旅の思い出・その12 <次の記事へ>

119 法隆寺、纏向、明日香を廻る(2015年11月23日の記録)


藤ノ木古墳
■新聞情報ですが、東北大の前総長の研究をめぐる不正疑惑問題が話題となっています。2006年から2012年まで総長まで務めた人の論文の再現性に疑問が持たれたり、同じ論文の二重投稿などが指摘されています。あのスタップ細胞の事件に似ていますね。そして、最も問題なことは、同大学の調査委員会が不正を否定する報告書をまとめたことです。

 昨日の朝日新聞情報では、道内の私立学校で起きたいじめによる問題について、道の「いじめ調査委委員会」が再調査は必要ないと結論を付けたという報道がされています。安倍首相の加計学園の問題では、文部科学省が通り一遍だけの調査で、国会で明らかになった文書について、存在を確認できなかったと発表しています。トランプについては、もう説明を要しませんね。いずれにしても、すべて内輪だけの恣意的な調査で、問題がないとしていることにあります。

 そんな人たちが社会を動かしていることに、恐ろしさを感じてしまいます。社会的に責任を持つ人たちの、開き直りが今の世相を映しているのでしょうか? 安倍首相の国会答弁などを聞いていますと、身近な人には丁寧に、反対の側に立つ人には開き直りで自説を繰り返し、答弁にはまったく答えないパターンを貫き通しています。彼への評価が一定のレベルから下がらないことに疑問を感じる今日この頃です。(2017年5月21日記)

■2015年の11月23日に戻ります。道の駅/へぐりは、静かな夜でした。すぐ近くを鉄道が走っていましたが、ほとんど気になりませんでした。停泊は、10数台でしょうか。夜中にトイレに起きたのですが、まったく時間を覚えていないほど、寝ぼけまなこ状態でした。朝起きたのは5:50でした。毛布は使いませんでしたが、うっすらと寒かったような気がします。7:20に出発しました。

■目的地は、「法隆寺」ですが、少し早いと思い、途中、「藤ノ木古墳」に寄ってみました。一台だけの駐車スペースがあり、そこに車を駐めました。藤ノ木古墳は、古墳時代後期の6世紀後半の円墳(径約50m)と推定されています。既に畿内では、前方後円墳の造営が終わりに近づいていた時期の古墳です。

 1985年の第一次調査で、未盗掘の横穴式石室から刳抜(くりぬき)式の家形石棺が検出され、石棺と奥壁の間から金銅製鞍金具などの馬具類や武器・武具類、鉄製農耕具(ミニチュア)などが出土したことから、かなり大きく報道されました。1988年の第三次調査では、棺から2体の人骨(男性2人の合葬である可能性が高い)のほか、大刀5口と剣1口、金銅製冠や金銅製履などの装身具、銅鏡4面、1万点以上のガラス玉類などの副葬品が出土しました。


法隆寺

法隆寺の回廊

法隆寺・金堂

法隆寺・五重塔

法隆寺・夢殿

中宮寺

■法隆寺の駐車場前に7:40ころ着いたのですが、開いていませんでした。入り口と思ったところに停車して、しばし待ちました。ところが、7:55ころ、反対側に入車が始まっていました。入り口と思ったところは、出口でした。大失敗です。すでに、4〜5台の先行を許してしまいました。

 駐車場に車を入れて、法隆寺に向かいました。広い空間と空気感があります。何故か落ち着く心地になります。法隆寺には、何度も来ていますが、西院、大宝蔵院、東院をいれて1,500円は少し高いような気がします。大宝蔵院は、新しい建物ですね。記憶にありませんでしたが、1998(平成10)年に完成したといいますから、初めてでした。

 とはいえ、拝観できる仏像なども盛りだくさん。ほとんどが国宝です。かつて秘仏だった夢殿の救世観音も拝観できます。その他、五重塔、金堂など数えきれませんね。玉虫の厨子なども普通に展示しています。圧倒的なレベルです。東院を見終わると中宮寺の案内がありました。改めて500円が別途のことです(法隆寺を見ていなければ600円らしい)。ここで、見るべきものはただ一つ、漆黒の観音像です。確かに素晴らしいですね。しばらく動くことができませんでした。当初は彩色されていたというクスノキの木造ですが、どうしてこのような漆黒に光る状態になったのか本当に不思議です。

 名残惜しかった中宮寺の如意輪観音半跏思惟像(弥勒菩薩半跏像)に後ろ髪を引かれる思いで、駐車場に戻ってきました。そして、今回の旅の目的の大きなテーマであった、駐車場横の「iセンター」に向かいました。ここには、西岡常一棟梁の大工道具が展示されています。西岡棟梁は、1995(平成7)年に亡くなりましたが、法隆寺の宮大工と知られています。薬師寺の金堂や西塔などの再建、そして「ヤリガンナ」の復元など、数々の逸話が残っています。私も学生時代、憧れた人でした。唯一の内弟子が、鵤工舎を創設した小川三夫氏です。

 2階に西岡棟梁の大工道具が展示されていました。ヤリガンナの刃先は、何ともいえない鋭い輝きを見せています。西岡棟梁が描いたという図面が展示されていました。これには感動しました。几帳面で美しい図面が残されていました。翌日に廻して良かったなと思った瞬間でした。法隆寺と中宮寺と西岡棟梁にすっかり堪能してしまいました。

■奈良盆地西側に位置する「ナガレヤマ古墳」に向かいました。ナビに従ったのですが、通り過ぎてしまいました。ナガレヤマ古墳は馬見丘陵公園内にありました。全体を縦に半分ずつ、葺き石と芝生に分けた変わった復元方法がされています。全長103mの二段構成の前方後円墳です。


微かに弥勒菩薩半跏像が

西岡棟梁の大工道具

西岡棟梁の図面

ナガレヤマ古墳

ヤリガンナの刃先

西岡棟梁のヤリガンナ

西岡棟梁の墨壺など

當麻寺

■葛城市にある「當麻寺」に向かいました。ナビはとても細い道を案内します。これは危ないと思い、その道から脱出しました。間もなく當麻寺の駐車場に着きました。500円でした。當麻寺の横に入る駐車場です。曼荼羅堂がありました。曼荼羅堂に向かって左側の東西に三重塔があります。平安時代初期建立の2基の塔が残っている唯一のお寺です。開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされていますが、不明な点が多いようです。藤原豊成の娘、中将姫が一夜で織ったという4m四方の當麻曼荼羅を本尊としています。

 曼荼羅堂を見ながら西塔に行って見ました。坊舎と塀に囲われた道の先に西塔がありました。手前が柵で塞がれていました。東塔は、木々で覆われたさらに細い道の先にありました。不思議な伽藍配置です。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つとされています。

■続いて、纏向地区に向かいました。景行天皇陵横の道に入ったのですが、それが「山辺(やまのべ)の道」でした。奈良盆地の東南にある三輪山の麓から春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に通ずる古道が山の辺の道です。「額田王臣の石碑」を探したのですが、見つけることはできませんでした。景行天皇陵の横で、車では通ることができない細い道に突き当たってしまいました。景行天皇陵に比定されている渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある全長310mの前方後円墳です。

 近くに「ホケノ山古墳」がありましたので、寄ってみました。ホケノ山古墳には駐車場がありましたが、前方部をカットした道路が設定されています。少し荒れた状態でした。ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代初期の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳です。前方後円墳の原型ともいわれています。<まむしに注意>の看板がありました。埋葬施設が復元されて、表しになっていました。石囲いの中にあった大きな丸い石が印象的です。墳丘の上から「箸墓古墳」が見えました。

 少し戻り加減で箸墓古墳に向かいました。途中、「国津神社」がありましたので、寄ってみました。この纏向川下流の国津神社(九日神社)は、素盞鳴尊の剣を物実(ものざね)として生まれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭神としています。

 纏向古墳の近くに着きました。以前にはなかった「卑弥呼の○○」などという有料駐車場が出来ていました。100円でしたが、先に進みました。三輪山を左に見て、周濠に箸墓古墳が映るポイントがありました。車は道路の少し広くなった場所に無料停車です。箸墓古墳は、第七代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓に比定されている、全長約278mの前方後円墳です。

 日本古代史研究の深化とともに、比定年代が下り、卑弥呼の墓ともいわれる存在になってきました。前方後円墳最初期の形態を示すものとして話題になっています。最近の調査では、築造時は周濠で囲まれていたことも分かっています。恐らく築造年代は、いずれ3世紀前半から中葉まで下がるのではないでしょうか。何かと興味が尽きない三輪山北西にある纏向地区でした。

■明日香に向かいました。「明日香資料館」に着いたのですが、向かいに有料駐車場がありましたので、車を駐めて飛鳥資料館に行ったところ、入り口でガードマンの方が、こちらに駐めると無料と教えてくれました。車を移動です。なんと言うことでしょう。後払いで助かりました。庭園には、猿石や酒船石の複製が綺麗に展示されています。水落遺跡の復元は、資料館内にありました。入館料は270円でしたが、65歳以上は無料です。しかも展示内容が豪華です。キトラ古墳の特別展示もやっていました。石室天井の復元天文図があります。まことに価値がある展示内容でした。

■続いて、「飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ、あすかにますじんじゃ)」に向かいました。飛鳥座神社は、奈良県明日香村にある神社ですが、創建不詳と伝わります。主祭神は、事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神です。ここにも大物主神、別名オオクニヌシが祭られています。さらに、「甘樫丘(あまかしのおか)」に向かいました。かつては、蘇我氏の邸宅が構えられていた場所です。ところが、ナビの案内に従って進んだのですが、とんでもない細い道に入ってしまいました。明日香の風景を望もうと思ったのですが、行きつ戻りつの結果、少し嫌気がさしてしまいました。2009年には普通に行けたのですが、おかしいですね。今回は、諦めることにしました。


纏向遺跡付近

ホケノ古墳

国津神社

箸墓古墳

三輪山を望む

明日香資料館

明日香資料館

■「万葉文化館」に向かいました。ナビが案内したのは、入ることができない入口でした。山を一廻りして、反対側に出ることになってしまいました。駐車場は無料でしたが、今日はナビに騙されっぱなしです。2009年にも入ったところから「酒船石遺跡」に行ってみました。入り口で300円掛かりましたが、ボランティアのガイドが詳しく説明してくれました。

 ただ、酒船石遺跡といいますが、ここには酒船石はありません。あるのは、2000(平成12)年の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構です。酒船石そのものは、2009年には行きましたが、背面の丘の上にあります。そのときも探すのに少し苦労をしました。

■16時に近くなってきましたので、もうすぐ日が暮れます。「稻渕の棚田」に向かいました。6〜7キロで案内があるところに着きましたが、その少し前の景観の方が雄大だったような気がします。彼岸花の季節は終わっていましたが、整然とした棚田が並んでいました。

■奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある「談山(たんざん)神社」に向かいました。祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)です。山間を走ることになりました。暗くなってきました。談山神社に着くと、多くの車が駐まっています。観光客も多いですね。駐車場から石段を降りました。途中、淡海公十三重石塔がありましたので、寄ってみました。淡海公(たんかいこう)とは、藤原鎌足の次男である藤原不比等のことです。

 談山神社は、紅葉の中にありました。鳥居を潜り、石段を登ると本殿が見えて来ました。今日は、NHKが来ていて、テレビ放送をするらしく、ライトアップの準備をしていました。木造の十三重塔があります。1532(享禄5)年に再建された世界唯一の木造十三重塔です。高さは17m、檜皮葺ですが、神仏混淆の世界がここには残っていました。本殿内部にも独特の神像、扁額、絵巻が盛りだくさんです。すべての撮影が可能です。

 本殿から出ると、丁度、暗くなってきたため、ライトアップが紅葉の中に見事に映えていました。来て良かったと思った瞬間です。時間があれば、高松塚古墳やキトラ古墳にも寄りたかったのですが、以前、訪れたこともありますので、今日はここまでとしました。今日の停泊は、一日おいての、再びの道の駅/針テラスです。27kmほど先にありました。針テラスに着いて給油をしたのですが、115円と安いですね。今日は、先に風呂に入り、その後で、針テラス食堂でサンマ焼き、冷や奴、肉じゃが、漬け物とワンカップなどを渋く頂きました。食べ終わった後、追加で玉子焼きを食べながらデータ整理などをして、21時20ころ車に戻りました。少し食べ過ぎたかも知れません。

前飛鳥座神社

明日香万葉文化館にて

稲渕の棚田

談山神社のライトアップ

談山神社

談山神社・十三重塔

淡海公十三重石塔
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118 奈良を巡る(2015年11月22日の記録) 


岩船寺の門前
■この一ヶ月ほど、右足の痛みに悩まされていました。一時は、歩けないほどの激痛に襲われ、整形病院でレントゲンとMRIを撮影したのですが、当初は原因が分かりませんでした。しかし、ちょっとしたタイミングで同じ病院のセカンドオピニオンを受けたところ、椎間板ヘルニアの可能性が高くなり、神経ブロック注射を施術、結果、その診断と相成りました。同じMRI撮影画像を見ても、なかなか見つけることが困難なのですね。

 寝ていても、仰向けは無理、左向きに胎児スタイルのみの状態が続きました。必死の覚悟でトイレに行ったり、風呂に入る生活が続きました。もちろん、椅子に座ることもできません。医者は、このまま改善しないようであれば、手術が必要との診断でしたが、椎間板ヘルニアは必ず自然に治るとの情報を信じて、様子を見させて下さいと答えるのが精一杯のところでした。そして、GWに入ってしまいました。

 すると、4月の末から5月に入ったところで、痛みが少しずつ和らいできました。鈍痛は残っていますが、強烈な激痛はほとんどなくなりました。希望が見えて来たのです。左向きしか寝られない状態は現在も続いていますが、椅子作業ができるようにまで回復してきたのです。ベットでのメール返信は、ノートPCを枕元に立てての一本指打法でした。もちろんマウスは使えません。しかし、椅子作業が復活したことのより、全指打法+マウスが可能になったのです。

そんな苦闘が続いていましたが、世の中では北朝鮮情報に不穏な動きが増していました。相変わらず日本の首相は独りよがりの瀬戸際外交一筋ですが、思いの外、何をやるか分からないトランブ外交が軟化の方向を示し始めました。今後の情勢は余談を許しませんが、対話の方向性を探って貰いたいものです。消費税率の据え置きの前段で「リーマンショック級」と突然に言い始めた人は、今回もこの機に乗じて「憲法改正」の狼煙を上げ始めました。森友問題などは枝葉末節と言いたいのでしょうが、彼の主導では憲法改正などは絶対に阻止したいものです。(2017年5月4日記)


