突いているようです。私も賽銭を払い、ゴーン〜。身体に良く響く音の余韻が心地良いです。


塩釜冷泉

大山寺

大神山神社奥宮

「大山寺」に向かう
クリックでドライブレコーダー記録

大山を望む

大神山神社奥宮下の宮

大神山神社奥宮下の宮

大神山神社奥宮

上淀廃寺跡

 大山寺に参拝した後、左手に大神山神社奥宮の入口がありました。通路を進むと、下からの石畳がさらに続いています。日本一長い石畳と案内がありますが、凸凹した石畳は歩きづらいですね。下から追ってきたリュックを背負った若い二人連れに追い抜かれました。彼らは大山登山のようですね。奥宮に着いたので、拝殿に行ったのですが、掃除中の若い人に「掃除中なので、後にして下さい」といわれてしまいました。仕方がないので、先に本殿の方に廻ってみました。

 凝った造りの本殿です。祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)ですから、オオクニヌシのことですね。本社(下社)は米子市にあります。神仏習合の時代は、智明権現と称して、地蔵菩薩を本地仏としていたのですが、明治の神仏分離によって大山寺が廃されました。現在の大山寺はその後再興されたものです。隠岐を脱出した後醍醐天皇が、1333(元弘3)年に鎌倉幕府打倒の祈願を行ったとも伝わっています。

 左手に下の宮がありました。社殿に付いている彫像が凄いですね。目の色が碧く輝いています。拝殿に戻りましたが、まだ掃除中でした。少し待ったのですが、諦めて戻ることにしました。下りの石畳も歩き辛いですね。石畳の両脇の平らな石伝いに歩くことにしたのですが、濡れていたため、思わず滑って尻餅をつきそうになりました。危ないところでした。

■大山からの下り道は、来たときとは異なる丘陵を下る道でした。一気に下ると晴れて来ました。続いて、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に向かいました。良く整備された一帯に着きました。妻木晩田遺跡は、鳥取県大山町にある弥生式集落遺跡です。裾野が広い大山の海側に位置しています。1990年代に京阪グループが大規模リゾート「大山スイス村」を計画、その際の大山町と淀江町が実施した発掘調査の際に発見された遺跡です。保存運動の高まりの中、京阪グループが開発を断念を余儀なくされました。国内最大級の規模を誇ります。

 四隅突出型墳丘墓を含む24基の墳丘墓や395基の竪穴式住居、502基の掘立柱建物などが発見されています。大山を背景に、豊かな広陵地帯が続きます。その近くに、もう一つの目的である「上淀廃寺跡」がありました。1991年に開始された淀江町による発掘調査の結果、法隆寺金堂壁画と並ぶともいわれる日本最古級の仏教壁画が初めて出土した場所です。

 7世紀後半の飛鳥時代に、南北に3基の塔(北塔は計画のみと推定されている)を並べ、西側に金堂を配置した類型のない伽藍配置がこの地に造られていたという事実は、歴史を奥深さを改めて感じさせてくれます。そして、この遺跡の最大の特徴は、膨大な壁画断片が出土されたということです。11世紀初めには、火災により焼失したと推定されています。予想していたよりも小ぶりな遺構でしたが、そこからの中海は素晴らしい景観でした。

■大神山神社奥宮の本社でもある鳥取県米子市の「大神山神社」に向かいました。拝殿の横に、渡り廊下の下を潜る通路があり、本殿の方まで行くことができるようです。奥宮の遥拝所もありましたが、阿吽像が狐になっています。本殿は小ぶりですが、出雲に良くある形式でした。

■続いて、「真名井神社」に向かったのですが、途中に「出雲国分寺跡」がありました。広大な遺構です。田園風景の中に溶け込んだようになっていました。真名井神社は以前にも来ていますが、尻尾を上げた出雲特有の阿吽像があります。真名井の滝に向かったのですが、近くに「出雲国府跡」がありましたので、寄って見ました。こちらも広大な遺構でした。


大神山神社(本社)

出雲国分寺跡

真名井神社

出雲国府跡

神魂神社近く

神魂神社

八重垣神社前の夫婦椿

 結局、真名井の滝には行き着くことができませんでした。どうも、真名井神社から行くのが正解のようでしたが、再び、石段を登る気が起きてきませんでした。近くの島根県松江市の「神魂(かもす)神社」に寄って見ました。私の好きな神社の一つです。手前にあった稲わらの造作が面白いですね。神魂神社は、伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神としていますが、ここの手水場付近の景色がなんともいえません。石段を登ると、素木造りの拝殿と本殿が見えて来ました。拝殿からは、本殿との間にある碧色に輝く鏡が見えます。

