旅の思い出・その9 <次の記事へ>

089 能登半島を周遊する(2015年10月24日の記録) 

■道の駅/氷見は静かな夜でした。朝は5:25に起きました。昨夜、車で来て飲んでいた人たちの車は一台もありません。立ち去る気配を感じなかったほど、良く寝ていたことになります。停泊しているのは10数台、外気温は11.5度です。天候は、薄曇りといった感じです。能登半島を北に向かいました。最初は、「長坂棚田」です。

■富山県の長坂の棚田には、一時間ほどで着きました。棚田オーナー制度がある良く整備された棚田です。案内板もありますが、全景は難しい展望です。田圃の周りのあぜ道も良く刈り込まれています。「石動山大宮坊」の案内がありました。長坂の棚田は、石川県の県境にありますが、石川県中能登町・七尾市から富山県氷見市にまたがる標高564mの石動山には、かつて山岳信仰の霊場として栄えた天平寺がありました。最盛期には、360余坊を支配下に置く別当寺として、山の支配・運営、加賀藩や京都本山との交渉や年中行事に至るまでの寺務が執り行われていましたが、明治期の廃仏毀釈により廃絶され、その後は越後小学校石動分校や宅地・水田として利用されてきたそうです。

■能登半島を北に向かいました。すぐに立派な仁王門と仁王像があるお寺がありました。「氷見光西禅寺」というお寺でした。鉢ヶ崎にあった立派な建物は、「珠洲ビーチホテル」でしたが、1996年の仙田満の作品です。海岸線を走ると「雲津」と書いて「もず」と読ませる案内が気になりました。さらに海岸線を北へ走ったのですが、行き止まりに当たってしまいました。ちょっと無理をしたようです。少し戻り、道の駅/鈴なりで休憩をしました。珠洲(すず)市は、小さな村落の集合体のような街です。

 石川県珠洲市の「須須(すず)神社」に寄って見ました。立派な構えです。海側に鳥居が二つありますが、車で鳥居の下を通り過ぎました。左手に大きな背の高い倉庫状の建物が見えて来ました。「日本一の大奉燈(だいほうとう)」の収納庫のようです。奉燈は、キリコとも読みますが、巨大な燈籠のことです。能登キリコ祭りが有名ですね。京都の祇園祭の流れを汲むものといわれています。


富山県氷見市の「長坂棚田」

氷見光西禅寺の仁王門

須須神社

須須神社

能登半島東側の海岸線

珠洲ビーチホテル

須須神社の本殿

 鬱蒼とした茂みの中に古そうな鳥居が見えて来ました。石段を登ると拝殿がありました。新しく立派な拝殿です。奥の本殿は古そうですが、彫刻が見事です。須須神社は、創建は崇神天皇の時代で、天平勝宝年間(8世紀)にこの地に移転したと伝わりますから、相当に歴史がある神社です。祭神は、天津日高彦穂瓊瓊杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと)・美穂須須美命・木花咲耶姫命、他3柱です。先に進むと、道路沿いに人が並んでいます。何かあるのかなと思ったのですが、何と「案山子」でした。この並び方はカラス対策ではありませんね。

■能登半島の北東端の「金剛崎」にいってみました。狭い道路があり、その道が開けたところに駐車場がありました。ガードマンがいて、通せんぼをするように右手の駐車場に誘います。新しい施設がたくさんありました。木造風の展望台があり、空中に飛び出したデッキが付いています。その崖下を見ると、黒い瓦屋根の建物が並ぶ旅館群がありました。「青の洞窟」や「聖域の岬」、「能登半島最北端」といった案内があります。日本三大パワースポット?として売り出している観光地ですね。瓦屋根の建物群は「ランプの宿」というそうです。

 帰りは、ナビに出ていない広い道を通りました。来たときは、旧道に入ってしまったようです。数キロ先の道の駅/狼煙(のろし)にやってきました。ここに「禄剛崎(ろっこうざき)」の灯台があります。「珠洲岬(すずみさき)」は、石川県珠洲市にある岬ですが、岬の特定に諸説があります。能登半島の先端部にある金剛崎を指すとも、禄剛崎などを含めた総称だともいわれています。禄剛崎の灯台には、道の駅から400mほどを少し急な道を登らなくてはなりません。約8分ほど掛かりました。早く歩いているつもりでしたが、軽く追い越していった年輩の人がいました。達者ですね。

 白亜の石造りの禄剛崎灯台は、小さいですが由緒が感じられます。かつては灯台ではなく、「のろし」が上げられていたのでしょうね。現在の珠洲という地名は「すすみ」(古訓で、のろしのこと)にちなむともいわれています。禄剛崎灯台は、1883(明治16)年に建設されました。海岸線も美しく見えます。ここでは、朝日と夕日が同じ場所で見られることでも知られています。

■昼食タイムを過ぎましたが、この付近にはコンビニはありません。途中、木の浦海中公園にて撮影などをして、能登半島の西側に廻ってきました。「揚塩の塩田」の手前10km程のところに、朝TV「まれ」で見た塩田がありました。揚塩の塩田の場所かと思っていたのですが、異なるのですね。塩田が綺麗に整地されています。ここで田中泯演じる元治さんが、海水を撒いていました。加賀三代藩主前田利常が、県民救済のため、田畑の少ない農民に対して、米を貸し付ける代わりに塩を納めさせるという「塩手米(しおてまい)の制度」を始めました。


須須神社の大奉燈の収納庫

道端に並ぶ「案山子」

能登半島北東端の「金剛崎」

金剛崎を見下ろす
金剛崎にて
「禄剛崎灯台」

■結局、能登半島を周り、道の駅/白米(しろよね)千枚田に着いたのが13:14でした。ここは、観光地化された棚田となっています。車が多いですね。先に、道の駅であごだしソバを頂きました。オニギリも美味しそうでしたが、パスしました。「白米千枚田」は、石川県輪島市にある棚田です。TV「まれ」でもオープニングに使われていましたね。海に面した傾斜地に1004枚ともいわれる棚田が展開しています。噂に違わない棚田です。階段を降りると、近くまで行くことができます。夜は、LEDでライトアップをしているようです。しかし、小さな棚田も多く、維持が大変ですね。田植えや刈り入れ時には、ボランティアが活躍するそうです。

■すぐ先は、輪島市内です。朝市付近を流してから、先に進むと受信状態が悪くなると思い、メールチェックや行き先のポイント確認をしました。結果的にこれが良かったようです。輪島を過ぎると、急に暗くなってきました。雨も降り出しました。途中、総持寺祖院の看板も見ましたが、総持寺祖院は、2009年の折に訪ねましたので、今回はパスをしました。

■雨は、一時的にかなり強くなりましたが、止んできたところで、「ヤセの断崖」に着きました。石川県志賀町笹波にある断崖絶壁ですが、松本清張原作の映画『ゼロの焦点』が撮影されたところだそうです。高さ約35mの断崖から日本海が一望できますが、柵から身を乗り出すとやせる思いがするからかとか、断崖周辺の土地がやせていたからとか複数の名称根拠があります。先には、「義経の船だまり」というところがありましたが、これはパスをしました。それよりも、この風の強い断崖で釣りをしている人がいたことに驚きを覚えました。

■さらに少し先の「大笹波棚田」にやってきました。案内板や整備されたビューポイントもあります。矩形の棚田が規則的に並んでいます。昭和40年代の圃場整備で直線的な畦畔(けいはん)になりました。今日の停泊は、道の駅/ころ柿の里志賀(しか)の予定でしたが、少し先の道の駅/倶利伽羅源平の郷に向かうことにしました。2009年にも停泊した大きな道の駅です。電話でレストランのラストオーダーを確認しました。

 志賀を過ぎると海岸線に沿った自動車専用道路に入りました。雨がまた強く降り出しましたが、一気に進むことができました。自動車専用道路を出ると、道の駅倶利伽羅源平の郷には、4〜5km戻ることになります。15:20に道の駅に着きましたが、雨が凄いですね。雷も鳴っています。しかし、車内で寝支度をしているうちに雨は止んできました。

 温泉は小さな施設でしたが、300円は安いですね。コインマッサージの後の食事は、源平弁当と中ジョッキ、少しの贅沢です。予想通り、モバイルルーターは繋がりませんでした。外気温が16.5度もあり、少し寝苦しいくらいでした。


道の駅/狼煙にて

木の浦海岸付近

「揚塩の塩田」

「大笹波棚田」

「ヤセの断崖」

石川県輪島市の「白米千枚田」

「窓岩」
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088 不動滝から、北アルプスを大きく反時計回りで称名滝(2015年10月23日の記録) 


新潟県の「不動の滝」

■道の駅小谷は、かなりの交通量がある道路に隣接していました。夜中にばく進しているタイヤ音に目が覚めることがありました。朝起きたのは5:23でしたが、外気温が13.5度もあり暖かいですね。今日も晴れです。今のところ、日中は、ほとんど雨に当たっていません。いつもの車内食を取って、7:20に出発しました。岩木山麓で購入したリンゴが丁度なくなりました。

■新潟県糸魚川市の「不動の滝」に向かいました。不動の滝は、山道を6.5km程度入ったところにあります。早朝ゆえ、静かな佇まいです。気持ちが良い朝です。キャンプ場に着きました。人影はありません。綺麗に整備されたキャンプ場の奥に不動の滝がありました。木々の間に、滝の上部が見えます。手前には鳥居がありました。三脚を持ち出して、数百メートル先の滝に向かいました。静かな中に、滝の音が聞こえてきます。鳥のさえずりも聞こえて来ます。レコーダーがあれば、録音したい美しい朝です。倒木があり、その苔むした姿が美しいですね。

 不動の滝は、高さ70m、3段構成で流れる滝です。景観が広いためか、すこし小振りにみえます。この付近には、日本カモシカも生息しているそうです。滝壺の前にもコンクリート製の鳥居がありました。滝壺に住むという高龍神を祀った水神社です。左手には、岩肌を這うように流れ落ちる落差50mの「糸滝」がありました。

■続いて、昨日行った黒部ダムの西反対側に当たる立山方面に向かいました。不動の滝は、北アルプスの白馬岳の北側に当たるのですが、そこから一度日本海側に出て、富山湾を右手に望みながら、立山を経由して再び黒部ダム方面に向かうことになります。大きく左周りをする訳です。途中、親不知ピアパークにて休憩、黒部市で給油と食事、買い物などをしました。黒部市は、富山湾に面しているのですね。

 富山市から立山町を経て山道に入りましたが、広く良く整備された道が続きます。事前に調べたように、美女平から立山有料道路に入る道には進まず、富山県道6号線から170号線へ進みます。この先に「称名滝」があります。その手前、1km程度のところに、プレファブがあり、先に進むように指示されました。今日は、金曜日ですが、土日であればここで駐められる可能性がありました。それでも混んでいます。