■2015年の10月22日に戻ります。昨夜寝たのは23時半ころでした。夜中も暴走族がうるさくエンジン音を響かせたりして、騒がしかったですね。多くの車が停泊しています。少し朝寝をしてしまいました。道の駅/針テラスにはゴミ箱もあります。コンビニでサンドイッチを購入して朝食としました。

 8:20ころに出発しました。2009年の日本一周の際、時限となったため、門前で住職に「またどうぞ」といわれてしまった木津川市加茂町の「岩船寺」に向かいました。山道に入りましたが、対向車はほとんどなく快適です。途中に見える茶畑が美しいです。9時過ぎに岩船寺に着きました。何故か懐かしい感じがします。複数の駐車場がありましたが、一番広そうな所に駐めました。おじさんがいて、300円とのことです。岩船寺は8:30から開いていました。人は少ないですね。

 受付のおばさんと少し話をしました。何と北海道の留萌出身だそうです。前回、入ることができなかった話などをしてしまいました。山門から見える三重塔は、紅葉しかかった木々に少し隠れています。美しいですね。今日は日曜日なので、塔が開いているそうです。岩船寺は、開基が行基と伝わるアジサイの名所として知られた真言律宗のお寺です。この地は、奈良県境に近く当尾(とうの)の里といわれています。近くにある九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺とともに、南都(奈良)の寺院の世俗化を厭う僧たちの修行の場となっていました。

 三重塔に行くと、確かに最下層の初重の扉が二面開いていました。正面側の十六羅漢図でしょうか、穏やかな雰囲気です。背面側は、五大明王が描かれていますが、激しい色使いです。三重塔の背面側を登る道があり、三重塔を見下ろすこともできます。小さめのお寺ですが、雰囲気を楽しむことができました。

 本堂に行くと、住職が説明をしていました。「蝋燭の火は心(内面)を照らすが、電気の火は外面だけ照らす」などと説明をしています。2009年に「またどうぞ」と言った方でした。岩船寺は浄瑠璃寺も近く、ゆったりとした時間が流れていました。


木々の間に見える三重塔

岩船寺本堂

岩船寺三重塔

三重塔初重正面

三重塔初重背面

岩船寺前の駐車場にて

東大寺転害門

 駐車場に戻ると、梅干しなどが売っていました。100円と安いので購入しました。2009年にも買った「ひの菜」の漬け物の有無を聞くと、向かいの店で売っているとのことでした。向かいの店は、丁度準備中でしたが、わざわざ声を掛けてくれました。ひの菜の漬け物も100円と安いですね。さっと洗うと良いと言われたのですが、洗うのが大変です。それで、お願いすると、準備中にも関わらず、洗って小さく切って、パックに入れてくれました。ひの菜は、滋賀県日野町が原産のカブの一種です。

 帰りかけに駐車場から出ると、2009年に駐車料金を返してくれたお祖母さんがいました。岩船寺は何も変わっていませんでした。少し、人が増えてきました。2〜3km離れた浄瑠璃寺に行くか迷いましたが、今回はパスをすることにしました。

■ナビを「長弓寺」に設定しました。途中、奈良の東大寺の横を通りました。「転害門(てがいもん)」がありました。駐禁でしかも交差点内になります。前後には車がいませんでしたので、ちょっとだけ車を駐めて、撮影。転害門は、1180(治承4)年の平重衡の兵火や、1567(永禄10)年の松永久秀の兵火にも焼け残った遺構です。東大寺の西北にあるため「西北大門」ともいわれます。

 さすがに、車が混んできました。予定では、二つの元興寺に行くつもりでしたが、この状態では無理なようです。二つの元興寺とは、奈良市中院町所在の元興寺と東大寺の末寺の奈良市芝新屋町所在の元興寺です。2009年には、車を駐めるところが見つからず、中院町の門前で諦めた記憶があります。また、いつか来ることもあるでしょう。

■急遽、「薬師寺」にナビを変更しました。すると「唐招提寺」の方から入っていくルートになりましたので、混み具合を予想して唐招提寺の駐車場に車を駐めることにしました。混んではいますが、すんなりと入ることができました。しかも一日駐めて500円です。ここから薬師寺にも歩いて行くことにしました。

 唐招提寺金堂は、門から眺める姿が一番美しいと思います。何度となく来ている好きな寺院です。しっかりと堪能させて貰うことにしました。内部撮影はできませんが、仏像もそれなりに拝観でき、拝観料は600円と、割と安いと思います。鑑真和上象の公開もされていましたが、前にも見たのでパスしました。レプリカもガラス戸の堂にて参拝できますが、これも撮影禁止でした。鑑真和上が埋葬されたと伝わる古墳にも行って見ました。唐招提寺は、これで5度目でしょうか。お寺前の店は1軒しか空いていません。日曜日が休みなのですね。

■歩いて薬師寺に向かいました。曇っていますが、気持ちが良い天気です。コートを着て歩いている女性もいますが、恐らく暑いでしょう。薬師寺は、東塔が解体工事中で素屋根が掛かっていました。薬師寺は白鳳伽藍のみの拝観料は600円です。玄奘三蔵院伽藍の拝観と解体した東塔の水煙や仏舎利の特別展示を併せると1,600円ですが、折角の機会です。一大奮発をしてしまいました。解体中の東塔の相輪を間近で見る機会は滅多にあるものではありません。

 解体した用材が陳列されていました。心柱だけは、他所に保管してあるようです。写真撮影も自由でした。年月を経た相輪には刻印文字が見えます。西塔内部には、釈迦八相像がありました。釈迦に関わるイベントを彫ったものです。これほどのものを入れたというのは驚きでした。西塔には八相のうち四相が安置され、残りの四相は東塔に製作・安置されるそうです。

 玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫が30年かけて描いたといわれる、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」の前はガラスで仕切られていました。以前、来たときはガラスなどは無かった記憶があります。

■車に戻ると、13時を過ぎていました。買ってきたひの菜の漬け物が食べたくなり、駐車場に駐めたまま、車内食にすることにしました。ところが、昨日買ってきた4個詰めのツナ缶の一つのフタが開いていました。ビニルを剥がすといやな臭いが漂いました。元から開いていたのか、仕舞うときに開けてしまったのは判りません。止むなく、悪くはなっていないようなので、ツナ缶も食べることにしました。ひの菜の漬け物の臭いが車内に漂うことを気にしていましたが、それ以上の問題が発生してしまった訳です。とはいえ、ひの菜は誠に味わい深いものでした。梅干しも頂きました。


唐招提寺金堂

唐招提寺鼓楼/右側は礼堂

唐招提寺鑑真和上御廟に向かう道

薬師寺東塔の水煙

薬師寺

唐招提寺の新しい金堂の鴟尾

鑑真和上御廟

薬師寺金堂

 ナビを距離優先にして、長弓寺に向かいました。途中、垂仁天皇陵で撮影をしました。垂仁天皇陵は、宝来山古墳(ほうらいやまこふん)ともいわれ、奈良市尼ケ辻町字西池にある全長227mの前方後円墳です。ここには何度も来ています。距離優先にしたため、なかなか難しい道を通ることになりました。道は混んではいません。

 生駒市上町にある長弓寺に着きましたが、雰囲気は神社の佇まいです。創建に伝わる説は諸説あり、定説はありません。盛時には塔頭が20坊あったとされますが、現在は4坊を残すのみです。訪れる人も少なそうですね。参道であった可愛い女の子が、「こんにちわ」と挨拶をしてくれました。

 長久寺は、奈良時代の豪族、小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)をその養子が狩猟の際に誤って射殺してしまったことを、聖武天皇が深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建てて十一面観音を祭ったのが起源として有力とされています。国宝・本堂は、棟木に「長弓寺棟上 弘安二年二月廿五日 大工狛宗元」云々の墨書銘があることから、1279(弘安2)年の建立とされています。この銘は、日本最古の大工銘ともいわれています。黄色い膨らみがある寒梅が咲いていました。

■15時になりましたが、予定を変えて法隆寺に向かいました。最大の目的は、法隆寺前の「iセンター」です。しかし、法起寺と法輪寺の横を通ったまでは良かったのですが、ナビの設定が、法隆寺ではなく、法隆寺町の山間に入ってしまいました。どんどん山の中に入っていきます。判った段階で戻れば良かったのですが、ナビの指示に従い先に進んだのが失敗でした。どんどん狭隘な山道に進んでしまいました。しかも遠回りをして、最も混んでいる一般道に出てしまいました。

 iセンターの駐車場に着いたときは、15:55ころになっていました。駐車料金が500円でしたが、駐車場のおじさんは、伽藍を見ることはできるが、中を見ることはできないと教えてくれました。法隆寺は8時から16時までの受付でした。iセンターは8時半からです。iセンターには何もないと言われましたが、私の目的は、1995年に亡くなった西岡常一棟梁の大工道具です。聞いてみると、「あああるよ」との返事でした。今日は、駐車場に入ることを諦めて、明朝、再び来ることにしました。

■今日の停泊予定の、道の駅/へぐりの里近くの日帰り入浴ができるホテルに電話をしました。ところが、レストランが宿泊客で一杯なので、喫茶店とのセットが必要とのことです。それでは仕方がありませんので、今日も昨日と同じ30kmほど先の道の駅/針テラスに向かうことにしました。

 しかし、ナビを利用して温泉を探すと7〜8km先に奈良健康ランドがあります。そちらにナビを変更しました。着いてみると本当に健康ランドです。しかも、もの凄い混みようです。近くの道の駅/へぐりの里までは11km程度です。今更仕方がありませんので、入りました。入場料はシニア料金があり、1,080円でした。浴槽は複数ありますが、子供が五月蠅いですね。。入浴後、レストランに行ったのですが、多くの人が並んでいます。吉本劇場があり、そのために人が並んでいたのでした。

 別に軽食コーナーがありましたので、そこでカレーライスを注文しました。餃子もあったので追加したのですが、作ってあったものを焼き直ししたらしく、真っ黒な餃子が出てきました。2階のレストルームはとても広かったです。PCを持ってきたので、データ整理などをゆっくりと、そして、フリーのWiFiはありませんでしたが、モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなどもしました。何か日常に帰ってきた雰囲気となりました。道の駅/へぐりに着いたのは、22時ころでした。

薬師寺西塔

薬師寺にて

薬師寺にて

玄奘三蔵院伽藍

伝垂仁天皇陵

長弓寺
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117 醍醐、下賀茂、御所、京都旧府庁他(2015年11月21日の記録)

■昨日、やっと我が家の庭の雪がすべて消えました。昨年より2日遅い雪解けでした。しかし、2日前には降雪があり、一面が白くなりましたが、儚いものですね。どのような抵抗をしようとも、太陽の力が強くなれば一晩で雪は消えてしまいます。

 何をするか分からないトランプや金正恩、プーチンたちが世界の命運を握っているという恐ろしい世の中になってしまいました。その他、危険な思想・信条を持っている世界の指導者が溢れかえっています。森友問題などでは、驚くほどの無神経な対応を貫き通していますが、挑戦的な発言を続け、近隣国にわざわざ刺激を与えている日本の首相もいます。ここまで煽れば、戦力保持が必要だと多くの人が感じてしまうでしょう。地球を照らす太陽の力が弱ってきているのでしょうか。(2017年4月15日記)

■2015年、道の駅/アグリの里栗東で朝5:59に起きました。寝たのが、少し遅かったせいか、朝起きるのが辛かったですね。昨夜は、道の駅でも温浴施設でも辿り着くのに苦労しました。暗く狭いたんぼ道なども通りました。カーブを廻り切れるかどうか少し不安を感じるところもありました。さすがに古い町並みが残っているようです。でも、道の駅/アグリの里は思ったより大きな道の駅でした。停泊は10数台でしょうか。以前に、どこかの道の駅で会った夫婦の姿を見かけました。

■京都市伏見区の「醍醐寺」に向かいました。7:30に出発して、醍醐寺に8:32に着きました。駐車場が空いていたためすぐに入ることができたのですが、開門は9時からでした。しばし待つことになりました。霊宝館の門や三宝院の唐門があります。仁王門のところで拝観券を事前に買いました。駐車料金は700円でしたが、伽藍だけの拝観は600円です。宝物院と三宝院と霊宝館を一緒に拝観すると1,500円とのことですが、私のメインの目的は伽藍にある五重塔です。

 9時5分前に入場ができるようになりました。数十人の人が待機していましたが、一斉に入場です。みなさん、事前に券を購入したようです。落ち葉が多いですが、路面は綺麗に掃き清められています。しかし、紅葉は未だといったところです。すぐに五重塔が見えて来ました。951年に完成した国宝となっている京都府下最古の建造物です。総高さ38mあります。


醍醐寺/仁王門

醍醐寺/仁王門から入る

醍醐寺/五重塔

京都国際会館

醍醐寺/清滝宮

醍醐寺/観音堂

醍醐寺/弁天堂

京都国際会館/イベントホール

 さらに上醍醐の方に向かうと、赤い門が見えて来ました。その先には池があり、弁天堂が見えます。うっすらとした紅葉の中に弁天堂が浮かんでいました。美しいですね。橋を渡り、弁天堂内で参拝、写真撮影禁止の張り紙がないと思い、撮影をして怒られました。大覚寺では室内や仏像のほとんどが撮影可能でしたが、お寺によって違うものですね。フラッシュを使った訳でもないのですが、何故、撮影禁止なんでしょう。

 醍醐寺は、醍醐山(笠取山)の麓に広がる広大な敷地を有する真言宗醍醐派総本山の寺院です。創建は874年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が開いたと伝わります。多くの密教修験者の霊場として発展しました。本尊は金堂にある薬師如来です。下醍醐と呼ばれる伽藍から1時間ほど登ると、薬師堂や開山堂などがある上醍醐に至ります。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が有名ですね。

■京都市左京区にある「国立京都国際会館」に向かいました。建築コンペによって選ばれた大谷幸夫の設計による1966(昭和41)年の作品です。その後、同氏の設計により1972年と1985年と1998年に増設されました。大谷幸夫は、丹下健三の元で活躍した人ですから、明らかに丹下風の偉容を示しています。氏は2013年に亡くなりましたが、2018年度には、日建設計による多目的展示ホールの竣工が予定されています。全体で延べ床面積5万平方メートル近い巨大施設です。