 近くの「八重垣神社」にも寄って見ました。素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神の神社です。こちらは参拝客が多いですね。「鏡の池」が有名になったからでしょうか? 社務所で売られている半紙に賽銭を乗せて浮かべることで、縁占いをするという趣向ですが、なかなか沈みきらずに残っている半紙がありました。厳しい結果に、諦めて立ち去ったのでしょうか? 遠くまで流れていって沈むと、遠くの人と縁があるとのことですが。。。

■「玉作湯神社」に寄って見ました。参道にある、阿吽の狛犬と石灯籠の対比が面白いですね。玉造の跡に弥生式住居がありましたが、どうもしっくりきません。拝殿の注連縄にはたくさんのお賽銭が刺さっていました。願い事の石がありましたが、先客がなかなか動きません。しばらく待ってしまいました。玉作湯神社は、島根県の玉造温泉にある神社ですが、櫛明玉神、大名持神、少毘古那神を祭神としています。大名持神は大国主命のことですが、少毘古那神(小彦名命/すくなひこのみこと)は、大国主の国造りの時に、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って波の彼方より来訪し国造りを助けたとされています。その少毘古那神が発見した日本最古の一つと伝わるのが玉造温泉です。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)は、玉造部の祖神とされています。

■「熊野大社」に向かいました。丁度、結婚式が行われていたようです。熊野大社は「日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも呼ばれ、出雲大社と並び出雲一宮とされています。出雲大社との関係も深く、「出雲と大和−古代国家の原像を訪ねて」にも記述しましたが、拝殿の左手にある鑚火殿(さんかでん)には、燧杵(ひきりきぬ)・燧臼(ひきりうす)が保管され、出雲国造が亡くなると、新しい国造は喪に服する間もなく熊野大社に参向して、鑽火殿において燧杵と燧臼によって火を起こし、鑽(き)り出された神火によって調理された食事を神前に供え、自らも食べることによって初めて出雲国造と認められるということです。その他、二社が関係する行事も多くあります。主祭神は、八岐大蛇(やまたのおろち)退治の素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。


八重垣神社

八重垣神社の鏡の池

玉作湯神社

熊野大社

玉作湯神社 

玉作湯神社

玉作湯神社 

熊野大社の鑽火殿

■「八雲山」に行ってみました。しかし、どんどん山に入ってしまいます。行けるところまで行って、途中で断念してしまいました。近くに「須我神社」がありましたので、行ってみると「奥宮」はそちらの方でした。どうも勘違いをしていたようです。2009年の折には、須我神社からそのまま登る奥宮に入ったのですが、須我神社の奥宮とされる「夫婦岩」は、別な所だったのを後で知ったからです。第三の道があったことになります。またまた勘違いをしてしまいました。

 八雲山に入ると夫婦岩があると思っていたのが間違いでした。夫婦岩は、須我神社から直接ではなく、横の道を入ると2kmほどでその案内がありました。駐車スペースがあり、そこから400m程の登山となるようです。時刻は15時半ころでしたが、どうもパワーが湧いてきません。諦めることにしました。行けないこともありませんが、帰るころには暗くなってしまいます。縁がなかったのでしょうね。入口だけを撮影して帰ることにしました。

■諦める理由の一つが、「亀嵩駅」に行きたかったからです。亀嵩は映画「砂の器」に出てきた地名です。犯人を追跡する刑事(丹波哲郎)が殺された元警官(緒形拳)が東北訛りだったことから、当初、秋田県の羽後亀田に行くのですが、その後、東北訛りに似た方言が島根県の亀嵩にあることを知り、最終的に犯人(加藤剛)の出所を突き止めるという設定になっていました。日本の古い言葉が東北訛りにあり、大和方面から入ってきた勢力により、左右に分断されてしまったのではないかという歴史を示しているとされています。亀嵩駅には蕎麦屋が入っていて、切符の販売はその蕎麦屋さんが発券しているそうです。もちろん蕎麦は奥出雲そばです。

■続いて、奥出雲の「稲田神社」に向かいました。稲田神社は、ヤマタノオロチ伝説に登場する稲田姫(イナダヒメ)を祭神とする神社です。稲田姫(イナダヒメ)の生まれたときに使われた「産湯の池」や、へその緒を竹で切ったと伝えられる「笹の宮」が今も残っていました。一部の社殿は、屋根が古くなったためか、ビニルシートが掛けられていました。ここは道の駅ともなっていて、蕎麦屋もありましたが、人影はもうありませんでした。