 片側1車線の山道をしばらく進むと、駐車場に着きました。8割程度が埋まっています。三脚と広角と望遠を付けたカメラの合計2台を肩にぶら下げて滝に向かいました。人が多いですね。高齢者もいます。汗をかきながら、山道を30分ほど登ると称名滝が見えて来ました。山の紅葉と山肌が美しく、渓流は青く澄み切っています。上の方は雲が掛かっていますが、少しずつ雲が降りてきているように見えますので、気がせきます。四段構成の滝が見えて来ました。

 称名滝は、富山県立山町にある落差日本一の350mを誇る滝です。立山連峰を源流として、弥陀ヶ原台地から流れ落ちる滝ですが、浄土宗の開祖・法然がその滝の音が「南無阿弥陀仏」と聞こえると言ったことから称名滝と命名されたとの故事があります。雪解けが多い季節には、その右側に五段の落差約497m「はんのき滝」が現れ、さらに水量が多いとその右側に「そーめん滝」が現れます。はんのきは「涅槃(ねはん)」、そーめんは「ご赦免」に由来しているそうです。


不動の滝

不動の滝横の「糸滝」

親不知ピアパーク

富山県の「称名滝」を遠望

称名滝に向かう

称名滝に向かう

 称名川に掛かった橋を渡ると、ダイナミックな称名滝が体感できました。水しぶきも掛かってきます。展望台もあります。しばらく撮影をして、道を下り車に戻りました。登ってきたときは気がつきませんでしたが、道路上に標高1,000mの路面プレートがありました。機会があれば、扇沢からロープウェイなどを経由して、再び来てみたい場所でした。

■通ってきた道を約32km程度戻り、道の駅氷見に向かいました。道の駅氷見は、能登半島の付け根にあたる富山県氷見市の海岸線にある新しい道の駅です。良く整備された巨大な施設です。温泉「総湯」は23時まで営業しています。レストランも遅くまで営業しているとの認識でしたが、それが間違いの元でした。やはり、事前確認をする必要があります。地産の店で、柿とミカンを購入しました。柿は5個で270円、ミカンは10個くらい入って350円です。柿は市場には出てこない地産のものでした。甘みがほとんどありませんが、自然を感じる素朴な味でした。

 寝支度をして、総湯に入り、休憩室で写真などを整理しました。モバイルルーターが繋がるので、メールチェックなども。ゆっくりと温泉に入り、19時過ぎに車に戻ったのですが、ほとんどの店が閉まっていました。和食店があり、行ってみると本日は貸し切りとのことです。駐車場にどんどん車が来ましたが、彼らが和食店を利用するようです。ただ、お酒を飲むのに車で来るのでしょうか?

 ただ一つ、大きな氷見鮨という回転鮨が開いていました。もう選択肢はありません。入ると誰も客の姿もありません。とはいえ、カウンターに座ると、先ほどの車で来た若い人たちが10人ほどドヤドヤと入ってきました。貸し切りの和食店が準備中のため、時間繋ぎに入ってきたようです。盛んに騒ぎながらビールを飲んでいます。私は、十種盛りと熱燗を頼みました。お酒は氷見のお酒で曙という銘柄です。地魚マリネも頼みましたが、これはなかなかいけました。鮨はイマイチかな。。。少し贅沢をした夜でした。けれども、車でやって来た飲み客は、車をどうするのでしょう?


称名滝に向かう

称名滝に向かう

道の駅/氷見の総湯

落差日本一の称名滝
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087 松本城と黒部ダム(2015年10月22日の記録)


松本城

■道の駅小坂田公園は、長野県自動車道が隣接、北アルプスが望める広い道の駅でした。寝たのが遅かったのですが、5:47に目が覚めました。相変わらず、毛布が必要ありません。停泊は十数台でしょうか? 今日も良い天気の中を出発です。

 松本市内に入ると、霧が出てきました。松本城が少し霞んで見えましたが、だんだんと霧が晴れてきました。駐車場が見つかりませんでしたが、裏側の松本神社の横に駐車場がありました。近くには、2009年に訪れた開智学校が見えます。4〜500mの離れでしょうか? 駐車場に車を駐めて、松本城に向かいましたが、裏側から入る門がないため、歩いて正面まで廻りました。堀の水面が地面に近く、大きな鯉が目の前に群がっています。正面に廻ると松本城の形の良さが分かります。

 松本城は、安土桃山時代末期に建造されたという天守が国宝に指定されています。戦国時代に信濃を治めていた小笠原氏が林城として築城したのが始まりといわれていますが、その後、豊臣秀吉による徳川家の関東移封に伴い、石川数正の子孫が入城、城下町を含めた整備をしました。ところが、江戸時代初期に発生した大久保長安事件に連座して、石川康長が改易となり、再び小笠原秀政が入城したという因縁が残っています。右の方に周り、太鼓門を撮影して、駐車場に向かいました。

 途中、松本神社に寄ってみましたが、その角に自然に湧き出ている給水施設がありましたので、車からポリタンクを持ってきて給水しました。松本市役所の張り紙があり、「冷たくてきれいな松本の自然の水です」と表示されています。日常の飲用は、購入したペットボトルを利用していますが、食器を洗ったりするために、10リットル程度のポリタンクを常備しています。給水をしていると、次の人が来て待っています。気持ちが焦りますが、それほどの水の勢いはありません。その間に、観光客2組から、正門への生き方を聞かれました。地元の人と思われたのでしょうね。

■開智学校に車で行ってみました。一方通行が多く、なかなか行き着けません。歩いた方が良かったかも知れません。今回は、外観のみを撮影。内部は、2009年の折に、堪能しました。地元出身で大工棟梁の立石清重が設計施工を担当した明治期初期の擬洋風建築です。

 松本市内を抜けて、安曇野市内で給油。スタッフ給油で127円です。予定を入れていなかったのですが、「原田沖棚田」に向かいました。途中、山道に入りました。ナビが示すポイントに来ましたが、どうも分かりません。どんどん谷底に降りていく感じです。キリがないので諦めて戻ることにしました。振り返ると、小さな棚田があり、多くは畑に変わっていました。原田沖棚田は、1.5haで25枚の棚田とのことでしたが、耕作放棄地が多いと事前調査ではありました。


松本城の太鼓門

松本神社

開智学校

原田沖棚田

芦の尻の道祖神

北アルプスを望む

■次の予定地「根越沖棚田」はパスすることとして、「重太郎棚田」に向かいました。途中、峠越えのところで「芦の尻の道祖神」がありました。北アルプスが遠望できます。無病息災を祈願して作ったという藁づくりの道祖神は特徴がありますね。重太郎棚田がある八坂に着きましたが、案内板がありました。タブレットの事前情報とナビとも比べながら進むと、どんどん離れてしまいます。数キロ行ったところで戻ることにしました。

 そば屋の暖簾があったので、昼食を取ることにしました。案内に従って、坂を下りていくと立派な施設が見えて来ました。そば打ち体験工房などがありましたが、そば屋がありません。人がいたので聞いてみると、ここは金・土・日だけの利用で、そば屋はさらに下にあるとのことでした。車でさらに下に向かいました。すると、立派な宿泊施設がありました。信州金熊(かなくま)温泉です。レストランがありましたので、入って八坂セットを頼みました。ざるそばと漬け物と「お焼き」で820円とのことです。出てきたお焼きに驚きました。小麦粉で作ったおにぎりです。灰焼きらしいのですが、中になすびの煮物が入っています。しかも表面は固く、ちょっと食べづらいですね。でも、なすびは美味しかった。

 結局、どうも遠回りをしてしまったようです。正確には、案内板の距離感を取り違えていたのですね。案内板の距離感をかなり多く見ていたようです。案内板のイメージよりも、数倍進んでいたことになります。気を取り直して、そこから行き止まりの道を進んでみると小さな棚田がありました。重太郎棚田です。。中村地区(ナカムラ)、生婦平地区(ショウブダイラ)、梨の木地区(ナシノキ)、馬落し地区(モオトシ)の4ヶ所に大きく分かれた棚田です。急傾斜地を利用した人の名前が付いた棚田でした。

■「黒部ダム」に向かいました。大町を過ぎ、扇沢の有料駐車場の手前に無料駐車場があります。事前情報通りです。1〜200m程度しか離れていませんが、有料は千円です。扇沢駅施設に入ると、丁度、14時発のトロリーバスに間に合いました。30分間隔のバスですから、助かりました。

 黒部ダムは、扇沢から所要時間16分のトロリーバスで行くことができます。往復で2,570円ですから、安くはないですね。今回は予定に入れていませんでしたが、黒部ダムから反対の立山まで、黒部ケーブルカー→立山ロープウェイ→トロリーバス→高原バス→立山ケーブルカーと乗り継いで行くことができます。黒部ダムからは合計で片道6,750円、往復だと10,790円もかかります。行ってくると往復で、13,360円、所要時間は片道約2時間ですが、ダム見学を入れると半日強かかります。今回は、立山側にある「称名滝」も予定に入れていましたが、そちらには一旦戻り、車で行く予定です。

 架線から電気の動力を得るトロリーバスですが、国内で現在動いているのはここだけです。バスは空いていましたが、リュックを背負った団体客が10数名乗ってきました。アルプス越えをするようですね。トンネルの途中、破砕帯を示す青いランプがありました。ダム駅に着きましたが、220段の階段を上らなければなりません。結構、きついですね。途中、映画「黒部の太陽」で有名な破砕帯の美味しい湧水がありました。飲んでみましたが、すっきりとした味わいです。


重太郎棚田

黒部のトロリーバス

黒部ダムの破砕帯湧水

黒部ダム

黒部ダム

黒部ダム

黒部ダム

コンクリートパケット

黒部ダム

 登り切ったところに黒部ダムがありました。美しく紅葉した山肌が見えます。ダムの頂部は広くなっていますが、中国人観光客ばかりです。青い水面が美しいです。「黒部の物語」と垂れ幕が下がった建物の中には、黒部ダムの概要やダム築造の経過が残されていました。下方に黄色い格子状の板に覆われたものがありましたが、ダム築造に使用されたコンクリートバケットでした。巨大ですね。ダムの壁面に取り付けられた鉄骨階段を行ったり来たり。帰りは、階段を利用せず、トンネルを通ってトロリーバス乗り場に向かうことができました。

 黒部ダムは、ダムの高さ(堤高)は186mと日本一を誇り、貯水量は約2億トンの巨大ダムです。基本はアーチ式ですが、1959年のフランスのマルパッセダム決壊事故を受け、岩盤調査の結果、両翼がウィング状に設計変更されました。戦後の高度成長期における関西の電力不足を補うために、関西電力が社運を賭けて建設した水力発電のためのダムです。

 黒部ダムは、工区を5つに分けて建設されましたが、1968年に映画化された「黒部の太陽」は、関電トンネル工事における破砕帯を突破する辛苦が中心に描かれていました。建設自体は、大正時代から計画がされていたものですが、着工から7年、1963年に竣工しました。殉職者が171名もの多数に登ったといいますから、現在ではあり得ない事業といえます。

 扇沢駐車場に戻りましたが、所要時間はほぼ1.5時間でした。バスの待ち時間がほとんどありませんでしたので、黒部ダムだけの見学で約2時間といったところでしょうか。扇沢駐車場には日本猿が多数遊んでいました。小猿を背負った母ザルもゆったりと歩いていました。