 駐車場は空いていました。800円が高いのかも知れません。キャンピングカーが複数台います。停泊可能なのでしょうか? その向かいには、「京都宝ヶ池プリンスホテル」がありました。1986年の村野藤吾の作品です。対照的な佇まいを見せています。現在は、グランドプリンスホテル京都と名称が変わっています。京都国際会館に入ろうと思ったのですが、学会が開かれていて、関係者以外入場禁止になっていました。横の入り口が開いていて、入ることができたのですが、先に進むことができませんでした。残念なことです。

■同じ左京区の「下賀茂神社」に向かいました。下賀茂神社は、正式名称を賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といいますが、上賀茂神社とともに奈良以前の日本の歴史と関わりが深い神社です。賀茂氏は、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)を始祖とする天神系氏族ですが、賀茂建角身命は玉依姫命の父とされています。玉依姫命は、『山城国風土記』では上賀茂神社祭神となる賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母とされていますが、神武天皇の母ともいわれますから、伝えられた文字がなかった日本の古代前史の混交が現れています。


グランドプリンスホテル京都

下賀茂神社

下賀茂神社/本殿上の狛犬

下賀茂神社/相生社にて

下賀茂神社/出雲井於神社

京都御所にて

 下賀茂神社の本殿の上の狛犬が鮮やかですね。相生社は縁結びの神として知られています。横にあった「小さき夫婦の像」は、赤白のヒモで結ばれていました。境内には摂社の出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)がありました。山城国愛宕郡出雲郷の総社だった神社とされていますが、「井於」(いのへ)とは「鴨川のほとり」のことですから、そこに出雲郷があり、出雲神社がある訳です。またもや出雲ですね。

■次は京都御所です。京都御所には何度も来ています。十数年前にも、特別公開の際に訪れた記憶があります。京都御所の駐車場は空いていました。3時間で500円ですから、廉価といえます。今出川門から出て、同志社大学構内に入りました。門横の警備室で聞くと、どうぞ見学はご自由にということでした。

 同志社大学は、新島襄が1875年に創立した同志社英学校を前身とする大学ですが、NHKの大河ドラマでも取り上げられました。1894年に建てられたドイツ人R.ゼール設計の「クラーク記念館(旧神学館)」、1886年に建てられたD.C.グリーン設計の「同志社礼拝堂(チャペル)」、同じグリーン設計による1884年の「彰栄館(しょうえいかん)」や1887年の「有終館(ゆうしゅうかん)」など、レンガを基調とした建物郡が並んでいました。京都の街中にこのような環境の学び舎があることは素晴らしいですね。

■そのまま歩いて、「京都府庁旧本館」に行って見ました。ここでも警備員に聞くと、どうぞご自由に見学して下さいということでした。しかも、旧知事室が開放中で、案内もしてくれるそうです。京都府庁旧本館は、京都府の技師だった松室重光の設計により、1904(明治37)年に竣工した建物です。旧議場は現存する日本最古の議場とされています。旧知事室に行くと、案内をするかと言われましたが、自由に堪能させて頂きました。ルネサンス様式の建物といわれています。

 続いて、中京区の「ハリストス正教会」に向かったのですが、判りません。止むを得ず、「京都文化博物館」に向かったのですが、「京都市庁舎」に着いてしまいました。歩いている途中、「日本聖公会聖アグネス協会」や「金光教烏丸協会」などが気になりました。一旦、京都御所の駐車場に歩いて戻り、確認して、車で再度、京都ハリストス正教会に向かいました。すると、ハリストス正教会は改修中で、足場に覆われていました。1901(明治34)年に、京都府庁旧本館と同じ松室重光の設計により、正教会の京都聖堂として建てられました。日本最古級の本格的ロシア・ビザンティン建築といわれています。

■車で、「知恩院」に向かいました。神宮通から入ったのですが、もの凄い人だかりです。どこも駐車場が空いていません。しばらくうろうろと探したのですが、なんとか少し離れた仁王門通りの駐車場に駐めて、歩いて知恩院に向かいました。しかし、着いたのが16:10のため、入場終了となっていました。夜間照明があり、17:30から再入場できるようですが、諦めて総門を撮影して戻ることにしました。


同志社大学/弘風館

同志社大学

同志社大学/クラーク記念館

同志社礼拝堂

京都府庁旧本館

京都府庁旧本館

聖アグネス教会

同志社大学/彰栄館

京都府庁旧本館/知事室

 知恩院は、浄土宗を開いた法然が没した後、ゆかりとされた地に建てられた寺院ですが、このように壮大な構えになったのは、江戸時代以降のことです。法然は、13歳で比叡山に登りましたが、源光や叡空、皇円などに師事した後、『専修念仏』に目覚め、43歳の時に比叡山を下りて浄土宗を開きました。古い仏教勢力からの攻撃を受け、一時は流罪となりますが、80歳で亡くなり、この地に廟が作られました。その後、火災や応仁の乱などで消失、移設されたこともありましたが、浄土宗徒であった徳川家康の庇護を受け、続く徳川歴代の京都における偉容を示すモニュメントとして維持されました。

 隣には、「青蓮院(しょうれんいん)」がありました。青蓮院は、三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされ、皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院として知られています。開基は伝教大師最澄ですが、江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」ともいわれます。法然の弟子で、浄土真宗の開祖となった親鸞が9歳で得度した寺としても知られています。親鸞亡き後、親鸞のひ孫の三世覚如が本願寺を開きますが、八世蓮如が現れるまでは、その本願寺も青蓮院の末寺に過ぎませんでした。今日の隆盛からは想像もできません。親鸞御廟や蓮如誕生の碑がありました。

■帰り道、平安神宮の鳥居を見て、仁王門通りに来ると、「寂光寺」があり、そこには本因坊の碑がありました。寂光寺は、左京区にある顕本法華宗の本山で、二世の算砂日海が囲碁の名手だったため、信長、秀吉や家康の指南役も務めたという、本因坊発祥のお寺です。車に戻り、京都文化博物館は諦めて、「城南宮」に向かいました。しかし、とんでもない渋滞に巻き込まれてしまいました。これは諦める他ありません。果てしない渋滞が続きます。

 ほとんど進まないため、諦めて先に食事をすることにしました。ついでに、宇治市のスーパーで朝食用の買物もしました。みかんやバナナなども買いました。城陽市の丸亀製粉うどん店で、うどんや天ぷらと鯖焼き寿司などを頂きました。停泊予定の道の駅/針テラスに電話をして、22時までの浴場を確認。恐らく着くのは21時ころになると思ったのですが、天理を過ぎた辺りから、自動車専用道路となり、一気に着くことができました。時刻は、それでも20:28。

 事前情報では、道路向かいの大型専用駐車場側にコインランドリーがあるはずでしたが、無くなっていました。この道の駅は巨大道の駅です。コンビニや食堂、レストラン、温浴施設があります。2009年には、ここに2泊しました。今回も結果的に2泊しました。ただ、経過年数とともに、施設が古びた感があります。

 寝支度をして、お風呂に入り、20時間営業のコンビニで缶ビールなどを買いました。モバイルルーターが繋がるので、メールチェックなどをして、寝たのは23時半を過ぎていました。雨が降っていましたが、暴走族らしき轟音が夜なか中響き渡っていました。あまり落ち着かない道の駅ですが、京都や奈良に近いため、便利な道の駅です。

金光教烏丸教会

京都市庁舎

ハリストス正教会

知恩院

青蓮院/親鸞聖人誕生の碑

青蓮院

寂光寺
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116 出雲大神宮から貴船、鞍馬、比叡山(2015年11月20日の記録)

■少し前のことになりますが、籠池氏の衆議院での証人喚問のかなりの部分をテレビで観ました。彼の人物像がいかなるものであろうとも、答弁に作為的なものは感じられませんでした。むしろ、質問をする側の限界が目立っていました。与党の質問は、予想通り的外れで、強引な自己解釈が目立っていましたが、維新の党に至っては、悲しいかな、質問をする議員の興奮だけで終わっていました。そして、夜の官房長官の伏し目がちな会見は何を物語っているのでしょうか。

 それにしても、児童に対して、教育勅語を始めとする極端な思想教育を実施していたことを評価していた人々が、風向きが危うくなると、手のひらを返したように非難をし始めるという現実に恐ろしいものを感じます。安倍首相の反論ともいえない記者会見では、かつての大本営発表を思い出させる強引かつ無責任な自己解釈が気になります。記録が残っていないと言い張る役人の姿にも、足尾銅山や水俣病に対する当初の政府・役所の姿に重なります。彼らが主導する憲法改正が、いかに危険極まりないものであるかを示しているといえます。(2017年4月2日記)

■2015年に戻ります。道の駅/ガレリア亀岡はチャペルがある巨大な道の駅でした。施設も巨大ですが、温浴施設を閉じてしまったのはおしいですね。停泊や駐車している車の数は数えきれません。地下にも駐車場があり、道路側と同様に夜間は使えなくなっています。身障者スペースに駐めているキャンピングカーもあります。どうもマナーの悪い人が多いです。無駄なアイドリングも多数あります。

■近くの「出雲大神宮」に向かいました。若干戻り加減となります。一度、通り過ぎてしまいました。横の駐車場に駐めると、ペットボトルを多数持ったおじさんがいました。わき水があるようです。一昨日から、夜間照明をしているらしいですね。惜しいことをしたかも知れません。近くには古墳も多数あります。ここに出雲大神宮がある理由は何でしょう。とはいえ、大神宮といいますが、普通の多少大きな神社程度ですね。

 手水舎の横に、御神水「眞名井の水」がありました。ご神体山の御影山からの伏流水のようです。「皇祖より壱萬年以前 大八洲國國祖神社(おおやしまのくにくにのみおやのじんじゃ)」の立札もあります。「元出雲」や「千年宮」ともいわれる所以でしょうね。神社本庁にも属していないそうです。島根県の出雲大社は、明治時代に至るまでは「杵築大社」といわれていました。そのため、江戸時代末までは「出雲神社」と言えば出雲大神宮を指していたのです。


出雲大神宮拝殿

出雲大神宮本殿

出雲大神宮本殿上の狛犬

大覚寺にて

大覚寺

出雲大神宮の磐座

i出雲大神宮奥の春日社

大覚寺勅使門

 主祭神は、大国主命 (おおくにぬしのみこと)と三穂津姫命 (みほつひめのみこと)ですが、出雲大神宮では、大国主命の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」といいます。三穂津姫命は、高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の后となったと伝えられています。日本史の深い謎を暗示しているかも知れません。

 本殿の両脇に大きな狛犬が鎮座しています。「徒然草」の第236段に、「丹波に出雲というところあり。大社を移して、めでたく造れり・・・・」と記されています。さらに「御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ・・・」とありますが、拝殿前の狛犬は他と変わりません。本殿の上にも狛犬が両脇に鎮座していましたが、向かい合っていて、普通に鎮座していました。

 参拝後、本殿の奥に磐座(いわくら)がありましたので、行って見ました。本殿を囲む紅葉が美しいですね。古墳や他の磐座もあります。みかげの滝という小さな滝もありました。苔むした岩肌から二方向に流れ出ています。車に戻り、半分ほど残っていたタンクの水を捨て、眞名井の水を頂いてきました。勿論、お賽銭も入れさせて頂きました。

■京都北西の下京区の「大覚寺」に向かいました。昨日、通った道を経由することになります。それほどの朝のラッシュにも遭わず、大覚寺に着きました。途中、「渡月橋」がありましたが、普通に車で渡ることができるのですね。嵐山付近はさすがに人が多いですね。今日は金曜日です。大覚寺前の道路は狭かったです。大覚寺の手前300mほどにコインパーキングがありましたが、先に進みました。すると大覚寺の駐車場があり、車を入れるとおじさんが近づいて来ました。500円の駐車料金です。京都の名刹の駐車料金としては良心的ですね。領収書代わりに貰ったのは、交通安全のお札でした。後で気がついたのですが、大覚寺に祈願して納めるものを持ってきてしまったようです。

 本来の入り口である表門は改修中でした。横の参拝者入り口から入ると、いきなり豪華な駕籠が置いてあり、その背面に狩野永徳のふすま絵がありました。後宇多法皇が使用したという駕籠です。大覚寺の拝観料も500円でした。しかし、見所が多いですね。大覚寺は、嵯峨天皇の離宮を寺に改めたため、嵯峨山と号されますが、鎌倉時代に入ると法皇や後宇多法皇がここで院政を行ったため、嵯峨御所とも呼ばれた皇室とのゆかりが深い寺院です。そのため、ふすま絵に限らず、建物や庭も格式があり見事です。

 南北朝時代は、北の持明院統に対して、南が大覚寺統といわれ、三種の神器が大覚寺で引き継がれていた歴史があります。中は裸足で歩くのですが、外に出た縁台も含めて実に綺麗に拭き上げられています。庭の先に唐破風の勅使門が見えました。法隆寺の夢殿を模して再建したという勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)からは、ヒモが延びてきていました。大沢池からの眺めも素晴らしいですね。すっかり堪能してしまいました。

■続いて、京都上京区にある「北野天満宮」に向かいました。ナビは、山側の道を進めます。古墳などがある細い道を経由しました。北野天満宮に着きました。神社の駐車場は無料が基本です。牛の像があちらこちらにあります。太宰府に流され亡くなった菅原道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の官位を復し、正二位を贈りましたが、947(天暦元)年、この北野の地に社殿を造営、987(永延元)年には、一条天皇は「北野天満宮天神」の称が贈り、993(正暦4)年には正一位・右大臣・太政大臣を追贈しています。豊臣秀吉による北野大茶湯会も有名ですね。奥の地主神社から見た、本殿、拝殿の流れが美しいですね。

■続いて、京都市北区にある「北の玄武・上賀茂神社」に向かいました。駐車場から入ると、遠くに神山(こうやま)が見えます。上賀茂神社の御神体ですね。紅葉が美しいところです。拝殿の手前の細殿(ほそどの)の前にある二つの立砂(たてずな)が印象的です。円錐形の神山を模した憑代(よりしろ)ともいわれています。本殿は良く見えません。本殿に向かって右側に伊勢神宮の遙拝所がありました。祭神は、神武天皇の母ともいわれる玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢(にぬりや)を床に置いたところ懐妊し、生まれた賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)とされています。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいわれています。