■遅くなってきたので、「ひかわ美人の湯」に電話をしました。温泉は21時まで受け付け、レストランのラストオーダーは20時まででした。途中、「斐伊神社」を目ざしたのですが、住所が分かりません。らしきところに着いて、確認をしたところ、そこは「三幡神社」でした。すっかり暗くなってしまいましたので、諦めて、ひかわ美人の湯に向かいました。今日の停泊は、さらに2〜3km離れた道の駅/湯の川です。

八雲山

須我神社

須我神社奥宮に登る道

亀嵩駅

稲田神社

稲田神社
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092 但馬から人形峠を経て三徳山投入堂(2015年10月27日の記録)  

■イギリスの国民投票の結果、イギリスのEU離脱が規定方針となりました。グローバルが格差を生み、幸福をもたらさないことを、成熟した国家であるイギリスの人びとが気づき始めた結果だといえます。グレートジャーニーで有名な関野吉春がある講演会で「グローバルに未来はない」と語ったことが思い出されます。

 アメリカでは、トランプ現象が起きていますが、金融面でのグローバルの申し子ともいえる彼が、その弊害を利用していることに皮肉を感じざるを得ません。日本におけるアベノミクスという成長戦略の目ざす方向が間違っていることは、グローバルを前提とした金融政策のみに頼ったものだからです。今後起きるであろう株価低迷、円高傾向の大きなうねりのなかで、埋没せざるを得ないでしょう。金融で得られたお金が、私たちの生活に廻ってくることはほとんどないのです。日本は、大きく舵を切り替えなければならないのです。しかし、その船の舵を切る船長がいないという不幸をやりきれない思いで見つめるのは、いい加減にしなければなりません。

 問題なのは、グローバル化を止めることではありません。この先、グローバル化が進んで行くことは誰も止めることはできません。問題なのは、金融資本におけるお金と労働で得られる対価が同じものであるからなのです。一所懸命に働いて稼いだ年数百万円のお金と、世界を股にかけた金融資本家や経営者が年数億から数十億を強欲にむしり取ったお金に同等の価値が与えられているからなのです。世界には、年数万円以下で暮らしている人びとも多くいます。それがグローバルが格差を生む要因となっているのです。(2016年6月26日記)

■道の駅/神鍋高原は静かなところでした。他に停泊は2台程度です。昨夜の温泉も2〜3人程度の人しか入っていませんでした。結局、最後の客となりました。近くに但馬ドームがあるので寄ってみました。外観で感じたよりも大きな施設ですね。時間をかけて一廻りをしてみました。山並みをイメージしたファサードと体育館が合体したドームです。1998年に竣工した仙田満十環境デザイン研究所・大建設計共同体設計の建物です。

 この付近は渓谷美で有名なところですので、少し寄り道をしてみました。知りませんでしたが、「八反(はったん)の滝」という滝が最大の滝だそうです。住宅街の中にちょっとした駐車場がありました。轟音が響く滝が遠景できました。かなり水量があるようです。滝壺までの遊歩道がありましたが、今回は止めておきました。落差約24mの滝です。

■兵庫県香美町の「西ヶ岡棚田」に向かいました。昨夜のコインランドリー方向に進みましたが、すぐに間違いに気づきました。ナビの出だしでは良く反対方向を示すことがあります。車を展開したときに、示す方向が逆向きになっているのです。未だに理由がよく分かりませんが、気をつけているつもりでも、時々、騙されてしまいます。逆に向かい、道の駅を過ぎて16km程戻ったところで、山道に入りました。かなり険しい山道に沿って住宅が張り付いています。


但馬ドーム

但馬ドーム

但馬ドーム

うへ山棚田

長楽寺の五重塔と大仏殿

西ヶ岡棚田

八反の滝を遠望

因幡の河原城

 住宅街を過ぎたところで、急な登り坂に棚田の案内板がありました。車を進めようとしたのですが、険しい山道を老人が手押し車を押して登っているところでした。車を進めるのを止めて、少しばかりカーブで広くなっているところに車を駐めることにしました。歩いて山道を登ると西ヶ岡棚田がありました。大きくはありませんが、三日月型の棚田が並んでいます。先ほどの老人が奥さんらしき人と談笑中です。機械が殆ど使えない棚田の現実が見えたひとときでした。