■大町を経由して、白馬村に向かいました。事前調査で調べていたコインランドリーに行くためです。4日振りのコインランドリーは、値段も少し高く、余り綺麗とはいえない施設でしたが、洗濯できるときはやっておくに限ります。停泊場所の長野県の道の駅小谷(おたり)は、この先約20kmです。電話で確認すると、レストランのラストオーダーは18時半、温泉深山の湯は20時半でした。事前情報と異なりますが、電話確認は必須です。道の駅小谷に着いたのは、18:25でしたが、すぐにレストランに行って、かまど定食を注文しました。さすがにご飯が美味しいですね。漬け物が自由に取れるのもありがたい。

 車に戻り、寝支度をして、温泉に入りました。薄茶色い温泉です。源泉は小谷村の来馬地区「来馬温泉」から引かれています。ここは券を購入して入ると一日のんびりできるそうです。ゆっくりと温泉に浸かり、その後コインマッサージ、そして缶ビールを飲みながら、新聞を読みました。車に戻ったのが20:45、外気温14.9度、車内温度20.2度ですから、暑いくらいですね。すぐ横に国道があるため、少しうるさい道の駅でしたが、すぐに寝入ってしまいました。

黒部ダム

扇沢駐車場で見た日本猿
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086 軽井沢、八ヶ岳を経て諏訪湖と諏訪大社(2015年10月21日の記録)


滝の沢棚田

宇坪入棚田

千住博美術館手前で

千住博美術館
■道の駅みまきでは、朝6時に目が覚めました。入浴施設とレストランが近い場所に車を駐めたため、周りに車はありませんでした。トイレは道路向かいでした。そちらには停泊が十数台でしょうか? 今日も天気が良いですね。昨日は多くの棚田をパスしてしまいましたが、北に向かい、長野県東御(とうみ)市の「滝の沢棚田」に向かいました。広大な菱形が続く棚田群です。ネットで調べた事前情報とはイメージが異なりますが、書籍「棚田」のイメージとあいますので、案内もありませんでしたが間違いないでしょう。全体を俯瞰することができませんが、斜面に開かれた広大な棚田群でした。

■続いて、東に向かい長野県小諸市の「宇坪入棚田」に向かいました。こちらは、山に挟まれた扇状の棚田です。畦(あぜ)の草の間からは古い石積みが見えます。戦国時代から江戸時代に掛けて開拓された棚田とのことです。棚田の奥にかすかに見える山が高峰山らしいですね。紅葉が始まっています。

■さらに、東に向かい軽井沢に向かいました。目指すは、「千住博美術館」です。17〜18kmほど進むと、ナビが示すポイントの手前に大きな駐車場がありましたので、車を駐めました。変形の多角形で構成された建物があります。千住博美術館のイメージとは異なります。こちらはレストランなどが入った施設のようです。千住博美術館は、その奥にありました。すると、駐車場の掃除をしていたおばさんから声が掛かりました。車のナンバーを見て、「札幌からですか?」と聞かれました。九州出身の方らしいのですが、こちらに来たのであれば、ここから車で5分程度のところに「発地(ほっち)」という場所があり、そこからの浅間山の景色が素晴らしいと教えて貰えました。また、石の美術館もぜひみた方が良いとも教えて貰えました。

 おばさんに挨拶をして分かれ、千住博美術館に行ってみたのですが、木々に囲まれた低層の建物のため、なかなか良いアングルがありません。一廻りをして見ましたが、気に入った写真にはなりませんでした。千住博美術館は、東洋人として初めてベネチアビエンナーレ絵画部門の名誉賞を受賞したという千住博の作品が展示されています。父は工学博士、母はエッセイスト、弟は作曲家、妹はバイオリニストとして著名です。建物自体は、2011年の西沢立衛の作品です。

 美術館は、開館前でしたので、教えて貰った発地に行ってみることにしました。しかし、分かりません。ナビにも出ていません。ぐるぐると廻ってみましたが、結局、分かりませんでした。後で調べると、ホタルの里として有名らしいですね。


八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳高原ロッジ付近

八ヶ岳高原ロッジのエントランス

八ヶ岳高原ロッジのエントランス

八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳東沢大橋展望台

■仕方なく、千住博美術館の方に戻ってしまいましたが、続いて、予定をしていた70kmほど先の「八ヶ岳高原ロッジ」に向かいました。八ヶ岳に向かう途中の並木道の紅葉が素晴らしいですね。八ヶ岳が霞む木立の中に八ヶ岳高原ロッジがありました。車を駐めて、一廻りをしようと思ったのですが、平面的に複雑な形態で大きいですね。途中から、中に入ってみることにしました。すぐにレストランがありました。案内をされましたが、宿泊客と勘違いをされたようです。

 八ヶ岳高原ロッジは、標高約1,500mの位置にある高原リゾート施設です。八ヶ岳高原ヒュッテ、八ヶ岳高原音楽堂などもあります。元公爵の徳川義親の目白邸宅を1968年に移築したのが元になっているそうです。精算された西洋環境開発が開発した施設です。幾度もテレビドラマ等で使用されました。自然の木材がそのまま利用されています。設計は村野藤吾の師匠にあたる渡辺仁です。ちなみに八ヶ岳高原音楽堂は吉村順三でした。エントランスに出ると、カウンターには誰もいません。いかにも高原のホテルの佇まいがあります。ゆっくりと建物を観賞させて貰いました。機会があれば、泊まってみたいですね。

■予定では、一旦、西に向かい、諏訪湖まで行って戻る計画でしたが、手前から順に諏訪湖に向かうことにしました。南牧村で昼食を取ってから、山梨県北杜市の「中村キースヘリング美術館」に向かいました。途中、「八ヶ岳東沢大橋展望台」がありました。東大沢大橋は、川俣川東沢渓谷地獄谷にかかる長さ90mの赤い橋です。八ヶ岳は、特定の山を指してはいません。長野県と山梨県にまたがる山々を指す総称ですが、日本百名山の一つとなっている八ヶ岳は、南八ヶ岳のことです。展望台では、絵を描いている人もいました。紅葉の盛りはこれからでしょう。

 美術館に着くと手前に駐車場がありましたので、駐車したのですが、後で気がつくと、そこは美術館の駐車場ではなく、ホテルの駐車場でした。変形多角形のホテルです。特徴がある建物ですが、その横を通って林を抜けると中村キースヘリング美術館がありました。現代美術ともいえる建物です。奥の方には工事中の建物もありました。東京芸大の北川原温(きたがわらあつし)の2008年にJIA大賞を取った建物です。

 キース・ヘリングは、シンプルな線と色で構成された絵画で有名なアメリカの作家です。彼の作品をプリントしたTシャツなどが有名です。そのイメージを建物に再現した作品になっています。先ほどのホテルも同じイメージでしたが、正確には分かりません。いずれも、どうも私の感性とは合いそうもありませんでしたので、入館するのは止めました。

■20kmほど先の「八ヶ岳美術館」に向かいました。同じような名前が続きますが、こちらは、村野藤吾の1980年の作品です。標高1,350mの長野県原町にあります。木々に囲まれた中に八ヶ岳美術館がありました。近くには、武田信玄の「棒道」もありました。信玄が上杉謙信と戦うための補給路として作った直線道路です。林の中を進むと、濃い緑色屋根のキノコ状に連なる美術館がありました。一廻りをして、中に入ってみました。入館料は510円です。

 建物内は、白いレース状のカーテンを折りたたんで壁と天井に曲面を形成しています。何かの胎内いるような感覚が生まれて来ます。建物の作成過程や村野藤吾のスケッチやコメントなどがありました。書家である地元の原町出身の津金寉仙(つがねかくせん)の展覧会が開催されていました。常設展は、同じ原村出身の彫刻家清水多嘉示の彫刻と絵画展です。建物の外部にも彫刻がありました。八ヶ岳美術館は、原村歴史民俗資料館として、村内各遺跡の発掘調査により出土した土器や石器などの考古学遺物も展示されていました。しっとりとした雰囲気を堪能させてもらいました。


中村キースヘリング美術館

中村キースヘリング美術館
横のホテル

八ヶ岳美術館

■諏訪湖の「諏訪大社」に向かいました。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)のところでは、天鳥船神(あめのとりふね)とともに出雲の稲佐の浜に降臨した建御雷神(たけみかづち)が大国主神(おおくにぬし)に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は答えを自分の子である事代主神(ことしろぬし)と建御名方神(たけみなかた)に託したそうです。事代主神はすぐに国譲りを認めましたが、建御名方神は大岩を手に上げて現れて建御雷神に闘いを申し込んだそうです。その結果、闘いに敗れた建御名方神は逃げ出したのですが、科野(信濃)の国の州羽の海(諏訪湖)で追いつかれてしまったそうです。そして、諏訪湖から二度と出ないことで許しを請うたのでした。

 葦原中国を譲った大国主神は、出雲の国に壮大な神殿を造って貰うことをお願いして黄泉国に去ったのですが、それが現在の出雲大社となっているわけです。この背景には、大和朝廷が治める前の史実を表していると指摘する歴史学者が多い逸話です。建御雷神は何故、出雲に降り立ったのか? 建御名方神は何故、諏訪湖に籠もったのか? 等々、考えると本当に夢が広がります。「出雲と大和−古代国家の原像を訪ねて/村井康彦」でも記述しましたが、奈良県桜井市の日本最古の神社の一つといわれる大神(おおみわ)神社の祭神が大国主神であることも含めて、興味は尽きません。

■諏訪大社は、諏訪湖を挟んで、南側に上社(かみしゃ)、北側に下社(しもしゃ)があり、上社は本宮と前宮(まえみや)、下社は秋宮と春宮の合計四つの宮に分かれています。最初に、諏訪大社上社前宮にやってきました。この付近では、刈り取った稲わらが田圃の中に密に立てて並べられています。背景の山々と重なって、素晴らしい景観となっています。

 上社前宮の鳥居を潜ると石段があり、本殿は一旦、集落を通った先にありました。山の上の方から勢いよく水が流れてくる側溝があります。本殿は簡素な建物でしたが、神域には太い木が並んでいます。案内板によると、拝殿は昭和7年の伊勢神宮遷宮の際に下賜された材で造営されたそうです。また、本殿の神域自体は古墳との表示もありました。近くには、平沢城趾の立て看板もありました。

■上社本宮に向かったのですが、途中、「神長官守矢史料館」があったので寄って見ました。車の進入が大変です。駐車場が見つかりません。らしいところで車を駐めて、外観のみ撮影させて貰いました。江戸時代まで、諏訪大社上社の神長官を務めた守矢家の敷地に建てられた、1991年に建てた、建築史家藤森照信(地元出身)の初期作品です。この作品以降、藤森照信は、この領域を手がけている建築家はいないとして、次々と不思議な作品を発表し始めます。築年数を経ているため、外壁の木材がかなり傷んできたなといった印象でした。