大覚寺にて

大覚寺にて

大覚寺の勅封心経殿

大覚寺にて

北野天満宮の楼門

北野天満宮の三光門

北野天満宮本殿

■昼近くになりましたが、京都市左京区にある「貴船神社」に向かいました。時間がもったいないので、昼食はコンビニ弁当です。川に沿った狭い山路に入りました。食事処が並んでいます。さかんに手招きをしていますが、食べてきてしまいました。私は食に余り興味を覚えません。鞍馬寺西口の案内看板もありました。山を越えて、ここから鞍馬寺に行けるようです。貴船神社の本社の駐車場は小さく、満車でした。奥宮が500m上にあり、その駐車場が空いていると教えて貰いましたので、奥宮から参拝することにしました。道が狭く、参拝客も多く、通行が大変です。途中の客引きもひっきりなしです。

 奥宮の駐車場の手前100m位の川の向かいに広い空き地があり、渡り橋もありました。車が7〜8台駐まっています。古事の森と出ていますが、駐車可能なようです。500円が助かりました。ここは無料です。奥宮から参拝です。苔むした「御船型石」が本殿の横にありました。さらに歩いて「中宮(結社:ゆいのやしろ)」です。参道らしい参道はなく、川横の道路を主に歩くことになります。

 社伝では、玉依姫命が黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったが始まりとされています。御船型石が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝わっています。地域名では貴船(きぶね)と濁りますが、神社名は貴船(きふね)とされるのも面白いですね。縁結びの神として知られることからか、若い方が多いです。

 貴船神社は、闇○神(くらおかみのかみ)を祭神とする奥宮と磐長姫命(いわながひめのみこと)を祭神とする中宮(結社)と高○神を祭神とする本宮の3カ所に分かれています。闇○神は、高○神の別名ともいわれています。磐長姫命は、大山祇神(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉ですが、木花開耶姫は天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)と妻ですから、歴史を感じますね。日本史の始まりがここには眠っています。(○は上から<雨+口が3つ+龍>と書きます)


上賀茂神社から見た神山

上賀茂神社にて

上賀茂神社の細殿と立砂

貴船神社中宮の天乃磐船

貴船神社中宮(結社)

貴船神社奥宮

上賀茂神社の楼門

貴船神社本宮へ

■貴船神社の本宮の参拝の後、「鞍馬寺」の登り口に行ってみました。入り口に受付があり、300円の入山料が掛かるとのことです。約550mを登山すると、鞍馬寺の奥の院があり、その先850m程度で鞍馬寺の本殿まで、計1.4kmの登山となります。本殿から400m程度で多宝塔があり、本殿から別な道を750m程度歩くと、由岐神社を経由して仁王門となるそうです。パンフをみると多宝塔から仁王門にはケーブルカーがあるようです。

 挑戦することにしました。確かに登山となりました。行き交う人も多いですね。かなりの登りとなります。鞍馬寺を奥の院からお参りするとは思っていませんでした。大汗の登山となりました。奥の院からは下りの石段です。こちらは歩きやすいですね。本殿に着きましたが、鞍馬寺のイメージとはかけ離れた雰囲気ですね。本殿から多宝塔までは400m位ですが、なだらかそうなので行ってみました。美しい多宝塔です。多宝塔からはケーブルカーで仁王門に行こうと思ったのですが、ケーブルカーは改修中でした。多宝塔まで行って、仁王門は次回のお楽しみとしました。時間があれば、車で回り込むことも考えられますが、そこまではしませんでした。

 実は、今日のペースなら、余裕を持って予定外の三千院に行こうと考えていたのですが、とんでもないことでした。結局、貴船から鞍馬、そして貴船に戻って3時間近い登山となりました。帰りは、下りが多いため、少し楽でした。車に戻り、セーターとシャツを取り替えることになりました。

 鞍馬寺は、京都府京都市左京区にあります。開基は鑑真の高弟だった鑑禎(がんてい)とされていますが、藤原南家の出身の藤原伊勢人が夢で貴船神社の神の託宣を受けて創建したとの説もあります。天狗と義経の逸話はあまりに有名ですね。一度、来てみたかった寺院でした。

■三千院は諦めて、大津市の「比叡山延暦寺」に向かいました。道が少し混んでいます。比叡山有料道路に入りました。カーブが多いですが、道幅が広く、非常に楽ですね。山頂で、琵琶湖を遠望しましたが、霞んでいます。比叡山の駐車場に着きました。とても大きな無料駐車場です。着いたのは16:10でしたが、閉まっています。看板には16:30〜翌朝まで閉鎖となっていますが、閉めてしまったようです。先に付いていた年配の夫婦が、横が空いているから入ろうと言っています。なるほどと思い、自分も入らせて貰いました。後で分かったのですが、どうぞ入って下さいということでした。

 拝観料の700円を払わずに済みましたが、根本中堂などの中に入ることは出来ません。着いたときは閉めかけているときでした。ただ、建物は外からは見ることができます。大講堂では中に入って、参拝することもできました。大講堂の今日最後の参拝となったようです。戒壇殿、阿弥陀堂なども見学しました。紅葉は、まだ少し早いかも知れませんが、落葉がかなり進んでいます。

 比叡山延暦寺は、最澄が開いた日本天台宗の本山寺院です。空海が開いた高野山金剛峯寺と並ぶ平安仏教の中心として栄え、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など新仏教の開祖がここで修行をしたことが知られています。特に神仏習合にあった密教による加持祈祷は、平安貴族の支持を受け、天台座主とよばれる住職(貫主)は、皇族や将軍家から就くことが多くなっていました。中には、一度、天台座主となった後に還俗して将軍となった尊雲法親王(還俗して護良親王)や、義円(還俗して足利義教)などの例もあります。


貴船神社本宮

貴船神社本宮

鞍馬寺へ

鞍馬寺奥の院に向かう

鞍馬寺奥の院に向かう

鞍馬寺/奥の院魔王殿

鞍馬寺/本殿金堂

 平家物語では、強大な権力で院政を行った白河法皇が自分の心のままにならぬものとして、「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と語った逸話が残っています。当時、僧兵らによって武装化した延暦寺は、自らの意に沿わないことが起きると、神輿を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していたのです。その神輿に矢が当たった祇園闘乱事件では、平清盛に対して配流を求める延暦寺の強訴が起きましたが、鳥羽法皇の庇護により助かったという逸話が残っています。

■車に戻ったときは、すっかり薄暗くなっていました。温浴予定先の滋賀県守山市のほたるの湯に電話をしました。入浴ラストは25時、食事のラストも23時と遅くまで営業しています。暗くなった比叡山ドライブウェイを下りました。途中、棚田がありましたが、暗かったので撮影は不可でした。出口で、改札があり、事前に印刷しておいた割引き券が有効でした。今回事前に用意した割引券が始めて使えた瞬間でした。2,380円のところが2,000円でした。とはいえ、ちょっと高いような気もします。

 時間帯もあり、交通は渋滞状況です。念願の有料200円の「琵琶湖大橋」を渡り、ほたるの湯へ向かいました。18:11にほたるの湯に着きました。入り口が判らず、苦労しましたが、なんとか入ることができました。今日は、先に食事です。ぜいたく丼を頼みました。ミニ天丼、ミニしらす丼、ミニネギトロ丼の3種類の丼ものと寄せ鍋風のうどんとマグロが入ったサラダなどが付いています。1,050円と食べ過ぎのような気もしましたが、今日の登山を考えると良いかなと思いました。データを整理して、20:30に浴場です。

 浴室は広く色々ありますが、ジャグジー系は余りありません。マッサージ機が充実しています。アルバイト店員は京言葉で可愛いですね。ゆったりと22時頃まで堪能しました。停泊の道の駅/アグリの里栗東は約4.1km離れています。途中、暗く細い道に入ってしまったため、少し迷ってしまいました。暗い道が多いですね。道の駅自体は、思いの外、大きな道の駅でした。すぐ近くをJRが走るので少し五月蠅く揺れていました。

鞍馬寺/多宝塔

比叡山有料道路にて

比叡山延暦寺/大講堂

比叡山延暦寺/阿弥陀堂と東塔

比叡山延暦寺/戒壇院

比叡山/根本中堂

比叡山延暦寺にて
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115 本州に戻り、神戸、大山崎、京都(2015年11月19日の記録)


神戸メリケンパーク
フィッシュダンス
■南スーダンの問題の底には、伝統宗教(アニミズム)とイスラム教とキリスト教などの宗教対立に石油の利権が関わっていることにあります。そこにアメリカやヨーロッパの横暴が加わり問題を大きくしてしまいました。日本国内では、総理の奥さんまで出てきた森友学園問題や、防衛大臣の不用意な発言などで国会は紛糾しています。東京都の豊洲問題も目が離せないですね。そんな折り、アメリカの国務長官が来日していましたが、すっかり影が薄くなった感があります。

 ドイツではG20が開かれていましたが、共同声明では保護主義の文言が削られてしまいました。アメリカでは、現トランプ政権はメキシコとの国境に塀を造る予算はしっかりと組んでいますが、気象変動問題を扱う環境保護局の予算を3割もカットするということです。地球温暖化などはデマと信じて疑わない発想はどこから生まれるのでしょうね。さらに、ドイツのメルケル首相との会談では、握手を拒んでいましたが、毅然としたメルケル首相の態度が印象に残りました。相性が会うのが本当に良いのでしょうか?(2017年3月19日記)

■2015年に戻ります。道の駅/あわじは大きな道の駅でした。停泊は数台程度でしょうか。雨は上がったようです。ゴミ処理もできる道の駅です。ここに停泊していたのでしょうが、隣に大阪ナンバーの軽自動車がやって来ました。札幌ナンバーを見て、声を掛けてきたようです。定年後、12年間、毎年、旅行しているそうです。軽ですが、キャンピングカー仕様になっています。色々と装備をして、あちこちに点滅するLEDを付けて光らせています。凄いですね。1トン以上の荷物を積まないと、軽では、横風を受けて危ないとのことでした。ハイオクで13km走るといいますから、さすが軽ですね。とはいえ、私のヴォクシーも2000CCですが、全行程を通じて11.86km/リットル走りました。

 5:23に起きたのですが、6:53に出発、神戸に向かいました。停泊したのはインターの下の道の駅でしたが、少し戻る必要があります。淡路ICから鳴戸大橋に乗り、垂水ICで降りました。しかし、そこからが大変でした。ナビの案内は、立体的には不安定になるからです。目指したのは、神戸港メリケンパークの「フィッシュダンス」だったのですが、フィッシュダンスの近くで、バイパスの降り口を過ぎてしまい、ポートアイランドまで来てしまいました。そこからも何度も失敗しながら、やっとのことでフィッシュダンスに着きました。近くに駐車場が見つかりませんでしたが、丁度、バスの転回場がありそこに一時的に駐めて撮影をさせて貰いました。

 フィシュダンスは、1987(昭和62)年に神戸開港120年を記念して設置された高さ22mの巨大な鯉のオブジェです。スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館などを代表作とするフランク・ゲーリーが設計、安藤忠雄が監修をしたという作品です。隣には「フィッシュダンスホール」という多目的ホールが同時に建てられています。亜鉛メッキ製のメッシュで作られていましたが、錆びが発生したことから、設計者に無断でピンクに塗り替えたところ、多くの批判を受け、シルバーに戻したとのことですが、やはり赤さびが目立っています。海沿いに亜鉛メッキ製の金網を選択したことがそもそもの問題のような気がします。簡単に撮影をして車を出したところで、バスがやってきました。危ないところでした。

■そのまま海岸通りを走り、「兵庫県立美術館」に向かいました。途中、2009年に訪ねた歴史的建築物が幾つかあります。兵庫県立美術館は、河口に開いた景観にあります。前面の海に接するなぎさ公園と一体化して、2002年に安藤忠雄の設計で完成されました。漫画チックなモニュメントが少し気になります。巨大な施設です、全体を撮影するのは難しいですね。撮影していると、中学生風の男の子に道を聞かれたが、私も良く分かりません。

■新神戸駅に向かいました。車を駅前の駐車場に駐めました。目的は「布引の滝」なのですが、ルートが分かりません。2階に観光案内がありましたので、そこで道順を教えて貰いました。1階に降り、ガード下を潜って公園に向かうとのことでしたが、何となく駐輪場に出てしまいました。少し前に保育園生の集団が歩いていましたので、その方向に行ってみました。それが正解でした。


兵庫県立美術館

布引の滝(雄滝)

布引の滝(雄滝)

布引の滝(遊歩道)

布引の滝(雌滝)

小笠原流家元会館

小笠原流家元会館の陶器ブロック

 ガード下を潜ると、公園の斜路に出ました。結構な登りの石段が続きます。10分未満で、布引の滝/雄滝に着きました。確かに美しい滝ですね。2段になっています。布引の滝(ぬのびきのたき)は、六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)の四つの滝の総称です。

 日本三名瀑といわれるのは諸説ありますが、最も有力なのは、日光の「華厳の滝」、熊野の「那智の滝」、奥久慈の「袋田の滝」です。しかし、その袋田の滝を外して、布引の滝を入れて「日本三大神滝」という見方もあります。神戸市内ほど近くにこのような環境があるというのも素晴らしいですね。領域内にある滝勝寺は、役小角が開いた修験行場とも伝わっています。多くの和歌が残された滝としても有名ですね。

■次は、神戸市東灘区にある「小笠原流家元会館」に向かいました。1962年の清家清の作品です。現在は、閉館されていますが、思いがけなくに、すぐに着いてしまいました。駐車場はありません。交通量が多い曲線の道路沿いにありましたが、道路の反対側にスペースがあり、そこから撮影させてもらいました。幾何学模様の陶器ブロックが象徴的です。残念ながら、ゆったりと鑑賞することはできませんでした。

■西宮市池開町の「武庫川女子大学」に向かいました。途中、右手に甲子園球場がありました。間もなく武庫川女子大学の「建築スタジオ」の偉容が見えて来ました。駐車場が見あたりませんでしたので、裏通りに廻り、車が数台駐まっていましたので、そこに車を駐めました。途中、気になる門構えがありましたが、一度、表側に歩いて行って見ました。

 フランク・ロイド・ライトはあまりにも有名な建築家ですが、幾多のスキャンダルに見舞われ仕事が激減していたとき、1913年に帝国ホテルの設計を依頼され来日しますが、大幅な建設費の高騰と工期の遅れなどを要因として、1923年の竣工までその任を継続することはありませんでした。ライトの手を離れた帝国ホテルの設計を完成させたのは、遠藤新らのライトの弟子たちだったのですが、その遠藤新が新たに設計して完成したのが、1930年竣工の「甲子園ホテル」でした。