■車が気になるので、戻ると、丁度、軽トラックが登ってくるところでした。カーブの所に駐めた私の車をそれほど苦にせずに廻って登って来たので、頭を下げたのですが、無愛想に登って行きました。続いて、同じ香美町の「うへ山棚田」に向かいました。途中、進む正面の山の上に大きな五重塔と金堂風の建物が見えていました。後で調べると、但馬大仏が入っている長楽寺の大仏殿でした。高さ70mの五重塔は日本で第2位の高さです。

 山道に入ると、「うへ山棚田」の案内がありました。ビュースポットの案内もあります。比較的広い道路に面しています。規模はそれほど大きくありませんが、39枚の美しい棚田です。ここは、全国の黒毛和牛のほぼすべてを子孫とする名牛「田尻号」が生まれ育ったところだそうです。

■「人形峠」に向かいました。ナビの画面を見ると、進む方面が災害で不通箇所があると表示されています。このようなこともあると思い、事前に調べていた兵庫県の道路情報に電話をしてみました。案内の女性の話では、不通はないとのことでした。それではと進んだのですが、途中の道路案内も天候不良時の場合の不通の表示しかありません。さらに進むと、ガードマンが立っていました。ガードマンによると、この先は通っていないとのことです。工事関係者も二人いて、不通とのことです。道路情報があてにならないことを知りました。

 戻って、9号線から行くと良いとガードマンに教えて貰いましたので、来た道を戻り、湯村温泉を通り、鳥取市方面に向かいました。20kmほど遠回りになりますが、無料の自動車専用道路もあり、順調に進むことができました。途中、右手に鳥取砂丘を見ながら、因幡の「河原城」を遠景して、山側に入りました。

■人形峠手前の「岩井の滝」にやってきました。良く整備された道路が続きます。この辺りの紅葉はもう終わりかけのようです。岩井の滝も良く整備されていました。トイレや駐車場もあります。斜面の整備された散策路を登り、約300mの登山で岩井の湧き水がありました。タンクを持ってきて給水するには少し大変です。そこからさらに100mほどを登ると岩井の滝がありました。水量も少なく、落差約10mしかありませんが、景色が素晴らしいですね。滝の裏側にも廻ることができます。しかし、空が暗くなってきました。

 車に戻り、11kmほど先の日本原子力研究開発機構の「人形峠環境技術センター」にやってきました。警察の派出所もあります。無料の案内施設もありましたが、パスしました。人形峠は、鳥取県と岡山県の県境にある峠で、ここで1950年代にウラン鉱が発見され、天然ウランの採掘や精錬が行われていました。鉱山の開発と同時に、原子燃料公社の施設も建設され、1960年代から1970年代にはウラン濃縮原型プラントも建設されました。ここで製造した塩化ウラニウムは、茨城県の東海村の核燃料加工施設にも利用されました。

 その後、1979年のスリーマイル島の原発事故により、国際的なウランの取引価格の下落のため、国内製造よりも海外からの輸入の方が安価となって、人形峠でのウラン採掘は中止となりました。しかしながら、ウラン採掘によって発生した微量の放射線を帯びた残土が長年に渡り処理されていなかったことが問題となりました。一部はアメリカにも移送されましたが、2006年には人形峠の鳥取県側に残土処理施設が建設され、微量のウランが含まれるレンガなどとして製造・販売がされています。そのレンガが安全かどうかは別な問題として、依然として残土が残された状態は続いています。また、ウラン採掘などに伴う労働環境もずさんだったことが社会問題となりました。


岩井の滝に向かう

岩井の滝

岩井の滝の裏側から

人形峠環境技術センター

遥拝所から遠望した投入堂

投入堂に向かう

投入堂に向かう

■昼を過ぎてしまいましたが、この付近にはコンビニも何もないため、車内にあったソーセージとミカンの昼食としました。少し雨がぱらついてきましたが、「三徳山三佛寺」に向かいました。三佛寺の少し先に、投入堂遙拝所がありましたので、道路に車を駐めて撮影です。2009年の折りにも訪れましたが、その際に、遙拝所からの遠景で済ましていたことが心残りとなっていました。少し戻り、石段を登って、三佛寺の境内に入りました。左手には、2009年にトチの実ソバを食べた茶店があります。その際、社殿が工事中でしたが、今回は完成していました。拝観料が400円です。

 目的は投入堂がある山上までの登山です。行者道がある山上区域への登山は15時までですが、時計を見ると現在は14:30でした。一人で登ることはできません。誰か相方が来なければ登ることができないことになっています。天候も良くないため、受付の方に多分難しいだろうといわれてしまいました。ほとんど諦めたところ、若いアベックがやってきました。登るとの意思表示をされています。同行をさせて貰うことにしました。