■上社本宮は立派な構えでした。すぐ横に、「吉良左兵衛義周公ここに眠る」との看板がありました。吉良義周は、吉良上野介義央の長男であった米沢藩上杉家の養子となった上杉綱憲の次男として生まれました。しかし、祖父である吉良上野介の跡継ぎが夭逝したため、養子として5歳で吉良家に入りました。そして、吉良義周が18歳の時に「赤穂浪士の討ち入り」があり、義周も自ら武器をとって応戦したものの、面と背中を斬られてそのまま気絶。その後、吉良家は断絶となり、信濃諏訪藩にお預けとなり、そこで亡くなったそうです。悲しい末路となったわけです。吉良上野介も地元(愛知県西尾市吉良町)では、未だに人気が高いといいますから、歴史を一方から見るだけでは駄目なのでしょうね。

 鳥居を潜り門を過ぎると屋根が掛かった通路がありました。その左手には絵馬堂があり、その中に絵馬の他に「メド梃子(でこ)」が祀られていました。メド梃子は、御柱の上部に付けられ、左右に7人の若者が乗るといいますから、恐ろしいですね。御柱大祭で坂を下る前の写真が飾られていました。大社内には御柱が立てられていました。拝殿の位置取りが変わっていますね。


八ヶ岳美術館

八ヶ岳美術館内部

諏訪大社に向かう

諏訪大社上社前宮

諏訪大社上社本宮のメド梃子

諏訪大社上社本宮の鳥居

諏訪大社上社本宮

神長官守矢史料館

諏訪博物館

■続いて「諏訪博物館」に向かいました。街中を通ると、諏訪湖が見えて来ました。すぐに諏訪博物館がありました。伊東豊雄の1993年の作品です。下諏訪町出身のアララギ派の歌人島木赤彦の記念館も併設されています。諏訪湖の丸太舟をイメージしたという流線型の建物です。屋根はステンレスでしょうか? 湖面に生える美しい光を放っています。

■下社秋宮に来ました。ここも立派な構えです。大鳥居の手前にバスの駐車場がありましたがそこに駐めている一般車もいます。先に進んで、駐車場を探しましたが、見つかりません。かなり進んでから戻ってみると、先ほどのバスの駐車場の手前が一般の駐車場でした。少し暗くなってきました。石畳を上ると神楽殿がありました。大きな注連縄が飾られています。拝殿は、二重楼門造りとなっています。彫刻も見事です。横には、御柱も立っていました。本殿は神明造りです。

■暗くなってきたので、急いで下社春宮に向かいました。鳥居をくぐると、石畳があり、その先には大きな注連縄が飾られた神楽殿、二重楼門造りの拝殿、御柱と秋宮に似た構えです。彫刻も見事です。丁度、神主がお盆のようなものを掲げて下ってくるところでした。少し屋根の傷みが気になりました。帰りかけ、後の方から民謡を歌う声が聞こえてきました。少し薄暗くなった中で、大きく朗々と歌っています。かなり本格的な唄でした。

■当初の予定では、道の駅小淵沢に戻る計画でしたが、40km戻ることになります。温泉とレストランが併設されているのは魅力ですが、往復80kmがもったいなく思えて、先に進むことにしました。そんなケースも考えてありましたので、停泊場所は20km程先の道の駅小坂田公園に行くことにしました。道の駅には温泉がありませんので、温泉は下諏訪町の毒沢鉱泉神乃湯にしました。下社春宮に来る途中、ナビに毒沢鉱泉神の湯が出ていましたので、そちらに向かったのですが、かなり山を登ります。凄く険しい道に入りました。ナビに出ていなければ、ちょっと迷ったかも知れません。山の上に着くと毒沢鉱泉神乃湯がありました。

 毒沢鉱泉神乃湯の手前は車で一杯でしたので、少し坂を下り、広くなったところに車を駐めました。横は崖になっています。毒沢鉱泉神乃湯は、かなり古い建物です。入って見ましたが、誰もいません。事前情報では、700円の入浴料でしたが案内をみると800円になっています。値上げをしたようです。レストランは使えそうもありませんが、一度、車に戻って支度をすることにしました。車に戻ると、横に車が駐めてあり、3人連れが降りてきました。「札幌からですか?」と聞かれました。何と、彼らも札幌から来たそうです。秘湯巡りをしているようです。

 毒沢鉱泉神乃湯は、古くからの信玄の隠し湯として知られた標高1,000mにある温泉宿です。温泉は小さく3人も入ると一杯になるくらいです。鉄分が多く、コップが置いてありましたので、飲んでみると、鉄をなめるような感触です。とても飲めません。ゆっくりと温泉に浸かり、出てきたのは18時半でした。まあ貴重な経験をさせて貰いました。道の駅に向かう途中、ファミリーレストランにて食事をして、コンビニで缶ビールを買って、道の駅小坂田公園に向かいました。ここは、モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなどをして寝たのは23時近くでした。


諏訪大社下社秋宮

諏訪大社下社秋宮

諏訪大社下社秋宮

諏訪大社下社春宮

諏訪大社下社春宮 御柱

毒沢鉱泉神乃湯
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085 天空に浮かぶ棚田を経て、阿弥陀堂、岩松院、戸隠神社(2015年10月20日の記録)

■新潟県の道の駅/じょんびの里高柳で起きたのは、5:43でした。静かな夜でしたが、少し暑いくらいでした。昨日、通った道を戻り「大開(おおびらき)の棚田」に向かいました。登り口の案内があり、看板には「門出を祝う米づくり 大きく開け二人の未来、みんなの未来」とあります。少し登って車を駐めて、歩いて撮影ポイントを探しましたが、なかなか良い場所を見つけることができませんでした。菱形の棚田が多いようです。蛍が多いことでも知られています。

■続いて、日本一美しいといわれる「星峠の棚田」です。途中に案内もあります。かなり登ったところは道路工事中でしたが、棚田が見えました。確かに美しいですね。先に進むと撮影ポイントがありました。小さな不定形の棚田が組み合わさって見えますが、このポイントよりも、途中で見た景色の方が俯瞰できたようです。星峠の棚田は、2009年放送のNHK大河ドラマの「天地人」にも登場していました。日本一美味しいといわれる魚沼産のコシヒカリが、日本一美しい棚田で作られているのですね。素晴らしい景色です。ただ、「日本の里百選」には入っていますが、「棚田百選」に入っていないのは何故でしょう?

■次の棚田は、「上船倉の棚田」です。山道を進むと菱形の棚田の連なりが広がっていました。雄大な景色です。山の上の方まで続いています。410枚の棚田があるそうです。この棚田が棚田百選に選ばれた最大の理由が、棚田の保全により地滑り災害の発生を未然に防ぐ役割を果たしているからだそうです。まさに、日本の原風景を支えている思想といえます。さらに「蓮野(はすの)の棚田」に向かいました。高原に向かう狭い山道が続きます。廻りに木がありませんので、明るい景色です。まだ刈り入れが終わっていない田圃がたくさんありました。稲穂が茂っていましたが、今回の旅では滅多に見られない景色でした。

 来た道を少し戻り、「狐塚の棚田」に向かいました。どうも正確な場所が分かりません。山頂へと続く細い山道が棚田の間を抜けていきます。この付近の棚田を巡って思ったのが「天空に浮かぶ棚田」というイメージです。全体を俯瞰することはできませんでしたが、道路から遠景を撮影。美しいですね。地図を見ると、松之山天水越(まつのやまあまみずこし)という地名が付いています。自然の雨である、天水(あまみず)が棚田の生命を育んでいるのですね。

 途中、「新米を売っています」との農家の看板を見ました。買いたいですね。しかし、家に戻るのは2ヶ月後の予定です。諦めざるを得ませんでした。先に進むと、道の駅/栄村がありました。休憩タイムです。果物か何か買おうと思ったのですが、残念ながら休日でした。

■数十キロ先の「福島新田」に向かいました。またもや道がはっきりしません。「神戸イチョウ」と「阿弥陀堂」の看板がありました。阿弥陀堂は、映画「阿弥陀堂だより」の撮影に使われた阿弥陀堂の場所です。この映画は私も見ました。ゆったりとした時間が自然とともに流れている名作だったと思います。2010年に亡くなった北林谷栄がおうめ婆さん役で第26回日本アカデミー賞助演女優賞を受賞しています。

 神社があり、そこが分岐点となっていました。福島新田と阿弥陀堂の看板もあります。福島新田は、石で補強をした棚田が目立ちます。阿弥陀堂に行ってみることにしました。手前で車を駐めると、おじさんが歩いてきました。撮影をしようとすると前を遮ります。しばらく待つことにしましたが、なかなか動きません。諦めて、自然の中に佇むことにしました。

 阿弥陀堂は少し傷んできている印象でした。映画で見たよりも、廻りが生い茂った感があります。パニック障害を病んだ妻(樋口可南子)を連れて帰郷した夫(寺尾聰)と阿弥陀堂を守るおうめ婆さんとの交流を描いた作品でしたが、亡くなったおうめ婆さん役の北林谷栄への感謝の言葉を綴った「たより」が阿弥陀堂にひっそりと置かれていました。

 車に戻って出発したのですが、来たときと異なる道に入ってしまいました。せっかくなので、神戸イチョウを見ようと思い、田圃の間にある車道を通ったのですが、福島新田の中を走っていたようです。福島新田は、江戸時代に開拓された150枚の棚田があります。石垣で補強した棚田が続いています。結局、神戸イチョウは良く分かりませんでした。

■小布施町の岩松院(がんしょういん)に向かいました。途中、ガソリンを給油。値段が131円と高かったので、2千円だけの給油でした。岩松院の手前にあった駐車場に車を駐めました。後で気がついたのは、そこは岩松院の駐車場ではなく、別なお寺の駐車場でした。岩松院は、長野県上高井郡小布施町雁田にある曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来ですが、葛飾北斎の八方睨み鳳凰図があり、小林一茶ゆかりの寺として知られています。八方睨み鳳凰図は、北斎89歳の時の先品です。

 天井画は、テレビで見たそのままの極彩色でした。撮影ができないのが残念です。絵の具が落ちかかっているので、静かにして欲しいとの案内もありました。ここには、「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」と呼んだ句碑もあります。藤沢周平の「一茶」では、陰影に満ちた小林一茶の生涯が描き出されていて、一茶のイメージを変えた記憶があります。本尊の横では、お坊さんが居眠りをしていました。ここでも、時が自然に流れているのを感じることができました。


星峠棚田

上船倉棚田

蓮野棚田

天空に浮かぶ棚田を走る
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狐塚棚田

狐塚棚田

戸隠神社宝光社

岩松院

福島新田

阿弥陀堂

戸隠神社火之御子社

■少し回り道をして、戸隠(とがくし)神社に向かいました。戸隠神社は、海底火山が隆起した屏風岩が連なる修験道や戸隠流忍者の山として有名な戸隠山の周りにある五社「中社(ちゅうしゃ)、宝光社(ほうこうしゃ)、奥社(おくしゃ)、火之御子社(ひのみこしゃ)、九頭龍社(くずりゅうしゃ)」からなる神社の総体です。戸隠山を初め、飯縄山、妙高山、斑尾山、黒姫山 を総称して北信五岳(ほくしんごがく)ともいい、長野盆地から一直線に望むことができる北アルプスを代表する山々です。北信五岳の最高峰は妙高山の2,454mです。