 その後、甲子園ホテルは、海軍病院、米軍の宿舎・クラブとして利用されましたが、1965年に武庫川学院の所有となり、耐震改修を含む大規模改修を経て、武庫川女子大学のキャンパスとして生まれ変わりました。そして、キャンパス内に2007年に建設されたのが、日建設計による建築スタジオです。建築スタジオもダイナミックな建物ですね。


武庫川女子大学「建築スタジオ」

武庫川女子大学付近の建物

旧甲子園ホテル

旧甲子園ホテル内部

旧甲子園ホテル内部

旧甲子園ホテル内部

旧甲子園ホテル外壁

旧甲子園ホテル内部

 車に戻り、通った時に気になった門構えのところに行くと、遠藤新の旧甲子園ホテルが見えて来ました。素晴らしいですね。帝国ホテルとうり二つの佇まいを見せています。写真で何度も見た建物です。門のところから撮影をしていると、ガードマンから声を掛けられました。何と、今日は内部撮影が可能な日だそうです。

 400〜500mほど離れたところにあるコインパーイングを教えて貰い、車を駐めて来ました。何故か、同じ雰囲気のデザインの大きな住宅が向かいにあります。受付をしてアンケートを貰って、中に入ることができました。何とラッキーなことでしょう。今日は、イベントの最中で、展示会も開催されていました。講堂では、合唱の練習の最中でした。ロビーには、照明のグローブが展示されています。とにもかくにもライトの建築がそこにありました。

 左右に尖塔を配したシンメトリーな正面玄関は、旧帝国ホテルと同じ古代遺跡を思い起こさせてくれます。外壁に使われた日華石(にっかせき)は、石川県小松産の火山灰が堆積して形成された凝灰岩です。国会議事堂にも使われたそうですが、こちらは少し黄色みがかった岩肌が、旧帝国ホテルの外装に使われた大谷石に似ています。アールデコ風の照明や装飾デザインとライト譲りの直線の壁面装飾が落ちつき感を与えてくれます。設計意図を損なわないメンテナンスが継続されています。建築科もあるようですが、素晴らしい環境ですね。1時間近く堪能してしまいました。

■当初の予定は、ここから亀岡方面に向かうつもりでしたが、まだ昼前でしたので予定を変えて大山崎に向かうことにしました。車で「アサヒビール大山崎山荘美術館」に行ってみましたが、やはり車を駐めるところはありませんでしたので、2009年にも駐車した大山崎駅横の公共駐車場に車を入れました。大山崎駅前には、「妙喜庵・待庵」がありますが、一ヶ月前の予約が必要です。2009年と同様に、門構えだけ撮影して、歩いて「大山崎町歴史資料館」に向かいました。

 大山崎町歴史資料館には、待庵のレプリカがあります。前回は、資料館が休みだったため涙を飲みましたが、事前情報通りに開いていました。事前情報と異なったのは、入館料が200円から300円になっていたことです。ガイドのおじさんがいて、しっかりと説明をしてくれます。天王山の説明から、嵯峨天皇、後鳥羽上皇の離宮の話題と続きます。とても長く、遮ることが難しいですね。興味がないわけではないのですが、今日の目的は待庵のレプリカです。

 レプリカは、室内に展示されているため、綺麗な状態でした。空間を広く見せるために、隅柱がないことや、2畳しかない茶室の天井を3つに分けていることなど、こちらもゆったりと説明を聞いてしまいました。すっかり長いをしてしまったことになります。残念なことに、内部は撮影禁止でした。待庵は、日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作といわれる唯一の現存茶室です。機会があれば実物を訪れてみたいものです。

■そこから歩いて再び山荘美術館に向かいました。紅葉が見事です。アサヒビール大山崎山荘美術館は、ニッカウヰスキーの設立にも参画した加賀正太郎が大正から昭和初期にかけて建設した大山崎山荘を、アサヒビールが山荘を復元し、美術館として再生、安藤忠雄氏設計の新棟「地中の宝石箱」などを加えて、1996年4月に開館した施設です。紅葉の中に埋まった自然な景観の中にありました。

■さらに、歩いて「聴竹居」に向かいました。事前に調べてあったのですが、なかなか見つけることができませんでした。行ったり来たりをしたのですが、心機一転、一旦スタート地点に戻り、事前情報を確かめながら、先に進むと、林の中に佇む聴竹居を見つけることができました。決められた事前申込みでなれば、内部を見ることはできません。藤井厚二という建築家が設計して、1928(昭和3)年に完成した建物です。環境共生住宅の原点という考え方をする人もいます。雰囲気を味わっただけでしたが、仕方がありません。


旧甲子園ホテル内部

旧甲子園ホテル内部

旧甲子園ホテル外部

旧甲子園ホテル外部

旧甲子園ホテル

旧甲子園ホテル

妙喜庵入り口

■一度行ってみたかった洛西の竹林に向かいました。京都市洛西竹林公園です。写真で何度も見た竹林がありました。暖かい時期に来てみたいところですね。近くにある「桂キリスト聖堂」に向かいました。桂離宮も近くにあります。しかし、どうも見つかりません。少し行ったり来たりをしてしまいましたが、住宅街の中に桂キリスト聖堂がありました。すっかり白く塗られていて綺麗になっていたため、気がつきませんでした。ジョージ・ナカシマの設計による1955年の作品です。

■松尾大社が近いので寄ってみました。パトカーがずっと後ろから付いて来ます。京都は、四神相応の考え方で、「北の玄武・上賀茂神社」、「西の白虎・松尾大社」、「東の蒼龍・八坂神社」、「南の朱雀・城南宮」が比定されています。そこに平安神宮を加えて「五社巡り」などもいわれていますが、東の八坂神社に対峙する形で鎮座するのが松尾大社です。参拝後、少し暗くなってきました。時刻は17時近くです。

■予定していた亀岡市の「出雲大神宮」に向かったのですが、車が混んでいて無理なようです。明朝に廻すことにしました。予定の湯の花温泉渓山閣に電話をしました。レストランは使えませんが、20時までは入浴受付とのことです。途中に、道の駅/ガレリア亀岡があるので一旦停車して、準備です。ここは2009年にも停泊した道の駅です。相変わらず、道路側の駐車場を夜間利用できないようにしていますが、びっしりと車が駐まっていますので、そのルールが守られている可能性はないでしょうね。

 しかし、2009年に来たときは、近くにはあまりレストラン等がなかったのですが、随分と増えています。2009年には、施設内にある温浴施設で入浴をしましたが、現在は閉鎖されています。これだけ多くの車が来ているのに、閉鎖しなければならなかった経営感覚が理解できません。ここは、確か公営でしたね。近くにあったガストで食事をすることにしました。データ整理などをして、湯の花温泉渓山閣に19時半ころに着きました。20時まで受け付ければ、0時半まで入っていて良いとの説明でしたが、そんなには入っていられません。浴場は広く綺麗です。露天風呂にもジャグジー付きと立派な温泉ホテルです。これで700円は安いですね。

 道の駅/ガレリア亀岡に戻ったのは、21時過ぎでした。もの凄い車の量です。夜間駐車禁止も何もありません。自分は、規則を守ったつもりでしたが、身障者の駐車場にもキャンピングカーが駐まっています。何となく騒がしい道の駅です。モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックと自動車保険の継続申請をネットで申し込みました。今日はノンアルコール日となりました。

大山崎町歴史資料館

大山崎山荘美術館

大山崎山荘美術館にて

松尾大社

桂キリスト聖堂

洛西竹林公園

聴竹居の外観
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114 徳島県の轟の滝から、淡路島のイザナギ神宮、垣内遺跡(2015年11月18日の記録)


徳島県海陽町「轟の滝」
■政府は南スーダンからの撤収を決断しました。国会における防衛大臣の「戦闘認識」の説明と同様に撤収の理由は論理破綻をしていますが、撤収をしないためには憲法の改正が必要だとの論理飛躍が心配されます。森友学園を巡る問題でも、問題化したくないための妄言や開き直りが続いていますが、そろそろ限界が見えてきましたね。(2017年3月12日記)

■2015年に戻ります。道の駅/宍喰温泉で、4時ころにトイレに起きたときは、抜けるような星空でした。少し暑苦しい夜だったため、薄着だけで寝ていたのですが、うっすらと寒くなり、ジャージを着て寝直しをしました。途中のトイレタイムのためか、長時間寝たにも関わらず、寝起きがあまり良くありませんでした。しかも、朝起きたときは、小雨がパラついていました。停泊は、7〜8台程度でしょうか。海は穏やかです。

■徳島県海陽町の「轟の滝」に向かいました。大地を震わす瀑音からその名が付いたとのことですが、王餘魚谷川(かれいたにがわ)水域にあることから、余魚(カレイ)滝ともいわれる落差58mの四国一の大滝です。上流には二重の滝・横見の滝など大小さまざまな滝があり、轟九十九滝と総称されています。昨日の道を8kmほど戻り、コインランドリーの少し手前で山側に入りました。そこから15kmほど広い道を進んだのですが、残り10kmほどで狭い道が現れ始めました。しかし、対向車はほとんどなく走りやすいですね。しかも、滝の看板が至る所にあり、安心感があります。

 かなり山に入ったところで、轟の滝の駐車場に着きました。車で少し先に進んでみましたが、駐車禁止の看板があります。駐車場に戻り、登山靴に履き替えて歩き始めると、夫婦連れが乗った京都ナンバーの車が私を追い越して行きました。車は構わず先に進んでいきます。すると、駐車禁止の看板があった先に、舗装された別な駐車場があり、多数の車が駐まっていました。そんなこともあります。スポーツカータイプの高級外車も2台駐まっています。多くの住民の方の車が駐車されているようです。辺りには放し飼いにされた犬がうろうろしています。いずれも大人しい犬ですが。。。8時を少し過ぎた時刻です。

 滝の案内がありました。先に向かって川の左側を進むと、鉄板を敷いた渡り橋がありました。橋が落ちかかっているので、車で渡らないようにとの看板がありますが、先に車が一台駐まっています。橋を渡らずに、川に沿って進むと、ロープが張り巡らされた別な橋がありましたので、その橋を渡りました。何となく不安を感じますね。川に沿い、さらに進みます。川には巨大な岩が多数転がっています。地蔵もあります。右手に行くと、竜王寺や轟神社があるようです。滝の案内本では、10分程度とのことでしたが、すぐに鳥居が見えて来ました。轟音が響いています。滝本体がご神体となっています。

 鳥居の先で、賽銭を入れ参拝をしました。さらに少し先に進むと、滝のしぶきが漂っています。岩の割れ目に大きく2方向の水が轟音とともに落ちています。確かに轟きの滝ですね。川の岩を伝い、さらに先に進んでみました。岩間に滝が流れ落ちる部分が見えて来ました。深い碧色の先が霞んで異世界のようにも見えます。感動的な雰囲気です。辺りは誰もいません。しぶきも凄いですね。カメラが濡れます。


轟の滝

轟の滝

轟の滝

轟の滝/奥に異世界が。。

あわぎんホール

大塚国際美術館/少しだけ見える

 今回は、行きませんでしたが、轟九十九滝といわれるように、複数の滝があります。ネットで調べると、二重の滝は美しい滝ですね。全部廻ると、2〜3時間の山歩きとなるようです。毎年11月の第2日曜日には秋祭りが行われ、御輿が滝壺に入る滝渡御(たきとぎょ)があるそうです。機会があれば、また訪れたいところです。帰り道、年配のおばさんと挨拶をしました。相方のおじさんは、三脚で川の流れを撮影していました。リュックを背負っているスタイルから、滝巡りをするようです。雨はほとんど降っていませんでしたので、傘はなしで済みました。

■続いて、徳島市内に向かいました。丁度、雨が降ってきました。国道に出ると、すぐに昨日のコインランドリーが目に入りました。ほぼ27km程度を戻ったことになります。轟の滝からは、100kmほど走ったところで、昼ころに徳島市内の「あわぎんホール」に着きました。あわぎんホールといわれるのは、命名権を阿波銀行に売却したからですが、「徳島県郷土文化会館」が本来の名称です。1971年の西山夘三(うぞう)の設計です。東大の丹下健三に対して、京大の西山夘三と私の学生時代には並び称され、住宅提案や都市計画に注目を集めましたが、最近は話題になることが少なくなりました。あわぎんホールは、西山夘三の力作ですね。年数を経ていますが、管理が良いのか綺麗な佇まいをみせていました。

■次は、鳴門市の大塚国際美術館に向かいました。ほとんど淡路島の対岸にある施設です。着いたのですが、駐車スペースがありません。有料の駐車場が700mも先にあります。後は、大塚グループ関係や施設関係者の駐車場のみです。山の上の方に美術館の屋根と下が少しだけ見えます。入館料が3,240円というから凄いですね。少し迷いましたが、止めることにしました。観光バスが次々とやってきますので、観光ツアー向けの施設ですね。島根県の足立美術館を思い出しました。足立美術館は庭園と横山大観で有名ですが、大塚国際美術館は陶板壁画で有名です。足立美術館では、庭園を観たいという意欲がありましたが、大塚美術館への私の目的は建物です。坂倉建築研究所の1997年の作品です。

 淡路島に向かいました。鳴戸大橋を通ったところで、右手に先ほどの大塚国際美術館が見えてきました。ギリシア神殿風の立柱が見えます。ただ、走行中なので、撮影はできませんでした。淡路南ICで降りて、3kmほど逆に戻り、道の駅うずしおに寄って見ました。鳴戸大橋の下にある道の駅です。橋の下を展望する場所もあります。対岸にうっすらと見えるのは大塚国際美術館ですね。うずしおは、小さなものしか見えません。雨が降っています。数十年前にタイル検品で淡路島に来たとき、車から降りて、橋の上からうずしおを眺めた記憶があります。

■「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」に向かいました。淡路島の中間付近にあります。駐車場に駐めるとバスが入って来ました。意外に大きな神宮です。さすが、日本を造った神様ですね。雨が強くなってきましたので、傘をさしての参拝です。摂社もあり、竈(かまど)神社、根(ねの)神社、住吉神社、鹿島神社などがあります。