 入山料が200円でしたが、若い二人の靴が問題となりました。私の靴は問題ありませんでしたが、結果、女性の靴が駄目だということになり、わら草履を700円で購入して登山許可がでました。しかし、天候を含めて、最終的な登山可能判断は、先の登山口での判断だそうです。3人で登山口に行ったところ、何の問題もなく登山許可が出ましたが、それからが結構大変でした。

 予想はしていましたが、かなり急峻な登山となりました。ロープを伝い、木々の根に手を掛け足を掛け、滑落すれば命はない登山です。しかも、一番後から付いていったのですが、若い二人はまったく休もうとはしません。息が切れそうです。結局、一度も休まず、一気に投入堂まで登ることになりました。途中、梵鐘や幾多の社殿がありましたが、ゆっくりと鑑賞している暇がありませんでした。もっとも、梵鐘では鐘を突いてみましたが。。。

 投入堂でお互いに記念撮影をして下山をしましたが、注意をしなければなりませんが、やはり下りの方が楽でした。少し余裕を持って、撮影などもしながら無事に下山をすることができました。下まで降りると、丁度、雨がぱらついてきました。実にラッキーな体験をさせてもらいました。

 三徳山三佛寺は、鳥取県三朝町にある天台宗の寺院ですが、史実はともかく、開山は706年の役行者によるとされています。849年には慈覚大師円仁により、本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置され、国宝奥の院(投入堂)は、平安時代後期の建立とされています。雪の降り積もった大晦日の除夜の鐘は、日本一危険な除夜の鐘として有名ですね。

■車に戻り、今日の停泊場所である、道の駅/蒜山に電話をしましたが、誰も出ません。再度、掛けてみましたが、反応がありません。これは止めておいた方が良いようです。諦めて、蒜山の手前17kmに関金温泉湯命館があるので、確認してそちらに向かうことにしました。レストランは21時まで、入浴は22時まで受付です。蒜山の割引券を事前に用意していましたが、使えないことになりました。

 関金温泉湯命館で焼き魚定食を食べて、館内でデータ整理などをして、温泉に入りました。モバイルルーターは繋がりませんでしたが、新聞などをみてゆったりと時間を過ごしました。ここでは停泊はできませんので、5kmほど離れた道の駅/犬挟に向かいました。途中、缶ビールでも買おうと思っていたのですが、コンビニなどはまったくありませんでした。道の駅/犬挟は静かな道の駅でした。何といっても、雨にもあたらず、投入堂まで行けたことが最大の収穫となった日でした。

投入堂に向かう

投入堂

投入堂の下部
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091 越前、三方五湖、天の橋立、余部鉄橋(2015年10月25日の記録)


越前海岸
■舛添東京都知事が詰め腹を切らされましたが、政治資金の付け替えや高額な海外出張費の問題とそれらの対応にマスコミと世論から総スカンをくらった結果となったといえます。政治資金の問題は、規制法自体に問題があるにも関わらず、それを改めようとしない与野党を含めた政治家の節操のなさに呆れるばかりですが、高額な海外出張費は舛添氏本人の問題もさることながら、それを許して来た東京都のあり方を問題とすべきではないでしょうか? 尖閣列島問題をわざわざ顕在化し、週に3〜4日しか出勤しなかった前々の知事が豪華な海外出張をしていたという事実も忘れるべきではないでしょう。舛添氏の行政能力を否定する意見が少なかったことも注目に値するといえます。

 振り返りますと、私が住む北海道では、何か問題があると「国にお願いをする」としか仰らない女性知事が四選を継続しています。国との関係でしか自分を表現できない人が選び続けられている事実は、私の理解を超えていますが、舛添氏が一時期、北海道知事候補になぞらえ、白老に居を構えられたことを思い出しました。都道府県知事の役割は、国にお願いをすることよりももっと大事なことがあるのではないでしょうか? 自らの主張を創造できない人が首長になるべきではないでしょう。政治資金に対して清廉であることは当然として、国と都の関係や東京都議会の与野党の構成を考えて安定感を求める人を次期東京都知事に推す考えもあるようですが、それは間違った考え方だと私は考えています。(2016年6月19日記)

■道の駅/越前は、新しい施設でした。プールや体育館も併設されています。ウォシュレット付きの新しいトイレが良いですね。停泊車は少なく、周りには3台、向かいのWC側に4台でした。どうも、釣りを目的として来られている方が多いようです。朝は、5:25に起床しました。今日も良く晴れています。付近の海岸線は、赤みを帯びた大きな岩が目立ちます。海の色が深い緑に見えて美しいですね。