 戸隠神社は、創建が紀元前210年とされていますが、史実はともかく、平安密教や真言密教と神道が習合した神仏混淆のころは、天台宗比叡山延暦寺の末寺である戸隠山勧修院顕光寺として知られていました。地主神を祀っている「九頭龍社(くずりゅうしゃ)」以外は、天の岩戸開きに貢献があった神々が多く祀られています。現在でも、五社のうち、中社、宝光社、奥社は天台系とされるなど、複雑な習合の歴史を感じさせます。

 ナビを中社に設定しました。長野市を通るルートです。市内に入ると車が混んできました。2009年には戒壇巡りなどをした善光寺を左に見て山に入りました。七曲がり坂など急な坂が続きます。対向車も多く、気をつけなければなりません。しばらく進むと宝光社が見えて来ましたので、こちらを先に参拝です。急な石段があります。うっそうとした林の中の石段を登ると宝光社が見えて来ました。歴史を感じさせる社殿です。1861年の建立で、五社のうち最も古いものです。神輿庫があり、きらびやかな神輿もガラス越しに撮影できました。社殿の奥には、「神道」と書かれた石碑があります。神道入口の看板もあり、中社まで1.4kmとの案内がありました。

 車に戻り、先に進むと火之御子社が見えて来ました。またも寄り道です。古い鳥居の横が小さな駐車場になっていました。小さな社殿でしたが、何かの工事のために測量中なので、簡単に参拝を済ませてもらいました。続いて、中社に向かいました。こちらは大きな社です。大きな鳥居の東奥に駐車場がありました。横から入りましたが、一旦、鳥居の下に戻って撮影です。売店など多くの施設があり、社殿も大きな社です。樹齢約700年という御神木の杉もあります。奥社と九頭龍社には行きませんでしたが、この後訪れる諏訪大社とも並び、いにしえの歴史を感じさせてくれる雰囲気たっぷりの神域ですね。

■時刻を見ると、16:12になっていました。「栃倉棚田」、「田沢沖棚田」、「大西棚田」、「姨捨棚田」を予定していましたが、諦めて「稻倉棚田」のみ高速を利用して行くことにしました。来た道を15km程戻り、長野市内に入りましたが、道が混んでいます。まったく進みません。途中、停泊予定の道の駅みまきに電話をしました。道の駅みまきには2009年にも停泊したのですが、入浴は21時まで、レストランのラストオーダーは20時でした。かなり遅くまでやっている施設ですが、これでは「稻倉棚田」も諦めるしかありません。

 結局、高速も利用せず、道の駅みまきに着いたのは18:52でした。急いで、寝支度をして風呂に入り、レストランに行ったのは、19:50になっていました。2009年には、レストランでみまき御前を頂きましたが、今回は天麩羅重と中ジョッキを頼みました。出てきた中ジョッキは、他のレストランでは大ジョッキですね。最後の客となりましたが、丁重に対応をして頂きました。車に戻り、もろもろ整理などをして寝たのは23時近くになっていました。

戸隠神社中社

戸隠神社中社

戸隠神社中社
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084 良寛と石川雲蝶の里(2015年10月19日の記録) 


道の駅/阿賀の里にて

国上寺

国上寺太子堂

国上寺本堂

■道の駅喜多の郷では、鳥の鳴き声で6時20分に目が覚めました。外気温は14.5度もあります。寝坊をしてしまいましたので、急いで支度です。停泊している車が多いですね。ゴミ駕籠があるので、ゴミ処理をさせて貰いました。日本海へ抜ける峠道から眺める景観が素晴らしい。新潟県に入り、阿賀川が見えて来ました。道の駅阿賀の里がありましたので、休憩です。2009年には、ここで1台だけ停泊していて、夜中に警官から職務質問を受けたことがあります。指名手配中の逃走犯を追っていたようです。阿賀川の防波堤の嵩上げ工事中でしたが、向い側の景観は自然一杯です。

■さらに西に向うと、狭い山道が多くなってきました。道路状況は良くありませんね。古い日本風景が続きます。喜多の郷から146.9km程来たところで、乙子神社を横目に見て、「国上寺」に着きました。国上山(くにがみやま)は、弥彦山脈の南端にあります。国上寺は、国上山の中腹にあり、越後最古の寺院として知られています。開山は和銅2年と伝わりますから、藤原京から平城京に遷都する前の年に当たります。修験道から、法相宗などを経て現在は真言宗豊山派となっています。

 石段を上がり、国上寺の本堂に来ました。素木造りの本堂は見事です。弘法大師像を安置している太師堂や、義経が寄進したと伝わる大黒天木造を本尊とする六角堂もあります。お参りをして、先にある吊り橋が順路となっていましたので、行きかけたのですが、どうも違います。少し戻ると、「五合庵」がありました。五合庵は、国上寺住職の隠居所として建てられましたが、「良寛」が乙子神社に移住するまでの、約20年間住まいをしたことが知られています。現在の国上寺の五合庵は1914(大正3)年の再建のものです。室内は手入れがされていますが、屋根が傷んでいますね。募金箱がありましたので、喜捨を少し。良寛は、床下から生えてきた竹の子のために、床板を剥がしたり、屋根を破ったとも伝わります。

 吊り橋を渡り、展望台を通って駐車場に戻りました。売店と食堂がありましたので、山菜そばを頼んで、テラスのテーブルで気持ちよく頂きました。帰り道に乙子神社に寄りました。ここにも五合庵を模した建物があります。少し大きいのでイメージと合いませんが、建物の彫刻は見事です。


国上寺六角堂

国上寺本堂

乙子神社の五合庵

乙子神社

千眼堂吊り橋

五合庵

石井神社

■22km離れた「良寛記念館」に向かいました。海に出ると、出雲崎が望めます。海から良寛記念館がある山側に入ると「石井神社」がありました。良寛の実家が石井神社の神職も勤めていました。良寛記念館はよく手入れがされた敷地内にあります。谷口吉郎の1965年の作品です。手前には、五合庵のレプリカがここにもあります。世界一ともいわれる巨大硅化木がありました。およそ2千万年前に青森地方に生育していた樹齢約5千年の杉が化石化したものです。

 良寛記念館の横に階段があり、そこを登ると、出雲崎を展望する「良寛と夕日の丘公園」がありました。良寛が手鞠を手にして子供たちと語らう銅像もあります。海岸に戻り、「良寛堂」にも寄って見ました。手前は石井神社です。良寛堂は良寛の生家の跡に建てられたと伝わっています。良寛の生家は石井神社の神職であるとともに名主でした。石井神社には、出雲崎の所以となる大国主命との逸話が残っています。

 大国主命が佐渡を平定するために、船がないため、石の井戸の水を汲んで撒いたところ、一晩で12株の大樹が茂ったので、それで船を造って佐渡を平定したそうです。その井戸があったところに石井神社を祀ったそうです。石井神社には、石穴が残っているそうです。

■西に向かい、新潟県魚沼市の「西福寺」に向かいました。西福寺には、幕末期の名工石川雲蝶の彫刻が多く残されています。開山堂には、龍などを彫り込んだ天井が有名です。事前情報では、最終入館が15:40までとなっていました。ギリギリになりそうでしたが、着いたのが15:30でした。間に合いました。受付で、早く閉めるのですねと聞いたのですが、素っ気ない答えです。撮影の可否を聞くと、これも案内が出ていると素っ気ない返事です。なんともはや。


良寛記念館の五合庵

良寛記念館の巨大硅化木

良寛記念館

良寛堂

西福寺

 本堂に入ると、丁度、法要をやっていました。石川雲蝶が描いたふすま絵などがあります。床板にも嵌め込まれた埋め木があります。雲蝶が6年を掛けたという開山堂の「道元禅師猛虎調伏の図」は撮影禁止でした。恐ろしいほどの彫刻です。狂人の作品としか思えません。ネットで見る映像を遙かに超えていました。腰を抜かすとよく言いますが、まさに覆い被さるような迫力がありました。石川雲蝶は、「越後のミケランジェロ」の異名があるそうですが、雲蝶は雲蝶だと思います。外部から見ると、開山堂には現在、覆い屋根が掛けられています。平成11年に建てられた覆い屋ですが、開山堂が入れ子になったような、不思議な雰囲気を醸し出していました。

■60km離れた新潟県柏崎市の「花坂の棚田」にナビを設定しました。途中、128円/Lと少し高く感じたので、2,000円だけ給油して、向かいました。予定では、花坂の棚田と「大開の棚田」、「梨の木田棚田」を廻るつもりでしたが、暗くなってきました。停泊予定の道の駅じょんびの里がありましたが、さらに先に進みました。途中にあったのが大開の棚田のような気がしましたが、ナビは先を示します。予定地点に来たのですが、分かりません。どうも通り過ぎたようです。戻り始めると、通った時には気がつきませんでしたが、花坂の棚田らしいところに行き着きました。なんとか薄暗いなりに撮影をすることができました。

■道の駅に電話でラストオーダーを確認して、来た道を戻りました。大開の棚田には近いので、明朝寄って見ることにしました。道の駅じょんびの里は静かな道の駅でした。停泊する車も少なく、温浴施設もあります。温泉はモール温泉でしょうか? 薄茶色い温泉でした。露天風呂でゆっくりとした後、コインマッサージ。至福の時です。レストランでは刺身定食と中ジョッキで豪華に。確かに、ご飯は美味しいですね。ネットは繋がりませんでしたが、ゆっくりと整理などをして寝たのは22時10分でした。


西福寺

西福寺

西福寺の床板

西福寺開山堂

西福寺開山堂

花坂棚田
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083 稻杭の棚田と山寺を登る(2015年10月18日の記録) 


■道の駅/にしかわで起きたのは5時半でした。少し寒いくらいですが、昨夜も毛布は使いませんでした。外気温は5.7度、車内温度は9.5度です。これくらいが一番気持ちよく寝ることができます。気がつくと、隣に駐まっていた車も札幌ナンバーでした。夫婦で来られていたようです。普通の乗用車ですから、二人で寝るのはなかなか厳しいと思いますが、余計なお世話かも知れません。道の駅には車が15〜16台停泊していました。トイレにはウォシュレットが付いていましたが、前が狭く、頭がぶつかります。後が広く空いていますので、配管の位置取りの失敗例です。身体が大きな人では利用できないでしょう。著名建築家の設計した建物でもこんな例はいくらでもあります。私の要チェックポイントの一つはトイレです。朝早くから、道の駅の温泉に来る人がいます。良いですね。