 記紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二人が天の浮き橋(あめのうきはし)という天からのかけ橋に立ち、矛(ほこ)で、下界の海を「こおろ、こおろ」と
かき回しましたといいます。その矛を引き上げた時に、したたり落ちた海水が積もってできた島が「淤能碁呂(おのごろ)島」です。その島に降り立った二人は、次々と国を生んでいったのですが、最初に生まれたのが淡路島だったそうです。そして、四国、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順に生んだ八つの島を、大八島というそうですが、ここでは北海道がありませんね。

 祭神は、本来は伊弉諾尊のみを祭っていたのですが、昭和に入って、伊弉冉尊を含めた二神を祭るようになったそうです。二神の逸話では、亡くなった伊弉冉尊を追いかけて、伊弉諾尊が黄泉国まで行ったのですが、その姿を見て逃げ帰ったという逸話が残っています。二神は罵り合ったともいわれます。伊弉諾尊の左眼から生まれたという天照大神が皇室の祖先となりました。史実はともかく、日本の歴史の原点の一つといえます。


鳴門大橋

鳴門大橋の下

小さな渦潮

五斗長垣内遺跡

伊弉諾神宮/本殿

伊弉諾神宮

伊弉諾神宮

五斗長垣内遺跡

■五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)遺跡に向かいました。フリガナがなければ読めませんね。美しい田圃や畑が並ぶ高台の中に遺跡がありました。予想に反して、資料館施設がありました。しかも無料とのことで、入って見ると、7〜8分のDVDがあるので観ますかと聞かれました。地元の高校生が作ったということですが、良く出来ています。終わってからも、案内の女性がしっかりと説明をしてくれます。陳列してある一番大きな鉄器は渡ってきたものらしいですね。当時は、大きな鉄器を造る技術はなかったようです。紀元1〜2世紀に掛けて、渡ってきた鉄器を加工したり、小さなものは製作していたものと思われます。

 垣内遺跡は、兵庫県淡路市黒谷にある東西500m、南北100mの規模の弥生時代後期の遺跡ですが、2001(平成13)年に発見されました。住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡でした。淡路島のような人口の少ない小規模の島で、生活のため以外の大量の鉄器が作られたのは、魏志に記された倭国大乱の時期に重なっていますので、大和王権成立にいたる戦乱期の中でこの施設が軍事利用されていた可能性を指摘する考え方もあります。海が見える高台にあったその施設は、100年程度続いたとのことでした。

 邪馬台国あるいはヤマト王朝が始まる直前の時代に当たる垣内遺跡は、あと2年ほど掛けて調査が継続される予定とのことでした。遺跡内の説明をしても良いと言われましたが、一人で廻ることにしました。遺跡内では、屋内で加工をしていたと思われる小屋にも入ってみました。確かに、海がよく見える美しい高台にあります。予定外の長時間を過ごしてしまいました。

 その後、2017年1月の情報では、淡路市内の弥生時代後期遺跡と見られる舟木遺跡から大型の鉄器工房跡が発見されたとのニュースが流れました。垣内遺跡の北東約6kmに位置しています。垣内遺跡を凌ぐ可能性があるともいわれています。地理的位置からも淡路島の歴史への興味は尽きませんね。歴史は、新たな発見とともに、どんどん遡っていきます。

■道の駅/あわじに向かいました。手前に「松帆の郷」があったので寄ってみました。道の駅とは1km程度しか離れていませんが、かなりの高台にあります。今日の入浴予定施設があるところです。続いて、道の駅に行ってみますと、おみやげを1,000円以上買うと、松帆の郷の入浴料が700円から500円になるとのことです。ついでなので、淡路のおみやげを二つ購入しました。道の駅からの、松帆の郷までの無料バスも走っています。少し迷いましたが、寝支度をして、自分の車で松帆の郷に向かいました。

 車から降りると晴れて来ました。神戸方面の夜景が綺麗なので、撮影をしました。三脚なしの撮影でしたので、少しぶれたかも知れません。今日は、先に食事を取ることにしました。後で、道の駅のほぼ向かいにあったコンビニで缶ビールを買う予定です。味噌カツ丼880円を食べました。肉厚で美味しかったですね。ただ、すべてセルフは良いのですが、どうもぞんざいな雰囲気です。フリーWIFIはありませんでしたが、モバイルルーターが繋がりましたので、メールチェック等。浴場はかなり大きい方です。露天風呂も大きく、しかも鳴戸大橋の夜景が展望できます。素晴らしい設定ですね。堪能させて頂きました。道の駅では、コンビニで缶ビール買い、ゴミ処理をさせてもらいました。雨がまた降ってきました。車で、ビールを飲みながら、9時のNHKニュースを見て寝ました。

五斗長垣内遺跡/出土鉄製品

神戸方面の夜景
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113 高知、室戸岬を経て、四国東岸を廻る(2015年11月17日の記録)


道の駅/にしいや

豊楽寺

豊楽寺/薬師堂

豊楽寺/薬師堂

■「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ」で始まる『教育勅語』は、1890(明治23)年、明治天皇が山形有朋内閣等に対して与えた勅語です。父母に対する孝行や法を守り国家の秩序に従うべきという12の徳目が示されていましたが、戦後の1947(昭和22)年の教育基本法の公布・施行とともに学校教育から排除されました。

 12の徳目すべてに問題があるとはいえませんが、大日本帝国の統治者である天皇が臣民に対して守るべき道徳を示したスタイルであったことに、今日では決定的な欠陥があるといえるでしょう。その後日本は、朝鮮半島を巡る日露対立を始めとして、拡大路線を推し進め、第二次世界大戦での敗北という結果を迎えることとなります。現代において、教育勅語に何かを求めようとする思想、その背景に問題があるといえますが、その教育勅語を幼稚園で暗唱させていたというから驚き呆れるばかりです。さらに、その幼稚園に感謝状を出したという防衛大臣の頭の中がどうなっているのか疑いたくなります。

 安部総理本人は認めたことを否定していますが、「安倍晋三記念小学校」と印刷された振込用紙で寄付集めが行われ、総理夫人がその名誉校長の肩書きでHPに掲載されていた(すでに削除された)ことを考えると、「森友学園」の不当な査定による「国有地売却問題」に関する安倍晋三氏の責任は重大といわざるを得ません。誰がどこで判断をしたのかが問題となるのでしょうが、国会における麻生副総理兼財務大臣の「適正だった」との発言は、無責任の極みといえます。この問題は、国会論戦での解明では期待できません。刑事問題とすべきでしょうね。(2015年2月26日記)

■2015年に戻ります。道の駅/にしいやで起きたのは5:30でした。昨夜、行方知れずとなってしまった目覚ましの音で目が覚めました。助手席の下に潜り込んでいました。小雨が降っています。雲が漂っています。外気温は15度近くあります。一つ離れて空の車が一台駐まっていましたが、停泊した車は他にはいなかったようです。EVカーの充電設備があります。最近は道の駅のかなりの箇所に設置されていますね。車が横に平行ではなく、斜めになっていたのが少し気になりましたが、まあまあ良く寝られました。

■7:00に出発して、高知県大豊町にある豊楽寺(ぶらくじ)に向かいました。道のりは27km程度です。2009年にパスしてしまった豊楽寺は山の上にありました。国道32号線からの入り口を間違えてしまい、行ったり来たりしてしまいました。少し分かりづらい位置にあります。山に入る途中に薬師堂の案内があり、石段がありましたので、そこから歩いてショートカットして行くことができるようです。そのまま車をUターンをするように進めると、かなり大きな駐車場に着きました。トイレもあります。雲に霞む景色は美しいですね。傘をさしての参拝です。施設内は、かなり荒れた感がありますが、観光地化されていないのが良いですね。


高知県知事公館

高知城

牧野富太郎記念館にて

桂浜

牧野富太郎記念館

 豊楽寺は、日本三大薬師の一つとされる真言宗智山派の仏教寺院ですが、724(神亀元)年、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わっています。薬師堂は国宝に指定されている四国最古の建造物です。入母屋造り、柿(こけら)葺き、単層、桁行(正面)5間、梁間(側面)5間です。左横の石段を登ると、屋根全体を見おろすことができました。

■70〜80km先の高知市内に向かいました。高知市内では、いくつか気になった建物がありましたが、今回、目指すのは「高知県知事公館」です。2009年の際には、見つけることができませんでしたので、今回は事前チェックをしっかりとして向かいました。高知城の南側、山内神社近くにあります。塀に囲われているため屋根しか見えません。一方通行のため、一回りをしてみましたが、ちょっと消化不良の見学となりました。高知県知事公館は、村野藤吾設計の1963(昭和38)年の竣工です。数寄屋建築として知られ、公邸と私邸が渡り廊下で繋がっているそうです。基本的にはRC造ですが、外回りの柱の鉄骨を木で包んでいるということですから、今日の耐火木造建築の走りといえるでしょうね。機会があれば、内部を見てみたいものです。

■続いて、牧野富太郎記念館に向かいました。五台山公園内にあります。2009年には竹林寺を訪ねました。大きな公園です。かなり進んだところで植物園風の場所にきました。看板を見るとここが記念館です。入園料が720円です。門から入ると、立派な植栽や小さな滝が見えてきました。記念館の屋根も見えます。牧野富太郎記念館は、内藤廣の1999(平成11)年の作品です。BCS賞や村野藤吾賞を受賞しました。年数を経て、すっかり森の中に溶け込んでいます。すこし老朽化が目立っていました。

■定番の「桂浜」に向かいました。桂浜は初めてです。坂本龍馬にはあまり思い入れがないせいでしょうか、何となく外していました。桂浜は有料駐車場になっていました。400円を払い中に入りましたが、来る人が多いのでしょうね。駐車場に車を止めたのですが、フェンスとトイレと売店しか見えません。桂浜に行くためには、脇の道を進む必要があるようです。しっかりと区画されていますね。少し違和感があります。

 結局、フェンスに囲われた中に桂浜がありました。綺麗に整備されていうます。龍馬像では、クレーンを建てて何かの作業をやっていました。思ったよりも大きな像です。どうも改修か何かをしていて、足場を解体したところでした。海岸は、波の変化が激しいので、立ち入るのは危険ですとの場内放送が続きます。砂は粗めの砂ですね。あまりにも観光地化されすぎているような気がしますが、訪れる人が多ければ仕方がないのかも知れません。とはいえ、海岸線を見るだけのためにここまでするのかと思わざるを得ません。外部からは、見ることができないようにするのが果たして良いのでしょうか? 鳥居風の施設が見えるところもありましが、パスしました。


桂浜にて

桂浜にて

室戸岬にて

■「室戸岬」に向かいました。途中、道の駅/やすにてトイレタイムと昼食です。インド料理店もありましたが、丼ものの店があり、シラス入りの玉子丼を注文しました。テーブル席はなく、外で食べるしかないようです。バイクで来た人が、店先で鯛の刺身を食べていました。シラス玉子丼は、なかなか美味しかったですね。

 室戸岬に着きました。雨はほとんど上がっていました。海岸線に出てみました。特徴ある海岸が続きます。ここからも「御厨人窟(みろくど)」まで歩いて行ける散策路がありましたが、1kmの距離です。後ろを振り返ると中岡慎太郎の銅像がありました。大きいですね。その上に室戸岬灯台がありました。

■車で御厨人窟までやってきました。前のスペースが広く空いていて、車を駐めることができます。観光バスが一台いて、中国語が乱れ飛んでいました。中国で密教第七世の恵果の後を継いで、八世となった空海は中国でも興味を持たれているのでしょうか? 「空海の風景」でも記述しましたが、空海が乗った遣唐使船が漂着した現在の福建省赤岸村では、空海は「空海大師」と呼ばれ、村人皆々が空海を信仰しているそうです。ライトバンが一台来ました。四人が降りてきたのですが、二人の年輩の女性は、お遍路の白い装束を羽織っています。しかし、下に来ている服や持っているバックはキンキラキンです。何でもありですね。

 隆起海蝕洞である御厨人窟は、平安時代初期の若い修行中の空海が居住したと伝わっています。この洞窟から見える空と海を眺めて「空海」の法名を得たとされていますが、向かって右隣にある「神明洞」とともに、残念ながら、内部に入ることはできませんでした。洞窟の中で聞こえる波の音は「室戸岬・御厨人窟の波音」として、「日本の音風景100選」に選定されているそうです。

■40kmほど先の、道の駅/穴喰(ししくい)温泉に電話をしました。温泉は、22時まで、レストランは20時までとのことです。先に向かうことも考えたが止めました。時間は14時前ですが、今日は洗濯日とすることにしました。電話をした道の駅で10kmほど先の海陽町にコインランドリーがあると教えて貰いました。

 道の駅/穴喰(ししくい)温泉は、温泉ホテルが隣接していました。駐車スペースはあまりありません。さらに8kmほど進むと、教えて貰ったコインランドリーがありました。あまり綺麗なコリンランドリーではなありませんが、雨が降っているせいか、地元の人がかなりやってきます。データ整理などをしたのですが、モバイルルーターは繋がりませんでした。

 17:50ころ、道の駅にもどり、閉まっていた産直市場の前に車を駐めました。ここは道路に面していないため、少し静かです。温泉はホテルの中にありました。サーファー風の人が数人います。浴場は、大浴場と檜風呂の二つあります。入浴料は600円。檜風呂に入ってみました。誰もいません。大浴場には複数の風呂がありましたが、露天風呂はありませんでした。食事は道の駅側のレストランです。値段設定が少し高いようですが、マグロ丼とオニオンスライスや生ジョッキにてゆったりとさせて貰いました。フリーWIFIも繋がります。20時過ぎに車に戻ったのですが、車内温度が22.9度もあります。暑いですね。波の音が響いてきます。

桂浜の龍馬像

室戸岬にて

室戸岬にて

御厨人窟

御厨人窟近くの海岸にて

室戸岬の中岡慎太郎像

室戸岬灯台
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112 四国中央部を巡る(2015年11月16日の記録)


福地蔵の湧水/地蔵院

福地蔵の湧水/入り口

梼原の千枚田

道の駅/ゆすはら

福地蔵の湧水/張り紙

■トランプ大統領の言動に驚き呆れるのは簡単ですが、あのような人物を大統領に選んでしまうというアメリカの国民性も考える必要があると思います。一部を除いて、マスコミは総じて、否定的に彼を評価しますが、一定のアメリカの国民は彼を支持していることを忘れてはならないでしょう。それがアメリカという国なのです。とはいえ、あのような人物にすり寄る朝貢外交が正しかったかどうかは、いずれ歴史が示してくれるもでしょう。