 西に進むと、三方五湖にさしかかってきました。少し寄り道をすることにしました。レインボーラインという有料道路がありますが、三方五湖が展望できるようです。有料道路は避けて、三方五湖そのものを巡ることにしました。途中、袋小路に入ったりとちょっと難儀をしましたが、実に美しい海岸線が続きます。湾の中に釣り堀があり、その中で釣りをしている人が多くいましたが、私には理解不能です。ここまで来て釣り堀かなと思ってしまいました。それにしても、景色は素晴らしいですね。

■元の国道に戻り、「日引棚田」に向かいました。途中の海岸線も美しいですね。山にさしかかったところで棚田らしい姿が見えてきました。思ったよりも小さい感じがしたため、先に進みましたが、案内がありました。やはり、先ほどのところが日引棚田でした。戻ってみると、規模はそれほどでもありませんが、湾を背景にした美しい棚田があります。約200枚の水田が、海と漁村を背景にして、一つの日本の原風景を演出していました。稲穂が茂る時に、再び訪れたいですね。野菜や果物の露店もありました。


越前海岸

三方五湖

三方五湖

道の駅/うみんぴあ大飯付近

若狭湾を望む

日引棚田

■少し戻り、国道に入りました。舞鶴に向かっています。学生時代の青森からの自転車旅行の最終地点が舞鶴でした。何となく懐かしい感じがします。舞鶴を過ぎると高浜原発がありました。本当に、こんなところに原発を造るべきだったのでしょうか? 東日本大震災後、再稼働していた高浜原発を、大津地裁が関西電力に運転停止を命ずる仮処分を決定しました。そのことの是非よりも、「一地裁の裁判官によって国のエネルギー政策に支障をきたすことが起きるのがおかしい」と批判した、関西財界人の暴言に驚きましたね。NHKの会長も原子力発電を批判的に報道することを規制しようとしていますが、熊本地震を受けて、まだ原子力は安全だと信じている人がいることが信じられません。

■「天の橋立」に着きました。いかにも観光地の雰囲気があります。2009年の折りには、砂嘴(さし)側の知恩寺、廻旋橋(かいせんきょう)を辿り、松林を散策しましたが、今回はリフトに乗ろうと思います。ところがリフト乗り場がなかなか見つかりません。何とか見つけて、駐車をしようと思いましたが、料金が500円から800円と色々です。今日は月曜日ですから、空いていますので、ここは500円の小さな駐車場に車を駐めました。誰もいませんでしたが、ブザーを押すとおばさんが急いで出てきました。普通の民家がやっている駐車場です。リフト代50円の割引券も貰いました。

 踏切を渡り、乗り場に向かいましたが、こちらにも500円の駐車場がたくさんありました。山頂に登るためには、リフトとロープウェイがあり、どちらも割引を入れて800円でしたが、今日は天気が良く気持ちも良いので、リフトに乗ることにしました。結構、長い距離を登ることになります。リフトから降り、振り返ると、写真などでよく見た天の橋立がありました。海の色が綺麗です。瓦投げもありましたが、誰もやっていません。「股のぞき」は多くの人がやっていましたが。。。鉄骨製の回廊型の展望台がありました。結構、揺れますが、景色は良いですね。何故か、ジブリの曲がずっとかかっていました。

■続いて、「余部鉄橋」に向かいました。2009年の折りには、行き着けなかったのですが、今回は事前によく調べておきました。途中、豊岡市内で給油をしたのですが、122円の安売りのGSがありましたので、満タンにしました。約40リットル入りました。余部鉄橋は、道の駅/あまるべにありました。既に、鉄橋は解体され、PCの現代的な橋に代わっていましたが、古い鉄橋が一部残され、モニュメントとなっていました。


高浜原発付近

天の橋立のリフト

天の橋立

天の橋立

天の橋立にて

 先に見える湾が実に美しいですね。かつての水害を受けたという記念碑もありました。一部が残された鉄橋を見ると、鉄骨塗装の厚さが半端ではありません。塩害防止のため、何度となく塗り重ねられてきた歴史を伺うことができます。余部鉄橋の、上に登る道がありました。行ってみますと、「天空の駅」との案内があります。何とそこは駅になっています。しかも、古い鉄橋の一部を残して、平行した路線となっています。数十メートル先まで歩いて行くこともできます。その先からの、海岸線も美しいですね。鉄橋は、少し細い感覚もありますが、ほとんど揺れません。確かな技術が偲ばれます。丁度、列車が到着しました。思わず、撮り鉄をやってしまいました。