■山形県の「椚平(くぬぎだいら)棚田」に向かいました。事前に調べたナビが示す場所に来ましたが、どうもしっくり来ません。辺りを歩いてみましたが、どうも違うような気がします。車で、朝日町町内に行ってみました。すると椚平棚田の看板がありました。看板に沿って行ってみると、ナビに出ていない道があり、山の上の方に行くことができます。展望台がありました。先ほど訪ねた場所は棚田のど真ん中でしたが、展望ができなかったため、景色が事前情報と異なっていたのです。展望台にはりんごの売店までありました。お茶を飲んで行かないかと誘われましたが、りんごを買ったばかりでしたので、お断りさせて貰いました。椚平棚田は、14haに約190枚の水田を有しています。戦前までは畑だったそうです。放射状に広がる棚田は、稲穂が茂るときが一番美しいでしょうね。

■20km近く離れた大蕨(おおわらび)棚田に向かいました。今度は、看板がすぐに見つかりました。棚田の上の方まで歩いて行ってみましたが、下から展望した方が良いようです。残念ながら「稻杭(いなぐい)」の季節は終わったようです。稲杭は刈り取った稲を杭にかけて2〜3週間、天日干しする手法ですが、この大蕨棚田では、稻杭が約二千本も並ぶ壮観な映像がネットにあります。タッチの差だったと思われます。そういえば、椚平棚田には、少し稻杭がありましたね。

■天童市を通り、山形の「山寺」に向かいました。日曜日のため、車が多いですね。有料の駐車場が並んでいます。500円や300円もありますが、300円は満車のようです。山門の手前に400円の駐車場がありましたので、入ることにしました。広い駐車場です。正面の山の上に五大堂が見えます。三脚を出して望遠で撮影。それから、ステッキやリュックを出して登山準備です。しかし、石段が人の列で混んでいます。しかも暑い。気温は25度近くまで上がって来ました。混んでいますので、自然とゆっくりの登坂になります。


椚平(くぬぎだいら)棚田

椚平棚田(稻杭が少し見える)

大蕨棚田(稲杭は終わっていた)

山寺

山寺(せみ塚)

山寺(根本中堂)

山寺(五大堂を遠望)

山寺

 山寺は、山形市にある天台宗の寺院です。山号は宝珠山、正式名称は立石寺(りっしゃくじ)といいます。山寺は通称です。創建は平安時代初期まで遡るとされていますが、確かなことは不明です。平泉中尊寺・毛越寺、松島瑞巌寺とともに「四寺廻廊」という東北の巡礼コースを構成しています。本堂である根本中堂は山の下にあります。ブナ材の建築としては日本最古といわれています。

  閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声

 余りにも有名な松尾芭蕉の句ですが、芭蕉と手水盤の案内がありました。季節は秋ですが、暑さ故か、岩肌に蝉の声が聞こえてきそうです。せみ塚がありました。途中の巨岩が歴史を感じさせてくれます。仁王門を過ぎて、つづら折りの石段を登り切ったところが、奥の院女宝堂です。三重小塔も巨岩に繰り込んだ建屋の中にありました。少し下ったところに五大堂と開山堂がありました。人が多いため、下界を眺めるには待たなければなりません。以前、会社勤めの際に麓まで来たことがありましたが、念願の山寺登山を果たすことができました。

■車に戻り、汗を一杯かいてしまいましたので、着替えです。続いて、南陽市の文化センターに向かいました。南陽市は新しい立派な施設が多いですね。事前に調べていた住所は、ナビには登録されていませんでしたが、市役所の隣に目ざす「南陽市文化センター」がありました。竣工は11月となっていますので、まだ竣工していないのですね。実は昨日、見学会があり、見学申込書を貰っていたのですが、日程が合わなかったため、フリーで来た次第です。多くの一般人が出入りをしていますので、中に入ることができそうです。

 中に入ると、一面に木の香りです。杉を芯材として石膏で囲み、表面をさらに木材で覆った大型の耐火木構造建築です。見た目は、木材にしか見えません。何故か落ち着く心持ちがします。羨ましい施設ですね。災害時には、隣にある市役所と連携した防災拠点となるそうです。大ホールには入ることができませんでしたが、十分にその雰囲気を味わうことができました。


山寺

山寺(三重小塔)

山寺(開山堂)

山寺(五大堂から)

山寺(五大堂)

■「滑川大滝」に向かいました。国道から狭い山道に入りました。かなり狭い道ですが、対向車もかなりあります。日曜日のせいもあるかも知れません。山に入るとともに、紅葉が見事になってきました。しばらく行くと、滑川温泉が見えて来ました。駐車場が一杯のため、少し戻り、道路が広くなったところに車を駐めて歩いて先に進みました。看板があり、大滝には吊り橋を渡って20分程度との案内があります。

 温泉旅館の下を抜けて、吊り橋まで来たのですが、通行禁止となっていました。吊り橋の強度に問題があるらしいですね。ここまで来て、それはないだろうと思いましたが、自己責任で川を渡る場所があるとの張り紙があります。車を駐めた付近らしいのですが、行ってみてもどこかは不明です。らしきところを石伝いに渡ってみましたが、どうも不安定です。これは諦めるしかありませんでした。またもや、滝を見ることができなかったことになります。

 滑川大滝は、阿武隈川の支流にある山形県米沢市にある日本滝百選の一つです。落差が80m、幅が40mもあり、東北地方を代表する滝の一つです。難易度は高くなりますが、沢登りコースもあるようです。しかし、ウィキペディアの情報によると、米沢市が推薦した白布大滝ではなく、滑川大滝が滝百選に選ばれてしまったことが、行政による看板・案内もなく、継子扱いの原因となっているとか。吊り橋の閉鎖もそれに起因しているのかも知れません。今のところ、滝との巡り合わせが悪いようです。事前情報の不備でした。しかし、案内はまったく目にしませんでした。

■止むなく、通ってきた狭い道を十数キロもどり、道の駅/喜多の郷に電話をして温泉とレストランのラスト時間を確認しました。途中、コインランドリーに寄ったので、今日はコンビニ弁当かなと思っていたのですが、レストランで食事をしてゆっくりと風呂に入ることができました。入浴料は150円と安いですね。今晩は気温が高く、22時ころでも外気温が14.5度もありました。まだまだ毛布は必要ありません。


南陽市文化センター

南陽市文化センタ−)

滑川大滝の案内板

滑川大滝手前の吊り橋で

滑川大滝手前

南陽市文化センター
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082 鳥海山から七ツ滝と湯殿山(2015年10月17日の記録)


角館武家屋敷
■道の駅/雫石あねっこは大きな道の駅でした。24時間休憩所もあり、大きなトイレにウォシュレット付きが並んでいます。ゴミ駕籠もあり、至れり尽くせりの道の駅といえます。朝6時半に起きたときは、外気温は2.7度と冷えました。いつもの車内食(電子レンジでご飯、缶詰、味噌汁、りんご)を済ますと、昨日来た道を少し戻りながら、田沢湖の南側を抜けました。角館に入ると、黒塗りの塀と武家屋敷が並んでいました。

 仙北市の武家屋敷通りです。角館町、田沢湖町、西木村が2005年に合併して仙北市となりました。目的とした角館伝統伝承館を見つけることがなかなかできませんでしたが、ありました。1978年の大江宏の作品です。まだオープン前でしたので、入り口から眺めるだけにしておきました。

■鶴岡方面に向かいました。藤沢周平の海坂藩です。ナビは180km以上の先を示しています。この付近には杉林が目立ちます。日本海側に出て、道の駅象潟で休憩をして先に進みました。鳥海山が見えてきました。標高2,236mの山形県と秋田県にまたがる山裾の広い山です。以前、空から鳥海山を眺めたことがありましたが、空から見る雪渓の美しさと大きさに見とれた記憶があります。

 出羽一宮である「鳥海山大物忌(おおものいみ)神社」の案内がありました。通り過ぎたと思い、少し戻って神社に行ってみました。道には雑草や落ち葉が敷き詰められています。余り人が歩かない道のようです。案内では300m先とのことでした。坂道を下りますので、帰りが大変だなと思いつつ進むと神殿が見えて来ました。どうも横の参道を来てしまったようです。正面から入る別な参道があるようです。古い神社ですね。元は出羽一宮だったが、中弊社に格下げになったとの説明もあります。

 本殿は二つありました。大物忌神を祀る大物忌神社本殿と月山神を祀る摂社月山神社本殿でした。本殿には極彩色の装飾が施されていました。後で調べると、大物忌神社は吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二ヶ所に口之宮(里宮)があり、鳥海山の山頂に本社があるとのことです。私が訪ねたのは吹浦の大物忌神社だったようです。吹浦と蕨岡両宮の間には、永い争いの歴史もあるようです。神々も時々争いますが、神々を巡って人と人が争うのが世の常です。鳥海山は火山ですが、大物忌神は豊受大神と同神との説もあります。豊受大神は伊勢神宮の外宮の神様です。真偽はともかく女神のイメージがあるのですね。大物忌神自体は記記には登場しませんので、深い歴史の溝が潜んでいるかも知れません。

 酒田に入るとガソリン代が130円台になり、高くなってきました。129.2円の看板を見てガソリンスタンドに入ったのですが、現金132.2円の張り紙もあります。最近のガソリンスタンドの値段表記は曖昧なところが多いですね。値段を確認すると、10リットル以上入れるならば、129.2円で良いとのことでした。結局、40リットル近く給油しました。かつては、180円台までになったこともありましたので、まあ安くなったと思います。2ヶ月後、札幌に戻った時は、一時100円を切ったこともありました。


角館伝統伝承館

鳥海山を望む

鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌神社本殿

鳥海山大物忌神社本殿

注連寺

■鶴岡付近から山に入りました。向かった先は、「注連寺(ちゅうれんじ)」です。注連寺は、空海が開いたと伝わる真言宗智山派の寺院です。山号は湯殿山、本尊は大日如来ですが、芥川賞を取った森敦が注連寺に滞在した経験で書いたのが「月山」です。出羽三山神社では、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の開祖を蜂子(はちのこ)皇子(能除大師)としていますが、注連寺や大日坊では湯殿山の開祖を空海としています。蜂子皇子は、蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇の第三皇子でしたが、蘇我馬子から逃れるため、北に向かい、海岸から三本足の烏に導かれて羽黒山に登り、出羽三山を開いたと伝わっています。

 注連寺は、出羽三山が女人禁制の時代、女人が参詣できる湯殿山として多くの人で賑わっていましたが、明治になると、神仏分離令が出され、神社としての出羽三山に対する注連寺の寺院としての役割がなくなると、急速に廃れてしまいました。近くには、廃屋となった宿坊が残っています。山の奥の方にも廃屋が見えます。注連寺には、鉄門海上人(1768〜1830)の即身仏(ミイラ)が厨子に納められており、公開されているそうです。本堂は足場を建てて、改修中でした。本堂を斜めに支える丸太が幾本も並んでいました。

■すぐ近くの「大日坊」までやってきました。小さな仁王門があり、由緒が書いてあります。大わらじも下がっています。三間一戸の八脚門とされる仁王門を潜ると、道路があり、両脇は田圃です。子供が遊んでいます。透かし彫りの見事な開山堂の古さが際立っていますね。開山は空海、その弟子渡海が開基と伝わっています。ここにも1786年、96歳で即身仏となった真如海上人のミイラがあります。