 震災や自然災害でも、ニュース映像が伝えるところは、最も被害の大きかったところを映像で流す傾向にありますが、実際に行って見ると、ごく一部の状況を伝えていることがほとんどです。札幌市の山林で熊が出没したとのニュースを見て、札幌市内中心部を熊が歩いていると感じるがごとくです。

 トランプ大統領は、盛んに偽ニュース(FakeNews)と言い立てていますが、彼にとっては自分に都合の悪いニュースはすべて偽ニュースなのでしょう。ネットの拡散により、SNSで広がる偽ニュースや都市伝説もあります。 ディー・エヌ・エーが、医療情報サイト「ウェルク」で科学的根拠の不適格性を指摘され、キュレーションメディア10サイトの停止に追い込まれたのは先日のことです。

 大手といわれるサイトでもQ&A形式の掲示板等が多数ありますが、明らかに間違った回答をしているアンサーや、他サイトのコピペでしかないものが多数見られます。中には、答える能力が無いにも関わらず、一所懸命に回答をしているものまであります。私も、さるサイトから「A」になって欲しいと依頼メールが来たことがありますが、それらのものと一緒くたにされるのは御免被りたいと思い無視しています。ますます個人の報道に対する判断が試されるようになっています。(2017年2月19日記)

■2015年の秋に戻ります。道の駅/ゆすはらにて5:35に起きました。外気温は8.8度、車内温度は10.3度と、かなり寒い感じでした。毛布が必要ですね。しかし、電気毛布までは不要でしょう。2009年に続いて、電気敷き毛布を準備していました。純正弦波のインバーター+サブバッテリーシステムは必携です。夜中の3時ころ、久しぶりにトイレタイムに起きたのですが、澄み切った星空がとても綺麗でした。とはいえ、天の川を認識できるほどではありません。起きたときは、雲が上空にかかっていました。雲の上ホテルというよりも雲の下ホテルになっていました。 

 ホテルの建物の下に利用できるトイレがあるのですが、庇が付いていないため、その上の芝生からしずくが滴っています。庇を付けるべきでしたね。道の駅として使える駐車スペースは9台分しかないようです。他には、雲の上の市場と銘打った売店の前と温泉の駐車場があります。ただ、市場部分は、横に傾斜があるため利用しづらいですね。しかも道路に面しているため、取って付けたような配置になっています。レイアウトが非常に悪い道の駅です。停泊は他に1台でしょうか。

 車を出して「千枚田」に向かうと、道路の反対側に駐車場とトイレがありました。こちらの方が良かったかも知れません。太郎川公園という看板がありました。1kmほど先の千枚田に向かいました。すぐにトンネルに入りましたが、トンネルを過ぎると雲海が漂っていました。トンネルの入り口と出口で雰囲気が異なります。そこから、山側を左方向に入ると、そこが千枚田でした。雲が降りてきています。雲海の中に千枚田がありました。不思議な雰囲気を漂わせています。幻想的ですね。


程野の滝(東滝)

にこ渕の入り口

程野の滝(西滝)

にこ渕へ降りる

にこ渕にて

にこ渕から見た程野の滝(西滝)

■続いて、高知県いの町の「程野の滝」に向かいました。来た道を戻ることになります。再び、道の駅/ゆすはらに差し掛かると、今度は霧が道の駅全体を覆っていました。雲の中にある感じです。雲の下ホテルになっていました。30kmほど進んだところに「福地蔵の湧水」がありました。停車して、水を給水しました。地蔵院があり、お参りもしたのですが、張り紙があり、粘液膿疱ができてしまった子供が、地蔵院にお参りをしてお水を飲ませたところ、膿疱が消えたとの感謝の手紙でした。ここの湧水は軟水だそうです。

 程野の滝は東から東滝(別名:ドンドラ滝、トトロ滝)、西滝(別名:赤滝、商人滝)、権現滝、大樽の滝(別名:段々滝)という四つの滝の総称です。今回は、一番東側の東滝のみに行く予定です。エメラルドグリーンに彩られているという「にこ渕」には寄らない予定でした。国道194号線を経由して山道に入ると、ネット上で見た看板がありました。空きスペースに車を駐めて、しっかりと支度をして歩き始めました。しかし、進んだ道は西滝の駐車場に向かう道のようです。舗装はされていませんが、車で走ることができそうです。まもなく東滝に向かう石段が見えて来ましたが、ほとんど人が歩いた気配がありません。どうも危険です。諦めて車に戻ることにしました。

 歩いた方向とは別方向に車を進めてみました。しばらく進むとキャンプ場が見えて来ました。ここから東滝の滝壺まで、1.2kmの道があるはずなのですが、判りません。すると東滝への案内の看板を見つけることができました。3〜4km先とあります。車で行ってみると、山路をどんどん登っていきます。3〜4kmで展望台がありました。東滝の展望台でした。どうも異なる場所に来てしまったようです。絶景ではあります。

 すると、地元ナンバーの小型トラックでおじさんが来ました。話をすると、おじさんも始めてとのことです。自然の山と杉を植えた山の違いの説明をお聞きしました。昔の人は凄いねと感嘆されています。山路はさらに続いていますが、何処に繋がっているのかと聞いたのですが、判らないとのことでした。東滝を遠望してしまったため、滝壺に行く意欲は薄れてしまいました。

 止むなく、来る途中で案内板を見た、予定外のにこ渕に行ってみることにしました。来た道をしばらく戻り、にこ渕の駐車スペースに車を駐めると、スカート姿の女性が崖地を登ってきました。そんなスタイルで行けたのですかと聞くと、泥だらけになってしまったそうです。ここから西滝が遠望できます。斜面を降りると、すぐにロープが見えて来ました。四人連れの家族が上がって来ましたので、待つことになりました。先頭の男の子は楽勝スタイルでしたが、その後の年配の女性とお母さんらしき人は苦労して登って来ました。最後に、若いお父さんです。

 ロープを伝い、さらにロープを伝い、最後はアルミ脚立が立てかけてあります。湿った斜面ですので、注意する必要がありますが、難易度は高くありません。にこ淵が見えてきましたが、大きな岩場です。歩きづらいですね。川の石伝いに渡ったのでしょうか、にこ渕の対岸の岩場で休む若い男性もいます。ネットの写真で見たエメラルドグリーンの美しい景観でした。帰りは、ロープ伝いの登りとなりますが、割と楽に戻ることができました。

 車に戻り、少し休憩をしていると、また別な小型トラックでおじさんがやってきました。札幌から来たのかと感心されました。少し戻って、キャンプ場からの別な道を登ると、紅葉が綺麗なところがあると教えて貰いましたが、再び戻る気は起きてきません。ネット情報では、にこ渕のエメラルドグリーンが見られるのは、晴れた日の午後の数時間とのことでしたので、少し消化不良の程野の滝でしたが、満足することにしました。


木の根三里の吊り橋

木の根三里の吊り橋を渡る

八ヶ滝の看板を見たが...

高知県いの町のにこ渕にて

水ヶ滝

■90kmほど先の、愛媛県の四国中央市にある「八ヶ滝」に向かいました。途中、「木の根三里」というところがあり、吊り橋がありました。トイレもありますので、休憩タイムです。吊り橋も渡ってみました。木の根三里には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族がこの道を通って、越知町の横倉山に落ち延びたと言う伝説があるそうです。国道194号線の高知県いの町と愛媛県西条市との間の寒風山の下を貫く寒風山トンネル(かんぷうざんトンネル)がありました。無料で通ることができる一般道路のトンネルとしては日本最長です。新居浜市内に入りましたので、昼食は讃岐うどんを頂きました。

 四国中央市に入りましたが、製紙工場の臭いが気になりますね。山道に入り、予定していた「法皇トンネル」が見えて来ました。予想通り狭いトンネルですね。なんとか2台がすれ違うことができる広さですが、所々にある拡幅されたところで、対向車が待ってくれています。法皇トンネルを過ぎると、水ヶ滝の案内がありましたが、先に進むと八ヶ滝の看板がありました。さらに先に進んだのですが、どうも違うようです。

 持っていた滝の本を調べると、法皇トンネルの出口付近の右側の林道を5分程度歩くと八ヶ滝が遠望できるようです。法皇トンネルの出口付近に駐車スペースがありましたので、戻ることにしました。先に駐まっていた車の三人連れのおじさんが、滝があるよと教えてくれましたが、すぐそこに水ヶ滝が見えます。水ヶ滝を撮影して、反対側の林道を歩いてみました。5〜6分ほど歩いたのですが、行き止まりに来ても滝は見えません。水の流れはありますが、滝ではありません。来た道を戻り、他の林道を探しましたが、見あたりませんので諦めることにしました。どこかに登り口があると思いますが、案内が見えませんでしたので、仕方がないでしょう。落差100mの滝とのことでした。

 帰ってからネットを調べて見ると、水量が少ないときは遠望してもかすかにしか見えないようです。また、私が行った先からの滝壺ルートがやはりあったようですが、道なき道を進む必要があったのですね。まあ、また機会があればということでしょう。

■30〜40kmほど先の徳島県三好市の「小歩危(こぼけ)」に向かいました。先に進んでも良いのですが、来た道を戻ることにしました。三好市から回り込むルートです。小歩危は観光地ですね。駐車スペースがありません。仕方がないので、道路脇に車を駐めて、撮影をしました。険しい岩場が続く景観です。先に進み同じように「大歩危(おおぼけ)」も撮影です。停泊予定の道の駅/大歩危もありましたが、先に進みました。しばらくカーブ道を進むと道の駅/にしいいやも見えて来ました。すぐ先に秘湯の湯もあります。こちらの方が良いかも知れません。

■さらに先に進み、「かずら橋」にやってきました。有料駐車場があり、300円です。愛想の良いお兄さんがいます。この先の「二重かずら橋に行くには、後1時間かかるようです。16時を過ぎましたので、難しいですね。下に降り、かずら橋に行くと、渡橋料が550円とのことでした。多くの人が渡っています。子供も渡っています。切符を切るおじさんに聞くと、3年毎に掛け替えるそうです。この冬に掛け替えたそうですが、確かに新しいですね。かずらを編んだ下が透けて見えます。余り気分は良くないですね。途中、固まっている若い女性もいます。叫んでいます。橋は一方通行でした。長さ45m、幅2m、高さ14mのかずら橋ですが、大正時代に一度、ワイヤーを使った吊り橋に掛け替えられたそうです。1928(昭和3)年に、観光目的で復活したとのことですが、実際には、ワイヤーが内蔵されているようです。

 橋を渡り、近くの「びわ滝」を見に行きました。売店の建物が邪魔で、良いポイントが取れません。そこから川下に降りることができましたので、川岸まで行ってみました。駐車場に戻り、二重かずら橋の写真がありましたので、写真を撮影してパスすることにしました。

 停泊は、道の駅/にしいやに決め、戻って来ましたが、駐車スペースは3〜4台程度しかない小さな道の駅です。しかも横に傾斜しています。道の駅/大歩危までは24kmあります。当初の予定だった道の駅/大歩危に近接する温泉に電話をしてみると、レストランが使えないそうです。それほど混んでいるとは思えませんが、さすが公共経営です。ここに近い秘湯の湯に電話をすると、21時までです。食事もできます。危険を置かせないので、ここに停泊することにしました。

 秘湯の湯までは歩いて行けます。入浴料は1,000円と高かったですが、大きな浴場でした。露天風呂は小さいですが、ゆっくりと入ることができます。レストランで、とんかつ定食や一品料理などを頼んで、生ビールを飲みました。レストランのおばちゃんの愛想は最高です。テレビのニュースなどを見て、データ整理などをしてゆっくりとさせて貰いました。レストランでは最後の客となってしまいました。道の駅ではモバイルルーターは繋がりませんでした。

小歩危

大歩危

かずら橋

かずら橋

かずら橋を渡る

かずら橋近くのびわ滝
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111 しまなみ海道を経由して四国に(2015年11月15日の記録)

■毎日のニュースで、トランプ大統領の馬鹿げた言動がトップを飾っています。もうあの顔を見たくないと思っている人は私だけではないでしょう。隣国には強い態度で臨む日本の現政権ですが、アメリカに対しては朝貢外交以外はなく、見識を示そうとはしていません。

 そんな中、予想されたことではありますが、福島第一原発で溶け落ちた核燃料と思われる黒い塊の映像がニュース等で流れました。毎時530シーベルトを超える放射線量ということですが、実感は沸きません。それでも安倍晋三氏はコントロール下にあると妄言を続けるのでしょうか? 2017年2月3日の朝日新聞には、アベノミクス生みの親ともいわれる浜田内閣官房参与(イエール大名誉教授)が、「アベノミクスに手詰まり感」を認め、その解消には「財務拡大」を提言していました。さらに膨大な借金をするべきと言っているわけです。どう考えても、お気楽な人です。(2017年2月5日記)

■2015年の秋に戻ります。道の駅/ぬまくまは、暑い夜でした。夜中に大型車のエンジンの音で目が覚めました。小さな道の駅ですが、駐車場も狭く、位置取りが難しい道の駅です。2009年にも停泊しましたが、やはり良い思い出は残っていません。朝起きると、朝市のためか多くの人が集まっていました。小型のトラックがたくさん来ています。5:45に起きて、7:15に出発しました。

 2009年には、真っ直ぐに四国に向かったのですが、昨日、行くことができなかった「神勝寺」に向かいました。温浴施設の名前が冠せられていたお寺です。温浴施設がある「みろくの里」とは近いですが、少し離れたところにあるようです。ナビを調べると、みろくの里の北側に位置しています。まもなく神勝寺に着いたのですが、拝観時間が9時から17時になっています。総門が閉じています。しかし、目指す寺務所である「松堂」が一番手前に見えます。塀の横が少し高台になっているため、そこから大方を見ることができました。手曲げ銅板で葺いた急傾斜の屋根のてっぺんに松が植えてあります。写真で見た記憶よりも松が生長したようですね。朝靄の中で、銅板屋根が美しく映えています。藤森照信の2014年の作品です。車で来た僧服の人が門から入っていきました。思わず、付いて行きたくなりました。