 余部鉄橋は、兵庫県美方郡の山陰本線/鎧駅と餘部駅間にある橋梁です。解体された古い鉄橋は、1912(明治45)年に開通した鋼製トレッスル橋でした。2010(平成22)年に解体されるまで、100年近く利用されたことになります。トレッスルとは「架台」あるいは「うま」という意味だそうですが、トンネル技術が低かった時代に多用された手法でしたが、写真で見る不思議な不安定感に何故か郷愁を感じるのは私だけではないでしょう。

■車に戻り、道の駅/神鍋高原に電話をすると、レストランのラストオーダーは17:30、温泉の最終受付は20:30でした。現在時間を確認するとレストランの最終オーダー時間は厳しかったのですが、挑戦を試みました。そして着いたのが、17:25とギリギリ間に合いました。骨が綺麗に取られている鯖の味噌煮定食を注文、美味しくいただくことができました。

 入浴施設で時間を再確認したのは、2009年の折には裏切られた記憶があるからです。そのときは、寝支度などをして、ゆっくりと入浴に行ったのですが、何と早めに閉まっていたという悲しい記憶が残っていたからです。時間を再確認したのは、今回は事前に調べていたコインランドリーで洗濯をしようと思っていたからですが、道の駅から500mほど離れたコインランドリーに行き、洗濯をしました。スキー客用なのか、少し寂れた感じの施設でしたが、19:30には洗濯を完了しました。

 道の駅に戻り、ゆっくりと温泉です。改装をしたようで、綺麗になっていました。くじ引きをやっていて、くじを引いたのですが、当たったのはあめ玉でした。綺麗な温泉に最後の一人となるまで満喫させて貰いました。外気温は11.7度でしたが、明朝は冷えそうな感じです。予想に反して、モバイルルーターが繋がりましたので、メール等をチェックして寝たのは22:20でした。


余部鉄橋

天空の駅にて
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090 金沢からふくべの大滝と永平寺(2015年10月25日の記録)


金沢駅の「鼓門」
■道の駅/倶利伽羅源平の郷で、5時ころ目が覚めたのですが、また寝入ってしまいました。結局、起きたのは6時ころですから、8時間は寝たことになります。外気温は11.3度、天候は晴れです。昨日の夕方は少し雨に当たりましたが、ほとんど晴れの日が続きます。昨日、通った道を数キロ戻り、再び自動車専用道路に入りました。日曜日の朝なので空いています。金沢駅に向かいました。

■金沢駅近くのコインパーキングに車を駐めました。「もてなしドーム」があり、正面に「鼓門」が見えます。伝統芸能に使われる鼓をイメージしたとのことですが、思ったよりも迫力があります。色調は、想像していた色よりも濃く感じます。完成時よりも、外気にさらされることにより、色が濃くなったのでしょうか? 2005年竣工の白江(しらえ)建築研究所の作品です。コインパーキングに車を駐めましたが、金沢地下駐車場は30分まで無料とのことでした。30分は、少し忙しいかも知れませんね。

■続いて、市内の旧加能合同銀行に向かいました。2009年には、ネットに出ている住所を信じて向かったのですが、辿り着けませんでした。今も間違った住所が掲載されていますね。実在するのは玉川町ではなく、青草町です。1932年の村野藤吾の初期作品です。外壁に3つの尖塔アーチ状の開口部が並びますが、年月を経ても存在感のある建物です。現在は、北國銀行武蔵ヶ辻支店となっています。

 さらに、市内の金沢聖霊修道院聖堂に向かいました。かつての武家屋敷の名残が残る狭い道を通って行き着きましたが、1931年のマックス・ヒンデルの作品です。金沢も狭い道が多いですね。隣には保育園がありますので、ほとんど保育園の建物のように見えます。路上駐車をして、外観のみを撮影しましたが、後から考えると、教会ですから中に入るべきでしたね。

■海岸方面に向かい、「からくり記念館」に向かいました。9時開館でしたので、少し駐車場で待ちました。入ると、いきなり、からくり人形が迎えてくれました。館内は、大野弁吉のからくり技術を中心とした展示でしたが、からくりの仕組みにしばらく見入ってしまいました。大野弁吉(1801〜1870年)は、京都の羽根細工師の息子として生まれ、長崎に学び、対馬から朝鮮にも渡ったと伝えられています。その後、京都に戻りましたが、加賀に婿養子として移住、からくり人形を初め、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などの名作を多く残しました。