■一旦、国道に戻り、「七ツ滝」に向かいました。山道に入ると、途中、「田麦俣(たむぎまた)多層住宅」がありました。湯殿山神社への参拝客の宿場町として三層の大きな建物が建てられたのですが、明治に入って養蚕業が盛んなったため、2階と3階の採光と通風のため妻面が特徴的な「兜造り」と呼ばれる形態に改造されたものです。特徴のある建物ですね。しかし、かなり傷みが進んでいます。白川郷のように観光客が多く来ると変わるのでしょうが。

 さらに折り返しの急斜面を進むと、七ツ滝の案内がありました。小さな駐車場に車を駐めて、三脚を持ち出して山道を歩く覚悟で出たのですが、すぐに七ツ滝が見えて来ました。紅葉は見事ですが、盛りはまだ少し先でしょうか? 七ツ滝は崖の向こうに遠望して見えます。望遠で見ると、大きく三つに分かれて糸を引くように流れています。落差が90mあります。

 隣で見ていた夫婦連れが、山道(車道)を進むと滝に近づけるかと聞いてきましたが、私にも分かりません。結局、二人は行ってみようと車に乗って行ってしまいました。すると、トラックに乗った作業服姿の年配の女性が二人近づいて来ました。地元の人らしいのですが、余り滝を見たことはなかったそうです。逆に七ツ滝のことを聞かれてしまいました。もう少し七ツ滝に近づきたいと思ったので、この山道(車道)を進むとどうなるのか聞いてみました。するとどこまでも続いているとの答えでしたが、良く分かりません。


注連寺

注連寺横の廃屋

大日坊

六十里越にて

七ツ滝

田麦俣多層住宅

大日坊

湯殿山神社

 車に戻ると、最初に山道を進むとどうなるかと聞いていた夫婦の車が戻って来ました。諦めたようです。とはいえ、山道を少し進んでみることにしました。しかし、滝からはどんどん離れていきます。途中、看板があり、サイクルヘルメットを被った自転車の年配の男性が休憩中でした。古い参道に続くポイントのようです。自転車の男性から、この先はどうなっているのかまたも聞かれてしまいました。かなりの山坂を越えてきたようです。もうすぐ下りで、まもなく集落に至ると教えると喜んでいました。ナビで、次の予定地である湯殿山神社を確認すると、約10km先のようです。この山道から行くことが可能なようです。

 意を決して山道を進んだのですが、かなり狭い道で、右側は崖が続きます。対向車もあり、注意を要します。しばらく進むと、道が開けてきました。さらに湯殿山の有料道路の案内もありました。この辺りの紅葉は最盛期です。湯殿山に至る有料道路がありました。料金は400円です。まもなく湯殿山の大鳥居が見えて来ました。駐車場で服を着替えている人たちがいます。戻って来た登山者のようです。湯殿山本宮とありますが、本殿や社殿がありません。山自体が本宮ですね。宿坊や大きな売店があります。記念に何か買おうと思ったのですが、どうも買う物がありませんね。とはいえ、見事な紅葉を堪能することが出来ました。
 
 湯殿山神社は、山形県庄内地方に広がる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のうち、湯殿山の中腹にある神社です。祭神は大山祇神、大己貴命、少彦名命で、開祖を蜂子(はちのこ)皇子としていますが、空海との関係は注連寺や大日坊で記述したとおりです。大山祇は四国の大三島、大己貴命は大国主神の別名ですが出雲との関係、少彦名命も出雲との関係が大きいですね。羽黒山神社には、2009年の際に訪れました。有料道路を戻り、料金所を過ぎると、来た道とは別な道がやはりありました。こちらを進むと楽に来られたようです。まあ、観光と思えば腹も立ちません。先ほど通ってきた山道は、「六十里越え」という道だったようです。

■国道へは、やや広い道を通って達することができました。通ってきた山越えとは雲泥の差です。月山ダムがありました。道路から、せり上がった風にダムが見えます。現在の貯水量は少ないですね。道の駅/にしかわに電話をすると、レストランのラストオーダーは19:30とのことです。ゆっくりとお風呂に入ることができそうです。道の駅にしかわは大きな温泉付きの道の駅でした。入浴料は300円と安いですね。ロッカーがないため、持って行ったパソコンはカウンターで預かって貰いました。レストランで、天ぷらや小鉢がたくさん付いた銘水館御前と地ビールを美味しく頂きました。ちょっと贅沢をした気分です。写真を整理したり、寝たのは22時近くでした。

湯殿山神社にて
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081 十和田湖と田沢湖(2015年10月16日の記録)


御鼻山展望台からの十和田湖

御鼻山展望台の案内板

御鼻山

奥入瀬にて

■道の駅/碇ヶ関は大きな道の駅でした。停泊は10数台といったところでしょうか? 朝は二度寝をしたため、起きたのは6時丁度でした。外気温は6.3度、快晴です。数キロ戻り、「十和田湖」に向かいました。季節限定道路とのことですが、何の問題もありません。紅葉が美しいですね。十和田湖の北側を走る道路ですが、山に登って行く感覚です。最高部に「御鼻山展望台」がありました。この辺は、紅葉の盛りを過ぎた感があります。展望台に十和田湖の案内がありました。

 十和田湖は、十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖です。湖の最大深度が326.8mと日本第3の深さを誇ります。案内によると、約20万年前の十和田火山の噴火により形成された火山体が、約3万年前に始まった数回の大爆発により中央部が陥没、カルデラ湖が形成されました。約1万年前のカルデラ湖中央部の火山活動により湖の中央部に火山体が形成、約4千年前に中央部の火山体が爆発し鉢形の凹地ができるとそこに、周囲から水が流れ込むとともに二重カルデラ湖となったそうです。湖水が増え、湖岸の寝食とともに流れ出た水が奥入瀬の谷を刻むようになりました。約2千年前にも湖の中央部の御倉山で爆発が起きたのですが、その部分が湖で最大の深度にあるそうです。

 十和田湖は、平安時代915(延喜15)年にも大噴火が起きています。これは、日本で起きた過去2000年間で最大の噴火でした。それが辰子伝説を含む三湖伝説の所以ともいわれています。そんな悲惨な大自然の猛威を感じさせないほど、美しい湖です。湖面はコバルトブルーでしたが、逆光のため良い色がでませんでした。

■十和田湖の東側に入り、子ノ口に着きました。そこから、内陸に入り、「奥入瀬渓流」沿いを少し流してみました。奥入瀬渓流には何度も来ています。銚子大滝があったので、車を駐めて撮影。その後、十和田湖の南側を通って、西側に廻り、「十和田ホテル」に行って見ました。少し山側にあります。秋田杉をふんだんに使用した、泊まってみたいホテルの一つです。設計は、日本大学の長倉謙介ですが、秋田、青森、岩手から宮大工を集めて1938(昭和13)年に竣工したそうですが、築年齢を感じさせませんね。素晴らしい建物です。


奥入瀬 銚子大滝

奥入瀬渓流

十和田湖畔にて

十和田ホテル

■少し戻り、「玉川温泉」に向かいました。途中、十和田湖の西側に「発荷峠」という展望台がありました。ここは、人も車も多く紅葉も見事ですが、私には御鼻山に少し劣るように感じました。「玉川温泉」は、国道からかなり下に下がったところにありました。途中、一日100円の有料の駐車場があり、そこからさらに石段を下ります。綺麗に整備された一帯ですが、焼山の麓を硫黄分が多い川が流れています。硫黄の臭いと緑や白い成分が目立ちます。

 マットを敷いて寝ている人たちがいます。岩山の間や通路脇にも多数の人が横になっていました。ラジウムを含み放射性を持つという北投石(ほくとうせき)は、世界でもここと台湾の北投温泉にしか存在しないそうです。玉川温泉での被曝量は15〜20ミリシーベルトといわれていますが、奇跡的な癌への治療効果が有名になりました。冬期にも雪の中に蹲る姿はテレビ等でも見た記憶があります。わずかな希望を抱いてここにやって来ている方もいるでしょう。医学的効果が解明されることはないのでしょうか?

■この辺りは「八幡平」ですが、紅葉が最盛期です。先を急ぐので、散策はパスをしました。さらに南下をして田沢湖方面に向かう途中、宝仙湖を過ぎた辺りで、山に入りました。7〜8km程度の距離ですが、道が狭く、カーブが多い山道です。再び国道105号線に出たところで、北に向かいました。このまま進むと道の駅碇ヶ関に戻ってしまいますが、10数キロ進んだところで、東に入ると打当温泉がありました。さらに数キロ進んだところで、工事中でガードマンが立っていました。「安の滝」に向かっていたのですが、今日は、工事中のため通ることができないそうです。明日なら通られるとのことですが、合計、30〜40キロ来て、滝の案内もなければ、工事中の案内も何もありませんでした。またもや不運だったわけです。

 安の滝は、マタギの里として有名な、秋田県北秋田市阿仁の中ノ又渓谷奥部に存在する落差約90mメートルの滝です。上下2段に分かれ、日本の滝百選では第二位に選ばれています。悲恋の末、この滝に身を投げた少女「ヤス」の物語があります。ガードマンの方は、安の滝の存在すらも知りませんでした。地元は観光資源とは見ていないのでしょうね。近くには、落差100mの「幸兵衛の滝」もあります。いずれもJRの最寄り駅が「阿仁マタギ駅」というのも良いですね。東北ですので、また機会があったなら訪れてみたいですね。

 合計70〜80kmを無駄にしたわけですが、くろくまの滝に続いて二つ目もダメだったことになります。これは特異点なのでしょうか?あるいは、国土が荒れてきていて整備が間に合わなくなっている。それとも、行政を含めた安全面の留意が厳しくなっていることも理由かも知れません。何か問題が起きると、すぐに非難をするだけのメディアやネットの存在も無視できません。

■気を取り直して、「田沢湖」に向かいました。田沢湖は、最大深度423mと日本で最も深い湖です。湖面標高は249mですから、最深部は海面下174mということになります。水量はあの琵琶湖より多いと聞いて、今から40数年前の学生時代、上野発青森着の普通列車に乗った際に、途中下車して田沢湖に寄った記憶があります。もっとも、その後の調べでは、やはり琵琶湖の水量の方が遙かに多いことを知りましたが。最近の話題では、田沢湖では絶滅したクニマスが山梨県の西湖で発見されて有名になりましたね。

 田沢湖の御座石に着きました。湧き水や辰子伝説の御座石神社などがあります。さらに東に向かい、岩手県の雫石方面に向かいました。仙北峠はトンネルが多いですね。10数キロで、予定していた道の駅/雫石あねっこに着きました。大きな道の駅です。安の滝に行かなかったため、かなり時間に余裕があります。本来であれば、登山に近い行程を覚悟していました。道の駅には、新はしば温泉もあります。大きな温泉にゆったりと入浴して、レストランで牛野菜定食と中ジョッキを注文しました。ニンニクが効いて美味しいですね。しかも、キムチ味の白菜の漬け物が無料です。その後、休憩所でゆっくりと整理などをしました。ここは、オープンのWI−FIも利用できます。メールチェックは3日ぶりとなりました。