■2009年に続いて、しまなみ海道に向かいました。途中、海岸線にある常石造船の工場に沿った山の上にある「リボンチャペル」に寄りました。リゾートホテル「ベラビスタ スパ&マリーナ尾道」に付帯する次世代の建築デザインを表彰するリーフ大賞(OverallWinner)を受賞した中村拓志の2014年の作品です。奥の駐車場に車を入れると、瀬戸内海を眺めることができる長いラウンジがありました。ホテルの宿泊客が朝食をとっているようです。瀬戸内海に向かって右奥の方の道が開いていますので、行ってみるとリボンチャペルがありました。会津の<さざえ堂>と同じ二重らせんを組み合わせた建物ですが、形態はまったく異なります。鋼板で構成された二重らせん自体で自立しているそうです。外部階段から登ることもできるようですが、勝手に入る訳には行きませんので、止めておきました。辺りには誰もいません。

■しまなみ海道を経由して、四国に向かいました。途中、生口島で一旦降りました。生口島は、2009年には耕三寺を訪れて、驚いた記憶があります。見所が多い生口島を縦断して、再び、しまなみ海道、大三島で降りました。「伊藤豊雄ミュージアム」に向かいましたが、途中、「大山祗(おおやまづみ)神社」がありましたので寄って見ました。2009年に訪れたときは、楼門に屋根が掛かり工事中でしたが、美しく完成していました。団体がいて、ガイドが説明をしています。2年前に完成したそうです。檜の香りが辺り一面に漂っています。


神勝寺の松堂を塀越しに見る

ベラビスタ スパ&マリーナ尾道

リボンチャペル

リボンチャペル

大山祇神社の斎田

大山祇神社

大山祇神社の雨乞いのクスノキ

大山祇神社の総門

伊藤豊雄建築ミュージアム

 大山祗神社は、伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれたオオヤマツミを主祭神としていますが、オヤマツミは三島大明神とも称され、全国にある山祗神社や三島神社の総本社です。山の神・海の神・戦いの神とされてきましたが、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などが参拝することでも知られています。2009年に参拝したときは、海上自衛官が来ていました。1992年には、「日帝残滓」を焼却処分すると主張した過激派(中核派)の放火により祖霊殿が全焼しています。斎田(神田)では、御田植祭や抜穂祭が行われます。

■先の伊藤豊雄ミュージアムに向かいました。瀬戸内海を望む静かな高台にミュージアムがありました。人の気配はありません。道路側から見下ろして撮影をしていると、車がやってきました。道路脇に車を駐めて、女性が一人降りてきました。挨拶を交わしましたが、ミュージアムの関係者のようです。伊藤豊雄の初期作品であるスティールハットと旧邸宅の再現であるシルバーハットの2棟の建物等で構成されている施設です。伊藤豊雄はすっかり大御所となってしまいましたが、何故か落ち着く施設群でした。

■ナビを愛媛県内子町の「泉谷棚田」に設定すると、大三島を周回するルートが示されました。遠回りなので少し迷いましたが、ナビに従うことにしました。余り車が通りませんので、歩く人や自転車が道路を自由に行き来しています。みなさん高齢者です。気をつけなければなりませんね。途中、みかんの露店がありました。12個入って200円です。形は不揃いですが、安いですね。もちろん購入です。

 再び、しまなみ海道に入り、一気に四国の今治北まで来ました。日曜日のため、ETC料金が半額です。結局、ここまで通算で2,240円の高速料金で済んだことになります。松山市に入ると、少し渋滞が続きました。さらに少し山に入ると、棚田の案内板が所々にありました。親切ですね。歪路ですが、それほど気になりません。しかし、途中、道を間違えてしまいました。看板を勘違いしたようです。しかし、こんな山の中に人が住んでいることが驚きです。屋根の上に「水」と書いた家もあります。坂本龍馬が脱藩した際に、通った道ですね。2kmほど戻り、看板を探したのですが、見つかりません。少し元に戻ってみると、案内がありました。また別な道があったのです。

 新たな道を登っていくと、泉谷棚田がありました。水車や小屋があります。綺麗に良く整備された棚田です。狭隘な高地にある棚田としては、最高のレベルですね。すべての棚田が利用されているとの案内もありました。ここにもお墓が見えていました。泉谷棚田は、急斜面に95枚の水田が広がる棚田です。美しい石垣の間には、サボテンが生えていました。

■来た道を戻り、60kmほど先の高知県の「檮原(ゆすはら)町役場」に向かいました。檮原町は、標高1455mに位置し、町面積の91%が森林だそうです。そこから湧き出た清流は、、カルスト高原からの流れと合流して、梼原川を経由して四万十川へと流れていきます。檮原町役場に着きました。日曜日なので、誰の姿もありません。木造というよりも、木のパネルを合成したプレファブのような建物です。今、日本でもっとも活躍しているだろう建築家・隈研吾の2007年の作品です。

 1991年に完成した東京都世田谷区のM2(現・東京メモリードホール)は、ポストモダンの代表作として話題となりましたが、バブル経済がはじけると共に、隈研吾の負の遺産と見なされるようになってしまいました。その後、2000年に那珂川町馬頭広重美術館が完成するまでは、注目されることが少なくなっていたのですが、その約10年間の間に、隈研吾がひっそりと作り続けていた建物群がこの檮原町に複数存在しているのです。檮原における職人との出会いや、来島海峡大橋の南東にある亀老山のような自然環境との出会い、ベネチアのようなアートとの出会いがうまく融合して、広重美術館を生んだのではないかと本人は語っています。

■道の駅/ゆすはらに向かいました。すぐ近くです。着いたのですが、道の駅が良く判らないので、電話をしてみました。すると、ホテル自体が道の駅でした。1994年完成の「雲の上ホテル」も隈研吾の作品です。入浴、レストランともラストオーダーが20:30でした。温泉にも軽食コーナーがあるとのことです。すると、丁度、娘から電話が来ました。少し長話をしてしまいました。ナビと併用しているタブレットは、娘から買って貰ったものです。ネットには余りつなぎませんが、準備してきた地図データ等を見るのに重宝しています。

 道の駅/ゆすはらの温泉は大きかったですね。露店風呂も良かったです。軽食コーナーで、エビフライ定食と燗酒を注文しました。燗酒はコップで出てきたのが、ちょっとがっかりです。エビフライを一個余分に作ったのでと、別皿で一個サービスして貰いました。特をした気分です。でも、正直、料理は余り旨くありませんでした。ホテル名が雲の上ホテルとのことですが、明朝、雲海が見られるかどうか、とはいえ、気温が高く20度近くあります。入浴の後、コインマッサージをやって、大河ドラマなども見てしまいました。缶ビールも頂きましたので、すっかり豪華な夕べとなりました。

スチールハット

シルバーハット

愛媛県内子町の泉谷棚田

泉谷棚田にて

高知県の檮原町役場

檮原町役場

道の駅/雲の上ホテル

道の駅の雲の上市場
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110 夜明けの竹田城趾を経て姫路から岡山へ返す(2015年11月14日の記録)


竹田城趾に登る

竹田城趾入り口

竹田城趾にて

竹田城趾にて
■アメリカのトランプ大統領が就任しました。彼のことは、報道等からもどうもうんざりとする気が沸いてきます。新聞で彼の就任演説の全文を読みましたが、選挙期間中と何も変わっていませんね。ほとんど中身のない内容でした。そのような中、日本では通常国会が開催され、安部首相が施政方針演説を述べましたが、その全文をやはり新聞で読んでみました。

 こちらは確かに盛りだくさんの内容でした。ジャック・アタリは「危機とサバイバル/作品社/2014年」で「私は、日本の国政選挙で、人口政策が重要な争点にはなってこなかったことに驚きを感じざるをえない」と書いていますが、アメリカのような移民政策を取りたくない日本の現在の政権が選んだのが「女性の活躍」と「一億総活躍」というスローガンなのでしょう。しかし、失敗したアベノミクスに未だに頼った成長戦略では、日本における負の資産を解決する見通しが成り立ちませんし、今回の施政方針演説ではそれを解決しようとする具体的戦略に触れようともしていませんでした。ただ未来への責任の言葉だけが虚ろに響いてくるだけでした。(2017年1月22日記)

■道の駅/但馬楽座で朝起きたのは、4:10でした。目覚ましを4時に設定しましたが、起き上がるのに10分ほどかかりました。さすがに辛い寝起きでした。外気温15.6度、車内温度17.2度と結構暑い夜でした。夜、強く雨が降っていましたが、朝にはパラ付く程度までになっていました。停泊は多数です。コンビニがこの時間でも開いています。朝食はオニギリとバナナです。5:00に出発しました。辺りは真っ暗です。

 今日は雲海で有名な兵庫県朝来市の竹田城趾に登る予定です。その時の気分で行くか行かないかを決めようと思っていましたが、昨日の天滝で気分を良くしたせいか、挑戦することにしました。ナビを利用して、予定していた市内のまちなか観光駐車場に向かったのですが、全然、判りません。途中、矢印を見ましたので、矢印に従って、戻ってみました。進んでみると、山城の郷駐車場に着きました。暗闇の中で、赤い警告灯をかざす人が数人います。

 この山城の郷駐車場は、土日は駐めることができないそうです。それは判っていたのですが、矢印に従ったための結果です。今日は土曜日です。和田イオン店からバスに乗って、中腹の駐車場に向かって欲しいといわれました。他に市内の駐車場がないかと聞くと、あるそうです。案内図を貰い、詳細に説明をしてもらいました。サブに予定していた駐車場です。そこから春米神社を経由して登るつもりだがと聞くと、それは止めた方が良いといわれました。手摺りもないし、危ない道のようです。駅裏からの道を登ると好いと教えて貰えました。駐車場への進行方向を教えて貰いました。

 教えた貰った道順で、国道に面した駐車場に着きました。未だに暗闇の中にあります。駐車場は無料でした。竹田城下町観光駐車場だと思われます。ところがこちらで聞くと、駅裏の道は止めた方が良いといわれてしまいました。先の信号から舗装された道を真っ直ぐに登れば50分で着くとのことです。少し違和感もありましたが、ここは従った方がよいでしょう。駐車場で案内をしてくれた方は、車で行けば10分もかからないのにともぼやいてもいましたが、止むを得ません。事前に調べた通りには行きませんね。少し案内も判りづらいと思います。


竹田城趾にて

竹田城趾から

竹田城趾にて

姫路城

竹田城趾から

竹田城趾

竹田城趾

姫路城

 案内に従って、舗装道を歩いて進みました。LEDライトを点灯しながら、傘をさしての登山道です。多少の急な斜路もありますが、確かに歩きやすいですね。とはいえ、未だに真っ暗です。余り案内もありません。かなり登ったところで、外人の女性二人連れに会いました。中腹の山城の郷の駐車場にバスで来たようです。道が合流しているのですね。夜が少しずつ明けてきました。雨は少し上がって来ました。

 しばらく進むと石垣が見えて来ました。雲海というよりも雲が少しところどころに掛かっている感です。城趾は予想を超える規模ですね。かなり巨大な山城の跡です。うっすらと暗い中に街中の明かりが光っています。夜明けと共に人も集まってきました。竹田城趾は、兵庫県朝来市和田山町竹田にあった山城の跡です。縄張りは南北約400m、東西約100mあるそうです。その縄張りの形が虎が賦せているように見えることから、虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも呼ばれるそうです。廃城からは約400年を経ていますね。

 期待していた雲海は、まばらにある程度でしたが、山城跡を堪能して、駐車場に戻りました。結局、登山に45分、下山に35分かかりました。中腹にあった山城の郷駐車場は、ほぼ中間地点にあります。下ってくる途中、当初予定していた春米神社の参道の案内もありました。登山はこのルートでも良かったのですが、確かに下山は舗装道が楽ですね。駐車場の向かいにコンビニがありましたので、そこでコーヒーを注文して飲みました。コンビニを利用するときは、いつもカードを出してポイントを貯めていたのですが、そこでカードを返して貰えなかったことに気がついたのは、後のことでした。

■60kmほど先の、姫路市の「姫路城」に向かいました。9時半ころに着いたのですが、土曜日です。駐車場に入るために30分掛かりました。バス優先になっています。団体も多いですね。姫路城は何度も見ていますが、確かに絵になる城です。天守閣の見学の待ち時間は30分との表示が出ています。前に登ったことがありますので、今回はパスしました。2015年3月に平成の修理が完成した姫路城は、日本における平山城としては説明の必要がない代表的な美しい城です。かつては黒田氏が治めていたこともありましたが、関ヶ原の戦の後、池田輝政によって、今日の姿に拡張されました。城域内をゆっくりと撮影をしながら堪能させてもらいました。

■続いて、90kmほど南西にある岡山県総社市の「総社宮」に向かいました。今回の旅では、日本海側を時々内陸に入りながら南に向かい、九州を経由して、本州に戻り、内陸を走り、兵庫まで北東に進みましたが、再び姫路を経由して瀬戸内海側を南西に向かっていることになります。備中国総社宮の駐車場があり、横の参道から入りました。社務所を改修しています。本殿は新しいですね。大名持命(おおなむちのみこと:大国主命の別名)や須世理姫命(すせりひめのみこと:大名持命の奥様)などが祭神になっています。

■続いて、「大原美術館」に向かいましたが、途中、「作山古墳」が見えて来ました。2009年にも訪れました。「備中国分寺」も見えて来ました。ちょっと寄り道をして五重塔を撮影してみました。ここも2009年に訪れました。ナビに従い大原美術館に向かいましたが、混んでいますね。進んだ道が車両通行止めになっていました。以前に訪れたことがありますので、これ以上進むのは諦めることにしました。

■今日の温泉予定候補は複数あったのですが、60〜70kmほど先の、2009年にも入った広島県福山市の神勝寺温泉昭和の湯に向かうことにしました。途中、神勝寺にも寄ろうと思ったのですが、街中で渋滞に捕まり、神勝寺温泉に着いたときは、ほぼ暗くなっていました。一体は、弥勒の里となっていて、テーマパークみたいになっています。以前に来たときは温泉施設の他はそれほどのものはなかったように記憶しています。若い人が多いですね。入浴の後、レストランで食事をしましたが、休憩室も混んでいますね。モバイルルーターは繋がりません。

■やはり、2009年にも停泊した近くの道の駅/ぬまくまに向かいました。小さな道の駅ですが、向かいにコンビニがありました。缶ビールを買おうと思ったのですが、カードがないことにここで気がつきました。しかし、旅行費用を後でチェックするために、レシートをすべて取っておいたのがここで役立ちました。コンビニでは、レシートを渡してくれないことが多いですね。道の駅ではモバイルルーターが繋がりましたので、メールチェックなどを。

岡山県総社市の総社宮

総社宮

備中国分寺

姫路城全景
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