旧加能合同銀行

金沢聖霊修道院聖堂

からくり記念館内部

からくり記念館外部

白川郷ホワイトロード
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ふくべの大滝付近

 からくり記念館の建物自体は、1996年の内井昭蔵の作品ですが、木材の組合せは、雨傘をイメージしたという鼓門にそっくりですね。いや正確には、鼓門がからくり記念館にそっくりというべきでしょう。

■ここから一気に白山方面に向かいました。狭い山道に入りましたが、日曜日のため車が多いですね。さらに白山白川郷ホワイトロードに入りました。料金所は、かなり奥にあります。片道1,600円、往復2,600円ですが、Uターンは1,600円です。山並みの紅葉が素晴らしいですね。途中、停車帯があり、2、3度、車を駐めて撮影をしました。しかし、午後からさらに混む可能性を考えると先を急いだ方が良いですね。目的とする「ふくべの大滝」に一気に向かいました。ふくべの大滝の駐車場手前4〜5kmで少し渋滞しましたが、意外と簡単に駐車することができました。

 望遠用のカメラも出して、カメラ2台と三脚を用意して撮影です。落差86mの滝ですが、水量が少なく圧倒感は余りありません。とはいえ、紅葉と抜けるような青空は見事です。この辺は、外国人観光客はほとんどいません。来た道を戻ると、途中にいくつも滝がありました。

■「永平寺」に向いました。13時を過ぎて遅くなりましたので、今日の昼食はコンビニでオニギリを買って素早く済ませました。急ぐときは、コンビニのオニギリかサンドイッチ、あるいは回転鮨です。永平寺の参道前に来ると、有料駐車場の手招きが立ち並んでいます。山門前のお土産やさんの駐車場に駐めました。お土産を買えば駐車料金が只になります。永平寺は2度目です。日曜日のため観光客が多いですね。

 永平寺に入ると、丁度、説明が始まるところでした。永平寺は道元が始めた曹洞宗の總持寺と並ぶ大本山です。仏法を学ぶため1223年、中国に渡り、天童山景徳寺の如浄に入門します。その教えを受けた道元も「無」の境地を求める「只管打坐」の禅風を受け継ぎます。日本に戻った道元は、比叡山などの旧仏法勢力からの迫害を受けますが、武士も貴族も盛んに加持祈祷を行っている世相にありました。1243年、権力から遠ざかることを目的として、越前に向かった道元は傘松に大佛寺を開きましたが、その大佛寺が後に永平寺と改められました。永平寺では、1時間20分と堪能させて貰いました。多くの若い僧が修行をしていますが、京都とはまた異なった観光寺の雰囲気があります。


ふくべの大滝

ふくべの大滝付近

永平寺

永平寺

永平寺

永平寺

永平寺

梨子ヶ平棚田

■夕暮れが近づいて来ましたが、「梨子ヶ平(なしがだいら)棚田」に向かいました。街中が混んでいるため、少し時間帯が厳しくなってきました。途中、119円と安いガソリンスタンドを見ましたが、混んでいましたので諦めました。海岸線に出ると、道の駅/越前の案内がありましたが、そこから北に戻る感じで数キロで山に入りました。丁度、夕日が沈みかけるところで、海岸線が美しく輝いています。さらに山を上がっていくと、梨の木平棚田に着きました。ほとんどの棚田が水仙畑に変わっています。水仙園があり、迷路のようになっていますが、海岸側に灯台があり、沈む夕日の景観を味わうことができました。

 梨子ヶ平棚田は、江戸時代に拓かれた棚田です。約1000枚もの棚田があるとのことです。時期が合うと、急斜面に水仙の花が咲き乱れる景観が堪能できそうです。機会があれば、その時期に訪れてみたいものです。水仙の棚田オーナー制度もあるようです。

■海岸線を戻り、道の駅/越前に着きましたが、3階の展望レストランが18時までということで、先に食事をしました。既に日が暮れてしまいましたが、夕日が展望できるようです。ミックス・フライ定食は、なかなかの味でした。温泉に行き、WI−FIが繋がるので、メールチェックや写真整理などをして風呂に入りました。何も見えませんでしたが、海に面した露天風呂は日没の美しさを想像させてくれます。温泉内で大声で喋っている人がいました。何を話しているのは分からないほどの訛りです。迷惑ですね。今日は、滅多に入らないサウナにも入ってしまいました。


梨子ヶ平棚田付近にて
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