十和田ホテル

発荷峠から見た十和田湖

玉川温泉

田沢湖畔にて

田沢湖湖面
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080 鰺ヶ沢から岩木山を経て弘前散策(2015年10月15日の記録)


■安倍首相が岩手県でその末裔を自称したのは、地元へのリップサービスだったかも知れませんが、安倍氏を本姓とした陸奥の安藤氏(安東氏)は、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えたといわれています。安藤氏が安倍氏を本姓としたのは、安倍貞任(さだとう)第2子の高星(たかあき・たかぼし)を始祖としているからですが、11世紀半ばの平安時代後期に奥州を舞台として争われた前九年の役により、安倍貞任が討たれると、代わって勢力を伸ばしたのが出羽の清原氏でした。しかし、後三年の役で、清原氏が滅ぶと、代わって覇権を握ったのが、安倍貞任の甥でもあり、母が清原武則の長男武貞に再嫁した奥州藤原氏の祖となる清原清衡でした。しかし、その奥州藤原氏も四代で滅亡します。本当に東北の歴史は激動的です。

 安藤氏は、時代にもよりますが、陸奥ばかりではなく、蝦夷地(北海道)をも長きに渡って支配下に置いています。9世紀初めの桓武天皇の時代、坂上田村麻呂によって、アテルイが捉えられ処刑されるとともに東北の蝦夷が大和中央政権に組み込まれましたが、2世紀を経て、再び蝦夷の勢力が息を吹き返したと見る考え方もあります。その中心地/日本における北への国際ターミナルだったともいえる十三湊(じゅうさんみなと/とさみなと)は、異説もありますが、「十三(とさ)」という地名自体が、トー・サム(湖・のほとり)というアイヌ語ともいわれています。安藤氏が支配した十三湊には、13世紀後半の鎌倉時代の計画的な都市建設の遺構が残され、14世紀には町屋も一気に拡大したことが遺跡調査によって明らかにされています。子孫である安藤康季は、若狭国羽賀寺の再建に際して、奥州十三湊日之本将軍と称しました。

 しかし、戦国時代に突入すると、八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、十三湊は急速にその繁栄を失ってしまいました。安倍氏の子孫を名乗るのは、安藤氏ばかりではなく、戦国大名であった秋田氏、九州松浦党などがいますが、安倍首相はその九州松浦党の子孫を自称しているようです。

 十三湖は、周囲約30kmの汽水湖です。水深は最大で約3mと浅く、シジミを特産物とし、オオハクチョウの渡来地としても有名です。松林が美しいですね。中の島に渡る遊歩道橋がありました。白鳥は10数羽程度でしたが、近づくと遠ざかっていきます。少し南へ進むと、亀ヶ岡遺跡の大きな土造のモニュメントが見えてきました。

十三湖

亀ヶ岡遺跡

岩木山を望む

鰺ヶ沢町にて

津軽藩発祥の地

白神山地を望む

くろくまの滝手前

岩木山麓

■「亀ヶ岡石器時代遺跡」と銘打ってありますが、出土した出土した有名な「遮光器土偶」は、縄文晩期のものです。津軽藩2代目藩主の津軽信枚(のぶひら)が1622年にこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、発見されたのですが、亀ヶ岡城を造り始めたときに一国一城令が出たため、やむなく亀ヶ岡城は廃城となったそうです。江戸時代にここから発掘された物は「亀ヶ岡物」といわれ、好事家に喜ばれ、海外にまで売られたものもあります。遮光器土偶は、現在は東京国立博物館にありますが、片足が失われているのが妙に愛嬌となっています。偽書として名高く、先日亡くなった古田武彦も騙されていたという『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)』にも出てきますね。同書では、古代の津軽地方に栄えていたとする民族、アラハバキのビジュアルイメージが遮光器土偶だとされていました。

■日本海側を走り、鰺ヶ沢町を経て内陸に入り、「くろくまの滝」に向かいました。岩木山が見えます。少し雲が掛かっていますが、津軽地方の象徴的な山です。「熊の湯温泉」を通り、狭い道に入りました。数キロ進むとガードマンが立っていました。何と土砂崩れで不通になっているとのことです。かなり以前からのようです。途中の看板は気がつきませんでした。ここから徒歩で30分位らしいのですが、土砂崩れがあるのでは諦めるしかありません。近くの橋の上から白神山地の紅葉を撮影して戻ることにしました。

 くろくまの滝は、日本の滝百選の一つで、落差85m。滝の姿が観音菩薩が合掌しているように見えるそうです。この付近の白神山地は、天然のブナの群生地としても知られています。熊の湯温泉まで戻り休憩をしました。来てみて知ったのですが、ここは映画「わさお」のロケ地だったそうです。映画を見てはいませんが、CMを見た記憶があります。さらに少し戻ると、「津軽藩発祥の地」とされる案内もありました。路肩では、野菜の露店があり、大根が50円、ほうれん草が100円と旅行中でなければ買い求めましたね。

 津軽藩発祥の地にあった案内板を見ると、くろくまの滝には行けませんとの小さな表示がありましたが、もう少し大きな看板が欲しいですね。津軽氏は、安藤氏を追った南部藩の一族であった大浦氏が津軽氏を名乗るようになり、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、南部氏の領地を切り取る形で独立、そして関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して大名となり、弘前城を居城として、江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めていました。

高照神社

高照神社

高照神社奥の院

岩木山神社の狛犬

岩木山神社

岩木山神社

■鰺ヶ沢町を再び経て、岩木山方面に向かいました。「高照神社」に向かったのですが、途中の露店でりんご「サンふじ」を仕入れました。2009年の折にもこの辺でりんごを購入しました。少し傷があるようですが、100円で4個と50円で4個を購入しました。いずれも大きく、食べ応えがありそうです。翌朝、食べたときは、とても美味しく頂けました。傷があるといっても、ほんの小さな傷です。

■高照神社は、2度目でしょうか。拝殿に続く本殿は立派です。さらに、石畳を歩いて、奥の院まで行ってみました。途中の石畳には、針葉樹の落葉で絨毯のようになっています。高照神社は、藤原氏の守護神である春日四神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)を祀っていますが、弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所を起源とする津軽氏歴代の崇敬社です。「奥の院」は、信政の廟所です。ここから遊歩道を通り、岩木山神社に行けるようですが、人が次々と来るので、車まで戻り、「岩木山神社」に向かいました。

■岩木山神社は、津軽国一宮とされる、岩木山を御神体とする神社です。参道となる石段には多くの鳥居が続き、拝殿の上に岩木山の山頂が見えています。最初の鳥居を上がった左側の食堂で、2009年にはそばを食べた記憶があります。奥宮は岩木山山頂にあるとのことです。階段を上り切ると、楼門の玉垣に特徴のある狛犬が隠れていました。拝殿に向かって右側が上向き(金運上昇)ですが、左側は逆立ちをして下向き(恋愛運上昇)といわれています。社殿の彫刻は「奥日光」ともいわれる彩色豊かな彩りです。本殿は、工事中でしたが、少しだけ見えていました。

 岩木山の祭神は、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)、多都比姫神(たつびひめのかみ)、宇賀能売神(うかのめのかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)とされていますが、顕国魂神は大国主命の別名だとする説があります。ここにも出雲の影が投影されています。

■岩木山を後に見ながら、「弘前斎場」に向かいました。途中、りんご園があるところで、岩木山を撮影していたところ、何故か津軽三味線の音楽が流れてきました。少し先で、コンビニでロースカツ丼を食べて、弘前斎場に着きました。庇が特徴的な前川國男の1983年の作品です。弘前市は前川國男の作品が多数あります。中に入りたかったのですが、丁度、火葬をやっていて喪服の人たちが多数並んでいましたので、諦めました。

 弘前斎場のすぐ横に「長勝寺」がありましたので、寄って見ました。ここには以前来たことがあります。三門も見事です。長勝寺は、津軽氏の祖である大浦氏の菩提寺で、1528年に創建されたといわれています。津軽藩2代信枚が弘前城の築城とともに、鰺ヶ沢からこの地に移した曹洞宗の禅寺です。長勝寺手前には、三十三ヶ寺が本道に沿って並ぶ禅林街があります。途中にある「黒門」が、車両による破損により、ほとんどなくなっていました。「赤門」は無事でした。

岩木山神社本殿

弘前斎場

長勝寺

弘前市立博物館

弘前城

緑の相談所

禅林街

弘前市立文化センター

■弘前市内に入りました。歴史的保存地域は、生け垣があるくらいですが、雰囲気は残っています。「弘前市立文化センター」の駐車場に車を駐めて、「弘前高等学校の講堂」を見に行きました。校舎の周りを一回りしましたが、どれが前川國男の作品かはよく分かりませんでした。弘前公園に入ると、「緑の相談所」がありました。1982年の前川作品です。

 「弘前城」は、遠目に見ただけでしたが、後でニュースを見ると、丁度、城の曳家工事をやっていたそうです。続いて、1976年の前川作品である「弘前市立博物館」に寄ってみました。素晴らしい作品ですね。残念ながら、内部は撮影禁止との張り紙があります。理由は分かりません。追手門から出ると、「弘前市役所」がありました。1958年の前川作品です。

 市立文化センターに戻ると、「旧市立図書館」があるので寄って見ました。ここには、以前、来たことがあります。中にも無料で入ることができます。木造3階建てですが、良く管理されていますね。青森県の擬洋風建築を多く手がけた堀江佐吉の1906年の作品です。その奥には、遺産建築のミニチュアがたくさん並んでいました。これは知りませんでした。「旧東奥義塾外人教師館」がありましたが、これも堀江佐吉の作品との説がありますが、詳細は不明です。

■続いて、前川國男の処女作とされる「木村産業研究所」です。弘前市内は狭い道が多く、袋小路などにも当たったため、遠回りをしてしまいましたが、何とか行き着くことができました。すっかり白塗りされて綺麗になっています。前川國男がアントニン・レーモンドの事務所での修業時代の1932年の作品です。日本におけるコルビュジェ風のモダニズム建築の初期作品といわれています。

■今日の停泊場所は、道の駅/いかりがせき/津軽関の庄です。ここには、温泉もあります。入浴料は300円ととても安いですね。入浴の後、レストランに来たのですが、注文したのが彩里定食と中ジョッキ。しかしなかなか出てきません。少し遅れて入ってきた人がもう時間がないので麺類とオムレツしかできないといわれていました。危なかったですね。20分近く掛かって出てきましたが、食べ始めると蛍の光が流れ始めました。天ぷらと刺身とそばの定食でしたが、味の方はイマイチかな。。チェックアウトをしたのが丁度、19時でした。その後は、ゆったりと。外気温は11度ほどです。近くに斜めに駐めている大型のエンジン音が鳴り響いていました。迷惑ですね。

弘前城追手門

弘前市役所

弘前旧市立図書館

ミニチュアが並ぶ

旧東奥義塾外人教師館

木村産業研究所

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